Fragments historiques dans les régions marginales franco-espagnoles

PART3 ガウディの夢のつづき

 

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26日は一転してすばらしい晴天になりました。冬場の「欧州」は天候が不安定なことが多くまだ信用しきれないのだけど、いつも世話になっている地域が西岸海洋性気候、ここバルセロナは明らかに地中海性気候で、すこし違うのかもしれない。7時ころ起きだして朝食をとり、立派な洗面所でゆったり洗面。ホテルのウェブサイトって、部屋の写真を盛っている(あるいはめったにない上等な部屋を標準であるかのように装う)ことが多く、期待しないことが多いのですが、ここホテル・リェオのはイメージに外れていないですね。

 
地下鉄L2号線ウニヴェルシタット駅  構内にダンキンドーナツや! 昭和の人間にはなつかしいな(馬場下の店でよく時間つぶしをしたのです)


天候回復のおかげで気分もよく、9時前にチェックアウトし、荷物をレセプションに預けました。宿ちかくのウニヴェルシタット駅から地下鉄L2号線の東行きに乗車します。前日は結局、サンツ駅まで1往復しただけで2日乗車券の元を取っていませんが、この日はやや広域に動く予定なのでけっこう乗るのではないかな。といっても4駅目、実は徒歩でも行けなくない距離のところで下車します。その名もずばりサグラダ・ファミリア駅で降りて改札を抜け、階段を上がってきたら、うわっ

  駅を降りたらすぐ・・・
 未完の大作、サグラダ・ファミリア 尖塔は18本のうち8本がほぼ完成


ほんとに目の前にあるんだね。晴れた日に来てよかったです。青空を突き破らんばかりに数本の尖塔が建っています。そして、見るからに絶賛工事中。工事中であること自体が見ものになる観光スポットって世界でもここだけでしょうねえ。サグラダ・ファミリア教会Temple Expiatori de la Sagrada Família)、あえて日本語訳すると聖家族教会は、19世紀末に建設が開始され、2代目の設計者になったアントニ・ガウディが人生を賭けて取り組んだ作品ながら、いまなお未完。ガウディ没後100周年の2026年に完成というのが公式のアナウンスですが、最近のニュースによればけっこう前倒しされそうな感じです。前述のとおり、ガウディにもサグラダ・ファミリアにもさほど執着しているわけではありませんが、バルセロナに来たのならぜひものでしょう。工事中の建物の周囲を取り巻くようにチケット購入の行列ができていて、入場までに30分くらいかかりました。拝観料€13.50。あとで聞けば、入場時刻によって値段が変わるらしいです。建築とかガウディに関してはまったく無知なのでオーディオガイドでもと思いましたが、日本語がないのでパス。英語やフランス語を聞き取れないわけではないのだけど、専門用語はわからん。こういう場所の御多分に洩れず、いろいろな言語を話す観光客であふれています。もちろん日本人も。日本人グループ客を案内する、現地在住らしいガイドさんが熱心に解説しているので、少しだけ聞いちゃいました。

  エントランスからしてなかなか凝った造り


建物や内部の意匠などについては、詳しい人や本がたくさんありますからそちらを参照してください。建物の中に入ってみると、かなり明るいのにびっくり。お天気がよいせいもありますけれど、自然光がよく入って、柱を白く浮き上がらせており、ステンドグラスの原色もあざやかに見えます。中世のゴシック建築は明り取りが少ないため、どうしてもカトリック寺院=暗いという先入観があったのですね。さすがモデルニスモ(Modernismo モダニズム=近代主義と同義ですが、美術史的にはスペイン版アール・ヌーヴォー運動のこと)の巨匠、ガウディ先生。身廊上部のヴォールト(アーチ構造で天井を支える部分)付近に大きな明り取りがあって、まず天井を明るくしているというのが決定的なのかな。

 十字架のイエスが印象的な祭壇
  身廊


いまモデルニスモというカスティーリャ語の表現を使いました。私たちが学ぶ「美術史」では一般にそうなっているのですが、カタルーニャ語でいうならモダルニズマmodernisme)です。そう呼ぶほうがガウディは喜ぶことでしょう。カタルーニャのモダニズムが、西欧のそれとは逆に擬古的な装飾に走ったのはなぜか。前掲『バルセロナ』(pp.61-88)によれば、それがカタルーニャの近代だからだということらしい。カタルーニャが1714年にスペインの一部として接収されてしまった話は前述しました。しかし都市バルセロナの新たな繁栄がその先にありました。カスティーリャとは別の国だった時代が終わり、バルセロナ商人にも新大陸交易への参入が認められたため、18世紀後半には富の蓄積がかなり進みました。ナポレオンがスペインを征服し傀儡政権を樹立しようとしたときには、カタルーニャは因縁のボルボン朝の復権を支持してカスティーリャと協力します。このあと、なぜだかフランス系の資本がかなりバルセロナに投下されました(リスクヘッジの一環だったようです)。富の蓄積、豊富な労働力、消費市場の存在とくれば、あとは技術を移入して産業革命に突入するのは世界史のお決まりパターン。バルセロナは西欧向けの繊維産業で一気に産業革命の時代を迎え、経済力でスペインの首都マドリードを圧倒しました。セルダ計画で市域が大きく拡大するのも、19世紀半ばの都市近代化が関係しています。19世紀末のカタルーニャ・モダルニズマは、一方で資本主義経済の躍進と財力、近代的な技術を投入し、他方で地域のアイデンティティを遡及するという、相反するベクトルを内包したものになりました。アイデンティティ遡及というのは、19世紀の国民国家nation-state)形成において中核となる思想運動ですけれど、ここカタルーニャはいわば亡国の民。屈折したアイデンティティは、過去の栄光に目を向けることで芸術化したということのようです。ガウディ終生の後援者になったグエル(Güel)一族は繊維産業で富を得ました。近代のエネルギーが前近代を呼び起こすと、そういうことでしょうかね。

ナショナリズム研究をライフワークの1つにしている私にとって、このケースには非常に興味深いものがあります。パリとかロンドンを中心に物事を考えると、どうしても中央×周縁という構造になり、ナショナリズムというのは一般的に中央の論理へと周縁を組み込んでいくエネルギーのように捉えられます。でも、同時期のスペインの場合、経済的な力ではバルセロナが優位にあり、しかもそれは周縁というよりは強制的に合併した元・隣国の都であるわけです。言語・文化が違います。過去の栄光を志向したこの時期のカタルーニャでは、カタルーニャ語の復権がめざされ、この言語によって文学作品を残そうという運動も盛り上がります。もとより私自身はナショナリズム批判の立場ですから、100年以上前のこととはいえ、「カスティーリャとかスペインとは違う、カタルーニャのアイデンティティ万歳! 多年の抑圧から脱け出して、民族自決に向かえばいいね!」とかいっているわけではありません。産業革命、工業化が進み、都市が肥大化するほどに、バルセロナとその周辺には、スペインのあちこちから労働者が流入することになります。その多くはカタルーニャ語ではなく、カスティーリャ語の系統を話していました。バルセロナが興隆すればするほど、皮肉なことにバルセロナのカタルーニャ的要素が相対化されていくということになります。これは、ロシア化が進んだウクライナとか、ブリテン化が進んだアイルランドなどと似た、近代の現象(少し時代は下りますが、中国の「周縁」で、やはり漢化の進行という動きがあり、それが昨今の民族問題の根っこにあります)。こちらへ来るときの機内、そして夜のホテルでずっと、英国史とアイルランド史の本をかわるがわるに読んでいました。この作業はしんどいけど、なかなか有意義です。同じカトリックながらアイルランドとカタルーニャではだいぶん違うはずだけど、でも私の中ではどこか重なるテーマを感じるんですよね(んん? これは何かの伏線を張っているのかな?笑)。

 
 地下礼拝堂を見下ろす


ところで、このサグラダ・ファミリアは、3400年前の建物がひしめく旧市街ではなく、碁盤目ないし板チョコ状に整然と区切られた新市街の、住宅街のど真ん中にあります。それが初めは意外でした。ガウディの他の作品も大半は新市街にあるのです。実際にサグラダ・ファミリアを訪れてみると、たしかに非日常的な外観ではあるのですが、写真でずっと見てきたような超越的な印象はあまりなくて、周囲の景観にあんがい溶け込んでいます。祈りの場だもの、当然ですよね。ガウディは人間主義の立場を貫きました(前掲書、pp.86-87)。近代社会は、人間を機械に従属させるがごとき誤った方向性をもってしまいます。均質化された碁盤目の新市街は、たしかに労働者を最低ラインのところから解放して一定の水準で生活させるという思想にもとづいているものの、無機質とか非人間的といったことと隣り合わせの危うさを帯びています。曲線美で知られる彼の作品が新市街に点在することで、そこに人間の息吹が通い、結果的に救われているのかもしれません。

 
教会の地下には、「建設作業そのもの」が展示されている


アントニ・ガウディは、1926年に事故死しました。世紀転換期のカタルーニャ・モダルニズマは、稀代の天才画家パブロ・ピカソ(Pablo Picasso 18811973年)をも輩出しているわけですが、彼の名前はあとでちょこっとだけ出しましょう。

工業都市ならではのエネルギーと屈折したアイデンティティがもたらしたモダルニズマの時代が去ると、嵐の1930年代が訪れます。ガウディその人がブルジョワ的なのか労働者的なのかはよくわからないのですが、グエル一族との関係など、どちらかといえばブルジョワのネットワークの中に身を置いていた気配はします。生涯を賭けたサグラダ・ファミリアの完成を彼が見ることはなく、それどころか何十年経っても造り終えないことは生前に承知していたわけではありますが、1930年代を見ずに済んだことは、あるいは幸福だったかもしれません。スペインでは192330年のプリモ・デ・リベラ軍事独裁政権が民衆を抑圧したため、リベラ死後の1931年、独裁政権を支持・黙認したスペイン国王アルフォンソ13世への不満が爆発し、同国王は国外亡命を余儀なくされます。スペイン第二共和政が成立し、このとき女性参政権が認められ、カタルーニャは待望の自治権を回復しました。しかし、このことがより深刻な不幸を招き入れる遠因になります。労働者階級の自治は左派イデオロギー同士のいがみ合いで、せっかく繁栄をみたはずのバルセロナの市民生活自体を脅かすことにもなりました。また、共和国政府が急進的な世俗化を進めたため、カトリックは抑圧の対象となり、心の拠りどころを失うことを恐れた多くの女性有権者たちは保守派を支持することになります。世界恐慌で欧州全体が重苦しい空気に包まれる中、スペインにもファシズムの足音が近づいていました・・・。


私にしては「大物」の見学になったわけですが、非常に満足して外に出てきました。風が強いので前日よりは寒いですが、晴れているし、さすがに南欧だけあってパリあたりよりもずっと暖かいのはありがたいです。嫌な気分を引きずったままうろうろした前の日に、ここへ来なくてよかったですね。

さあ、L5号線西行きでサンツ駅に行って、「明日の切符は明日」といわれた窓口でリトライしよう。もう「今日」になっているので絶対に大丈夫ではあるのだけど、直前に購入すると余裕がなくなるから、まず1620分発のチケットを手にしておきたい。窓口の1つには前日と同じおじさんもいたので、あららと思ったものの、「今日」ならば問題なかろう。と思っていたらその隣の窓口が空きました。単純な切符なのでメモを渡したりしなくても大丈夫でしょう。ペルピニャンまで片道1枚、2等車でね(the single ticket for Perpignan, second class)。窓口の兄さんは問い返すでもなく、€44のチケットを発券してくれました。


バルセロナ・サンツ駅 写真左の「屋根」は、公共空間をモニュメント化することで新芸術都市としてバルセロナを再生させるプロジェクトの一環


前日とは違って何ごともさくさく進んでいいなあ。心置きなく、これから市南西部にあるモンジュイックの丘Montjuic)をめざしましょう。頭のMontはフランス語と同じで「山」(パリ市内のモンマルトルとかモンパルナスもそういうことです。もちろんモンブランもね)なので、丘までいってしまうと本当は同語反復になります。サンツ駅から、前日利用したL2号線で4つ目のパラレル(Paral-lel)まで行きます。そういえば、やったら長い通路を歩かされるんだった。広々とした駅前広場を歩くほうがいいやというので、有名なモニュメントを眺めながら、数百メートル先の入口から地下鉄構内に入ります。パラレルからはケーブルカー(Funicular)でパルク・デ・モンジュイック(Parc de Montjuic モンジュイック公園)へと登るのですが、2日乗車券がそのまま使えるのか、別会社なのかの情報がありませんでした。行ってみると、地下鉄ホームから改札内でそのまま連絡通路があり、その先に行き止まり式のホームがありました。どうやらこちらも同じ経営らしい(あとで調べると、地下鉄やバスなどの公共交通機関は複数の会社によって経営されており、バルセロナ都市交通公社 Autoritat del Transport Metropolità が運賃を一元化するなどして総合管理しているらしい。すばらしいではないですか)。位置関係をわかりやすくいえば西武球場前駅の西武狭山線と山口線みたいなものか。わかりにくいか。

 ケーブルカーのパラレル駅

 

PART 4へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。