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1 リュクサンブール公園の西側



花の都ですからね〜


歩いて見ようの4thシーズンは、2014826日(火)午後の左岸リュクサンブール公園Jardin du Luxembourg)からはじまります。ここはパリ市内でもとくに好きな場所のひとつ。昼ころまで小雨まじりだったのですが、16時ころすっかり晴れ上がりました。この季節には多いパターンです。20時を過ぎるまで明るいので、16時といっても夕方の感じはまったくしません。気温は27度くらい、でも湿度があまりないので東京の夏の暑さはないです。とくにアテもないまま、リュクサンブールに来てしまいました。

町の真ん中にある、広大な英国式庭園。八角形の人工池では、いつも子どもたちがヨットを走らせて遊んでいるのだけど、お天気のよい夏休みのためかいつにも増して多いですね! 公園内に置かれたスチールのイスはほぼ「満席」。文字どおり老若男女が集って、憩っています。池の正面にあるカワイイ宮殿は、もともと貴族の邸宅だったものですが、いまはフランス議会上院(Sénat)の議事堂として用いられています。このため近くにあるRER-B線のリュクサンブール駅は、「セナ」という副題をもっています。



改修中のパンテオン


初めてここに来たのも、9月の、こんな陽気の日でした。いまは組織替えと地方分権化でなくなってしまった近くの国立教育研究所(INRP)でせっせと資料集めをしていたとき、昼休みにサンドイッチを手にここへやってきて、ほんわかのんびりしたものです。この付近はパリを代表する文教地区で、ソルボンヌ(パリ大学の一部の通称)が真ん中にどかんとあり、その周辺には古書店や文具店などそれらしいお店が集まっています。近ごろはチェーン店なども増えてかなり俗化した印象はぬぐえないんですけどね。

リュクサンブール公園から東へまっすぐ伸びるスフロー通り(Rue Soufflot)に入ると、正面にパンテオンPanthéon)の巨大なドームが見えます。パンテオンはただいま大改修中。白い覆いをかけられています。この建物にもいろいろ思い入れがあるのだけど、その由来と「素顔」についてはこのシリーズの1ページ目に載せましたのでそちらをどうぞ。公園でしばし過ごしたのち、左岸の散策に動き出しました。歩いて見ようをやろうと思って出かけてきたのではないのですが、お天気と気分がそんな感じなので。公園の北門を出たところに、有名なオデオン・ヨーロッパ劇場(Odéon Théatre de l’Europe)があります。

 オデオン劇場




トゥルノン通り側から見た下院議事堂


パンテオンが左岸のいちばん高いところ(サン・ジュヌヴィエーヴの丘)にあります。リュクサンブールは少し下がりますが、ここからセーヌ川方向(北)に向かうと、どの道も下り勾配になります。オデオン劇場横のトゥルノン通り(Rue de Tournon)を下っていくことにしましょう。このへんの通りはだいたい歩いたことがあるような気がする。お店などが目立つようになるのは、坂を下りきったあたりです。その付近は左岸の東西の幹線道路であるサン・ジェルマン通り(Boulevard Saint-Germain)に付随する地区。メトロのオデオン駅、マビヨン(Mabillon)駅、サン・ジェルマン・デ・プレ(Saint Germain des Près)駅とつづく一帯です。

サン・ジェルマン通りはそれこそ飽きるほど歩いているので、今日はその南を並行するサン・シュルピス通り(Rue Saint-Sulpice)を西に向かって歩いて見ようかな。小規模のホテルとか飲食店なんかが多いですね。そして何よりも服飾関係のブティックが目立ちます。ショッピングといえば右岸というのは昔の話で、最近は日本のおしゃれ雑誌などでも、この界隈の小さなブティックを紹介することが多くなりました。

 






お店のファサード(正面)をダーク系の塗色にし、ウィンドウに並べる看板商品もやや抑制的に見えるというのがパリ(というか欧州)の上等なブティック街の景観をつくっていますね。高級品やブランドにほとんど縁のない私ですが、こういうブティック街というのは嫌いではなく、あまりきょろきょろしないように気をつけながらよく歩きます。何かを購入するということはほぼありませんが。

おお、無印良品(Muji)があるね。こんなところにブティックを構えているとは知りませんでした。欧州各地で見かける同店ですが、当然のことにNo Blandというニュアンスはあちらにはほとんど伝わらず、Muji(フランスではミュジ)というブランドだと解されています。


サン・シュルピス教会 


そういえば、左岸といっても常宿のある5区(パンテオンを中心とする東側)はよく知っているけど、リュクサンブールから西側の6区はさほどでもなかったな。何となく大通りばかりを選んで歩いたり、バス移動したりしていました。サン・ジェルマン・デ・プレから南にまっすぐ伸びるレンヌ通り(Rue de Rennes)は使用頻度が高く、道沿いにあるフナックの書店などもよく利用するのですが、その東側一帯は、少なくとも自分の記憶にはほとんどありません。

ほどなく、通りの名にもなっているサン・シュルピス教会(Égllise Saint-Sulpice)が現れます。1646年に建設が開始され、ほぼ100年を経て完成したパリで2番目の大きさをもつ教会(1番はもちろんノートルダム)です。ここには何度か来たことがありますが、いつもサン・ジェルマン・デ・プレ側から来ており、東からアプローチするのは初めてかもしれない。『ダ・ヴィンチ・コード』で謎の仕掛けがここにあるという設定になったため、一時は観光客が増えたそうです。教会前の広場にある大きな噴水も見事。


 
ヴュー・コロンビエ通り


マダム通り


サン・シュルピスの西側で直交する南北の道路はボナパルト通り(Rue Bonaparte)。ナポレオン1世の姓を冠したこの道は、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の前を通ってセーヌ河畔に向かいます。川に近づくとアンティーク屋さんが増えるという話は歩いて見ようの1シリーズでしましたね。東西の道路はここからヴュー・コロンビエ通り(Rue Vieux Colombierと名前が変わります。かなり前に、教え子の女の子たちが「バッグ屋さんを見たい」とかいうので、このあたりに付き合ったのを思い出しました。

ボナパルト通りの一筋西側を並行して南北に走るのがマダム通りRue Madame)。おばちゃん通りということでもなかろうし、どこのマダムなのか以前から不思議に思っていたのだけど、最近は道路名表示に由来となった人物の生没年と属性が添えられるようになって、ある程度はその場で答えがわかるからうれしいですね。表記によれば「のちにルイ18世となったプロヴァンス伯の夫人」だそうです。ただこれでもわからないので帰国してから調べてみると、現代では男性の敬称(○○さん)であるムッシュ(Monsieur)は王朝時代には国王の兄弟で最年長の者を指しており、ルイ16世の在位中はプロヴァンス伯がそう呼ばれていた、で、その妻であるサルデーニャ家出身のジョゼフィーヌ・ド・サヴォワが「マダム」になったということらしい。それはいいけど、なぜこの夫婦がこの地域とかかわりをもったのかは依然としてわかりません(汗)。


 
高級時計店の壁の時計はカッコいいな

 


学校の壁面にあるのは、大戦中にナチス・ドイツとヴィシー政権により
ここから強制収容所に連行されていった子どもたちの慰霊碑


よく晴れた17時のマダム通りは、歩く人がほとんどありません。抜け道になっているわけでもないらしく、自動車もほとんど通らない。上品な時計店があったのでウィンドウをのぞいてみたら、€20,000の腕時計なども展示されていて、なかなかの相場でした。何をどうしたら時計がそんな額面になるんだろうね。


もう少し南に進むと、その名もマダム小学校(École primaire publique Madame)がありました。幼稚園(École maternelle)も併設されています。おもしろいのは、各クラスの保護者代表委員(délégués réprésentatants des parents d’élève)の顔写真と名前が広報板に掲出されていること。「ジュリアンのママのセリーヌ」みたいな感じで、くだけているのがまた興味深い。それと、こちらの学校は1週間分の給食のメニューも表に出しますね。ちなみに来週の91日のメニューは「ワールドカップ2014」なる意味不明のタイトルがついていて、マカラナ・サラダ(Salade macarana トウモロコシのチップスとトマト、赤インゲン、パイナップル、ココナツ入りフレンチ・ドレッシングのミックスサラダ らしい)と、ブラジル・ディップに自家製バーベキュー・ソース、ライス、チーズはブリまたはゴーダ、そして新鮮なフルーツ。これだけ見ても意味不明ながら、どこかの国の民族料理をイメージした異文化教育なのかもしれませんね。


プロテスタントの教会 


リュクサンブール公園西門が見える


こういう、何でもないような住宅街を散策するというのもヘヴィー・リピーターならではの楽しみです。途中でヴォジラール通り(Rue de Vaugirard)を横切りました。さきほどオデオン劇場のところから北に向かいましたが、劇場の前を東西に走る道です。さほど勾配を登ってきた感じがしないのは不思議ですが、東西で高低差があるのでしょうね。

ほどなく、少しばかりブティックや飲食店がある一帯に出ます。1ブロック東を見ると、リュクサンブール公園の西門。この公園は本当に広くて、今回の出発点であった八角形池の西側は木立に囲まれうっそうとしたゾーン。そこを抜けると、いま立っている地点に出ます。私は15年前(1999年)から5区のホテル・ド・レスペランスを常宿にしているのですが、1回だけ浮気というか、違うところに宿泊したことがあります。その次にパリを訪れるとき、レスペランスに国際電話してみたら、あいにく予約で埋まっていて部屋を確保できないといわれ、やむなくこの西門付近のホテルを取りました。この通りを歩くのはそれ以来かもしれない。見ると、ホテルは今も営業中でした。その折の滞在中に、前回滞在時の写真などをもってレスペランスを訪ねてみると、マダムは「何でうちに泊まらなかったの? 満室なんてことないのに」と。レセプションの対応がよくなかったのか、当方のフランス語が不十分だったのか、まあそういうことだったらしい。「次からは絶対にうちにいらっしゃい。最優先してあげますからね」と親切にいっていただいたこともあって、以降はこちらも航空券と同時に予約を入れるようにしています(電話でなくメール)。浮気先が6区だったのは、リュクサンブール公園の近くを希望したためです。

 


*「歩いてよう」の表現は、五百沢智也先生の名著『歩いて見よう東京』(岩波ジュニア新書、1994年、新版2004年)へのオマージュを込めて採用しています
*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=138円くらいでした

2へつづく

 

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