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2 サン・ルイ島とセーヌの眺め

 

 



アルコール橋から上流側を望む 正面がサン・ルイ島、右がシテ島
サン・ルイ島と対岸を結ぶ橋は左がルイ・フィリップ橋、右がサン・ルイ橋

 
(左)「効果的かつ経済的にドイツ語の個人レッスンをします」旨の違法ビラ
(右)もう、どこでもいいのね(嘆)

 


アルコール橋を再びシテ島側に渡ります。この先(東)のシテ島は、半円の半分(4分の1円)の形状をしていて、外縁は半径200mくらいのカーブを描きます。水路をはさんで上流側にサン・ルイ島が見えてきました。前々回来たときだったか、パリを発つ朝に搦め手からノートルダムにご挨拶しておこうと思って、メトロ7号線をポン・マリ(Pont Marie)駅で下車し、サン・ルイ島を縦断して歩いたことがあります。まあどこだってそうだけど、朝のサン・ルイ島はどんよりしていました。


シテ島から見た市庁舎


サン・ルイ橋

円弧状の外縁をたどってしばらく歩いた地点に、シテ島とサン・ルイ島とを結ぶ唯一の橋、サン・ルイ橋Pont Saint-Louis)があります。基本的に歩行者専用で、大道芸とか路上演奏がしばしばみられます。この日はロカビリー風のバンドが楽しそうにやっていました。


 

 

 


サン・ルイというのは13世紀の王ルイ9世(在位121470年)のこと。敬虔なキリスト教信仰を貫き、フランスに相対的な安定期をもたらしたため、没後にローマ教会から列聖されSaintの称号を得ました。迷走して目的がこんがらがってしまった終期十字軍の主導者のひとりでもあります。当人もエジプトとチュニジアのイスラム勢力を征討するべく親征し、チュニジアで病死しました。いまの価値観でいえば(そして中東側の視点でいえば)宗教的熱情がゆがんだかたちで現れ、ゆえなき侵略となり、結果的に何の成果も得られなかったわけだから、歴代最高の王などと称される理由がピンと来ないのですが、そうしたメンタリティを含めて答えは歴史の中にしかありません。歴史を現在の利害のために動員するときにはあれこれ注意が必要です(やったほうも、やられたほうも)。なお聖王ルイを英語読みするとセント・ルイスになります。米ミズーリ州の中心都市は、18世紀にルイジアナ(こちらはルイ14世に由来)を支配していたフランス人がミズーリ川を遡上して建設したことに発し、祖国の王の名を冠しました。

ここパリのサン・ルイ島は、一般には高級アパートが立ち並ぶセレブな地区とみなされています。とはいえ、パリ市内に戸建て住宅というのは基本的になくすべてが集合住宅ですので、見た目でセレブかどうかを判断するのは難しい。歩いている人の身なりなどにはそれを感じることがありますけどね。東西500mくらいの島の中央を貫通するサン-ルイ・アン・リル通り(Rue Saint-Louis en l’Île 島の中のサン・ルイという意味)がメインストリートで、ブティックや飲食店などが林立、というのではなくぱらぱらと展開しています。観光客が多いですがパン屋さんなど日常生活の風景もみられておもしろい。そして目立つのがアイスクリームの店頭販売。普通のカフェやレストランでもそういうコーナーをつくっていますね。ここサン・ルイ島に拠点を構えるベルティヨン(Berthillon)というアイス屋さんが卸した商品をあちこちで売っています。アイスは嫌いではないけど、なぜか今日は食べる(舐める)気がしない。ベルティヨンのは濃いからなあ。


 
サン-ルイ・アン・リル通り

 
 

 


こんな感じのブティック街はパリのあちこちにありますが、「島」だけあって道幅があまりなく、空が狭い感じが独特の雰囲気を出しています。いま歩いている人の大半は観光客、それも外国人でしょうね(当方もか!)。13時近くになっており、気温もかなり高くなってきました。この時季の日本のように蒸し暑いということはないながら、直射日光がけっこう強くて暑いな〜。


 
ベルティヨン本店は夏季休業中


メインストリートをそのまま東に歩いていくと、本物のベルティヨン、本店がありました。行列しているはずなのにと思って近づいてみたら、夏季休業中で、92日まで営業しない旨が告げられています。バカンスの時季だもんね。有名店とはいえ家族経営だそうなので、こういうこともあるわけか。本店とか1号店にこだわる向きがいることは承知しており、そういう方はぜひ巡礼でもしていただいて、そうでなければそのへんのお店で買えばいいんじゃないのかね。私かつてブリュッセルのゴディバ本店をスルーしたことがある(笑)。


 
小学校(通りの左手)の壁面に、強制収容された(déportés)ユダヤ系児童の慰霊碑
ナチスとともにフランスのヴィシー政府が「蛮行」に荷担したことを明記している

 

シュリー橋から下流側を望む サン・ルイ島(右)とトゥルネル橋、そしてノートルダム

 


大して広い島でもないので、いつしか東端まで歩いてきていました。このへんは店舗もあまりなくて、教会や学校がぽつぽつあります。観光客はお店のないエリアには関心がないらしく、ベルティヨン付近で引き返してしまうみたいですね。そりゃそうか。サン・ルイ島は横長の平行四辺形で、その東端部は、シテ島のヴェール・ギャラン広場と同じようにとんがっています。


サン・ルイ島の東端 由緒あるランベール館をただいま改築中!


シテ島の西端を串刺しにするように架かっているのがポン・ヌフでしたが、こちらサン・ルイ島の東端でも同じように道路橋が島をかすめて右岸と左岸とを結んでいます。名はシュリー橋Pont de Sully)。ここを通っているのは左岸の東西幹線であるサン・ジェルマン通り(Boulevard Saint-Germain)ですので、道路交通上の重みでいえばポン・ヌフに勝ります。歩いて見ようの記念すべき1シリーズで、バスチーユからカルチェ・ラタンに向かう途上でここを渡っていますね。シュリーはアンリ4世の有能な側近の名前です。

 上流側


シュリー橋を渡って、いったん左岸に出ましょう。そろそろランチどきです。ここから上流側はなぜか1kmくらい橋が架かっていない区間で、次はオステルリッツ橋(Pont d’Austerlitz)になります。この間の左岸側には、第1シリーズでも紹介したアラブ世界研究所や、広大な植物園があります。左岸の住民?である私にはおなじみのエリア。


 

 


この一隅には最高級フレンチのラ・トゥール・ダルジャン(La Tour d’Argent)がありますけれども、もちろん用事なし。一生用事ないな! どこかのカフェでサンドイッチか何か食べよう。ていうか、まだシテ島とサン・ルイ島めぐりの半分ちょっとをこなしただけなのだけど、疲労が足にきてちょっと休まないとやばい。ウェイトオーバー気味なのと、このところ立ち仕事をあまりしていないのが関係しているような気がします。別に誰に頼まれて花の都を歩いて見ているわけでもなく、脱落したところで何の問題も起こりませんが、せっかくはじめたテーマなのだから完歩したいですよね。

シュリー橋を左岸側に渡るとアラブ世界研究所があります。見渡すと、サン・ジェルマン通りの角に面してL’Institutというカフェないしブラッスリーが見える。アンスティテュというのは研究所の意味で、眼前のランドマークの名を拝借したのでしょう。こういうカフェのネーミングはよくあります。私もアラブとは無縁ながら、Institut de technologie de Chibaの一員ですのでアンスティテュには何となくシンパシーがあります(ウソ)。いま同店のサイトを見たら、正式にはLe Nouvel Institut(新研究所)という店名なんですね。窓際の席につき、クロック・ムッシュ(Croque Monsieur€10を発注。いつもなら生ビールというところ、ちょっとヒヨってペリエ€4.80にしました。のどが渇いていたのと、ビール飲んだら足のダメージがいったん薄れてもあとで増幅しそうな気がしたので。前回の歩いて見ようでもお昼にクロック・ムッシュ食べていますね。食パンにチーズとハムをはさんで焼くだけなので、どこで食べてもそうそう味の違いがあるわけではありません。耳の焦げたところがカリカリしていて美味い。ここのフライドポテトは揚げすぎで、ポテチにかぎりなく近い食感になっていました。野菜はフランスのカジュアルの通例どおり、とってもオイリー(笑)。満腹したものの、疲労回復の意味もあって、トータル1時間くらい滞留しました。


 
トゥルネル橋 (左)左岸側から (右)サン・ルイ島から


公共インフラを占拠?して営業中の古書露店


左岸側から見たところ 左がシテ島、右がサン・ルイ島

 


14
15分ころ散策を再開。シュリー橋はセーヌ川に対して60度くらいの角度で斜めに架かっているため、1つ下流側のトゥルネル橋Pont de la Tournelle)との間隔はサン・ルイ島側で広く、左岸側で狭くなっています。そのトゥルネル橋はスマートなアーチ橋。アシンメトリーな外観をしており、左岸側の橋脚部分にはパリの守護聖人である聖ジュヌヴィエーヴ(Sainte Geneviève 423512年)の立像が載せられています。西ローマ帝国末期の混乱の時代に生まれ、父からパリ市政の要職を引き継いだ女性領主。451年にアッティラのフン族がパリを攻略した際には住民らとともに粘り強く抵抗し、解放に導きました。その後に西ゴート族をもはね返し、最後の侵入者であるフランクのクローヴィスに対しては、同王も帰依したカトリックの聖人たちを祀る特別の地区の認定を勝ち取りました。中世初期の歴史はどこともカトリック正統史観で書かれているので実際のところはどうなのかよくわからないのですが、この女性が早い時期から「実質的にパリを築いた人」とみなされていたことは確かです。その本拠地が聖ジュヌヴィエーヴの丘、現在のカルチェ・ラタン地区ということになります。

 ラ・トゥール・ダルジャン


トゥルネル橋を渡り、再びサン・ルイ島へ。島の南岸はアパートが並ぶだけで店舗のようなものはありません。オルレアン河岸(Quai d’Orléans)という固有名詞が付されています。そのまま進むと、すぐにシテ島の東岸が見えてきます。ここからだとノートルダムを真後ろから望む感じになり、なじみ深い建物が違ったふうに見えますね。

花の都パリの発展は、1世紀ころローマ帝国が先住民であるガリアの部族パリシー族(Parisii)からシテ島を奪取したことに端を発します。パリシーは「田舎者」というような蔑称だったようで、元来ハナノミヤコでも何でもないわけだ。おもしろいのは、Citéと同義であるロンドンのシティ(the City)とは、古代都市の成り立ちの経過が共通している点です。いずれも河川の渡河地点に政治権力が拠点を置いたことに由来しています。陸と水の交通・輸送路が交わる点といってもいいですね。古代のこととはいえ、現在の都市の規模からすればずいぶん狭い範囲で経済活動がおこなわれていたのだと思う。先ほど見た裁判所のあたりが長くパリ市政の中心でした。中世に入り、有力市民を中心とした市政と王権との対抗関係が生まれ、ロンドンではテムズ川の上流側(ウェストミンスター)に王権が拠ったのに対し、パリではセーヌ川の下流側(現在のルーヴル方面)にカペー朝の権力が定着しました。



サン・ルイ橋から左岸側を望む 中央のドームはパンテオン


サン・ルイ橋付近のシテ島

 
ヨハネ23世広場




サン-ルイ・アン・リル通りの何でも屋さんでミネラルウォーターを購入して、サン・ルイ橋を渡り、2時間ぶりにシテ島に戻ってきました。橋上では先ほどとは別のバンドがまたにぎやかに音楽を奏でています。シテ島の南東端はノートルダム寺院Cathédrale Notre Dame de Paris)の敷地ですが、島の端っこと後陣とのあいだにわずかなスペースがあり、そこはヨハネ23世広場Square Jean XXIII)と名づけられた小公園になっています。きれいに剪定された樹が緑陰をなしていて、夏の昼間を過ごすのには非常によいですね。

 
アルシェヴェシェ橋にも錠前が・・・ 紫シャツの兄ちゃんは錠前売りのひとり!

 ヨハネ・パウロ2世像


ヨハネ23世は第261代ローマ教皇(在位195863年)で、冷戦に際して東西の融和を図ったほか、イングランド国教会やギリシア正教会とのコミュニケーションにも努め、ヴァチカンの現代化に寄与した人です。彼を聖人の列に加えた第264代教皇ヨハネ・パウロ2世(在位19782005年)の立像もこの付近に飾られていました。私にとって教皇といえばこの方。台座には「正義なき平和はなく、許しなき正義はない」との彼の言葉が刻まれていました。広島を訪れた際の「戦争は人間の仕業です」という日本語のメッセージも忘れられません。フランス共和国はライシテ(非宗教性)を国家原理に掲げているので、政治はもちろん社会・教育政策に宗教的な価値観が入り込むことはもはやないのですが、そもそもはカトリックの中心であり「ヴァチカンの長女」ともいわれるような国でした。カトリックあってのライシテ原則なのです。イスラムという対象を前にしたとき、その原則がどのように運用されるかというのは、まさにいまフランスが直面している大きな問題といえます。

 


   
ノートルダム寺院  

 
(左)シャルルマーニュ像  (右)大聖堂の内部


プチ・ポン越しに左岸側のサン・ジャック通りを見る


アルシェヴェシェ橋Pont de l’Archeveché)は手すりが金網のため例の錠前攻勢にやられてしまっています。すぐ下流側にドゥブル橋Pont au Double)。ノートルダムのファサード部分に直結する歩行者専用橋で、私が例のルーティンの最後に通るところです。創建850周年が祝われたのが2013年のことでした。パリでいちばん好きな場所でもあるので、着いた翌日と出発する朝には必ず訪れることにしています。ここ数年、外国人観光客がとにかく増えており、入場するのに2030分くらい並ぶことも増えてきました。いまも、朝来たときより列が長くなっているね。中国人旅行者の爆ツアーはここでも拡大の一途で、これも私が必ず通るドゥブル橋の南側の広くない道路にバスの集合地点があるらしくて、そのあたりは中国の人たち以外に見かけないくらいの勢いになっている。すごいねえ。


ドゥブル橋から見たノートルダム


行列が伸びている前庭には、カロリング朝フランク王国の2代目で「ローマ皇帝」として戴冠したシャルルマーニュ(Charlesmagne 在位768814年)の、堂々たる騎馬像があります。日本の教科書では「カール1世」ですね。

前庭の西端を横切るのがシテ通りRue de la Cité)。右岸側に渡るのがノートルダム橋で、そのあたりに妙な?砂浜がありましたよね。左岸側に進むとサン・ジャック通りRue Saint-Jacques)となり、ジュヌヴィエーヴの丘を登っていく道となります。これこそパリ最古の道路であり、古代ローマ街道の一角をなしていたと考えられています。並行する19世紀以降のメインストリート、サン・ミッシェル通りに比べればやはり地味だけど、歴史の跡みたいなものは存分に感じられますね。本格的にパリ・デビューしたころから私にとっても非常になじみ深い景観です。サン・ジャックは使徒ヤコブのフランス語読み。シテ島と左岸のあいだに架かるのがプチ・ポンPetit-Pont)で直訳すれば「小橋」です。ということで歩きはじめから4時間ちょっとで、出発地点に戻ってきました。


裁判所

 

 

PART3へつづく

 

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