Les Balkans 2017: la Bulgarie et la Roumanie

PART2

 

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イグナチェフ通りを南東に数ブロック進むと、左手に長方形の小さな広場と、赤褐色の教会が見えました。広場には簡易カフェなども出て、のどかな日曜の光景といったところです。ミサの準備で聖俗さまざまな人が出入りする教会の建物は、丸屋根をシンメトリーに配したちょっとユーモラスな形をしています。聖セドモキスレンツィ教会(Храм "Свети Седмочисленици")とありました。ブルガリア語の横に英語の由緒書きがあるのはありがたい。それによると、ここにはオスマン帝国最盛期のスルタン、スレイマン1世が16世紀に建てた「ブラック・モスク」があり、マドラサ(イスラーム学校)などとして機能していたが、1878年の解放(liberation)後には監獄として使われ、1901年にブルガリア正教会の教会として建てなおされたのだそうです。由緒書きではSuleiman II the Magnificentとなっていましたが、ザ・マグニフィセント=大帝と呼んでいるのは1世です。スレイマン1世ってちょうど日本の戦国時代に相当する時期に地中海のほぼ全域を覆うような帝国を築いた人物で、パーソナリティも非常に興味深く、世界史上でも屈指の君主であると思います。マルタを訪れたとき1565という西暦年号がやたらに強調されていたのは、スレイマンの侵略を必死で食い止めてキリスト教世界を防衛したという誇りによるもの。ブルガリアは完全に呑み込まれ、町の真ん中にモスクを造らせてしまっていますが、先にちらっと述べたようにオスマン帝国は宗教的に寛容で、バルカン半島に関してはむしろ正教会を統治のシステムに組み込みました。このあたりの普遍語は、トルコ語よりもむしろギリシア語であったといわれます(マーク・マゾワー著、井上廣美訳『バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史』、中公新書、2017年 この本が今回の旅のおともでした)。

 
聖セドモキスレンツィ教会

 
静かな官庁街・・・ と思ったら場違いなエロもの屋さんがあったりする(since 1991だそうなので「自由化」の波に乗ったということか)


教会の裏手をさらに進みます。一方通行の狭い道路が縦横に走るこの区画は、内務省などの官庁や学校の建物がいくつも見える、閑静な一隅。おおかたの建物のくたびれ方から見て、社会主義時代に造られた町並だろうと推測します。社会主義ばかりをディスるのはアンフェアで、高度成長期から1970年代あたりまでの日本の集合住宅なんて質はどうでもいいのかという造りでした。最近になってそれらの建物が更新の時期を迎えつつありますものね。私自身もそうした無機質な団地で子ども時代を過ごしたひとりです。縦横がはっきりしているので多少のジグザグは困難でないと考え、歩いているうちに東西南北の方向を見失いました。ちょうど小さな公園があったのでベンチで休憩して、地図を開いて確認。町のあちこちに小さな緑地があるのはなかなかよいです。

日曜ということもあり、交通量はさほどではないのだけど、信号機のない横断歩道を渡るタイミングがなかなかつかめずにいたら、同年代のおねえさんが「横断歩道は歩行者優先だから自分から渡っていいのよ」と教えてくれ、自ら手を挙げて実践してみせました。ご親切にありがとう。「かぎかっこ」の中は完全にブルガリア語ですが、絶対にそういう意味だと思う。

  


さらに数ブロック歩くと、道幅はさほど広くないが緑に包まれたようないい感じの主要道路に出ました。道路名はツァール・オスヴォボディテル通りбулевард Цар Освободител)。ツァールというのはロシア語でいうツァーリ=皇帝(もとはラテン語のカエサルCaesarの転訛)のことで、オスヴォボディテルは「解放者」という意味らしい。この道を少し東に進んだところに、国民議会Народно събрание)の美しい白亜の建物があり、その向かい側には解放者記念像Паметникът на Царя-освободител)という騎馬像が、この国の政治を見守るかのようにりりしく建っていました。この「解放者」というのはロシア皇帝アレクサンドル2世(АЛександр II)のこと。ちょうど1年前にフィンランドの首都ヘルシンキを訪れた際にも、同市というか同国のランドマークというべき大聖堂の前にアレクサンドル帝の立像があったのを思い出します。当時のフィンランドは議会などがいちおう別建てされた大公国(大公はロシア皇帝)でしたが、実質的には属国でした。こちらブルガリアは、露土戦争の結果として前述のように長いオスマン帝国の支配から抜け出し、ロシアの保護国ではありましたが国家としての独立を得ました。歴史を公平に見たところでブルガリア人が自力で独立を勝ち取ったとはいえないので、解放という表現になるのでしょう。先ほど見た教会の英語の由緒書きにも「1878年の解放」という表現が用いられていました。ロシアは近代ブルガリア国家の「製造主」だったといってよいものか、そのところはまだわかりません。現在のブルガリアは、一院制の議会を中心とした議院内閣制を採用していますが、大統領権限もそれなりに強く、元首=象徴的地位ということではなさそうです。

 
 
(上左)国民議会議事堂 (上右)ソフィア大学 (下左)アレクサンダル・ネフスキー大聖堂 (下右)解放者記念像 背後はDB(ドイツ鉄道)のビル?


このツァール・オスヴォボディテル通りの地下には、空港から乗ってきた地下鉄が走っており、セルディカの1つ東がソフィア大学駅。議事堂の東側に、どっしりとした大理石造りの大学が見えます。ソフィア大学Софийски университет)はブルガリアの高等教育の中心をなす大学。欧州教育の専門家ではありますが何らの知識もありませんので、同大学のサイトで沿革を見ると、創立は「解放」後の1880年代のようです。
Sofia University was founded in late 80s of the XIX century, while the old European universities had been established between XII and XIX c. However, the University was built upon strong scholar and educational traditions of Medieval Bulgaria, dating back in the time of the eminent Bulgarian rulers Knyaz Boris I and Tsar Simeon (Symeon the Great). “XI century”
けっこう苦しめではないか? 欧州の古い大学はよろず1214世紀の創立だがソフィア大学は1880年代後半。しかし本学は、中世ブルガリアの偉大なる学術的・教育的な伝統の上に創建されたのであります、と誇っています。最後のほうに名前の見えるボリス1世は9世紀の人物で、黒海沿岸にいたトルコ系遊牧民集団であるブルガール国家を継承し、ドナウ川流域に侵攻して、やがてギリシア正教に改宗。この地域がブルガール人の国=ブルガリアとなる直接のきっかけをつくりました。称号が王でも公でもなくハーン(可汗)であったところがブルガールの本来の性格をよく示していますね。ツァー・シメオン大帝はその息子で、ビザンツ帝国と何度も戦って勝利し、版図を拡大しました。どうもコンスタンティノープルに入ってローマ(ビザンツ)皇帝になろうとしていたふしがあるのだけれど、ビザンツ側によってうやむやにされてしまい、結局はブルガリア皇帝(ツァー)として戴冠した事実が残りました。これが第一次ブルガリア帝国ПЪрва българска държава 9181018年)と呼ばれる、中世の最初の黄金期です。あやふやな歴史の流れに依拠して大学の由来を語るというのは西欧コンプレックスなのでしょうか。ちなみに日本でソフィア・ユニヴァーシティといえば上智大学のことですが、あちらはカトリック(イエズス会)で無関係。

ついでのことに第一次帝国の最期について述べておきます。この帝国が勃興した10世紀は、4世紀末の東西分裂以来ふらふらしながらも永らえ、一時はイスラーム勢力に押されて瓦解寸前まで行ったもののよみがえったビザンツ帝国が「中世の普遍国家」として再浮上する時期でもありました。ビザンツ史の本を読むと必ず主役級で登場するのが、最盛期の皇帝バシレイオス2世ブルガロクトノス(Βαδίλειος Βʹ ὁ Βουλγαροκτόνος)。生涯独身の禁欲的な人物、というか変人のたぐいではありますが、強烈なリーダーシップと判断の的確さ、キャラ立ちしそうなエピソードの数々に、ついつい惹きつけられてしまいます。ある時期にビザンツの本をいくつも読んだのはバシレイオスに会いたいからでした。世界史的な意味も大きいのに、世界史の教科書にまず登場しないのは、ビザンツ・スラヴ史が私たちの視野になかなか入らないのでやむをえないのでしょう。ビザンツ皇帝にはあだ名がつけられることが多く、帝国の言語であったギリシア語の「ブルガロクトノス」というのは英語でthe Bulgar Slayer、つまり「ブルガリア人殺し」ということです。1014年、現在のブルガリア南西部、クレディオンの戦いで、バシレイオスの派遣したビザンツ軍がブルガリア軍に圧勝、このときバシレイオスは万を超える捕虜たちを100人ずつに分けて縄につなぎ、99人の両目をつぶし、1人は片目だけつぶして先導させ、ブルガリアに送り返しました。あまりに凄惨な光景を見たブルガリア皇帝サムイルは卒倒し、悶死したと伝わります。このブルガリア人殺しによってビザンツはバルカン半島を数百年ぶりに回復し、ピークに向かいました。――好きな歴史キャラのひとりバシレイオスを西欧あちらこちらで取り上げられるのはうれしいな。そのうち未訪のギリシアへも行きたいと思いますが、キリル文字でも大変なのにギリシア文字を入力するのはもっと(苦笑)。

 地下鉄ソフィア大学駅


ソフィア大学のある交差点には横断歩道がないようなので、地下鉄ソフィア大学駅のコンコースを通って反対側に出ました。構内にマクドナルドがあったりして、暗い空間にしていないのはよい趣向でしょう。この交差点と国民議会議事堂に面して方形の公園があり、そこを通り抜けるとアレクサンダル・ネフスキー大聖堂Храм-паметник Свети Александър Невски)のドームが見えてきます。ソフィア、というよりブルガリアのシンボル的な建物で、正直なところ私もこの教会以外にブルガリアの具体的な絵が思い浮かびませんでした。ただ、古くからあるのではなく、落成したのが1912年とわりに新しい。ここまでの話でうっすらおわかりのように、1878年に新生ブルガリアが誕生したあとで、国家・民族のシンボルとして建設が開始されたものなのです。考えてみればナショナル・シンボルなるものは国民国家の成立とリンクするわけだから、19世紀後半〜20世紀初めに「新築」されたものがあっても不思議ではありません。パリのモンマルトルにあるサクレ・クール寺院(1877年着工、1914年完成)はほぼ同じタイミングで造られていますね。ドイツのケルン大聖堂は13世紀に建設がはじまり、16世紀に工事が中断され、ドイツ帝国成立後の1880年に完成しました。19世紀の工事再開はまさに近代的な動機によるものです。

ブルガリア正教会の総主教座となっているアレクサンダル・ネフスキー大聖堂は入館無料。ただし内部の写真撮影をしたければ10Lvのチケットを購入する必要があります。正教会にはあまりなじみがなかったのだけど、昨年はエストニアやフィンランドで立派な教会を拝観し、その雰囲気に親しみをもつようになってきました。イコン(聖画)の配置が独特ですね。しばらく堂内を回ってあちこちを撮影していたら、女性係員が近寄ってきて、「撮影される場合には10レヴァ必要です」といってきます。購入したチケットを胸ポケットに挿してあり、指さして確認させました。それらしい人を見つけては声をかけているようで、それなら面倒なしくみをやめて、薄く広く拝観料を徴収するとか、ミラノ大聖堂のようにカメラに目印をつけさせるような仕方でも考えるほうがよいと思う。

 
アレクサンダル・ネフスキー大聖堂


大聖堂の周辺は公園になっていて、何かのイベントでも催すのか仮設のステージが整ってリハーサルをしていました。周囲には軽食や飲み物の露店が出ていて、日曜の代々木公園みたいな雰囲気になっています。お天気も最高にいいですしね。博物館と寺院、大学などが並んで全体として公園緑地になっているのは上野に近いのかもしれません。大聖堂のすぐ前にあるレンガ造りの渋い建物は、都市名の由来となった聖ソフィア教会цЪрква „Света София“)。現在の建物は20世紀に再建されたものですが、もともとは6世紀のユスティニアヌス帝(ビザンツ皇帝で「ローマ法大全」を編んだ名君)によってこの地に教会が建てられたのだそうです。全体にごつごつしたバルカン半島にあって、ソフィア周辺は広めの盆地ですので、古来の要衝であり、宗教的拠点を置きやすかったのでしょう。聖ソフィア教会の前に、正教会流の十字架を載せた杖を手にする男の立像がありました。キリル文字を読めないので誰だかわからないまま写真に収め、後日調べたところ、バシレイオス・ブルガロクトノスの仕打ちに悶絶して死亡したサムイル帝でした。殉教といいたいところですが、攻めてきたビザンツこそ正教会の総本山ですので、この像はブルガリア国家に殉じたことを称える近代の発想によるのでしょう。

 
 
(下左)聖ソフィア教会  (下右)サムイル帝の像


聖ソフィア教会のひとつ西側にあるのは聖ニコライ教会Църква "Свети Николай Чудотворец")です。こちらはロシア正教会の聖堂。正教会は国・地域ごとに教会組織が分かれ、在地化しているところに特徴があります。アレクサンダル・ネフスキー大聖堂はブルガリア正教で、教義などが異なるわけではなく組織上の問題。ブルガリアとロシアでは建物の感じや色合いにすぐわかるほどの違いが見て取れます。この場所はオスマン時代にモスクだったようで(聖ソフィア教会もモスク化していた)、「解放」後のブルガリア政府はそれを壊し、恩義のあるロシアのために提供したらしい。1914年に完成したこの教会の名である聖ニコライというのは、4年後に革命の中で処刑されたロシア皇帝ニコライ2世のことです。聖ニコライ教会を見て、表に出てきたら、日本人の若者数人がいて感想を述べ合っています。日本から来たのか、留学などで欧州にいる人が旅行できたのかはわかりませんし、話しかけるほどのことでもありませんが、日本人観光客もそれなりに来ているのね。

 
聖ニコライ教会


さらに自然史博物館、国立美術館別館、国立民俗博物館などが並ぶゾーンを通り抜けると、セルディカ駅のすぐそばに出ました。ツァール・オスヴォボディテル通りと別の主要道路が放射状に分かれる地点で、その鋭角の角地に、巨大な円柱のファサードをもつ旧共産党本部Бивш щаб на комунистическата партия)があります。ここだけ建物の規模が違うのはさすが旧社会主義国。首都のど真ん中にあって全国ににらみを利かせていたんだろうな。ジフコフ独裁政権(195489年)は、ベルリンの壁崩壊の翌日に終焉しました。当時の私は、ブルガリアの内情についての知識や見通しはほとんどなく、ジフコフの名と指折りの独裁体制であることくらいしか知りませんでしたが、東ドイツの「ついで」のようにあっけなくコケてしまったのには驚きました。

あれから28年が経過し、現地を歩いてみれば資本主義と自由主義の社会であることはすぐにわかりますが、率直にいって「まだまだ」と感じるところも多々あります。前述のように、EU加盟に関しては追試を課されたほどの劣等生ですし、欧州統合の中ではむしろ工業の下請けと安価な農作物の供給地という地位が固定される傾向にあります。しばしば経済危機も伝えられます。もともと山がちな農業地域だったブルガリアは、オスマンの一部であった時代には帝国全体の分業のもとでそれなりに機能していたのですが、国民国家として自立するには規模が小さく、産業基盤も脆弱でした。第二次大戦後にソ連の指導下で社会主義体制を構築し、それが後からの解釈で全否定される傾向にあるものの、ソ連型社会主義でもなければ国を維持できなかったという面もあるのではないか。いまジフコフの再評価という動きもあるそうで、それは資本主義化してうまくいかないもどかしさでもあるのでしょう。共産党のメンバーとして、あるいは協力者として暴力的な人権抑圧とか社会基盤の破壊にかかわった人間はいまもたくさん生きているのでしょうが、案外普通に暮らしているのでしょうね(なおブルガリア共産党は1990年に社会党と改称し、現在も有力政党のひとつ)。


いかにも権威的な、スターリン様式の旧共産党本部 右は大統領官邸


この旧共産党本部の周辺は、社会主義時代に整えられた一連の「建造物群」のようで、ラルゴ(Ларго)と呼ばれ、第二次大戦中に空襲で焼かれた中心街を再建する過程で造られたものです。スターリン様式と呼ぶのだそうですが、そのあたりのセンスは私にはわかりません。日曜だから静まり返っているのか、そもそも最近では機能していないのか、建物たちが「生きている」感じがしないのもまた不気味ではあります。旧共産党本部のすぐ前にセルディカ駅の入口があります。この駅は、切符売り場や売店などのある地下1階が掘り込みのような感じで地上から見えるようになっていて、周囲をセルディカ遺蹟Античната Крепост Сердика)に取り囲まれています。というより、大昔からある遺蹟の真ん中に駅を造ったということでしょう。紀元前のトラキアと紀元後のローマ時代の遺蹟が重なっているそうで、「使える場所」ゆえに、歴史的に何度も上書きされてきたということね。私たちの感覚では、ここまで大規模な遺蹟があるのであれば主要道路や地下鉄はそこを外して建設するでしょうが、そうではないらしい。古代ギリシアの植民市マッサリアから発展したフランスのマルセイユでも、ショッピング・センターの中庭にこのような古代遺蹟が接続していて、すごいなあと思ったものです。奈良県あたりでは、ちょっと掘れば大小の遺蹟に出くわし、ロクに開発もできないよということにもなるらしいし、ギリシアの首都アテネの建設(「わが(国民)国家は古典文明の嫡系」と主張したいがために、19世紀になってから長く放置されてきた古代遺蹟の真上に建設された)に際しては、半ばお構いなしに開発を進めた経緯もあるらしく、ユネスコはともかく外国の一般人がとやかくいってよいものかは微妙。ソフィアがものすごく古い「都市」であったことは押さえておきましょう。

 
 
(上左・右)地下鉄駅に接するセルディカ遺跡  (下左)バーニャ・バシ・ジャーミヤ  (下右)歴史博物館


大きな交差点を右に折れたところには、ソフィアで唯一のイスラーム寺院であるバーニャ・バシ・ジャーミヤБаня баши джамия トルコ語でBanya Başı Camii)というモスクが見えます。1576年にオスマン帝国によって築かれた古い建物だそうですが、こんな一等地にあって、近代国家がよくつぶさずにいてくれたものと思う。外観・内装とも修築中のようで残念ながら中を見られませんでした。バーニャというのは浴場のことだそうで、実際にいくつもの浴場が構内に造られていたとのこと。ソフィアのムスリムは1万人弱だそうです。思いのほか多いというべきか、歴史を考えれば本当に「浄化」されてしまったというべきか。

その裏手にソフィア歴史博物館Музеят за История на София)があります。国民国家期に造られた市立博物館は第二次大戦で焼失し、戦後は国の重要な遺物が海外に流出するなどしたものの、民主化後の1998年になって再建の方針が示され、2012年に現在の場所で歴史博物館をオープンしたとのことです。入館料は6Lv。カメラを使用すると別に15Lvですといわれましたが、メモを取るのでさほど写真に撮りたいものもなかろうし、どうしてもというものがあれば後からチケットを買い足せばよいので、プレーン料金のままでOK。荷物をロッカーに預けて、身ひとつで館内を見学します。あまり奥行きのない2階建ての建物に、古代から現代までの全歴史を詰め込もうとしているため、ちょっとコンセプト的に無理があるかなと思うものの、展示物にはなかなか興味深いものがあります。とくに、「解放」後のブルガリア公国と、その後継国家であるブルガリア王国(Царство България 190846年)の時代の展示とその解説はよくできていました。ロシア出身の初代ブルガリア公アレクサンダル1世(Александър I 在位187986年)は評判イマイチの感じが伝わります。クーデタでアレクサンダルが追われたあとにオーストリアから迎えられた後継のフェルディナンド1世(Фердинанд I 公18871908年、王190818年)のほうは、家族ともども高評価でした。このフェルディナンドは、形式的とはいえ宗主国だったオスマン帝国が青年トルコ革命で動揺したのを受けて1908年に主権国家を宣言し、王を名乗りますが、バルカン戦争と第一次大戦で舵取りを誤り、敗戦の責めを負って退位しました。息子のボリス3世(Борис III 在位191843年)は、再三のクーデタで王による親政ファシズム体制を確立し、ナチス・ドイツと同盟しました。その子であるシメオン2世(Симеон II 在位194346年)は、敗戦時には8歳の子どもで、もとより戦争指導の当事者ではありませんでしたが、1946年の国民投票で王政の廃止が決まると国外に亡命しました。私にとっては194689年のブルガリア人民共和国(Народна република България)という国号が最もなじみのあるものです。なおシメオン2世は民主化後に故国に戻り、200105年には何とブルガリア共和国の首相を務めました。経済・社会の混乱ゆえとはいえ名門を担ぐというのは歴史に学ばぬ行為ではないかと、当時私は少しだけ懸念したものです。ただ事態はそれほど悪化しませんでした。

歴史博物館の展示では、ソフィアの町が「近代化」されていく様子がとくに興味深かった。「かぎかっこ」をつけたのは功罪両面あるからです。社会改革が追いつかないままの都市近代化が何を生み出すかは、東西にいくつもの類例があります。それをある程度知っている私には、なるほど、なるほどと思えるものでした。

 
ピロトスカ通り


モスクのところから地下鉄駅兼遺蹟を通って、今度は西側に出てみると、ピロトスカ通り(булевард Пиротска)という商店街がありました。歩行者専用のよく整った商店街ですが、残念なことに日曜なのでお店はほとんどがクローズしています。一筋それると古びたアパートなどが林立していて、欧州各地にありがちな景観ではあります。ホテルそばを含めて市内あちこちでKinkyという青い外観の小型商店を見かけます。酒類・ソフトドリンクやスナック菓子、タバコなどを売るキヨスク的な店のようですが、北欧のように限られた免許店以外でアルコールを売れないという話は聞いておらず、そこはどうなのでしょう。日本のコンビニや西欧の類似店と異なり、商品棚のある「店内」に客は入れず、昔のタバコ屋のように窓口に声をかけてオーダーするしくみ。何が売られていてどんな品名なのかを知らなければ買い物も困難ですよね。でも携行していた水がなくなっていたので1本調達しよう。ウォーターくらい通じるはず。20歳そこそこの若い店員に、スティル・ウォーターはありますかと英語で訊ねたら、「ウォーター? ホワット?」と2度聞かれます。おそらくstill water(炭酸の入らない水)という英語を知らないのだと思って、natural waterといいなおしたら伝わりましたが、「ラージ? スモール?」とめんどくさそうに聞いてきます。0.5Lがラージなのかスモールなのかすぐ判断できなかったので、コレくらいのやつと両手で示すと、1Lを取り出しました。どんな眼をしとるんじゃ。――ノーノー、smaller than it. するとおねえさんは小ばかにしたような表情と声で、「こっち? これはスモールっていうのよ!」と、商品を乱暴に突き出します。ぞんざいなサービスというのはあちこちで経験しているので別に不愉快でもないけれど、どうもサービス業とは何なのかということを(この人というよりは社会が)十分にわかっていないような感じはします。とても印象的な出来事でした。ちなみに、清涼飲料水のたぐいは250mL(昭和の缶の標準サイズ)だと信じて育った私には、500mL0.5L)をスモールとは表現できない習いのようなものがあります。


アパート群は全体によれよれ


またまた地下鉄構内を通り抜けて、旧共産党本部の近くに戻りました。道路をはさんだ反対側には大統領官邸Президентво)の、これもがっしりとした建物があります。前述したラルゴの一隅で、博物館や公園緑地につながる区画。正面には2人の衛兵がいるだけでしたが、どこからかウェディング・ドレス&タキシードのカップルが介添人ともども現れて、衛兵さんたちとともに写真に収まりました。結婚の記念になるような場所かなあ。この界隈では、4世紀に建てられた市内最古の建造物である聖ゲオルギ教会Ротонда „Свети Георги“)と、昨日来何度も目にしてきている聖ネディリャ教会Църква "Света Неделя")も見ておきましょう。聖ゲオルギ教会は、大きな建物のあいだに埋もれるように(そして実際に土台部分がかなり下がった位置にある)建てられています。4世紀にローマ帝国が建てたものとされ、オスマン時代にはモスクに転用され、ゆえに形を変えながらも長持ちしたというものらしい。一方、聖ネディリャ教会の歴史は10世紀にさかのぼるそうですが、何度も建てなおされ、現在のものは1920年代に再建されたものです。ちょうど生後まもない男の子の洗礼式がおこなわれており、正装した親戚一同が集まって、神父さんの所作に注目していました。

 
(左)大統領官邸に、新郎新婦が  (右)市内最古の聖ゲオルギ教会


ヴィトシャ通りから見た聖ネディリャ教会(写真は27日朝に撮影したもの)


14
時半ころいったんホテルに戻り、すぐ再出動。これまでの経験から、連泊の客室のクリーニングをまだ終えていないのではないかという勘は当たり、少し荷物を入れ替えてから、また外に出ました。あす28日の11時に出発する長距離バスを予約しており、国鉄の中央駅そばにあるというバス・ターミナルを確認しておきましょう。セルディカばかりでは何なので、南に下って国立文化宮殿駅から北行きの地下鉄に乗ります。トラムやバスを利用することがあればと思って、共通の1回チケット(1.60Lv)をけさ購入しており、自動改札機にバーコードをかざしてみたもののエラーが出ます。有人改札口にもっていって調べてくれと英語でいったら、券面を眺めた女性駅員は無言のまま、英語で書かれた「よくある質問への回答」のカードを示しました。購入から30分以内に使用しないと無効とのこと。そういうしくみなら仕方ないが、トラムやバスは車内で購入できずキヨスクなどの扱いになるということだったので、確実に買える地下鉄の券売機で買っておいたんだけどな。ま、シングル・チケットは数十円ほどなので損した感じはありません。

 

国鉄中央駅とアフトガーラ・セルディカ 本当は奥に見える銀色のビルに行かなければならなかったのだが・・・


ブルガリア国鉄
БЪлгарски държавни железници)のソフィア中央駅Централна железопътна гара София)はセルディカから真北に1kmちょっとのところにあります。歩いても余裕で行けるのだけど、地下鉄が安いのと、駅周辺の物騒さをたびたび耳にするので用心もあって、往復3.20Lvで下見。地下鉄の中央駅駅と国鉄中央駅を結ぶ通路は、セルディカなどに比べて暗い上に薄汚れており、売店などの感じが場末そのものです。たしかに変なおっさんが複数、タバコを吸いながらうろうろしているしな〜。今回の地方遠征には鉄道もぜひ利用したかったのですが、めざすヴェリコ・タルノヴォまではややこしい乗り換えがあって6時間くらいかかりそう。これに対して長距離バスは3時間ほどで行けます。中東欧では鉄道があまり当てにされず、こんな距離も!という都市間でもバスで移動するのが普通なのを知識としては心得ており、昨夏はラトヴィアのリーガからエストニアのタリンまで4時間半の行程を利用しました。それでも多少の未練があって、国鉄のサイトでチケット確保をめざしたものの、どうやらオンライン化が不十分(一部路線に限定)で、英語の情報もとぎれとぎれでした。ヴェリコ・タルノヴォからルーマニア国境までの旅程はフリーにしているので(というか、これもネットで十分な情報を得られない)、そこを鉄道利用ということにしたい。首都ソフィアを発つのはバスで、ということになりました。

国鉄駅はかなり立派な建物ですがあちこち工事中。「タクシーに乗らないか」というありがちな声を振り切って、東側に隣接するバス・ステーションに行ってみました。長方形のバス・プールを2階建ての建物がはさんだ簡素なもので、バス会社の小さなオフィスがひしめき合っています。見ている間にも12便が出入りし、大荷物の人たちが乗り降りしていました。困ったことにヴェリコ・タルノヴォ行きの乗り場を見つけることができません。バスタ新宿のようにインフォメーションやチケット・オフィスを統合しておらず、各社それぞれで勝手にという仕方なので、英語の情報が貧弱なこともあってよくわからん。誰かに聞けばよいのだけれど、場所はわかったので明日来ればわかるだろうと思って引き上げました。私にしてはめずらしく治安うんぬんの事前情報に幻惑されて、この界隈でうろうろしたくないと考えてしまったための判断ミスでした。この話はのちほど。

 

PART3につづく

 


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。