お祈りがはじまろうとしている大聖堂を後に、再びサン・ジョルジュ通りに出ました。目の前に、その名もずばりCathédraleという電停があります。地図を見るといまいるサン・ジョルジュ通りが旧市街の南辺のようですから、トラムはまっすぐ東西に走っていて旧市街には入らない模様。これまで方々の都市で経験したことから推測すると、郊外の住宅地と市内中心部をむすぶ路線ということでしょう。中心部を動きまわるだけの私にとっては使い勝手がよくないので、見る(写真を撮る)だけにしようかな。――と、思ってカメラを取り出したとき、妙なことに気づきました。半流線型のスマートな連接車が路面をすいーっと走り抜けています。それはどこの都市のトラムも同じ。
の、はずなのですが、お気づきでしょうか。写真をよーく見てください(間違いさがしです 笑)。
レールが1本しかない!!!
2本あるように見えるのは目の錯覚で、右端は車道の路肩です。複線区間なので上下1本ずつ。鉄道というのをどう定義すればよいのか、国にもよるのでしょうが、日本の制度では鉄道(軌道法にもとづく軌道を含む)に分類される「モノレール」は、まあわかります。1本の太いレール(mono-rail)を上から挟みつけるか、下からぶら下がるかだから。しかし鉄の車輪を地上のレールに滑らせて走る路面電車のレールが1本でよいというはずはありません。どうなっているのでしょう。不可思議なレールを見つめながらしばらく思案し、自分の中で仮説らしきものを立ててみます。ヒントとしては、その1本のレールと平行する直線の走行跡が見られるので、普通のバスと同じようなゴムタイヤで着地し、なおかつ真ん中の1本レールに第3の車輪(鉄輪)を噛ませてあるに違いありません。次の電車(バス?)が来るのを待って観察しよう。
やっぱりそのようです。側面から見ると普通のバス。いやポールで架線から集電していますのでトロリーバスに近いですね。それならそれでトロリーバスにすればよいようなものを、なぜこんな中途半端な規格になっているのだろう。スマートフォンでも持ち歩く人ならその場で調べるのでしょうが、私そういうことをしないので、ホテルに戻ってからネットにつないでみましょう。実はウィキペディアの日本語版で「ナンシー」の項を見るとちらっとこのことも書いてあるのだけど、発見のおもしろさがなくなるので事前に見ないようにしています。ガイドブック(「地球の歩き方」シリーズの『フランス』)にはトラムの情報なし。あとから振り返っても4泊5日の今回の遠征でいちばんの驚きだったわけだから、予習しなかったのがよかったということですね!(鉄道マニア以外の人がこれを見てそこまで驚くかどうかは知りません)
それからポン・ムジャ通り(Rue du Pont Mouja)など新市街の商店街をじぐざぐ。商店街といっても日曜日なので一部の飲食店以外はほとんど閉まっています。町の真価を知ろうとすれば日曜以外のときのほうがよいですね。そういえば6年前にアルザスのストラスブールを訪れたのも日曜で、中心部がひっそりしていたのを思い出します。印象が違って見えてしまいます。
日曜は静かな新市街
じぐざぐ歩くうちにランチタイムが近づいてきました。遠征に出ると歩きっぱなしになるので、着席休憩という意味も含めてどこかで昼ごはんを食べよう。何となく旧市街のほうがよさそうだなと思って再び北に向かい、位置的にはスタニスラス広場の裏手に出ました。先ほど歩いてそのあたりに飲食店がぱらぱらあったので、近くにも何かあるのではないかな。するとラ・ファイエット広場(Place La Fayette)という、広場というよりはどこかの店先が少し広くなっている程度の方形の小公園に、印象的な騎馬像が見えました。ああジャンヌ・ダルク様(Jeanne d’Arc)ではないですか! 軍旗を掲げて騎乗する姿はジャンヌ像のスタンダードかもしれません。ジャンヌ・ダルクはロレーヌの小村ドンレミ(Domrémy)で生まれ育ちました。ロレーヌとはいってもナンシーからだと南西に50km以上はありそうなところ。数え14歳のとき初めて神の声を聴き、18歳で世に出ました。オルレアン攻防戦、ランスでのシャルル7世戴冠と功績を残したのち、英軍に捕縛され、1431年5月、20歳でルアンにて火刑に処されました。ナショナリズムって何なんだろうと教育の側からずっと思索していて、ふらっと訪れた日曜日のオルレアンでジャンヌの騎馬像を見たとき、皇居前の楠木正成像とイメージが交錯し、ジャンヌ様ではないけど神が降りてきたような感覚になって研究の方向性が定まった、というのが30歳のときのわたくし。ですからある時期にはジャンヌ様の足跡を訪ねて歩いたりもしていました。ただ、ここナンシーに縁があるという話は聞いたことがありません。故郷から最も近い都市なので用事で訪れたことくらいはあるでしょうが・・・。
フランス語の解説板を読んでみると、ちょっと意外なことが書いてありました。この像は1890年に造られたものだそうですが、パリ・ピラミッド広場(ルーヴル美術館のそば)にあるジャンヌ像を手がけたエマニュエル・フルミエ(Émanuel Fremiet)自身が、このナンシーにもといって制作にあたったということです。そもそもパリの像(1874年)は、普仏戦争の敗北で負ったフランス人たちの心の裂け目を埋め合わせようと作成されたもので、そうであるならば同趣旨のものを他の都市にも、ということは十分に考えられます。フランクフルト条約でアルザスや北部ロレーヌをドイツに奪われたあとですので、ナンシーはぎりぎりフランス領、強敵ドイツを目前にして動揺しかねない位置に立たされます。信仰を確信に変えて国家のために文字どおり献身したジャンヌ・ダルクを可視化して精神的な支柱にしようという発想に立ったものでしょう。ナンシー版の制作にあたって、フルミエは人と馬のサイズを見直しました。ロレーヌに住む18歳の女性をモデルにしたそうです。このバージョンはそのあと海外にも移出され、ニューオーリンズ、フィラデルフィア、ポートランド、メルボルンにもある由。
ジャンヌ・ダルク像
そのジャンヌ・ダルク像の横をすり抜けると緩やかな下り坂の小径になっています。マレショー通り(Rue des Maréchaux)で、「地球の歩き方」には「手頃な料金で気軽に利用できるレストラン」が連なっている道だとあります(この記述は後で知りました)。レストラン街というほどの広がりはないけれど、気に入った店があれば入ってみようかな。が、だいたいが観光レストラン風で、思いのほか値段も張ります。別にケチるわけでもないが、どこにでもあるようなメニューにその値段はどうなのかなと思うことしばし。といってここでイタリア料理というのもねえ。
マレショー通り
気が進まないのでマレショー通りを後にし、そのまま旧市街をじぐざぐ歩いてみました。よさそうなところは表から見て客がおらず回避。自分ひとりだけで食事するとまずくなるような気がします。まあ世界遺産周辺で観光レストランでないところを見つけるのも容易ではないか。そのへんでサンドイッチでも買って食べようかなと思い、スタニスラス広場まで戻ってきました。簡易カフェなども何軒かあります。が、広場の一角、市庁舎の向かい側にあるレストランの掲出メニューを見たら、けっこうよい内容。場所的にもろ観光レストランだけど、ど真ん中でもいいかもしれない(基準がぶれぶれです 汗)。Jean Lamourというそのレストランに入ってみました。ジャン・ラムールというのはスタニスラス広場を飾る芸術的な鉄柵をつくった金具師の名前。
中に入るとけっこう広く、大半の席が埋まっています。シックで品のある店内。係のおねえさんの応対はとてもスマートで感心します。「英語メニューお持ちしましょうか?」と訊ねられましたが、フランス語ので結構ですと(もちろんフランス語で)伝えました。まあ率直にいって日常会話レベルならどちらがいいというほどの差はないのですが、こと料理と歴史に関しては経験の蓄積というやつでフランス語のほうがよいように思います。ムニュ(コース)もあるけど、お昼なので単品ね。目の前にあった大きな黒板にもいろいろ載っています。豚の頬肉とセップ茸、仔羊の腿肉のファルシー(蒸し煮)、シュークルート(ザワークラフトにソーセージなどを添えたアルザスの名物料理)、アンドゥイユ(臓物系のソーセージ)、鶏肉のバロティーヌ(肉の中にあれこれ詰めて煮たもの)などなど。パリあたりの平板なカジュアル店では見かけないような料理なのでどれもよさげ。価格もこの中でいちばん高い仔羊が€19.50で、そんなに高くは感じられません。ただ黒板メニューのいちばん下にあるポテ・ロレーヌ(Poté Lorraine)というのが気になります。これだけ素材が何なのか不明。ポテというのは鍋で煮込んだ料理なので「ロレーヌ風煮込み」ということでしかなく、かえっておもしろそう。これがフランスに長く住んでいると知識としてわかるのでしょうけどね。オーダーを取りにきたおねえさんに、あのポテ・ロレーヌをと黒板を指差して発注しました。で、何だかそんな気分になり、赤ワインをグラスではなく1/4ピシェ(0.25Lのデキャンタ)で頼みます。朝が早かったからこのあとホテルに戻って少し休めばいいので、燃料を多めに(笑)。
ステーキやシュークルートなどをばくばく食べている周囲のお客をちらちら見ながら、美味しい赤ワインを舐めます。メニュー黒板と私のテーブルのあいだに、なぜかグラス置き場とパン置き場がレイアウトされていて、オーダーが入るとそこでバゲットを切り落として出動。フランスの飲食店では料理の注文があるとバゲットを無料で供しなければならないと法律で決まっています。しかも食べ放題。たいていはまな板ではなく空中?で器用に切り落としバスケットに収めます。学生にフランスかぶれ呼ばわりされる私の家にもバゲット用の包丁があるのですが、空中は無理だし、美味しいパンほど皮がカリカリなのでパンくずが大量発生してもったいない。ややあって料理が運ばれました。やあ、これは美味しそうだ。うっすら赤いスープの中に大きくカットされた肉や野菜がこんもり入っています。鶏の腿肉、ソーセージ、ベーコン、ジャガイモ、ニンジン、カブ、キャベツ、白インゲン。いまお店のサイトでメニューを見るとPotée des Rives(両岸のポテ?)というのが別名らしく、会計時にもらったレシートにもそう記されていました。グランドメニューは€17なので黒板の€15.80というのはランチ価格なのでしょう。さっそくスープを飲んでみると、ブイヨンを使用しているのか鶏肉のダシなのか、非常にやわらかで美味。どの具材もいい味を出していますね。隣席のお客がうらやましそうにこちらを見ています。えへへ、いいでしょ。ミネストローネに似た味わいなのだけど、具が大きいのでポトフっぽいともいえます。私、ベーコン、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、キャベツをただ煮込んだスープ(ダシはマギーブイヨン)をたまにこさえて、ライスではなくバゲットと合わせることがあります。小学校の給食の味を再現しているつもりで「給食スープ」と呼んでいるのですが、わりにこんな味。本来はお店で食べるというより家庭料理のジャンルに属するメニューなんでしょうね。いや満足です。うろうろ歩いて探した甲斐がありました。ワインが€5.50で〆て€21.30。ちなみにフランスの消費税は、日本でも最近話題になっている複式税率を採用しており、食料品や薬品、教育などの必需品扱いだと10%、一般は20%です。このランチの場合、料理には10%、ワインには20%の内税が含まれています。お酒を飲むと高くつくと思うのは早計で、日本の酒税のバカ高さに比べればどうということはありません。そもそもこのレベルのワイン0.25Lが€5.50というのは東京ではありえん(涙)。ごちそうさまでした。
まだ13時を回ったばかりなので、腹ごなしとアルコールの消化を兼ねてこの界隈を少しぶらぶらしてからホテルに戻りましょう。スタニスラス広場の北側は鉄柵ではなく小さな凱旋門ふうのアーチで区切られています。エレ門(Arc Héré)というらしい。作者のエマニュエル・エレはナンシーに住んでいた建築家で、スタニスラス公の命でこのアーチを造ったのだそうです。その先は長方形のカリエール広場(Place de la Carrière)で、ここも世界遺産の一部ですが、あえて右に折れてペピニエール公園(Parc de la Pépinière)に入ってみました。ここはかなり広大な都市型公園です。解説板によれば、1765年にスタニスラス公が設けた苗木育成所(pépinière)だったのが1835年に公園へと変わり、のち英国式庭園になったそうです。王侯貴族の私邸だけでなく街路樹や公園の樹木などもありますので、さまざまな植物の種を集めて苗を移出するという産業がそれなりに成立していたわけですね。
(左)エレ門 昼食をとったレストランは左手の建物のつづきにある (右)ペピニエール公園
ゆとりをもった設計になっていて、都市型公園なのにちまちましていないのがいい。酸素吸っておこう。カリエール広場の西側は典型的な旧市街で、狭い道路が無秩序な感じに入り組んでいます。日曜なので開いていないけど小さな商店などもあっておもしろい。サン・テプヴル教会(Basilique Saint-Épvre)周辺は少しゆったりした空間で、カフェとかパン屋さんは日曜でも営業中。おじさんやおじいさんがテラスでタブロイド紙を読む光景はフランスではおなじみですね。あれがスマホにすっかり入れ替わるときが来るのだろうか(もうそのころにはスマホではないか)。じぐざぐ歩くうちに、ジャンヌ・ダルク像のところに戻ってきました。縦横がきちんと整理されていない旧市街ではしばしば方向感覚が狂います。私はもうそれを承知でテキトーに歩いています。その地区の「外側」の主要道路を地図で確認しておけば、いずれそのどこかに出られますからね。モネ通り(Rue de la Monnais)という坂を登って、カルノー広場(Place Carnot)に出ました。
サン・テプヴル広場と旧市街の町並
サン・テプヴル教会
カルノー広場はその北につづくレオポルド通り(Cours
Léopold 固有名詞のcoursは並木道のこと)と一体になって、旧市街の真ん中を東西に仕切る空間になっています。ミラノでもこういう場所を見たことがあるな。町づくりの意図からすると、防衛上の理由、居住者の身分を分ける、あるいは火よけ地ということか(こちらは木造建築ではないので最後のは違いますかね)。この広場に隣接してナンシー大学(Université de Nancy)と記された立派な建物がありました。学会のゲストでお呼びした高名な教育学者がここの教授で、私が編集長をしている学会誌に原稿を載せる際に肩書きをどうするのかというので少し混乱したことがあります。もともとはナンシー大学だったのだけれど、地域圏内の大学を統合(fusion)して運営を一体化する昨今の国の方針に沿って、2012年以降はロレーヌ大学(Université
de Lorraine)の一部という位置づけになりました。メス大学もその一部になっており、歴史や伝統が異なり「別の場所」にある大学を一まとめにしてうまくいくのかなあと思わぬでもありません。日本でも国立大学の法人化(2004年)に際してそうした統合がいくつかおこなわれましたが、フランスの高等教育との決定的な違いはといえば、フランスには私立大学というのが1つもないということ。ですから国の方針=大学業界の秩序そのものというふうになります。いいんだか悪いんだか。
(左)カルノー広場 (右)ロレーヌ大学ナンシー校
カルノー広場からホテルまでは2ブロックほど。2時間くらいお昼寝しておきます。午前の段階では、このあと新市街をうろうろしてみようかなと考えていたのだけれど、あの「一本道トラム」がどうにも気になるので予定変更、実体験しようということになりました。実体験といっても車内に入ってしまえばレールの本数は関係ないんだけどね(「SLが牽引する列車」などでも同じような問題があります)。一部の教養科目などでは都市(とくに中心市街地)の再生というテーマに引っかけてトラムを生かした町づくりの例を、欧州の写真を見せながら取り上げていますが、あんがい評判がよいです(中には「先生の個人的な趣味につき合わせるな」という意見もあります。あのね、研究とか学習ってだいたいそういうものだぞ)。レールの本数とか車両の構造などに入り込むとこれは鉄道マニアの話なので一般性はないけど、ネタとしておもしろいのでぜひ仕込んでおきましょう。まあそういうお仕事関係の動機というよりは、頭の中のハテナを解決したい思いが強いです。
16時ころホテルを出て町歩きを再開。トラムはナンシー駅前でSNCFと直交しひたすら東西を結ぶ1本だけの路線なので、駅まで行って、そこから西または東に向かうことにしましょう。行きたい場所があるのではなく「乗る」こと自体が目的なのでどちらでも。ナンシー駅の、けさ降りた正面出口前にはちょっとした広場があり、それよりも1ブロック南側、東西の道(フォッシュ通り Avenue Foch)がSNCF線をオーバークロスする手前に、バスターミナルと一体化した電停がありました。西欧の都市ではバスとトラム、地下鉄を一元経営するところがほとんどなので、同じチケットを使えますし、路線図なども統合されていて使い勝手がよいです。電停には対向式プラットフォームがあり、それぞれに自動券売機。これもバスのものを買うことができます。今回は市内を面的にぐるぐる乗り回すのではなく単純な1往復のつもりなので、シングル・チケットでいいですね。車内で運転士から買うと€1.50、券売機なら€1.30なので当然ながら事前購入。名刺大の紙のチケットが出てきました。Validez à
chaque montée (乗車ごとに改札機を通してください)と明記されています。いや、そんなことより車両だ。
ゴムタイヤで着地して走るTVR車両(ナンシー駅前電停) 終点がループになっているため車両に「前後」がある
この時間帯は12分間隔なのでいったん見送るのはもったいないのだけど、車両観察を優先しました。車体(上もの)は各都市で見るトラム=路面電車そのもの。インテリアも当然そのようになっています。やはり異様なのは足回りです。タイヤ部分だけ見ればバス。ただ、1本のレールに鉄輪を乗せているので、車輪の走行音も聞こえます。こんなの初めてだなあ。「電車」なのに鉄の車輪でなくゴムタイヤで走る例というのは、実はけっこうあります。日本国内にかぎっても、札幌の地下鉄が全面的にそうですし、モノレールやゆりかもめもタイヤ走行。パリの地下鉄のうちメインルートをなす1号線や4号線などもタイヤ式で、独特の走行音が聞こえます。ただ鉄の車輪とタイヤを組み合わせるというのは私の頭にはありませんでした。部屋での休憩中に少しだけネットを見てみたら、これはボンバルディア社が設計・製造したTVR(Transport sur
voie réservé 直訳すると「確保された軌道上を走る交通機関」)というシステムらしい。ナンシーとカーン(フランス北部)でのみ採用されているとか。レールのあるところはトラムとして、ないところはトロリーバスとして、一般道ならディーゼルエンジンを回して普通のバスとして走る、いわば3 waysの変幻自在、融通無碍な仕様ということだと。それにしてはあまり知られていないし採用例もないのは、第1弾として華々しくデビューしたこのナンシーのものがあまりにポンコツで、レールのない区間からある区間へと入る際のセッティングがうまくいかないとか、軌道側の設計ミスで内輪差が合わずに接触事故を起こすなど、無残すぎて乗務員がストを連発するといった事態がつづいたため。新システムの成果を焦るあまり十分な準備や試運転がおこなわれないまま短期間で営業開始してしまった末のことでした。あ〜あ。
ポンコツと知ってなお興味が湧きます。造ってしまった以上は何とか活用しなければならないわけで、いまこうして営業運転しているということはそれなりにメンテナンスされているということね(カーンのほうはシステム維持を断念)。ドイツに本拠のあるボンバルディア社は、プロペラ機の問題など何かと話題になるのだけど、欧州を旅行しているとそこの「製品」の世話になることがことのほか多いので、あまり文句はいえません(汗)。車内に入ってみればトラムそのものなので、やはりというかとくにおもしろいものでもありません。老若男女の立ち客がかなりあります。車内の何ヵ所かに液晶画面があり、次の電停だけでなく地図上の位置や乗り換え案内をコンパクトに示しています。こういうのが最近増えてきていいことですね。日本のバスにもかなり普及してきているけれど、肝心の都営バスが全然ダメなので、五輪までにどうにかしましょう舛添さん。私が乗ったのは東方面行き。終点はエセー・ムジンプレ(Essey Mouzimpré)だそうで、ムルト川を越えた東郊の住宅地だろうと予想しました。せっかくなので終点まで行ってみましょう。昼前に歩いた大聖堂付近の路上を走り、運河やムルト川を渡ると、たちまち郊外の景観に変わりました。高い建物がなく空間のゆとりがあって、まさしく「街道筋」といった感じです。福岡市内の西鉄バスも一定のエリアを抜けるとこんな景観の中を走るので、なつかしい気がする。
電停ごとにお客が束になって下車してゆき、最後まで乗りとおしたのは数名だけでした。ところが途中で、あることに気づきます。このTVRは複線の右側通行で、日本でもよくあるように道路の中央に複線の軌道が寄り添っています。それがある区間では両方の路肩に寄せて走るようになりました。そうして距離を空けて反対側の軌道を見ると、軌道がありません。え!いつの間にかレールのない区間に入っていたようです。いまはトロリーバスとして運転されているんですね! だとするとその境目を観察したいのだけど、どこで「離脱」したのかわかりませんでした。TVRはエセー・ルーズヴェルト(Essey
Roosevelt)という電停の手前で幹線道路を外れて右折し、いったん専用軌道のような区間を通り抜けて、ほどなく終点に着きました。終点のエセー・ムジンプレはラケット状のループになっています。これも欧州のトラムではおなじみ。折り返しではないので1編成に運転台が1ヵ所で済みます。ただ各系統の終点ごとに広い敷地または占有できる道路が必要になるので、日本では難しかろうね。ここはエセー市(Essey)という自治体とのことです。
TVR終点のエセー・ムジンプレ電停 ループの中にマクドナルドや駐輪場が入り公共スペース化されています
しかししかし、このエセー・ムジンプレのループには明らかにレールが敷かれています。ということは、レール区間→無レール区間→レール区間というふうに走ってきたことになります。オールドスタイルの喫煙具=煙管(キセル)は、木製の筒の両端にだけ金属がついているので、全区間の両端だけカネで切符を買って中を無賃乗車するインチキな行為を「キセル」と呼んでいました。ICカードの時代になってそういうキセルはほぼ消滅しましたね。そんな違法な話とは違う意味で、「両端だけ金属(レール)」という運用になっています。街道筋を外れたエセー・ルーズヴェルト付近で観察したときには無レールだったと思うので、境目は案外近くにあるのかもしれない。ひとまず1駅間を歩いてみることにしました。ループを抜け出したTVRはすぐ単線区間に入ります。ルーズヴェルトまでは狭い道路上と一部の専用軌道上の単線(有レール)。そしてルーズヴェルト電停の手前でレールが左右に分かれました。道路が狭いためか、上下線を分離して走らせる区間のようです。さっき走ってきた下り線に沿って進むと、プラットフォームのすぐ先(車両本位でいえばすぐ手前)にレールの切れ目がありました。
エセー・ルーズヴェルト電停の手前で徐行してレールに「はめる」!
なるほどなるほど、そういうことか〜。考えればわかるように、レールを離脱するのは簡単だけど、はめるのは技術を要します。車輪は3両編成の各車両についているのでそれを全部乗せるというのは大変なことでしょう。しかもこのTVRの車輪は両側フランジ式、つまりH字状になっていて、まさに「はめ」なくてはなりません。両側から中央に車輪を誘導するガイドレールが2ヵ所設置されていて、そこをそろそろと進みながら1つずつ着実に車輪をはめていく模様です。まもなく下りが来ましたのでじっくり観察してみました。乗っているときには気づかなかったけど(トラムの徐行や一時停止は普通なので)、ガイドレールの手前でいったん止まり、そのあとミニマムの速度で、ごとりごとりと車輪をはめ込みました。それが「達成」された位置にプラットフォームがあるという造りになっています。どうやら3 waysでという構想は早々に断念していまは2
waysなのですが、これでもし架線のない区間からある区間へと進入させようとするなら、ポール(集電のための棒状の器具)をどうやってはめるんですかね。もともとパンタグラフなどに比べてポールは外れやすく、トロリーバスの弱点もそこにあったわけで、着脱自在というのはそんなに魅力的ではないように思うのだけど、ボンバルディアは何を考えていたのだろう。技術開発って、ときどきそういうリスクをはらみます。当人たちはいたって真剣に、真摯に取り組んでいるのだけど、市民感覚でいえばまったく文脈を外しているという・・・。
(左)エセー・ルーズヴェルト上り側電停に入線するTVR (右)無レール区間 架線だけが見えます
個人的には珍奇なものを見られて大満足。ルーズヴェルト電停から再びTVRに乗ってナンシー市街地へと戻りましょう。今度は注意深く観察していたところ、ムルト川の橋を渡る直前(東側)、ジェラール・バロワ- スタッド・マルセル・ピコー(Gérard
Barrois- Stade Marcel Picot)電停の手前でレールに乗っかったのがわかりました。レールの有無で何が違うのかというと、運転士がハンドリングをおこなうかどうかが最大の相違です。あとで別の車両を外から見たとき、運転士がハンドルから両手を離しているのが何とも異様に思えました。普通のトラムなら円形のハンドルではなくマスコンやレバーを操作するので、絵として何だかね。そうか、急カーブやたくさんの自動車との競合が予想される市街地ではレールありの、いわばガイドウェイバスとして走らせ、郊外に出たところでインフラ投資が最小で済むトロリーバスにすれば、ここナンシーのように市街地が狭く郊外の広がりがあって通勤需要も高いところでは有効だ、というふうに考えたのですね。当初は。
ナンシー駅の1ブロック手前にもマジノー(Maginot)という電停があったのでそこで下車。無駄ではなく、こういうきめの細かさこそトラム(じゃないか?)のよさです。広島電鉄なんて大きな交差点の両側に電停があったりしますしね。今日は日曜で閉まっていますが大手デパートのプランタンなどショッピング街にも近いので、信号の手前で降りられるようになっているわけです。
PART3につづく
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