Voyage aux pays des Slaves du Sud: la Croatie et la Slovénie

PART1

 

 

真っ白な雪をいただいたアルプスの上空をしばらく飛んだA319型機は、高度を下げて着陸態勢に入りました。雲の下に降りてくると、窓の外に広がるのは建物のまばらな原っぱと森林と畑。私が座っていたのは進行方向左手の窓際A席で、おそらく向こうのほうにうっすら見える町らしきところが目的地のザグレブZagreb)なのでしょう。遠景で見るかぎり一国の首都にしては広がりがさほどでもないようです。前後左右に衛星都市みたいなのがないのは欧州ではめずらしくありません。それにしても田舎なのかな。パリからザグレブまでは約2時間。219日(日)1235分にパリを飛び立ったクロアチア航空OU471便は、1410分ころザグレブ国際空港Međunarodna zračna luka Zagreb)に到着しました。時差はありません。もとより、はるばるやってきた感じはなく、欧州って狭いよねといういつもの感覚を再確認することになります。


ただ私、非常に大事なことを知らないまま、というか誤解したままだったことにパリのシャルル・ド・ゴール空港で気づきました。クロアチア航空は半年前にラトヴィアに向かったときと同じターミナル2Dを使用しています。このフロアのレイアウトなどは心得ているのでまったく迷わずに進み、チェックインして、保安検査場を抜けて、見覚えのあるゾーンに出ました。しかしボーディング・パスに示された搭乗口の番号はもう少し先だと矢印が出ている。その方向に進めば、売店などのある区画を離れて出国審査ゲートに達しました。えええ? これから「出国」するの?? そばにある出発便案内を見ればこの先の搭乗口なのは間違いない。かくて、例によってページも縦横もいっさい考慮しないフランス当局のスタンプが旅券上に押されました(ちなみに欧州でもここまででたらめに押印する国はあまりありません。出入国審査に関するかぎりフランスはおしゃれの国でも何でもない)。その先は4つほどの搭乗口があるだけの広くないスペースでしたが、要は「国際線」ゾーンで、小ぶりな免税品の売店も両替店もありました。カフェテリアでビールを飲みながらあらためて「地球の歩き方」を開きますが、記述はあいまいで、クロアチアの入国審査の要不要がはっきりしません。でもスロヴェニアのほうを見ると、そちらにだけ「シェンゲン協定実施国」である旨が記されていました。ということは、クロアチアはシェンゲン圏ではないのか!(びっくり!!) タブレットをWi-Fiにつなげてインターネットで確認すると本当にそうらしいのです。これだけ欧州だEUだとそのよさを称揚してきたくせに、シェンゲン圏の正確な範囲を知らない、しかも自分が訪れようという国の情勢を知っていないとは面目ありません。ま、ビザが要るという話でもないので旅券さえあれば問題なく移動できるのだけど、自分の不勉強にびっくりしました。

シェンゲン協定Schengen Agreement)は欧州連合(EU)の制度枠組の中でもきわめて重要なもの。人の移動の自由の大前提をなし、相互の国境検査は廃止されることになりました。英国とアイルランドは政治的配慮により適用外ですが、加盟国は基本的にこの原則を受け入れなければなりません。ただ、国境を開放するというのはなかなか大変なので、EUに加盟してから必要な準備が完了するまでは国境検査を実施することになります。英国とアイルランドをのぞく加盟国26のうち、この移行準備中なのがルーマニア、ブルガリア、キプロス、そして2013年に加盟したばかりのクロアチアでした。さすがに半年前の記事をこれ以上遅らせるのはねというので日本を発つ寸前に昨夏のバルト2/3プラス1を書き上げてアップしたばかりなのだけど、冒頭今回と同じようなシャルル・ド・ゴール空港での描写で、クロアチアをシェンゲン圏として書いてしまっていました。あちゃー。帰国後にこっそり直しました。

 
ザグレブ国際空港


ザグレブ空港にボーディング・ブリッジはなく、バスでターミナルまで運ばれる方式。最近このスタイルの利用が多くなりました。見るからに小規模なターミナル・ビルに入るとすぐに入国審査があります。世界的にみればこちらのほうが標準で、ノータッチで国境を越えられてしまうシェンゲン圏がイレギュラーなのだけど、西欧式に慣れてしまいました。2ヵ月前に香港・マカオと中国を訪れた際には、いずれも中華人民共和国の主権に属する地域なのに5日間で5回も国境越えのチェックを受けました。それもどうなのかねというところではありますが。それにしても小さな空港で、入国審査を抜けたところに税関があり、その真横にバッゲージ・クレームのターンテーブルがありますが、パリやフランクフルトならば体育館ほどのスペースがあるのに対し、こちらは田舎の公民館程度。ターンテーブルも2つだけで足りてしまうらしい。荷物を請け出してすぐに非制限エリアに出てきました。到着フロアも手狭ですね。そして、いつものEU内移動と違って今回はクロアチア・クーナHRK 表記はKn)の現金を引き出しておかなければ。そう、シェンゲン圏になっていないだけでなくユーロにも未加入なのです。これは事前に承知していましたが、さすがにHRKキャッシュを羽田の銀行で入手することはできず、この到着フロアのATMVISAのカードを差し込んでキャッシングすることになります。1Kn16円くらいなので23日の滞在で600Knというところかな。足りなければ町なかでまたキャッシングすればいいですし、この次いつクロアチアに来るかわからないので(そのころにはユーロになっている可能性も高いので)現金を残したくないんですよね。200Kn紙幣が3枚出てきました。

小さな空港というのはそれだけ移動距離が短くて済むものではあります。自動ドアのすぐ外側にバスやタクシーの乗り場が見えました。白い車体のバスが停まっています。荷物の収納作業をしていた運転士さんに、センター(市内中心部)行きですかと訊ねたらイエスとのことでした。――チケットはどこで買えば? 「のちほど車内で販売します。ご乗車ください」。運転士さんはある程度のお客が乗り込んでから、JRの車掌さんがもっているような発券機を手にチケットを売ります。30Kn。若い日本人が2組乗ってきました。へえ。ユーロ紙幣で支払おうとした乗客にはノーが告げられました。へえ。時刻表を見ないまま乗り込んだのだけどバスは15時の便だったらしく、定時に発車。機内から見たように、真っ平でほとんど何もないような原っぱの一本道を進みます。10分ほどで団地などが建つ郊外にさしかかり、ちょいちょい停車してお客を降ろしていきました。25分ほどでバスターミナル(Autobušni kolodvor)に到着。昨夏にバルト三国でみたように、旧社会主義圏は長距離バスが鉄道より発達しているため、なかなか立派なターミナルで車両、乗客ともかなりの数が見えました。

 
エアポート・バスでザグレブ市内へ 右はザグレブ・バスターミナル

 
キヨスクでチケットを購入してトラムに乗車


ザグレブの市街地は鉄道の中央駅の北側に展開しています。バスターミナルは中央駅の南口(裏口)からさらに東へずれたところにあり、そこまでのアクセスは不便。昨夏利用したラトヴィアのリーガは中央駅のすぐ裏手にターミナルがありましたがエストニアのタリンはけっこう離れたところにあり、位置関係としては後者に近いかな。長距離バスというのは航空に近いといえばいえるので、空港だったら離れた場所にあっても仕方ないか。予約したホテルは中央駅から34分のところで、歩けないこともない距離だけれどキャリーバッグを引きずりながら歩く距離は短いほうがよく、トラム(路面電車)を利用することにします。でもやっぱり、空港アクセスのバスは中央駅や市街地に直行するほうが親切だと思うけどな。

ザグレブのトラムやバスの利用にはICカードが必要だそうなので、バスターミナルの0階にあったキヨスクで購入。この作法もタリンと同じです。カードが10Kn(返却すれば戻るデポジット分)、チャージは3050・・・ といった具合に可能だそうなので3回乗車とみて30Knを頼みました。同じバスで来た若い日本人女性の2人も同じ動作で、ご旅行ですかなどと一応あいさつ。このごろ観光人気が高い国ではあるけど、ザグレブよりはアドリア海沿岸のドゥブロヴニクに行く人が多いのではないかな。教えていた高校3年生にクロアチア共和国Republika Hrvatska)について訊ねても、国名くらいは聞いたことがあるけど・・・ というくらいの知名度。知っている人も近年の観光地としての知識です。この地域の大変な出来事をリアルタイムで見知っているのは40代以上の人でしょうね。K-1のトップファイターだったミルコ・クロコップの名をクロアチアの国名とセットで記憶している人もあるかと思います。まぢ強かった。彼が日本で闘った試合はクロアチアで50%以上の視聴率を得たそうですが、彼は独立と戦争という困難を経た直後に現れたヒーローでした。

 
(左)ザグレブ中央駅  (右)駅前公園に建つトミスラヴ王の騎馬像


トラム3系統に乗って5分ほどでザグレブ中央駅Zagreb Glavni Kolodvor)前の電停に到着。ネオ・ゴシックとおぼしきシンメトリーの立派な駅舎が見えて気になりますが、観察は後回しにして、ホテルに向かいましょう。駅正面は広々とした長方形の芝生広場で、この空間自体がやはりシンメトリーに構成されています。空が広くていいな。こういう駅前の造りって西欧ではあまり見たことがありません。行ったことはないけれど、ロシアとか旧ソ連圏あたりにありそうな感じだなと想像しておきます。駅のほうを向いて建っているのはトミスラヴ王(Tomislav ラテン語ではタミスクラウスTamisclaus)の騎馬像。910年ころクロアチア王国を建国した初代とされ、北のハンガリー王国、東のブルガリア王国という強国と対抗しながら国家を維持した有力君主だったとされます。1011世紀はコンスタンティノープルのビザンツ帝国がブルガリアなどを圧迫して全盛期を迎えており、クロアチア王国はこれと同盟することで勢威を保ったようですが、12世紀初めまでにハンガリー王国に併呑されました。ハンガリーはのちにハプスブルク家の君主のもとでオーストリアと連合しますので、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリーが敗れて帝国が解体されるまで、クロアチアが主権国家として自立することはありませんでした。その後の歴史は後述しますけれど、クロアチアという国家が単体で成立するのは1991年のことです。はるか中世の、史実関係もあやふやな王の像をこの場所に置いているというのは、民族国家の正統性をどうにか主張したいという思いからなのでしょうか。

予約したベストウェスタン・プレミア・ホテル・アストリアBest Western Premier Hotel Astoria)は駅前公園の一筋東側にあります。このあたりは、というよりザグレブ市街全体がわりに縦横がはっきりした構造になっているため、迷うことなくたどり着けます。予約サイト経由で2泊朝食つき€132.30とかなりお得なレートでブッキングしました(予約サイトの設定をユーロ建てにしているのです。米ドル、日本円、現地通貨建てにもできますが相場感がわかりやすいのでそうしています)。ベストウェスタンはアメリカを本拠とするホテルチェーンで、フランチャイズ展開して世界中にちょっぴり上等なクラスのホテルを提供しています。暮れのマカオでもお世話になりました。欧州では、鉄道駅周辺が場末っぽくなっていることが多く、中心部付近とどちらに宿をとるかが迷いどころですが、鉄道を利用して出発する予定なのと、ベストウェスタンが立地するなら変な地区ではないだろうというので、ここに決めています。ずいぶん上品なレセプションがあり、若い男性ホテルマンがチェックインを処理してくれました。部屋は明るくて品がありますが、価格ゆえかやっぱり狭いですね。ライティング・デスクが極端に小さいので、作業するのにごちゃごちゃしそうではあります。

 
 
ベストウェスタン・プレミア・ホテル・アストリア


もう16時を過ぎているので、明るいうちに少しでも町を見ておきたい。前述のようにザグレブ市街地は中央駅の北側に展開しており、ホテルのある駅付近からは北に1kmちょっと離れたところが中心部のようです。地図を見ると東西方向を走るイリツァ通り(Ilica)の筋がメイン・ストリートで、その北側が旧市街、それより南、中央駅にかけて新市街が広がるという、欧州でわりによく見る構成になっています。新市街が条里制のようなわかりやすい構造になっているのは、近代も後半になってから都市化されたためだと思われます。ホテルから一筋西、駅正面からまっすぐ北に延びる緑地帯がストロスマエル広場Strossmayerov trg)。札幌の大通公園のように、広場とはいうものの縦長のグリーンベルトという感じで、これが駅から中心部へのアクセス路になっているわけね。のんびりとした日曜のお昼ももう終わりかけていて、週末の名残を惜しむように過ごす高齢者や子どもたちの姿が見えます。何だかよくわからないものの行政機関など公共の施設のようなものが点在しているようで、日章旗を掲げた日本大使館もわかりやすいところにありました。いまのところ海外で大使館や領事館の世話になる事態にはなっておらず、今後もぜひそうありたい。旗といえば、そのような公共施設にはクロアチア国旗と欧州旗が並んで掲揚されています。ギリシア危機、シリア難民の大量流入で動揺し、昨年には英国の離脱決定という創設以来の激震に見舞われた欧州連合に、クロアチアは4年前に加入したばかり。EUと欧州統合に希望を抱く「新人」でもあります。クロアチアの国旗は、オランダやルクセンブルクのものと似た配色、上から赤・白・青のトリコロールで、中央に国章が描かれています。この国章の上辺にはさらに5つの紋章が並べられており、クロアチアを構成する5つの地方のもの。欧州の地図でクロアチアを探すとまず気づくのは、国土が不自然な形状をしていることではないでしょうか。C字状というかナイキのマークというか、歯医者さんの世話になりっぱなしの私などはレントゲンで見た大臼歯の断面図を思い出して強烈な痛みの記憶が・・・。国土のえぐれている部分にはスロヴェニア共和国とボスニア・ヘルツェゴヴィナがはまりますので、もともとあった大きなかたまりから両国が独立していった残りが妙な形状になっているのだ、と思わなくもありませんが、実際にはもう少しややこしい説明が要ります。


クロアチアの概念図 (地図出典 http://www.sekaichizu.jp/
5
地方のうち観光地として名高いドゥブロヴニクはダルマティアと国土がつながっていない

 

奥歯ではアレなのでC字状として申しますと、アドリア海に面した下の部分は、イタリアに近い北西側(アドリア海の奥側)から、イストラダルマティアドゥブロヴニク。イストラはイタリアとの民族・文化の混交地帯で、近代のイタリア王国が成立した(1861年)のちもオーストリアが領有しつづけたため「未回収のイタリア」とされ、イタリアにねらわれた地域の一つ。第一次大戦後にイタリア領となりますが、第二次大戦で敗れたイタリアがイストラ半島の大部分を放棄した(させられた)ためユーゴスラヴィア領となり、現在のクロアチアの域内に入りました。ダルマティアはハンガリー王国の統治下に長くあったものの、ナポレオンが征服して19世紀初頭にはフランス帝国領となり、ウィーン体制(1815年)でオーストリア領に編入されました。オーストリア帝国とハンガリー王国の君主は同一人物(ハプスブルク家の当主)ですが、内政上は別の国なので、ここで地域の特色が変わっていきます。ドゥブロヴニクはダルマティアのつづきみたいな位置にありますが、中世いらいヴェネツィアと対抗する港湾都市で、18世紀まではオスマン帝国と同盟してヴェネツィアに対抗する勢力でした(イタリア名はラグーザ)。このためハンガリー治下のダルマティアとは本来対立関係にありました。Cの上の部分にはスラヴォニアがあります。こちらはハンガリー王国のど真ん中でした。Cの左側というのか上下がつながっている位置にあるのがザグレブを含む中央クロアチアSredišnja Hrvatska)。交通の要衝であるこの地域もハンガリー領でした。第一次大戦後、オーストリア・ハンガリー二重帝国が解体され、上記5地域はスロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナなどとともにセルビア王国と合併し、ユーゴスラヴィア王国(クロアチア語でKraljevina Jugoslavija セルビア語でКрљевина Југославија ただしこの呼称は1929年以降のもの。後述)となります。歴史的な経過が異なるさまざまな国・地域が南スラヴ語を共有する大きな国をつくろうという試みで、国民国家幻想のひとつではあったと思うのですが・・・

 
(左)ストロスマエル広場 左の道路にトラムの軌道が敷かれている (右)クロアチア国旗と欧州旗


2
月の内陸部だから寒いのかなと思っていたら、氷点下にはならない程度なのでさほどではありません。無風だし散策にはちょうどいい感じ。南北に1kmくらいあるストロスマエル広場が途切れると、さらに1ブロック進んだところがイェラチッチ総督広場Trg bana Josipa Jelačića)。東西幹線であるイリツァ通りの歩道が拡張されたようなかたちではありますが、見るからにシティ・センター、座標ゼロの場所だとわかります。トラムの路線もここがT字の結節点となっていて、青い車体が続々とやってきます。トラムが町の真ん中に堂々と据えられた絵ってやっぱりいいですね。広場に名を残しているイェラチッチはクロアチア地方の名門貴族の出身で、ハプスブルク家によりこの地方の総督に任じられた人物。ユーゴスラヴィアが社会主義だった時代には広場名が改められ騎馬像も移転したそうですが、1991年の独立とともによみがえりました。繰り返しますが、クロアチアという国家は長く存在しなかったので、民族の歴史にかろうじて出てくる人物をシンボル化するという苦労があるわけです。

首都の中心といっても日本でいえば中くらいの県の県庁所在地といった規模。とくにどこを見ようというあてもないので、旧市街側を適当に歩いてみることにしましょう。私の町歩きセンサーが機能する町なのかどうか、やってみないとわかりません。人がたくさんいる方向に進めばそれなりににぎやかな地区ということだろうから、あまり考えなくてよいと思います。

 
 ザグレブの中心、イェラッチッチ総督広場 鮮やかなトラムに萌え萌え


ファストフード店などを目印に人の流れに沿って歩くと、イワナ・トカチッチ通り(Ivana Tkalčića)という歩行者専用の道に出ました。両側にレストランやカフェがずらりと並ぶ、飲食店街のようです。着いたばかりでまだ飲み食いするタイミングではないので、もう一筋西に行ってみましょう。そちらはラディチェワ通り(Radićeva)で、石畳の坂道。なるほど旧市街というのはこの勾配を登った先の高台らしく、エストニアのタリンと同じような構造のようです。もともとザグレブは中世前期の城砦からはじまっているそうなので、平原を見渡せるこの高台が軍事上の拠点として選ばれたのでしょう。何となく観光色の強いエリアで、飲食店のほかスーヴェニア・ショップなどが見えます。途中から急斜面になりました。日が落ちかけていて、石畳の坂道に黄昏が似合います。なかなか絵になるいい景観で、20年くらい前に戦争があったというのはにわかには信じがたい。

 
 
ザグレブ旧市街


石の門Kamenita vrata)なる、見張り台を備えたゲートをくぐると、クロアチア議会の議事堂(Hrvatski sabor)の前に出ました。一国の政治の中心にしては何ともかわいいサイズですが、このあたりは明日の朝ゆっくり回ることにしましょう。日が暮れないうちに市街を展望したいので、その南側の展望台ふうの場所に出てきました。高い建物の上に登ったのではなく自然地形の崖の上で、これが往時の支配者の視線ということなのかな。観光客と地元の人が半々というところだけど、夕暮れの市街を見ている人はさほどの人数ではありません。新市街のほうは平地でもあるためそれなりの広がりが感じられますが、旧市街は斜面に張りついてきゅっとまとまった地区のようです。屋根が渋めの赤色で統一されていて見事。チェコの首都プラハはこれのものすごい規模の感じでしたが、ここザグレブはこじんまりやね。マリーナ・ウズネセーニャ大聖堂(Katedrala Marijina Uznesenja)の2本の尖塔が飛び抜けて高く、こちら側の城砦に拠る世俗権力との関係がどうだったのか気になります。大聖堂も明日のぜひもの。いつもと同じでほとんど予習していないので、ぜひものとかいっても、見どころ自体はすぐに見終えてしまいそうですね。でも静かで、整然としていて、落ち着きのあるいい町です。

 
「石の門」とその内部 城砦の堅固な門のひとつで、構内のマリア像は18世紀の大火をもしのいだため一段の崇敬を受ける

 
 ザグレブ市街を見晴らす


12
年目に入った西欧あちらこちらも、このところはEU加盟国コンプリート・ツアーみたいになってきていて、一時期はキセルみたいで嫌だなあといっていた首都訪問で1国稼ぐというパターンにはまっています。残念ながら今回もその弊。ここザグレブの地名を知ったのは地図少年だった小学生のころですが、そのころ見た地図ではこの都市に赤色は塗られていませんでした。国といえば地図上に赤字で国名を記してあるやつだと純粋に信じていて、そこに潜むおとなの事情みたいなものにまったく気づいていなかったのです。最近は高校や大学の授業でその手の話をするのだけど、「複雑だと思った」「めんどくさい」「なぜそうなのか理解できない」といった反応が続出し、総じて小学生時代の私と同じ程度の認識。まあそうなんだろうねえ。もうすぐ「台湾」に修学旅行に行きますという高校生に「そこは中華民国という国家だよ」といっても信じてもらえないことすらあります。複雑なのは確かだけど、なぜ世界の現実が高校生のアタマの都合に合わせなければならん?

1980年ころの地図でザグレブが首都扱いになっていなかったのは、クロアチアが主権国家ではなかったからです。その当時の主権国家の名はユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国Socijalistička Federativna Republika Jugoslavija / Социјалистичка Федеративна Република Југославија)で、子どものときからオタク体質だった私はしっかり暗記していました。後述するヨシップ・チトーの逝去と盛大な葬儀(1980年)のニュースを見て、社会主義国なのにソ連と仲が悪く西側とフレンドリーだという事情を知ったのです。ユーゴの首都はセルビアのベオグラードで、ザグレブというのは大きめの町だけどナンバー2の、フランスでいえばリヨンみたいな感じかなと思っていました。56年生のころだったかに、世界の大半の国をオールカラーで紹介するすばらしい本を図書館で見つけて毎週のように借り出しては熱心に読んだことがあります。あれを全部覚えていればすごい知識になっていたと思うけど、世界史の土台がないと個別の話が乗っからないのは仕方ないですね。ただユーゴスラヴィアに関しては、たしか国の紹介の冒頭に、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、そして1つの国家」という印象的なフレーズが載っていたのは憶えています(表現は後知恵で補正しています)。私はそれを多様性のある理想の国なんですよという誇りに満ちたメッセージとして受け取りました。へえ、そんな国もあるのだなあと。だとすると、日本の大平正芳首相も参列したチトーの葬儀のすごさもなるほどと納得できます。「6つの共和国」とあり(セルビア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロヴェニア)、それらが集まって連邦国家を形成するという意味では当時のソヴィエト連邦とまったく同じなのですが、ユーゴ自体がソ連ほどの広さはなく欧州でも標準サイズの国なので、それを6つに区切ったところで独立性は高くないのだろうと、勝手に思っていました。まあ、独立性はさほど高くなかったのかもしれない。でもザグレブは、主にカトリックを信仰し、主にラテン文字を使用し、主にクロアチア語を話す人たちが住むクロアチア共和国の首都でした。当時も。

 
展望台から降りていく、味わいのある遊歩道
プラハ(チェコ)やブラチスラヴァ(スロヴァキア)、タリン(エストニア)で似たような道を歩いたけど、まさか旧東側的な景観とか!?


1918
年のセルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちにユーゴスラヴィア王国と改称)は、セルビアが主導して、オーストリアの支配を脱したスロヴェニアやダルマティア、ハンガリーの支配を脱したクロアチアやスラヴォニア、1878年まで長くオスマン帝国の支配下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナなどを包摂してつくられました。その経緯から、明らかにセルビアが突出した力をもっていました。実はセルビア語とクロアチア語は言語学的には同一のことばで、会話の上ではほぼ互換性があるそうです。ただしセルビア語はキリル文字、クロアチア語はラテン文字で表記するため見た目の上ではまったく別のものに見えます。宗教でいえばセルビアが正教、クロアチアはカトリック。そして歴史的な経過も異なりました。セルビアからすれば、スラヴ民族なのに長きにわたってハプスブルクの帝国に組み込まれていたクロアチアほかを解放して、ようやく国民国家をつくれるようになったぞ!というところなのでしょうが、クロアチアから見てみると、自分たちがマイノリティであることには違いなく、しかも欧州のど真ん中にあって最大の名門であったハプスブルク家の支配ならがまんできるが、隣の田舎大名(失敬)に威張られるのはかなわん、という心持ちにもなります。類例は世界各地にあります。法・制度の面でハプスブルクはよくできていましたからね。そういう不満を見透かしたヒトラーは、セルビアからの独立を図る勢力を支援して、いったんは独立国家クロアチア(Nezavisna Država Hrvatska 194145年)を成立させますが、第二次大戦後はナチスとの同盟の事実が大きなハンデとなって再びユーゴスラヴィア連邦に呑み込まれてしまいました。この経過はチェコからの自立を果たそうとナチスの支援を得たスロヴァキアとまったく同一です(チェコ語とスロヴァキア語も言語学的にはほぼ同じ。チェコは旧オーストリア領、スロヴァキアは旧ハンガリー領)。第二次大戦中から反ナチス、反ファシズムの独立運動をおこなっていたパルチザンpartizani / партизани)は、当初セルビア人が主体でしたがやがてクロアチア人やスロヴェニア人も賛同するようになり、ユーゴ全域で解放戦争を進めました。大戦後期に入って連合国がパルチザンを支援するようになったこともあり、ついにはファシズム勢力を当地から駆逐して自力での解放に成功しました。ここがソ連軍によって解放された他の東欧諸国と異なるところで、ゆえにチトーはスターリンに与せず、独自の社会主義路線をつらぬくことができたのです。

クロアチア共和国の国名が赤字で記されている地図しか知らないいまの生徒・学生と違って、私はザグレブが首都扱いになっていなかった時代の地図を見ていますので、国家なんちゅうものがそもそも相対的なものであり、不動でも不変でもないことをよく知っています。「なぜそうなのか理解できない」のは天動説に陥っているからです。なぜと問う以前に、事実がそうなのだから、そうなのだとしかいいようがありません。世界は広くて多様で、いろいろな国のかたち、成り立ちがあります。どれが標準とか正解とかいうこともないし、まして日本がスタンダードなどということは間違ってもありません。最近の授業での、私のそういう話が説得力をもっているのだとすれば、こうして人々のいろいろな経験の跡を現地で踏みしめてみたからだろうと思います。

 
 
ザグレブの繁華街 にぎわってはいるけれど、やっぱり静かな感じはする


17
時半を回るころ日没を迎え、少し寒くなってきました。急な階段を下って「崖」の下に戻ります。イェラチッチ総督広場の南側一帯が繁華街になっています。とはいっても規模はさほどでもありません。日曜なのでどうなのだろうと思ったものの、お店はまあまあ開いている模様。どこかで夕食をとってから宿に戻ることにしよう。これまでの経験から、目抜きの一筋裏側あたりにいい飲食店があることを知っているので、そのへんを探って歩いてみます。まあしかし、あんまりピンと来ないなあと思いながら界隈をぐるりと一周。そもそもクロアチアあたりでどんなものが食べられているのかという基礎知識も欠いています。ダルマティアはシーフードが有名ですけれど、このへんは内陸部だしねえ。

欧州のあちこちの都市でよくあるように、ここもイタリア料理店がわりに多いようです。近いし、ポピュラーなのはわかるけどヴィジターの食べるべきものでもないよね。と、いい雰囲気なのだがイタめし屋さんだったので見送った店のすぐ近くに、シックで上品な構えの店があり、メニューを掲出しています。英語も併記してあるね。客引きとかがいると興醒めですが、そこはエントランス部分で店の本体はもっと奥のほうらしく、無人なのでじっくり検討できました。ザグレブなんちゃらとかダルメシアンなんちゃら(犬名になっているDalmatianというのはダルマティアの形容詞)という料理名が見えるので、それらしいものを食べられるかな。少しばかり観光レストランふうでもあるけれど、価格も手ごろなので入ってみることにしました。店員さんに導かれ、カフェ区画とかバー区画とおぼしきところを通り抜けて、アーチ状の天井がおもしろいレストラン区画にやってきました。こちらでいかがですかと指されたテーブルの隣には、到着直後のキヨスク前で出会った日本人女性2人連れがいて、メニューを見ながら検討中だったので、気づかれぬように「奥のほうがよいのですが」と求めたらOKになりました。誰にとがめられることもないものの、ベテラン旅人の私が若い人たちと同じような行動をしているというのは気恥ずかしい。もっとも、ザグレブなどに来る時点で彼女たちもアマチュアではないのかもしれません。

 


白い布のクロスがかけられたテーブルって久しぶりだな〜。メニューを見ると、ステーキとかパスタとか、グラーシュ(ハンガリー風のシチュー)とか、ありそうなものが一通りあるわけですが、ここはやっぱり現地っぽいものがいいな。といって予備知識があるわけでもないので、ザグレブなんちゃらを注文。Zagrebački Odorezakという料理名で、添えてある英語はZagreb Steakとずいぶんストレート。しかし小さな文字でfried veal steak stuffed with ham and cheese with potatoes, apple and cherry saladと解説らしきものが添えられています。ハムとチーズを詰めたらステーキではないじゃん。ま、でもおもしろそうなのでこれにしました。110Kn。飲み物はドラフト・ビアをといったら、Staropramenという銘柄の、0.5Lのジョッキが運ばれました。普通のピルスナーですが、歩いたあとだけにひときわ美味しいね! これも知識なしの当てずっぽうながら、旧ハプスブルク帝国ならばビールが美味しいはずという先入観があったのです。旧宗主国のハンガリーはワイン王国なのだからいい加減な推量ではあります。ややあって運ばれたザグレブ・ステーキは、その外観からしておよそステーキではなく、細長い棒状の揚げ物でした。ウィーン名物のヴィナー・シュニッツェルと同様に、大量の油に泳がせるのではなく、オーヴンで揚げ焼きにしているのかもしれません。ナイフを入れてみると、薄い仔牛の肉の中から、予告どおりハムとチーズが飛び出してきました。チーズはほぼ液状になっています。気取った料理ではなくお惣菜ふうながら、こういうのはわりに好きですよ。ビールによく合います。添えられたソースはマヨネーズ風味。ガワの部分はシュニッツェルそのものです。ポーションされているのはいわゆるポテサラ。リンゴやチェリーが入っているので甘酸っぱい。カツにポテサラだと東京の日常とさほど違わないね(笑)。いまこれを書きながらZagrebački Odorezakをグーグル翻訳にかけてみたら、英語でZagreb Steakと出ました。まじか。ならばと日本語に訳してみると、コルドン・ブルーだと。そういえばそうだった、パリの安レストランでときどき出てくるコルドン・ブルーと同じ味。あっちはターキー(七面鳥)の肉を使うことが多いような気がするけれど、淡白な仔牛なので揚げてしまえば似たような風味になります。ビールが25Kn、食後のエスプレッソが10Knで〆て145Knでした。19時を回り、各テーブルのろうそくに火がつけられました。これからが本格的なディナー・タイムのようで、何組かのお客がたてつづけに入店してきます。ごちそうさまでした。

夕食会場を探しているとき、繁華街の地下にスーパーを発見したので、赤ワインなどを購入しておきました。ホテルまでゆっくり歩いて戻り、動画サイトを見ながら手酌酒というこのところ恒例のパターンでザグレブの一夜目を終えました。用務で送られてきたメールの返信に「ザグレブにて」と添えたのですが、どれくらいわかっていただけたかな。

 

PART2につづく


*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=118120円くらい、1クーナ=16円くらいでした。

 


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。