Bienvenue à Paris! 2007別冊
西欧三都市 |
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2月恒例となった「フランスとその隣国」の小さな旅は、2月22日午前9時すぎ、パリ東駅(Gare de
l’Est)を出発するインターシティ57列車でスタートです。何かの都合で発車が10分少々遅れますというアナウンスが繰り返されています。急ぐ旅行でもないし、そのくらいは。各地方に向けて放射状に展開する長距離鉄道線のターミナルは市内に6つあり、方面によって駅が分かれます。これはロンドンなども同じですね。東駅はロレーヌ、アルザス、ドイツ中部方面への列車が発着する大ターミナル。私は、駅そのものはすでにすべて訪れてコーヒー(ビールかな)くらいは飲んでいるのだけど、モンパルナス駅とこの東駅からは実際に列車を利用したことがなく、今回がお初。2日前の20日にはモンパルナス駅から電車に乗ってヴェルサイユに行きましたので、これで完全制覇です!
TGVの開通まぢか (東駅の案内看板)
東駅はコンコースや一部のホームを大規模に改修中でした。まもなく6月にここを起点とするTGV東・ヨーロッパ線(TGV Est-Européen)が開通し、アルザス方面も高速新幹線の走るところとなります。アルザスや、いまめざしているロレーヌは、パリからの距離のわりには鉄道での所要時間が長く、TGVはずっと待望されていたのですが、最初に開通した南東線(リヨン、マルセイユ方面)、その次の大西洋線(ル・マン、ボルドー方面)、さらには北・ヨーロッパ線(リール・フランドル、ロンドン方面)に後れを取りました。ちょっと歴史に強い人なら誰でも想像するように、アルザス・ロレーヌといえば数世紀にわたるドイツとの係争地なので、戦争になったとき逆用されるから、なんてうがった見方もあったのですよ。かのビスマルクが鉄道の整備を通してナポレオン3世をやっつけたのは有名だものね。いまはまだ、在来線都市間急行が主役です。
東駅で発車を待つ57列車
2等車の半車は普通の座席でしたが、指定された席番は、4つほどある定員6人のコンパートメントの1つでした。1991年に初訪欧したときに乗って感激したとき以来の利用で、西欧らしくていいね。もっともこの車両、側面にDBのマークが入っています。ドイツ国鉄(Deutsche Bahn 正確にはもう国鉄じゃないんだけどね)の車両ですね。私がめざすのはロレーヌ広域行政圏の中心都市メス(Metz)ですが、この列車は国境を越えてドイツのフランクフルト・アム・マインまで行きます。こういうのを「さすが欧州は国際的だね〜」と考えるのもちょっとどうかな。行き戻りはあるものの、欧州統合は着実に進んでいますよ。列車は静かに走り出し、あっという間に速度を上げてパリ郊外の工場地帯へ出ました。欧州の長距離列車、とくに国際列車は大半が機関車の牽引する客車列車です。これもそう。鉄道業界でいう客車というのは、自分自身で走行する能力をもたず、機関車に引っ張ってもらう「車輪のついた箱」です。日本ではもう寝台列車くらいしかみられなくなったけど、かつてのローカル線はSL(のちにディーゼル機関車)の引く客車列車が多かったです。製造コストが安く、車両のやりくりがしやすく、乗客量の増減に対応しやすいというメリットがあったのですね。欧州の場合、いくら統合が進んでいるといっても国ごとに信号システムや電圧などに違いがありますので、ただの「箱」である客車を直通させ、機関車だけ国境で付け替えればいいのです。床下に動力装置がないため、乗り心地は非常によい。それでいてスピード感もあります。フランスの幹線にはカーブがあまりなく、地平の直線をまっすぐ走るので、TGVでなくてもかなり速いよ。
定員6人のコンパートメントには私のほかに3人の乗客がいました。70歳くらいのおじさんは何冊もの雑誌を持ち込んで読んでは放り、立っては座って落ち着かない。私の向かいの窓際に座っていたのは、私よりちょっと年下くらいの白人の兄さん。頭からフードをすっぽりかぶって、結局メスまでのほとんどの行程を寝てすごしていました。もう1人は中国または東南アジア系と思しき若い女性で、年のころ24歳くらいかな。黒目がちで相当かわいいんですが、何の仕事か勉強なのか(検札のとき学生証を見せていたので留学生かも)、A4サイズのノートパソコンを携え、画面から目を離さぬまま始終ぱちぱち打ちまくり、これもメス到着までずっとそうしていました。3時間近くも、まあ。私は読書。年に1度の西欧旅行ではほんとに本が進む。
メス・ヴィル駅
遅れはいつの間にか取り戻され、定刻の11時39分にメス・ヴィル駅(Gare
Metz-Ville 「メス市」ですね)に到着。ホームに下りるとかなり寒く、暖冬で軽装のパリから来たので余計に震えました。もっとも、これは午前だけの話で、午後はやっぱり暖冬でしたよ。メスに行くと決めてすぐ、インターネットで駅前のバラダン・ホテル・ガール(Barradins
Hôtel Gare)をシャワーつき55ユーロで予約しており、たぶんこのあたりだろうとうろうろしても見当たらず、ぐるりと一周して探し当てれば、何と本当の「駅前」でした。バラダンはエコノミーホテルのチェーン(フランチャイズかな)です。古びた階段を2階、いや欧州では地平面を0階というので1階に上がれば、すっきりした小さなレセプションがありました。私と同年齢くらいにみえるマダムが出てきて、実に明るくにこやかな表情と声で、いらっしゃいませ〜、はいはい〜と応対。Tsuyoshiさんって読みにくいわ。どう発音するの? なんていうので、「それは、屈強だという意味の日本語だよ」といったら、「あら、じゃあ用心しとくわ」と(笑)。ごめんな西岡くん。これも欧州の古いビルでよく見かける1人乗りのエレベータ(外扉を手動で押すタイプ)に乗って、指示された部屋に入ってみると、前夜の客がいま出て行ったという感じで明らかにメイキング前。レセプションに戻ってそう告げると、ロベールという名札をつけた旦那さんらしきムッシュも現れてPCの画面をのぞき込み、ふんふん408はたしかにまだだな、なんて話し合っています。おいおい。次の部屋を探しているあいだに、旦那さんは、これも屈託のない笑顔で、「フランス語が話せますか。メスへようこそ。これからメスの見どころをご案内します」といいながら観光マップを広げました。ここをこうして歩いていくと何々がありますよ、これは中世で、これはカトリックで・・・と、簡潔にして要を得た説明をしてくれます。新たに用意された部屋は駅舎を正面に望む308号で、10畳ほどのスペースにダブルベッド、トイレとシャワールームが分離されているなど広々としているのですが、建物は相当に古いね。ドアがオートロックでなく、しかも内側から鍵をかけるという大昔の仕様だったもの。デスクで旦那さんのレクチャーをおさらいしていたら、メイキングの女性がとつぜん入ってきて、「おームッシュ失礼しました。私ったらどうしちゃったんでしょう」と慌てて出て行くなど、一等地のチェーンホテルにしてはどうも間の抜けた面があるね。ま、いいか。鍵は預けずに持ち出すタイプで、22時を過ぎると表のドアを自分で開けなければならないのです(こういうのも欧州には多い)。
駅前ホテルに1泊 窓から見ると、本当に駅前だ!
さて、なぜロレーヌ、メスなのかといえば。
例によって、特段の理由はなし。行ってみたくなったから、というだけです。もちろん、方面とかルートは決めてあって、その途上でどこに泊まるかという問題なのだけど、ミラノ行きのTGVが満席だったため早々にイタリアをあきらめ、代わりに東駅発のコースを選んだとき、直観でメスに決めた。すこし南にあるナンシー(Nancy)のほうがどちらかといえば有名で、私が研究していた歴史教科書にも挿絵つきで掲載されていたし、私もそのことを論文に書いたものだが*、そこはマイナー好みと申しますか、何があるのかわからないほうがおもしろかろうと思いまして。拙宅にあった2003年版の昭文社のガイドブック『個人旅行 フランス』では1ページ弱の記載しかなく、ほぼ何の情報もないという扱いでしたし、改訂されたばかりの2007年版ではメスの項目自体が消えていた! ちなみにこのシリーズは非常に信頼していたのに、改訂で好ましからぬほうに向かったため、今回は東京に置いてきてしまいました。前年のマーストリヒトの例もあるし、現地で何とかなるものよ。そういえば、たしか月曜の夜にサッカーのフランスリーグを生中継しており、メスはカーンに1-0で勝利しました。チームも選手も知らないが、これから行くところだと思うと応援したくなりましたです。
*拙稿「歴史教科書の中のアルザス・ロレーヌ」、『E.ラヴィスの歴史教科書にみる国民育成教育の基本理念に関する研究』、早稲田大学博士論文、2002年、pp.210-220(読むなよ)
だいたい「アルザス・ロレーヌ」といえば、ドーデの「最後の授業」ではないがアルザスが主役で、ロレーヌはついでっぽいよね。フランスのたいていのパン屋さんで売っているキッシュ・ロレーヌ(Quiche
Lorraine)というのが好きなのと、私に学問的な天啓をくださったジャンヌ・ダルクさまがロレーヌのお生まれだというくらいで、ナンシーやメスといわれても、日本人にとってはアルザスのストラスブールのようなインパクトがない。こんなときでもないと行けない都市だぞ。
メスは城壁都市だったので、こういう名残があります
ほぼ旦那さんの指示したコースを歩きました。駅前のホテルを出て、まずはモーゼル川の河畔をめざします。そのまま公園地帯に入り込もうと思ったのですが、昼食がまだなので街中で何か入手しておかないと・・・。となれば、パン屋に入ってキッシュを買うしかないですね。パリでは、手のひらサイズくらいの小さなホールが普通なのだけど、そのお店では大きなやつを8等分したのを売っていました。1切れで手のひら2つ分くらいあります。レンジで温めてもらい、公園のベンチに持ち出してぱくり。ん〜、美味しい。キッシュというのは卵と生クリームを生地にしたタルト型の食べ物で、甘いやつもあるが、ロレーヌのはベーコンが入っているのが特徴です。食事代わりに十分なる。これで目的の半分くらいはやっつけたぞ。
大好物のキッシュ・ロレーヌ (€3.50)
(左)メスの内陸港はのどか (右)川べりを歩くとタンプル・ヌフが現れる
メスの付近は、モーゼル川(La Moselle)が何筋かに分かれて中州をいくつもつくっており、河川輸送の結節点だったと想像できます。欧州の河川はたいていそうですが、どちらが上流なのか一瞬わからないほど平らかで、穏やかで、豊かな水をたたえていて、水面すれすれの川辺を歩くことができます。なるほど、ホテルの若旦那が自慢するだけあってすばらしい景観だなあ。このあたりはちょっとした湖になっており、小さな河港です。といっても、船が動き出す様子はなく、代わりに白鳥さんたちがたくさん泳いでいました。
由緒のありそうな橋を渡り、ひとつの中州に入ると、わりにすっきりしてシャープな教会が見えます。タンプル・ヌフ(Temple Neuf)という名で、直訳すれば「新しい寺」。ホテルでもらった街のパンフなどを読んでみると、ドイツがロレーヌを統治していた20世紀初頭に建てられたプロテスタントの寺院とのこと。ロレーヌというのはドイツ語でロートリンゲン(Lothringen)、もともとはロタール王の国という意味の地名です。ここから世界史の授業になります。未履修の人は心して聞けよ。シャルルマーニュのカロリング帝国(「西ローマ帝国」)が843年のヴェルダン条約で3分割された際、東フランク(ドイツ方面)、西フランク(フランス方面)のあいだに、北海からイタリアに及ぶ長細い領地が設定され、ロタールが王になったのでした。結局、870年のメルセン条約でこの付近はイタリアと切り離されます。以後、封建時代を通してドイツの神聖ローマ帝国とフランス王国の係争地となり、一言ではいえぬほどの紆余曲折がありました。そしてついに1870年の普仏戦争でプロイセンはナポレオン3世のフランスを圧倒し、翌年のフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌの割譲を認めさせました。そもそもナポさんが敵軍に包囲され降伏するという屈辱的な事態にいたったのは、このメスの救援に向かう途中のことで、プロイセン軍の仕掛けにはまってしまったようです。「新寺院」は、ドイツ統治時代を象徴する建造物といえるでしょう。ここでは「ユグノー展」をやっていました。「モーゼルからベルリンへ、亡命の道」(De Moselle à
Berlin, les chemins de l’exile)という副題が何とも意味ありげです。ユグノー(Huguenots)というのは宗教改革でカトリックから分離したカルヴァン派のことで、ブルボン王朝はいったんこれを認めながらのちに撤回して新教徒を抑圧したため、商工業者が逃げ出してベルリンへ行き、プロイセン繁栄のもとになったという話。フランスには「うちの王様(太陽王ルイ14世)の偏狭さがドイツを発展させた」と、愛国心があるんだかないんだかわからない論理がけっこう浸透している(いた)のですね。
タンプル・ヌフの隣にあるテアトル(劇場)
ゆったりと、川は流れていきます
かつて「川の総合学習」で論文を書いたことがあるのですけど(何でも商売にするね、この先生は)、欧州の川は町の景観と一体化して、歴史的な雰囲気を感じさせます。川べりが静かな旧市街になっていて石畳とかレンガ積みの建物が渋くつづいている、というところが多い。日本の都市だってかつてはそうだったんでしょうが、いまや自然堤防など見ることすらなくなりかけています。(そういうのを自然破壊とか自然と共生しないなどと非難してはいけません。河川の全長に対して標高差が著しい日本の川は、雪解けや台風などと重なれば一気に大量の水が下流の都市部を襲うことになるため、そんな悠長なことをいっていられないのよ。)
自称大都会人で田舎ぎらいのわりには、今回はのんびりした風景を歩いているように思うでしょ。でも、もちろん町歩きがメインです。つづく。
読者のみなさんへ
ちょっと前までは、この手の文章を読むときにはガイドブックの地図を見ながらね、といっていたのですが、もう無用ですね。
Googleのボックスに住所(たとえばGare de Metzだけでも十分)を書き込み、検索ボタンではなくボックスの上の「マップ」をクリックすると、たいていの地図は出ます。
適当に縮尺を変えてお楽しみください。航空写真も見られますよ。
この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。