バスターミナルの前を通る道路は、そのまま南灣湖を突っ切って海の中へと伸びる長大な橋になっています。対岸はマカオ領のタイパ(氹仔)。タイパとマカオ半島のあいだは3本の橋で結ばれており、この嘉樂庇總督大橋(Ponte Governador Nobre de Carvalho)が最も古くて1974年に開通しました。約2.5kmもあり、3本の橋の中でこれがいちばん短いというのだから、よくがんばってつなげたねというほかありません。繰り返すように、マカオはとにかく土地が狭いため、埋め立てられるものは埋め立て、つなげられるものはつなげてきました。タイパは「返還」後に新たなリゾート拠点として大開発されており、大型ホテルなども誘致して観光客を引っ張っています。香港島から見ると九龍半島が目の前であるのに対し、ここからタイパを望むとはるか向こうにかすんで見えるのだから、まあ遠いよね。なおこの橋はバスとタクシーしか走ることができません。路肩に歩道もあって、歩くぶんにはいいのだそうですけど、あまりに幅がなく、かなりの高所恐怖症であることもあって、手前から遠望するにとどめました。2.5kmも海の上を淡々と歩きつづける自信もありません(汗)。
蜃気楼のように見える? 長い橋の向こうはタイパ地区
さてここから南灣湖の西岸をたどり、マカオ半島からさらにタイパ側に突き出した小半島を回ってみようと思います。そこは小高い丘になっており、マカオ・タワーに登らなくてもよい景色を望めそうですからね。まず南灣湖の北岸を歩くと、英皇娯楽酒店(Grand Emperor)というカジノホテルがありました。英王室の衛兵もどきが立っていたり、ゴージャスな馬車がディスプレイされていたりと、ある意味やりたい放題。デパートの新八佰伴(New Yaohan)もあって、ちょっとなつかしさを感じたりもしますが、ここには後刻来ることにしましょう。Yaohanの名前を見てなつかしく思うかどうかで世代がバレます。
英皇娯楽酒店 その名にたがわず?バッキンガムの衛兵らしき影が・・・
南灣湖沿いの道路を歩きはじめてすぐのところに、ピンクの外壁をもつ、この町にしては妙にこじゃれた2階建ての建物が見えます。これがマカオ政庁。正しくは澳門特別行政區政府總部(Palácio
do Governador)という行政府が入っています。建物自体は1849年にできたそうで、なるほどコロニアルな造りですね。マカオの憲法に相当する特別行政府基本法は、三権分立の民主主義を定めていますが、どうも肝心のところが弱い。首相にあたる行政長官は、地元の有力者などから成る選挙委員会が指名しますが、任命権者は中華人民共和国国務院(中国の内閣にあたる)です。また国会にあたる立法会は、直接選挙で選ばれる議員が半数に満たず、残りは職域団体が選ぶ枠と行政長官が任命する枠。職域団体といってもマカオ経済は中国(と香港)に依存しているわけだから、アンチ北京のような人が選ばれるはずはありません。香港と制度は異なりますが、民主主義の体裁をとっているものの実は(少なくとも代表制という点では)民主主義ではないという点が共通しています。冒頭で、香港は「英国の植民地」が「中国の植民地」に変わったようなものだ、と表現したのにはそのような事情もあります。そもそも憲法(基本法)を制定した主体がマカオ市民ではなく中国の全人代なので、社会契約とか「代表なくして課税なし」とか、公民の教科書で私たちが学んだような政治原理とは一線も二線も画するものになっています。自分の国の運命を最終的に自分たちで決められる、というのが国家主権の大事な部分だとすれば、その大事な部分を決定的に欠いているのですね。
こっちが正しくて向こうが間違っているとか、だから中国はうんぬんといいたいわけではありません。あちらにはあちらの事情があります。あちらから見ればこちらがおかしく見えることもあります。優劣や是非を論じる前に、まずはいろいろな、多様な実態を知りましょうよということです。
マカオ政庁 マカオ旗(緑)が従、五星紅旗があくまで主
南灣湖岸を歩く (左)カジノ地区 写真中央より右半分は完全なる埋立地です (右)人口湖越しに嘉樂庇總督大橋とタイパを望む
この人口湖の周辺では12月いっぱい大規模なイルミネーションが催されている旨が表示されていました。ばりばり観光地やね。そして南灣湖と道路を隔てた南西側には西灣湖(Lago Sai Van)という別の人口湖もあります。私はその西灣湖が見えてきたあたりで陸側に右折して、ずいぶん急な坂を何度か折れ曲がりながら登りました。小半島が丘になっていると申しました。いまそこに登ってきたわけです。この傾斜は埋め立てがおこなわれる前からの、本来の地形と思われます(タモさんみたいな観察)。南シナ海沿岸の地図を見ると、隆起・沈降・浸食というおなじみのパターンで陸地がそこそこの標高を保ったまま海に突き出している箇所がたくさんあるのがわかります。ですから港に適した場所ってなかなかなかったのでしょう。そういえば、モンゴル帝国の大攻勢にやられた南宋が追いつめられ、皇帝が入水して滅んだ崖山というのはマカオのすぐ西隣にあります。現在は地形が変わり内陸化されているようですけれど、崖山という地名からしてごつごつした陸と荒々しい海とが交錯する風景を思い起こさせます。「嚇得趙家老寡婦 持此來擬男兒國」(趙家の老寡婦を嚇おどし得て 此れを持し來たり擬す 男兒の國)という頼山陽「蒙古来」の一節が浮かぶなあ。吟詠をたしなんでいた学生時代に大迫力の合吟(集団でうたうやつ)ナンバーとして好きだった叙事詩ですが、崖山の戦い前後を語るこの2行は上手な詠者のソロパートで、私なんかはなかなかうたわせてもらえなかったものです。はい。マカオの海はいまのところ穏やかです。あるいは、1279年もそうだったのかもしれません。モンゴルの勢いたるやすさまじく、中国全体が呑み込まれて、前王朝の南宋は海を荒らすこともできないまま孤独に沈んでいった、とかね。
それにしてもチャイナっぽくない一隅ではあります。坂を登り切ったところにあったのはポルトガル総領事公邸(葡萄牙領事官邸 Residência oficial do
Cônsul-Geral de Portugal em Macau)。その役割を負うようになったのは「返還」後に旧宗主国が領事館を設置したとき以降のことで、それまでは外国人向けの高級ホテルだったそうです。ここもヴィラっぽくて、場所を考えれば悪趣味になるかならないかというところでしょう。
急勾配を登ると、ポルトガル総領事公邸がある
「西望眺望台」に期待したら、見えたのはこんな景色
海を見晴らす丘の上に濠m酒店(Riviera
Hotel)というホテルがあります。フェリーターミナルもしくは空港に行くのか、送迎バスが出発待機していました。総領事公邸からこのホテルの前を通って進む小さな道は高可寧紳士街(Rua do Comendador Kou Hó Heng)で、植え込みの感じにやや南国っぽさもある別荘地のような風情が感じられる。この「小高い丘」全体がわりにそんな感じです。ポルトガルの植民地だった時代に、宗主国をはじめとする欧米の出身者がこの地区に住んで、ふもとの現地人を見下ろしたのかもしれません。ポルトガルに行ったとき、リスボン郊外の住宅地をバスで走ったことがありますけれど、そのつづきだといわれればそんな気もするほど、チャイナ感がありません。高台の住宅の緑がさらに濃くなって、おんぼろの家々が並んでいた地区と地続きなのが信じられんなと。その先の、小半島の最南端に近いところに西望眺望台があると表示されているので、そちらをめざしました。その眺望台は猫の額に毛が生えた程度の小公園で、肝心の海側が背の高い樹などに遮られて眺望できません。北側を見ると、向こうに豪奢なカジノ地区、すぐ手前に丘下の住宅の日常というなかなか厳しいコントラストでした。そうだった、マカオで見たいのは「きれいな景色」ではなく、「マカオならではの絵」でしたね。いままでさほどの関心を払ってこなかったのを猛省するほど、社会科の先生にとっては刺激的で魅惑的で教育的な絵ばかりです。
もう少し長めのよいところはないかなと進んでみたら、いつの間にか一般道ではなく私有地のようなところに入り込みかけており、若い兵士が首を横に振りながら近づいてきました。おっと、これはいけない、Sorryと声をかけて撤退。どうやら人民解放軍の詰め所みたいなところだったらしい。ますます「中国の植民地」だわね。
主教山眺望台からの眺望 右奥に見えるクリーム色の建物が十六浦酒店(ポンテ16)、湾を隔てた対岸は中国領の珠海市
来た道を引き返し、子どもの遊具というより高齢者のリハビリ具のような設備が目立つ児童遊園?を通り過ぎて、さらに勾配を登ります。カトリック系の幼稚園などもあってますます高級住宅街のような雰囲気になってきました。いつの間にか複数の観光客グループも現れて、同じように坂の上をめざしています。登りきったところに主教山眺望台(Miradouro
da Penha)という、さきほどのよりは多少整った展望台がありました。今度は半島の西側、つまり中国大陸側を展望する角度になります。昨日の夕方にホテルの窓から見て思わずドキッとしたマカオ市街のくすみ具合と、対岸の中国領のビル群とのコントラストは、ここからもよく見て取れます。もう慣れましたし、実際に町を歩いてきて、くすんだ町に人々の生活の息遣いが聞こえるのを知りましたので、動揺することはありません。同じように展望台から対岸を見てあれこれ話しているグループは華人の顔立ちですが、香港人なのか中華人民共和国の人なのかは不明。どちらに属するのかによって「このコントラストはさ〜」という会話の文脈が違ってきます。
西望洋聖堂と、隣接する展望台からの眺め
眺望台の隣、というかそもそもこの山の頂上一帯の持ち主だったのが西望洋聖堂(Capela
de Nossa Senhora da Penha)なる教会。司教の邸宅も隣接しています。航海の安全を祈願する場として船乗りたちの信仰を集めたそうで、その由緒は17世紀前半にさかのぼります。ポルトガル人の勢力がオランダに押されて東アジアでの地位を失いかけていたころで、海を一望できる高台で必死にあれこれ祈ったのでしょう。マカオの司教は人々を見下ろすこんな場所に住んでいたのね。裏手にある主教山眺望台とは逆で、南シナ海側を望む展望台になっています。3本の長い橋がタイパとのあいだを結んでいる様子がいっそうよく見て取れます。高層ビルと人工湖、そして橋梁という取り合わせはなかなかの造形美。自然の景観が好きという人も多いことでしょうが、私そもそも町歩きを志向する都会派(笑)なので、造りものであってもいちいち感心しちゃうねえ。前述した地理学の先生が「香港というのは究極の都市」というようなことをおっしゃっていました。なるほど香港とかマカオを歩いてみると、限られた地面でいかに生き抜くかという知恵と執念みたいなものがあふれていて、興味深いです。
西望洋聖堂から急坂を下っていくと、町並一変!
いつの間にか正午になっています。のんびり歩いているものの、ほぼ予定どおりのペースで半島南部の半分くらいを回れました。とにかく立体的な町というか国ですので、健脚が命です。この付近の最高所になっている西望洋聖堂の、今度は北側の斜面を下ることにします。例によって道なり主義と申しますか、方向感覚が狂うのを初めから承知で、流れにまかせて歩くことにしましょう。西望洋斜巷(Calçada da Penha)という道は漢字の意味どおりに斜面、それもかなりの急勾配。登りがきつかったので当然下りもそうならなくては辻褄が合いませんね。この北斜面も高級住宅街ですが、勾配が少し緩やかになったあたりで景観は一変しました。薄汚れてくすんだ生活感たっぷりのゾーンに入っていきます。それにしても、香港もそうだったけど、古い集合住宅とはいってもこんなに汚れるものかね。壁のペンキを塗りなおしたり、錆びた鉄柵を磨いたりしなければ当然そうなるわけで、そこまで余裕がなかったのか、そういう文化ではないのか。日本でも住民自身がメンテナンスの義務を負わない公営住宅なんかでこうした劣化が目立つようになっています。福岡の実家ちかくの団地にもそういうところが多かったな(最近になって建て替えられつつあります)。
雑貨店とか香港と同じスタイルの小さな飲食店などがぽつぽつ見える地区を通り抜けると、聖ローレンソ教会(聖老楞佐教堂 Igreja de San Lourenço)の前に出ました。道なり主義の結果、当初の腹づもりよりかなり北のほうにまっすぐ歩いてきたものらしい。何となく半島の西岸付近に向かっているつもりだったのだけど、方向センサーを切るとこうなりますね。具体的な目的とかプランのない町歩きなのでもとより問題はありません。この教会は暖色系の壁をしたかわいい造りで、周囲の建物との対照がまた目立ちます。繁体中文のほかポルトガル語、英語、そして日本語で由緒書きが掲出されていました。日本語のものを引用しますと、「最初は簡単な木造建築で、1618年に改修され、現在の規模のものは、1846年、マカオの建築家トマス・アキノの設計に基づき、修築されました。プライア・グランデ湾(南湾)が開発される前、この教会は浜辺に面していたため、ポルトガル人船乗りの家族は教会の石段に集まり、航海の無事を静かに祈ったと言われています」とのこと。マカオが地面かせぎのために海岸線をじゃんじゃん埋め立てて構築した場所であるのは承知していますが、浜辺という表現がしっくりきません。中文は海邊(海の右側は母みたいにテンテン)、ポルトガル語では「川を望む」(avistar o rio)、英語では「直接河岸を望める」(have a direct view towards the riverside)で、原文が海なのに欧語になるとなぜか川に変換され、日本語だと砂浜っぽい表現になってしまっています。マカオに川なんてあるわけがないし、「海辺」つまり海岸線というのが唯一の正解だと思うんですけどね。ここは小さいながら静かで居心地のよい教会。と、ひとりだけの観光客についてきた女性ガイド(マカオ人or香港人or中国人)が雰囲気を読まずにべらべらと解説しつづけ、お祈りしていた中年の女性に強い感じで制止されました。さほど反省している様子はなし。
聖ローレンソ教会
いったん北上してしまったわけですが、半島西岸も見てみたいので、手許の地図で確認してから、下環圍(Pátio da
Casa Forte)という下り坂の路地に進みます。今度はおおむね南に向かうことになります。地図を見ながら歩くとか、路上で地図を開くというのは原則的にやりません。スキを見せると危険なので、海外ではそのように処しています。教会の堂内を拝観がてら、休憩を兼ねて少し座らせてもらい、その間に地図を見てだいたいの位置関係を頭に入れ、当面の行程というか進むべき方向を決めるという感じです。地図どころかスマホを見ながらでないと歩けないトンマな人間が急増しているので、この種の注意喚起も趣旨を変えなくてはいけない時期かもしれません。
さて下環圍ですが、ここはちょっとした商店街になっていました。狭い道の両側に小さな個人商店がみっちり並んでいます。お昼を過ぎて人通りが出てきたこともあり、ますます生活感がみられていい感じじゃないですか。ダイエーに代表される日本の「流通革命」はだいたい1960〜70年代で、スーパーマーケットの成功により町の景観も一変してしまったといわれますが、それでも私が子どもだった1970年代までは商店街が健在で、1ヵ所で買い物を済ませようという発想はありませんでした。子どものおつかいは、○○を買うなら何屋さんね、という知識の確認からはじまったのです。そう、私は完全に昭和ノスタルジーの中にいます。スーパーのほうが便利だし、そういう暮らしをマジョリティが選択した結果が現状なので、とくに文句をいいたいのではありません。ただ、マカオの商店街に来てみて、40年くらい前の記憶が急に呼び起こされ、ちょっと感動しているわけです。いつものようにあまり予習しないで当地に入りました。予備知識なしで歩くほうが、断然おもしろいことに出会えるからです。
ノスタルジック商店街その1(下環圍) 学習塾とラーメン屋さん以外は完全に昭和テースト
私が生まれ育ったのは、東急線(当時は田園都市線の一部でしたが現在は大井町線)沿線のごちゃごちゃした一隅で、まさに昭和商店街の目の前でした。母の買い物についていくと、同じ業種のお店でも○○を買うならあっちの店のほうが安い、あるいは品がよいなどと使い分けを教えてくれたものです。大型スーパーは1軒もなく、コンビニはその概念すらほとんど知られていませんでした。チェーン店らしきものといえば、不二家のショップと養老乃瀧くらいだったかな(笑)。いまその付近に行くと、もとが何だったのか思い出せぬほど激変していて、もとよりどこかで見たチェーンだのフランチャイズになっています。モータリゼーションとかIT化、最近では高齢化が町のあり方にも大きなインパクトを与えました。繰り返しますが、昔がよくて今がダメだといっているのではなく、そういうふうに変化したのだと事象を述べているにすぎません。ただ、マカオの商店街で少し立ち止まって考えたのですが、元気だったころの昭和の商店街を記憶しているからこそ、現代社会のいろいろな変化を体感できていて、それを授業で披露したり、『教師のための現代社会論』(共編書、教育出版、2014年)に生かしたりしているのかなと。あのころの東京の商店街にもう一度住めといわれたら、たぶん遠慮すると思う。
ノスタルジック商店街その2(福徳新街) そうそう、タマゴってこんなふうにザルにとって買っていたんだよなあ・・・
下環圍はその先で右に大きくカーブして、道路名も福徳新街(Rua Nova)に代わっています。ひきつづきなつかしさ満載の商店街。誰が買うんだろうかというようなサンダル(もはや「ぞうり」「つっかけ」)とか、誰が買うんだろうかその2というような金魚などがディスプレイされていて、ひきつづき昭和あるあるの世界にうっとり?します。金魚屋さんって、かつてはたいていの商店街に1軒はあったような気がする。植木鉢とかペット用品なども売られていて、要はデパート屋上のショップみたいな感じでした。これで味噌や醤油の量り売りでもあれば私の記憶にジャストミートですが、たぶんどこかにあるでしょう。
福徳新街を道なりに進むと、もう少し広い道に出ました。ここが下環街(Rua da Praia do Manduco)で、半島南部で最もにぎやかな一角だと聞いています。コテコテの商店街で、両側に小規模の各種店舗、そして歩道には野菜や雑貨などを売る屋台がたくさん出ています。歩いている人たちを見ると、老若男女というには「老」寄りの感じです。昼どきなので茶餐廳には昼食をとる人たちの姿が見えますし、チャーシューやアヒルなどの焼き物を弁当にしてもらって持ち帰る人が列を成しています。超級市場(スーパーマーケット)もあるにはあるけれど、商店街そのものが活気を失っていません。展望台や教会には外国人(欧米人+中国人)観光客がかなり見えましたが、庶民の商店街にそのような姿はない。ま、欧米人が見ておもしろい絵ではないでしょうね。
ノスタルジック商店街その3(下環街)
商店街を抜けて、半島の西岸を南北に往く幹線道路の河邊新街(Rua do Almirante Sérgio)に出ました。ホテルの横につながっている道路で、バス路線が集中しているのか、見ているあいだにかなりの頻度で行き来しています。この付近には新しいビルも多く、まあまあキレイではあるのですが、数メートル裏に入るだけで例のくすんだ町になるのが本当におもしろい。このまま北上して部屋で小休止し、午後の部を再開するかなという段取りを思い描いていました。もちろん昼ごはんも食べたいので、よさげなお店があれば。と、河邊新街に接続する薄暗い路地の入口に、琛情咖喱(Sam,s curry 妙なアポストロフィとカレーの小文字は実物表記のママ)はこちらと矢印で誘導する小さな看板。興味を惹かれて木瓜圍(Pátio da Papaia)というその路地に入り込んでみると、このへんにしては垢抜けた感じの店がありました。優質咖喱と自称しており、まあ優質なんでしょうな。表意文字ってストレートに伝わるぶん不思議な感じもします。店内には家族連れなど数組の先客がいます。みんな地元の人っぽい。バイトっぽい若いおねえさんが、ラミネートされた1枚もののメニューをもってきました。各種のカレー(咖喱)はもとより、中華とおぼしき炒め物や麺飯類、法式なんちゃら(フランス風?)だの伊麺(パスタ)だの日本和牛だの、忘れてはならない出前一丁だのと何でもアリでにぎやかなことです。やっぱり看板メニューにしたいよねというので、カレーはどれがいいですかとおねえさんに英語で訊ねたら、ちゃんと通じて、チキンはいかがですかと。おーしそれにしましょう。メニューの表記は咖喱鶏で、80 MOPとのこと。
向かいのテーブルに座っていた中年のおじさんが立ち上がり、家族連れのところに歩み寄って何やら世話を焼いていますが、ほぼスルーされています。今度は私のテーブルにやってきました。どうにか通じる程度の英語で、ここのカレーは美味いとか何とか力説。ややあって、おねえさんが当方のカレーを運んでくると、彼女に何か指示して、厨房に入っていきました。イタい客ではなく店主だったか!。カレーは深めの丼に入っており、手羽先と手羽元が4つか5つ煮込まれています。それに長粒米の白飯と、コンソメっぽいスープ。いつの間にか店主がまた現れ、「これはビーフ・スープ。とても美味しい」とシンプルに解説しました。味は普通だったけどな!
盛りつけの感じが札幌のスープカレーにちょっと似ているけれど、骨つき肉を解体しなければならないので、やっぱりライスのほうに身を移して食べるのが筋でしょう。スプーンとフォークが添えられていますが、テーブルに置いてあったナイフも借ります。日本ではほとんどやらない「解体ショー」がはじまりました。何しろ手羽先なので食べられる部分はそんなにありませんが、スパイシーなカレーとよく合っていて、いつしか胃の中がぽっぽとしてきます。細かいタマネギの食感がとてもよく、店主が自賛するだけあってたしかに美味しい。それと、ジャガイモが入っているのは日本の家庭のカレーみたいですね。これは食べていきなり辛いというわけではなく、あとからじわじわ効いてくるやつで、額から汗が滴って涙と混じりました。汗かきにとってはパワー強すぎます。いま写真を見ながらこのときの味を回想して書いているだけで汗がにじんできます(汗)。マカオはアジア貿易の拠点でしたし、ポルトガル人はゴア(インド)、マラッカ、そしてこのマカオというルートをメインにしていましたので、インド料理というかカレーはけっこうポピュラーなのだそうです。さっきのメニューには80とありましたが、ランチ価格なのか見るところを間違えたか、勘定を頼むと36 MOPでした。やっす〜。
河邊新街を少しだけ北に進むとスタート地点の新新飯店。小休止とはいっても、年でいちばん日の短い時季なので、休止しすぎないように気をつけましょう。どうやらマカオはアップダウンのかなりある地形のようなので、最近の傾向を思えば、足の裏とか膝が痛み出す可能性があります。そうなったら無理をせず、歩ける範囲までにしておきます。具体的なめあてのない町歩きなんでね。
河邊新街
PART8につづく
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