2月20日(月)は7時半ころ0階に降りて、レセプションの奥にあるダイニングで朝食をとります。パンと飲み物だけのコンティネンタルの国(フランス)から来てみると、中東欧はしっかりおかずがついてくるので食べ甲斐があります。町歩きの最中にお腹がごろごろいっても困るので、最近はパリ以外ではランチを軽めに、ときに省略することが多くなり、そのぶんビュッフェ式の朝食はもりもり食べようという方針です。おかずもいろいろあり、焼き野菜(とくに大きなマッシュルーム)が充実しているのはめずらしい。ハムやチーズの類を基本的にパンに載せる前提で並べるドイツ式と、別食いの英国式があるとすれば、この国というかこのホテルは両方を備えている模様。ただ、隣席にいる東アジア人の若い男が、あらゆる動作に対していちいち音を立てて食事するので不快で仕方ありません。海外から日本を訪れたヴィジターがラーメンやそばをすする音をハラスメント呼ばわりするのは心外ないし何かの侵害ですが、そういう意見に同調する人は自分が海外に出たならその土地の作法になるべく近づける努力をしなければなりませんね。
ザグレブにはきょう1日滞在して、明日の午前にはスロヴェニアに移動する心づもりなのですが、とくにどこを見たいという希望もなく、ひきつづきノープランの町歩きということにしましょう。9時ころホテルを出て、この日もまずは旧市街に向かいます。この時間帯はガスっていて遠くの見晴らしが利きにくいのだけど、欧州ではよくあることで、基本的には晴れの前触れです。前日は中央駅から旧市街に向かうメイン・ストリートであるストロスマエル広場を往復しましたが、変化をつけて、一筋西側のガエヴァ通り(Gajeva)を北に歩きました。飲食店がぽつぽつあるような、でも静かな道で、首都のど真ん中にしては閑静ですね。まあ朝はこんなものか。昨夜食事したレストランの周辺をひと回りしてだいたいの景観を押さえました。月曜朝だから、一般の社会人は気合を入れて職場に入った時間帯なのかもしれません。
朝のザグレブ市街地
昨夜イェラチッチ総督広場に設置された大型の観光地図を見たところ、ザグレブの市街地そのものは広くないが、郊外の部分がかなりの広がりをもっていることがわかりました。この日もブルーがあざやかなトラムは、基本的にはそうした郊外と中心部をむすぶ足として機能しているようです。イリツァ通りに立つと、福岡の西鉄バスかよというくらいの頻度で電車が往来していて、どれも結構な乗車があるのがすごい。郊外各方面からの系統がことごとくこの通りに集中するのでそうなるのでしょう。天神とか渡辺通り付近の西鉄バスみたいなものです(他に喩えが思い浮かばん)。この線路は1,067mm幅のいわゆる狭軌(JR在来線や首都圏の大半の民鉄が採用している軌間)のようです。車両も新旧いろいろあって趣き深い。
イリツァ通りの北側にかわいいケーブルカーが見えました。昨日も訪れた旧市街の高台が急な崖の上みたいになっているので、エレヴェータ代わりに敷設されているのでしょう。乗り物好きとしては試してみたいところですが、何となく高台の西側から歩いて登坂したいという希望が先に立って、スルーしてしまいました。往復したって10Knくらいのものだし、話のタネに利用しておけばよかった。規模としては、パリ・モンマルトルの丘にある参拝者用のケーブルカーと似たようなものです。リスボンのやつはもう少し距離と高低差がありました。
(左)旧市街の高台に登るケーブルカー (右)スラヴ系言語はそもそもどう発音したらよいのかもわからん・・・
現在の中央クロアチア地方に最初の痕跡を残したのは紀元前のイリュリア人(Illyrians)、つづいて前4世紀ころにはケルト人がこの地方に定着しました。ローマ帝国がこの地に進出したのは紀元後1世紀ころで、ザグレブの南東にアンダウトニア(Andautonia)という都市を建設しています。ローマの属州パンノニアの重要拠点だったようです。しかしその後の民族大移動などもあって安定した政治勢力が定着することはありませんでした。交通の要衝ということはそれだけねらわれやすく、さまざまな民族が出入りしやすいということでもあるのでしょう。また、歴史に詳しい人ならおわかりのように、中世の前半は欧州全域で封建化が進み、広域を統治する勢力はほとんど出現しなかったのです。動きがはっきりするのは、ハンガリー王ラースロー1世(I. László)がその勢力を拡大する中でこの地方を制圧し、カプトル(Kaptol)の丘に拠点を築いた1094年のこと。ハンガリーは内陸の勢力なのでアドリア海への進出を果たしたかったようです。カノッサの屈辱(1077年)などもあって神聖ローマ皇帝の勢威が後退していた時期だったことも幸いして、ラースローはダルマティアを獲得することができました。現在のクロアチアの主要部分がこのときハンガリーの支配下に入ります。ただしハンガリーは長く在地勢力にクロアチアの統治を委任し、宗主権を保持するというかたちを採っています。
カプトルはあとで訪れましょう。旧市街の高台は隣接して2つあり、東側のほうです。対して西側、これから登ろうとする山(昨日少しだけ歩いたところ)がグラデッツ(Gradec)と呼ぶ地区です。13世紀のハンガリー王ベーラ4世(IV Béla)は王子のときからスラヴォニア、中央クロアチア、ダルマティアの統治を担当していましたが、王位を継承して6年後、はるかアジアの平原から長駆して欧州に進撃したバトゥ(チンギス・ハーンの孫)率いるモンゴル軍との決戦に敗れ、初めブレスブルク(現在のスロヴァキアの首都ブラチスラヴァ)に逃れ、つづいて現在のザグレブ、さらにはダルマティアに移ってハンガリー本土をモンゴルに明け渡すことになります。グラデッツに要塞を築いたのは1242年のことですが、カプトルだけでは引き連れてきたハンガリー人を収容することができなかったためではないかと思います。しかし神聖ローマ皇帝やローマ教皇などの支援を得られなかったので、モンゴルのさらなる追撃をかわすため、短期間でザグレブを離れたのでしょう。ほどなくモンゴル本国で2代皇帝オゴデイ・ハーンが死んだため、バトゥの軍はいともあっさりとアジアへと去っていき、ハンガリーとクロアチアは難を逃れました。暮れのマカオの記事で元軍による南宋の滅亡(1279年)に触れていますが、はるか欧州の話で同じようなネタを持ち出すというのは13世紀史のすごさゆえですかね。この地にとっては一陣の嵐のような「蒙古襲来」でしたが、今日のザグレブの中核がその出来事によって生まれたことになります。16世紀にバルカン半島を制圧したオスマン帝国もこのあたりまで抑えることはできず、ザグレブは対オスマンの防衛拠点として機能し、18世紀にはオーストリアまたはハンガリーの手に戻っています。もとより「クロアチア」としての独立はまだまだ遠い先のことです。
(以上ザグレブの歴史についてはザグレブ観光局公式サイト http://www.infozagreb.hr/about-zagreb/basic-facts
を主に参照しました)
メスニチェカ通り かなりの急勾配です
昨日、グラデッツの展望台からマリーナ・ウズネセーニャ大聖堂を望んで、「城砦に拠る世俗権力との関係がどうだったのか気になります」などと記しました。大聖堂があるのがカプトル、城砦と書いているのがグラデッツのことで、あとから歴史の本で調べたらその「関係」はやっぱり対立関係だったことがわかりました。両者が競合し葛藤しながら歴史を歩み、1850年になって統合され、晴れてザグレブ市となりました。鉄道が開通したのは1862年だそうなので、おそらく19世紀後半に産業化と新市街の形成が急速に進んで、昨日から見ているような広がりが生まれたのだろうと思います。ずいぶん最近まで小さな丘の上、それも2ヵ所に分かれて都市生活がおこなわれていたわけですね。
ケーブルカーの一筋西側、といってもこのあたりはどこでも急な崖なのでしばらく登るルートがなく、数百メートル進んだところに切り通しのような登り坂を見つけました。これがメスニチェカ通り(Mesnička)。味わいのある石畳の道なのだけど、自動車はここを通るしかないので交通量が意外に多い。車に用心しながらゆっくり、じわじわと登ってみます。途中から勾配がさらにきつくなりました。「上の町」に向かう急な階段も見えます。中世の政治勢力が立てこもりたくなるのもわかるねえ。ケーブルカーなら1分もかからないであろうところを、500m以上大回りして、20分くらいかかって登坂することになりました。それにしてもこの坂道はすばらしい景観です。ごちゃごちゃした都会でもなく、生活のにおいばかりの地区でもなく、おそらくは歴史に由来する気品と調和が感じられます。
マルカ広場は「国の中心」と呼ぶにはあまりにこじんまりした場所 (左)聖マルカ教会、その左にあるのが首相官邸 (右)教会をはさんで反対側に議会議事堂
そうしてついに丘の上にたどり着きました。各種の博物館がありますがいずれも小規模。ぐるりと回り込んで、聖マルカ広場(Trg
sv.Marka)に出ました。ケーブルカーで来ていれば上の駅を降りてそのまま直進した場所にあります。つまりは平地の人々を睥睨(へいげい)する好立地。直径100mもあるかどうかというカワイイ広場で、そもそも中世の都市というのはそのくらいの規模だったのでしょう。やはりベーラ4世がモンゴル軍を避けて逃げ込んだブラチスラヴァ城を訪れたことがありますけれど、そちらも急坂を登った先に小さなサミット、そして小さなお城でした。いずれも近代都市になるにあたって、丘の上の旧市街をシンボリックな場所にしたまま平地に諸機能を移したのだと推測できます。あ、エストニアのタリンもそうだったな。「近代都市になる」タイミングが、慣れ親しんだ西欧の首都などとは少し違っていたせいかもしれません。
広場の中央に、これまた小さな聖マルカ教会(Crkva sv.Marka)。創建が14世紀にさかのぼるグラデッツのシンボルで、もちろんカトリックです。屋根がクロアチア国旗と同じ赤・青・白のタイルでモザイク模様に彩られているのが非常にめずらしく、美しいですね。正面に向かって左に行政の中心、首相官邸(Ured
predsjednika Vlade republike hrvatske)があります。首相官邸といいつつ原語にプレジデントらしき文字が含まれているのでおや?と思うのですが、議院内閣制を採るクロアチアの実質トップが首相(premijer)でその主宰のもとにあるのがクロアチア共和国政府(Vlada republike hrvatske)、大統領はハンガリー王国総督の呼称バン(Hrvatski ban)をそのまま継承し、元首ではありますがほとんど権限がありません。この小さな館は本来的には「バンの宮殿」であり、そこに政府機関が一式入居しているというものです。教会をはさんで反対側にはクロアチア議会議事堂(Hrvatski
savor)。こちらもさほど大きくない建物。小国とはいえ一国の政府がこれらに収まりきれるとは思えないので、平地のあちこちに分室が設けられているのではないかと思います。権力分立がどうなっているのか気になるところではあるけれど、ユーゴスラヴィア時代には民主主義そのものが存在しなかったのだし、EU加盟時に政治体制のチェックもきちんと受けているので、問題はないのでしょう。なおクロアチア(Croatia)というのはラテン語系の綴り・発音で、現地のクロアチア語ではHrvatskaと綴ってフルヴァツカと呼称します。Hの単独子音が語頭に来るのがいかにもスラヴ語ですが、クロアチア/フルヴァツカであればジャパン/ニッポン(ジッポン)の訛り方とさほど変わりないですね。インターネットのカントリー・ドメインは.hr。中東欧の国名は英語経由で日本に入ったものが多いらしく、現地語でポルスカ(Polska)と呼ぶ国を英語風にポーランド、マジャル(Magyar)と呼ぶ国をハンガリーといっているのとだいたい同じパターン。
衛兵や警備員の姿もなく、いるのはカメラをもった中国人のツアー客とカメラをもった私くらいという、権力の中枢とは無縁に思えるマルカ広場ではあります。私のような町歩き派にはいいですけど、アトラクション的なものとかインスタ映えするものが好きな人には、いまいち盛り上がりがないように感じられるのかもしれません。味わい深くていい町ですよ。マルカ広場をあとにして、その裏手に伸びるオパティチカ通り(Opatička)という、ぎりぎり対面通行できるかどうかという小さな道を北に進みました。まだ少しばかり上りの傾斜がついています。地図によればそのあたりから階段を下って、昨日少しだけのぞいた飲食店街のイワナ・トカチッチ通りに出られるようなので、そこをめざそう。オパティチカ通りが東に大きなカーブを描いたところに、建物のすきまというべき路地があって、その先が階段のようです。気ままな一人歩きはいいねえと思うものの、たとえば若い女性が一人で誰もいない路地を歩いていて大丈夫なのかと聞かれると私にもよくわかりません。海外旅行の作法というのもなかなか難しいもので、自在に歩いてよいかどうかがわかるようになるまでは自在に歩いてはいけない、というところでしょうか。4度目の年男であるベテランの私は当然そのまま進みまして、路地の先、つまりグラデッツの東縁というべき崖の上に出ました。かなり狭いながら展望台っぽくなっていて、ザグレブの景観をどうぞ見ていってくださいという歓迎が感じられます。
木板をはめ込んだ階段を下ります。これもちゃんとした公道。蛇行して急勾配を緩和していてもなお急な下りで、いったん道路に出ますがその先でさらに長めの下り階段。重ね重ねグラデッツの堅固さを思い知ります。イワナ・トカチッチ通りに出てきてみれば、まだ10時半を回ったころなので昨日ほどのにぎわいもなく、ランチ営業に向けて各店舗が準備するといった状況です。ただ何となくつくりものっぽさ、安っぽさがあってこの飲食店街はあまり好きくないなあ。少し南(イェラチッチ総督広場の方向)に進むと、左(東)側に石壁と、壁面の穴を抜けて通じる階段がありました。
いったんイワナ・トカチッチ通り(左上)に出てから、また階段でカプトルの高台へ 土産物店の並ぶ先に大聖堂が見えてきた!
階段を登ったところにオパトヴィナ公園(Park
Opatovina)があり、その敷地を抜けると聖フラーニョ(フランシスコ)教会の小さな建物が見えました。小さなというけれど先ほどの聖マルカ教会よりもずっと大きく、こちらカプトルはやはり宗教的権威が優越する高台だったのかな? カプトルの西縁にはグラデッツほどの高さはなく、ちょっとした崖の上という感じですが、そこに沿ってオパトヴィナ通りが南北に走ります。両側には飲食店や土産物店、古着屋さんなど。観光仕様なのかと思えば完全にそうともいえず、明らかに地元のおじさん風の人もけっこう多いです。どちらかというと生活の世界なのでしょう。やがてカプトルのシンボルであるマリーナ・ウズネセーニャ大聖堂(Katedrala Marijina Uznesenja)が見えてきました。日本語では聖母被昇天大聖堂と表現します。創建は13世紀ということなのでライバル?の聖マルカ教会とほぼ同じころ。現在の建物の主だった部分は19世紀に再建されたもので、ネオ・ゴシック様式を採用しています。だから本物のゴシックであるパリのノートルダム(13世紀の建物)と造りや内観がよく似ていますね。
特徴的なのは、大聖堂の周囲をかなり頑丈な壁状の建物が取り巻いていることです。カプトル自体が城砦なのですが、そのまた内部の城砦として軍事基地化する可能性があったのかもしれない。この部分は16世紀以降に築かれました。14世紀以降にバルカン半島南部に割拠していたイスラーム政権であるオスマン朝は、1453年に東欧の都であったコンスタンティノープルを陥落させ(現イスタンブール)、16世紀前半には大帝スレイマン1世のもとでバルカン半島全土の制圧をめざして軍を欧州の奥深くに進めました。この地の宗主国であったハンガリーは最盛期のオスマン朝に呑み込まれてしまい、スラヴォニアの大半も屈服しましたが、ザグレブ地方は踏みとどまりました。ハプスブルク朝はこのあたりにクロアチア軍事辺境地帯(Hrvatska vojna krajina)を設定して、防衛の最前線を担わせます。一国のフロンティアというだけでなく、キリスト教世界の最前線であったわけです。同じくスレイマン1世の猛攻に耐えたマルタを1年ちょっと前に訪れており、そのころの歴史が頭の中でつながってきました。なお隣国ボスニア・ヘルツェゴヴィナがクロアチアの国土に食い込むようになっているのは、このときオスマン朝が支配下に組み込んだボスニアとハプスブルクの下に残ったクロアチアの境界線の名残です。クロアチアがキリスト教世界のフロンティアだったのと対照的に、ボスニアはオスマンにとっての対欧州最前線であり、有力な住民のイスラーム化が進みました。私がボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪れるのがいつになるのかわからないので、ここで少々書いてしまいますが、バルカン半島というか欧州の中でこのボスニアだけイスラーム濃度(本当は宗教というより文化のほうらしい)が妙に高くなったことが、のちの悲劇につながりました。オスマン朝の後退とともに域内のキリスト教徒たち(といっても正教とカトリックがいる!)が独立を指向し、これにロシアとハプスブルクが絡んで、当地は一挙に国際的な係争地になっていきます。教科書にも出てくる1878年のベルリン会議(ビスマルクが主宰した)で、ボスニアはオスマン朝の宗主権を維持しながら統治権はハプスブルク朝オーストリア・ハンガリー帝国が獲得、1908年には同帝国が正式に接収しました。これが域内のセルビア正教徒たちを刺激し、彼らの心情的な母国であるセルビアと、その背後にあるロシアを挑発する結果となって、第一次世界大戦の勃発へとつながっていきます。――あくまで社会科の教科書の話として理解していたボスニア・ヘルツェゴヴィナでしたが、私が社会科の先生になったあとでまたしても火薬庫と化します。ボスニア紛争(1991〜95年)は、悲惨な地上戦が欧州の一隅でたたかわれたというので私にとっても大きな衝撃でしたが、セルビアを悪者にするようなかたちで戦争を終わらせ、ボスニアの国家建設をおこなったのちも、民族対立の問題がなくなったわけではありません。このボスニア紛争の直接のきっかけとなったのが、1991年のクロアチアのユーゴからの独立でした。
マリーナ・ウズネセーニャ聖堂 カテドラルを取り巻く白亜の建物は城砦の中の城砦として機能する
チトー時代のユーゴスラヴィアは、一党独裁の社会主義国でありながら日本を含む西側世界に好かれる国でした。それは一にも二にもソ連と対立し独自路線を採っていたからです。東側の頑迷さを批判するための仕掛けとして利用されたわけで、西側にとって都合のいい国ではありました。ただ、チトーのハンドリングはそれとして、ユーゴの内情が親ソ連の社会主義国よりよかったのかといえばそんなこともなく、私たち西側はそのあたり見ないふりをしていたのでしょう。ゴルバチョフの登場ではじまった東欧の民主化は1989年に一連の「東欧革命」としてクライマックスを迎え、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ルーマニアの共産党政権が連鎖的に倒れました。冷戦世代の私としては、「あの」冷戦が激しい戦闘を経ないまま収束したことに驚きと希望を覚えました。たびたび申すように、現実社会のすさまじい変化を前に歴史の先生になる道をやめて、教育学に転向しようと決めてしまったほどです。それにしても、親ソ連諸国が曲がりなりにもソフトランディングに近いかたちで民主化したのとは対照的に、反ソ国家で西側フレンドリーだったはずのユーゴスラヴィアは、どこよりも激しく悲惨な「戦争」によって体制がぼろぼろに崩壊することになります。クロアチアにしぼっていえば、東欧革命に煽られて、ユーゴスラヴィア連邦のセルビア化を推進するミロシェビッチへの反発が高まり、1991年に入るとキリル文字の禁止などの民族化(つまりはユーゴからの自立)を進め、ついには連邦からの独立を住民投票に問うて9割以上の賛成を得ました。しかしボスニア国境付近に多く住んでいたセルビア系住民はこの投票をボイコットしています。ユーゴスラヴィア連邦全体ではマジョリティのセルビア人が、各共和国が自立すればセルビア以外ではマイノリティに転落します。旧ソ連の各共和国で起こったのと同種のマジョリティ・マイノリティ問題が、ここでは実際の戦闘になってしまいました。クロアチア領内のセルビア人の多い地域は「独立国」であるクライナ・セルビア人共和国(Република Српска Крајина)をつくって対抗します。当然ながらこれは実質的にセルビアの一部として機能し、ボスニアにおける同種の地区とともに、一時はセルビア側が優位に立ちました。しかし1995年8月、平和的な解決を模索する国連やEUの監視部隊などを退去させたクロアチア軍は、15万を超える地上兵力をクライナ共和国に電撃的に進軍させ、主力を分断させたまま孤立した部隊を降伏させるという嵐作戦(Operacija Oluja)を発動、同盟関係にあるボスニア軍とともに、国境地帯のセルビア人たちを屈服させます。
率直にいって当時もいまも、日本を含む西側の世論はクロアチアに好意的、セルビアに冷淡ですので、そうしたストーリーの実際がどうであったのかはもうしばらく経たないとわからないのかもしれません。結果としてクロアチアは連邦構成国だった当時の国境を保全した上で完全なる独立国となり、12%ほどだったセルビア系の人口は5%を割り込みました。意図したものか否かはともかく、1990年代の最も忌まわしきワードである民族浄化(etničko čišćenje / ethnic cleansing)が果たされてしまったことになります。この民族浄化なる語も、セルビア側が用いる場合には「他地域のセルビア人は民族浄化の危機に立たされている」と自国内向けに宣伝(喧伝)することで排他主義と愛国心の高揚を呼び込み、クロアチア側が用いればボスニアやクライナのセルビア人支配地域で「セルビア人が他民族を殺している」というプロパガンダになりました。実際に戦争がおこなわれていた1990年代以来、私は何度か公民の授業で旧ユーゴスラヴィア紛争を取り上げているのですが、生徒だけでなく自分でも納得できないことが多すぎて、いまだに本格的な話にはいたっていません。今後しばらくそうでありつづけるような気がします。
大聖堂でしばらく休んでから、カプトルの南斜面(というほどの傾斜ではない)を下ってイェラチッチ総督広場に出てきました。広場の時計は11時15分。グラデッツ、カプトルという2つの高台をゆっくり回ったつもりでしたが、案外早く一周してしまいましたね。あらためて中世の城砦の規模が体感されます。今日はまだ午後が残っているので、西郊のサモボル(Samobor)にでも行ってみようかな。スロヴェニアとの国境に近い山中のリゾート都市で、何があるというわけでもないのですが、ザグレブから日帰りで行けるようなところってそれくらいなので。総督広場の電停でトラム6系統をつかまえ、中央駅を通り過ぎて、空港からのバスが到着したバスターミナル(Autobusni Kolodvor Zagreb)に向かいました。着いたときには空港でいう到着フロアのみ利用していたので出発フロアには初めて足を踏み入れてみますが、路線図を見ると、片道数時間というような長距離線ばかり。ああなるほど、ここは完全に空港に匹敵する「よそゆき」のターミナルのようです。ガイドブックには、サモボルへはバスでとしか書かれておらず、どこから乗るべしという指示がないので、てっきりこのターミナルだとばかり思っていたのですが、どうやら中央駅裏から出るらしい(この翌日に確認したらやはりそうでした)。バス路線の長さによってターミナルを分けるというのは普通ですが、その基準はまちまちで一般論などはありません。バス王国である九州には大型のバスターミナルが多いのですが、たとえば博多駅横の博多バスターミナル(旧称福岡交通センター)には長距離高速バスも来れば市内路線バスもやってきます。市内バスは駅周辺の路上に発着する系統もあって、とくに理屈立てた整理はないみたいです。私が実家に向かう際にはターミナルでなく路面を使うわけですけれど、ヴィジターには判断できないですよね。新宿駅南口にできたばかりのバスタ新宿は、関東甲信越はもとより東北、東海、北陸、関西、中国、四国、はては博多駅行きの夜行バスまで発着しますが、一方で羽田・成田への空港バスも出入りします。これはザグレブと同じパターンということか。ただ、バスタ新宿は駅の真横ですし、空港バスはバスタに入る前に京王百貨店前で大半の乗客を降ろします。ザグレブ空港に着いた客が高速バスに乗って地方に向かうというケースがそれほど想定されているわけではないと思うのに、空港バスが中央駅前や中心部に入らないというのはやっぱり不便だよなあ。
ということで、郊外エクスカーションは早々に断念して、後学のためにターミナルを少々観察。この時間帯はさほどの乗客数ではなく、広い構内ががらんとしています。それこそ福岡や熊本のターミナルに似て、食堂や売店などがいくつも設けられていますね。改札口はあるのですが無人で、開放されていたため、中に入ってみると、地平にいくつかのプラットフォームがあり、その頭上に広い待合スペースがあるという構造でした。鉄道の橋上駅舎に限りなく近いものだと考えればわかりやすい。
ザグレブ・バスターミナル
トラムに乗って中央駅に引き返します。せっかくなので駅構内の見物と、可能ならば明日ここから乗車する列車の切符を手配しましょう。昨日見たように駅舎はシンメトリーな外観で、なかなか重厚です。どこといえないのだけど日本のどこかにもこの手の駅舎があったような。それと、実際に見たことはないのですが、駅前ののびやかな道路・公園の配置を含めて、その昔の満鉄(南満州鉄道)がこういう感じだったのではないかと思えます。コンコースは思いのほか狭く、東京の民鉄で急行の停まらない駅くらいの規模。吹き抜けの天井は堂々としています。電光掲示の発車案内板を見ると、12時台だけでも8本が出発するようで、それなりの需要はあるのでしょう。明日はこのうち12時37分発の列車を利用するつもりです。欧州に来る前、自宅のPCでクロアチア国鉄(Hrvatske
željeznice)およびスロヴェニア国鉄(Slovenske
železnice)のサイトを開いて、ザグレブ→リュブリャナの指定券をとってしまおうと試みたのですが、運行ダイヤは見られるものの国境を越える便の予約はできませんでした。仏独など狭義の「西欧」は予約システムが一元化されているので、どこから入ってもたいてい国際列車のチケットをとれるのだけれど、ここはまだ東欧のままなのか、戦争のダメージを引きずっているのか、ともかく発券システムがITと連動していない模様なのです。経験者のブログなどを2、3見てみると、その場で買えるし、さほど混雑もしないので大丈夫という感触ではありました。
狭い構内なのにパン屋さんがなぜか2軒あるそばを通り抜け、チケット・オフィスに通ると窓口が3つ。その雰囲気は私が子どもだったころの国鉄(現在のJR)の駅そのもので、不思議となつかしい。そのうち右の窓口にinternationalと英語の表記が見えたので、中年女性の駅員に、明日のインターナショナル・チケットを入手できるか、それとも当日扱いなのかと英語で訊ねてみました。すると「いまここで発券することもできますが運賃は変わりません」とのこと。出発直前に焦らなくてもいいように、いまここで購入してしまいましょう。――ジャスト・ナウ、プリーズ。「どちらまで行かれますか?」
――リュブリャナです。シングル・チケット(片道切符)を1枚。すると彼女は端末に向かって入力・・・するのではなく、領収書と同じタイプの横長ノートを取り出し、必要事項をささっと記入し、2ヵ所にスタンプを押しました。隣接する国の首都に向かうというのに、発券システムどころか手書きのチケットというのはまたまた謎。長距離便とか夜行列車ならそうはいかないでしょうけれど、リュブリャナまでは座席指定もないようなので、さようにアナログなやり方でも間に合ってしまうのでしょう。でも、それほど流動がないというのも不思議で、あるいはバスや自家用車での移動が多いのか、そもそも国境を越える移動そのものが少ないのか。いまのところクロアチアはシェンゲン圏に含まれず、スロヴェニアへは文字どおりの国境越えを伴いますからね。
ザグレブ中央駅 駅前広場に面して中央郵便局があるというのは日本各地でよく見るレイアウト
ザグレブ→リュブリャナの片道切符を手書きで発券してもらう Lの書体が独特ですね スタンプのHŽはクロアチア国鉄の略号
リュブリャナまでの片道切符は6786Kn。クーナの相場というのがまだピンと来ないままなので高いのか安いのか瞬間的に判断できません。事前にネットで調べたときには片道€9とありました。計算するとだいたいその金額に見合う数字なので、国際列車はユーロ建てで運賃が設定されているのかもしれません。ベテランの域に達している私も長いことシェンゲン圏かつユーロ圏を足場にしているため、「国境を越える」とか、「異なる通貨で計算する」といった作法が実は身についていない。ちょっと前まで欧州でもこれがスタンダードだったわけですよね。でも、さらに考えると、クロアチアとスロヴェニアはもともと「同じ国」だったのであり、欧州統合とかグローバル化が回りはじめたころになって、逆に厚いボーダーができてしまったことになります。まったく何ということだろう。この手書きチケットはまさにカーボン紙のついた手書き領収書と同じスタイルで、いまどきなかなかない味わいがあります。切り取ったあとで台紙にホチ止めされました。国境越えの乗客に一応?合わせて、細かい文字の約款はクロアチア語のほかフランス語、ドイツ語で記述されています。――んん? なぜ英語がない? 表紙の有効期日欄にはdona od / jours à partir du / Tage vomとやはり3言語。もしかすると英語版もあるのかもしれないけれど、鉄道網が整備されたオーストリア・ハンガリー帝国時代の「国語」であるドイツ語と、そのころの普遍語であったフランス語を慣習的に採用しているとか? 私はたまたまフランス語を読めるので問題ないですが、外国人ヴィジターにとっては英語がいちばんありがたいのはいうまでもありません。おばさま駅員は普通に英語を話していたので、口頭のやりとりでカバーしてくださいということなのかもしれない。まあ日本の切符だってあまり親切ではなく、「6号車10番A席」なんて書かれていても漢字の意味がわからないですもんね。
駅まで来たのでいったんホテルに戻って小休止。昼を回っているのだけどさほどの空腹ではなく、やっぱりランチ省略でよいことにしましょう。そのぶん早めに夕食をとって、夜は部屋でのんびりパブタイムという方針に決めました。もし小腹がすいたらパン屋さんはあちこちで見かけるので利用すればいいしね。
青果市の周辺
14時ころ再び出動して、今度はホテルの目の前を南北に走るペトリニースカ通り(Petrinjska)を北に歩きます。今朝はストロスマエル広場の西側、今回は東側を並行する道路を歩いて中心部に向かっているわけです。こちらの道には小型スーパーとかパン屋さんなどの日常生活型の店舗がちょいちょい。よさげなレストランも見かけたので、他に候補がなければ夕食に利用しよう。勝手知った感じでイェラチッチ総督広場を通り抜け、マリーナ・ウズネセーニャ大聖堂の正面を過ぎて、青空青果市場(Dolac)が開かれている正方形の広場に出ました。朝は準備中でしたがこの時間はかなりにぎわっていて、地元の人と店員が親しげにやりとりする光景がみられます。見るかぎりでは野菜・果物にさほどの違いがあるとも思えず、品ぞろえも各店似たようなものなのに、共倒れしないで成立しているのが興味深い。おそらく長年の顧客というのが支えているのでしょう。果物って好きなのですが東京でも買って食べるほどではなく、欧州に来ても絵として消費するばかりです。
そういえばデパートとかショッピング・センターのたぐいが見当たりません。とくにほしいものがあるわけでもないのだけれど、そういう商業施設ってその町の様子をよく表しているので好きなんですよね。欧州遠征では恒例にしている自分用のネクタイ購入を果たしたいところで、ここはデパートではなく路面店、それもネクタイ専門店という敷居の高いところに行ってみることにしましょう。総督広場の2筋西側、屋根つきパサージュの真ん中に、クロアタ(Croata)が見えました。日ごろかかわりのない上等な店構えに多少ひよりかけますが、せっかくここまで来たので入らなくてどうするよ。
元祖ネクタイのクロアタ(下は同社の日本人向け絵はがきより)
ネクタイの故国はクロアチア、ということを私はご存知でした。きわめて初期の「世界ふしぎ発見!」でユーゴスラヴィアを特集していた回があって(ということは私が高校生のころでしょうね)、ネクタイというのはルイ14世がユーゴスラヴィアの民族衣装を取り入れて標準化したのだというクイズでそのことを知ったのです。考えてみれば17世紀にユーゴスラヴィアなどという国や民族が存在するはずはないのだから、私も同時代の常識におかされていたのかもしれません。本当は「クロアチア」なのだとあとで知りました。クロアチア流(à la Croate)を意味する語が訛ってクラヴァット(cravatte ネクタイのフランス語)になったというのはちょっと訛りすぎのような気もするけど・・・。ということで、ネクタイ発祥の地のトップ・ブランドであるクロアタ本店のドアを押すと店内に他の客はなく、スマートなおねえさんが近寄ってきて応対してくれます。この手の店では自分で勝手に品定めすることはできず、店員とのやりとりを通して取引を成立させなければならないので、いつもよりちょっとハードではあります。どちらから来られましたか、ご自分のものですか、お好きなデザインは、などなどソフトな質問があり、私も下手な英語でそれなりに応答。値札を見るのにどきどきしますが、値段なんて気にしていませんよという感じでこそっとのぞくあたり、貧乏性が抜けていません(汗)。それこそ取引なのだから堂々と値段を聞いて、高いとか高すぎるとかいえばいいのですが。おねえさんが勧めてくれる候補と、私がコレかなと思う候補を数本ずつ並べてじっくり検討。このところブルー系のものばかり買っているので暖色系がよいと初めは思っていたのですが、並べられた品はことごとくブルー系で、そういう運命ないし流れなのかもしれません。濃いブルーに赤の細いストライプが入ったしゃれたデザインのものを選んで、VISAで購入。ふう。お値段は1300Knでした。ユーロで4桁価格の商品を買うことはないので、若干どきどきしますけれど、2万円ちょっとですからたまのぜいたくとしてはいいんじゃない。何より、欧州に来れば必ずネクタイを買っていくマイルールにしているのだから、発祥の地でいいものを手にしなければきっと後悔します。
そのあと少しばかりの買い物をして、カフェでカフェを飲んで、17時ころホテルに戻りました。夕食にはまだちょっと早いので、荷物を置いて少しだけ休憩。18時ころ三たび出動して、先ほどねらいをつけておいた宿近くのレストランに入ってみました。Purgerという店名で、「地球の歩き方」にも載っていました。店内は明るく、カジュアルな「食堂」といった雰囲気です。
メニューを開くと本当に町の食堂で、普通の西洋料理なら何でもあるというラインナップです。肉料理にも牛・豚・鶏・羊とすべてそろっていて、基本的にはグリル系が中心。とくに執着はないので、店名を冠したグリル盛り合わせ(Plata "Purger" / "Purger" platter)をオーダー。何となく前菜もつけたい気分になり、キノコスープ(Juha od gljiva
/ Mushroom soup)も頼みました。飲み物はビール。この店のメニューは多言語併記になっていて、クロアチア語/英語/フランス語/ドイツ語/イタリア語と、なぜか日本語がセットされています。クロアタの店員さんも「日本の方がときどきお見えになりますよ」といっていたので、ザグレブを訪れる日本人観光客もそれなりに多いのでしょう。この店が日本大使館のすぐ近くにあるのも関係しているのかな。6言語を並べておいて、キリル文字のセルビア語が見えないのは因縁ゆえか。スロヴェニア語くらいあってもよさそうだけど、そもそもこのあたりの人はマルチリンガルなのか。
スープは大きな金属の鍋ごと運ばれました。欧州のスープは日本人の標準からすればかなりぬるいので、それは仕方ない。でも味は非常によいです。小さなキノコがたくさん入っており、ベーコン、タマネギ、ポテト、セロリのような細かい野菜も入っています。トマトの酸味もあって、後を引く味。私が通されたのは奥の区画で、そこに私ひとり。ノンストップ営業のためか端のほうで従業員たちがマカナイを食べているのが見え、何だかバックヤードで食事しているような気分にもなるけれど、気楽でいいじゃないですか。そのあと運ばれたメインのプラッターは、グリル盛り合わせという日本語表記そのまんま、何のひねりもない「焼いた肉」の盛り合わせでした。5片ある肉はどれも結構なサイズです。上の写真でいうと、スプーンが載っている白い肉が豚バラ、そこから反時計回りにチーズの入った牛ひき肉、ポークのロース、牛タン、鶏肉ベーコン巻き(私が食べてみての判断なので間違っているかもしれないよ)。どれもウェルダンなので歯ごたえがあり、噛んで飲み込むのに時間とエネルギーを擁します。美味しいのは美味しいですけれども、塩の焼鳥でビールを飲んでいるような気分と口内になってきました。豚バラは福岡の焼鳥屋では定番なんですよね。ただ、福岡の焼鳥屋が生キャベツを敷物にしているのに対し、ここはフライドポテトなので、いっそう口内がしょっぱくなった(笑)。パリでも肉ざんまいだったし、欧州に来るとやっぱり肉を食べる量が倍増しますね。プラッター110Kn、キノコスープ24Kn、ビール0.5Lが17Kn、食後のエスプレッソが7Knで、〆て158Knでした。ごちそうさま。
PART3につづく
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