Fragments historiques dans les régions marginales franco-espagnoles

PART1 西地中海の繁栄の都へ

 

西欧あちらこちら にもどる

物知りな子どもが自慢することの中に「国の名前をいくついえるか」というのがありました。いまでもそうなのかな? で、それとセットになるのが「首都の名前」でした。脱ゆとりとか何とかで、興味関心が芽生えるより先にひたすら知識の断片を押し込んでしまえという嫌な風潮がよみがえっていますが(よみがえるというより旧教育についての明らかな誤認)、物知りな子どもだって興味関心があるからこそ地名のように非系統的な知識を押し込めるのだということを、おとなたちは知っておいてほしい。そして、幸いにしてその子どもが国名や首都の名前をそらんじられるようになったら、その「くに」とやらの多様性へと、少しずつ導いてください。それは、(1)私たちが「くに」と呼んでいるものも、そのあり方は多様であり、サイズの大小だけでなく国家の運営方針や集権/分権の違いなどもそれぞれなんですよ、ということ、(2)1つの「くに」の中にも実はさまざまな地域があり、大阪と東京では食べ物の種類が違うというように、「この国はこうだ」と決めつけがたいことがたくさんあるのだよ、ということ、(3)そういう視点でみていくと、日本という「くに」も、いろいろな見え方をするんだよ、ということです。そのためには、よくあるメルカトル図法の1枚もののように、国を色分けして首都だけを書き込んだような地図は早めに卒業させ、詳細な地図帳をもたせるのがよいでしょう。三十数年前の古賀のような地図マニアの少年を育てなさいということではありません。真にグローバルな人材をこの「くに」から育てようとするのなら、ニホン人が苦手とするそうした世界認識の手はじめとして、地理の学習をさせるのがよいと考えるのです。

20131224日(火)20時ころ、いわゆるクリスマス・イブに、私は成田発のANA209便をフランクフルトでルフトハンザ1134便に乗り継いで、バルセロナ・エル・プラット国際空港Aeroport de Barcelona -El Prat)にやってきました。成田→フランクフルトが約12時間、フランクフルト国際空港では2時間ばかりの待ち合わせ時間に、巨大なターミナル間をさくさく移動して(日本の団体さんはずいぶん遅れて搭乗口に現れましたな)、生ビールでヒマつぶし。ドイツだからね。フランクフルト→バルセロナは実質的に2時間弱です。それにしても、日暮里を9時前のスカイライナーで出発していますから、乗り継ぎでの現地入りとなるとまる1日がかりになりますね。

 
バルセロナ・エル・プラット国際空港 (左)大きなクリスマスツリーがお出迎え (右)アエロブスで市内へ


この西欧あちらこちらで何度も報告しているように、EU域内の自由通行を定めるシェンゲン協定(現在はリスボン条約の一部)により、最初に着地したところで入国審査(入審査?)をして、あとは国内便と同じ扱いになりますので、私のパスポートにはフランクフルトの入国スタンプが押されたものの、バルセロナではその手続きはありません。バッゲージ・クレーム(機内預け入れ荷物の受け取り)を待っているとき、空港内のさまざまな掲示を見て「おや」と思う。欧州のどの都市に行っても、現地の言語と英語が併記されているものですが、ここのは3言語が並んでいます。それは、カタルーニャ語Català)、英語(English)、カスティーリャ語(Castellano)で、しかもこの順です。カタルーニャCatalunya)とかカタルーニャ語に対する強い関心が私を今回の訪問に導いたのだけれど、カタルーニャ語なる言語を本格的に見たことはありませんでした。「空港」を定冠詞つきでいうとl’aeroportなんですね。カスティーリャ語ではel aeropuertoですからずいぶん違います。ちなみにフランス語ではl’aéroportですのでこちらのほうがはるかに近い。同じように定冠詞がエリズィヨンを起こすのかあ。実際に発音するとカタルーニャ語でアエロポルト、フランス語でアエロポール(末尾の子音を発音しないのがフランス語の特徴)で、カスティーリャ語のアエロプエルトに近づくようです。このあと現地でいろいろ見てみて、少なくとも語彙や綴りにおいては、カタルーニャ語はカスティーリャ語の親戚というよりも、フランス語とカスティーリャ語の中間くらいの印象を受けました。もう1つ、国際空港に掲げられた公式の順序が、カタルーニャ語→英語→カスティーリャ語であることも正直に申せば意外でした。何だかんだいってもカスティーリャ語が先なんじゃないのと思っていましたので(このあとのほうをお読みいただくと、彼らがなぜそのような設定にしているかがわかります)。

荷物を受け取ったので本当は通関という手続きがあるはずなのですが、その存在に気づかぬまま、非制限エリア(航空券をもたない人が入れるところ)に出てしまいました。もう遅い時間なのでとっとと市内に入ってしまおう。下調べしたところによると、鉄道で行くにはターミナル間をバスで移動しなくてはならないようなので、頻発しているらしい市内直行のアエロブスAerobús)を利用することにしましょう。多くの空港では到着ロビーと同一平面(つまり玄関の「外」)にバスが来るのですが、ここは到着ロビーから1フロア下がったところ(つまり「地下」)に各方面行きのバスが来るらしい。エスカレータを降りてみれば、あざやかな青いボディにAerobúsと大書きされた車体に、荷物をもった人たちが乗り込んでいるところでした。15分間隔で出ているそうで、なかなかのフリークエントです。市内中心部のカタルーニャ広場Plaça de Catalunya)行きであることを確認して、女性運転士からチケット(片道€5.65)を購入。最前列の「展望席」が空いていたのでそこに座りました。バスはいかにも空港アクセスのハイウェイといった道路を100km/hくらいで疾走し、やがて市内中心部につながる直線道路に出ました。渋滞しているのだけど、バス専用レーンがあるおかげでこちらはすいすい。カタルーニャ広場までノンストップなのかと思ったら、主要な停留所にさしかかると運転士が「○○です。お降りになる方はありませんか」と地声の英語で呼びかけて、それぞれ数名ずつが降りていきました。もうすぐ終点だなというときウニヴェルシタット(Universitat)という案内があります。その地名に聞き覚えがあったのと、窓から見える道路の形状がホテル調べをしたときの地図の記憶と重なったので、発車しようとした運転士に「マダム! すみません降ります!」と告げて、前のドアを開けてもらいました。

 
  ホテル・リェオ


ネットで予約したホテル・リェオHotel Lleo’)は、カタルーニャ広場からだと少し戻る感じだったのですが、ウニヴェルシタットだと直線で100mかそこら。空港バスからすぐというロケーションはなかなかいいですね。前後にいくつかホテルが見え、ここは玄関が狭くレセプションも小ホテルのそれか、テーマパークのチケット売り場かというほどの規模だったのですが、間口は狭くても奥行きと実際の幅はかなりあって、1階(日本式にいえば2階)の部屋までぐねぐね曲がった複雑な廊下をかなり歩かされました。2泊朝食つきで€164.05ですでにカード決済しています。何とかミクスのせいで円安がもりもり進行中なので、どうせ行くとわかっているなら早めに決済するほうが有利ですね。例によってネットのホテル比較サイト(英語版)をいくつか参照し、それらしいところのホテルのサイトに直接飛んで、そこに掲出されている宿泊プランというのを選んでいます。厳密には24日夜が€96.0525日夜が€68とかなりの開き。おそらくクリスマス・イブは繁忙期の扱いで強気の設定がなされているのでしょう。ツイン・スタンダードというプランだったので、部屋は非常に広く、ベッドはもちろん洗面所も2人用で、快適です。これも何度も書いていますけれど、欧州のホテル料金は基本的に「室料」なので、この価格で2人泊まれるということですよん。

いつも成田からの直行便が着いたところが1泊目なので、乗り継ぎで21時ころホテル到着という今回は異例のケース。ルフトハンザ機内サービスで三角サンドイッチが1つだけ配られたので(ちなみにモッツァレラとバジルをトマトソースで和えたもので、なかなか美味でした)、あとはまあ酒でも飲んで寝ようかなと思っていたところではあります。でも、かなり空腹だし、3つ星なので冷蔵庫はついているもののなぜか中身が入っていないホテルだったので(0階に自販機はありますし、1階のホテルバーは23時まで営業していて、良心的な価格)、やっぱり外に出ようか。バルセロナの地理に関する予備知識はほとんどないながら、ウニヴェルシタットと逆の方向にまっすぐ歩いていけば市内目抜きのランブラス通りLa Rambla)に出ることはわかっていたので、そのあたりまで行こうかね。

 
クリスマス・イブのバルセロナ (左)ペライ通り (右)ランブラス通り


道路はどこも統一された電飾でクリスマス仕様になっています。ただ、クリスマスらしさがあるかといえば、そんな感じもしないなあ。1年前はベルリンを訪れて、初めて欧州でクリスマスを経験したのですが、町の華やぎとかにぎやかさはベルリンのほうが上回っていたかもしれない。もっとも、ベルリンも日没前にはあらゆる商店がクローズして、基本的には家庭でゆっくり祝うというモードになっていましたから、着いた時間からしてこんなものなのでしょう。カトリック国のほうがクリスマスを厳粛に祝うのかどうかは存じません。日本のように商業化された姿がおかしいのはわかっているものの、欧州の聖誕祭だって相当に商業化されていますからねえ。あ、ちょっと寒いなと思っていたら、小雨が降ってきたよ。折り傘は部屋に置いて手ぶらで来てしまいました。とっとと飲食店を見つけて屋根の下に入りたいな。

 
  Cervecceriaは「ビール屋さん」


ランブラス通りといえば、銀座通りとかシャンゼリゼみたいなものでしょうから、こんな大通りに飲食店が直接面しているということはあまりないはずだし、そういうところは観光用の高い店に違いありません。本当は1本入った路地とかがいいのだけど、あまり濡れたくないし、地図をもっていないので暗くなってからの冒険もしたくない。で、ランブラス通りの北端あたりにいくつか並んでいたバル(bar)の1軒に入り込み、カウンターに1人ぶんの隙間を見つけてスツールに腰かけました。フランスのカフェ、英国のパブに対して(ドイツはインビス?)、この国ではバルが最も特徴的な飲食店だというくらいの知識はあります。間口が広くて中の雰囲気がよくわかるので入りやすいですね。どういう手順で発注するものかわからないながら、右隣の70歳くらいのおっちゃんがカウンター内の店員さんを手ぶりで呼び止め「セルヴェッサ!」と注文したのに倣って、当方も同じものを。セルヴェッサ(cervesa)はビールのことで、カスティーリャ語ではcerveza、ポルトガル語ではcervejaと微妙に綴りがずれるものの、イベリア半島で共通する呼び方のようです。フランス語のビエール(bière)はゲルマン語(英語:beer、ドイツ語:Bier)からの借用語なのでしょう。

毎度のことでお恥ずかしいかぎりですが、欧州で飲む生ビールは美味いねえ。見ると、店内はこの入口付近のカウンターとサイドのテーブル席、上階はちゃんとしたレストランになっているようです。前述のカフェやパブと比べた場合に最も特徴的なのは、カウンターに寿司屋のをいくらか大きくしたようなガラスケースがあって、そこにタパ(tapa お惣菜)が並べられており、それが可視的なメニューそのものになっていることです。まさに寿司屋システム。揚げ物が半分くらい、あとは魚介のマリネとか豆類のようなもの、そして1人ぶんのバゲットに複数のおかずをアレンジして載せたオープンサンドみたいなのが何種類か。何が美味いかわからないけど、この手の惣菜ならおそらく「予想どおりの味」に違いないよね。オープンサンドと、ソーセージ&白いんげんの煮豆というセットを指さして頼みました。レンジでチンしてくれる様子とかタイミングが、日本の小料理屋さんみたいですね。何人かで行けば、いろいろな皿をとって食べ比べできて楽しいでしょうけれど、1人飲みするのにこれほどいいシステムもなかなかありません。ややあって左隣にやってきたのは60代くらいの夫婦で、それぞれビールを飲んで、タパを食べないまま勘定してすぐ出て行きました。見ていると、さらっと飲む人がけっこういます。聞くところによれば、午前中にバルでタパつまみながら飲む人もけっこういるみたい。当方も、通常よりも8時間長い1日の終わりがけなので長居するつもりはなく、あとグラスワインを1杯だけいただいて、退散しました。ビール€3.50、ワイン€3.20、ソーセージ€3.40、オープンサンド€2.70で〆て€12.70でした。私が東京の大衆酒場で1人飲みするときの基準が飲み物込みで2000円以内なので、為替差損分を含めても経済的ではあります。

 
ホテル・リェオの朝食 例によって盛りつけのセンスのひどさは放念してください(汗)


クリスマス当日の1225日は7時ころ起きるつもりが、時差がらみのためか6時前には目が覚めてしまいました。7時になっても真っ暗です。ホテルバーを兼ねた朝食ダイニングはかなり広いのだけど、先客はなく、あとから来た夫婦と2組だけでブレークファスト。おかずの種類はまずまずながら、味はいま一つです。チュロスがあるのはこの辺らしいですね。この日はバルセロナの主なところを適当に歩くつもりでいます。昨夜からお天気がよろしくないので、そこは何とかなってほしい。

 
ランブラス通りの北端付近  スターバックスのそばに宝くじ売り場というのが何ともよろしい


9
時半ころ、ホテルを出ました。ホテルがあるのはペライ通り(Carrer de Pelai)で、新市街の東西幹線であるグラン・ヴィア・デ・レス・コルツ・カタラネス通り(Gran Via de les Corts Catalanes)とランブラス通りを斜めにショートカットしています。おっと、さっそくスターバックス発見。さらにマクドナルドも。おやZARAもあるね(ZARAの本拠はガリシアのアルテイショなので、まあ地元ということではあります)。ファストフードとファストファッションは、主要都市ではもう空気や水に近い存在になりつつあります。日本でいえば元日にもあたるようなクリスマスですし、まだ朝の9時台ということもあって人通りはあまりない。それでも散歩を楽しむ人、サイクリングに興じる人がちらほら。ランブラス通りは中央にかなり広い歩道を配した、基本的にはホコテン的な道路。旧市街を南北につらぬく目抜きで、欧州では異例の碁盤の目をなしている市街全体からみると、すこし傾斜しています。この何ヵ月か前に岡部明子『バルセロナ:地中海都市の歴史と文化』(中公新書、2010年)という本を読んでいます。以下、バルセロナのあれこれについては、この本と、田澤耕『物語 カタルーニャの歴史:知られざる地中海帝国の興亡』(中公新書、2000年)に多くを負っていることをあらかじめ断っておきますね。岡部さんの『バルセロナ』によれば、古代から12世紀までのバルセロナ市域はきわめて狭く、いま旧市街と呼んでいる部分のさらに3分の1くらいだったらしい。当時のランブラス通りは川だったようで、13世紀のバルセロナ伯ジャウマ1世「征服王」(Jaume I, el Conquistador =アラゴン王ハイメ1世 Jaime I)の治世に市域が拡張された折、その西辺を画するものとなりました。つまり、バルセロナの最初の盛時においては、ランブラスには城壁があってその外は郡部だったということですね。市域の拡張と新市街の拡大、とくに社会の近代化そのものが反映して、町の中心軸がずれていくという現象は、あちこちの都市でみられるものです。東京も、関東大震災でその軸が大きくずれましたよね。

 
小雨のランブラス通り  花や小鳥の屋台が歩道に建つ


固有名詞が何だかややこしい上に、このへんの歴史は日本の高校の「世界史」にはほぼ無視されているので、すこし解説しておきます。いまカタルーニャと呼んでいる地域は、バルセロナ伯Comtes de Barcelona)およびアラゴン王Rei d'Aragón)の領土が1137年に同君連合(共同君主を戴くが国家は別々に運営される)を組むようになったことにはじまると考えられます。伯と王では格が違うように思うかもしれませんが、地中海を代表する港湾都市を有するバルセロナ伯のほうが政治的にも経済的にも栄えていました。伯に叙爵したのが普遍的権威をもっていた「(西)ローマ皇帝」カロリング家でしたしね。その後背地であるアラゴンは、元来別の国で、言語もアラゴン語(Aragonés)という別のもの。政治的には、カスティーリャ王とバルセロナ伯とのあいだでうまく泳いできたものの、継承者難に悩み、幼い娘をバルセロナ伯に嫁がせることで局面打開を図ろうとしました。王権の強いカスティーリャに食われるよりも、都市国家の伝統で市民による合議政体が確立されていたカタルーニャのほうが国家としての生存を図りやすかったのではないかといわれます(『物語 カタルーニャの歴史』、p.52)。アラゴン連合王国は前述のジャウマ1世(カタルーニャ語の呼称)もしくはハイメ1世(アラゴン語の呼称)のもとで地中海帝国として大いに繁栄しました。その領土は、両君主国の他に、バレンシア、バレアレス諸島、モンペリエ以南の現フランス領に及びます。前二者はイスラム勢力と戦って奪取した地域でした。

イベリア半島の中世史は、コルドバやグラナダに本拠を置いたイスラム勢力に対してカトリックが攻勢を加え、やがて半島から追い出すというレコンキスタReconquista 「再征服」の意味)というのが大きな流れになります。これは日本の高校世界史でも大きく取り上げられますね。イスラムのほうが文芸も科学も豊かだったし、キリスト教世界が捨て去っていた古代ギリシア哲学などもアラビア語に翻訳されてイベリアの大学で学ばれていたため、欧州の学者たちが先進地域であるイベリアに「留学」して、せっせとラテン語への再翻訳を試みたという話は、西洋思想史の文脈ではおなじみです。もっとも、このごろ西洋思想史の教養がなさすぎる文系の大学生があまりに多いのは遺憾で、アヘンみたいな小画面をいじるヒマがあったらもっと学ばんかい。

 
ランブラス通り (左)街角バル  (右)リセウ劇場(Teatre del Liceu


で、そのレコンキスタとの関係で申せば、バルセロナ伯領というのはキリスト教世界を代表する政治勢力、フランク王国カロリング朝(751年〜987年)が9世紀半ばに半島に設けた橋頭堡のような領土でした。ですから、レコンキスタ前期には、バルセロナはカトリック圏内にあったわけです。征服王ジャウマ1世は南に隣接するバレンシア(イスラム勢力の重要な領土)に執拗な攻撃を加えてついにこれを奪いますが、「再征服」活動の一環をなしているということになるわけね。これとは別にピレネー山脈の南側にキリスト教勢力が進出してつくったのがレオン王国で、さらにそこから分派するかたちで半島中北部に成立したのがカスティーリャ王国。おおよそのイメージとして、バルセロナ、アラゴン、カスティーリャ、そしてポルトガルが、じわじわと半島の中部から南部へと領土を拡大していく(そのぶんイスラム勢力が後退していく)と考えてください。弱体化したカロリング家(いちおう「ローマ皇帝」)の宗主権を脱け出したバルセロナ伯は、アラゴンとの連合でいよいよ西欧最強の座に近づいていくことになります。ジャウマ1世もしくはハイメ1世の息子がペーラ3世もしくはペーロ3世(Pere III or Pero III 前者がカタルーニャ語)。1282年に、ビザンツ皇帝と秘密裏にむすんで艦隊を出動させ、シチリア王を兼ねていたフランスのアンジュー伯(ややこしすぎるけどイングランド王プランタジュネット家の同族)を追い出して、ここの王位も兼ねてしまうことに成功しました。これは「シチリアの晩鐘」と呼ばれる有名な軍事クーデタで、私は高校時代に河合塾の青木裕司先生(「実況中継」の人)から直接教わったのですが、何で突然アラゴンなる知らない国が登場してくるのか最後までわかりませんでした。アラゴン連合王国が西欧最強に近い国だったということですよね。それにしても地中海全域を舞台にしたスケールの大きな話で、荘園単位のちまちました中世史の印象にとらわれていたためか、40歳を過ぎてもイベリア半島の動向が視野に入っていませんでした。いくつになっても不勉強でいかんですね。ランブラス通りがバルセロナの西辺になったのもそのころです。

 レイアール広場とガウディの街灯


ランブラス通りは、海に向かって緩やかな下り坂になっています。左(東)側にすこし入ったところにレイアール広場Plaça Reial)という、四辺を建物に囲まれた方形の広場がありました。ビニールシートを敷いたところに人が集まっているので、フリーマーケットかなと思って近づいてみたら、小さな人形とか使い古しの食器や文房具とか、およそ値打ちがあるとは思えぬ小さなガラクタばかり集めて売っているようです。いろいろな営みがあるもんですね。この広場に2基ある街灯は、バルセロナといえばこの人、アントニ・ガウディAntoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet 18521926年)が最初に手がけた作品とされます。バルセロナに行きますといったら「ガウディに興味があるんですか?」と複数の方から訊ねられたのですが、とくに建物にもデザインにも関心はありません。ただ、ガウディが背負っていた国家や言語や文化のことにはものすごく関心があります。それは、おいおい。日本の本でよく見かける「アントニオ」というカスティーリャ語の表記を採らないことで、まずはお察しください。

雨がしとしとではなく、ざーざーになってきたので、広場を囲んでいる建物の軒下に入ってしばし休憩。せっかくの町歩きなのに天候に恵まれないのは残念で、日ごろのおこないがよくないのかな? ――実は、122223日に教員免許更新講習の講師をたっぷり6時間もやって年内の仕事を打ち上げ、あわただしく出立してきました。2013年の911月は自分史上かつてない多忙さで、いくつもの進行表を同時にこなしては先を見通すという、神経の休まらない日々を過ごしました。かつて指導教授が、口を開けば忙しい忙しいと連呼していたので、大学の先生がそんなに忙しいもんかねと内心いぶかしんでいたのだけれど、おそらくは年齢やキャリアから来る仕事の質の変化(何といっても1件ずつに関する責任の重さだよね)と、処理するこちらの体力や集中力の衰えが重なってそうなるのかなと、ようやくわかってきました。9月初めにウィーンとブラチスラヴァを歩いた折の日誌(ハプスブルクの都へ)をようやく書けたのは12月上旬。通常なら記憶や印象が新鮮なうちに書くのに3ヵ月も持ち越したため、いつもと違ってディテールが少なく、歴史ばなしでごまかした感がわれながらするんですよね。12月はようやくもろもろの業務から解放されたものの、その間に持ち越した通常の仕事がけっこうあって、年内に処理すべきことも本当はもっとあったのですが、早くにチケットを手配していたこともあって気乗りしないままこちらへやってきてしまったのです。前作を書いたばかりで「また欧州かよ」というような気持ちもありました。いや私もぜいたくになりましたよね。年に1回の渡欧を心待ちにして日々節約していたころの自分が見たら、この年3回目で「いまは行きたくないな〜」なんて思っていた現状は、日ごろのおこないでいえばアウトに違いありません。何かよからぬことが起こりそうな気がしているし、周囲がやたらに「気をつけてね」なんていってくるのが、また気になったりしました。ま、実際に現地に来ますと、やっぱりわくわくするのですが。

  ランブラス通り最南部
 コロンブスの塔


ランブラス通りの歩道の屋台はほぼ途切れずにつづきます。南半分には飲食店のテラスが目立ちますね。車道をはさんだ路肩の商店が営業権をもっているらしく、ひどくボラれるという話を聞いたこともあります。だからというより、雨が降っているのでテラスに座ってお茶する気分にはなりません。まだ朝食の時間帯のようでお客もほとんどありません。

通りの終点、バルセロナ港に突き当たるところがポルタル・デ・ラ・パウ広場(Plaça Portal de la Pau)なる円形広場で、中心にコロンブスの塔Monument a Colom)。世界史でレコンキスタと来れば、それが完了したのと同じ1492年にコロンブスが新大陸に到達したことが出てくるわけで、なるほど水平線の向こうを指さす彼の像はなかなか象徴的やね。――と、早合点してはいけません。コロンブスが謁見した「カトリック両王」(els Reis Catòlics カスティーリャ語ではlos Reyes Católicos)と呼ばれる夫婦王のうち、彼の探検を積極的に支援したのはカスティーリャ女王イザベル1世であり、バルセロナ伯フェラン2世「カトリック王」Ferran II, el Catòlic アラゴン王としてはフェランド2 Ferrando II)は冷淡でした。フェラン(ド)2世なんて知らんぞといわれそうだけど、世界史の教科書には太字で出てきますよ。カスティーリャ語でフェルナンド2世(Ferrnando II ついでにややこしいことをいえば、シチリア王としてはフェルディナンド2世)。彼が幼少のころ、バルセロナは国王派と議会派の激しい内戦になっており、少年フェランはフランス軍に救出されるまで、カスティーリャ出身の母とともに命がけの逃避行を経験しました。このときの苦い記憶が、彼をしてバルセロナへの憎悪を刻んだのではないかと前掲『物語 カタルーニャの歴史』は語っています(pp.200-203)。のちにカスティーリャ女王となるイザベルとの結婚で、バルセロナ、アラゴン、カスティーリャ(あとバレアレス諸島とかシチリアとか・・・)はさらに大きな同君連合の帝国を形成することになります。フェランは、バルセロナおよびアラゴンにおいてもカスティーリャ語を宮廷語として採用するなど、カタルーニャ文化の相対化(というより隔離)をはじめました。バルセロナにとっては歓迎されざる王ではあったのだけれど、夫婦王の帝国としてはむしろ「太陽の沈まぬ国」への前進をみていたわけで、歴史の評価というのは難しいものですね。結局、新大陸発見に伴う貿易黒字はすべてコロンブスを支援したカスティーリャ側に入り、バルセロナとアラゴンの商人は新大陸交易への参入をその後2世紀も許されませんでした。経済の大動脈が、地中海から大西洋へとシフトしつつありました(世界史では「商業革命」)。コロンブスと、彼を支援しなかったフェラン2世によって、バルセロナの繁栄に終止符が打たれたということになるようです。

 

*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=143円くらいでした

PART 2へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。