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3 展望台から市内を一望!

 

 


 写真1
 写真2

 写真3


いまや名所という名所には必ず現れる中国人の団体客がここにもやってきたので、その隙間を縫って四囲を見渡すことにしましょう。

まずは写真1。タワーの真南方向です。もともとこのタワー自体が鉄道ターミナルの移転を伴う地区再開発事業の目玉だったわけで、国鉄モンパルナス駅と隣接しているのは当然ですね。私、実はパリ以外のフランスに強くなくて、モンパルナス駅を出発するような長距離列車に乗ったことがありません。ボルドーあたりにワイン渉猟に行かなければならないですねえ。ヴェルサイユ宮殿へはRER-C線が王道ですが、サン・ラザール駅やこのモンパルナス駅から近郊列車に乗っていくのも気分が変わって楽しいですよ。

写真2は、1から少しだけ西に視線を移しました。眼下に見えるのはモンパルナス墓地Cimetière du Montparnasse)です。パリの大型霊園といえば、東のペール・ラシェーズ墓地、北のモンマルトル墓地と、ここ。ボーヴォワール、サルトル、モーパッサンなどのお墓があります。モーパッサン先生は、エッフェル搭を見たくないばかりにその足下のカフェに日参したという逸話で知られますが、どう考えてもエッフェル塔以上に評判の悪いモンパルナス・タワーのそばに眠っていて、居心地悪くないんでしょうか。

写真3はタワーの東側、カルチェ・ラタン周辺を捉えています。左端に見えるのが改修中のパンテオン。上に拡大したものを載せました。パンテオンの右側に見える緑地は植物園(Jardin des Plantes)、その右上、地平線の手前に見える広大な緑地はペール・ラシェーズ墓地です。写真右下を45度くらいの角度で進むグリーンベルトが、さきほど横断したモンパルナス大通り(ブールヴァールのほう)。私がいつもうろうろしているのは、この写真3の範囲ということになります。


 写真4

 写真5

 

 写真6

 

 


写真4は北東方面。目の前にリュクサンブール公園の緑が広がります。ここを出発してから2時間くらい経っていますけど、要は「そのへん」をじわじわ歩いてきただけなのですね。写真では上院議事堂の真上に、ノートルダム寺院Cathédrale Notre Dame de Paris 下に拡大写真)を望めます。昨2013年は創建850周年ということで大々的なセレモニーがおこなわれました。パリは、もともとノートルダムのあるシテ島を中心として発達した古代の要塞都市で、ずっとフランスの中心でありつづけるあいだにこれほど大きな広がりを見せるようになりました。モンパルナスなんてmont(山)がついているわけだから、町外れもいいところだったわけですよね。

写真5は北を見ています。下のほうで、左右方向に長い建物が列をなしているのがリヴォリ通り(Rue de Rivoli)。ショッピング街です。その列の右半分では、もう1つ手前に古めかしい建物がやはり左右方向に伸びています。こちらはおなじみルーヴル美術館Musée du Louvre)。写真では見えにくいけど、その手前をセーヌ川が右から左に流れていると思ってください。それにしても、パリは内陸にあって海がありませんから、周囲360度すべてが地平線です。晴れた日に地平線を望むのは気持ちいいですね。写真中央のやや上側にぽっこり飛び出して見えるのがモンマルトルの丘で、その中心にサクレ・クール寺院Basilique du Sacré-Cœur 下に拡大写真)があります。モンマルトルっていうとかなり町外れの印象があるのですが、何のなんの、都心からすぐなんですね。

写真6は、モンパルナス・タワー足下から北に伸びるレンヌ通りを追いかけた図です。突き当たりのように見えるところがサン・ジェルマン・デ・プレの交差点。印象的な尖塔はサン・ジェルマン・デ・プレ教会Abbaye Saint- Germain -des -Prés)です。その向こうの丸いドームは学士院Institut de France)。写真では見えにくいですが、ドームの左、ルーヴルに向かって架けられているのがポン・デ・ザール(Pont des Arts 「芸術橋」)です。歩いて見ようの1シリーズで、無数のカップルが錠前をぶら下げて景観を破壊している!と憤懣を表明したところですが、最近になってついに金網のあちこちが重みに耐えられず崩壊するようになり、市当局が規制に乗り出しました。が、この翌日に出かけてみたところでは、まだまだ不届きなことをしている連中が多数おり、けしからんことに錠前を売るやからも出没していますので、意識を改めないかぎりイタチごっこになりそうですね。下流側、エッフェル塔に近いドゥビリー人道橋(Passerelle Debilly)でも、まだ多くはないですがカギをぶら下げる行為がはじまっています。


 写真7

 写真8

 


写真7は北西方向。左下の立派な建物はアンヴァリッドHôtel des Invalides)です。グルネル通りを完歩した今春の歩いて見ようでは、この北辺を、写真でいえば右から左へ通り抜けたのでした。写真のちょうど真ん中あたりを左右につらぬいている緑色の線がセーヌ川(右岸側の植え込み)です。で、そのすぐ北側(写真の上)を、かのシャンゼリゼ通り(Avenue des Champs-Élysées)が通っています。シャンゼリゼの終点はおなじみ凱旋門(Arc de Triomphe)。ビギナーの方はピンと来ないかもしれませんが、凱旋門とかエッフェル塔というおなじみのランドマークは、実は町の中心からかなり西に偏ったところにあるのです。

写真8は西を望んでいます。真正面には世界中で知られたエッフェル塔Tour Eiffel)。手前の緑地がシャン・ド・マルス公園Champ de Mars)。搭のすぐ背後、曲線を帯びて左右に開いているのがシャイヨー宮Palais de Chaillot)です。その北側、写真の真ん中付近を左右に横切る緑色は、ブーローニュの森(Bois de Boulogne)の最北部。実はその西辺をセーヌ川が流れています。大変ややこしいことに、セーヌ川はエッフェル塔とシャイヨー宮のあいだを、写真でいえば右から左に流れており、その先でブーローニュの森の南を回り込むようなかたちで180度方向を変え、今度は写真で左から右へと流れて、ノルマンディ方面に向かいます。ですから、正面に見える新都心ラ・デファンス(La Défence)に行こうとすれば、セーヌ川を2度渡ることになるわけです。

いやあ、われながらおのぼりさんというか、20回ちかく来ていても何が見えたといっては喜んでいますね。


 どこのチケットだよと突っ込みたくなるね ハートは、たぶん片思いだと思う(笑)


本日ここまでの散策はだいたいこのエリア リュクサンブール公園(右の緑地)を発して、サン・シュルピス寺院(双頭の建物)を経由、
そして写真手前のほうを右に向かって進んできました
この写真にはノートルダム、コンシェルジュリー、ポンピドゥー・センターも写っているので、ヒマな人は探してね!

 




SNCFモンパルナス駅

 運行休止の案内


屋上からの展望を存分に満喫して、また地上に降りてきました。初めてパリに来た人が高いところに登ろうというとき、まずはエッフェル塔、次に凱旋門ということになるでしょうね。モンパルナス・タワーの優先順位は高くないでしょうけど、眺望に関してはここがベストですので、リピーターの方はぜひどうぞ。

さて、これから13区の中華街に向かってじわじわ進もう。歩ける距離ではないのでメトロに乗るわけです。何度も利用している6号線でプラス・ディタリー(Place d’Italie)まで行けばいいかなと思ったら、その6号線、トロカデロ〜モンパルナス間が78月の2ヵ月間、工事で運転休止とアナウンスされていました。今回は実害がないものの、エッフェル塔観光の人はたいていその区間を利用するでしょうし、いきなりだととまどうでしょうね(昨夏の2シリーズで、この6号線がセーヌ川を道路併用橋で渡る場面を紹介しています。そこも休止ということね)。こちらの地下鉄では、このように路線の一部とか駅まるごととかを、けっこう長期間休ませて工事することが多い、というか必ず市内のどこかでやっています。

なお、メトロの駅名はモンパルナス・ビアンヴニュMontparnasse Bienvenüe)。地区再開発の折にモンパルナス駅とビアンヴニュ駅が統合されて、現在のような「交通の要衝」になりました。ビアンヴニュというのはウェルカムのフランス語なので、初めて来たころはターミナル駅だから「ようこそモンパルナス」なのかと思ったら、メトロの父とうたわれる技師の名前なのだそうです。道理でuの上にトレマがついてüになっていますね。




メトロ6号線プラス・ディタリー駅


今月いっぱい暫定の「始発駅」になっているモンパルナス・ビアンヴニュから、6号線のナシオン(Nation)行きに乗ります。本来の6号線は、凱旋門直下のシャルル・ド・ゴール-エトワール(Charles de Gaulle -Étoile)からトロカデロ、モンパルナスと来て、左岸の外側をぐるりと半周するようにたどり、再び右岸に渡ってナシオン広場直下までをむすぶ路線です。2度のセーヌ渡河だけでなく、何度も地上に出て高架線を走るため(地上走行距離は丸の内線より長い)、地下鉄なのに車窓がよろしいというステキな線でもあります。18時半を過ぎて帰宅ラッシュの時間帯らしく、車内は人間だらけ。東京のラッシュに比べればどうということはないものの、パリで混雑を体験することはあまりないですからね。

メトロは一度外に出て、またトンネルに入って、7駅目のプラス・ディタリーに停車。567号線が集まる交通の要衝です。「イタリア広場」という意味ですが、表の様子は帰路に見ることにしましょう。ここで、常宿関係で多用する7号線に乗り換え、次のトルビアック(Tolbiac)まで1駅乗ります。プラス・ディタリーで降りて歩いたっていいのですが、帰りは中華街から宿まで徒歩にしようと思っているので、変化をつけよう。


 


「苹果手机(機)」はアップルのケータイ、「三星手机」はサムスンのケータイ
中華仕様の(でもフランスで使える)iPhoneということなのでしょう


3
年半ぶりにチャイナ・タウンにやってきました。横浜中華街のように、コテコテの楼門があって両側ことごとく中華料理店という環境ではないですが、でも町じゅうに漢字があふれているのは中華な感じ。料理店だけでなく、中国関係の各種商店が立ち並んでいます。ですから、横浜よりも池袋北口あたりを連想するほうがいいかもしれません。私、何を思ったかこの春ころ突然「横浜中華街マスターになる!!」と思い立ち、週1回(以上)のハイペースで通って、大小さまざまなお店で中華料理を食べてきました。いやなかなか、中華街というところは奥が深くて、通うほどに味わいが出てきます。パリでいつも泊まっているところの近くにも中華街があるのだから、足を運ばないということはないですやね。

パリの中華街がどのように形成され、どんな特色をもっているかということについては、清岡智比古『エキゾチック・パリ案内』(平凡社新書、2012年)をどうぞ。ユダヤ人街、アフリカ街などパリのエスニック地区を、映画や文学などの話を織り交ぜながら解説してくれる名著です。同書によれば、若き日の周恩来、ケ小平などもこのあたりに居住していたらしい。中華街といいながらタイやベトナム系のお店が同じくらい多いのは不思議だなと思っていたのですが、インドシナ経由でやってきた華僑の人たちが、中国からストレートに来た人たちと合流してつくってきた地区だからということらしいです。



左は華僑系の不動産屋、右はベトナム料理店

 


3
年前に来たときには、目立つ場所にある大きな中華料理店で食事しました。今回は違うところに行ってみよう。横浜中華街では、どちらかというと表通りでないところの小規模なお店を回るのを旨としており、パリでもできればそのようにしたいですね。欧州に行ったことのある方ならばご存じのように、中華料理店というのは一定規模以上の都市であればどこにでもあり、価格も味もまあまあです。私の住んでいるところにも、華僑が経営する中華料理店はいくつもありますから、横浜まで出かけなくても十分に美味しいものを食べられるのですが、それと同じで、チャイナ・タウンに行くのは「ただ食べに行く」という以上に、町の雰囲気などを味わいにいくということでしょう。

13区の中華街は、トルビアック駅から東に1ブロック進んだショワジー通り(Avenue Choisy)を中心とするエリアです。そこから鋭角的に分かれるイヴリー通り(Avenue d’Ivry)とに囲まれた細長い三角形が軸になります。まずイヴリー通りを進み、ぐるりと回ってショワジー通りに戻ってくるという順序で歩くことにしましょう。気に入った店があれば夕食ということで。





前述のような成り立ちを考えれば、中国だけでなく東南アジア系のお店が多いのもうなずけるのですが、今日は「中華腹」になっているので、フォーではなく焼きそばを食べたい。あ、中華街にかぎらず、こちらの中華料理店の多くはベトナム料理やタイ料理も出すところが多く、中には日本料理(と称する料理)を供する店もあります。われわれも「洋食」などというざっくりした区分を使うことがあるのだから、いえた義理ではないか。

19時を回っていますが、どの店もお客の姿はほとんどなく、開店準備を終えたらしい店の人たちが路上に出てきて、タバコをふかしたり雑談したりしています。海外旅行に不慣れな人は、飲食店に入るということ、とくに一人で入店するという行為にいちいちドキドキするのではないかしら。ていうか、日本国内でもそうだという人が多くて、ゆえにチェーン店など知っているところにしか入れないという困った現象が起きているとかです。思うに、私自身がそうした動作を難なくできるのは、パリ左岸のレストラン街として知られるムフタール通り(Rue Mouffetard)で立ち並ぶ店から1つを選んで入るという呼吸を心得たおかげではないか。だから横浜でも迷わないし、ネットやガイドブックをいっさい当てにしないし、外れても後悔しない。けっこう大事な社会的スキルだと思うんですけどね。お、間口が広くないけど明るい雰囲気の中華兼ベトナム料理店があるぞ。先客はひとりもないが、ここで晩ごはんにしよう。

 

 



4へつづく

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。