Fragments historiques dans les régions marginales franco-espagnoles

PART2 バルセロナ 雨のクリスマス

 

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前夜バルセロナ空港に着陸する前、エアバス機はカタルーニャの海岸に並行して地中海上空をしばらく飛んでいました。進行右側の窓際に座っていましたので、陸地と海との境目がよく見えました。都市を示す密集した灯火がかなり面的に広がっていたから、バルセロナだけでなくカタルーニャ全体にかなり都市的なところが多いのだなと。地中海側に来たのは、まだこれで3回目。8世紀にイスラムが進出して以降、地中海は「内海」ではなくバリアーのようになってしまい、社会・文化的な軸が北漸して「欧州世界」が形成されたと、伝統的な欧州史のテキストは伝えています。でも、カタルーニャあたりに視点を据えて考えれば、違った歴史が見えてくるかもしれませんね。

ランブラス通りの南端、コロンブスの搭があるところはバルセロナ港に接しています。ただこの付近は、お金持ちが個人所有するヨットなどが繋留されたレジャー港のようです。古来の港町(とくに商港)は、20世紀後半に入ってあちこちで試練を迎えました。大型タンカーの時代になると天然の良港では間に合わず、巨大な埠頭を沖合に伸ばしていかなければならなくなって、景観が変わってしまうのですね。横浜なんかも沖合にコンクリートがありすぎて、どこが運河で海なのか見た目にはわからなくなってしまいました。バルセロナの場合、旅客輸送の船はこのすぐ南側の埠頭を発着するようですが、タンカーや貨物船はかなり南に建設された大型の新港に着くようです。

 
(左)バルセロナのレジャーポート (右)バルセロナ商港 右に見える大きな建物はワールド・トレード・センター

さてこれから旧市街中の旧市街、バルセロナのオリジナルの部分を歩きます。ランブラス通りの東側一帯ですね。グーグルマップなどを広めにとって見ていただくとわかるのですが、バルセロナ全体は、札幌や旭川もびっくりの碁盤目になっています。ただ、このオリジナル部分だけは別。狭い道路がごちゃごちゃに入り組んでいます(行き止まりというのはあまりなさそうですが)。どの本を読んでも、治安が悪いとか物騒だとか書いてあるので、大いに用心して歩くことにしよう。雨はやんだみたいですね。

 
 バルセロナ旧市街


むむ、たしかに昼なのに薄暗く、人通りがほとんどありません。人通りはないけど、ところどころに座り込んでいるおっちゃんとか兄さんがいる。道幅はせいぜい2mかそこらで、それなのに両側の建物が日本式に数えて4階建てなので、巨大な建物の隙間を歩かされているような気がしてきます。2月末に訪れたポルトガルのリジュボーア(リスボン)でも、「庶民」の住む住宅地を歩いて似たような印象を受けましたけど、気のせいかバルセロナのほうが陰気な感じがする。先入観かもしれませんけどね。何でも屋さんとかタバコ屋さんみたいな、ごく限定された地元の人だけが使うような商店がたまにあります。欧州の古い都市にはこの手の地区がだいたい中心部にあって、悪くいうとそれを置き去りにして(見て見ぬ振りをして)周囲の開発を進めるというところがあります。もちろん、それによって旧来の景観を結果的に保全することにもなります。花の都パリにそのような箇所がほとんどみられないのは、第二帝政期のセーヌ県知事オスマンによって破壊的ともいえるリコンストラクションが実施された結果です。東京や大阪には、ないではないが、やはり後退してきましたよね。

  旧市街のショッピング地区


私の歩くスピードもかなり速くなっていたはずです。いつもメモがわりにシャッターを押しているのに、いまフォルダを見ても写真がほとんど残っていない(笑)。ま、慎重であるに越したことはありません。ガウディのランプがあったレイアール広場を再び通って、フェラン通り(Carrer de Ferran)に出てきました。ランブラス通りと直交する道路で、ブティックや小物屋さんなどの路面店が並んでいます。今日はクリスマスなのでほとんど閉まっていますけど、このあたりから北側がバルセロナでいちばんのショッピング・ゾーンです。本日何軒目かのスターバックスを発見。いまはどこの都市でもそうだけど、バルセロナのスタバ密度はかなり高いなー。

 
(左)サン・ジャウマ広場のカタルーニャ自治政府政庁 (右)市庁舎の屋根に掲揚された3本の旗 左から カタルーニャ自治州、スペイン王国、バルセロナ市


路地に入ったりウィンドウをのぞき込んだりしながら進むと、方形の小さな広場に出ました。カフェなどもあるのだけど、妙にしっとりしています。何となく方向を見失った気がしたので、壁に背をもたれてから地図を取り出しました。ホテルのレセプションでもらった折りたたみのシティ・マップです。あ、ここはサン・ジャウマ広場Plaça de Sant Jaume)なんですね。広場をはさんで向かい合っているクラシックな建物は、南側がバルセロナ市庁舎Ajuntament de Barcelona)、北側がカタルーニャ自治政府政庁Generalitat de Catalunya)。いずれも初期近代の建物だそうです。

いまGeneralitat(ジャナラリタ)を自治政府政庁と表現しましたが、意訳しすぎて十分に含意が伝わらないと思います。ジャナラリタというのは13世紀のバルセロナ伯ジャウマ1世(しつこいようですがアラゴン王としてはハイメ1世)のときに設置された身分制議会に端を発する、バルセロナ伯領の自治機関でした。同時期のフランスの三部会(les États généraux)と同じ語彙なのに気づくでしょうか。各層の代表者と君主が共治するためのもので、ときに君主側が戦費調達などのため新規課税を図ろうとして、ときに市民側が君主に要求を突きつける場として、利用されました。商業都市バルセロナは市民自治の伝統が根強く、歴代のバルセロナ伯もジャナラリタを尊重しました(せざるをえませんでした)。このへんが中世なんだよね。そのように中世的な意味で商業的繁栄を遂げた成功体験が、やがて初期近代(近世)の社会的課題に直面して、かえって阻害要因になっていきます。15世紀に入るとバルセロナ伯(およびアラゴン王国)とバルセロナ市ジャナラリタは内戦に突入し、双方疲弊して、結果的に同君連合を組んだイザベルのカスティーリャ王国の主導権を許す事態になってしまいました。何となく自治都市・堺と織田信長の関係をみるようでもあります。それでもジャナラリタは、市政に関するかぎりはその権限を保持しつづけました。18世紀初めまでは。

 王の広場と旧バルセロナ伯宮殿

バルセロナ伯領ばかりかアラゴン王国までもが自治権、内政権を奪われたのは1714年のことです。背景のヒストリーは「世界史」を好む人ならおなじみの話ではあるのですが、例によって家系などが入り組むため、年表ふうにまとめてみましょう。

1469年 のちのバルセロナ伯フェラン2世(アラゴン王フェランド2世)、のちのカスティーリャ女王イザベルと結婚
1479
年 フェラン2世の即位に伴い、夫婦でアラゴン・カスティーリャ連合王国の共同君主となる(イザベルは1504年没)
1516
年 フェラン2世没 フェランとイザベルの娘ファナ(「狂女」Juana la Locaとして知られる)は、ブルゴーニュ公フィリップ(ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の子)と結婚して男子を生んでいた この男子がカルロス1Carlos I)としてアラゴン・カスティーリャ連合王国の君主となる 
この時点でアラゴン・カスティーリャ両国の王位はハプスブルク家に移動(カスティーリャ語ではアブスブルゴ朝 Habsburgo
1556
年 カルロス1世(兼 神聖ローマ皇帝カール5世 ルターの宗教改革と格闘した人物でもある)退位、ハプスブルク家の所領が分割され、カルロスの子フェリペ2にカスティーリャ、アラゴン、ナポリ、シチリアなどが相続される
1580
年 フェリペ2世(バルセロナ伯としてはフェリプ2世、アラゴン王としてはフェリペ1世)、ポルトガル王位を継承 1640年までポルトガルもアブスブルゴ家の同君連合国に
1588
年 フェリペ2世、無敵艦隊アルマダをイングランドに侵攻させるが惨敗 このあたりまでが「太陽の沈まぬ国」の最盛期
1615
年 フェリペ3世、伊達政宗が派遣した遣欧使節団(支倉常長ら)を引見 このころイベリア半島の経済が著しく衰退
1700
年 カルロス2世没 アブスブルゴ朝の断絶
1701
年 フランスの太陽王ルイ14世、アブスブルゴ家の血統を引く自分の孫フィリップをカルロス2世の後継者としてマドリードに送り込む フランスの強大化を嫌ってこの継承に反対するオーストリアのハプスブルク本家、プロイセン、イングランドなどが戦争に訴える(スペイン継承戦争 Guerra de Successió Espanyola
1714
年 フランス側の敗北で終戦も、フランス・ブルボン家出身のフィリップ改めフェリペ5Felipe V)がカスティーリャ・アラゴンの王位を継承
これ以降はボルボン朝(Borbón)の君臨となる 革命等で数度の断絶ののち、1975年に現在のファン・カルロス1世(Juan Carlos I カタルーニャ語ではジョアン・カルラス1世 Joan Carles I d’Espanya)が即位している


「世界史」の教科書では、スペイン継承戦争はフランス・スペイン vs 英国・オーストリアという構図で描かれ、フランス側は敗戦によりスペイン王位以外のほとんどを失ったということになっています。それは事実なのですが、「スペイン」という国はこの時点ではまだ微妙なところ。カスティーリャとアラゴンとバルセロナは別の国家なのです(レオンもバレンシアもシチリアもナポリも)。この間、いったんはフェリペ5世(バルセロナ伯としてはフェリプ4世)の継承を認めたバルセロナやアラゴン、バレンシアは、ハプスブルク家が推すカール大公への支持に乗り換え、カスティーリャと戦うことを決意しました。ですから、構図をきちんと書きなおせば、フランス・カスティーリャ vs 英国・オーストリア・カタルーニャ(バルセロナ・アラゴン)ということになります。自治都市の伝統と誇りを守るためのバルセロナ攻囲戦は3度に及びました。2度までもカスティーリャの攻撃をはね返したカタルーニャでしたが、列国はカタルーニャのために戦っているわけではなくフランスの強大化を阻止することこそがねらいでした。カタルーニャ側が王・伯に推戴していたカール大公が本国に呼び戻され神聖ローマ皇帝カール6世になると(1711年 この人のお嬢さんであるマリア・テレジアの話はこちら)、列国は戦勝の実だけを取ろうと和戦に向かいます。はしごを外されたかたちのカタルーニャは、3度目の攻囲戦を単独で戦わざるをえなくなり、1714911日ついに降伏しました。この日がカタルーニャ記念日として、この地域の人たちの「記憶の場」になっています。
1603年以来スチュアート家のもとで同君連合を組んでいたイングランドとスコットランドの両王国は、この戦争中の1707年に合併、グレートブリテン連合王国が成立しました。私の表記方針として連合王国UKに関して「英国」としています。

 
バルセロナ大聖堂


こののちフェリペ5世は、フランス王位継承権を放棄すること、ナポリ・シチリアなどイタリア方面の領土を放棄すること、ジブラルタルを英国に割譲することといった厳しい条件を呑まされた上で、ともかくもカスティーリャほかの王位をようやく承認されました。彼は母国フランスに倣って内の中央集権化をめざし、バルセロナ、アラゴン、バレンシアなどの自治権を剥奪して、マドリードからの直接統治に切り替えました。また、これらカタルーニャ地域においてもカスティーリャ語の使用を強要しました。同じイベリア半島とはいっても、言語が違いルーツが異なるのだから、いま「スペイン」と「ポルトガル」が別の国であることに違和感はありません。それでいくと、18世紀初めの欧州情勢が少し傾いていたら、「カタルーニャ」もまた国民国家として自立する可能性があったに違いありません。歴史の神様はそのようには差配せず、カタルーニャは「スペイン」の一部として接収されることになってしまうのです。

サン・ジャウマの北側も、自動車の入れない石畳の道がつづきます。旧バルセロナ伯宮殿のある「王の広場」(Plaça del Rei)を経て、サンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂La Catedral de la Santa Creu i Santa Eulàlia 通称バルセロナ大聖堂)にやってきました。11時のミサがおこなわれているところでしたが、スケジュール表(下の写真)を見ると、この回はカタルーニャ語で、正午はカスティーリャ語と、交互におこなわれるみたいですね。考えてみれば、信仰というのは精神の最も深いところに根ざすものだから、どの言語で認識し、内面化するのかが大きな問題になるはずです。いまはCatalàCastellà(カスティーリャ語ですが、この表記自体はカタルーニャ語・・・)とが仲よく並置されているのだけど、母語であるはずのカタルーニャ語を禁じられた時期が長いというのは、人々にとってどういう精神状態だったのか、なかなか想像することが難しい。

もう四半世紀も前、大学に入学して「第二外国語」を選択する段になったとき、18歳の古賀が選んだのが「スペイン語」でした。大学生といえばドイツ語でしょ!(文弱な兄ちゃんはフランス語でも仕方ないけど!)みたいな時代が急速に終わりを迎え、中国語が一気に台頭してきた時期にあたります。いまでこそ急進的な英語教育論者になっている私も、高校時代にさんざん苦しんだことから外語に対して強烈な苦手意識をもってしまい、文法などがより精緻で複雑だと聞くドイツ語・フランス語や、文字を覚えるのが面倒な中国語は避けたいなと思ったようです。「スペイン語」だってフランス語の親戚なので文法の複雑さは似たようなものだけど、人がやらないようなやつなら「できない」ことによる劣等感も減じられるとどこかで防衛機制をはたらかせたのではなかったでしょうか。「スペイン語」のクラスを常設している大学・学部は多くないので、早稲田の教育学部はなかなか充実していたわけですが、いい先生に恵まれて、まずは楽しく学べました。あいさつのほか、「スペイン語を学びました」とか「勉強したくねえ」みたいなどうでもいいフレーズ以外はすっかり忘れてしまいましたが・・・。「スペイン語」というのは、これまで述べてきた表現だとカスティーリャ語ということにほかなりません。勝者の言語を敗者に強要したのです。ついでながら、スペイン(Spain)というのは英語の表現。カスティーリャ語ではEspaña、カタルーニャ語だとEspanyaです。織豊時代の日本では、フェリペ2世時代のこの国(アラゴン・カスティーリャ連合王国)のことをイスパニアと呼びましたが、そちらのほうが現地読みを適切に反映しています。

なお、個人的な後日談を申すなら、2年間の語学必修期間を終えてようやく多年にわたる外語学習から解放されるわいと思ったとき、このまま外語から離れたらダメになるのではないかという思いになぜか駆られ、3年生になるとき大学の語学教育研究所(国際学術院の源流の1つで今はないのですが、いいところでしたよ〜)のフランス語入門講座にエントリーして、院生になるまでそこで学びつづけました。指導教授がフランスの専門なのでうまくいけば引きが・・・というような不純な動機がなければ、別の言語にしたかもしれません。フランス語の学習は、卒業単位ではなく人生を賭けた作業になってしまったため苦痛を通り越して苦悶に近いものになっていきましたが、56年くらいかかって読むのが苦にならなくなると、英語に代わって自分の第二言語になりました。ていうか、文法や語彙などを多く共有するカスティーリャ語を最初にやっていたから、フランス語の入門においてさほど無理をしなかったし、フランス語を通じて「外語を読む」習慣がつくと、今度は英語だって読んでしまえというふうに好転していきました。ちょうどインターネットが普及しつつあったころで、「読む」外語に触れる機会が急に増えていたこともあります。外語と格闘し、忌避し、悶絶したそのような主観的経験がなければ、この稿でさんざん触れているような「言語」そのものへの関心を抱くこともなかったことでしょう。


 
ショッピング街のアンジェル通り 例のあの店とかあの店も、クリスマスはお休み


カテドラルの北側、アンジェル通り(Portal de l’Àngel)あたりはモード系もファストファッションもある、表参道的なエリア。ウィンドウ・ショッピングでもしたいところだけど、クリスマスなので全面的にクローズです。それにしては人通りがけっこうあります。この通りを北に歩いていくと、まもなくカタルーニャ広場に出ました。ランブラス通りとはここで合流です。前述したようなバルセロナ市の都市形成史からすると、このあたりは「拡張された旧市街」のいちばん北端ということになります。18世紀前半、「スペイン」に接収されてしまったバルセロナですが、19世紀の産業革命ではむしろ「スペイン」全体をリードする存在となり、都市の経済的な勢いではマドリードをしのぎました。このため欧州の大都市がどことも経験したように、近代的な意味での都市計画が必要とされるようになっていきます。当初はバルセロナ市自身が主体的に(自治的に 涙)コンペなどをおこなって都市計画を実施しようとしたのですが、マドリードのスペイン政府がこの動きをつぶし、土木技師セルダ(Ildefons Cerdà 181576年)を起用して図面を作成させました。セルダ自身はカタルーニャ生まれのバルセロナ市議会議員です。近代パリを造成したオスマンの都市計画が、大きな広場と幹線道路によるダイナミックな空間の創出であるなら、セルダの発想は板チョコのように縦横を区切って均質で合理的・科学的な空間を生み出すというもので、前者がブルジョワ的、後者が労働者的(もっといえば社会主義的)な発想にもとづくものと考えられます(岡部明子『バルセロナ』、pp.38-57)。岡部さんは、不本意ながらも受け入れたセルダの構想が実は先見性に富むものであったと前向きに評価しておられます。建築とか都市計画のことはまったく素人でわかりませんが、そういう面があるのだなあと感心しました(共感はしていません)。私なんか、京都の通り名を覚えるのも面倒だし、札幌の「何十何条」みたいな記号的住所にもなじめないので、パリのほうがいいなあ(ブルジョワ的体質なのか 笑)。バルセロナのタクシー運転手は道路を覚えるのが大変でしょうね。

 カタルーニャ広場では何かのデモをしている


空港行きアエロブスが発着するカタルーニャ広場は、そんなわけで、今では旧市街と新市街とを分かつ地点になっています。前夜アエロブスで走ってきた東西幹線は例外的に広い道路なんですね。さてお昼ちかくになって、次どうしよう。バルセロナでマストの場所といえば桜田一族 サグラダ・ファミリアとモンジュイックの丘なのですが、天気が悪いときに行きたくないのと、クリスマスのサグラダはお昼で閉まってしまうようなので、明日を期しています。よし、地下鉄に乗って、スペイン国鉄(RENFE)のターミナルであるサンツ駅Estació Barcelona Sants)に行って、明日夕の列車のチケットを手配しよう。29日までにマルセイユに入ればよい旅程を立ててあるので、次はペルピニャンかなと思って、出発前にフランス国鉄SNCFのサイトでチケットを予約しようとしたら、問題が起こりました。バルセロナとペルピニャンを結ぶ列車の本数が思ったほど多くなく、特急クラスはお昼か、1620分と遅めになってしまう。1620分だとペルピニャンには1744分着となって、もう暗いはずだから、それなら宿も予約しておかなくては。出発当日の朝、急きょネットをいじって、ペルピニャンの駅前ホテルを確保しました。それはいいのだけど、肝心のTGV(フランスの新幹線)のチケットが取れません。空席がないのではなく、「そのクレジットカードは使えません」という表示になってしまうのです。ためしにRENFEのほうでもやってみましたが結果は同じ。普通のVISAカードですし、他では問題なく使えているのに、なぜなんだろう。考えられるのは、これまでパリから西欧各地への列車旅でネット購入した際に使っていたアドレスを、プロバイダの都合で変更したことかなあ。ま、予約画面で候補に挙がっているのもほとんど正規運賃€44のものだったので、それなら現地で買えばいいかということにしました。

  バルセロナ地下鉄


広場直下のカタルーニャ駅から、緑カラーのL3号線に乗車し、ランブラス通りの地下をいったん港側まで下って、三角形の二辺を描くように再び北上、サンツ駅まで行きます。1回券だと€2ですが、€12.802日券にしました。今日は元を取るほど乗らないのはわかっていますが、明日いくらか乗ってトントンくらいでしょう。いちいち切符を購入する面倒が省ければよいので。欧州のあちこちで地下鉄を利用してきました。ここの特徴は、座席が日本と同じロングシートであること(欧州では少数派)、「次の電車は○○を出ました」ではなく「到着まで○分○秒」というカウントダウン表示であることですかね。6分とか掲出されると逆にいらいらしそうだけどな。サンツ駅で降りて、表示に従いRENFEの駅をめざすと、これはまたずいぶんと長い廊下。軽く1駅ぶんくらい歩かされて、ようやく地上のターミナルに出てきました。長距離便だけでなく近郊列車もたくさん走っているので、大小の荷物を抱えた人でにぎわっています。これは要警戒やな。

 チケット購入を試みるが・・・


幸い、長距離便(larga distancia)の窓口には56人しか並んでいなかったので、その列につきます。ところが、順番が来て、「明日の午後の列車を取りたいのですが」と申し出ると、窓口のおじさんがノーといいます。「トゥモロー? ノートゥモロー。オンリー・トゥデイ。トゥモロー・チケット・イズ・トゥモロー」――ええ? 本当か? 長距離列車の指定券を当日以外は駅の窓口で買えないなんておかしな話です。とにかく今日は売らんと言い張るので、ここは当日専用の窓口なのかなと思って探してみたけど、やっぱりここしかない。カードで決済する自動券売機も意味がわからん(もしかすると「外国」であるペルピニャンは仕込まれていないのか?)。インフォメーションで訊ねれば正解がわかるでしょうが、そちらは人でごった返しているし、何だか今日は不調なのかなと思って、購入をあきらめました。トゥモローになったら間違いなく買えるのだからね。

 ウニヴェルシタットの駅名になっているバルセロナ中央大学


そんなわけで、うまくいかないのと、雨が強くなってきたのとで、いったんホテルに戻って小休止。まだ昼ごはん食べていないけど、そんなに空腹じゃないしなあ。「せっかく来たのだからがんばっていろいろ見るほうがいいよね」というのは、旅慣れない人がよくやらかすことです。気分がよくないときに無理をするとトラブルに遭いやすいし、いろいろ見てもおもしろくありません。「よほど見たいもの」はぜひ見ましょう。「見たほうがいいと、人が(ガイドブック、メディアが)いっているもの」は、気乗りしないなら見なくても後悔することはありません。

天気もあって妙にかったるさを覚えますが、まだバルセロナに到着して1日も経っていないんでしたね。出発前からの不機嫌さを引きずりすぎているとロクなことにはなるまいから、少し昼寝でもして調子を取り戻すか。てなわけで、14時前くらいに再始動。雨が降っていなければこの日のうちにモンジュイックに登ろうと考えていましたが、悪天を押してまで山登りするつもりはありません。午前中は旧市街を見たので、これから新市街を散策することにしましょう。ホテルの1ブロック北を東西に走る幹線道路、グラン・ビア・デ・レス・コルツ・カタラネス通りの北側(正確にいうとバルセロナの碁盤目は西に45度傾いているので、通りの北西側)が、広大な新市街、つまり19世紀のセルダ計画によって生み出された町ということになります。ま、ただ、今回は歩けるところをというので、カタルーニャ広場からせいぜい半径500km程度のところにしましょう。

 
(左)新市街のバルメス通り  (右)ここにもシェアサイクル パリほどにはステーションが多くないようですが、これから発展することでしょう


グラン・ビア・デ・レス・コルツ・カタラネス通りと直交するタテ方向のバルメス通り(Carrer de Balmes)に入ってみました。ここも中央に歩道が設けられ、飲食店などのテントが並んでいますが、クリスマスと雨天とで大半が開店休業の模様。大方の日本人、そしてハナミスト古賀の感覚だと、こういう歩道があれば間違いなくソメイヨシノを植えてしまうところですな。2本東側のタテ筋、グラシア通り(Passeig Gràcia)が新市街のメインストリートになっているらしい。南に進めばカタルーニャ広場から、そのままランブラス通りにつながることになります。こちらは、より広い歩道を中央にもち、やはり各種の屋台が開店休業状態です。グッチ、エルメス、カルティエなどもろもろの一流ブランドの路面店も、この日はお休み。マクドナルドやバーガーキング、スターバックス(またまた 笑)は大はやりです。もう15時近いし、ランチという時間でもないので、どこかのバルにでも入り込んで、またタパをつまむかなあ。

気勢が上がらぬまま新市街をぐねぐね歩いて、カタルーニャ広場に戻ってきました。その南側は昨日来ずっと歩いているところです。さきほど大聖堂を出てから歩いたアンジェル通りに戻って、ふと思いついてランブラス通りとのあいだを結ぶ細い道路に入ってみると、2つ星くらいのホテルが並ぶゾーンでした。それにしても、バルセロナにはスーベニア・ショップ(お土産屋さん)の何と多いことですかね。パリには案外少なくて、コテコテのやつはノートルダム、ルーヴル、エッフェル塔、シャンゼリゼ、モンマルトルといった超有名観光スポットの周辺にあるだけ。市内のあちこちに点在しているのは、すごいというのか、よく商売になるなというのか。もとよりペナント、キーホルダー、マグカップ、サグラダ・ファミリアの置物なんかには興味がありません。で、どことも店頭にディスプレイしているのはFCバルセロナのユニフォーム。それも、なぜかメッシの背番号10が大半を占めます。そんなお土産屋さんを通り越して、ランブラスに出るちょっと手前に、おしゃれっぽいレストランがありました。サンタ・アンナSanta Anna)とあり、表に掲出してあるメニューを見たらまともそうなので、入ってみました。「スペイン人」は14時くらいに豪華なディナーを食べ、そのあとシエスタ(午睡)だとか聞いたことがあるけれど、「スペイン」の常識とカタルーニャのそれが一致するかどうかは承知していません。ともかく、この時間からまともな食事をするなら、昼夕兼用になることは間違いないですね。夜はワイン(と日本から持参のカワキモノ)で済ませることにするか。

 
 クリスマスの昼&夕食


入口から2つ目のテーブルに案内されました。店内はほぼ満席。左隣は中年の夫婦で、スパークリング・ワインを飲みながら肉を食べています。右隣は30代くらいの兄さんで、何やらのおかずとビール(食後にごっついケーキも食べていた)。目の前にはバルのカウンターもあり、例によって短時間のお客さんが何人か入れ替わりました。タパを頼んでもいいなと思いかけて、でも当初の予定どおりアラカルトの一品ものを取ることにしました。英語のメニューがよいですかと訊ねられたのでお願いすると、ありがたいことに(でもないか)フランス語も併記されている。飲み食いに関してはフランス語のほうが慣れているからねえ。そうだ、クリスマスらしいところで鶏モモのロースト(フランス語でpoulet rôti)にしよう。ワインの欄を見ると3/8というのがあり、微妙な分数だけどフルボトルの8分の3ならいいんじゃないと思って発注。ややあって供されたのは、何のことはない普通のハーフボトル(375ml)で、この分数の意味はいまもってわかりません。フランスでは見たことがないと思うので、スペイン・ワインの作法なのかな? 冷静になって考えると、1/2というのとさほど分量に違いがあるわけではなく、算数に弱いので判断が鈍っていたようですね(汗)。銘柄は、近所のマルエツでも売っているサングレ・トロ(Sangre Toro)で、フランス以外の赤はほとんど口にしない私が唯一味を知っているスペイン・ワインでした。普通に美味いです。グラスの洗浄が不十分で薄汚れていたりもするけど、そこはパリでもよくある話。

鶏はなかなかごっついものでした。骨つきモモが2枚、フライドポテト、サラダ。塩・コショウの小瓶が置いてあるのはフランスと同じですが、オリーブオイルがセットされているのは南欧っぽくていいですね。少しかけると風味が出ました。特別に美味いというほどでもないけど、普通に美味い。子どものころ、近所の肉屋で丸焼きにされた鶏モモを買ってもらい、手を油だらけにしながらかぶりついた記憶がありますが、ナイフとフォークで上品に切り分けるのはなかなか大変なんですよ。「公式ルール」をそのうち習わなければね。私も日本人の端くれなので、焼き魚や煮魚をお箸でキレイに食べる技はもっています。それを教えてやるからバーターにしようぜ(誰と?)。鶏が€9.75、ワイン€6.70、食後のエスプレッソが€1.30で〆て€17.75。同じ通貨単位なので比べちゃいますと、パリの町なかで同じものを食べれば、込み込み€23くらいになると思います。ごちそうさま。

 


変な時間にたっぷり食べたのと、予定外にごっつり飲んだのとで、かったるさが余計に募りました。このごろアルコールの分解速度が遅くなっているのを自覚しており、日々の晩酌でも赤ワイン3杯目というのはちょっと危険なんですよね(その前に焼酎のレモン炭酸割をジョッキ2杯くらい飲んでいるからね)。ハーフボトルというのは、やっぱり昼酒としては多すぎるなあ。酒が回ってくるとまずいので、早足でランブラスを渡り越し、ホテルの1筋裏側の道にあった何でも屋さんで晩酌用のビール(サン・ミゲール)、カタルーニャ産の赤ワイン(ハーフボトル)、ペットボトルのミネラルウォーターを購入(込み込み€5.65と安い!)して部屋に戻りました。まだ夕方ともいえない時間ですが、シエスタと読書で25日の残り時間を過ごすことにしよう。こんな日もあるさ。

 

PART 3へつづく

 

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。