Mon deuxième voyage à l’Allemagne
PART 2 ストラスブール ―プチっとフランス、いやドイツ?―
いまいるのはイル川の「中洲」の東縁ですから、これから中洲を西に向かって横切りながらストラスブールの街を見て歩くことにしましょう。狭くて路肩もほとんどない道路の両側に4階建てくらいの建物が迫っていて薄暗く感じるのは、西欧の旧市街では普通のこと。石造りふうの建物も多いのですが、ところどころに三角屋根と木組み造のアルザス様式もみられます。日曜の午前とあって自動車も歩行者もほとんどありませんが、外国人なのか観光客らしき人がぱらぱら。大聖堂の周辺は商業地区のようで、日曜でなければにぎわっていることでしょう。雨上がりで路面がしっとり濡れているのも風情があっていいですね。
ストラスブール市内を歩く
シュトラス(Straß)を独和辞典で調べてみると、英語のstreetに相当する語で、大きめの通り・街路を意味し、たとえばStraßenbahnといえばこのあとお世話になるつもりの路面電車、Straßkarteといえば道路地図。ドイツ語は漢語と同じように自在に連語をつくれるのが特徴で(フランス語はいちいちdeなどの前置詞でつなぐ)、一方のBurgというのはもともと城・城塞のことで、中世都市が周囲に城壁をめぐらせていたことから都市そのものを意味する語でもあります。Bürgerというのは都市の市民のこと。フランス語で同じ語感をもつのがブルジョワジー(bourgeoigie)で、市民性教育を守備範囲にしている私の視野にずっぽり入ってきます。シュトラスブルクは「道の町」ということになりますか。残念ながら古代・中世史に詳しくないのだけれど、地理的に見て古くから交通・運輸の結節点であったことは容易に想像できます。
高校時代に世界史で苦労した人は、教科書や資料集に載っていた歴史地図にテンパったのではないか。だいたい神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich / Holy Roman Empire)って意味不明だよね、時代によって領域の伸縮が激しいし、飛び地なのかマダラなのかその内部に色の塗られていないゾーンが点在しているし! そもそもドイツにあるのに何でローマ帝国なの? 現在の社会・世界に対する見通しも十分でない高校生が、現在の常識でおよそ計れない過去の状況を学ぶというのは大変なことなのです(日本史でも同じです)。世界史の授業で「国」とか「領域」とか「国境」といった表現を使う際には「今とはまったく違うよ。というより、そういうものの考え方は絶えず変わってきたのであり、今のようなありかたのほうが歴史的にみて例外で、これから先だって変わっていくと思うほうが自然だよ」と繰り返し念押ししておくべきなのです。アルザス地方は、中世まではだいたい神聖ローマ帝国のエリアですが、実際の支配者はたびたび交代していて、そもそも神聖ローマ帝国という一種の上級権力・普遍帝国が本当にアルザスあたりにまで実効的な存在であったのかというと微妙かもしれません。ともあれ、領域国家の形成が顕著になり、初めて国家主権(国境で領域を区切り、その内側においては同国の政府のみが排他的に法を行使する)という考え方が生まれた16世紀にいたって、この周辺は係争地になってきます。王領の拡大をめざすフランスに呑み込まれるのか、独自の国家形成を果たすのか。中でもストラスブールは自由都市(これで一つの独立国のようなもの、ですが、繰り返すように国というのが現在の発想ではくくれない)ですから話は複雑です。アルザスは、政経の授業でおなじみのウェストファリア条約(1648年)で帝国の支配権を離れフランスの影響下に移ります。その後、細かく詳しく話すと長くなるのだけど、18世紀のさまざまな戦争・外交を通じてアルザス・ロレーヌのほぼ全域がフランス国家に組み込まれることになりました。
歴史の変遷を見守ってきたノートルダム寺院
歴史的な係争地というだけなら西欧にはかなりあり、いちいち過去の因縁をいっていてははじまりません。アルザス・ロレーヌがややこしいのは、過去150年のあいだにその帰属を4度変えてきたという問題の「現在性」ゆえです。普仏戦争後の1870年にはドイツ領に編入されました。というより、ドイツなる国家が真に成立したのはこの後のことなので、国際法上は、両地域と縁もゆかりもなかったプロイセン王国に併合されたことになります(その後、ドイツ帝国の直轄領になります)。両地域を失ったフランスは、「彼らはフランスにとどまりたかったのにドイツが無理に奪い取った。彼らのことを忘れるな。いつか奪還しよう」という思いを共有することで、フランス国民としての意識の一体化を図っていきます。「国語を大事にしていればたとえ奴隷になっても牢獄の鍵を握っているようなものだから、フランス語を大事にしよう」と訴えるドーデの「最後の授業」も、その他のアルザス言説も、要するにアルザス以外のフランスで読まれ、アルザスの人たちの本当の思いがどこにあったかは顧慮しないまま、「フランス」のために役立ちました。「最後の授業」だって、よく読むと「君たちはろくに話せないのにフランス語を自分たちの言葉だと言い張るのか」とドイツ人に嘲笑されるシーンがあります。アルザスの言語、アルザス語はドイツ語の方言なのだから当然ですね。ともあれアルザスは、第一次大戦後の1919年に再びフランス領となるまで半世紀のあいだドイツでありつづけました。半世紀ともなると、フランスへの郷愁を抱く人は少なくなり、ドイツの教育を受けてドイツ人としての自覚をもつ人、ベルリンの支配に反発を感じる人、仏独いずれでもなくアルザス人としての意識を強くする人など、事態が複雑化するのは当然です。ライン川の有力河港であり東西陸路の中継点でもあるのだから、ストラスブールはそもそも西欧の中心にあったはずなのに、パリからもベルリンからも周縁の扱いを受け、都合のいいように活用されたのでしょう。道徳の副読本など日本の児童向けの読み物ではなぜか定番だったシュヴァイツァーは、何となくドイツ人と思われているふしがあるけれど、1875年アルザス生まれのアルザス人で、いまならフランス人になっていたはずの人なのです。
*国籍変更を繰り返したアルザスの困難さについては中本真生子『アルザスと国民国家』(晃洋書房、2008年)に詳しい。なお古賀「歴史教科書の中のアルザス・ロレーヌ」(「E.ラヴィスの歴史教科書にみる国民育成教育の基本理念に関する研究」、早稲田大学博士論文、2002年)もどうぞ。現地に行かずによく書いたものではある(笑)。
第二次大戦の独仏戦線が勃発すると、ナチス・ドイツは1940年にアルザス・ロレーヌを接収してドイツ領に組み込みましたが、フランスの解放(1944年)とともに再び、いや何たび目かのフランス帰属となり、今日にいたります。第一次&第二次大戦後、「フランス」の立場からすれば宿願かなって両地域を奪還したわけですけれども、どうだ、フランス人にしてやったぞという上から目線がひどかったらしく、戻ってきたアルザス・ロレーヌはフランス「本体」の都合で不本意な扱われ方をされたともいいます(日本「本土」が復帰後の沖縄に何をしているかを考えると、様子が想像できるかもしれない)。
スタンダードな大聖堂と比べると、尖塔が1つしかなくアンバランスなのがストラスブールの特徴 地盤が脆いためだとか
ノートルダム寺院の大聖堂に入ると、ちょうど正午のミサをはじめようというところで、大勢の人が集まっていました。毎度思うのだけど、中世にどうやってこんな建物を造ったのだろう。ここは、12世紀に建設がはじまり、完成したのは15世紀だそうで、日本史でいえば院政期〜室町時代にもまたがる大事業だったわけです。カトリックの歴史を思えば、12世紀と15世紀では相対的な位置づけが全然違うはずで、完成してほどなく宗教改革を迎えているのですね。実際にアルザス、ことに商工業者の多かったストラスブールは、ドイツの都市の中でもプロテスタントの受け入れがもっとも早かったらしいです。
静かな中心街を通り抜け再び川沿いに出ました。次の目当てはプチット・フランス(Petite France)なる地区。凸レンズの西縁に近いところでイル川が何と4流に分かれていて、狭い水路をまたぐように、あるいはその隙間にひしめくようにアルザス様式の建物が並ぶ景観が称えられているとか。これがあって、イル川周辺が世界遺産になっている模様です。
家々の隙間を「川」が流れているのがわかりますか?
何がどうしてこういう地形になったのかわからないし、調べてもいないのですが、ベネチアのように水路を掘削したというのでもなく、基本的にそういう流れ方をしていたのだと推察されます。真ん中の2流は家々のあいだというより家の軒下を流れ出ているようにも見える。
もう少し西に進むと、分かれた流路の上に鉄製の歩道が渡してあり、水上公園のおもむきです。閘門を設けてあるところもあり、もしかすると往時はここの地主が船の通し賃を徴収していたのではないかとも思えてきます。なるほど、わざとなのか偶然か、アルザス様式の建物ばかりになってきました。私が不勉強なだけかもしれないけど、ここに来るまでプチット・フランスなる名所は知らなかったし、ストラスブールが水郷であるという知識もありませんでした。日本の観光業界でフランスに行くという場合に、ストラスブールが挙がることはまずありません。でも、こうしてみると、水郷とか、高山とか尾道といった「街並み」を好む人ならば大いに喜んでくれそうな街であります。思いがけず、いいところがあるざす。
まあそれでも、市街地に比べると、観光地的なわざとらしさが感じられなくもありません。実際に、歩いているのはいかにもの観光客ばかりでした。ただ変な看板とか色づかいがないぶん感じは悪くありません。日本の観光業界だったら、TGVも開通したし、アルザス・ブームでもぶち上げて大々的に呼び込もうとするのじゃないかしら。
いい感じの路地などを抜けてまた川沿いに出ると、川に面して<Au Petit bois vert>(小さな緑の森で)なるレストランがありました。13時になるころでもあり、ここで昼食ということにしよう。たぶん観光レストランでしょうが、メニューも値段もまずまずのようだったので。
先客は1組だけでしたが、私がいるあいだに何組か入ってきました。よくわからないけど、民家のそれを模したような内装なのかな。愛想のよい初老のムッシュが注文を取りにきたから、まずはパリでもおなじみのアルザスのビール、クローネンブール(Kronenbourg)25clをアペリティフに頼み、料理はアルザス料理の典型としてしばしば紹介されているシュークルート(choucroute)を注文。これ€15とランチにしてはなかなかの相場です。ややあって運ばれてきた品は、2種類の太いソーセージ、豚肉の煮込み(ドイツでいうアイスバイン)、じゃがいもを、いわゆるザワークラフトの上に盛り付けたもの。あるいはこれら丸ごと蒸し器にかけたのかもしれません。シュークルートという語は、綴りこそフランス語っぽいけど語感はドイツ語に近く、ザワークラフト(Sauerkraut)の音訳なのかもしれない。シュー(chou)というのはフランス語でキャベツのことで、シュークリーム(というのは英仏語ちゃんぽんで、フランス語ではchou à la crème)はキャベツクリームという意味なんです本当は。帰国してからものの本で調べてみると、本来のシュークルートはキャベツの部分だけで、肉類はアルザス独特のトッピングということのようです。ビールが空いたので、場所がら白ワインのリースリングを注文し、ゆっくりと飲み食い。ソーセージとザワークラフトの食べ合わせは、4年前のアーヘン以来ですね。美味いかといわれれば、美味いですけれど、また食べるかと訊かれれば微妙な感じ。何とも質朴なこの地方の家庭料理なのかもしれません。パリに戻って、さる教授にストラスブールに行きましたといったら、「シュークルートは食べましたか。美味しかったですか」と訊かれ、ウィと答えると、「ふーん、ふんふん」と返されたので、アルザスに対する上から目線が「本土」とは異なる(というか明らかにドイツ寄りの)料理に注がれているのかもなあと思ったことでした。ビール€2.40、ワイン€2.80と飲み物は安いので結構なことです。
ごはんを食べているうちに天気はすっかり回復して晴れました。プチット・フランス地区に入った時間帯は小雨まじりだったので、ぐるっと一周まわって元の位置に戻り、晴天のもとでの景観を眺めておくことにします。街中の路面とか壁面の渋さは曇天のほうがそれらしく見えますが、水辺というのは明るい陽射しがあったほうがよいね。
観光地図を見るとストラスブールにはまだまだ名所らしきところがあるみたいですが、きょうは少し足を伸ばそう。いままでずっと付き合ってきたイル川は、ストラスブールの市街を東に向かって貫流し、もう少し北のほうでライン川(Der Rhein / Le Rhin / The Rhine)に合流します。欧州の長大河川といえば中・東欧のドナウ川と西欧のライン川があまりに有名で、中学校の地理の教科書にも当然のように出てきます。内陸水運としての経済の動脈でもあり、ライン下りなどの観光名所でもあります。私は4年前のケルンでほんの少しだけ触れたことがあるくらいで、これまで縁が薄かったこともあり、今回はぜひともストラスブールのライン川を見てみたい。パリに置いてきた日本語のガイドブックに載っているストラスブールの地図は「中洲」の凸レンズ部分だけなのですが、さっきインフォメで購入した観光地図は中心部の拡大図のほかに周辺の住宅地も含めた広域地図を載せてあり、それだとライン川との位置・距離関係がよくわかる。プチット・フランスから少しだけ東に戻ったところで、トラム(路面電車)が道路ごと橋で渡る箇所があったので、停留所に行ってみました。
地図によればトラムはライン川の1.5kmくらい手前が終点です。歩こうと思えば歩ける距離ですが、電停に行ってみればトラムとバスが一体になった路線図が掲げられてあり、同一方向なら乗り換え可能なことがわかりました。片道€1.40、往復€2.70ですが往復する保証はないので片道の切符を券売機で購入し、傍らの刻印機に通します。必ずvalider(有効化・効力化といったところ)せよと書かれてあり、乗り換えのこともあるので時間制限をかけるためでもあるでしょう。どこまでもわがまま勝手で、しかし「それでどこが悪いの。嫌なら来なくてもいいのよ」といわんばかりのパリのメトロやバスに比べ、非常に明快で初心者にもわかりやすい! トラムの電停なのに自動券売機を必ず置いてあるのもエラい。トラムは長短長短長の変形5両連接で、カーブなどをすっと曲がれるようそういうしくみになっているようです。子ども向けのムカデのおもちゃみたいな感じ。
トラムの車内
電車は市街地のはずれのような地区をすーっと走り抜け、市庁舎周辺の緑地に入り込みました。いま乗っているD系統は、その先で左折して墓地の中を進み、さらに住宅街の道路の中央に設けられた専用軌道を走ります。建物・道路との距離感が函館市電のような感じだけど、こちらはほとんど道路と分離されているのでスマート。ほどなくジャン・ジョレス(Jean Jaurès)なる電停に到着しました。ジョレスというのは第三共和政期の社会主義者の名ですね。D系統はここから1駅あってそこでも乗り換えられるのだけれど、ライン川に向かうバスがジョレス起点であるので、ここで待つことにしました。
いまいるのは緑の矢印が指すジャン・ジョレス これから青い線の系統でKehlをめざす
バスが来ました
10分ほど待つと21系統のバス、ケール(Kehl)ゆきが来ました。トラムと同じストラスブール交通公団の運営する「市バス」です。どこから現れたか、中高年中心にかなりの客が乗り込み、座席の8割ほどが埋まりました。ケール市って聞いたことありますか? 私は初耳でした。見知らぬ町に市バスで出かけるのには、もちろん訳があります。
この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。