Mon deuxième voyage à l’Allemagne
PART 10 ケルン ―国民の物語が完結する―
15時前にボンHbfに戻ってきました。予定の列車までにまだ2時間ほどあるので、あとはちょこっと買い物して、お茶でも飲んでおくことにしましょうか。もう一度駅の表口に回り、ミュンスター広場周辺に行って、デパート2軒はしごしました。買うつもりはないのに台所用品売り場などをうろうろ。もうちょっと立派なキッチンのあるおうちに引っ越したあかつきには、フィスラー(Fissler)の鍋セットを一式揃えてみたいなと思っているのですが、本場?だけにいろいろあるねえ。値段は東京で見るのとあまり変わらないようですが。
(左)ボンHbfの裏口は工事中 (右)何やら怪しいボンHbfの地下
遠征3泊4日の最終日ですから、財布の中の現金もかなり減ってきました。デパートでおみやげを買ってからあらためて中身を見れば、€100くらいしか残っていない。帰りの切符はすでにもっているのだし、これ以上何を買うわけでもないので問題ないのだけど、旅先で手許不如意になるのも気分がよろしくないから、カードキャッシングをしておきましょう。東京を出発する前には、円→ユーロの両替をもちろんしておくのですが、最近は金額を抑え気味にしています。現金両替だと€1あたり3.5円くらいの手数料がかかりますから、替えれば替えるほどお金がかかってしまいます。T/C(トラベラーチェック)は一見すると有利のように思えますが、西欧では直接使えるところがほとんどありませんし、アメックスのT/Cをアメックスの両替所で現金化する際に、2年くらい前から3%のコミッション(手数料)をとられるようになったので、余計に使い勝手が悪くなった感じです。で、為替相場が乱高下しないかぎりはカードキャッシングが最もいいように思うようになりました。銀行のATM(ときに街路に面した建物の壁にある)にVISA(または提携)カードを入れると、ユーロ現金を引き出せます。・・・が、ミュンスター広場周辺をぐるりと回ってみても、マスターは受けるけどVISAを受けないというATMがつづき、3軒目にようやくVISA可の機械を見つけたのに、今度はまたしても言語の壁が。最初に英語をセレクトすれば、画面の説明はぜんぶ英語でやってくれるのですが、confirm(確認)してくださいという指示が出たあとが大変。そのボタンはパネルタッチでなく機械についているので、表示がすべてドイツ語なんですよね。どれがconfirmにあたる語なのかさっぱりわからんではないか! 1つ2つくらいならテキトーに試してみることもできるが、8つくらいあっては、額が€200だから慎重にならなくては。断念してもう1軒の銀行に行ってみても同じ。フランクフルトの地下鉄の券売機といい、ドイツの人たちには、ドイツ語のわからない人に最初から最後まで英語で指示するというサービスを習慣化してほしい。もちろん、私がフランス語をそこそこわかるからいいようなもののフランスだって同じようなものですし、きっと日本では、アルファベットですらない文字を常用しているわけだから、なおさら気をつけてあげませんとね。一度、ネットで何やら作業していた知り合いのフランス人が「確認する」というクリックゾーンの意味をわからず(日本語は話せるのだが漢字を読めない)、confirmerですよと教えてあげたことがありました。今回は自分が同じパターンにはまってしまった。
結局、キャッシングはパリに戻ってからすることにして断念。翌朝、パリの銀行で€200を引き出してみたら、後日送られてきた融資明細書によれば、貸付金額24,391円、年利18%で返済金額24,775円でした。€1あたり123.88円というところで、現金両替より2円ちかく有利なのではないかな。ただし、キャッシングというのはあくまで「借金」ですから、しっかりした口座のバックアップが不可欠ですし、変なクセをつけないようにしておきたいですね。
マックカフェのカフェ
前述したように、ボンは都市の規模が大きくないせいか、中央駅もコンパクト。カールスルーエやフランクフルト、あるいは4年前のケルンで見たような構内商店はほとんどありません。コインロッカーのある地下通路に面して、なぜかエロもの屋さんが数軒ならんでいたのは場所柄おかしな感じがしたけどね。いわゆる駅カフェとか駅のレストランがなくて、構内唯一の飲食店はホームとコンコースの両方から出入りできるマクドナルドでした。けっこうな権利を獲得したのかマクドナルドの店内はかなり広くて、手前がマックカフェ、奥がハンバーガーを売る普通のマック、飲食スペースは共用するようになっています。駅カフェがわりのマックカフェでカフェ(普通のコーヒー €1.79)を頼んで足を休めました。今夜パリに戻れば、カフェといえばエスプレッソが当たり前になるんですね。パリのマックでコーヒーを頼めばやっぱりエスプレッソなのよ。
ボンHbfの1番線にはローストチキンを売る車が直接乗りつけていて、ホームにいいにおいが漂ってきました
ボンを通る鉄道は主要幹線ですから、上下ともさほど間隔をおかずに列車がやってきます。荷物も出してきたし、乗りはぐれることはないのだけど、他にすることもないし、鉄道車両を見ていれば幸せなので、ホームで20分くらいぼーっとしていました。予定の列車の2本前にIC2012便があり、座席にこだわらなければこれに乗ったってよいのですが、まあ予約どおりにしましょう。この2012はデュッセルドルフ、デュイスブルク、エッセン、ドルトムントを経由してはるばるハノーヴァーまで行きます。私が乗るほうのEC(EuroCity)100便も途中まで同じコースを進み、ミュンスター、ブレーメンを経由してハンブルクに21時27分着。バーゼルを正午すぎに出発したやつなので、ずいぶんとロングランですね。私が子どものころまでは、日本の国鉄も足の長い列車をたくさん走らせていました。いまのように無駄な空港も余計な高速道路もない時代ですから、長距離移動となると鉄道に長時間揺られるのが当たり前だったのです。山陰本線の特急・急行なんて、時間を忘れなければやっていられないほどのんびり走ったものでした。
EC100列車
定刻16時44分に発車したEC100列車は、所要21分、あっという間にケルンHbfに着きます。電気機関車の牽引する客車列車というのが、もう日本ではほとんどお目にかかれなくなったスタイルだなあ。鉄道そのものがモータリゼーションに押されて衰微しているせいもあるんでしょうけど、鉄道車両と見ると何に対しても「電車」と呼ぶ若い人が多くなりました(いや中年もか)。電車というのは自力走行できるやつをいうのであり、いま乗り込んだ車両は機関車が引っ張らなければまったく動かない「車輪のついた箱」なのです。こういうのを客車といいます。モーターがついていないので揺れや音が少なく、長距離列車や夜行列車には向いているとされていました。乗ってみると、大きな窓にボックスシートと、なつかしい設定の客車でした。しかもほぼ満員。9時間もかけてドイツ西部を縦断するだけに、窓上の「予約区間」を見れば、1つの座席に3つくらいのリザーヴが入っている感じです。すばらしいね。
自分の席に行ってみたら、女性4人のグループがボックスを占めておしゃべりに興じています。このうち1つだけ私の席というのはおかしいので、たぶん彼女たちは自由席客なのでしょう。通路をはさんだ席が1つ空いていたので、隣のおばあさんにあいさつして座らせてもらいました。たった20分の乗車だからそれでいいですね。ボン→ケルンでは、ライン川をすこし離れて一面の畑地の中を進みます。線路は同じでも、車内はICEより庶民的、日常的な雰囲気があります。やがて都市郊外とわかる住宅街にさしかかり、車窓右手に見覚えのあるカテドラルが見えました。ケルン大聖堂に違いなく、そうだとすれば、これから大きく右旋回して市街地の周縁を回り込むのでしょう。4年前に訪れて、大聖堂が駅のまん前にあることを承知していましたので。そのとおり、線路が急カーブを描いてビル街に突っ込んでいきました。4年前に泊まったホテルも確認できました。
ケルンHbf
17時05分にケルンHbfに到着しました。あの席にいた4人組は、実は2人と2人でたまたま乗り合わせたらしく、よい旅を、元気でねという感じで2人がケルンで下車する模様です。ドイツ各地で、いやパリ市内などでも、西欧の人たちはたまたま居合わせただけの人とよくしゃべります。パブリックな空間での人との接し方というのを心得ているようですね。
ケルン(Köln)での持ち時間は40分弱。17時44分発のパリ北駅ゆきタリスの指定をとってあります。ネットでボン→パリを予約した際に「これがベスト」という感じで示された乗り継ぎで、40分というのは西欧の感覚では「すぐ乗り換え」に限りなく近いといえます。でも、せっかく4年ぶりに来たのだし、少しだけでも街の様子を見ていきたい。見覚えのあるコンコースに下りると、フランクフルトのホームで少し話してボンで別れた学生たちがいましたが、気づかないようなのでスルー。こちらの目当てはやっぱり大聖堂(Kölner Dom)です。
駅のまん前にある大聖堂
街いちばんの見どころが中央駅の目の前というのは何とも都合がいい。いや、4年前にも記したように、大聖堂の前に駅ができたということでしたね。何となく、中世だか初期近代に由緒のあるカトリックの教会なのだろうくらいに思っていたのですが、すこし前に例の「国民国家へのはるかな道」を読みなおして不勉強に気づきました。現在の建物自体はたしかに中世末期の13世紀に建設がはじまったものながら、16世紀の宗教改革のあおりを食って中断され、塔が1基しかない状態のままであったというのです。ストラスブールの大聖堂もそういう形でしたね。ケルンを含む北部ドイツはルター派の勢力が強くなり、カトリックが自己主張して建設資金を集めることは難しかったに違いありません。
建設が再開されたのは何と19世紀前半。呼びかけたのはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、あのフランクフルト国民議会の皇帝即位要請を蹴った君主でした。ナポレオンの占領から立ち直り、いまドイツ国民の統合をめざして歩みを進めようとしていたプロイセン王は、この大聖堂を民族精神の粋ととらえて、欠けているもう1基の塔を完成させることでまったきネーションを象徴させようと考えたのです。荒廃が進み、ナポレオン時代にはフランス領に組み入れられたこともあって(このころフランスの兵士たちが持ち帰ったこの街の香水が「ケルンの水」すなわちオーデコロンeau de Cologneとフランスで呼ばれるようになったのでしたね)、人々に「再建」しなければという思いを募らせる条件は揃っていました。
ケルン大聖堂の内部
大聖堂が完全なる姿を現したのは、実に1880年のことでした。不勉強から来る先入観で「中世だろう」と思っていたこの建物は、中世の伝統を意識的に引っ張った末に、19世紀も後半になって完成したのでした。その間に、プロイセンはその勢力を伸張させ、ストラスブールの回で述べたように1871年にはヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として即位、フィヒテが呼びかけた折にはどこにも実在しなかった「ドイツ国民」は、西欧最大の国家をかたちづくるものとして世に立ち現れたのです。ケルン市でもプロイセン王国でもなく、ドイツ国民のシンボルとしてのケルン大聖堂。当時にあっては世界で最も高い建造物であったこの建物の落成に際して、ビスマルクは盛大な式典を挙行しました。しかし、本来なら主役になるはずのケルン大司教はそこにいませんでした。ビスマルクはカトリック勢力の政治生命を絶つべく文化闘争(Kulturkampf)に突入し、大司教は亡命を余儀なくされたからです。結果として、中世ゴシック様式のカトリックの建物の落成を、近代国家の主宰者であるドイツ皇帝(を擁するビスマルク)が世俗的な演出で盛り上げたということになる。そこにあるのは、宗教ではなく国民国家そのものでした。(『世界の歴史』22巻、pp.186-189を参照)
ホーエ通り このカット、どこかで見たことありますね!
4年経って、少しだけ賢くなったところで、大聖堂を出ました。何しろ場所がよいのでまた何かの折に来るに違いありません。残り時間は20分ほど。駅に戻ってホームに並んでいたっていいころだけど、ドイツの地面にいるのも最後なので、もう1ヵ所だけ立ち寄っていこう。大聖堂の裏に何軒かカフェがあったので、そのうちの1つに入り、店員さんを手招きして、ケルシュを1杯注文しました。あとはもう、タリスでまっすぐパリをめざすだけです。たった40分とはいえ、ケルンに来たのだから、ケルンのビールをいただいておかねばね! €2.45。
ドイツ出国記念の1杯(デジャヴュ?)
パリ東駅を朝っぱらに出発してアルザスに向かったのが、ずいぶん前のように思えてきました。まる4日間、ドイツのさまざまな場所をめぐってきて、その多様性と個性を存分に感じてきました。今回のタイトルに「ドイツ」を入れ、そこにアルザスも含めたので不自然に思うかもしれませんが(ドイツ国旗のアレンジもあるのでなおさらね)、国境とか国家といったものをいったん突き放して、人間とか地域の視線で現地を見てみたいというのが興味の中心だったので、「ドイツ」は現在の連邦共和国の枠組とは別ものと考えてください。かつてのプロイセンの故地は、いまはポーランドとロシアに分有されています。フリードリヒ2世が18世紀に獲得してプロイセン飛躍の土台となったシュレジエン(シレジア)は、いまポーランドとチェコの領土です。そもそも、19世紀後半にいたるまで、私たちが知るようなかたちでの「ドイツ」国家は存在しませんでした。
タリスに乗ってパリへ帰ろう (復活!!)
タリス9456便は17時44分発ですが、赤い車体の列車が入線したのがちょうどそのころ。ホームで待っている人の列はかなり長くて、これが全部乗り込むまでに5分くらいかかって、発車も遅れました。3年ぶりに乗ったタリス(Thalys)、要するにTGV一族ではあるのですが、TGVの名と塗装をそのまま用いると、ベルギーのオランダ語圏の人たちが不満に思うだろうということで、それへの配慮で別の設定になったといいます。タリスというのも、いずれかの言語の何らかの意味をもつ語ではなく、テキトーに感覚だけで命名して中立を装ったものらしい。そういえば、ユーロ紙幣を見たことがありますか? 王様とか国民的偉人を肖像にして載せるのが紙幣の常だけど、ユーロはあざやかなカラーの台紙に実在しない建物などを描いただけの抽象的なデザインなのです。重みがなく、子どものおもちゃみたいだと揶揄されることもあるけれど、しかしそれは、欧州の人たちが現時点でたどり着いたネーション共存の道なのです。――いや、そうはいっても対立は残り、ときに深刻化することでしょう。すこし前にはギリシアで金融危機が起こり、全欧に波及して、国家間の利害が対立したばかりでした。理想をいうだけでなく、現実にもしっかりと目を向けて、これからも欧州のゆくえに注目していきたいと思います。
この便は、途中ドイツのアーヘン、ベルギーのリエージュ、ブリュッセルに停まり、パリ北駅(Paris- Gare du Nord)に20時59分に着きます。出発時点での車内アナウンスは、ドイツ語、オランダ語、フランス語、英語の順で4言語。ひとりの車掌が肉声でやっているのだから大変ですね。3泊5日(??)の遠征も無事に終わって、めでたしめでたし。
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