Mon deuxième voyage à l’Allemagne

PART 3 ストラスブール ―分断と融和のライン川―

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走り出したバス21系統は、小工場などが点在する郊外の広い道路を通り抜け、堤防を駆け上がって、かなり大きな船舶も見える運河?を橋で渡り越しました。プチ・ランPetit Rhin 小ライン川)ですが、ここはあとで見ることにします。ライン川とプチ・ランにはさまれた大きな中洲状の陸地に乗り入れると、そこは東京でいえば大井埠頭のように広い敷地を何やら造成しているという感じの土地。道路の右手(南側)にはかなり大きなつくりかけの公園が見えました。ジャン・ジョレスから十数分でライン左岸の堤防に出て、意外に幅の広くないライン川を渡ります。

 

 

右岸側の堤防を降りたところがケール駅Kehl Bahnhof)バス停。ここまで走ってきた道路に並行して鉄道の線路もあり、あまり人の気配のしないケール駅が見えます。バスが停まったのは、銀行が2軒ならぶ駅前商店街の一角でした。もうおわかりですね。感覚的には、都バスに乗って江戸川を渡ったくらいのことなのだけれど、右岸側のここケールはドイツの街。フランス側の公営企業が運行するバスの停留所ではあるが駅はgareでなくBahnhofとドイツ語になっているし、金融機関もドイツ銀行とドレスデン銀行になっている。

 DB(ドイツ鉄道)の標示があるケール駅 何となくJR九州の駅みたいだ

 

駅に行ってみると、発着する便がないのか静か。改札がないのでホームに上がってみました。スルー式の23線、まあどこにでもある郊外の駅というところで、ここが国境ですよ、最前線ですよという感じは(当然)ありません。階下の駅カフェには何人かお客があって、ビールを飲んだり食事したり。あす22日にはストラスブール中央駅からここを経由する列車に乗ることにしているので、あらためて車上から眺めることにしましょう。ストラスブール市街地ですら大半の商店がクローズする日曜の午後なので、おそらく何もないとは思うけれど、せっかく今回初のドイツにやってきたことだし、ケール散歩ということに。先ほどの2つの銀行のあいだの道が、目抜きというには大げさながら中心商店街のようで、両側にさまざまなお店が並んでいました。


 
ケールの中心商店街 Bücherは書店  セールの告知が独仏両語で示されていました(なぜか店名は英語 笑)

 

印象としては、4年前に乗り換えの待ち時間に歩いたオランダのハールレン(Heerlen)によく似た感じ。あのときも日曜でお店はクローズでしたが、商店街は楽しそうで、中心広場と教会を眺めて引き返したのだけど、ほぼ同じような構造と距離感です。東京でいうなら、私鉄沿線の商店街で日ごろは済ませる人がたまに電車に乗って池袋に行くよ、というような感じでストラスブールに足を伸ばすのかな。もっと身近かもしれませんね。どう考えても先ほどのライン川は「県境」くらいのものでしかない。

 

 

広々とした中心広場がありました。天気がよいので気持ちいいです。広場に面したカフェが開いていて、かなりの客がお茶していたので、こちらも小休止。テーブルが満席だったからカウンターのスツールに腰掛けましたが、地元の人も日曜は退屈なのかな? それこそ九州のちょっとした鉄道駅の駅前カフェみたいな雰囲気よ。店のおねえさんがドイツ語で話しかけてきたものの、ドイツ語はまったくできないので、「カフェ」と注文。もとはフランス語だけれどもドイツ語も同じ発音だし(綴りはKaffee)日本でもどこでも通じますわね。出てきたのは、大半の日本人が知っている「コーヒー」そのもので、それもマシーン抽出独特の泡の立ったやつ、そして東京のカフェでは「ミルク」と称するポーション(大阪では「フレッシュ」)がついてきました。ミルクなどでは決してなく、植物油脂を人工的に乳化させてこしらえたインチキ食品だよというのが私の授業でしばしばネタになるやつね。フランスでカフェというのは、私たちがいうエスプレッソ(これはイタリア語で、フランス語ではエクスプレス)に決まっており、いわゆる「コーヒー」にお目にかかる機会はほとんどありません。県境のような国境をまたいだだけで、コーヒーのスタイルはドイツ式になるんですね。ついでにいえば、共用のお砂糖をテーブルに置いてあるのも日本と似ていて、フランスでは絶対に角砂糖もしくはスティックシュガーを個別にサーブします。そして、フランスでは例の「ミルク」が別に添えられることはいっさいありません。カウンターには軽食用のパン類などとともに大きなプレッツェルが並んでいて、こういうのもドイツふうですなあ。この普通の「コーヒー」は€1.90。そうそう、あいさつだけは現地のことばでDanke!

駅の方向に引き返し、途中からそれて庭つき一戸建てのゆったりとした住宅が並ぶあたりを抜けると、ライン川の右岸に出ました。両岸公園と訳せる名の公園が、文字どおり左右両岸に造られています。ドイツ語ではDer Garten der Zwei Ufer、フランス語でLe Jardin des deux rivesとあり、案内表示も2言語。古賀の授業を受けた人なら「2ヵ国語」なんていわないでくださいね。言語と国の境目が一致するということはありえないのに、なぜか日本人は自然にそう思い込んでいる。

 欧州橋

 

さっきバスで渡ってきた橋が右手に見えます。その向こうには鉄道橋も。この、どこにでもあるような、何の変哲もない道路橋が欧州橋Europabrücke / Pont de l’Europe)です。あとで調べてみると、ケールという小都市はもともとフランスがストラスブール防衛のための前線基地として右岸に進出して構築したものらしく、例によって歴史の波に翻弄されながら、第二次大戦の戦後処理が終わって旧西ドイツの占領が終了した1953年にドイツ連邦共和国の国土となりました。

ドイツDeutschland / Allemagne)とフランスFrankreich / France)は近代のはじめ、16世紀のカール5vsフランソワ1世あたりからライバル関係となり、17世紀後半にはフランスの太陽王ルイ14世が自然国境説などというめちゃくちゃな論理を持ち出して、神様はライン川の西側をフランスに与えたもうたと称し、侵略戦争を強行しました。18世紀になるとベルリンを中心とするプロイセン(出自はライン川上流なんですけど)が勢力を拡大し、神聖ローマ皇帝一族の直轄地であるオーストリアとともに「ドイツ」での覇権をめざしますが、国家的統一という面ではフランスにかなり遅れをとりました。あ、もちろん、遅れたとかいう考え方自体が、国民国家の形成こそ近代世界のスタンダードという近代的なバイアスによるものですよ。19世紀はじめ、ナポレオンの侵略戦争により、ライン川流域はフランス帝国領に編入されるか、フランスの衛星国家群と化します。「はじめにナポレオンありき」とドイツではいう。つまり、大革命によって近代の使者を自認し、ナポちゃんの軍事的成功によって勢力を拡大したフランスにむざむざ占領を許したドイツ諸地域とくにプロイセンが、ドイツ国民の結集と統合、国家建設を初めて強く意識したということです。世界史の教科書に載っている哲学者フィヒテの連続講演「ドイツ国民に告ぐ」Reden an die Deutsche Nation)は、ナショナリズム研究においては超・基本的な文献で私も何度か読みました。この講演がおこなわれた1808年の時点では、ドイツ国民などどこにも実在しないわけです。これから、今からドイツ国民によるドイツ国家を建設するぞ、ということなんですが、そのNationというのは経緯からしてフランスを仮想敵国としたものにならざるをえません。プロイセンを中心に、フランスよりも優れた国民・国家であることをめざす苦闘の19世紀前半を過ごしました。フランス近代がご専門の谷川稔さんが中央公論「世界の歴史」シリーズに執筆したこの時期のドイツ・フランス史に「国民国家へのはるかな道」と副題をつけていますが、非常に的確な表現だと思います。繰り返しますが、ナショナリズムが完全に不健全なのではなく、全般に、微妙に不健全なのです。自由、法の下の平等、立憲主義、非宗教的な道徳や正義、そしてすべての人々が均しく教育を受けるという公教育・・・私たちがいま全面的に享受している近代のすばらしさ、それらを実現する主体として構想されたのが国民国家でありました。文系の学問をしている人は、19世紀のさまざまなことを思い出してみるといいですよ。ロマンティシズム(文学・音楽)とか実証主義(人文・社会科学)とか科学技術などさまざまな展開がみられましたが、それらが結果として(あるいは当初から)国民国家の構築と強化に動員されていったことがわかります。その副作用の、絶望的なまでの甚だしさよ!

プロイセンは、1860年代に鉄血宰相ビスマルクの指揮下で急成長し、1866-67年にはオーストリアを排除するかたちでのドイツ統合に王手をかけました。最後の一撃、つまり、プロイセンという1つの君主国が本来は同輩であったバイエルンとかその他の領邦国家の上に立ってドイツ帝国を形成するための勢いをどうつけるか。徳川家康にとっての関ヶ原みたいなきっかけが、ビスマルクのプロイセンには不可欠でした。1870年、たまたま起こっていたスペイン王室の跡継ぎ問題でフランスのナポレオン3世がプロイセンの対応に不満をもったのを、ビスマルクは巧みな世論操作と外交誘導で戦争の引き金にします。これが普仏戦争Deutsch-Französischer Krieg / Guerre franco-allemande この独仏語では「独仏戦争」「仏独戦争」と表現)で、周到な準備と軍事訓練・作戦の確かさでプロイセン&ドイツ諸国家連合軍が圧勝し、フランスはナポレオン3世自身が捕虜になるという惨敗でした。こうしてついにドイツ国民によるドイツ帝国の出発をみました。当時としては天晴れなことに、あとから思えばとんでもないことに、ビスマルクは新帝国の門出を悪趣味なまでの演出で祝います。パリを占領したプロイセン軍は凱旋門を通ってシャンゼリゼを行進し、あまつさえドイツの新皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式を、フランス国家の隆盛を誇示するものであったヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で執り行ったのです。前述のように、ドイツの国民国家づくりはフランスにやられた屈辱の中で芽生えたものでしたが、そのリベンジを果たすかたちで完結したわけ。アルザス・ロレーヌを手に入れたのもこのときです。このときの、フランスにとっての「屈辱」が、今度は逆にフランスの国民統合に跳ね返り、第一次大戦につづく反ドイツ・ナショナリズムとなっていくのでした(1919年の講和条約がヴェルサイユで結ばれたのはその折の意趣返しなのです)。
*人ごとのように語ってきましたが、いくつか考えておきたいことがあります。(1)普仏戦争とその結果としてのドイツ帝国の「成功」があったればこそ、大久保利通や伊藤博文はドイツ流の近代国家づくりをめざすことになったと思います。(2)何より陸軍がドイツ(プロイセン)式になったことは、よくも悪くも日本軍の性質に影響を与えました。(3)隣国のアイデンティティを「征服」することで自国民の意識を昂揚させるという演出は、十五年戦争までの「わが国」もずいぶんとやらかしましたね。


欧州橋からライン川の上流方向を望む 写真左手(右岸側)がドイツ・ケール、右手(左岸側)がフランス・ストラスブール

 

欧州橋を、歩いてストラスブール側に渡ります。もちろん、検問所もなければ両替の必要もありません。あるときには分断と憎しみの象徴だったはずのライン川、いまは和解と欧州統合のシンボルとして「欧州」の名が冠されています。手ぶらの外人観光客が、ひとりてくてくと(はたから見れば何も考えていないかのごとく)橋を渡っています。

 
(左)欧州橋(写真奥がケール側) (右)ストラスブール側に渡り切ったところに、欧州連合旗とフランス国旗 ドイツ側には「ケール」という標示しかなかったけど・・・

 

「ドイツ」に滞在すること1時間くらいで「フランス」に戻りました。歩いて「国境」を越えたのは初めての経験です。外国にいるのでパスポートは当然所持しているものの、これを提示する機会はまったくありません。いまのプチ滞在を細かくカウントするならドイツは2度目、あす以降の旅程が3度目になるけれど、私の旅券を見ただけではドイツに行った記録はどこにもありません。いま西欧の国境というのはその程度のものではあります。でも、先ほどケールでみたように、言語的にはすっぱり分かれています。もちろん法の適用はばっちり国ごとに。教育制度などがとくにナショナルな次元にとどまりますよね。

 プチ・ランを白鳥の行列がゆく

 

バスで来た道を30分ほど歩いて引き返し、プチ・ランを渡って、トラムの電停に出ました。今度はジャン・ジョレスからC系統に乗ってホテル近くの電停をめざします。新市街の広めの道路に敷かれた線路を進むと、なかなか快適です。国民国家の因縁ばなしに気を取られていましたが、鉄道マニアの視点でストラスブールを見れば、ここはLRTLight Rail Transit 軽量軌道交通)のモデル都市としてその筋では非常に有名なのです。LRTの概念はけっこう多様に解釈されるけれど、lightというのは本格的な「鉄道」に対する「軌道」を指し、路面電車とかそれに類する鉄道システムだと思えばよい。モータリゼーション(自動車の普及・普遍化)が激しくなった時期には「通行のじゃま」として各地で廃止が相次いだ路面電車も、1980年ころから欧州で見直しが進み、高齢化や環境問題、都市再開発とくにインナー・シティ問題への対策として再び注目されるようになりました。インナー・シティ問題というのは、モータリゼーションや流通・消費のありかたの変化に伴って本来の中心市街地に人が集まらなくなり、そのあたりがさびれて、やがて都市圏全体が活力を失っていくという深刻な現象で、多くの県庁所在地を含む日本の地方都市でもかなり顕著ではないかと思います。LRTを敷設すれば解決するというのではなくて、自動車の市街地乗り入れに規制をかけると同時に、パーク&ライド(都市周縁部のLRTの電停に駐車場を設置し、定期券などの割引設定をおこなって乗り換えを促す施策)やバスとの路線住み分けといった総合交通政策が待たれます。ストラスブールでも、当初はメトロの建設が計画されたのですが、コスト面で折り合わず、市民運動が対案としてLRTトラムを打ち出し、1994年に開通したという経緯をたどりました。車両や電停のデザインもすばらしく、「わがレール」という感覚を共有しやすいかもしれません。何でもメトロを走らせればよいというのではない。階段の上り下りがなく、駅間の短いトラムは、バリアフリーな乗り物でもあるのよ。パリは、市の周縁部の住宅地に近年5つの路線を走らせるようになりましたし、昨年訪れたオルレアンでも見ています。
*日本では旧来の路面電車がLRTやそれに近いものの導入を図った事例がいくつかありますが、2006年に開通した富山ライトレールが初の本格的なものとして注目されています。JR富山港線を引き取り、富山市内の側を路面に付け替えて、やがては富山市内軌道線への接続が予定されています。

 

トラムは、昭和の都営住宅みたいな団地を抜け、ストラスブール大学のキャンパスを横切って、イル川の南分流に架かる橋上のガリア(Gallia)電停に着きました。先ほど荷物を預けてすぐ通ったあたりです。ホテルに向かう途中に、フランスではよく見るタイプの何でも屋さんが店を開けていたから、水とビールを購入しておこう。ヴォルヴィックはすぐに見つかったもののビールのコーナーがないなときょろきょろしていたら、レジにいた兄さんが「ビール探してるの?」と声をかけてきました。挙動でわかったかな? 兄さんに手招きされレジ前に来ると、ビール専用の冷蔵庫にたくさんございました。「その赤いやつがいいよ。それはアルザスのビール、<ローカル・ビール>だからね」。彼が指さすのは、これまで数え切れないほど飲んできたクローネンブールの缶。もちろんアルザスの産であることは承知していましたが(標準のフランス語にはないKの文字が使われているしね)、彼はやけに強調するし、地元の誇りのようです。もちろん目当てはこのビールなので異存ありません。パリと同じ相場で€1.10。クローネンブールはパリでもしばしば飲んでいるがストラスブールに来たのは初めてだというと、「ストラスブールはいいところだろう。街が美しいし、伝統もあるし、大聖堂もプチット・フランスも○○も●●(固有名詞でよく聞き取れない)もあるしね。もう見たかい?」と声を大きくする。「いま見てきたところだよ。さっきは欧州橋も渡ってきた」といってみたら、「欧州橋? ああケールね。あれは<ドイツ>さ」だって。国民国家の壁は高し。

  今宵の宿

 

ホテル3 Rosesに戻って荷物を引き取り、あらためてチェックイン。建物はかなり古そうで、部屋は素泊まり€51だからまあこれくらいかなという感じです。これでも3つ星ですから、ミニバー(冷蔵庫)は完備。買ってきたビールを入れておきました。小休止して、あらためて市街地に出ます。ついでのことに、ちょっと遠くなるけど中央駅まで行って、明日の切符も手配しておこう。

 
グーテンベルク広場

 

川沿いの落ち着いた道をゆっくりと歩き、ノートルダム寺院の横をまたすり抜けて街中に出ると、日曜とはいっても夕方なのでかなりの人出がありました。西欧の都市ではしばしば見かける路上型のメリーゴーラウンドに子連れの家族が集まり、クレープやホットドッグなどを売る屋台もにぎわっています。ここはグーテンベルク広場Place Gutenberg)。グーテンベルクといえば活版印刷を発明して人類の思想史に大きく寄与した人物ですね(と、いうと「それは西欧本位の考え方で真の発明者は朝鮮半島にいた」などという反論が聞かれそうですが、どうでもいい。朝鮮や中国の活版印刷とグーテンベルクのそれでは、後者のほうが結果として後世に与えた影響が大きいというだけの話ですし、そもそも発明した人がエラいのであって、ドイツとか朝鮮といったがエラいのではない。国レベルで勝ち負け優劣をいうからくだらないことになるのです)。ここまで本文をお読みになれば、ドイツ人のグーテンベルクがなぜ、という疑問はもはや生じますまい。私は知らなかったのですが、ここに住んでいた時期が長かったそうですよ。

 
(左)クレベール広場 (右)鉄人広場(Place de l’homme de fer) おなじみプランタンもありますね

 

けさ通ったクレベール広場を抜け、イル川の北分流を越えて、駅に舞い戻りました。遠征2日目のねらいはカールスルーエKarlsruhe)と最初から決めていました。フランス国鉄SNCFの切符売り場に行き、窓口の兄さんに用意したメモ紙を渡して、英語で発注。そもそも語学の劣等生である私は、何語もよくできないのですが、相対的な話としては英語よりもフランス語のほうが得意ではあります。リスニング能力は似たようなもので、そのことばの雰囲気でしゃべることについてはフランス語のほうがかなり上かな。ただ、このように切符を買うとか何かの手配をするとかいう際には英語のほうがよいと思うようになりました。ストラスブールは(一応?)フランスでフランス語の世界ですから、窓口職員とフランス語で会話すれば母語vs非母語となり、こちらがかなりのハンデを負います。英語ならば互いにニュートラル。語彙が単純化されますし、込み入った表現などを避けて明瞭に話そうとお互いにしますので、手続きに間違いが少なくなるのです。兄さんは、期待どおり明瞭な英語で受けてくれ、こちらの希望に添って発券してくれました。切符を見ると221日(購入当日)から23日まで有効とあり、便が指定されていませんので、ローカル列車および自由席ということなのでしょう。時刻表の指針(indicateur d’horaire)と称する別紙をプリントアウトして渡してくれたのですが、それを見ると、2通りの乗り継ぎ案が提示されています。このサービスは4年前のケルンおよびアーヘンでも経験しており、ドイツ鉄道は旅行者に優しいなと感心したものでした。今回の紙も右肩にDB-BAHNの刻印があり、SNCFのカウンターではあるけれどもドイツ式のサービスを請け負っているのかな。チケット代は€19.00

 

 

駅周辺にはケバブなどの軽食店がかなりあるのですが、もう少しきちんとしたところで、でも軽めの夕食にしたい。昼間シュークルートをがっつり食べたしね。グーテンベルク広場に面して、Aux Armes de Strasbourgというブラッスリーがあり、先客もかなりあってにぎわっていました。パリでブラッスリー(brasserie)といえばレストランとカフェの中間というか、けっこう料理も食えて営業時間の長いカフェみたいな位置づけなのですが、本来の意味はビール酒場。この店は、外装も天井の高い内観も、私たちがイメージする「ビアホール」の感じでした。それならそれで、まともな料理は要らんから、ビールとつまみで済ませちゃえ! 生ビールを頼んだら銘柄をいってくれと。クローネンブール以外のは知らないので訊ねてみたら、いくつか挙げてくれたものの、固有名詞はさっぱりわからない。聞き覚えのあるフィッシャー(Fischer Gold)をどうにか発注。ビアホールといっても唐揚とか枝豆はないだろうから、場所がらソーセージにしよう。Knacksというやつにフライドポテトつきで€6.70。こちらに来て外食がつづくと生野菜が足りなくなるので、グリーンサラダ(Salade verte€3.00も別注して、いよいよ酒飲みの軽食みたいなセットになりました(このあとのドイツ編で軽食だらけになるとは予想していませんでした・・・)。ビールは€2.90のを2杯だったので込み込み€15.50と、まずまずかな。キリンシティで同じようなセットにしたらやっぱり2000円くらいではないかと思う(笑)。このビールは「ドゥミ」と称する25clではなく30clで、分量感覚もドイツやベネルクスに近づいてきたか。味は・・・まあみなさんが予想されるとおりですよ! フランスでは、サラダであれスープであれ「料理」の注文があるとパンを無料で添えなくてはならないと法律で決まっていて(しかも食べ放題)、この程度のつまみでもしっかり添えられてきます。パリではほぼバゲット(いわゆる「フランスパン」)に決まっていますが、昼間のレストランも、ここでも、ふっくらとした丸パンをスライスしたやつが出されました。美味しいですよ。

隣席のおばさん3人組は英語を話していて、リースリングのフルボトルをとり、みな豪快に飲んでいます。大きなどんぶりに入ったサラダをシェアしてばくばく食べているあたり、いかにも飲み会という感じではあります。反対側に座ったおばさん2人は、初め店員のフランス語を理解できず、英語でやりとりしようとしましたが、今度は店員が英語を十分にわからないようでメニューの解説ができなくなりました。すると、リリーフにやってきた中年の男性店員とドイツ語でぺらぺら。晴れて注文が通ったあとも、おばさんたちはフランス語のメニューを見て「これは英語でいうと○○なのよね」と料理名談義をつづけていました。サービスも味も標準くらいでしたが、会計を済ませたらおつりと一緒にお店の3つ折パンフレットをくれました。3言語で記されていて、すばらしい。フランス語・ドイツ語・英語の対訳練習になりそうです。

 

 

すっかり日の暮れた旧市街を歩いてホテルに戻ると、歩きっぱなしだったためかかなり疲れました。夜のスポーツニュースは、やはりバンクーバー五輪中心。前回の冬季五輪はイタリアのトリノで、その開会式はケルンのホテルで見たのでしたが、まさか4年ごとにドイツに行くのが定着するのか?? 競技の模様をダイジェストで流してはいるものの、日本の放送のように成績表を文字化して出さないため、何の種目で誰が優勝したのかというのがよくわからないままです。ま、冬のスポーツについてはほとんど知らないのでいいですけどね。そのうち、なぜかフィギュアのプルシェンコ(ロシア人)が現地スタジオからの生放送に登場。松岡修造、じゃなかったフランス人の現地キャスターがインタビューするのだけど、プルシェンコとキャスターは英語で話している。キャスターは、まず英語で質問し、直後に自らフランス語訳して視聴者に伝え、それからプルシェンコの英語のアンサーを聞き、今度はそれを自らフランス語に訳すというパターン、何とも忙しそうです。ボーダーレスに活躍するスポーツ選手は、たしかにバイリンガル、マルチリンガルになりますよね。以前、トヨタカップ中継のインターバルで、実況席にプラティニ(イタリア系ロレーヌ人の元フランス代表で今のUEFA会長)とベンゲル(イングランドや日本で長く監督を務めるアルザス人)とジーコ(日本代表監督を務めたブラジル人)が集まって日本人向けの通訳をほったらかしに3人で盛り上がるというシーンを見て笑ったことがあります。フランス語ベースに英語を交えて話していて、それは楽しそうでした。アイルトン・セナ(ブラジル人)のインタビューもフランス語・英語・ポルトガル語のトリリンガルだったですね(IOCFIFAF1の世界も建前上の第一言語はフランス語ということになっています)。そういう域に達してみたいものではあるねえ。・・・にやにや笑いながらクローネンブールを飲むのがせいぜいか。

 


PART 4 へつづく

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。