France/Deutschland sans frontière!!

PART1

 

 

初めて一人で海外に出たときには、こんな私でもやっぱりそれなりの緊張感とか身構えというのがありました。同じように――あるいは別種のそれかもしれませんが、フランスに慣れてきて、そこから別の国に行く際にもけっこう身構えました。そのころにはシェンゲン協定Schengen Agreement)がとっくに機能しており、単一通貨ユーロも流通していて、こと欧州大陸内に関しては国境というものを意識せずに移動できたのですけれど、私の心の中にボーダーが厳然として存在しました。先年亡くなったベネディクト・アンダーソンは国民国家を「想像の共同体」(the Imagined Community)であると規定しました。国民国家の輪郭をなすボーダーというものは、やはり心理的な部分に根ざしていたのでしょうか。あるいは、かつては実体ともども揃っていたのに、心理的な部分だけガンコに残ってしまっているのでしょうか。この西欧あちらこちらは、トリノ冬季五輪が開かれていた20062月の「ドイツの旅」にはじまります。いま思えばドイツの中でもいちばんフランス寄りの2都市を歩いただけなのですが、「外国」に行くのだという妙な高揚感みたいなものがあった気がします。それ以前にも英国やスイスを訪れていたので、おそらくは自分の知らない言語の中に飛び込むということへの恐れがどこかにあったのかもしれません。ドイツ語は現在にいたるまでほとんど解しません。英語とフランス語をどうにか話せる程度ではあります。でも「国境越え」を繰り返しているうちに、そこへの恐れや躊躇がほとんど霧消してしまっています。

 
東駅からTGVナンシー行きに乗って10周年の旅がスタート


あれから10年、毎年この季節にパリを発ってどこかに出かけてきました。このところ年3回と遠征が激増?しています。2016221日(日)、カルチェ・ラタンの常宿を6時過ぎにチェックアウトしてパリ東駅Paris- Gare de l’Est)にやってきました。2006年の「ドイツの旅」では北駅(Gare du Nord)からブリュッセルを経由する高速特急タリス(Thalys)でケルンをめざして出発しています。この東駅を利用したのはその翌年、ロレーヌのメス(Metz)からルクセンブルクに向かった「西欧三都市はやあるき」のときが最初。そのころは東駅からアルザス、ロレーヌ、ドイツ中部方面へ向かう高速特急TGVの開業直前で、いわゆる在来線の特急に3時間ほど乗ってメスをめざしました。北駅と東駅は歩いても78分で着いてしまうほど近接していますが、雰囲気はかなり違います。北駅のような重厚さ、物々しさはこちら東駅には感じられません。北駅では構内のほとんどをドーム屋根で覆っているせいかもしれませんね。今回利用するのは813分発のTGV2503便。インターネットで2等車の指定をとっており、A4判にプリントアウトしたEチケットを持参しています。1年前にTGVでブルターニュに向かった際には、座席なし(sans place attribuée)というチケットになっていることに前日まで気づかないミスをしてしまいました。今回は自宅でPCを操作しながら厳重にチェック。もう学習しました。ほぼ満員で、家族連れの姿も目立ちます。


パリ→ナンシーのEチケット フランス語版の調子が悪く英語版で予約したので英語表記になっている

 TGV2等の車内


このチケットを手配する段階で、今回はどこに行こうかとけっこう迷いました。前提となるのは、またパリに戻ってくるという条件です。このところ行きっぱなしというか、行った先からフランクフルトあたりを経由してそのまま東京に帰るパターンが多いのですが、今回の航空券は単純にパリ往復。なぜかというと、ここ数年ANAを利用しすぎたおかげでマイルが貯まっており、この3月までに使い切るべきものを含めて45000を超えていました。これだと欧州主要都市への単純往復が可能なのです。空港利用税などは若干かかるものの、本体0ということならばそうしない手はありません。単純往復にしなくても、たとえば地上を自力で移動してフランクフルトから帰るというのでもよいのですが、その時点(12月)ではどこに行こうという明確な希望がありませんでした。いざ列車のチケットを取ろうとして、最初はスペインのバスク方面を考えたのですが、なぜかネットでの発券がうまくいきません。これは行くなということなのだと思いなおし、10周年だから原点回帰ということもあって、ロレーヌからドイツをめざすことにしたのです。メスは10年前に訪れたから、ロレーヌのもう1つの主要都市であるナンシーNancy)をめざそう。片道の早割包括運賃は€43。乗り込んだTGV2503便は、途中ミューズTGVMeuse TGV)にのみ停まってナンシーまで行きます。TGVは高速専用線(Ligne à grande vitesse: LGV)を降りたのちは在来線に直通してあちこちに足を伸ばしますが、きめ細やかに系統が設定されており、813分発のわがナンシー行きのあと、25分発ストラスブール行き、40分発メス経由ルクセンブルク行きとつづきます。在来線特急時代だったら途中まで併結して走り、先のほうで分割するという方法を採ったかもしれません。TGVは中距離便に関するかぎり航空と同じような「点と点」の思想に立っているようです。

東駅を出て10分ほど在来線を走り、そのあとLGVに入ったのがすぐにわかりました。ぐんぐん加速してたちまち最高速度(300km/h以上)に達したものと体感されます。この路線は2010年にストラスブールに行ったときに通っています。911分にミューズTGV着。意外なことにここで半数くらいの人が下車しました。あとで地図を見ると、ヴェルダン(第一次大戦の激戦地)の南あたりに位置しているものの、駅自体は田園地帯にあります。日本の新幹線の新○○駅みたいな感じで、おそらくパーク・アンド・ライド(大きな駐車場を備えてマイカーと鉄道との接続を図るタイプの駅)になっているのでは。この路線上に位置するランス郊外のシャンパーニュ・アルデンヌTGV駅(Champagne- Ardenne TGV)を利用したことがありますが(今回の便は通過)、そんな感じでした。大きなカーブや勾配がないこのLGV-ヨーロッパ線はTGV車の走力を十二分に引き出せる路線。思い切り疾走して、930分ころ在来線に入りました。列車は急に減速して、高速道路のインターチェンジのような側線を走り、ローカル列車も走る線路に下りていきます。LGVはこの先もう少しだけつづくのですが、そこは帰路に通ります。この2503便はLGVと直交する線を南に向かってトコトコ。左手(東側)にモーゼル川La Moselle / Die Mosel)が見えて、しばらく寄り添って走りました。もとより列車は上流側に向かって走っています。このモーゼル川はメス、ルクセンブルクを通り、マルクスの故郷であるトリーア(Trier)を経て、コブレンツ付近でライン川に合流します。流域は良質な白ワインの産地で有名。

 LGV−各方面の概念図

 
 
SNCFナンシー駅 英語のほかドイツ語の表示が併記されているのは土地柄


定刻どおり950分にナンシー着。パリから直線にして280kmも離れているというのに、TGVは速いですね! 駅ちかくのホテルを予約しているのですが、さすがに午前中のチェックインは難しいでしょうから、キャリーバッグを預けて町歩きすることにしましょう。小ぶりの駅舎を背にして左前方へ、地図で予習したとおりに歩くと、5分もかからずにカンパニール・ナンシー・サントル・ガールCampanile Nancy Centre- Gare)が見えました。サイトによれば2013年にできたばかりのホテルで、カンパニールはルーヴルというグループの傘下にある一業態。外観からしてビジネスホテルそのものですね。予約サイト経由で素泊まり€55のスーペリア・ダブルを取りました。レセプションはフランスの伝統的なプチ・ホテルのそれではなく、日本でよく知るタイプのビジネスホテルのフロントと同じタイプ。若いホテルマンに、今夜の予約をしたのですが荷物を預けてよいですかと訊ねると、「いえムッシュ、お部屋はもう用意できていますのでチェックインなさってください」と。午前10時なのにエラいです。まあ、間違いなく1泊するのだし、部屋のクリーニングが済んでいるのなら入れてしまったほうがよいというのはあります。部屋は簡素な造りながら清潔で、けっこう広い。7階なので細長い窓からは赤い屋根の建物がぎっしり並ぶナンシー市内が一望できました。45日、幸先よし。

 
 
カンパニール・ナンシー・サントル・ガールの室内


朝の10時台から活動ということは、さほど広くないであろう地方都市のことなので、今日中におおかた見て回ることができます。明日は少し離れたドイツ側への移動を考えているので早めに出られそうですね。駅と旧市街の中心を結ぶスタニスラス通り(Rue Stanislas)に出て、緩い下り坂を進みます。しばらくはオフィスばかりの静かな道ですが、自動車乗り入れ禁止ゾーンにさしかかるあたりで両側に飲食店などが現れました。そこを抜けたところに見える方形の空間がスタニスラス広場Place Stanislas)。ユネスコの世界文化遺産に登録される「広場」です。

 
スタニスラス通り 欧州諸都市ですっかりおなじみになったシェアサイクルがここにも


とはいえ、広場に「名」も何もないような気もする。世界一美しいと称されたブリュッセルのグラン・プラスも私にはピンと来なかったしなあ。審美眼がないだけかな。このスタニスラス広場は正方形に近いかたちで、周囲の建物の外観が統一され、道路が出入りする箇所にはロココ様式の装飾を施した立派な金属柵がしつらえられています。想像していたのよりも広いな〜。時計台を備えた最も立派な建物は市庁舎(Hôtel de Ville)。その一隅にツーリスト・インフォメーションがあったので、無料のシティ・マップを1部拝領しました。これをポケットに入れておけば自在に歩けることでしょう。広場の中心に建つのはこの場所の名の由来にもなったロレーヌ公スタニスラスStanislas Leszczynski, le Duc de Lorraine)の像。公爵(duc)ということは王より格下の大名クラスなのですが、この人は波乱の生涯を送っていて、ロレーヌに来る前は2度にわたってポーランド王兼リトアニア大公(スタニスワフ1世)でした。18世紀前半のポーランドは、台頭するロシア、バルト海に覇を唱えるスウェーデンに挟まれて苦しみ、王権を拡大できないまま国内諸侯が対立するという悪循環に陥っていました。スタニスワフは親スウェーデン派に担がれて王位に就いたものの指導力を欠き、2度の追放となります。ただ自尊心は高くなぜだか行動力も備わっていたため、そのつど庶民に身をやつして別の国に現れ同盟者を募るといった足跡を残しています。しかし執念は実らず、1736年に王位を放棄して、娘が嫁いでいたフランスのルイ15世に救済されました。ルイ15世(実権を握ったのは側近のフルーリー枢機卿)は、ただ岳父の身柄を預かっただけでなく、フランスの拡大のために彼を利用しました。ハプスブルク家の当主でありながら女性ゆえに疑問視されていたマリア・テレジアの相続権を認める代わりに、彼女の夫フランツが支配していたロレーヌを放棄させ、これを1代かぎりということで岳父にゆだねました。スタニスラスは故国ポーランドを思い、それに似せた町づくりをしたといいます。私が博士論文の題材とした20世紀初頭の小学校歴史教科書にはこのように記述されています。

ルイ15世がその娘と結婚していたポーランド王スタニスラス・レチンスキーがドイツ帝国によって追放されたため、これと戦わなければいけないことになった。/この戦争はすぐに終わった。スタニスラスはポーランド王に復位できなかった。その代わりに、彼にはロレーヌ公国が与えられた。そしてその死後はフランスに同公国を帰属させることを認めた。/スタニスラスは公国の首都ナンシーを世界で最も美しい都市の一つに仕立てた。彼が1766年に死ぬと、ロレーヌはフランスに併合された。

(挿絵のキャプション:引用者注)ナンシーのスタニスラス広場  この広場にはスタニスラス王の名が与えられている。この場所を囲んだ美しい建物を建設させたのが彼だったからである。右手には彼の像が見える。建物にはさまれた木々の前には、鉄でできた格子に囲まれた泉がある。ここは世界で最も美しい広場の一つである。
Ernest Lavisse, Histoire de France: cours moyen, Armand Colin, 1921, 18e éd., p.122 早稲田大学図書館蔵 古賀訳)

 
 
スタニスラス広場とロレーヌ公スタニスラスの像


歴史教科書というのはいつだって「いま(その時々)の政治状況」の映し鏡であるわけですから、この記述にもウラというか伏線めいたものがあります。ロレーヌがフランス領になったのは1766年と、実は新しい。ただその併合手続きが合法であったということを強調する文脈になっているのです。普仏戦争(187071年)後のフランクフルト条約で、敗れたフランスはアルザス全土と、ロレーヌのうちメスなどの北部地方をドイツに割譲しました。国際条約による割譲なのだからこれだって合法的ではあるのですが、教科書ではこんなふうに叙述されます。

アルザスは数百年来のフランス領であった。ロレーヌは100年以上そうであった。両地方は、ずっとフランス領であった地方がフランスを愛するのと同じように、フランスを愛していた。しかも両地方は、それ以上にフランスを愛していた。両地方が国境地帯、敵のすぐ近くに位置していたからである。/ドイツは、彼らがドイツ人になりたいのかを訊ねることなく、両地方を奪った。フランスがニースとサヴォワを得たときには、住民の同意があったのである。フランスは、諮ることなくその主人を代える動物のように人間を扱う権利を誰ももたないと信じている。
ibid., pp.231-232

そこに住む人たちが何かを一様に愛するなんてことがあるはずはないし、愛し愛されたことが根拠だというならそんな主観的なことは国際政治ではありえません。だいいちスタニスラスを呼び込んでロレーヌを併合した経緯の中に、「住民の同意」なんてないですもんね。おとなたち(当局)はそんなことは百も承知で、国内向け、児童向けにはこのような言説を振りまいて、反ドイツ感情を煽り立てたということです。さらにいえば、反ドイツというのが真のめあてなのではなく、共通の敵を設定して国内をまとめるということがフランス自身の喫緊の課題なのでした。このときから1世紀後の東アジア界隈をみていればそういう構図がよくわかります。ただ、国内的な目的のために仮想敵を設定すると、それが本気に転移したとき誰も止められないのだという教訓を、私たちも十分に心得ておく必要があります。

 
市庁舎に掲げられた3本の旗 左から欧州連合旗、フランス国旗、ロレーヌの旗


1870
90年代に小学校フランス語(日本でいう国語)の副読本として広く読まれたG.ブリュノ『二人の子どものフランスめぐり』 Le Tour de la France par deux enfants)は、主人公であるアルザスの孤児兄弟がフランス全土を旅して各地方の姿を体感し、愛国心を高めていく(読み手である児童をそういう気分にさせる)テキストでした。アルザスを出発した兄弟はすぐナンシーにやってきます。

ゲルトルート夫人がいいました。「ジュリアン、ロレーヌでよく働いていたのは男たちだけではありません」。ジュリアンは答えました。「うん、ロレーヌの女の人たちは美しい刺繍をつくれるよね。僕、今日もそれがば〜っと広げられているのを見たよ。でもいままで全然知らなかった」。「あなたたちの他にもそれを知らない人たちがいるのよジュリアン。ナンシー、エピナル、そしてロレーヌ各地の刺繍はね、世界中で売られているんです。船に積まれてインドまで運ばれるの。それを農家の嫁や娘たちが競ってつくり出してきたものなのよ。ロレーヌには35000人の女職人がいて刺繍をつくっています。でもねジュリアン、あなたたちが意識して刺繍やレースを見たことがなかったのだとしても、私は見ていましたよ、あなたたちが造花で飾られたショーウィンドウの前で立ち止まって感激していたのを」。ジュリアンは叫びました。「えー、ほんとに! 花瓶に挿してある1本のバラがあって、本物に超そっくりだったから、それが紙でできているんだと信じられなかったんだ。ゲルトルートさんが僕にそうなんだといってくれなかったら」。「その花々はどこから来たと思う? ジュリアン」。「まったくわかんない。とってもきれいだけど」。「それはね、ロレーヌの昔の都、ナンシーから来ているの。102600人が住む、大きくて美しい都市よ。造花でパリに匹敵するのはフランスではナンシーだけ。ジュリアン、あなたも見たとおり、ロレーヌの女たちは勤勉で、センスがいいことで有名なんです。それに彼女たちはちゃんと教育を受けているわ。ほとんどが読み書きできます。ロレーヌにある3つの県は、フランスでいちばん賢く、器用なところに含まれるの」。
G.Bruno, Le Tour de la France par deux enfants, Belin, 1905, 326e éd., pp.53-54 古賀訳)

何にでも興味を示して地元の人に質問する7歳のジュリアンが(14歳の兄アンドレとともに)「ご当地あるある」を次々に会得していくプロセスはやっぱりおもしろい。なるほど、ナンシーは女人(にょにん)でもつ、ていうことね。ちなみに最後のほうに出てくる「教育を受けている」というのはinstruit(e)という過去分詞。公教育が確立されたばかりの時期で、親のないジュリアンはもちろん学校に通えていないのですが、読み手である小学生たちに「フランス共和国は公教育を整えて君たちを就学させているのだ。その意味をよく噛みしめて、よーく勉強するのだぞ。この本を読んで」といった意識を植えつけています。ほぼ同時期の教育勅語が「(お前たち臣民は:引用者注)學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ」と説いているのと趣旨は同じ。あ、いかんいかん、めずらしく本業(教育思想史)のほうに脱線してしまいました。このシリーズで本当の本業が出てくるのはわれながらめずらしいのですが、その昔、教科書に載っているスタニスラス広場の挿絵とキャプション(上に掲出)にインスパイアされて、博士論文に「付論 歴史教科書の中のアルザス・ロレーヌ」という稿を入れて自論を補強したので、個人的な記憶と強く結びついているわけです。はい。

 ネプチューンの泉


ここナンシーは1871年の領土割譲の対象にはならず、フランスに残留しました。このためメスなどからフランス系の住民が多く移住してきました。1918年にアルザス・ロレーヌはフランスにより奪還されますが、第二次大戦中の1940年に再びドイツに併合されます。このときナンシーはヴィシー政権に呼応して親独的に振る舞い、ドイツ軍の進駐も受け入れています。19449月、米軍を中心とする連合軍の大攻勢によりナンシーは解放されました。

スタニスラス広場をいったん後にして、東に進みます。先ほどのスタニスラス通りをそのまま東に伸ばした位置にあるのですが道路名がサン・カトリーヌ通り(Rue Saint-Cathrine)に変わっています。こちらは物静かなオフィス街っぽいですが、旧市街は石造り風の建物ばかりですので趣があります。水族館(Musée-Aquarium Nancy)と称する建物があるのだけどそのようには見えず、外壁には動物学博物館(Musée de zooologie)、動物学研究所(Institut de zooologie)、そして理学部(Faculté des sciences)といろいろな名が掘り込まれています。しかも、どれもそのようには見えない・・・。さらに少々歩くとドミニク・アレクサンドル・ゴドロン庭園(Jardin Dominique Alexendre Godron)という、庭園というには狭すぎるような区画が現れました。自由開放されているので中に入ってみたところ、当たり前ですけど冬の花壇というのはやっぱり冷え冷えとしてしまいますね。入口には「2007年度欧州花の町コンペ金賞」といった文字が誇らしげに刻まれています。ま、季節が悪いということね。庭園のすぐ横に、サン・カトリーヌ門(Porte Saint-Cathrine)があります。もともとは町の東端を仕切る門だったと推察されます。西端の門はホテルのすぐそば(駅とのあいだ)にありました。

 
(左)ゴドロン庭園  (右)サン・カトリーヌ門

 レジャー港


サン・カトリーヌ門を抜けると、たしかに旧市街感が一気に薄れて普通の町になります。住みやすいのはたぶん普通の町のほうでしょう。運河らしき水路が見えます。レジャー港(Port Plaisance)とのことですがレジャーボートやクルーザーのたぐいはあまり見えません。まあかなり内陸ですしね。地図を見て確認したところ、ここからさらに数百メートル先をムルト川(la Meurte)が流れていて、市内中心部に直接荷揚げできるようにするための運河を掘ったものらしい。内陸水路が発達した欧州の都市ではしばしばそのようなことがおこなわれます。鉄道以前にものを運ぶといったら水運ですからね。私もこのあたりの詳しい地理までは知らず、あとから地図を眺めて意外に思ったのですが、ナンシーはモーゼル川本流ではなくその支流のムルト川に接しています。モーゼル川はナンシーの西十数キロの付近をこれと並行して北上し、いったん西に蛇行したのち、ナンシー北方でムルト川を合わせます。水量はともかく直進するのはムルト川のほう。その先はほぼ真北に流れていき、メスに達します。さらに下流に進むと、ルクセンブルクとの国境を越えシェンゲン(Schengen EUの域内自由通行を決めたシェンゲン協定の締結地)を経て、ドイツ領内に入っていきます。「この川はどこから来て、どこに行くのだろう」というのは多くの子どもが考えることだけど、欧州の川でそれをやるとスケールが大きくて楽しいでしょうね。

レジャー港の手前で右折、つまり南に向きを変えます。門があるところだから旧市街の輪郭をなぞっているわけね。お、トラム(路面電車)が走っている。これは要チェックで、何だったらあとで乗りにいこう。と、そのときは普通にやりすごしました。まさかあんなふうになっているとは思ってもみなかったので。

 
 サン・ジョルジュ門


今度はサン・ジョルジュ門(Porte Saint-Georges)という門がありました。サン・カトリーヌ門は小型凱旋門みたいな単なるアーチでしたが、こちらは楼閣というか見張り台を備えた建物の股ぐらを通り抜けるタイプ。スイスの首都ベルンにはこの手の本格的な門がいくつもありました。手前にパン屋さんがあり、焼きあがったパンのいい香りがして誘い込まれそうになるものの(お店の人とも目が合ったものの)いまパンはちょっと(笑)。トラムの走るサン・ジョルジュ通り(Rue Saint-Georges)が東西の大通りのはずですが、なぜだかこの門は少しだけ南にズレています。町の防衛のためにわざと通りにくくする武家町の造りに近いのかな? ですから現在はここを通る自動車はほとんどないはずで、私と同類のビジターさんが2人ばかり写真を撮っているだけでした。

 
ノートルダム・ド・アノンシアシオン大聖堂

今度はサン・ジョルジュ通りを西、つまり駅の方向に進むことにします。2本の尖塔をもつ教会のファサードが左手に見えてきました。ノートルダム・ド・ラノンシアシオン・エ・サン・シジスベール大聖堂La cathédrale Notre-Dame-de-l’Annonciation et Saint-Sigisbert de Nancy)という長い名前があります。Annonciationは新約聖書の「受胎告知」ですが、聖シジスベールというのはアウストラシア王シギベルト3世(Sigebert)のこと。アウストラシアはメロヴィング朝フランク王国の1つの流れで、始祖クローヴィスが息子たちに分割した領土のうち最も勢いがあったところです。シギベルト3世は7世紀半ばに即位したものの、このころから宮宰カロリング家に統治の実権を奪われつつあり、歴史的には怠惰王(Roi fainéant)というかんばしからざる名で呼ばれます。ただ、王としてはダメだったけど寺院や病院をたくさん建てたのでローマ教会から聖人に列せられて、この寺院の名にもなっているわけね。アウストラシアの中心都市はメスで、この界隈にもその勢力が及んでいたのでしょう。この大聖堂は18世紀のもの。中に入ると、日曜の正午前なのでミサがはじまろうとしています。信者さんたちが席についている中ですので、こちらは最後部でひっそり拝観させていただくにとどめましょう。

パリからTGVに乗って東のほうへ来て、これから国境を越えてドイツに入ろうかなと思っているところですが、考えてみれば国境なんて可動的なものだし、そもそもウェストファリア条約(1648年 各君主が排他的な国家主権という考え方を相互承認し、近代国際社会の始点になった)より前には現在のような意味の国境はなかったので、中心とか周縁といった発想も、少なくとも現在の流儀でやらないほうがいいですね。フランク王国はたしかにローマから見れば北方の周縁部で、ローマの信仰(正統派)を受け入れるぎりぎりのところだったのでしょうが、帝国本体が滅亡してゲルマン系の諸王国が割拠する状況になると、カトリック圏の中心勢力になっていきます。フランクの領域は現在のフランス、ドイツ、イタリア北部に及びますけれども、内部が均質的に統合されていたわけではありません。歴代の中では集権化に近づいたと考えられるのが宮宰シャルル・マルテル、メロヴィング家から王位を簒奪したピピン3世、その子で「西ローマ皇帝」となったシャルルマーニュ(カール1世)という父子孫の3代。現在のような首都概念はないものの、彼らが生まれ育ち、主要拠点としたのはアウストラシアでした。シャルルマーニュの墓所は現ドイツ領のアーヘンにあります。このあたりが周縁ではなく西欧のど真ん中だった時代がけっこう長かったということにほかなりません。

 

PART2につづく

*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=122125円くらいでした。


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