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2 モンマルトルの丘とそのふもとを往く


 

 


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回以上もパリに来ていて、2016年夏のパリについて特筆すべきことがあるとすれば、

(1) とにかく暑い!
(2)
日本人観光客はどこに行った !?

という2点でしょうか。まあ暑いです。朝っぱらから30度を超えていて、正午を回ったいまは356度くらいあります。いわゆる猛暑日で、東京と何ら変わりがありません。元来パリは東京ほど夏も暑くなくてすごしやすいという経験則ないし先入観のせいで、そして元来そうであるため冷房の備わっていないところがけっこうあるせいで、余計に暑苦しく感じられます。これまでにも暑い日は経験したことがあるけれど、こんなに直射日光を感じるパリの夏は初めてかもしれない。まだ欧州ツアー2日目なのでここで夏バテしては目も当てられず、なるべく日陰を探して歩くことにしましょう。

もう1つのほうは原因がはっきりしています。昨年11月の同時多発テロ事件の強烈なインパクトが残っているせいです。フランスの新聞などを読むと、欧州各国からのツーリストも激減しているそうなので、ことさら日本人だけではないのでしょうが、私の頭の中で「観光するジャポネ」(お前だってそうだろという話はさておいて)はパリの光景としてセットされているので、妙な違和感があるのです。このところ目立っている中国人団体客もかなり減っているようで、いつも彼らのバスが止めてある区画もがらんとしていました。2月に来たときにもツーリストの少なさを感じたものの、1年近く経っても状況が変わらず、夏休みのハイシーズンでもこうだとすると、かなり厳しいでしょうね。私も学生などから「いま欧州に行っても大丈夫でしょうか」と質問されることがあります。きわめて遺憾ながら、大丈夫ですと断言する勇気はありません。いまだからこそ体感できるものはあるかもね、という言い方が精一杯のところです。


 
テルトル広場名物の似顔絵描き


ノルヴァン通り

 

 

 


サクレ・クールの北側は下り坂になっていて、かつて画家たちが好んで住んでいた地区に入っていきますが、そちらに下りないよう西に回り込んだところにテルトル広場Place du Tertre)があります。さして広くない長方形の広場で、周囲はカフェやレストランなどの観光系飲食店に囲まれており、中には自作の絵を売る人や似顔絵描きがたくさん。商売になるのかならんのか、来るたびに不思議に思います。いつもお世話になっている津田沼の歯医者さんは、欧州各地の景観が描かれた油絵を待合室や各ブースに掲出しています。院長先生の趣味のようで、その何枚かは見覚えのある町の様子なのだけど、待合室に飾られた大きな絵はこのテルトル広場に違いありません。絵を描くだけでなく絵になる景観でもあるようです。こういうところは、やっぱり晴天が似合いますね。

テルトル広場の北辺を西に向かうのがノルヴァン通り(Rue Norvins)。石畳の小径で、両側にカフェや土産物店が並ぶ、いかにも観光地的な一角です。店先でクレープを買って歩き食いする若い女性がちらほらいます。ただ、13時を回ったところなのに飲食店の入りは全体にいまいちのようで、暑さゆえテラスが回避されたということならばよいが、そもそも観光客の分母自体が激減しているせいだとすれば切ない。まあ、例の件がなかったとしても、このところ世界のツーリズムはSNSの普及などによりパーソナライズ(個人化)される傾向にあります。「売る」側が仕掛けたコテコテのコンテンツは喜ばれず、「私なりの旅、私なりの発見」というのを個々人が発信して共有されるという、これまでにない展開になってきました。私のこのシリーズもそんなテーストなので、新傾向は大いに歓迎。でもどこかで、「みんなはコテコテの観光やってくれよ。そうであればこそ私の独自性が光るじゃんよ」と勝手なことを思っています。



ノルヴァン通りのつづき 狭い坂道を、モンマルトルバスが気合で登る!

ムーラン・ド・ラ・ギャレット 


一連のツーリスティックな部分を抜け出すと、ノルヴァン通りは西に向かって下り坂になります。ここから先は住宅街の模様。とはいえ、モンマルトルの「丘」全体が一大散策エリアなので、見るからにツーリストという人たちが途切れることなく歩いています。パリという世界的首都の中に、鎌倉だか軽井沢が埋め込まれたような不思議な感覚。マルセル・エメ広場(Place Marcel Aymé)まで来て、方向転換し、今度は南に向かって歩きます。テルトル広場付近が最も標高が高いところなので、どちらに向かってもかなりの下り勾配になりますね。ケーブルカーで坂上まで登ったのだからそれくらいの傾斜であるわけです。一筋南のルピック通り(Rue Lepic)まで来ると、その角にムーラン・ド・ラ・ギャレットMoulin de la Gallette)の風車が見えます。道路が狭いのでなかなか風車の全容が見えにくいね。ここは19世紀半ばからベル・エポックにかけてダンスホールだったところで、ムーラン(風車)はそのシンボルだったのですが、いまホールはなくなってファサードの風車だけが残っています。ルノアールの同名の絵画で有名。ついこの前まで東京の展覧会に来ていたけど行きそこないました(以前にオルセー美術館で何度か見ています)。本体部分はレストランに。上等なのかなと思ったけど、コースで€29なのでさほどでもなく、観光地区であることを考えると安いかもしれない。

モンマルトルの丘の、狭くて勾配ばかりの道をぐねぐね走るのが、パリ交通公団が運行するモンマルトルバス(Montmartrebus)。もろ観光用ではありますが、普通の市バスなので、一日乗車券があれば自在に乗り降りできます。とはいえ今日は歩きの日なので(フュニキュレールのことは忘れてください 笑)、やりすごすことにします。見ているとけっこうな頻度で走っていて、窮屈な交差点を器用に曲がってくるのがすごい。


 
トロゼ通り


違法駐車の列にはまり込んだモンマルトルバス


少し下ったところを左折すると、自動車の通れない階段があって、その先はさらに下り勾配。トロゼ通り(Rue Tholozé)だそうです。モンマルトルバスはこの階段だけをよけて、さらにぐねぐね走っている様子ですが、途中で荷下ろしか何かのために停まっていたワゴンに引っかかり、身動きが取れなくなりました。運転士がクラクションを鳴らしてドライバーを呼び出し、何だかの駆け引き?があったのち、ワゴンのほうが後退して通り道を確保。それを横目に坂を下りると、やがてアベス通り(Rue des Abbesses)にぶつかりました。


地図を見ると、さきほど少しだけ歩いたルピック通りは、この界隈、つまりモンマルトルの山すそをぐるりと回り込んで逆向きになり、さらに折れて南に進むという、?を裏返したような不思議な形状をしています(グーグルマップでご確認ください)。同じ道が途中で名を変えるのが普通のパリではめずらしいのではないかな。モンマルトルの丘を、ふもとのほうからじわじわ回って登る道を最初につくった名残ということなのでしょう。




ムーラン・ルージュ

 

 

 


お隣はおなじみ、世界のスターバックス
テラス席の出し方がパリっぽくはありますね


あれれ、もう13時半を回っています。疲労回復を兼ねて昼ごはんにしよう。観光レストランは気が向かないなと思っているうちに、スタート地点から西に歩いてきた大通りの流れに戻りました。ロシュシュアール通りはこの付近でクリシー通り(Boulevard de Clichy)と名が変わっています。メトロ2号線のブランシュ駅(Blanche)のある交差点で、ああなるほど、世界でもっとも有名なキャバレーであるムーラン・ルージュMouolin Rouge)の前ということね。ここもベル・エポックからつづくショービジネスの殿堂で、前は何度も通ったことがあるけどまだ入ったことはありません。楽しいのかな?


赤い風車の向かい側に、ステーキチェーンのバッファロー・グリルBuffalo Grill)があったのでここで肉を食らおう。このシリーズにもちょいちょい出てくるイポポタムスほどではないが市内の何ヵ所かに店舗があります。入るのかなり久しぶりかもしれない。こちらはアメリカン・スタイルと銘打っていますが、ステーキとフライドポテトというのはフランスでは最も安直な食事ですので、さほど特徴があるわけでもないでしょう。Bavette d’aloyau(ハラミ)が€12.50とお手ごろなのでそれにしよ。暑い中を歩いてきたので、まずはトリビー(とりあえずビール)を発注すると、おなじみクローネンブール166425cL)が運ばれました。うわっ、美味い!! 肉はまあ普通ですね。この値段で上等な肉を期待しても無理というものです。安いステーキとポテトを食するとパリに来たのを胃袋で感じられる、ということではあります。ハラミにはエシャロットを炒めたものをソース代わりに添えるのが定番。インゲンは例によってくったくた(笑)。隣席の50代くらいの夫婦は英語を話していて、私が使っているのと同じ折りたたみの一枚地図(デパートのラファイエットが作成したもの)を見ながら何やら作戦会議をしています。


 エロ物屋さん

 


クリシー通りのグリーンベルト

 


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時半ころ町歩き再開。ムーラン・ルージュ界隈は昔からアダルト・ショップがやたらに目立つ地区でもあります。夜来たことはないけど雰囲気変わるのかな? メインストリートのクリシー通りそのものは中央分離帯の緑もさわやかな、けっこう快適な散歩道です。観光ということでいえばこれより西側にはさしたるスポットもないので、ツーリストの姿はほとんど見られません。

ムーランから西に2ブロック進むと、クリシー通りは120度くらいの鈍角を描いて左に折れます。振り向くとサクレ・クールのドームが正面に見える。こういう角度になっているのかと初めて気づきました。町づくりが上手だなあ。クリシー通りという道路名は左折して2ブロックのクリシー広場(Place de Clichy)まで。その先はバティニョル通り(Boulevard des Batignolles)です。なぜ折れているところで名が変わらないのかは不明。クリシー広場周辺は、盛り場というほどではないがそれなりの商店や飲食店の集まる地区で、メトロも2路線が乗り入れています。1つはずっとそれに沿って歩いている2号線、もう1つは左岸のモンパルナス方面からアンヴァリッド、サン・ラザールを経て北西に向かう13号線です。普段の行動パターンからしてほとんど縁のない路線。


 
モスクー通り

 

 
サン・ラザール駅を北側から見る

 


広場を離れて、バティニョル通りを南西方向に歩くと、イタリアの首都の名を冠したローム駅(Rome)の出口がありました。バス停もカフェの名にもロームの文字が見えます。実はこの周辺は欧州地区(Quartier de l’Europe)として計画され、欧州各国の都市の名がいくつかの道路名に付されているのです。クリシー広場のほう(東)から主だったところを挙げると、アムステルダム通り(Rue d’Amsterdam)、サン・ペテルスブール通り(Rue de Saint- Pétersbourg)、フローランス通り(Rue de Florence)、テュラン通り(Rue de Turin)、モスクー通り(Rue de Moscou)、ベルヌ通り(Rue de Berne)、そしてローム通り(Rue de Rome)。お気づきのように、アムステルダムをのぞけばフランス語訛りになっています。それぞれサンクト・ペテルブルク(ロシア)、フィレンツェ(イタリア)、トリノ(イタリア)、モスクワ(ロシア)、ベルン(スイス)のことです。国際著作権条約はなぜだか日本でもベルヌ条約とフランス語式で表記しますね。この南のほうにはロンドル通り(Rue de Londres)というのもあり、これはロンドンのこと。日本では慣習として定着したものをのぞけば現地でのメジャーな読み方を尊重するという方針ですので、カタカナ発音はどうなんだろうという件、そして中国の地名の「音読み」を置いておけば、まあパリのような勝手な読み替えはあまりしませんよね。花の都Parisをパリスでもパリージでもなく語末子音を読み飛ばして「パリ」といっていますし。

モスクー通りとローム通りのあいだで、きょう3度目のターミナル駅遠望となります。ここはサン・ラザール駅Paris- Gare Saint-Lazare)の北側。パリには方面別に6ないし7の国鉄ターミナルがあり、うち3つが今回の散策コースの少し内側にあるというわけで、要はかつての都市パリの周縁ぎりぎりのあたりにターミナル駅を設けていたということですか。サン・ラザールは北・北西方面へ向かう列車のターミナルで、首都に通勤する人たちの足としては非常に大事な機能を果たしているものの、観光色はほとんどありません。長距離便としてはルアン、ル・アーヴル、ドーヴィルなどノルマンディ方面を担当していて、最近では3年半前にル・アーヴルに日帰りで出かけた際に利用しています。サン・ラザール駅の正面入口(つまりいま歩いているところの反対側)はオペラ座の裏というような位置で、カルチェ・ラタンの常宿の前を走るためしばしば利用するバス27系統は同駅を起点にして左岸に向かう路線です。

 


 
リセの正面に掲げられたユダヤ人生徒追悼碑

 
(左)エベルト劇場  (右)バティニョル通りのグリーンベルト

 


SNCF
の線路を渡り越したところに、エベルト劇場Théâtre Hébertot)が見えました。戦前は芸術劇場(Théâtre des Arts)を名乗っていた名門シアターで、パリではめずらしく英語での上演が多いことで有名、だそうです。こちら方面に詳しくないのでごめんなさい。その向かい側にリセ・シャプタル(Lycée Chaptal)という学校がありました。リセというのは日本でいう高等学校のこと。どこへ行ってもグラウンドと直方体の校舎という組み合わせで、一目で学校とわかる日本の場合と異なり、フランスの都市部の学校は通りに面して普通の建物のように建っているので、生徒が出入りする時間でもなければ気づかないかもしれません。そして、1年前の6シリーズでも見かけたユダヤ人生徒の追悼碑が壁にはめ込まれていました。文面は「小学校」が「高校」に替わっているくらいなので、定型文なのかもしれない。ただこちらの文末には「同様にして、フランスでは11400人を超える子どもたちが殺された」という一文が記されていました。ナチスの蛮行にヴィシー政権が荷担して惹き起こした件ですので、近代フランスにとっては汚点というか消し去りたい記憶なのかもしれませんが、まあ事実ですからね。

このあたり、自動車の交通量はけっこうあるのだけれど、グリーンベルトを散策する人、ベンチでくつろぐ人はほとんどありません。時間帯のせいというより、この暑さゆえなのでしょう。午後になってさらに温度が上がってきたような気がします。東京の夏のようにじめじめするということではなく、ひたすら直射日光にやられているような感覚。携帯しているペットボトルの2本目が空になったところです。ゴールまではまだ2kmちかくあるぞ。

 

PART3へつづく

 

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