Mon voyage en Europe occidentale après «une» pause : Belgique et Flandre

 

 

PART4

 

PART3にもどる


前述したように、首都ブリュッセルの鉄道ターミナルとしては、南駅と北駅がもともと方面別に建設され、第二次大戦後に双方をつなぐ路線が都心部の地価に新設されて、ブリュッセル中央駅が造られました。たいていの都市では中央駅(Central Station / Gare centrale / Hauptbahnhof)と呼ぶところがメイン・ターミナル、長距離列車の発着所になるはずですけれども、ブリュッセル中央駅はどこまでも「都心に用のある乗客の便宜を図って造った、勝手口のような駅」で、タリスはこの駅を(北駅も)通過していきます。地下駅ということもあって、雰囲気は成田エクスプレスなども発着する東京駅地下ホームに近いものがあります。あるいは神戸高速鉄道の高速神戸あたりかな。同じ地下スルー構造の名鉄名古屋駅は規模こそ小さいものの列車本数とシステムの複雑さがあるので、情報量がとにかく多すぎて比較の対象になりません(汗)。名鉄名古屋を特急がすべて通過して金山が拠点駅になるというのなら、ブリュッセルの構造に近づきます。ここ中央駅はホームの天井が低く、圧迫感があり、またコンコースを含めて前後の余裕がないため、旅行への起点というよりは日常の通勤向けという印象か。

地下に降りる手前、地上の駅舎構内に切符売り場があります。案内の係員は、スーツケースなどを引いた客に声をかけて、なるべく自動券売機に誘導しようとしていますが、現金購入したいのだといったら窓口に並んでくださいと明るく応答。アジア系の母子はプリントアウトしたEチケットを係員に見せて、この列車はどこかと訊ねています。若い係員は「この便は、この中央駅ではなく、ミディ・ステーション(南駅)に行かなければなりません。このチケットで大丈夫ですから、○番線の次の列車で、2駅先のミディ・ステーションまで移動して、そこでまたお訊ねください」と丁寧に案内していました。やっぱりイチゲン客にはわかりにくいですよね。東京の各ターミナルの関係も、おそらくわかりにくいと思う。東京駅や新宿駅などそれぞれがまたバカでかく、複雑なので余計に。私のほうはすぐに順番が来て、まったく問題なくトゥルネーまでの片道切符(フランス語でbillet d’aller-simpleといいますがこのときは英語でsingle ticketと発注しています)を購入できました。2等で€14.50

 
 
ブリュッセル中央駅

 

発車番線の表示に従って2番線に降りると、思ったより多くの乗客がいるようです。向かいの1番線には1041分発のブリュッセル空港行きが入線してきて、乗客をはき出しましたので、空港アクセス路線は同じ車両が行ったり来たりしているものと思われます。私が乗るトゥルネー経由コルトレイク(Kortrijk フランス語ではクルトレCourtrai)行きは、1038分発の2分前、36分ころ入線。6両編成でそのうち1両だけが1等とのことです。タリスやTGV、ドイツのICEなどと異なり、ICクラスの1等・2等は車両やインテリアのよしあしではないので、1時間程度だし起点から乗るので2等でかまいませんね。オール2階建ての、西欧で何度かお目にかかったタイプの車両のようです。内装は思ったより上等で、更新車かもしれません。2階の進行方向の席に着くと、ほどなく定刻どおりに発車。次はブリュッセル南駅で、やはりこちらが本命の?ターミナルということなのか10分ほど停まっていました。南駅で乗ってきた人を含めて、2階座席は3分の1くらいの乗車率です。

ブリュッセルの都市近郊を抜け出すと、あとは沿線の大半が畑地で、停車する駅の周辺にもさほどの都市らしいものはみられませんでした。なんとなく総武快速や湘南新宿ラインのグリーン車に乗っている気分で、デッキ側の仕切り板に次駅などを表示する電光案内板があるのも同じ。その案内板を見ていたら、ここ3日ほどですっかりおなじみになったフランス語/オランダ語の2言語表示で、女性車掌による肉声のアナウンスのほうはオランダ語→フランス語の順でやはり2言語だったのだけれど、ブリュッセル市内を抜けたあたりで案内板がオランダ語オンリーになりました。たしかに次駅のハレ(Halle フランス語ではアルHal)はフランデレン=オランダ語圏ですが、だからといって車内の案内をオランダ語に限ってしまっていいのだろうか? と思って、また観察していると、アンギャン(Enghien オランダ語ではエディンゲンEdingen)に着くあたりで今度はフランス語オンリーに変わります。どうやらこの列車は言語境界線ともつれるようにして進んでおり、一方の領内を走るあいだはそちらの1言語だけで案内する方針のようです。そんなことをいっても、2言語併存のブリュッセルを出発して双方の言語圏をまたいで走り、フランス語圏のトゥルネーを経由してオランダ語圏のコルトレイクに向かう列車なのだから、両方の話者が普通に利用している列車であるはず。駅間のどこで境界線を越えたなどというのも乗客の都合や事情とはまったく無関係で、英語を含む3言語でずっと案内できないものでしょうか(どうせ仕込んでおいたデータを出力するだけのことなので)。おそらく、そのあたりのこだわりがベルギーなのだろうと思います。多少の不便を承知で、言語アイデンティティに配慮していますよというポーズを示さざるをえないのでしょう。

 
 

 

いまグーグルマップで経由地をトレースしてみたら、アンギャン→シリー(Silly オランダ語ではオプツリークOpzullik)→アト(Ath オランダ語ではアートAat)と西に進んでおり、言語境界線は北に去って、どっぷりフランス語圏の領内を走っていたようです。不勉強な日本の生徒・学生だと、ベルギーにおけるデリケートな言語の扱いに対して「変なことにこだわらないほうが」なんてコメントしそうですね。言語とくに母語というのは自己の存立に直接かかわるものであり、それが制度的に認められたものなのか、制度外の「外国語」なのかで、意味がまったく違ってきます。人は生まれ方を選べません。どの言語を母語に生まれてくるか、それがどの場所なのかを選ぶことができないのです。自身の母語が制度外にあるとなると、不満や文句をいうことすら難しくなります。そういうことをわかってほしい(日本にだって、気づかないだけで同じような状況があるのだとわかってほしい)。左斜め前のボックス席には、810歳くらいの男の子の兄弟とその父親がいて、ずっとUNOをやって盛り上がっています。言語はフランス語。いまどきスマホの何かでなくカードゲームなのが微笑ましい。お兄ちゃんが勝負どころで発することばが、駆け引きめいた知的な表現で、妙にたのもしく見えます。なぜか定刻より少し早い1150分ころトゥルネー駅に到着。あ、これはJRの地方都市の駅とほとんど同じ造りで、駅舎に直結したホームと、その向かい側に島式ホームがあります。禍がようやく明けたのがうれしくて、この3月〜5月あたりは関東各地を鉄道で訪れ、町歩きを楽しみました。そんな中で出会う小駅の感じです。

トゥルネーTournai オランダ語ではドールニクDoolnik)はフランス国境に近い、人口数万人の小都市。前述のように、さしたる予備知識もないのに、ブリュッセル〜パリ間のどこかに滞在しようという動機にもとづいて、この3日前に訪問を決めたのでした。田舎町であることはわかっており、1泊くらいそういうところに滞在するほうがおもしろかろうと考えた次第です。まずは予約したホテルに直行して、チェックインできないまでも、キャリーバッグを預けてしまいましょう。

 
トゥルネー駅を出て、市の中心をめざし直線道路を歩く 前方に町のシンボル、ノートルダムの5本尖塔が見えてくる

 

トゥルネーの宿泊はパリのホテルで持参のPCを介して予約しましたので、データはあるけど紙に出力したものはありません。またブリュッセルで使っていたような1枚ものの地図もないため、事前にグーグルマップとガイドブックで概略を予習し、頭に入れてきています。小さな都市のため構造がシンプルで、記憶できそうな感じでした。これも日本の地方都市によくあるような、町はずれの鉄道駅と市の中心を結ぶ一本道があります。ブリュッセルでお世話になったのと同じ名のロワイヤル通り(Rue Royale)。きれいに整った石畳風の道路で、おそらく近年のインフラ整備で改修されたのでしょう。ただ石畳風はキャスターつきの荷物やベビーカー、車いすなどとの相性が悪いんですよね。衣料品店やカフェなども見えるロワイヤル通りを500mほど進むと、エスコー川(l’Escaut)があり、ノートルダム可動橋(Pont Levant Notre Dame)があって、川を渡ってそのまま直進。この先が、この小都市の中心部のようです。世界遺産に登録されているノートルダム大聖堂の5本尖塔がどんどん大きくなってきました。ロワイヤル通りの突き当りは大聖堂の横(神様目線で右横の壁)だったようで、荷物を置いたらまずこれを見に行こう。事前の予習では、予約したホテル・カテドラルHotel Cathédrale)はその名のとおりこの大聖堂そばだったと思いますが、それらしい看板が見当たりません。大聖堂向かいの最も目立つ場所に観光案内所(Office de Tourisme)があったので、訊ねてみよう。ホテル・カテドラルという宿を探していますと聞いたら、若い男性係員は「ああ、もう本当にすぐそばです。ドアを出て左側に回り込み、その次の建物がそうです」と。助かりました、どうもありがとう。行ってみると、たしかに同じブロックの側面というか、宿名の由来である大聖堂から見ると少し奥まったところに、ホテルがありました。

 
(左)エスコー川  (右)大聖堂そばの観光案内所


トゥルネー市街地の概念図

 

玄関を入るとすぐレセプション。田舎のホテルにありがちな「帳場」という雰囲気のデスクです。中年の女性が出てきたので、予約したコガですがと英語で話しかけたら、急に困惑した様子で別の若い女性のほうに助けを求めるような表情を見せます。彼女があてにならないと思ったのか、みずから「イ、イングリッシュは・・・」といいかけたので、ああ英語が難しいのだと判断して、フランス語に切り替えました。いまどきそんなことあるのね。あとから思うに、彼女はレセプションのスタッフではなくクリーニング・スタッフのまとめ役のような立場で、たまたま居合わせたのではないかと思います。「キャンズール」(Quinze heures)と両手の指も動員してこちらに示します。要は、チェックインが15時からなので、いま来られても困るという意思表示。――OK、ではチェックインまで荷物を預かっていただけますか?と条件法の丁寧な構文(英文法でいうところの仮定法過去)で告げて、ともかくもキャリーを預かってもらいました。彼女はひきつづき「キャンズール、OK?」とダメ押しします。なんだか本当に田舎の宿にやってきたような気がして、それはそれで愉快です。背中のリュックだけになったので、あと3時間ばかり、市内を散策することにしましょう。おそらくこの3時間で町の大半はカバーできてしまいますね。

フランドル地方の都市には、たいてい深甚な歴史の跡が織り込まれています。ただ、こういっては失礼ながら、このあたりの歴史というのは、とくに日本で学ばれる欧州史の中でもメジャーとはいえず、フランスとドイツのあいだにある地方とかいう感じで一括され、いろいろあるけど(試験には出ないので?)知らなくても仕方ないよね、というふうに了解されているかもしれません。フランス語が話されているといっても、フランスですらないわけです。トゥルネーの歴史もかなり古く、中世初期にさかのぼるそうです。この地が生んだ最大の有名人といえばクローヴィスClovis 在位481年ころ〜511年)。彼に関しては高校の世界史教科書でもVIP扱いで、これを知らないと有名大学の合格は無理ですね(笑)。いうところのフランク王国メロヴィング朝の初代であり、クローヴィスが王妃の勧めでアリウス派からアタナシウス派(正統派)のキリスト教に改宗したことで、フランクは他のゲルマン民族とは一線を画して教会勢力やローマ帝国側の諸勢力から受け入れられて、ここに「西欧」の歴史がはじまった、というのが教科書的な理解です。もっともこれはカトリック史観であり、それを援用したフランス・ナショナリズムの歴史観でもあります。クローヴィスの故事があるからフランク→フランス王は特別な存在としてカトリックに認められている、という筋書きになるためです*。たまたま佐藤彰一『フランク史』III(名古屋大学出版会、202122年。III20238月刊行ですが未読)という大作を読んでいましたが、これを自分の研究論文に生かそうというような意図がまったくなかったため読み方がユルく、トゥルネーがクローヴィスの生地であることなどまったく頭に入っていませんでした。まあでも、いつのまにか収縮してカロリング朝に簒奪されたメロヴィング朝って、クローヴィスの事績くらいしか知りませんものねええ。
* 近代的なナショナリズムの発端となったフランス革命では、ブルボン朝のフランス王=フランク人=ゲルマン人であり、本来のフランス人であるガリア人を長きにわたって不当に支配してきた「よそもの」だという論理が持ち上がった。支配側も被支配側も中身は入れ替わっているし混線しているので、そもそも論理的な説明ではないのだが、よそものの王を倒せという発想が「クローヴィスの末裔」という一種の常識が共有されていたがゆえに成り立っていたのだろう。

 
 
世界遺産 トゥルネーのノートルダム大聖堂

 

さきほど立ち寄った観光案内所でシティ・マップをもらえばよかったのですが失念していました。予習によれば旧市街のサイズはきわめて小さく、またその内外を仕切るラインも明確なようなので、地図なし、その場の感覚で適当に歩くことにします。まずは、なんといっても大聖堂。駅からまっすぐアプローチしたところ(観光案内所のあるところ)は横の壁でしたので、北西を向いた正面に回り込みました。エスコー川の水面からすると思いのほか高低差があり、登り坂を経て大聖堂正面に出ました。狭い道路に囲まれ、広場なども整備されないまま窮屈な状態ですが、近代的な都市計画がおこなわれなかった町はたいていこんな感じですよね。いま建物全体を改修している最中のようで、ファサード周辺にも大型重機が出動し、作業員が動きまわっていました。

ユネスコの世界文化遺産にも登録されているノートルダム大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Tournai)は12世紀後半に竣工したロマネスク建築。ブリュッセルのところでも申したように、ロマネスクとゴシックの違いが直感的にわかるほどの知識はありません。ほぼ同じころ創建されたパリのノートルダムがゴシックの代表とされるくらいなので、建築史的には過渡期にあったものと思われ、内陣部にはゴシックで造りなおされた形跡があるとのことです。アマチュアな知識であえていいますと、ロマネスクのころは建築技術とくに構造力学の計算が高度化されていなかったため、壁が厚く柱が太く、全体にもったり、ごつごつしている感じです。ドイツのマインツ大聖堂を思い出す。それにしても、重機もない時代に人力だのみでこれほどの建物を造ってしまうのだから、信仰の力はすごいといえますね。内部も工事中で入れない箇所がありますが、側廊部分や、円形になっている後陣部分(このあたりはゴシック的補正らしい)も、じっくり見ることができました。建物の構造と歴史を記した解説板によれば、最も早いところでは45世紀ころの教会の遺構が地下にあるそうです。いま訪れても交通の要衝という感じはあまりないのだけれど、ゲルマン系部族の拠点がそのころ発達し、布教のための教会も進出したのだろうと思います。が、そのころってアリウス派ですよね? ロマネスク建築としての歴史は9世紀ころにはじまるとあります。クローヴィスのメロヴィング朝を飛び越えて、もうカロリング朝の後期にさしかかっていて、なんならヴェルダン条約とメルセン条約(843 / 870年)でフランク王国が3分割されたころになります(中世史は不得意で、教科書レベルからなかなか脱出できずすみません 汗)。

 

トゥルネーのグラン・プラス

 

大聖堂の1ブロック西側に、グラン・プラスGrand-Place)がありました。ここの大広場は12:ルート3の直角三角形のような形状で、これも世界遺産に含まれている鐘楼(Beffroi)に向かって道幅が狭まっていくという不思議な構造。おそらく広場が形成されたころの地形の制約があったのでしょう。中世前期から商業上の中心だったようで、大聖堂が完成した12世紀にはフランスのフィリップ・オーギュスト(Philippe Auguste フィリップ2世「尊厳王」)による特許状が発給されています。フランス王権の拡張という、あれの一環なのだな。ブリュッセルのグラン・プラスはよくも悪くもトゥーリスティックで、観光客が映(ば)えそうな写真や動画を撮影しまくっていたのですが、こちらトゥルネーは日常生活そのものがあり、少しほっとします。人々がテラス席に座ってビールを片手に語らっている様子は同じですけどね。冬場はどのような景観になるのでしょうか。

グラン・プラスの南西側は住宅街。なんでもない住宅街ですが、道路の向きがでたらめになっていて、旧市街のつづきであることがわかります。とくに訪れたいスポットもないため、思いついたままに角を曲がって進む感じ。途中に2ヵ所、小さなミュージアムがあったのだけれど、正午で閉館して午後は13時半または14時からと、ちょうど昼休みで入ることができません。昼休みってなんだよ(笑)。旧市街の外周を画する道路にいったん出ました。国道の一部のようで、トラックや乗用車がハイスピードで次々と走り抜けます。道路標識を見ると、ブリュッセルまで82km、モンス(Mons オランダ語ではベルヘンBergen)まで52km、リール(Lille)まで26km、レカン(Lesquin)まで22kmとあります。後の2つはフランス領の都市で、そちらのほうがベルギーの主要都市よりずっと近いわけですね。レカンというのは私も知りませんで、あとで調べたらリール郊外の町で空港所在地とのこと。ということは、トゥルネーの人が航空便に乗ろうとしたら隣国のリール・レカン空港に行くのが基本だということになるのでしょう。

 
 

 

住宅街をぐるりと一回りして、グラン・プラスに戻ってきました。店舗数などはさほどではありませんが、一通りのものはあって、ひと昔前の日本の地方都市を思い出します。昨今はどこも個人商店が失われていき、シャッター通りも増えてしまっていますので、欧州の地方都市に来て小さなお店が営業しているのを見るとうれしくなります。今度はエスコー川に沿って設けられている遊歩道を、下流方向(北西側)に向かって歩くことにしましょう。全体に平べったい地形のフランドル地方では、どちらが上流で下流なのだかわからなくなりがちで、引きの地図で見てようやく全容がわかるということがあります。いまあらためて確認すると、エスコー川はこの先で北東に向きを変え、ヘント、アントウェルペンを経て北海に注ぎます。河口は巨大なライン川デルタの端にあたります。いま歩いているところから下流側はすべてオランダ語圏で、川の呼び方はスヘルデ川(Schelde)となります。なるほど、2004年に初めてベルギーを訪れたときには、アントウェルペン→ヘント→(フランスの)リールと鉄道で移動しましたが、そのルートはスヘルデ川を遡上する感じだったわけか。ヘントはとくに水路が印象に残っており、周辺の河川とも運河で接続していますから、往時のフランドル一帯が舟運によって経済的に豊かになったのだろうと想像できます。

遊歩道は美しく整えられています。サイクリング、ウォーキング、ジョギングの人もぱらぱら。少し給水休憩をとろうと木陰のベンチに腰かけたら、テーブルのついた隣の区画では、若手サラリーマン風の兄さんたちが白ワインのボトルを囲んで談笑していました。いいなあ。300mくらい下流方向に歩いたところに、トル橋(Pont des Trous)という見どころがあるそうで、そこまで行ってみましょう。予備知識がないままなので、単なる石橋かなと思って近づいてみると、アーチになった石組みの橋というか構造物で、内部に入る通路は閉鎖されていました。すぐ下流側に道路橋があり、対岸に渡るための機能はそちらのようです。これは橋ではなく旧市街を画する城門のひとつなのではないかな。そのあたりに由緒書きが見つからなかったのであとから調べてみたら、やはりそのようでした。エスコー川(スヘルデ川)が交通の動脈でしたので、ここに関所ないし関門を設けて出入りを管理し、ときに関銭を徴収した模様。もともと13世紀の建造だったのですが、第二次世界大戦初期の1940年に、ドイツ軍の西部戦線に備えてフランドルに展開していた英軍が撤退する際、ダイナマイトで爆破しました。輸送上の利用価値が当時もあったからなのでしょう。爆破を免れた両岸の塔を生かして戦後にアーチが再建され、さらに近年になって航行上の空間を確保するために嵩上げの工事がおこなわれたとのこと。フランス語のtrouは穴(hole)のことで、複数形になっているから「穴穴橋」ということでしょうかね。たしかに見た目は穴穴みたいに(穴という漢字を横に並べたみたいに)見えます。

 
エスコー川とトル橋

 

対岸をゆっくりと引き返して、「鉄の橋」という名のフェール橋(Pont de Fer)まで戻ってきました。トル橋とフェール橋のあいだは結構離れているのに橋がありません。川幅が狭いので、もう少し両岸の行き来ができればいいだろうにと思いかけましたが、ああそうだ、ここは舟運のルートだったので、むやみに架橋するわけにはいかないのだと思い当たりました。フェール橋を左岸に戻ったところにスーパーらしきものがあるのをさきほど確認しており、買い物のために入店してみます。コルリュイト(Colruyt)というベルギーのチェーンだそうです。コストコっぽい内装と陳列なので会員制かとも思いましたが、レジまわりを見るかぎりはそうでもないようなので、水と燃料を購入しましょう。さすがに真夏の遠征では飲料水の消費量がかなり増えます。スーパーで大きなペットボトルを買えば€1以下なので、それを入手。とくにケチるわけではなく、宿にいるあいだもちょくちょく水を飲むわけですし、残ったぶんは0.5Lのペットに詰め替えてリュックに入れれば持ち歩けるので、いつのころからか習慣化しているのです。燃料はどうしようかな。東京の日常では赤ワインのフルボトル(0.75L)を2日で1本というルーティーン?で、こちらに来てもそれは変わりません。しかし昨夜はせっかくベルギーなのだからと、宿に戻っても缶ビール1本を余計に飲んでいて、ワインを1/4本ぶんくらい余しています(これも0.5Lペットに入れている)。今夜と帰国前日のパリを含めてあと3泊なので、辻褄を合わせるためにはハーフ・ボトルかな。という社会的に価値がなさそうな計算を頭の中でしまして、ハーフを1本購入しました。さすがフランス国境に近い地域だけあってフランス・ワインの品ぞろえはかなりいいですね。

グラン・プラス周辺をもう一回りしたら、チェックイン可能な15時が近づきました。われながら絶妙な時間消費! 歩きまわってのどが渇いたので、カフェで何か飲もうとも思ったのですが、チェックインしてお手洗いを使うほうが先のような気がして、そのへんのドラッグ・ストアでスパークリング水を買ってホテルに戻りました。

 
 
ホテル・カテドラル

 

今度はレセプションに20代と見える若い女性がいて、英語で対応してくれます。流暢に、流れるように説明してくれるのだけど、これはおそらく定型文の丸暗記だな。で、やっぱり「私の英語はちゃんとわかっていただけましたか? ああよかった」と。そこは声に出さなくていいの(笑)。帳場みたいなレセプションとなると、往年の駅前の商人宿みたいな客室なのだろうと予想したら、これもやっぱりそうでした。1泊朝食つき€108.30ではあるものの、部屋数の少ない地方都市のことで、また直前の予約でしたからこれは最低水準に近いものでしょう。ドアの建てつけが悪くてすぐに閉まらないとか、照明が暗いばかりか電球が一部切れているとか、コンセントが2ヵ所しかないとか、電熱ポットがあるものの中を掃除していないとか、浴槽があるものの栓が閉まらないとか、まあ都内であれば営業停止だな(笑)。このレベルは久しぶりで、地方都市っぽくてたまにはいいじゃないですか。扇風機が置いてあるのでエアコンがないこともすぐにわかります。この1週間の滞在から類推するなら、朝と夜は冷房要らずなので、今夏はセーフ。WiFiはいまどきエアコン以上に必須だと思うのに、手渡されたパスコードはどう見ても家庭用のルーターのもので、しかも電波が強くないため、動画はやめておいたほうがいいかもしれません。いや娯楽もだけど、仕事ももうやめましょう。ブリュッセル滞在中に業務を数件こなして、お盆前のワークは完了したつもりでいます。すでに大学も一斉休暇に入っていることだし、もう用務が来ませんように!

2時間ほど休んで、17時過ぎに再起動します。といっても楕円形の旧市街の半分はだいたい見てしまいました。エスコー川付近をもう少し散策して、それから夕食のレストランを探そうと思います。考えてみれば金曜の夕方です。ハナキンです(古いか)。私自身は金曜と土曜に授業が集中してハードに働きますので、決戦は金曜日(ドリカム)だと思っているのですが(これも古いか)、一般的には一週間のあれこれを終わらせてさあ楽しい週末だ、となります。昼間からテラスでビール飲んでいるベルギーの市民がそのあたりをどう捉えているのかは存じません。

 
町内会の催しらしく、おじさんバンドがカントリー・ミュージックを演奏していた なぜか女性が一人でダンス!

 
(左)手前がノートルダム人道橋、奥が可動橋  (右)人道橋から上流側を望む 貨物船が静かに進んできた!

 

ホテルの前は長方形の広場になっていて、ここにもいくつかの飲食店がテラスを出しています。ホテル自体もレストランを兼営しているようだけど、営業の気配はないし、テラスもありません。エスコー川左岸に出て、そのあたりを一回りしました。Pont à Ponts(橋々の橋?)という不思議な名のついた新しい橋があります。どうやらこのエスコー川の舟運を再活性化しようと、船がくぐれる高さの橋を渡すプロジェクトが実施されているようで、その一環なのでしょう。1つ下流側、来るときに渡ったノートルダム可動橋が可動橋(pont levant)なのもその関係でしょうか。可動橋の手前にノートルダム人道橋(Passerelle Notre-Dame)もあり、こちらはいわゆる歩道橋そのものでかなりの高さがあります。川面を撮影するにはちょうどいいなというので登ってみたら、なんと上流側から平べったい貨物船が現れました。コンテナを背中にぎっしり載せているので産卵期の水生昆虫みたいにも見えます。さっそく「舟運」を実見できてうれしい。ビーッと警報音が鳴って、可動橋両岸の道路に遮断機が下り、橋げたが垂直方向に上昇していきます。これはおもしろい。このタイプは門司港あたりでも見た記憶がありますけれど、4年前のいまごろポーランドのグダンスクで見た可動橋は一方を跳ね上げる方式でした。パリの東側、サン・マルタン運河を往く観光船に乗るとさまざまな形式の可動橋に出会えて、おもしろいですよ(こちらをどうぞ)。

それはよいのですが、雨が落ちてきました。日曜日にパリに着いてからずっと晴れがつづいていたのに、さっきからどんよりしていて、ついにか、という感じ。折り傘を開くとその後が面倒なのでなるべく差さずにと思いましたが、限度を超えたのでやむなく取り出しました。その後も降ったりやんだりで、安定しません。どこに行く、何を見るというあてがあるわけではないから、いいんですけどね。いったん傘を開いたら、大降りにならないかぎりはむしろ自在に歩き回れるので、ひきつづきエスコー川の両岸を行き来して、ベタ歩きしました。

 

 

フェール橋からグラン・プラスに向かう登り坂の途中に小さなショコラチエがあるのを、さきほど確認していました。欧州滞在も残り3泊で、荷物のスペースもおおよそ読めますので、お土産の追加を。中年男性の店員さんがワンオペで、先客は2組。いずれもガラスケースに並ぶショコラを選んで箱詰めしてもらっているため、時間がかかります。が、時間つぶしを兼ねた買い物なのでむしろ歓迎。2組目は30歳くらいのカップルないし夫婦で、彼女さんのほうがにこにこしながらチョコ選びに取り組んでいます。「1つは男性の同僚、もう1つは女の子の友達にあげるものなの。でも彼氏のセンスもちょっと混ぜてあげてください」とかなんとか。店員さんもにこやかに対応しています。フランスでもそうですが、ショコラチエでちょっとした贈り物を購入するというのは、こちらの人の通常モードでもあるのです。10分くらいしてようやく私の番になり、私はといえばカスタマイズする意図が初めからありませんので、棚にあった出来合い?の袋入りを2つ求めました。トゥルネーのショコラチエに来るアジア人はあまりないのか、「休暇でこちらに見えたのですか?」とのお訊ねです。――ウィ、東京から来ています。「おお、それはそれは」。とくに意味があるわけでもないやり取りで、私の買い物はすぐ終了。うち1つは、パリのホテルのマダムにあげよう。1999年以来ずっと世話になっているカルチェ・ラタンのホテルは、8年くらい前に一度経営が変わったものの、コンセプトや内装、仕様などはそのままだったのですが、3年半の無沙汰のあいだにまた経営が変わったようで、グレードも上がり(2つ星→4つ星)、宿泊料も上がって、外観や内装なども大きくリニューアルされました。ネットでその様子を見てどうしようかなと思ったものの、地区そのものに愛着もあるので、ひきつづき世話になることにして、今回は3泊+1泊を予約したのでした。新しいオーナーと見えるマダムは、おそらく私と同年代、知的でスマートな方で、当方を古参客と認識はしていないようですがいろいろ親切にしてくれていました。今後もお世話になると思うので、ごあいさつ代わりにベルギーのチョコを差し上げることにしよう。そういえば、2004年に初めてベルギーを訪れた際にも、ヘントの小さなショコラチエでチョコを買って、当時のオーナー、エレーヌさんにもっていったな。エレーヌさんお元気なのかな。

 

ショコラチエを出たあたりで雨がいったんやんだので、傘をたたんで、川沿いをもう一回りします。この6年ほど、欧州遠征ではコンデジ2機を併用してきたのですが、新しいほう――20172月に急きょパリで調達したキヤノン機が、今春のお花見を前に故障して、もう部品がないので修理できないとなってしまいました。昨夏あたりから不調であったため代用機を求めようとしたら、半導体不足の関係でコンデジがほとんど売り場から消えており、望みの機種など半年待ちといわれました。まあスマホで撮影するのが当たり前になっていて、ちゃんと撮影する人なら一眼を求めるだろうから、コンデジのニーズは薄く、生産も後回しになりますよね。ビックカメラの店員さんによると、修学旅行に行く中学生が、スマホ持参を禁止されているため買いに来るというニーズがあったようなのですが、2020年以降の例の禍のため修学旅行もぱたっとなくなってしまい、いよいよ売れなくなったと。希望の機種ではなかったものの、使い勝手のよさそうなのが見つかったので即購入し、お花見で慣らし運転したあと、今回の遠征では予備機として持参しました。本機はというと、半年経って状況が少し改善されたようで、キヤノン機をめでたく入手できています。なんというか「手に合う」のです。そんなわけで、ここまでキヤノン本機ばかり使っていましたが、夕方の再起動から夕食まではソニーの代用機で撮影しています。見てもさほどの違いはなさそう。ただ、曇天・雨天のときの光の調整なんかがまだ慣れなくて、こういうときには本機にすべきだったかな。

うろうろするうち19時。晩ごはんを食べましょう。町のあちこちを歩きましたが、それらしい飲食店が見えるのはグラン・プラス周辺と川沿いのようです。グラン・プラスの端、三角定規の60度角のあたりにエキュ・ド・フランス(l’Ecu de France)というレストランがあり、表に掲出しているメニューを見て、店頭に立っていた店員さんに声をかけ入店しました。こういう呼吸がベテランぽいですね(笑)。一人客を歓迎しない感じの店もあるにはありますが、そんなときには遠慮せずに店を出ればいいのです。

 

 

メニューを見るかぎりフランスないしベルギー風のカジュアル・レストランのようですが、内装はどことなくコロニアルな感じもあります。サーカスの「Mr.サマータイム」の原曲であるシャンソン、Une belle histoireが流れているのが世代的にぐっときます。ま、BGMでシャンソンを流すというのは田舎の食堂らしいけどね。そのうちBGMMy Wayに変わりました。めっちゃ売れ筋を攻めるのか? 肉料理の欄のトップにあったEscalop gratiné à la belgeという料理をオーダーしましょう。€21也。エスカロップというのは肉の薄切りのことで、種類を記していないが、フランスではたいてい仔牛(beau)なのでたぶん同じ。修飾語の部分は「ベルギー風にグラタン化した」と読めます。ベルギー風というのはわからんが、クリーム煮みたいなやつかな? 飲み物は、ベルギー=ビールという安直なチョイスを今夜は避けて、本来の主燃料である赤ワインにしよう。テーブルワイン(特定銘柄ではない、コーヒー店でいうところの「ブレンド」みたいなやつ)にSMLとあり、価格(それぞれ€468)から判断してSはグラス(à verre)かなとMを発注したら、0.37Lのピッチャーでした。つまり毎夜のパブ・タイムに飲む量と同じ、ハーフ・ボトルの量です。どうせ部屋でその量を飲むのだから別にいいか。飲んでみたらテーブルワインにしてはいい味で、やっぱり本場はいいなあああ。料理はやはり仔牛で、ベーコンを張りつけ、グラタン風にしてオーヴンで焼いたもののようです。塩分が強くて普段は避けるレベルですが、旅先ではリミッターを緩めています。4年前にローマでこれと似た料理を食べていますが、こちらのほうが断然おいしい。肉の味がしっかり感じられます。小さなサラダと、やっぱり定番のフリットがついてきました。フランスではないのでパンはつかないのですね。いや満足。

向かい側のテーブルに案内された若いカップルは、何語かわからない言語を話しており、店員さんには英語で話しています。でも40代くらいの美人の店員さんはオール・フレンチで通す! そのため料理名の説明もなかなか大変です。そういえば英語メニューはないようです。ブリュッセルで食事した2軒は、さすが観光地だけあってフランス語・オランダ語・英語が併記されたメニューを出しましたし、いまどきパリでも英語は普通に添えられています。料理のフランス語に慣れているので私はさらっと流して、すぐオーダーできたものの、たとえばオランダ語オンリーだったら同じ状況になったでしょうね。10分くらいやり取りがあって、最後の最後にまだ難問があったらしく、互いにスマホの翻訳ソフトなども介して意図を汲み取ろうとします。実は私、途中で意味がわかってしまいました。余計なお節介はしないほうがいいので黙って耳を立てていると、カップル客はようやく合点がいったようで「レアをお願いします」と。店員さんは「フランス語ではセニャン(saignant)というのよ。いい? セニャンよ」とダメ押ししています。お互いに不愉快そうだとかではなく、朗らかなやり取りではあるので、異言語地域に行けばそういうことだよねということなのでしょう。そういう経験がお互いにたくさんあるに違いありません。まあしかし、有名観光地とはいいがたいながら、市内の一等地にあるレストランであれば、客にセニャンを覚えさせるよりも肉の焼き加減に関する英語くらい心得たほうがいいような気がしますけどね。だいぶ前に、ドイツのステーキ屋さんでつい「セニャン」といってしまったら、「レアですよね。英語でいってください」と返されたことがあります。ドイツ語を使え、ではないところがいまどきで、でもそれが標準のような気がする。ついでにいうと、例のカップルがオーダーしていたのはハンバーガーの類でした。ハンバーガーにレアとかミディアムといった焼き加減の区分があるのはさすがにフランスで(ファストでなければ間違いなく聞かれます)、フランス人はセニャンどころかブルー(ほぼナマ)を指定することが結構あります。バーガーはビアンキュイ(ウェルダン)がいいなあ。・・・あれ、ここはフランスではなくぎりぎりベルギーでしたね。言語も作法も自国流を押し通すという伝説のあるフランスではなく、多言語的なベルギー、のはずなんだが。

 

 

812日(土)はどんよりした天気。7時ころ起床してゆっくり洗面します。この日も列車移動を伴うので、前日と同じように午前の便で次の都市に向かい、予約した宿に荷物を預けて町歩きというプランです。運行頻度は1時間に1本。1049分発に乗ることにすると10時過ぎにチェックアウト、となると朝食後の1時間くらいはまだトゥルネーの散策ができることになります。このトゥルネーの宿は朝食つきで予約しましたので、8時前に0階に降りて、レセプション横のダイニングへ。とはいってもレセプションの朝番の男性スタッフが朝食の案内も兼ねるワンオペ操業です。フランス領にほぼ接する地域のためか、パンと飲み物が中心のコンチネンタルですが、スクランブルやベーコンは置いてあって、最近の西欧では標準的なところでしょう(経験では中東欧のほうがおかずが豊富)。口開けだったようで、切り取り自由のバゲットの端っこをゲットできました。ここが好きなんですよね〜。パンがおいしいのはフランスと同じ。

町の広さというか距離感はだいたい心得ましたので、約1時間で一周するペースで歩いてみました。もう地図は要りません。大聖堂の5本尖塔がたいていどこからでも見えるので、時間がなくなりそうだったらそれをめざしてショートカットすればいいわけですね。きのうの夕方は雨まじりで、ところどころ駆け足になってしまったエスコー川の川べりを少しゆっくり歩きます。つい大聖堂に目を奪われがちだけど、町の教会とでもいうべき小規模な祈りの場が点在。欧州の都市には欠かせない絵となっています。ゆっくり歩いて昨夜の夕食をとったグラン・プラスにやってくると、三角形の広場に朝市が出ていました。きょうは土曜で、週末になるとマルシェが立つのか、開催日があるのか。朝の9時台から結構多くの人がマルシェを訪れており、店の人とのびやかな会話をして楽しんでいる様子です。お菓子の類や衣料品、履物、アクセサリー、調理器具などいろいろあり、いまどきらしくスマホケースやバッテリーなんかの店も出ています。ブランクが長かったため、けさになるまで忘れていたのですけれど、そういえば欧州の都市の絵といえばこのような露店マーケットでしたね。「鎖国」しているあいだ、フランスの地方都市のマルシェに日本の方が出している屋台のライブ中継動画をいつも観て、他愛もないフランス語の会話を聴いては、すぐにも飛びたい感覚になっていたものです。マルシェは見ているだけで楽しい。

 
 
トゥルネーの朝市

 

大聖堂を回り込んで、ホテルに戻る途中の小広場(宿の場所を訊ねた観光案内所の前)には、古書やCDなどを商う露店がいくつか出ていて、こちらにもお客が張りついていました。首都ブリュッセルとは都市の規模がまったく違うので比較しても仕方ないでしょうけれど、トゥルネーはまさに私たちが思い描く「小さな地方都市」で、のびやかです。高い建物もなくて、そのぶん大聖堂の尖塔と鐘楼が広い空に映えます。ベネルクス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)はマルチリンガル(多言語)な地域で、たいてい英語が通じるというのが一般的な観光情報ではありますが、この規模の都市になると通じない場面が増え、何より標識や表示はフランス語に限定されます。ベルギーでは2ないし3の言語が話されていますと地理の教科書にはあり、すると「ベルギー人はみなバイリンガル、マルチリンガルなのか」と一律的な理解をしてしまいそうになります。でも実際には地域差、個人差があります。そもそもベルギー王国の全体がマルチリンガルなのではなく、北半分はオランダ王国と同じようにオランダ語の、南半分はフランス共和国と同じようにフランス語の世界であり、ブリュッセルだけは例外的に2言語併存ということが制度的にも実態としてもある、ということですね。ブリュッセルのような2言語地域で生まれ育つと、否応なく母語以外の言語に対するセンスも鍛えられますので、英語などそれ以外の言語に対しても寛容になり習得が容易になります。欧州がめざす副言語主義(plurilingualism 母語+2言語の習得を目標とする)は、ブリュッセルではかなり浸透していることでしょう。トゥルネーまで来て、観察すると「ベルギーという国は」なんて一律に説明できなくなります。ただ、フランス語圏でフランス国境のすぐ近くだというのはあるにしても、ベルギーのオランダ語圏との境界はもっと近くにあるわけで、それにしてはオランダ語の気配がまるでないのは興味深い。推測を交えて考えるに、だからこそ、「すぐそば」の隣国フランスの言語への執着が強まったという面はあるかもしれません。

予定したとおり1010分くらいにチェックアウトしました。なかなかいい滞在でした。ロワイヤル通りをまっすぐ歩いて、15分くらいで駅に着きます。この間、振り返るとずっと5本尖塔が見えているのがすばらしい。乗車予定の列車は1049分発なので、あわてることもありませんが、切符売り場の窓口は1つしか開いておらず、すでに10人くらいの列になっていますので、すぐに並びましょう。もちろん自動券売機は作動しており、試してみたものの、外国行きのチケットはこの機械では購入できませんと表示されています。前夜にネット検索してみた際にも、列車のタイムテーブルと運賃は表示されるのに、このチケットはネットで購入できませんとの表示が色文字で表れました。タリスやユーロスター、TGVICE(ドイツの高速列車)といったいわゆる国際列車はネット購入がむしろ普通なのに、ローカルな列車は国境を越えるだけで別枠扱いになるわけか。自動券売機の前では、70代くらいのおじさんが、「アンテルナシオナル(international)は受け付けないっていいやがるんだ。並ぶしかないのか」などと近くの人に話しかけていました。ここまで来ると国境越えがむしろ日常のはずで、チケットも融通を利かせればいいのになと思います。特定区間だけの機械をつくってチケットを売り、SNCB(ベルギー国鉄)とSNCF(フランス国鉄)のあいだの協定にしたがって売り上げを配分すればいいだけのこと。複数の鉄道事業者が相互乗り入れする東京の地下鉄なんかは普通にやっているよ。なんて余計なお世話ですね。私のほうは問題なく2等片道切符を購入できました。€4.80

 

 

これから向かうのはフランスのリールです。IC30分強。トゥルネーとリールのあいだにいくつかの駅があり、もちろん町もあるわけですが、実質的には国境をはさむ両都市を直結するシャトル列車だと思われます。ホームに行ってみたら、これも西欧各地でよく見るタイプの古びた電車が停まっていました。1両に数名程度かなと思っていたら、発車まぎわにたくさん乗ってきて、ほぼ満席に。昼前だから時間もちょうどよく、買い物やビジネスなどの流動が結構あるのでしょう。1つ前のボックス席に座った夫婦は犬2頭を伴っていて、1頭は人間の子どもよりもでかい。ペット乗車のルールは国や事業者によって違いますが、もとよりOKなのでしょう。2頭ともずっとおとなしくしていて少しも声を出しませんでしたので、鉄道移動に慣れているのだと思います。あとからグーグルマップでトレースしたところによれば、列車は11時ころに国境を越えてフランス領に入った模様。ずっと畑地の中を走っていますので、ここがボーダーですという目印はまったくありません。日々の通勤で東京都から千葉県に都県境を越えるとき(旧江戸川の鉄橋)のほうが、絵として明瞭です。明瞭である必要は、まあないですけどね。

ほどなく都市近郊であることが明らかなゾーンに入り、1118分にリール・フランドル駅Lille-Flandres)に着きました。フランス屈指の規模の都市にしてはずいぶんすすけた、しょぼいターミナルです。近鉄に惨敗した三重県のJR駅みたい(失敬)。と思ったら、駅構内が大きく2つのゾーンに分かれており、通路の向こうにはより本格的なドーム屋根を備えたターミナルがあり、TGV車両の姿も見えました。その瞬間に、2004年の記憶が19年ぶりに召喚されます。ああ、そうだったそうだった。そのときは、ベルギーのオランダ語圏にあるヘントから列車に乗り、このしょぼいほうのホームに着き、間隔を置かずにパリ行きのTGVに乗り継いだのですが、そのホームはどこなのだろうと多少とまどったのでした。たしかヘントからパリまでの一続きのチケットを購入したため(当時はそのつど窓口で現金決済でした)、乗り継ぎが最短時間になるように設定されていて、リールで途中下車することはなかったんでしたね。ベルギー側の国境駅で編成の後ろ半分が切り離され、前半分だけでリールに向かう運用になっており、隣席のおねえさんに教えてもらわなかったら危うくベルギー領内に置き去りにされるところでした。

 

 

リールLille)はフランス最北部に位置する工業都市で、人口は約25万人。正六角形に近いフランスの国土の、いちばん上の頂点にあたる位置です。フランス教育の専門家ということに一応なっているのだけど、このところパリ以外に出向くことがほとんどなく、地方都市に宿泊するのは7年半ぶりです。フランスは欧州でも中央集権的な傾向が著しい国で、パリとそれ以外、といった構図が明確に見えます。パリ以外の都市を観光で訪れるとなると、リヨン、マルセイユ、ニース、ボルドー・・・ という具合になるのでしょうかね。リールの名が挙がることは(サッカーファンでもないかぎり)ないのではないかな。それでも著名な都市ですし、中世いらいの交通の要衝でもあります。私の予備知識は、実はほとんどなくて、ブリュッセルからパリに戻る経路上のどこかで、と考えて思いついただけでした。意識してはいなかったけれど、2004年に国境で止められそうになった経験がどこかに引っかかっていたのかな?

それまで単にリール駅(Gare de Lille)だった市の代表駅の名がフランドルという地方名を冠するようになったのは1993年のことです。TGVが走る高規格路線(Ligne à Grande Vitésse: LGV)は、最初にパリとリヨンを結ぶ南東線が開通し、その後にリールまでの北・欧州線(Nord- Europe)ができました。パリからほぼ真北に向かって走り、国土の北端に近いこのリールが一応の終点ですが、そこでベルギー・オランダ方面に向かう高規格線およびユーロトンネルを介して英国ロンドンに向かうハイ・スピード・ワン(ちゃんとした路線名はChannel Tunnel Rail Link)に接続します。最初からフランス国内完結ではなく、英国やベネルクスへの国際列車用の路線として整備されたのでした。TGVの一部やユーロスターが停車するのは、線形の関係で従来のリール駅(行き止まり式)ではなく、その近くに新設されたスルー構造のリール・ウロプ駅Lille- Europe)ということになりましたので、「在来線」のほうにフランドルなる修飾語がつけられたという次第。

 
フランス国鉄リール・フランドル駅 ウロプ駅への案内は文字が剥げかけていた・・・

 

 

PART5につづく


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