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2 花の都のゴールデン・トライアングル

 

 


 
食前のアミューズはオリーブの酢漬け




アルマ橋のたもとまで来たところで1225分。セーヌ川と1時間半ぶりに対面――の前に、昼ごはん。大きな通りが交差するところには複数の飲食店があるというのがパリのパターンで、ここもそうでした。ランチだからカフェの軽食でいいかな。その名もル・ジョルジュ・サンク・カフェ(Le George V Café)というお店がありました。だいたいどこの道でも、通りの名をそのままもらったカフェがあるんですよね。表のメニューを見ていたら、客引きというわけではなさそうですが、若い男性店員さんがドアを開けて、さあどうぞと。テラスと店内のどちらがよいですかと訊ねられます。タバコが苦手なので店内を選ぶことが多いのですが(フランスでは法律でテラス席のみ喫煙できる)、いい天気なのと、ジョルジュ・サンク通りを眺めながら食事するのはいいなと思ったのとで、テラスに即決。

昨日は昼にレストランの肉料理、夜はホテルの部屋にキッシュを持ち込んで軽食でした。フランスにいると、注意しておかなければ肉類を食べすぎるので、そういうバランスを考えておきたい。今日の夜はステーキ食べたいんだよね。ということは、このランチはやっぱり軽めに。カフェめしの定番であるクロック・ムッシュ(Croque Monsieur チーズとハムを載せたトーストのオープンサンド)€13と、コート・デュ・ローヌ(Côte du Rhône 南仏の赤ワイン)のグラス€5.50。場所がらやっぱりちょっと高めです。今日はまだ3kmくらいしか歩いていないのですが、食事が美味い。クロック・ムッシュみたいなものに美味やまずいはなかなかないのだけどね。添えられているケチャップとマヨネーズはクロックではなくフライドポテト用。ポテト+マヨはベルギーの王道ですが、カロリー最凶です。1240分ころになると続々とお客が入ってきました。ランチタイムのど真ん中か。隣席には高級店の紙袋を提げた若い中国人女性ふたり。何となくメインランド・チャイナではなく在外華僑さんのような気がするな。ごっついステーキをとって、まずはスマホで撮影していました。当方も工程は似たようなもんです。食後のカフェ(€2.80)まで飲んで勘定しました。軽食といいながら昼からけっこうな出費ですが、安く済ませたい向きはパン屋さんでサンドイッチを買うといいよ。


 
アルマ橋そばにある「自由の炎」 バラの花とカップル錠が・・・

 

 
セーヌ川クルーズの1つ、バトー・ムーシュ(Bateaux-Mouches)の乗り場がある


今日のスタート地点だったシャイヨー宮とエッフェル塔を結ぶのはイエナ橋(Pont d’Iéna)。アルマ橋は、あいだにドゥビリー人道橋(Passerelle Debilly)をはさんだ上流側に架かっています。四角形の3辺をぐるっと回るようにして、またセーヌ川に戻ってきたわけです。橋の手前に金色の印象的なオブジェがあります。「自由の炎」(Framme de la Liberté)といい、自由の女神像の修復作業へのパリ市の寄与を称えてニューヨークから贈られたもので、なるほど女神像のたいまつみたいな感じですかね。が、1997831日の出来事が、この場所に違う意味を含ませることになります。新たな恋の行方を注目され、マスコミの追跡を受けた英国のダイアナ妃は、お相手とともに自動車でどうにか逃げようと試みますが、不運にもここの地下にある中央分離帯に激突し、そのまま亡くなってしまいました。

あれはもう18年も前のことなんですね。同時代を知っていないと、ダイアナさんの何がそこまで共感されるのかわかりにくいのではないかな。20代だった私も「人々の心のプリンセス」に惹かれたひとりでした。事故現場の真上にある「自由の炎」はそれ以後、実質的にダイアナさんの追悼碑になっています。アルマ橋を渡った左岸側にはRER-C線のポン・ド・ラルマ駅(Pont de l’Alma)があり、いま私がいる右岸側にあるメトロ9号線アルマ・マルソー駅(Alma Marceau)とは連絡駅になっているのですが、パリでは例外的に改札外乗り換え(橋を渡る!)となっています。



「黄金の三角形」 左のタテ道がジョルジュ・サンク通り

 
(左)ベルギーからフランスへの感謝のモニュメント (右)モンテーニュ通り

 


これからいま一度、シャンゼリゼのほうに向かって進みます。いま歩いてきたジョルジュ・サンク通り、これから歩くモンテーニュ通りAvenue Montaigne)とシャンゼリゼがほぼ正三角形をなしていて、世に「黄金の三角形」Triangle d’Or)と呼ばれています。何がかって、高級ショッピング街ということね。私の実質的なパリ・デビューは1999年なのですが、町たんけんをしていて何の予備知識もないまま「モンテーニュ」という知的な名前に誘われて入り込んでみたら、何とびっくりそこは名だたるブランド・ショップの林立する道でした。そのあとしばらく、モンテーニュ通りにもシャンゼリゼにも近寄らなかったので、地理的な位置関係はばっちりわかっているのですが、こちらも記憶があいまいです。

モンテーニュ通りの起点付近に、広場というより交差点のグリーンベルトみたいな場所があって、アストリッド王妃広場(Place Reine Astrid)と名づけられています。不勉強にして(というか無数にいる欧州の王族まで全部覚えられん 涙)アストリッド王妃という人を知らなかったのですが、スウェーデンの王女で、ベルギー王レオポルト3世の王妃になってわずか1年で事故死してしまった方らしい。その広くない広場の真ん中に、おとなの女性がふたり手を携えて子どもたちを保護しているようなモニュメントが置かれていました。台座には「フランスに、ベルギーは感謝する(À la France la Belgique reconnaissante) 1914- 1918」と書かれていました。第一次大戦中の連帯に対する謝意なのでしょうね。それもあって、アストリッド王妃が亡くなった翌年にこの場所にベルギーゆかりの名をつけたということらしい。フランスもベルギーも定冠詞はla、すなわち女性名詞で、とくにフランスは「ギリシア文明の長女」と自認し、また女神像マリアンヌ(Marianne)によって共和国を象徴するほどに「女性」なのですが、自力では生きられない子どものベルギーをフランス姉さんが保護してくれるようなニュアンスをモニュメントから読み取るのは邪推かな? ちなみに中国(la Chine)や韓国(la Corée du Sud)は女性名詞、日本(le Japon)は男性名詞です。苦情は私ではなくアカデミー・フランセーズあたりにどうぞ。



 
シャンゼリゼ劇場


モンテーニュ通りに入ってすぐ左手にシャンゼリゼ劇場(Théatre des Champs- Élysées)があります。シャンゼリゼ通りからいちばん遠いところにこの名をつけているのも何だかな。ここはフランス国立管弦楽団の拠点。

モンテーニュ通りは、第二帝政期のパリ大改造に際して、周囲の建物を強制排除するなどして拡幅されました。この地区に広々とした空間を設定して、都市としての文化的ゆとりを生み出したということですけれども、時期や主宰者から考えるに、革命防止策でもあったことでしょう。モンテーニュの名がついたのは1850年。いうまでもないながら、「エセー」で知られる16世紀の大思想家ミシェル・エイケム・ド・モンテーニュMichel Eyquem de Montaigne)に由来します。日本だけでなくフランスでもこの人を「モンテーニュ」と呼びますが、本来それは受領名(世襲する領地の地名)なので、苗字に相当するのはエイケム。「エセー」は、文体は易しいけれども読んでいるうちに文脈がこじれ、わかりやすいものが実は最も難解であるということを体感できるテキストかもしれない。大学院生のころたびたび読んで、いまも自宅のデスクの真横に置いてあります(聖書・大乗仏典・プラトンと並べてあるところが、われながら文系の教養人だ 笑)。


  
  
  
  


そんなモンテーニュ先生のご威光なのか、ここはパリでも最もデラックス(de luxe)な地区としてのイメージを強くもたれています。出店している各ブランドが協力して、地区の名を高める努力を重ねたらしい。東京の銀座もそうだったのですけど、このところグズグズになりかかっているのでがんばろうね。てなわけで、有名ブランドのブティックが文字どおり林立する様子を解説なしでごらんください。

 

 
 
 



モンテーニュ通りとシャンゼリゼ通りの合流地点


シャンゼリゼ側から見たモンテーニュ通り

 


日曜なのでブティックはすべてクローズ。ただ、いつものシャンゼリゼとは違って、この通りは人が押しかけてがやがやするということにはならないでしょうね。お客は黒塗りの車で乗りつけ、ドアマンがさっと招き込んで、音もなく物事が進行するのではないかと思う。半年前に、やはり同種のブランド街であるイタリア・ミラノのモンテ・ナポレオーネ通り(Via Monte Napoleone)を歩いたのですが、副詞でいえば「ひっそり」というのがいちばん合っていたように思います。

 

全長600mほどのモンテーニュ通りは、シャンゼリゼ通りとの交点で終わりとなります。ここは広場(place)ではなくシャンゼリゼ-マルセル・ダッソー円形交差点(Rond-Point des Champs- Élysées- Marsel- Dassault)という固有名詞になっています。マルセル・ダッソーは航空技術者出身で、のちに軍需産業を起こして資産家となり、最後は議員にもなった人だそうです。


フランクリン・D・ルーズヴェルト駅の駅名票

いま「黄金の三角形」の2辺を歩きとおしました。あらためてシャンゼリゼを振り返ると、正面にどーんと凱旋門。この構図を見て、「凱旋門は近いな」と思うのは早計で、1km以上はありますし、実は緩やかとはいえない登り坂です。初心者には下り(凱旋門を背にして、いまいる方向に歩いてくる)をお勧めしますが、神社仏閣の参拝みたいな感覚でいけば、上りもいいかな。ここ、シャンゼリゼ円形交差点の真下にメトロ1号線および9号線の駅があります。その名もフランクリン・D・ルーズヴェルト駅(Franklin D.Roosevelt)。そういう名の通りが交差点に入ってくるからなのですが、1駅先のジョルジュ・サンクといい、このあたりには「外国人」の人名がつづきますね。

 

 

PART3へつづく

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。