Fragments historiques dans les régions marginales franco-espagnoles

 

PART4 ついに花開く時が来た

 

 

 

 

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パラレル駅、ここまで「地下鉄」なケーブルカーの駅って日本にはないだろうな〜(と、このときは思ったのですが、立山黒部アルペンルートの黒部ケーブルカーは全線がトンネルでしたね)。4連構造になっている車両に乗り込んだのは、家族連れなど、ほぼ観光客または行楽客。これから向かうモンジュイックの丘は生活空間ではありませんから、このケーブルもレジャー限定ということになるわけです。みんな前のほうに急いだけど、ケーブルカーはいちばん山麓側の眺めがいいんだぞ。というわけで最後尾の特等席に陣取ります。発車まぎわにやってきた親子は英語を話していました。フランス語も聞こえたような。

 


ケーブルカーには運転士がいませんので、ベルが鳴って自動ドアが閉まると、そのまま発車。それにしても「地下鉄」やな。下り便とすれ違う中間地点もまだトンネルの中でした。右隣で、同じ趣味とおぼしき兄さんがけっこう本格的なカメラで対向車を撮っています。やがてトンネルを抜け出したものの、山肌の凹面を登っているらしく、特等席ながら景色はあまりよくありません。残念。同じイベリア半島では、23月にリジュボーア市内のケーブルカーを経験しましたが、あちらは完全に町なかで住民の足として機能していました。日本人のイメージに近いのはこちらバルセロナのほう。

5分ほどでパルク・デ・モンジュイック駅に到着しました。すばらしい晴天だけど、山の上はとくに風が強くて体感温度が低い。2月にシャンゼリゼのタイ・ラックで買った青いマフラー(ル・アーヴルの回を参照)をもってきておいてよかったです。パルク駅の前が山上のメインロードらしく、バス停も立っています。ハイカーとかジョガーの姿もちらほら。そして、やっぱりいくつかの言語が耳に入ってきます。にぎやかな親子が話していたのは、アラビア語かマグレブあたりの言語なのか、あまりなじみのない音でした。すこし歩くと右側にミロ美術館Fundació Joan Miró)。シュールレアリズムの巨人ミロもまたバルセロナ出身の芸術家でした。美術館に間違いないのだけど、英語にすればfoundationなので直訳すれば「財団」だわねえ。(実際に芸術家たちを支援する活動に取り組む財団らしいです)

 
(左)モンジュイック山上の道路  (右)ミロ美術館


せっかくだから美術館みろといわれそうだけど、先に進ませていただきます。めあてのスポットまでは、美術館からさらに56分、坂道を登ったところにありました。バルセロナと聞いてサグラダ・ファミリアやFCバルセロナを思い出す人は多かろうけど、私の年代だと「リラの咲くころバルセロナへ」(光GENJI 1992年)という曲のサビが頭に残っているのではないですかね。1992年夏に開催されたバルセロナ五輪(五輪の第一公用語であるフランス語でJeux de la XXVe olympiade de l'ère moderne)のメイン会場となったのがここ、モンジュイック・オリンピック・スタジアムEstadi Olímpic de Montjuic いまはEstadi Olímpic Lluís Companysと改名されている)。若い読者を置き去りにして当時の思い出を振り返るなら、岩崎恭子が200m平泳でまさかの金メダルを獲得し、14歳にして「いままで生きてきた中でいちばん幸せです」と歴史的迷言?を残したのがこの大会。そして、男子の森下広一もそうだったのですが、女子マラソンの有森裕子が旧ソ連のエゴロワと35km過ぎからデッドヒートを演じたシーンは今でもはっきり憶えています。最終盤でこのモンジュイックの丘を、けっこう細い道路を通ってひたすら登るというコースになっており、何て苛酷なと思ったものでした。有森は最後の最後で突き放され銀メダルに終わりましたが、一躍ヒロインとして称えられることになります(ここに出場する際の選考過程で陸連のごり押し的なことがあり、世論は有森にそれまで冷淡でした)。エゴロワの属性をロシアでなく「旧ソ連」と記したのは、この年の冬・夏大会に限って旧ソ連12ヵ国が共同のチーム(Équipe unifiée: EUN)で出場したからです。ソビエト連邦は199112月に崩壊しましたが、すでにソ連の枠でほとんどの選考が終わっていたための過渡的な措置でした。こういうのも歴史だね。長くIOC会長を務め、同組織の再建に尽力したアントニオ・サマランチ(カタルーニャ語ではアントニ・サマランク Joan Antoni Samaranch i Torelló 19202010年)はバルセロナ出身のカタルーニャ人で、彼の「地元」に、ついにオリンピックがやってきたということです。

大学院生になったばかりの私は、サマランチの地元である「スペイン」でついに五輪開催、という報道を真に受けて、わりに最近までそう思い込んでいました。スペインというか、イベリア半島の情勢というのは、西欧プロパーとなった自分にとってもほとんど関心の外にあったといわざるをえません。偶然のきっかけでナショナリズム研究に入ったのは1997年のことで、もうバルセロナの記憶は遠のいていました(有森裕子が「初めて自分で自分を褒めたいと思った」という有名なセリフを残したのは、銀のバルセロナではなく銅を獲得した1996年のアトランタ五輪でのこと)。そのころには、サマランチはたしかにIOCV字回復させた功労者だが、巨大な五輪利権をめぐって裏金の授受などの腐敗を生んだ張本人だという悪評も聞こえていました。それ以上に、彼が、40年にわたってスペインを支配した独裁者フランコ(Francisco Franco 18921975年)のもとでバルセロナ地方長官やスポーツ大臣を歴任したという過去が問題になりはじめていました。フランコの手下だった人間が掌を返すように平和の祭典を主催するのはどうなのかね、というのが、当時私がぼんやり考えたことでした。

 
オリンピック・スタジアム(右の写真は内部を見たあとで正面に回って撮影したもの)
現在の呼称に冠されるリュイス・コンパニイスはカタルーニャ自治政府大統領(1934年かぎり のちフランコ政権によりこの丘で処刑された)の名を記念したものです


ドイツやイタリアでファシズムが社会を覆っていた1936年、スペインには左派を糾合した人民戦線(Frente Popular)内閣が成立します。この年の夏季五輪は、「民族の祭典」というきわめて怪しいタイトルで知られるベルリン大会でした。ファシズムに反対する欧州のスポーツ団体などは、開催地選考でベルリンに敗れたバルセロナでの「人民五輪」に参加することになりました。このときモンジュイックのスタジアムがメイン会場として整備されました(建設は1929年の万博時)。当時はファシズム vs 反ファシズムの対立図式が強まっていたころだけに、この人民五輪に対する後者の期待は高かったものと考えられます。しかし、開会式を翌日に控えた1936718日、事態は急変しました。スペイン全土および植民地のモロッコで、反動的な軍が同時多発的に決起したのです。平和の祭典どころではなく、一転して悪夢の内戦へと突入したのでした。資本家や地主層、カトリックなどに支持された反乱軍は、抵抗する人民戦線側にかなり苦しめられましたが、参謀総長だったフランコの指揮が確立されたころから勢力を急速に伸ばしました。そして、これは「世界史」の教科書にも必ず書いてあるように、ヒトラーやムソリーニは公然とフランコ側を支援し、内戦に軍事介入しました(ついでのことに、こちらもファシズム化していた日本政府は早々にフランコ政権を承認しました。見返りに、フランコ政権は満州国を承認しています)。反ファシズム陣営であるはずの英国やフランスは、人民戦線の背後にソ連がいることを嫌って、不介入の態度をとります。こうして、曲がりなりにも民主的に選ばれた政権を軍のクーデタ、そして内戦でひっくり返すという展開となり、19393月、ついにフランコが全土を制圧しました。

美術は今でも苦手ですが、子どものころなぜか児童向けの画集というのを読んでいて、その中にピカソの「ゲルニカ」(Guernika)が含まれていました。あの強烈な画の意味を、もちろん当時は理解できなかったのですが、どうやら戦争の悲惨さを訴えているらしいという解説の意味くらいはわかりました。ゲルニカはスペイン北部、バスク地方の町。内戦のさなかに、フランコを支援するナチス・ドイツが史上初の大規模都市空爆をおこなったのがこの町です。カタルーニャ育ちのピカソはパリにあって、「スペイン」の内戦、そして、印欧語ではない独立言語バスク語を話す地域への無差別爆撃を、痛恨の思いで受け止めていたことでしょう。

 オリンピック・スタジアム スタンドの一部を無料公開している

 


フランコは、第二次世界大戦に際して「中立」の立場を保持したため、戦後も独裁者として居座りつづけることになりました。稀代のファシストである彼が政治生命を永らえられたのは、やがて冷戦がはじまって、アメリカにとってはむしろ好都合な存在になったからです。アジアやラテン・アメリカの権威体制が永続したのと同じ理屈ですね。ポルトガルやギリシアもまた同じです。南欧は「途上国」でした。フランコの支配は、197511月に彼の死によってようやく終わりました。私が最初に手にした地図帳(大学生だった親戚の兄さんがくれたもの)には「スペイン共和国」とありました。小学校で初めてもらった地図帳では「スペイン王国」になっています。晩年のフランコは、亡命していたアルフォンソ13世の孫ファン・カルロス(ジョアン・カルラス)を呼び戻し、自分の意向を継承する国王としての教育を施しました。しかし独裁者の死後、王政復古によって即位したファン・カルロス1世は、国民の声に応えて民主化へとハンドルを切ります。この英断を契機に、スペインはようやく民主国家としての正常な道を歩みはじめることになります。

40年にわたる独裁政権は、また徹底した中央集権の官僚支配でもありました。1714年に自治権を剥奪され、1931年にようやくそれを回復したカタルーニャでしたが、フランコ政権下でまたしても抑圧されることになりました。そして、このときが最も苛酷な支配だったといえます。何よりも、公の場でカタルーニャ語を使用することが徹底して禁止されました。カタルーニャ語ふうの名前をカスティーリャ語のそれに改める、創氏改名のようなことまでさせられたのです。戦後の独裁者や権威体制の多くがそうであったように、フランコ政権もまた開発独裁の傾向を帯びていました。国内のインフラ開発や工業化は進みました。バルセロナは一大工業拠点として、高度経済成長を実現します。政治をあきらめて経済に邁進する人たちが多くいたことは確かのようです。そして、この折の工業化によって、カタルーニャ語を知らない労働者たちがまたしてもカタルーニャに大挙してやってきました。アントニ・サマランクはアントニオ・サマランチというカスティーリャ語の名をもって、出身地バルセロナの地方長官を務めました。つまりはフランコ政権の手下として、自分の同輩たちを統治したのです。しかし、その彼が尽力して、バルセロナとカタルーニャの完全復活を告げるイベントを呼び込んだことも、また事実です。


自分たちの母語を公然と話せないという状況は、想像しようと思ってもなかなかできるものではありません(身近なところに類例があることはもちろん承知しています)。唯一、カタルーニャ語を大っぴらに話す(叫ぶ!)ことができたのは、カンプ・ノウ(Camp Nou 新競技場)でのサッカーの試合だったそうです。フランコ政権がそれを容認したのは不思議な気もしますが、おそらくはアメムチのアメ、一種のガス抜き策のつもりだったのでしょう。FCバルセロナは、バルセロナとカタルーニャの人たちの誇りにとって、最後の砦でした。サッカー音痴でありながら、私がしばしば授業でサッカーの例を取り上げるのは、グローバル社会というものを最もよく体現するものだからです。そこで、「FCバルセロナ vs レアル・マドリードの<エル・クラシコ>は、たしかに伝統の一戦、ライバル対決ではあるけれど、巨人・阪神戦や早慶戦のようなものではなく、むしろ日韓戦に近いニュアンスなのだ」という話を持ち出すことがあります。これまでの話で、その意味がよくわかっていただけるのではないかと思います。

フランコの死後、民主化が進む中で、カタルーニャはついに念願の自治を――おそらく「最終的」に――獲得しました。身分制議会に端を発し、性格を少しずつ変えながらも残存してきたバルセロナのジャナラリタGeneralitat)が、「カタルーニャ自治政府」としての地位を得たのは1978年のことです。その後、2006年にはさらなる自治権の拡大が承認され、いまでは国防・外交・司法以外のほとんど(警察権を含む!)をジャナラリタが担当しています。カタルーニャはいまや国家に等しいといえるほどのステータスをもつまでになりました。しかし、40年にわたって書きことばとしての教育機会を完全に失われていたカタルーニャ語の回復が容易でなかったことは間違いありません。自治政府が必要以上にリキを入れて、母語の復活を政策化したものと思われます。私は空港に降り立ってすぐに、カタルーニャ語→英語→カスティーリャ語という順序に違和感を抱きました。バルセロナ市内のどこへ行っても、たしかにたいていの場合はカスティーリャ語を添えてあるものの(それを母語にしている人がかなりいるのも事実なので)、徹底してカタルーニャ語を前面に出していることが、この2日間でよくわかりました。生徒・学生のみなさん、古賀の授業を受けたのなら、「先生は何ヵ国語しゃべるんですか」みたいな表現は金輪際やめましょう。How many languages do yoy speak? ――どこにも「国」なんてありません。言語の数を国で数える習慣をやめないうちは、欧州だけでなくアジアのことも、ちゃんと学ぶことはできないと思います。

 
(左)スタジアム前のモニュメント  (右)モンジュイックの丘から見た市南部 空港に降りてくる航空機が見える


幻に終わった1936年の人民五輪から56年、19927月に、その日はやってきました。サマランチの功罪はともあれ、バルセロナにとっての晴れの日が訪れたのです。オリンピックでの場内アナウンスは、現地公用語→フランス語→英語というのが通例です。このたび岡部明子さんの『バルセロナ』を読むまで不勉強にも知らなかったのですが、バルセロナ五輪に際しては、カタルーニャ語→カスティーリャ語→フランス語→英語となりました。国歌斉唱でも、スペイン国歌の前にカタルーニャ国歌が演奏されました。スペイン国旗の両側に、カタルーニャとバルセロナ市の旗が並び立ちました。「そして、国王は『みなさん、バルセロナへようこそ』の一言を、なんとカタルニア語で発した」(同書p.189)。もうダメ。泣きそう。

 カタルーニャ美術館

 
(左)美術館前から市北西部を望む  (右)北のほうを見ると・・・サグラダ・ファミリアの存在感はやっぱりすごい


ケーブルカーの駅から来たのと別の坂道を下っていくと、すぐカタルーニャ美術館Museu d’Art de Catalunya)があります。その前は、広くはないものの「丘」の北端で展望台のようになっていました。縦横をきっちり刻んだセルダの町が遠望できます。レイアウトとしては、この美術館が丘の上に位置する古刹の本堂のようになっていて、平地のエスパーニャ広場Plaça d’Espanya)からここへ向かって一直線の表参道が通じており、傾斜のきつい階段とエスカレータで本堂に向かうようになっています。観光客だけでなく地元の人たちもけっこう来ている感じ。階段を下りて表参道を歩いてみましょう。議会などの公的機関などを配置した開発地区のようですね。エスパーニャ広場周辺は、これはビジネス街なのかな? 風が強くなってきて寒いので、歩くのをやめて地下鉄に乗ってしまいましょう。

 カタルーニャ議会


L3
号線で、さきほどケーブルカーに乗り継いだパラレル駅を通り過ぎ、ドラサーネス(Drassanes)駅で下車。ランブラス通りの南端、コロンブスの塔があるところです。前日は、雨の降る朝に歩いたためバルセロナ随一のストリートであるランブラス通りの印象があまりよくないままでした。次いつ来るかわからないので、もう少しだけ見ておこう。13時ちかくになっており、さすがにものすごい人出です。左右の飲食店やスーベニアショップも繁盛している模様。「スペイン」といえばパエリアで、たしかに多くの観光レストランでは写真を前面に出してPRしているものの、イカニモな感じがして気乗りしません。普段でも「小ライス」を注文するくらい米のメシは量を食べないのでねえ(とかいうわりに、3ヵ月前のパリウィーンではパエリアを食べているので、さほどの主張ではありません・・・)。前日は変な時間帯にディナーを食べてワインをかなり飲んだため、あとの予定が狂いました。このあと1620分の列車で次の目的地ペルピニャンに移動して、おそらくあちらで夕食になりますから、ランチするならするで、早めのほうがいいかもしれない。

 「サンタ・モニカ街」というように複数区画に分けられているため複数形でRamblasと呼ぶらしい
  ランブラス通り


途中から、ゴシック地区(Barri Gòtic)と呼ぶランブラスの東側に入り込みました。前日歩いた自治政府政庁とか大聖堂の少し北側です。石畳の路地ふうの道が、新市街とは違ってここでは曲線的にうねうね通っています。渋めのブティックがけっこうありますね。ショッピング街らしく裏道という感じはしません。よさげなパン屋さんでもあれば何か買って歩き食いしようかと思うものの、こういうときにかぎってないんですよね。ホテルに預けたキャリーバッグをピックアップする都合もあるので、ランブラス通りからあまり遠く離れたくもないし。さて。

 


PART 5へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。