Voyage aux pays des Slaves du Sud: la Croatie et la Slovénie

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21日は月曜日。欧州の1週間は月曜からはじまります(日曜は安息日なのだから理屈としてはそうだよね)。1237分発の列車で出発することにしていますので、午前中は少しばかりザグレブ市内を散策することにしましょう。チェックアウトは正午までなので、部屋はキープしたままにしておきます。朝食をとったあと9時半ころに外に出ました。


節水を呼びかける、ホテルのバスルームでおなじみの掲示
上からクロアチア語、英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、ロシア語 やっぱりセルビア語はない・・・


朝の中央駅前電停


またまた中央駅に行ってみたら、駅舎から少し離れたところに地下道の入口があることに気づきました。駅舎は小さくてもそこはさすがに首都の中央駅で、構内は広い。何本もある線路をアンダークロスして駅裏に出られる通路になっているようですが、表口側の地下はショッピング・センターのようになっていて、各種ショップが並んでいました。なるほど、こういう感じなのね。まず駅裏に行ってみます。横断地下道というと池袋や新宿のアレを思い出すのですが、あんな陰気なトンネルではなく、明るい地下商店街になっていました。駅の表裏を行き来する人も多い。中央駅は、前日のぞいて切符を買った側にしか列車の乗り口(改札はない)がなく、駅裏から来るといったんこの地下通路を通って正面に回らなくてはなりません。どうせ改札がないのなら地下通路から各ホームに直接行ける通路をつくればいいのに、ずいぶん遠回りを要求する造りなのですけれど、国鉄が基本的には「よそゆき」の乗り物で、まだ近郊の足としては機能していないのかもしれません。端頭(行き止まり)式のターミナルは別にして、途中駅であれば表裏があるのが正常の姿で、歴史的に古い路線では市街地の周縁部に駅を設けることが多い関係で「裏」はどうしてもできてしまいます。JR博多駅の博多口と筑紫口は明らかに景観の違いがあって後者の裏口感は歴然としていたのだけれど、平成に入るころから市街地の広がりとともに筑紫口のビジネス街化と商業化が進んで、差が縮まりました。京都や名古屋もそんな感じ。日本国内の主要駅では大阪駅が最も新しい裏口再開発(うめきた地区)の例でしょう。古いところでは東京駅も八重洲口ができたのは昭和期に入ってから、本格的な駅舎が造られたのは戦後のことでした。あ、そういえば津田沼駅は現在でこそ橋上駅舎化して両側の商店街とペデストリアン・デッキが直結していますが、本来はパルコのあるほうが表、モリシア側が裏。裏口は陸軍鉄道連隊専用のような性格があり、1970年代の大開発でようやく商業化が進んだものです。南口(裏口)とデッキで直結している千葉工大のキャンパスは鉄道連隊跡地で、新京成と歩道橋でつながるとはいえ妙な位置にある赤レンガ門が最近まで正門扱いだったのは、表口からぐるっと回っていた時代の名残。

ザグレブ中央駅は規模でいえば津田沼にはるか及びません。商業的に発展すればいいというものでもないですね。地下商店街にクラーシュ(Kras)のショップがあったので入ってみました。クロアチアで最もポピュラーなお土産が同社のチョコレートだというくらいの知識はあったので、いくらか入手しておこう。欧州のお土産といえばどこでもチョコがド定番ね。ただ、お土産関係は手持ちのリュックではなくキャリーバッグのほうに詰め込みたいので、箱が頑丈なものとか細長い形状のものがいいんですよね。財布のクロアチア・クーナがチョコを買うには足りないのでカード決済。2000円くらいのカード決済も欧州では普通です。裏口にはマクドナルドと路線バスのターミナルがありましたが、やっぱり裏口的でした。何度もいうけど空港バスをここに着ければいいのに。

 
 
駅裏に路線バスターミナル 駅直下の横断地下道はショッピング・センターになっている


裏側に回ってみると鉄道駅の構内を見通せるので、マニアにはなかなかうれしい眺めです。入替用の小さな電気機関車がカラの客車を後ろから押して転線させる「推進運転」なんて久しぶりに見たなあ。かつては上野駅でもおなじみの光景だったのだけど、列車の頻度が高くなりすぎるとこういう余裕のある運用ができなくなります。鉄道の現代化が遅れているぶん、いろいろと昭和チックな感覚を味わえて満足。再び表口側に出て、新市街をジグザグに歩いて何度目かの中心部に入り、ゆっくりと町の景観を楽しみました。穏やかで静かな町という印象は初めから変わっていません。人口400万人ほどで経済力もさほどではないクロアチアが、文化を保全しながらこの時代を生き残ろうとすれば、「多様性の中の統合」(United in diversity)を掲げるEUのもとで欧州統合に積極的に参画するのがベターな選択だったのでしょう。2013年に新規加入した最も新しいメンバーです。これからシェンゲン協定やユーロの受け入れという段階に進むことが予定されます。

かなり余裕をもって1130分ころホテルをチェックアウト。よき滞在でした。首都の中心部をぐるぐる歩いただけなので、この次に来るときにはダルマティアとかイストラなどにも行ってみたいものです。20 Kn紙幣を2枚だけ使い残していますが、クロアチア・クーナはそのとき使えるのでしょうか。

 
ザグレブ中央駅のコンコース


さてこれから列車に乗ってスロヴェニアの首都リュブリャナをめざします(石丸謙二郎のナレーションみたいだ)。この西欧あちらこちらは、もともとパリから列車で国境を越えて各都市を回るというコンセプトでスタートしており、鉄ちゃんとしては鉄道に乗ること自体が町歩きと並ぶイベントだったはずなのだけど、飛び道具(航空)を使うようになり、またエリアが広がってからは「鉄分」がかなり低まりました。最近では、2014年にアイルランド→英国(北アイルランド)、スイス→イタリア、2015年にデンマーク→スウェーデン、2016年にフランス→ドイツ→フランスと鉄道での国境越えをしていますが、いずれも出入国審査の対象外でした(英国とアイルランドはシェンゲン圏外ですがその両国間で自由通行になっている)。昔ながらの国境を経験できるのでしょうか。昨日からクロアチア国鉄のノスタルジックな部分を見てきているので、そういう意味でも楽しみ。昼どきの移動になるので、コンコースのパン屋さんでクロワッサン(4.60Kn)とウインナーロール(7.00Kn)を買っておきます。お水は前日に町なかで買ったやつが残っていました。欧州の鉄道には信用できない部分がまだまだ多いので、非常食とまではいわないけれど、最小限の食料と飲み水はもっておくべきでしょう。今回使用している財布は最も出番の多いもので、紙幣・コインとも2系統の通貨が入るようになっていて、そこにユーロとクロアチア・クーナを入れています。パンを買ってクーナの使い納め。ユーロやポンドの場合は、どうせまた来るからという感じで、この「使い納め」というセンスがなくなります。

ザグレブ→リュブリャナの直通列車は15本でうち1本は多客時のみの季節列車です。ザグレブ発655分、1237分、1837分、2120分ということなので実質的に使えるのは1237分だけ。そのDC210列車はボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォからクロアチア、スロヴェニアを経てオーストリアのフィラッハに向かう国際列車。4ヵ国をまたいで走り抜けるわけですけれども、ユーゴスラヴィアだった時代には2ヵ国ですし、ザグレブ→リュブリャナというのは「地方都市間の移動」くらいのものでした。

 
 
2等コンパートメントでリュブリャナへ出発


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30分ころ、めあてのDC210列車が駅舎に接している1番ホームに入線します。電気機関車の引く客車列車ですね(鉄道業界で「客車」というのは動力装置がなく自力走行できない「車輪のついた箱」をいいます)。プラットフォームが路面電車並みに低いので、ステップをハシゴのように登らなければならず、これがなかなか大変。まずはキャリーバッグを網棚に載せるような感覚でドアに押し込んで、それから本人がよじ登ります。車両は、それこそ昭和の高度成長期に造られたやつじゃないかと思えるほど古びており、またまた時が停まったような感覚になります。どうやら全車両が6人掛けのコンパートメントらしい。各国の首都を数珠つなぎにして走る国際列車なのに乗客はほとんどなく、たいていのコンパートメントは空室だったので、適当なところに入りました。1分ほど遅れて車両が動き出します。機関車が引く客車のよさは何といっても発進時の静かさ。モーター音がしませんし、前から順に1両ずつ引き出すように動かすので、すーっという感じでスムーズに滑り出せるのです。

列車のコンパートメントは、19912月に初めて渡欧したときから何度も経験しています。日本の列車にはないゆとりと居住性があるのですが、知らない人と空間を共有するのが苦手だという人には苦痛かもしれません。往年のB寝台はこの配置のまま夜は3段(または2段)寝台になるという、ある意味スゴい設計で、嫌でも同居人とのコミュニケーションをとらなければならなかったのだけど、私が最後に利用した1996年(青森→上野の「はくつる」)ころになると、寝台列車そのものの乗客が激減していて、そういう相手すら見当たらないほどでした。今回の国際列車もあまりにガラガラで、大丈夫かなと思ってしまいます。流れる車窓を見つつ、ザグレブの中心部は狭い区画だったのに対して郊外の住宅地はけっこう広がっているのだなと思っていると、車掌が検札にやってきました。昨日購入した手書きチケットの裏面にボールペンでちょこちょことサインして終わり。1250分過ぎにザグレブ近郊を脱して田園地帯に入りました。一面の畑の中をしばらく走り、1310分にドボヴァ(Dobova)という駅に停車。よく見る小都市の駅ではあるのですが、何やらカンカンと大きな音がします。コンパートメントの反対側がホームなので廊下に出てみると、制服の鉄道員がハンマーで台車を叩いているのが見えました。この光景は何度か見たことがありますが、途中駅でやるかな。――そうか、ここが国境駅だとひらめいてガイドブックの地図を見ましたが、駅名までは記載されていませんでした。でも時間的な具合を見れば、たぶん国境に違いない。

 ドボヴァ駅 出入国検査を終えて引き上げる係官ら


いまグーグルマップを拡大して見てみると、ドボヴァ駅そのものはスロヴェニア領内に少しだけ入ったところにあり、ドボヴァはスロヴェニアの都市のようです。ボーダーの真上に駅があるケースのほうが少ないため、実際の運用ではどちらかの領内に入ってすぐのところに国境相当の駅を設定するのが普通。2ヵ月前に香港→中国(深圳)→香港と日帰りで2度の越境をしていますが、線路は国境(正式には国境とはいいがたいのだけど中国・香港当局はこの手続きを「出入境」と呼んでいる)の手前で切れて、実際のボーダーは屋根つきの通路を歩いて越えています。ここはどのようにするのだろうと興味津々です。男女の係官が乗り込んできて、通路から車両全体に響く大きな声で何やらアナウンス。国境検査をしますという旨を告げているのでしょう。何しろガラガラの乗り具合なので私の個室にもすぐに係官がやってきました。まずはクロアチアの男性係官が、パスポートを出すようにと英語で告げます。スタンプだらけの旅券を念入りにめくって、ようやくクロアチア入国の証拠を見つけ、 その下に並べて出国スタンプを押しました。そのまま後続の男性にパス。こちらはスロヴェニアの係官のようです。赤い表紙の日本旅券を手にした係官は、丸暗記の日本語で話しかけ、インタビューを開始。「ハロー、コンニチワ」 ――ハロー。「どちらへ行かれますか?」 ――リュブリャナです。「リュブリャナに何日間滞在しますか?」 ――3 nights. 「そのあとはどうされます?」 ――Go back Japan. 「どの空港から?」 ――フランクフルト・アム・マインです。「欧州に来られたのはいつですか?」 ――216日、パリから入りました。「(キャリーバッグを指さして)お荷物はあれだけですか? Just closed? ――イエス。そこまでやりとりして、さらに後続の男性とともに何やらの機械にかけてパスポートの細かいところを注視します。おそらく電子的な情報を読み取っているのでしょう。確認が済んで出国スタンプを押し、パスポートを返却しました。「サンキュー、サヨナラ!」 ――See you!

スタンプだらけと申しましたが、シェンゲン協定のおかげ(せい)で、実際の出入国件数よりも相当に少ないといわなければなりません。シェンゲン圏内であっても、スタンプ押印を伴う検査がないだけで係官がパスポート・チェックをおこなうことはわりにあります。最近ではマルタ空港到着時にチェックがありましたし、ラトヴィア→エストニアの越境地点では係官がバスに乗り込んできて旅券を見ていました。でも本式の検査はやはりちゃんとやりますね。羽田からパリとかフランクフルトの空港に着いて入国(入EU)審査をおこなう際にはインタビューはまずなくて、たいていは一言も発しないまま旅券と当方の顔を見比べるだけなのですが、英国は伝統的に長めのインタビューがあります。そういえば、ロンドン〜パリ間を結ぶ高速特急ユーロスターでは、乗車駅(ロンドン- セント・パンクラス駅またはパリ北駅)で相手方の入国審査までおこない、「出入国」を一度で終わらせる合理的な措置をとっています(英国側は出国時の審査なし)。列車での国境越えも本来、このドボヴァのように一度で済ませるものであるはずですね。1両に23人の乗客だからいいようなものの、満員だったらどれくらい時間がかかるのだろう。

 
ザグレブに航空便で入り、鉄道で国境を越えた経過が明白な旅券 SAVSKI MAROFはクロアチア西端の自治体名
各スタンプ左上のHRはクロアチア、Slはスロヴェニア、Dはドイツで、欧州統合を意味する星の環が周りを囲む


列車がドボヴァ駅を出たのは1338分。所要2時間半のうち20分近くはこのために停まっていたことになります。日本各地に新幹線ができて、東京に行くのには便利になったものの、並行在来線が切り離されて運賃が別勘定になり、無用な乗り換えを強いられるなど利便性も著しく低下したという事例がよく紹介されますが、ユーゴスラヴィア連邦が崩壊して小さな国が分立したことで、以前にはなかったはずのボーダーが発生してしまったというのは、ちょっと別次元の不合理な話ではあります。多客時には両国とも係官を増員するのでしょうし、そうしたコストもばかになりません。この先のスロヴェニア→オーストリアはシェンゲン圏内の越境なので、そこは以前よりラクになったといえるのですが・・・。

いよいよここからスロヴェニア共和国Republika Slovenija)です。EU崩壊を見込んで焦っているのかといわれそうなので、そうではない!と(祈りを込めて)強調した上で申しますと、EU28加盟国のうち21番目の訪問国になります。ま、もう少しすれば自動的に1つ減ってしまうわけですが。旧ユーゴスラヴィア連邦を構成していた国のうち最も北西にあり、クロアチアのほかイタリア、オーストリア、ハンガリーと国境を接する小国です。公用語はスロヴェニア語。同じ南スラヴ語派に属するものの、クロアチア語とはかなり違っていて意思疎通が難しいそうです。魅力的な著作を通じて私の言語への興味をかきたててくれた言語学者の黒田龍之助さんは、スラヴ語の専門家で多言語に通じておられますが、「数え方」の話として、単数形・複数形のほかに両数形というのがあり、スロヴェニア語は数少ない例なのだと教えてくれました(『もっとにぎやかな外国語の世界』、白水社、2014年)。日本語母語話者にとっては、12以上を分けて後者に-sをつけるという作法がそもそも面倒だけど、スロヴェニア語は123以上になるわけか。すごいな〜。もともと同じ「国」だったスロヴェニアとクロアチアの人たち、それも国境地帯の住民はどんな言語を話しているのだろうとか、先ほどチームプレイで出入国審査をおこなっていた両国の係官たちは何語なのだろうとか、興味が湧いてきます。スロヴェニアはクロアチアより9年早い2004年にEU加盟国となり、2007年にはシェンゲン圏に入りユーロを導入しています。近年でこそアルプス山麓のリゾート地として人気を得ていますが、旧ユーゴスラヴィア時代には構成国の中でもマイナーな存在で、日本にいてその国名を耳にする機会もほとんどありませんでした。地図少年だったころには「存在しなかった」国を訪れる機会が増えていて、個人的にはとてもうれしいです。

 
 
リュブリャナ駅(「中央」はつかない)


定刻どおり1510分にリュブリャナ駅(Železniška postaja Ljubliana)に到着。ホームから地下通路に降りてコンコースに向かう段取りはあちこちで見るのと同じながら、通路を端まで歩いてくると、突然駅裏の勝手口みたいなところに出てしまいました。改札がなく駅構内と世間の境目がはっきりしないためではありますが、この駅はやや特殊な構造で、切符売り場や待合室、お手洗いなどを備えた駅舎がプラットフォーム群から見ると相当に西側にずれた位置にあって、いちばん南側のホームをえんえん歩かなければそこにたどり着きません。私は下車するだけなので、駅舎そのものに用事はないのだけれど、予約したホテルがそちらの方角なのでまずは駅舎を通り抜けて、市街地に出ることにしました。ここは長距離を含めたバスターミナルが駅前にあって便利。そのぶん駅前の空間が狭くて、広場と呼べそうな部分がありません。

駅前をさらに西に進んだところ、鉄道と直交するようなかたちで南北を貫く、スロヴェンスカ通り(Slovenska cesta)という国名を冠した広い道路があります。そこを南に折れて、15分近く歩いたような気がします。今回は駅前ではなく市内中心部に宿をとりました。予約したベストウェスタン・プレミア・ホテル・スロンBest Western Premier Hotel Slon)はスロヴェンスカ通り沿いに建つ大型ホテルでした。何とかの一つ覚えで、ザグレブにつづいてベストウェスタン加盟店ですね。3泊朝食つき€2551泊あたり€85なのでザグレブよりは高いですが、パリの常宿は素泊まりで€85なのでさほどの割高感はありません(パリやロンドンは宿代が突出して高いので比較すべきではないかも)。日本の高級ホテルのようなシックで整ったレセプションに通り古賀ですと名乗ると、若い女性が応対してくれました。まったくよどみのない英語を話しており、さすがに欧州でホテル(ウー)マンになろうとすればそうでなくてはねというところ。かなりの美人のため内心で喜んでいたら、ひとしきりの説明を終えた彼女は別の紙を差し出し、「実は私、観光学を学ぶ学生なのです。可能であればお部屋を利用されたあとでこのアンケートにご協力いただけますでしょうか。封筒に入れてホテルマンに預けていただければ結構です」と。そういうことならば喜んで協力しますが、インターンだとしても日本のホテルはそこまでさせないよね。

 
 
ベストウェスタン・プレミア・ホテル・スロン


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つ星だけあって客室は広く、快適でした。建物の奥まった位置なので採光が悪いですが、水回りには大きな窓があって、そこ経由で光が入ってきます。ダブルベッド、ソファ、立派なライティング・デスク、ミニバーに、サービスのミネラル・ウォーターもあって、日本の首都で泊まったら30000円以上は取られそうなレベルです。3連泊というのもありますし、このところブッキングドットコム(オランダに本拠のある世界最大の予約サイト)の世話になることが多くなっていつのまにかジーニアス会員に昇格?しており、割引率がかなり高くなっています。われながらグローバル化とIT化と消費文化にまんまと絡め取られているのがわかる(汗)。ホテル名のスロンはゾウさんの意味らしく、ベッドの上でマスコットのぬいぐるみが出迎えてくれました(このぬいぐるみを持ち帰ると有料。あまりかわいくなかった 汗汗)。

16時半近くになっているので、日が沈まないうちに中心部だけでもひと回りしてきましょう。といってもホテル・スロンのあるところは中心部そのもので、中心の中心とされている三本橋Tromostovje)までわずか1ブロックのところにあります。ホテルを探したとき、リュブリャナの中心部は直径1kmもないような狭い区域であることに気づいて、それならそのへんに宿泊したほうが散策の拠点にできるなと思ったのでした。ホテルと三本橋を結ぶチョポヴァ通り(Čopova)は、スーパーやショッピング・ビル、カフェ、マクドナルド、ZARAなどが並ぶ商業的なメインストリートらしい。夕方なのでかなりの人出があり、全体に歩行者が若いように見えます。これは歩行者専用道で、この先の三本橋周辺にかけて通行規制があるらしい。欧州ではよく見る歩車分離で、結構なことです。ほどなくプレシェーレン広場Prešernov trg)に出ました。広場の名になっているフランチェ・プレシェーレン(France Prešeren 180049年)のブロンズ像が橋のたもとに立って、道行く人々を見守っています。あとで調べたところ、プレシェーレンはスロヴェニアの国民的詩人で、民族文化の象徴みたいな存在らしい。1991年に独立した際に国歌として採用されたのは、彼の詩による「祝杯」(Zdravljica)という曲でした。

 
 
プレシェーレン広場と「三本橋」 ここがリュブリャナの中心地点 橋の東にリュブリャナ城、西に赤いファサードのフランシスコ会教会


三本橋というのは、市の中心部を流れるリュブリャニツァ川Ljubljanica)に架かる文字どおり3本の橋で、もともと1本の石橋だったところ、20世紀前半に歩行者用の橋を両側に追加し、扇を少しだけ開いたような形状になったものです。リュブリャナというよりスロヴェニアのランドマークでもあるようです。リュブリャニツァ川はさほどの川幅がなく、せいぜい石神井川程度なので、橋を渡って「対岸」に行くという感覚でもありません。ただ、広場から橋を渡ったほう(東側)一帯がリュブリャナの旧市街になっています。なおリュブリャニツァ川はリュブリャナ北郊でサヴァ川(Sava)に合流します。サヴァ川はクロアチア領内に入ってザグレブ南郊を東に流れ、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境をなし(クロアチア紛争の際には前線化した)、さらにセルビア領内に入ってドナウ川と合流します。ドナウ川とサヴァ川の合流地点に形成された都市がセルビアの首都ベオグラードです。ローマ帝国末期から今日まで、何かとわさわさしっぱなしのバルカン半島は、大きくいえばこのドナウ川支流の流域にあたります。

橋を渡った旧市街側は、しかし目の前にザグレブのグラデッツのような高台がそびえているため、平地の部分はきわめて狭い。リュブリャニツァ川と崖にはさまれた幅100mほどの帯が、川に沿って南北に伸びています。川沿いの遊歩道(Cankarjevo nabrežje / Gaullusovo nabrežje)と、一筋陸側のメストニ広場/スターリ広場(Mestni trg / Stari trg 広場と名がついていますが細長い石畳の商店街です)、両者を結ぶ短い路地のみで構成されているため、地図がなくても歩けます。リュブリャナにはゆっくり逗留するので、まずは一周して様子をつかんでおきましょう。

 
 
リュブリャナ旧市街をひと回り(市庁舎→メストニ広場→リュブリャニツァ川右岸の遊歩道)


しかしまあ、何と美しい町だろうね。三本橋を渡った先の突き当たりにある市庁舎(Rotovž)は白亜のどっしりとした構え、その先を南に折れると、メストニ広場(タウン・スクエアの意味)がゆるやかな円弧を描いてだんだん細くなっていきます。両側の建物の高さがそろっているので、空のカーブまでもが曲線に切り取られているようです。地図少年だった小学生のころ仕込んでいるためだいたいの国の首都くらいは暗記しているのですが、マイナーな国の首都以外の都市まではフォローしていなかったので、ユーゴスラヴィア全体ではさほどの規模でもないリュブリャナの名は独立するまで視野の外にありました。こんなきれいな都市を知らぬままだったとはもったいない。広場という名の小径は情緒のある商店街で、お土産屋さんなども複数あるのでちょっとツーリスティックな感じがします。でも、どこぞの観光地のようにI love 何ちゃらなどと書かれたTシャツやしょーもないマグカップなどを並べているというふうでもないので、品が保たれているような気がする。回転寿司があるのはちょっとびっくりでしたが、しゃれた飲食店もいくつかあるので、滞在中に立ち寄ってみることにしましょう。その商店街を南端まで歩いて(といっても全長400mくらい)、今度は川沿いを北に向かって引き返します。けっこう広めの遊歩道で、犬を連れて歩いている人などもあり、こちらもいい雰囲気ではないですか。

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ゆっくり30分ほどかけて旧市街を一周し、三本橋のたもとに戻ってきました。狭い町に4日間滞在するのであまり欲張る必要もなく、またパリで歩きすぎた疲労がいまごろ出てきている感じもするので、このあたりで散策を打ち止め。ホテル・スロンの広い部屋に戻ってしばらく休んでから、夕食に出かけました。といってもまた外出するのが面倒なので、初日の夜はホテルのレストランを利用することにします。レストランつきのホテルに泊まることはしばしばあるものの、実際に利用するのはまれで、まして4つ星ホテルのレストランなど――というほどの相場ではないことを客室に備えられているメニューで確認していました。町のレストランよりは高めだけれど、いうほどではありません。いまさらケチる年代でもふところ具合でもない。Slon 1552という名のメインダイニングはホテルの0階にあり、レセプションの横を過ぎ、バックヤードみたいな区画を通り抜けて行きます。裏口入店やな。チョポヴァ通りとは反対側の商店街に面したガラス張りの店で、その窓側のいい席に案内されました。メニューにはスロヴェニア語のほか英語、ドイツ語、イタリア語が並んでいます。これだけあればだいたいの内容はわかりますね。ドイツ語があるのはオーストリアに隣接し、かつてハプスブルクの一隅だった関係でしょうし、イタリア語は、このあたりまで来るとイタリアのトリエステまで100kmくらいですから、そういう近さも関係しているものと思われます。かしこまったレストランに入ったせいでもありませんが、スロヴェニア入国を祝して、スロヴェニア産のスパークリング・ワインをオーダー(Srebrna Radgonska Penina €3.20)。新しいボトルの栓を抜いて、フルートと呼ぶ細長いグラスに注いでくれます。規定量である0.1Lのラインをはるかに超えて注がれるのでうれしいねえ。一時期はスパークリングばかり飲んでいたのですが、ここ1年は元のビール党に復党しており、何だか久しぶりの感じがします。やや甘いですがすっきりしていて変なクセがなく、美味しい。

 
 


料理はシーバス(横浜港に走っている船ではなくて、魚のスズキのほう)のポワレにしてみよう。€24也。料理名はFile brancina s korenčkom, špinačo, olivami in koromačevo peno / Sea bass fillet with carrots, spinach, olives and fennel foamとなっています。シーバスの切り身 with ニンジン、ホウレンソウ、オリーブ、フェンネル(中華でいうウイキョウ)の泡と、素材だけ並べられてあまり説明になっていない気がするけど、それはそれで。フランスのレストランでしばしば見る「○○(地名)風」なんて符丁以外の何ものでもなく外国人には意味不明ですからね。スパークリングのグラスが空いたところでソーヴィニョン・ブランのグラス(€3.50)を追加オーダー。実は、チェックイン時に受け取った封筒の中にこのレストランのウェルカム・ドリンクとしてスパークリング1杯がついていたのを見落としていました。が、さしたる値段でもなく、悔いるようなものでもありません。シーバスはけっこう大きめの切身が2枚、皮の部分がカリッと揚げ焼きになっていて美味しい。料理名のwith以下は、ホウレンソウは塩ゆでしただけのもの、オリーブは酢漬けで、あとはfoamとあるように泡状のソースとしてまとめられているわけね。6日前にパリに着いてから、どうしても肉だくの日々を送っていた関係で、内陸部なのに魚料理に手が出ました。スロヴェニアでポピュラーな料理としては、シュニッツェルとかグラーシュがあるらしいですが、それぞれオーストリアとハンガリーの民族料理で、隣国の影響が入り込んでいるようです。距離と歴史を考えればそりゃそうですよね。ガイドブックには豚肉の素朴な料理も紹介されているので、機会があれば試してみよう。この日のディナーはエスプレッソ(€1.50)で〆。勘定は部屋にツケてもらい、レシートにサイン。ごちそうさまでした。

 

PART4につづく

 


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。