第9シリーズ 夏のセーヌ河岸を一挙歩き! 



1 ドゥブル橋〜旧ソルフェリーノ橋



ノートルダム大聖堂の「裏手」に架かるアルシュヴェッシュ橋(写真奥)



ドゥブル橋からプチ・ポンを見る


歩いて見ようシリーズも次回の10回目で一区切りと考えていますので、2017年夏の今シリーズはある意味でど真ん中といいますか、ひねりのないテーマにあえて挑戦してみます。挑戦というほどのことかと聞かれそうですが、ざっと見積もって67kmほど、夏場の川べりをただ歩くというのもなかなかチャレンジングなことだと思いますよ。パリ初心者であれば次々に視界に入るランドマークに惹かれて陸地?のほうに入ってしまうのが普通でしょうしね。

ということで824日(木)午前10時半ころ、歴史的なパリの中心シテ島(Île de la Cité)に建つご存じノートルダム大聖堂Cathédrale Notre Dame de Paris)のそばを起点として、セーヌ川La Seine)を下流方向、地図でいえば左のほうに進んで、ひたすら河畔の景観を愉しむというツアーに出発。これより上流にもいろいろありますが、2年前の6シリーズのときサン・ルイ島などを回っていますのでそちらをご参照ください。

ここ10年くらいのルーチンとして、パリに着いた翌朝まずカルチェ・ラタンの山を登って下り、徒歩でノートルダムまで来てお参りするということにしています。定点観測ということもあるけれど、「この半年間おかげさまでどうにか過ごせて、またここに来ることができました」という思いですかね。こういう妙な宗教心が出てくるあたりが中年の証拠です。したがって年2回のパリ滞在で最初に渡る橋はノートルダム横のドゥブル橋Pont au Double)になります。1883年に完成した全長45mの鉄橋で、赤さびた欄干が渋い。かつて2デニエの通行料が要ったことから「ダブル」の名が付されました。普段は歩行者専用で、私のようにここから大聖堂の敷地に入場する人は少なく、むしろ拝観のあと左岸側にあるお土産&飲食店街(コテコテの観光産業)に移動する際に渡る人が多い。渡った先に中国人団体客の乗るバスの一時停車場があり、いつも中国語が聞こえているのだけど、2015年秋のテロ事件以降はずいぶん少なくなりました。


 
プチ・ポン 古代のローマ街道がその上を通ってはるか地中海をめざしたという

 


サン・ミッシェル橋 橋脚部分にナポレオン3世のエンブレム(マルにN)がある

 


つづいてプチ・ポンPetit Pont)。全長32mの石橋(アーチ橋)で、左岸を南北方向につらぬくサン・ジャック通り(Rue Saint-Jacques)、右岸のサン・マルタン通り(Rue Saint-Martin)に接続し、交通量はいつでもかなり多いです。シャルル・ド・ゴール空港と市内を結ぶ高速郊外鉄道網(RERB線がほぼこの直下を走っており、拠点駅で私もたびたび世話になるサン・ミッシェル・ノートルダム駅の出入口がこの橋の周囲にいくつか見えます。西暦紀元の前後、ローマはシテ島に拠点を築き、ローマ街道の経由地にしました。サン・ジャック通りは往時のローマ道です。当時セーヌを渡河できるのはここだけだったようです。その後何度も橋が架けられ、とくに12世紀にノートルダムができてからはいっそう重視されました。現在の橋は第二帝政期に入った1853年に完成したものです。ま、いつ来ても外国人だらけではあります(自分だってそうだよね)。なおプチ・ポンを直訳すると「小橋」。

 

1本下流側は、パリ市内でセーヌ川を渡河する橋の中でも交通量が多いと思われるサン・ミッシェル橋Pont Saint-Michel)です。14世紀に初めて架けられてからやはり数度の改築があり、現在のものは1857年にナポレオン3世の命で造られた全長62mの石積みのアーチ橋。かつてこの付近にサン・ミッシェル教会があったことに由来して命名されました。サン・ミッシェルは大天使ミカエルのことで、この橋の左岸側にサン・ミッシェル噴水(Fontaine Saint-Michel)があり、いわば左岸の座標ゼロの位置を示します。待ち合わせの定番ですね。このあたりまで私の「地元」。


 

ポン・ヌフ

 

 
夏場は河岸に古書、絵画、土産物などの露店が並ぶ

 


いま歩いてきたところはセーヌ川の中洲であるシテ島の南岸です。したがってこの付近のセーヌ川は二流に分かれていて、プチ・ポンやサン・ミッシェル橋が架かる南側の流路のほうが川幅が狭い。私自身が左岸を拠点にしていることもあって、こちらの狭い流れにどちらかというと親しみを感じます。シテ島の西端に近いところに架かる橋がポン・ヌフPont-Neuf)。意味は「新橋」ですが1607年に落成したパリ市内最古の石橋です。1607年といえば絶対王政の基盤を築いたアンリ4世の時代で、ポン・ヌフがかなり狭くなったシテ島の端っこを貫いている部分に、同王の騎馬像が建てられています。観光名所でもあるけれど自動車の通行量が思いのほか多く、よそ見は禁物。

シテ島が終わりましたのでここで右岸もしくは左岸に移って歩くことになります。うーん、やっぱり左岸がいいかな。ポン・ヌフを左岸側に渡ったところにある石造りのどっしりした建物はパリ造幣局Monnaie de Paris)です。そもそもの由来は9世紀にさかのぼり、フランス以前の西フランク王国の機関として創建されました。ユーロ硬貨を製造する「現役」の造幣局です。ご存じと思いますが、ユーロは紙幣が全欧共通、硬貨(€2€1および502010521セント)は片面のデザインが国ごとに違います。フランスのは国章などを描いていてわりにすっきりしています。以前は各国のものを集めていたけど、面倒なのでやめちゃった。

 造幣局


 
芸術橋 (左)ルーヴル宮 (右)フランス学士院


ポン・ヌフの1本下流側が芸術橋Pont des Arts ポン・デザール)。全長155mの歩行者専用橋で、鉄製アーチ橋ですが歩道部分は木板をはめ込んでいて、不思議なあたたかみがあります。左岸側は造幣局、右岸側はルーヴル美術館の東端部分で、ナポレオン1世(当時はまだ第一統領)の命で造られました。そのころルーヴル宮は革命政府に接収され、美術館として歩みはじめた時期でしたので、芸術橋の名がつけられたようです。歩いて見ようの初回で紹介というか力説しているとおり、この橋とか、ここから見るポン・ヌフの景観が大好きだった私は、およそ10年前にはじまった、アホカップルどもによる南京錠のぶら下げで金網の欄干が見苦しいものになったことに激オコでした。錠前を売る兄ちゃんたちがうろつき、警察官などが常時監視するようになり、なぜかそれ以前よりも訪問客が急増して、静かな環境はなくなってしまいました。2014年に金網の一部が重みに耐えかねて崩落、それをきっかけに金網を廃止してアクリル板の欄干に替えられました。遠くから見た印象は金網時代と変わらないのが救いです。いつでも人がたくさんなので、のんびりくつろぐとか、絵を描くといった雰囲気ではなくなりました。まあ時代です。

左岸側、造幣局のつづきにはフランス学士院Institut de France)のドームが見えます。いま歩いてきたノートルダム付近からこのあたりまで、歴史的にみた場合のパリのど真ん中ですので、歴史の知識がなくても雰囲気的に重みを感じられるのではないでしょうか。


 


カルーゼル橋 写真の左側(左岸側)にオルセー、右側にルーヴルが見える


このシリーズでは進むスピードがかなり遅くなります。もう正午。セーヌ川の景色は飽きることがないのだけど、気温がかなり上がってきました。パリの夏が東京よりも暑いということはないでしょうが、東京ではまず冷房の入った室内に閉じこもるところ、パリに来ればむやみに町を歩きますので、8月の訪問が恒例化したここ数年はパリの夏=酷暑といったイメージが強まりました。芸術橋から右岸側、つまりルーヴル美術館の外側に沿って1ブロック進みます。このあたりモナ・リザの展示されているイタリア美術ゾーンですね。そういえば1年前は暑さをしのぐためだけにルーヴルに入って半日くらい滞在しました。

そのルーヴル美術館Musée du Louvre)のメイン・エントランスは、コの字をなす3つの長い建物に囲まれた中庭にあります。この河岸から入るには、カルーゼル橋Pont du Carrousel)を渡ってきた道路がそのまま建物の0階部分を突き抜いて進む道を利用することになります。初めて来たときには、バスや自動車が次々にルーヴルの建物に突っ込んでいく様子に驚きました。カルーゼル橋は全長168mのコンクリート製の橋。現在のものは第二次大戦の直前に架けられたものです。ルーヴルの中庭は、かつて騎馬パレード(carrousel)がおこなわれていたためカルーゼル広場(Place du Carrousel)という名がつけられており、橋名もこれに由来。「初めて来たとき」と申しましたが、1999年秋に学問修行のためパリに降り立って、最初の朝に散策してここに到り、カルーゼル橋の上からセーヌを見て妙に感動したんですよね。「ああ本場に来た」という高揚感だったのか。若いな(汗)。


 
ヴォルテール河岸


 
ロワイヤル橋


オルセー美術館




ところで、フランス語の「○○通り」には、並木大通り(boulevard)、大通り(avenue)、普通の通り(rue)などがありますが、川に沿った道は河岸(quai)というのがそのまま道路名になります。この付近の右岸側はルーヴル河岸(Quai du Louvre)、フランソワ・ミッテラン河岸(Quai François Mitterrand)とつづきます。カルーゼル橋から下流側の左岸はヴォルテール河岸Quai Voltaire)。政治的なにおいのする右岸に比べて左岸は啓蒙的やね。ヴォルテールの名を冠したホテルやレストランも見えます。

200mほど進んだところにロワイヤル橋Pont Royal)が架かります。フランス語で王のことをロワ(roi)といいますので、royalというのは「王の」という形容詞。橋の右岸側に後述するチュイルリ宮があったため「王の橋」と呼ばれました。全長110mの石橋で、ルイ14世治下の1689年に落成した、市内で3番目に古い橋です。まさに太陽王の全盛期にあたりますが、そのころ彼と宮廷、政府、貴族たちはすでにヴェルサイユに移っていました。雑多な市民が織り成す都市空間を嫌ったのかもしれませんけれど、都市パリと政治の中心ヴェルサイユが分立したことが、100年後の革命の折に微妙なパワー・バランスの問題となって噴出します。

いまは自動車にも歩行者にとっても有用とはいいがたい位置なので、シンプルで優美な見どころとしての価値が高いロワイヤル橋です。右岸のルーヴル美術館は、ちょうどこの橋の前まで建物が伸びています。長辺が700mくらいあるんじゃないかな。所蔵作品の年代で区切った場合、ルーヴルはおおむね18世紀までで、19世紀の美術品を収蔵することになっているのがロワイヤル橋の左岸側にあるオルセー美術館Musée d’Orsay)です。印象派の絵画がとくに有名。

 
(左)マネ「笛を吹く少年」 (右)ミレー「落穂拾い」(オルセー美術館蔵)
なお現在は撮影禁止です この写真は2008年撮影


オルセーの開館は1986年と新しい。もともとオルレアン鉄道という私鉄の都心ターミナルとして1900年に開業した駅舎兼ホテルでした。現在オステルリッツ駅からオルレアン方面に伸びる路線で、近鉄とか京阪がトンネルを掘って大阪の都心部に乗り入れたような感じだったようです。しかしもろもろの事情で1939年には閉鎖され、戦時中にはドイツ軍の司令部が置かれるなど転々とし、めぐりめぐって近代美術の殿堂としてよみがえりました。中に入ると吹き抜けの感じが欧州のターミナル駅そのものですし、よく見るとプラットホームの跡が上手に展示スペースとして利用されていたりします。

 


 
 
チュイルリ公園


ロワイヤル橋を右岸側に渡ったところから西の一帯がチュイルリ公園Jardin des Tuileries)。公園と訳しましたがjardin(英語のgarden)ですから本来は庭園で、かつてここにあったチュイルリ宮Palais des Tuileries)のお庭部分です。チュイルリ宮はブルボン朝の王宮が置かれたところで、ルーヴル宮と実質的につながって、王国の中心部としての機能をもっていました。この庭園はル・ノートルが手がけた名園とされます。1789714日のバスティーユ監獄襲撃事件でフランス革命がはじまり、84日に封建的諸特権の廃止、同26日に人権宣言が打ち出されますがルイ16世の動きは鈍く、またパリ市内の食糧事情が悪化したこともあって、105日に主婦などが自然発生的に蜂起してヴェルサイユまで行軍し、国王一家をパリに連行するという事件が起こります(「ヴェルサイユ行進」。自然発生ではなく扇動者があったという説も根強い)。フランス革命のところになるとやけに物語風になる山川の教科書で読んだのがなつかしいな。世界史の先生は「ケーキを食べればいいじゃん」というマリ・アントワネットの有名なセリフをただ紹介するのではなく、このウソっぽい話を広めたシュテファン・ツヴァイクの小説をちゃんと示してくれました。社会科の教師はそうあらねば。それもあって、チュイルリという名に惹かれてここにやってきたわけですが、長方形のやけに広いお庭がつづいているだけで特段の見どころもなく、拍子抜けしたものでした。ヴェルサイユのお庭もそうだけど、ル・ノートル先生はスケールで魅せる方針らしく現代人の散策の都合にはあまり合わせてくれないようです。ちょうどお昼休みで、近所の勤め人や幼児を連れた家族などがサンドイッチなどを持ち込んでランチを楽しんでいます。さすがに日陰のベンチから埋まっていきます。


 

レオポール・セダール・サンゴール橋


勘弁してよ!


チュイルリ公園の南辺は砂地の歩道で、公園のつづきをなす並木がきれいに剪定されて緑陰をつくっています。こういうのを造らせたらフランス人は見事なんですよね。500mほど歩いたところにレオポール・セダール・サンゴール橋Passerelle Léopord-Sédard-Senghor)が架かります。いや、いまのいままでソルフェリーノ橋Passerelle Solférino)だとばかり思い込んでいましたが、2006年にセネガルの初代大統領の名を冠して改称されたのだそうです。このシリーズはいつも拙宅のデスク横に貼ってあるパリの地図を見ながら書いているので、ときどきデータが古くなっています(汗)。現在の橋は1999年に落成したそうなのですが、前述のように私が初めて本格的に花の都を知るようになったまさにそのときなので、開通していたのかどうか微妙なところ。このときの架け替えで歩行者専用橋(paserelle)となり、橋桁のない鋼製アーチ1つだけのシンプルなデザインが採用されました。芸術橋と同様に、歩道部分は木板をはめ込んであたたかみを出しています。

おもしろいのは、アーチの梁の部分にも歩道が設けられていて、橋の両端で河岸道路と河川敷の遊歩道の2レベルそれぞれに接続している構造です。右岸側はさらにトンネルを通って、信号を渡らずチュイルリ公園に入れるようになっています(この折は閉鎖されていました)。なお旧名のソルフェリーノは北イタリアの地名で、1859年にナポレオン3世がサルデーニャと組んでオーストリア軍を撃破した場所です。セーヌ川の橋名に多い「戦勝記念」シリーズの1つ。戦勝とはいっても、ナポ3世はそのあとサルデーニャの首相カヴールにたぶらかされその成果を乗っ取られて、結果的にイタリアの統一に貢献することになります。アンリ・デュナンが戦地の様子をレポートして赤十字社設立の直接のきっかけになったのがソルフェリーノの戦いでした。


参考文献
小倉孝誠『パリとセーヌ川 橋と水辺の物語』、中公新書、2008
渡辺淳『パリの橋 セーヌ河とその周辺』、丸善ブックス、2004年 ほか


*「歩いてよう」の表現は、五百沢智也先生の名著『歩いて見よう東京』(岩波ジュニア新書、1994年、新版2004年)へのオマージュを込めて採用しています
*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=129円くらいでした

PART2へつづく

 

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