France/Deutschland
sans frontière!!
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PART1 |
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初めて一人で海外に出たときには、こんな私でもやっぱりそれなりの緊張感とか身構えというのがありました。同じように――あるいは別種のそれかもしれませんが、フランスに慣れてきて、そこから別の国に行く際にもけっこう身構えました。そのころにはシェンゲン協定(Schengen Agreement)がとっくに機能しており、単一通貨ユーロも流通していて、こと欧州大陸内に関しては国境というものを意識せずに移動できたのですけれど、私の心の中にボーダーが厳然として存在しました。先年亡くなったベネディクト・アンダーソンは国民国家を「想像の共同体」(the Imagined Community)であると規定しました。国民国家の輪郭をなすボーダーというものは、やはり心理的な部分に根ざしていたのでしょうか。あるいは、かつては実体ともども揃っていたのに、心理的な部分だけガンコに残ってしまっているのでしょうか。この西欧あちらこちらは、トリノ冬季五輪が開かれていた2006年2月の「ドイツの旅」にはじまります。いま思えばドイツの中でもいちばんフランス寄りの2都市を歩いただけなのですが、「外国」に行くのだという妙な高揚感みたいなものがあった気がします。それ以前にも英国やスイスを訪れていたので、おそらくは自分の知らない言語の中に飛び込むということへの恐れがどこかにあったのかもしれません。ドイツ語は現在にいたるまでほとんど解しません。英語とフランス語をどうにか話せる程度ではあります。でも「国境越え」を繰り返しているうちに、そこへの恐れや躊躇がほとんど霧消してしまっています。
TGV2等の車内
東駅を出て10分ほど在来線を走り、そのあとLGVに入ったのがすぐにわかりました。ぐんぐん加速してたちまち最高速度(300km/h以上)に達したものと体感されます。この路線は2010年にストラスブールに行ったときに通っています。9時11分にミューズTGV着。意外なことにここで半数くらいの人が下車しました。あとで地図を見ると、ヴェルダン(第一次大戦の激戦地)の南あたりに位置しているものの、駅自体は田園地帯にあります。日本の新幹線の新○○駅みたいな感じで、おそらくパーク・アンド・ライド(大きな駐車場を備えてマイカーと鉄道との接続を図るタイプの駅)になっているのでは。この路線上に位置するランス郊外のシャンパーニュ・アルデンヌTGV駅(Champagne- Ardenne TGV)を利用したことがありますが(今回の便は通過)、そんな感じでした。大きなカーブや勾配がないこのLGV東-ヨーロッパ線はTGV車の走力を十二分に引き出せる路線。思い切り疾走して、9時30分ころ在来線に入りました。列車は急に減速して、高速道路のインターチェンジのような側線を走り、ローカル列車も走る線路に下りていきます。LGVはこの先もう少しだけつづくのですが、そこは帰路に通ります。この2503便はLGVと直交する線を南に向かってトコトコ。左手(東側)にモーゼル川(La Moselle / Die Mosel)が見えて、しばらく寄り添って走りました。もとより列車は上流側に向かって走っています。このモーゼル川はメス、ルクセンブルクを通り、マルクスの故郷であるトリーア(Trier)を経て、コブレンツ付近でライン川に合流します。流域は良質な白ワインの産地で有名。 LGV−各方面の概念図
ルイ15世がその娘と結婚していたポーランド王スタニスラス・レチンスキーがドイツ帝国によって追放されたため、これと戦わなければいけないことになった。/この戦争はすぐに終わった。スタニスラスはポーランド王に復位できなかった。その代わりに、彼にはロレーヌ公国が与えられた。そしてその死後はフランスに同公国を帰属させることを認めた。/スタニスラスは公国の首都ナンシーを世界で最も美しい都市の一つに仕立てた。彼が1766年に死ぬと、ロレーヌはフランスに併合された。
アルザスは数百年来のフランス領であった。ロレーヌは100年以上そうであった。両地方は、ずっとフランス領であった地方がフランスを愛するのと同じように、フランスを愛していた。しかも両地方は、それ以上にフランスを愛していた。両地方が国境地帯、敵のすぐ近くに位置していたからである。/ドイツは、彼らがドイツ人になりたいのかを訊ねることなく、両地方を奪った。フランスがニースとサヴォワを得たときには、住民の同意があったのである。フランスは、諮ることなくその主人を代える動物のように人間を扱う権利を誰ももたないと信じている。 そこに住む人たちが何かを一様に愛するなんてことがあるはずはないし、愛し愛されたことが根拠だというならそんな主観的なことは国際政治ではありえません。だいいちスタニスラスを呼び込んでロレーヌを併合した経緯の中に、「住民の同意」なんてないですもんね。おとなたち(当局)はそんなことは百も承知で、国内向け、児童向けにはこのような言説を振りまいて、反ドイツ感情を煽り立てたということです。さらにいえば、反ドイツというのが真のめあてなのではなく、共通の敵を設定して国内をまとめるということがフランス自身の喫緊の課題なのでした。このときから1世紀後の東アジア界隈をみていればそういう構図がよくわかります。ただ、国内的な目的のために仮想敵を設定すると、それが本気に転移したとき誰も止められないのだという教訓を、私たちも十分に心得ておく必要があります。
ゲルトルート夫人がいいました。「ジュリアン、ロレーヌでよく働いていたのは男たちだけではありません」。ジュリアンは答えました。「うん、ロレーヌの女の人たちは美しい刺繍をつくれるよね。僕、今日もそれがば〜っと広げられているのを見たよ。でもいままで全然知らなかった」。「あなたたちの他にもそれを知らない人たちがいるのよジュリアン。ナンシー、エピナル、そしてロレーヌ各地の刺繍はね、世界中で売られているんです。船に積まれてインドまで運ばれるの。それを農家の嫁や娘たちが競ってつくり出してきたものなのよ。ロレーヌには3万5000人の女職人がいて刺繍をつくっています。でもねジュリアン、あなたたちが意識して刺繍やレースを見たことがなかったのだとしても、私は見ていましたよ、あなたたちが造花で飾られたショーウィンドウの前で立ち止まって感激していたのを」。ジュリアンは叫びました。「えー、ほんとに! 花瓶に挿してある1本のバラがあって、本物に超そっくりだったから、それが紙でできているんだと信じられなかったんだ。ゲルトルートさんが僕にそうなんだといってくれなかったら」。「その花々はどこから来たと思う? ジュリアン」。「まったくわかんない。とってもきれいだけど」。「それはね、ロレーヌの昔の都、ナンシーから来ているの。10万2600人が住む、大きくて美しい都市よ。造花でパリに匹敵するのはフランスではナンシーだけ。ジュリアン、あなたも見たとおり、ロレーヌの女たちは勤勉で、センスがいいことで有名なんです。それに彼女たちはちゃんと教育を受けているわ。ほとんどが読み書きできます。ロレーヌにある3つの県は、フランスでいちばん賢く、器用なところに含まれるの」。 何にでも興味を示して地元の人に質問する7歳のジュリアンが(14歳の兄アンドレとともに)「ご当地あるある」を次々に会得していくプロセスはやっぱりおもしろい。なるほど、ナンシーは女人(にょにん)でもつ、ていうことね。ちなみに最後のほうに出てくる「教育を受けている」というのはinstruit(e)という過去分詞。公教育が確立されたばかりの時期で、親のないジュリアンはもちろん学校に通えていないのですが、読み手である小学生たちに「フランス共和国は公教育を整えて君たちを就学させているのだ。その意味をよく噛みしめて、よーく勉強するのだぞ。この本を読んで」といった意識を植えつけています。ほぼ同時期の教育勅語が「(お前たち臣民は:引用者注)學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ」と説いているのと趣旨は同じ。あ、いかんいかん、めずらしく本業(教育思想史)のほうに脱線してしまいました。このシリーズで本当の本業が出てくるのはわれながらめずらしいのですが、その昔、教科書に載っているスタニスラス広場の挿絵とキャプション(上に掲出)にインスパイアされて、博士論文に「付論 歴史教科書の中のアルザス・ロレーヌ」という稿を入れて自論を補強したので、個人的な記憶と強く結びついているわけです。はい。 ネプチューンの泉
スタニスラス広場をいったん後にして、東に進みます。先ほどのスタニスラス通りをそのまま東に伸ばした位置にあるのですが道路名がサン・カトリーヌ通り(Rue Saint-Cathrine)に変わっています。こちらは物静かなオフィス街っぽいですが、旧市街は石造り風の建物ばかりですので趣があります。水族館(Musée-Aquarium Nancy)と称する建物があるのだけどそのようには見えず、外壁には動物学博物館(Musée de zooologie)、動物学研究所(Institut de zooologie)、そして理学部(Faculté des sciences)といろいろな名が掘り込まれています。しかも、どれもそのようには見えない・・・。さらに少々歩くとドミニク・アレクサンドル・ゴドロン庭園(Jardin Dominique Alexendre Godron)という、庭園というには狭すぎるような区画が現れました。自由開放されているので中に入ってみたところ、当たり前ですけど冬の花壇というのはやっぱり冷え冷えとしてしまいますね。入口には「2007年度欧州花の町コンペ金賞」といった文字が誇らしげに刻まれています。ま、季節が悪いということね。庭園のすぐ横に、サン・カトリーヌ門(Porte Saint-Cathrine)があります。もともとは町の東端を仕切る門だったと推察されます。西端の門はホテルのすぐそば(駅とのあいだ)にありました。 レジャー港
レジャー港の手前で右折、つまり南に向きを変えます。門があるところだから旧市街の輪郭をなぞっているわけね。お、トラム(路面電車)が走っている。これは要チェックで、何だったらあとで乗りにいこう。と、そのときは普通にやりすごしました。まさかあんなふうになっているとは思ってもみなかったので。
今度はサン・ジョルジュ通りを西、つまり駅の方向に進むことにします。2本の尖塔をもつ教会のファサードが左手に見えてきました。ノートルダム・ド・ラノンシアシオン・エ・サン・シジスベール大聖堂(La cathédrale Notre-Dame-de-l’Annonciation et Saint-Sigisbert de Nancy)という長い名前があります。Annonciationは新約聖書の「受胎告知」ですが、聖シジスベールというのはアウストラシア王シギベルト3世(Sigebert)のこと。アウストラシアはメロヴィング朝フランク王国の1つの流れで、始祖クローヴィスが息子たちに分割した領土のうち最も勢いがあったところです。シギベルト3世は7世紀半ばに即位したものの、このころから宮宰カロリング家に統治の実権を奪われつつあり、歴史的には怠惰王(Roi fainéant)というかんばしからざる名で呼ばれます。ただ、王としてはダメだったけど寺院や病院をたくさん建てたのでローマ教会から聖人に列せられて、この寺院の名にもなっているわけね。アウストラシアの中心都市はメスで、この界隈にもその勢力が及んでいたのでしょう。この大聖堂は18世紀のもの。中に入ると、日曜の正午前なのでミサがはじまろうとしています。信者さんたちが席についている中ですので、こちらは最後部でひっそり拝観させていただくにとどめましょう。 パリからTGVに乗って東のほうへ来て、これから国境を越えてドイツに入ろうかなと思っているところですが、考えてみれば国境なんて可動的なものだし、そもそもウェストファリア条約(1648年 各君主が排他的な国家主権という考え方を相互承認し、近代国際社会の始点になった)より前には現在のような意味の国境はなかったので、中心とか周縁といった発想も、少なくとも現在の流儀でやらないほうがいいですね。フランク王国はたしかにローマから見れば北方の周縁部で、ローマの信仰(正統派)を受け入れるぎりぎりのところだったのでしょうが、帝国本体が滅亡してゲルマン系の諸王国が割拠する状況になると、カトリック圏の中心勢力になっていきます。フランクの領域は現在のフランス、ドイツ、イタリア北部に及びますけれども、内部が均質的に統合されていたわけではありません。歴代の中では集権化に近づいたと考えられるのが宮宰シャルル・マルテル、メロヴィング家から王位を簒奪したピピン3世、その子で「西ローマ皇帝」となったシャルルマーニュ(カール1世)という父子孫の3代。現在のような首都概念はないものの、彼らが生まれ育ち、主要拠点としたのはアウストラシアでした。シャルルマーニュの墓所は現ドイツ領のアーヘンにあります。このあたりが周縁ではなく西欧のど真ん中だった時代がけっこう長かったということにほかなりません。 *この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=122〜125円くらいでした。 |
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