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3 セーヌ川の中洲をのんびり歩き

 

 

 

鉄道・自動車・歩行者共用のビラケム橋
左奥に見えるガラス張りの建物はパリ日本文化会館


右岸(パッシー)側にはアパートが建ち並ぶ

メトロ6号線パッシー駅は前述のように崖から線路が飛び出したようなところにあるため、セーヌ河岸まで降りるとかなり見上げるような位置になっています。ああ、川のにおいがする。お天気がいいときの川のにおいって独特の心地よさがあると思いませんか? このままパッシーの高台に戻って散歩しようと思っていたのだけど、方針を変更して、セーヌ川散策に切り替えよう。


何ともパリらしい眺め

そのメトロ6号線がセーヌ川を左岸に渡り越すのがビラケム橋Pont de Bir- Hakeim)。上下2段で、普通の道路橋の中に別の鉄道橋が乗っかっているような変わった造りになっていて、どこかローマ水道橋みたいな感じね。歩行者は道路両端もしくは鉄道橋直下の歩道を歩けます。メトロでは何度となくここを通っていますが歩くのはたぶん初めて。左岸側に渡ってすぐのところにある高架のビラケム駅はエッフェル塔のメトロ最寄り駅(高速郊外鉄道網RERのシャン・ド・マルス・トゥール・エッフェル駅のほうがちょっと近い)なので、観光客っぽい人がけっこういます。2日前の日曜日には、アンヴァリッドからユネスコ本部を通ってこの駅までゆっくり歩いてみたところです(地図で調べてね)。橋を渡る電車から見たエッフェル塔もいい感じですよ。橋名の由来になったのはエジプト国境に近い現リビアのビル・ハキームという地名。第二次大戦前期のアフリカ戦線で、中東攻略をねらうドイツ・イタリア軍を当地にいた自由フランス軍(フランス本体はすでに対独降伏していて、こちらは亡命政府のド・ゴールらと提携した動きでした)がしぶとく防衛して英軍の反撃を導いたという戦地です。敵将が「砂漠の狐」といわれたロンメル将軍だったこともあって、フランス人にとっては誇れる戦勝地名なのでしょう。1つ上流側のイエナ橋と同じ発想のネーミングですね。


 
24時間オープンと書いてあるけど夜中はおっかなそうだ


 

このビラケム橋のちょうど真ん中あたりに、中洲への降り口があります。中洲といっても福岡のあれではなくて(そりゃそうだ)、1つ下流側のグルネル橋Pont de Grenelle)まで全長890m、幅11mの細長い遊歩道として整備されています。その名は白鳥の小径Allée des Cygnes)。

ここの存在はもちろん知っていたのですが、一度も来たことがありませんでした。というのも、私のパリ滞在はたいてい2月で、道を歩いているだけでもけっこう寒いのに吹きさらしの中洲を1キロちかくも歩くなんてとんでもない、という思いと、ここが「パリの地図」の左下の隅にあたりこの先に見るべきものもないんだろうなあという思い込みがあるのでした。たまたまよい季節に来たのだから、この際歩いて見なくてはね。ジョガーさんはそれほどいなくて、中高年の夫婦とか、あとはなぜか若い女性がひとりで歩いて(あるいはベンチでくつろいで)いるのが目立ちます。それこそどこに通じているわけでもない散歩専用の遊歩道ですので、用事なんてあろうはずがないですよね。




RER-C線の鉄橋 修築中の円形の建物はラジオ・フランス

セーヌ川は、往年ほどではないにしても、いまもって水上輸送の動脈です。見ていると、けっこう頻繁に通り過ぎる遊覧船だけでなくて、砂利を載せた船や小型の貨物船などが行き来しています。いわゆる河川敷がほとんどなくて川幅いっぱいに水が流れる絵は、日本の河川ではなかなか見ることのできないもので、欧州の町なかならではの景観。それにしても、これだけゆとりのある川筋の中洲があったら、日本人なら(そして私ならとくに)ソメイヨシノをじゃんじゃん植えて桜並木にしちゃうだろうなあ。


エッフェル塔最上階から見た白鳥の小径(20083月)


小径の中間地点あたりで鉄道の橋がすこし斜めの感じでセーヌ川を横断します。地図上では黄色のラインで示されるRER-C線の支線。C線はパリ東郊からやってきて、セーヌ川の左岸にへばりつくように半地下を走り、オルセー美術館、アンヴァリッド、エッフェル塔と観光地をむすび、本線はこのまま西郊に抜けていきます。ヴェルサイユ宮殿に行くとき最も便利なのがこの路線。支線はビラケム橋の西で地上に出て急カーブを描きながら右岸に渡り、ブーローニュの森の東辺をなぞりながら北郊に抜ける通勤路線です。RERといってもパリ市内にかぎっていえばメトロと同じ扱いですので、一日乗車券モビリスなど同じチケットが使えます(出るときにも改札があるのと左側通行なのがメトロと違う)。

 鉄道橋をくぐるところ


小径の終点から下流側を望む



こちら左岸側


今回の滞在は(も?)研究資料の収集が主目的だったのですが、正直なところ出発前はあまり乗り気でなかったのです。夏休み後半に大量のお仕事が降りかかってきて未整理だったせいかもしれません。渡欧が年イチだったころは、新年を迎えると身体が欧州を欲するような具合だったのですが、頻度が高くなるとなかなかそういうテンションを持続しにくいですね。ぜいたくな話だけど。私の場合、教育研究の根幹にかかわるものを吹き込んでくれたのがパリの「空気」だったと思っているので、半ば地元というか思想上の故郷でもありますので、親元に毎度帰省するのがかったるいなあ〜てな気持ちと似ているかもしれません。でも、いったんパリに着いてみたら話は別で、逆に元気になってきました。ローギアのまま海外で過ごすのはいろいろな意味でまずいので、回復してよかったです。

パリは京都に似ているとしばしば感じます。イチゲンさんを寄せつけないようなハードさはもちろんですが、誰に話しても「いいね」となるし、リピーター化する人が多いし、そしてまた何度来ても歩き足りないところがあるという点がね。有名観光スポットをコンプリートしたあとにこそ真のおもしろさがあるのだ。京都と同じで。

 

これはお台場の女神!(20075月) 


白鳥の小径の先端、グルネル橋をくぐった先に立つのが自由の女神Statue de la Liberté)。あまりに有名なものなんだけど、前述の事情でこれまでエッフェル塔の上から遠目に眺めただけでした。本家ニューヨークのやつが46mなのに対してこちらは11mと小ぶりではあるのですが、見上げるとけっこう大きいですね。思想史的にいえば、ローマ時代の女神にルーツをもち、啓蒙思想の時代に「自由」の理念を体現するものとして扱われました。フランス共和国のシンボルであるマリアンヌ像は、その姿にマリア信仰が重なり、それを共和主義がたくみに乗っ取ったというもので、系譜は同じです。フランスは、アメリカ合衆国の独立に大いに貢献したという自負があり(先方が感謝しているかどうかは知らん 笑)、ニューヨークの像も独立100年を祝してフランスが贈ったものです。本家の正式呼称はLiberty enlightening the Worldで、enlightenつまりlightを当てる=蒙(暗がり)を啓くという啓蒙思想のダイレクトな反映。ドラクロワの名画「民衆を導く自由」(Liberté guidant le peuple)とほぼ同じコンセプトです。パリの女神像はそのお返しにと在仏アメリカ人たちが革命100年に贈りました。由緒正しきものではあるのだけど、何となくバッタもんくささがあり、パリの観光スポットとしてはたいていスルーされてしまいますね。私がこの齢で初めて来たというくらいですし。この日は地元の兄さんが数人と中国人らしき観光客が3人だけで、存分に眺められました。ま、他に何があるわけでもないので眺めるだけやけどね。

いまの大学生くらいの年代は憶えているか微妙なところですが、1998年の「日本におけるフランス年」を記念してこれが東京に運ばれ、1年くらいお台場にいたんですよ!(むちゃくちゃな気もするけど、その前年の「フランス年」には法隆寺の百済観音がルーヴルに運ばれています) 期間が終わって女神が去り、寂しいなあというのであらためて造られたレプリカが、いまもフジテレビの近くに立っています。


 グルネル橋


グルネル橋から上流方向を望む(向こう側から歩いてきました)


グルネル橋の周辺はビジネス街。ガイドブックなどで「パリ」としている地図はたいていバスチーユ〜エッフェル塔間なのですが、そのいわゆる旧市街は景観規制が厳しいため建物の形状や様式に妙な統一感があります。そこから一歩外側に出てみると、私たちがよく見る「現代の都市景観」。欧州にはそのような都市が多いですね。


河岸でバス72系統をつかまえて・・・

右岸を歩いて見ようというのが今回のコンセプトだったはずが、いつの間にか右でも左でもなく真ん中を歩いていた! やっぱり私は「右」が苦手なのかもしれないなあ。グルネル橋を左岸側に渡れば、いつものカルチェ・ラタンに直行するメトロ10号線の駅が近いのだけど、それではつまらないので右岸側に出ました。メトロはないけれど、さきほどのRER-C線のアヴニュ・デュ・プレジダン・ケネディ駅ならあります。ワシントン、ウィルソン、フランクリンと来てここはJFKか。見るとセーヌ川の右岸に沿って進むパス72系統があるようなので、これに乗って都心に戻ることにしました。メトロと違って景色を見られるので、バスはいいですよ。この72系統は例のシャイヨー宮からエッフェル塔に向かって歩くときによく見かけます。このままエッフェル塔対岸、パレ・ド・トーキョー、アルマ橋(1997年にダイアナ妃が亡くなった地点)、コンコルド広場、ルーヴルの外側(!)、ポン・ヌフと川沿いの見どころを数珠つなぎにして走るわけですね。

 


 バスの車内


シャボン玉パフォーマンスのおじさんがいる市役所前(冬は子どものスケート場になる)


バス利用で「歩いて」見るというコンセプトすら破綻していますが、まあいいじゃないですか。この系統は2連接でないこともあって車内はけっこう混雑しており、終点のオテル・ド・ヴィユ(Hôtel de Ville 市役所)まで立ちっぱなしでした。地元の中高年の人が多いようだけど、明らかに観光客らしき人もけっこう乗っています。そういえば、コンコルド橋〜ビラケム橋の間はこれまで左岸側しか歩いたことがなかったかもしれない。用事がエッフェル塔やアンヴァリッド、あるいはケ・ブランリー博物館(Musée du Quai Branly 非欧州圏を対象とした民俗学・人類学の展示がある)など左岸側に集中しているためでしょうね。右岸の数百メートル先にはシャンゼリゼが通っているので、観光客はそちらに流れるということもありますか。

バス終点のオテル・ド・ヴィユはもともと14世紀の建物で、19世紀末に大修築をおこなって現在にいたっています。中世後期のパリ市政は「フランス王国の一部」というよりは独立自治的な存在で、その傾向はフランス革命の動向にも影響を与えました(中世のロンドンも似たような性格をもっていました)。だから市役所といっても、ある意味では東京都庁以上の権威をもっているということができます。ここからセーヌ川を渡ってすぐのところにパリの中心、ノートルダム寺院があります。いつの間にかど真ん中に戻ってきていましたね。このあとさらなる「発見」を求めてバスチーユの東側を歩いてみたのだけど、とくにこれといったものを見つけられず、暑くなってきたので撤退しました。次回はどんなコースを歩いて見ようかな。

散策は終わったのになぜか 4へつづく

 

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。