Voyage aux pays baltes et plus: Lettonie, Estonie et Finlande

PART7

 


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ヘルシンキからの帰国便は早朝645分発なので、空港ホテルの前泊を予約しました。「最終日」というのは実質的にないものと思わなければなりません。正味の最終日、830日(月)はわりにのんびり起きて、8時半ころ0階の朝食会場へ。ここもずいぶんとスタイリッシュなカフェです。スウェーデンでもこんな感じのホテルラウンジを見たし、北欧のセンスはごてごてしないでシックに洗練されたものをよしとするのかもしれません。コーヒーうまし。


今日のうちに空港に行けばよいので、昼間は存分に使えます。チェックアウトのために昼前にホテルに戻るのも何なので、10時ころチェックアウトしてしまい、キャリーバッグをレセプションに預かってもらいました。このtill afternoonというのも本シリーズではちょいちょいやっていますね。天気はきょうもいまいちですが雨は降っていないようです。ホテルから2ブロックで、ヘルシンキの座標ゼロともいうべきカウパトーリ広場Kauppatori)に出ます。カウパトーリは市場の意味。広場というか、エテラ港の岸壁が広くなっているというだけのことで、離島行きのフェリーの発着所などがあり、コンクリートのタタキの部分には「市場広場」の名のとおりテントつきの露店が整然と並んでいます。小物や土産物を売るところ、野菜や果物などを扱う店、そして多分にツーリスティックな簡易食堂があって、いずれもちょうど開店した時間のようです。もう少し人が増えたほうがおもしろいので、後刻立ち寄ることにしましょう。

前述したように、ヘルシンキの本体はほとんど島に近い半島で、こういう地形の場合には周辺に小さな島々が点在することが多い。そうした島をめぐる観光船が出ているようです。1時間30分でぐるっと一周して€23だそうなので高くはありません。案内板は何と10言語表示で、英語がトップでフィンランド語は6番目と謙虚。基本的には外国人観光客を呼び込もうということに違いありません。ちなみに言語の種類は順に、英語、ドイツ語、スペイン語、フランス語、イタリア語、フィンランド語、スウェーデン語、ロシア語。これらは78行の解説を付していますが、日本語と中国語だけはくじけたのか、ワンフレーズで済ませています。「船による歴史的なヘルシンキ観光」だって。Historical Helsinki Crouseというタイトルなので直訳すればそうなるのでしょうけれど、「歴史的な」が「観光」の連体修飾語になってしまい、本来のニュアンスが伝わらないと思うよ。ま、日本人を含めてここまで来るツーリストはラフな英語くらいできるはずなので、ここまで多言語化する必要があるのかは不明。

 朝のカウパトーリ広場へ

 
エテラ港に面したカウパトーリ広場にはテントの露店が立つ


カウパトーリ広場の先、少し高くなっているところに赤茶けた寺院が建っているのが遠くからでも見えます。まずはそこに行ってみよう。ウスペンスキ大聖堂Uspenskin katedraali)というそうです。ロシアが実質的に支配していた1860年代に建てられた正教会のカテドラル。外観の存在感のわりに奥行きはあまりなくて、かわいい空間に装飾品がたくさん施されています。正教会の寺院というのは日本はもちろんフランスあたりでもあまり見かけないので、ちょっと印象強め。伝説によれば、普遍宗教を欲していたキエフ大公(ロシア帝国の源流、とされるがウクライナかもしれない)が、正教、カトリック、イスラームの教えをそれぞれヒアリングして、いちばんユルそうだった正教を選んだのだとかいいます。実際には中世の正教を束ねていたビザンツ帝国との関係によるものでしょう。

 
ウスペンスキ大聖堂


トラムの走る道路を300mくらい西に歩くと、今度はプロテスタント(ルター派)のヘルシンキ大聖堂Helsingin Tuomiokirkko)が姿を見せます。白さが異様に際立って存在感があります。外観はすっきりした造形ながらもファサードにはギリシア式の円柱を入れるなど、整っていてスマートな建物に思えますね。大聖堂は地平よりも何メートルか高いところに建っており、幅広のステップが刻まれて、全体がステージのようになっている。このスペースが元老院広場(Senaatintori)。フィンランドの議会は一院制で元老院というのは現在はありません。この大聖堂周辺には、立法・行政・司法の主要機関が集まっています。市庁舎も大聖堂に隣接しています。まさにフィンランドの中枢部というべき地区。

大聖堂の建物を背に、それを率いるかのような位置に立つ像はアレクサンドル2Александр II / Aleksandr II)。ちょうど中国人の団体客を乗せたバスが目の前に停まり、ヘルシンキ最大の名所に立っているのだからきっと由緒ある人物なのだろうと写真を撮りまくっていますが(邪推でごめんなさい)、台座に彼の名があるのを見て私はちょっと首をかしげました。アレクサンドル2世は第3代のフィンランド大公で、かつてのこの国の元首ではあります。しかし本職?はロシアのツァーリ(皇帝)であり、同君連合というかたちで統治するフィンランドの元首を兼ねていたということです(ポーランド王でもありました)。世界史の教科書を読んでいると、フランス革命やナポレオンのあたりから妙にロシア関係の記述が増えて、何だったらロシアがいたずらに南下政策をとるために国際紛争が起きた、みたいなトーンになっています。客観的にみてどうなのかはさておき、その時期のツァーリがアレクサンドル2世でした。樺太千島交換条約(1875年)を日本と結んだときの皇帝でもあります。1881年、テロにより落命しました。フィンランドにとってロシアとは何なのだろうと、立ち止まって司馬遼太郎みたいなことを自問してしまいました。

 
 
ヘルシンキ大聖堂と元老院広場 アレクサンドル2世の像が立っている


バルト三国の中では、リトアニアが独自の中世国家を形成して一時は大国化したが、ラトヴィアとエストニアは一度もそうした経験をもたないままロシア帝国に呑み込まれ、その支配下でようやくナショナリズムに目覚めるということでした。フィンランドは後者のパターンに近く、フィン語という独特の言語を話す集団としてのアイデンティティはあったのですが、国家化しないうちにスウェーデンの支配下に入りました。いわゆるカルマル同盟ということでデンマークの宗主権が及んだ時期もあります。18世紀後半、ロシアのエカチェリーナ2世はスウェーデンとの戦争を起こし、フィンランドの独立心を焚きつけてスウェーデンを裏切らせようとしましたが失敗。しかしその後のナポレオン戦争において、スウェーデンが強硬な反フランスの立場をとったのを機に、ロシアのアレクサンドル1世はナポレオンと結んで同国を挟撃します。この戦いに敗れたスウェーデンは長く統治したフィンランドの独立を認めざるをえませんでした。独立といっても、前述のように大公をロシア皇帝が兼ねる同君連合です。それでも、ロシアは制度や言語の同化を求めず、フィンランド議会を中心とした自治を基本的には容認しました。フィンランドは、意図せざるかたちで「独立」し、国家運営の経験をゆるやかに積むことができたともいえます。大聖堂前に堂々とした像が立つアレクサンドル2世は、いっそう寛容な態度を示しましたので、むしろ彼の時代にフィンランドの民族主義や文化運動が高まったのです。普段ヘルシンキにいるわけでもないし、こういう元首ならば歓迎ということではあったのでしょう。なおスウェーデン時代の中心都市はストックホルムの対岸に位置するトゥルク(Turku)でしたが、ロシアの統治下に入ってから、サンクトペテルブルクに近いヘルシンキに遷都し、タテヨコのすっきりした近代的な都市づくりをはじめました。

国民国家が当然の姿であるという近代の歴史観からすると、それ以前に「帝国」が多民族を従属させていたことが非難の対象になるのですが、それは後づけの結果論。アレクサンドル2世の時代までは、ポーランドにも、エストニアやラトヴィアにもかなり寛容でした。リーガのドイツ人たちがかなり後まで支配階層でいられたのは、文明化の後れたロシアにとって「西欧の窓」としての同市と、ルーツを欧州本体にもつドイツ人の存在がむしろ重要だったからです。しかしやがてロシア自身がナショナル化し、アレクサンドル2世の暗殺後に即位したアレクサンドル3世、つづくニコライ2世は、フィンランドを含む属国の同化を図る方針に舵を切ります。ニコライ2世はフィンランド語の使用禁止、ロシア語の使用強制まで制度化しますが、日露戦争に敗れて求心力を失ったのを機にそれを取り消しました。

 フィンランド国立図書館


私がフィンランドの存在を知ったのはムーミンがきっかけだったと思いますが、率直なところ地図少年にとってもマイナーな国でしかありませんでした。どんなところなのかについても関心がありませんでした。ただ冷戦時代でしたので、この国が東なのか西なのかよくわからんという多少の疑問はありました。東西両陣営を色分けした地図では、たいていニュートラルな白色だったからです。フィンランドの微妙な位置を私に教えてくれたのは、中曽根康弘首相の失言です。戦後の常識を振り切って日米同盟強化と防衛力増強を進めた中曽根首相は、防衛をきちんとしないとフィンランドみたいになると発言して物議をかもしたのです。戦後のフィンランドは、ソ・フィン友好協力相互援助条約条約を結んで(1943年)、社会主義化を免除してもらう代わりに安全保障面では事実上ソ連陣営に立つことを認めました。日本の当局が、こと駐留米軍がらみになると口をにごすのと似て、あるいは比較にならないほどハードに、フィンランドではソ連批判を抑制しました。バルト三国を接収する少し前、ソ連はフィンランドに侵攻しています(第一次ソ・フィン戦争または冬戦争)。このときはフィンランドが驚異の粘り腰をみせますが、独ソ開戦後に再開された第二次ソ・フィン戦争ではもはや英仏など西側の支援を受けられないフィンランドは孤立し、1944年ついに降伏して、東部領土をソ連に割譲することでその軍門に下りました。資本主義国のくせにソ連に依存するという「フィンランド化」は、中曽根さんのような国防推進派の人がしばしばその論拠にしました。多くのフィンランド人にしてみれば「人の気も知らないで」ということになるのでしょう。「あのとき誰も助けてくれなかったじゃん」と。

またまた司馬遼太郎的なことを申します。ロシアやソ連が大きすぎるのです。だから、その西隣に位置するバルト三国やフィンランドは、常に緩衝地帯としての役割を負わされ、都合よく利用され、都合により見放されてきたのでしょう。経済的にも強く結びついていたソヴィエト連邦の崩壊で、長くつづいた立ち位置を変更することを余儀なくされたフィンランドは、1995年に欧州連合に加盟し、以降は西欧との結びつきを強めて今日にいたります。現在ではノキアに代表されるIT産業と、優れた公教育によりその名を高めています。ここまでの経過を知ると、なぜそうした路線が採用されたのかが少しずつわかってきますね。

 
さすがIT先進国! トラムの出発案内も機能的で洗練されている(元老院広場前)


大聖堂の前、東西方向の道路がアレクサンテリン通り(Aleksanterinkaku)です。道幅いっぱいにトラムの複線の線路が敷かれているので、自動車が線路上を走るのが常態化しています。北郊に向かう2系統に乗ってみよう。3両連接の新型車両で、5割程度の乗車率です。電車は中心部を走り抜け、中央駅前を通って、やがて緑豊かな住宅街に入っていきました。車内アナウンスと電光表示はフィンランド語とスウェーデン語で、もとより理解不能。何とも見づらい地図と路線図を、車窓と見比べながら、アポロン通り(Apollonkaku)電停で下車しました。

その先の勾配を少しだけ登って、今度は下りになりました。ヘルシンキの郊外はアップダウンが激しいのに電車に乗っているときから気づいていました。団地などが目立ついわゆる住宅街ながら、とにかく緑が多いのがすばらしい。ちょこっと植えているのではなく、まるで森林の中におじゃましているような感じさえあります。道路に並行して広めの緑地があったので、その中をさくさく歩きます。そうして電停から1kmくらい歩いたところに、シベリウス公園Sibeliuksen puisto)がありました。私が知っているフィンランド人といえば、鳥人ニッカネン(1980年代のジャンプ競技の大スターで、引退後はめちゃくちゃな私生活で何度か逮捕された)とこのヤン・シベリウスJean Sibelius)くらいで、せっかく訪れているのに申し訳なし。ムーミンは実在の人物じゃないよね? 公園前の路肩には何台もの観光バスが停まっており、デンマークのナンバープレートをつけたものもありました。ちょっと交通の便がよくないのでバスツアーのほうが来やすいのかもしれません。緑地自体はものすごく広くて、半島西側の海岸にまで展開していますが、シベリウス関係はわずかなスペースで、謎のオブジェと、彼のマスクをかたどった、薄気味悪いモニュメントが置かれています。団体さんやっぱりスマホ撮影大会になっています。

 
 
シベリウス公園とそのそばの海岸公園 欧州各地からバスで団体客がやってくる


文芸の教養がなさすぎて、思想史の研究者とか欧州の専門家だと名乗るのがお恥ずかしいかぎりなのですが、シベリウスの作品で名を挙げられるのは交響詩「フィンランディア」(Finlandia)しかありません。音楽の教科書的なものを丸暗記した知識なのでうすっぺらい。たしか小学生のとき音楽鑑賞で聴いたことがあり、その後もたぶん何度か耳にしていますが、序奏部分でティンパニがあやしく連打されるところしか印象に残っていませんでした。そのため不気味なマイナーコードの曲なのかと思っていました。帰国後にあらためて聴いてみると、不気味なマイナーコードが中盤でアップテンポの長調に変わって、情熱的な勢いのまま大団円に向かうんですね。ほんと無教養・・・。この曲がつくられたのは1899年で、アレクサンドル3世がフィンランドの自治を抑圧してロシア化を進めていた時期にあたります。ほどなくロシア当局はこの曲の演奏を禁止しました。フィンランド人のナショナリズムに火がついて燃え上がっては困るからです。なるほどあの旋律は、時代が動き、民族が覚醒し、思いが爆発してすばらしい結果へとつながるというイメージなのか。シベリウス自身は1865年に生まれ、寛容な時代、抑圧の時代、第一次大戦後の独立、ソ・フィン戦争、再独立と、このページで述べてきたほとんどすべての時代を経験して、1957年に亡くなり、ヘルシンキ大聖堂で国葬に付されました。

 
乗り物大好き(ハート)


このあと何をするというあてもなく、24時間チケットもあるので、来た道を引き返すのではなく近くの停留所でバスをつかまえ、どこに向かうのかまったくわからないまま乗ってみました。都心方向に行けば御の字だったのだけど、どうやら別の郊外に向かうらしいことがわかり、途中で降りてトラムの電停まで歩きました。期せずしてヘルシンキの住宅街をゆたゆた散歩することに。前述したようにアップダウンがかなりあるので、地形としては横浜あたりの団地群に近いものがあります。ただ、こちらは緑の量がハンパない。エラインタルハ(Eläintarha)なる電停は、たまたまトラムの結節点になっているようです。一周路線の西半分がさきほど利用した2系統、東半分が3系統なので、後者を選択して都心に戻ります。全体としては下り勾配ながら、さまざまな施設や学校なども車窓に見えて飽きません。坂の町ではトラムが大事な役割を果たすというのは、これまで欧州各地で見てきたとおり。先生に引率された小学生のグループが乗ってきて大騒ぎしています。電車は楽しいよね〜。

ぐるりと一周する感じで元老院広場電停に戻り、1ブロック南のカウパトーリ広場に行くと13時。予想どおりこの時間には大勢のお客が集まっています。簡易食堂はどこも同じようなもので、シーフードや肉を鉄板で焼いて、サンドイッチにしたりプレートで供したり。お花見の時期に上野東照宮の参道に出る大型屋台みたいに(こんな実例マニアックすぎて知らんでしょ。私お気に入りなのです)、調理台の奥に簡素なイートインスペースが設けられています。そのうちの一軒をのぞいて、サケだかマスのプレートを頼みました。€12とそれなりの値段。おねえさんは北海道のちゃんちゃん焼きみたいに、2枚下ろしの状態でどかーんと焼き、それをコテで切り分けてお皿に盛りました。つけ合わせを選ぶようにといわれたので、ブロッコリーやニンジンなどのソテーを指さしてオーダー。いかにも屋台風の雑な料理ではあるけれど、魚は新鮮らしくけっこう美味しいよ。日本の上品な「焼き魚」とは対極にあるかもしれないけど、こういうほうが好きな人もきっといます。

 
 


昼ごはんを終えたあとは落穂拾い的にちょこちょこ動きます。カウパトーリ広場の南側に、欧州ではわりによく見る屋内市場Vanha Kauppahalli)があります。生ものを買うわけにもいかないので見るだけですが、こういうところは非常に楽しい。思ったほど観光色はなくて、普通の八百屋さんとか魚屋さんが営業しています。魚の多くは、さっきの鉄板焼きみたいにでかい身のまま並べられていて、日本式の「切り身」とはサイズがかなり違います。よさげなワインバーもあって、後ろ髪を引かれるけれど、いまはやめておこう。そのあとトラムに乗って中央駅方面に向かい、フィンランドの大手百貨店ストックマン(Stockmann)でお買い物! いいのがあったので、タリンにつづいてまたネクタイ買ってしまいました。大型デパートだけあって、地下の食品コーナーはかなり充実しています。Made in Finlandを丹念にチェックした上でお土産を購入。ま、フィンランド産ということもそうですが、フランス語やドイツ語とも明らかにテーストの違うフィンランド語の表示を見ていただくだけでも、「行ってきたよ」というのが伝わるんではないですかね。古い建物のせいか売り場の通路がごちゃごちゃしていて、そこがまたいい感じでもあります。

  屋内広場
 ストックマン

そうそう、ストックマンに行く途中でまた見つけてしまいました。ガントレットgantlet)! 日本ではもう見られない幻の線路配置で、路盤の幅が狭いため複線の線路を一部分だけ単線にしなければならないのだけど、分岐器をつけると複雑になるので、上下線を8割ほど重ねるようにします。ていうか写真見て! 鉄道マニア、それも配線テツとか施設テツ以外には何も響かない件ではあります。プラハで見つけて興奮したのはもう4年前。その後、リスボンでも見かけましたし、半年前にはドイツのマンハイムで見つけてうなりました。欧州でもそれほど多いわけではないと思うのですが、私のように純粋にトラムを愛する心があれば、テツの神様がめぐり合わせてくださるのです。ただ、お天気の神様のほうは気まぐれらしく、ヘルシンキ見学が終わりに近づきつつあるころ、急に晴天に。

 ガントレット(単複線)

 カウパトーリ広場の「乙女の像」


15
時ころホテルF6に戻って、預けていた荷物を請け出しました。晴れてきたのだしまだまだ活動できそうですが、疲れも出てきたので早めに空港に移動することにします。前述のように早朝出発便になったため、航空券が確定した段階ですぐに空港ホテルを予約しました。もともと高めのフィンランドで、空港内とあればさらに高く、私としてはかなり高めの€177.30でヒルトンを取っています。イビスとかベストウェスタンとかノヴォテルとかないのかね。せっかく上等なところに泊まっても早起きしなくてはいけないのでもったいないことは確かです。ま、早めにチェックインしてのんびりワインでも飲もうかな。

空港へは、中央駅前からアクセス・バスが出ています。フィンランドのフラッグ・キャリアであるフィンエアー(Finnair)がこのバスを運行している由。運賃は€6.50で運転士に直接払います。女性の運転士さんが「利用される航空会社は何ですか?」と訊ねてきたので、ルフトハンザだと伝えると、「それでしたらターミナル1でお降りください」と。本当は空港内に1泊するので「ヒルトンに近い停留所」を訊ねるべきなのでしょうけれど、広い空港だと聞いているので位置関係の下見を兼ねて、先に明朝のチェックインカウンターを見ておくことにします。バスは郊外の停留所でお客を拾ったあと、ハイウェイに入ってびゅんびゅん飛ばし、30分ちょっとで空港に着きました。ここも北欧らしくスマートな外観と内装・・・ と思ったものの、国際空港で野暮ったいところはあまり見たことがありません。


フィンランドの空の玄関、ヘルシンキ・ヴァンター国際空港Helsinki-Vantaan lentoasema / Helsinki-Vantaa Airport)は、首都北郊15kmほどのところに位置します。ターミナルビルは12があり、市内から行くと1が手前なのですが、こちらは主にスターアライアンス各社が使用。スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの合弁企業である北欧の翼スカンジナビア航空(SAS)もスターアライアンスなのでこちらを使います。2のほうがメインで、ここをハブにしているフィンエアーをはじめ、ワンワールドとスカイチームが使用しています。パリ・シャルル・ド・ゴール空港で、古くて使い勝手の悪いターミナル1にわがスターアライアンスが押し込められているのと、レイアウト的には似ていますけれど、ヴァンターの12は直列つなぎになっていて、濡れずに歩けるみたいです。

ターミナル1でルフトハンザのカウンターを確認してから、表示に従って2をめざしました。1本の長い通路なので迷いはしないけど、まあ遠い。でっかい飛行機を並べる空港のターミナルなんだから、そりゃ遠いわな。ターミナル2はこの先だとわかりますが、肝心のヒルトンがそちらの方向でよいのか微妙だったので、長い通路の途中にあったインフォメーション・デスクで訊ねてみました。すると、2を通り越していったん表に出て、さらに先に進んでくださいとのこと。ターミナル2の建物内にもホテルはありますが、そっちはさらに高いので、若干ヒヨった経緯もあります。ターミナル1からゆうに15分以上かかって、ようやくヒルトン・ヘルシンキ・エアポートHilton Helsinki Airport)にたどり着きました。さすがヒルトンで、エントランスもレセプションもラウンジもすごく立派ですが、ホテルまでのアクセスが従業員通路としか思えない粗末な通路なので少し笑えます。前払いでチェックイン。空港ホテルはモーニング・コールがデフォルトらしく、何時にしますかと訊ねられたので、3時半にとお願いしました。部屋はしっかりしていてバスタブもついていますが、いうほど上等ではなく、ビジネスホテル並みというところで、€177は場所代だとみておきましょう。

 
 ヒルトン・ヘルシンキ・エアポート


空港内に入ってしまうと、とくにすることがなくなります。朝も早いことだし、とっととパッキングして、酒飲んで(これは要るのか?)、寝よう。ただ、欧州屈指のハブ空港と聞くヴァンターの見物をもう少ししてみたくて、キャリーバッグを引きながら歩いてきた通路をもう一度、ターミナル1まで行ってみました。ヒマね。計算外だったのは、航空券なしで入れる非制限エリアにレストランのたぐいがほとんどないことです。羽田でも成田でも関空でも、ド・ゴールでもヒースローでも、かなり多くの飲食店が手前側にあるのに、ここは簡素なカフェテリアと軽食堂、ケンタッキーやスターバックスがあるくらいで、まともに食事できるところがありません。もしかすると、ヘルシンキやフィンランドに用事がなくここを乗り継ぎポイントとして利用する流れが強いので、旅客があまり非制限エリアには出てこないのかもしれません。まさに乗り継ぎ用としてここ数年使いまくっているフランクフルト空港のことを、乗り換え専用の西船橋駅に喩えていますが、都市の求心力でいえばフランクフルトにはるか及ばないはずですしね。

長いことANAユーザーだった関係でスターアライアンスばかり利用しています。ここヘルシンキから帰国する際には、JALやフィンエアーなどワンワールドのほうがはるかに便利。なぜなら、地球儀を上から見ればわかるように、日本から見ていちばん手前の欧州がフィンランドなのです。そのためヘルシンキ・ヴァンターは、アジアと欧州を結ぶハブ空港であることを意識して設計されています。スターアライアンスの場合、いったん逆方向のフランクフルトに飛んで、そこからANAという無駄な動きが生じて、所要時間で67時間くらい損します。夜中の3時半に起きてずっと飛行機に乗りつづけるのだからご苦労なことです。

 


本式の食事をするならホテルのレストランという手がありますが、値段はともかく、紙でなく布のナプキンを使うようなフレンチを1人で食するのは気乗りしない。やむなくスタンドで€4.50のホットドッグを買ってばりばり食べ、別のカフェに移って0.5Lの生ビールを爆飲みします。アルコール規制も空港内は例外扱いなのか、構内のキヨスクは酒類も充実していて、缶ビールとワインのミニボトルを買って部屋に戻りました。空港というのはどことも機能優先で無国籍的だし、泊まりがヒルトンで、窓から見える景色は空港施設ばかり。今回の遠征の主題がバルト地域であったことを危うく忘れそうになっています。ともあれEU加盟国28のうち19ヵ国目の訪問を果たしました。ナショナリズムの克服をといっていながら国の数にこだわって見えるのは便宜的なものだと思ってください。英国が実際に離脱したあとでどのように展開するのかまったく不透明ですが、欧州の叡智に期待するしかないですね。

ロシアに隣接し、ゆえに近代に入ってからは緩衝地帯としての宿命を負わされてきたバルト地域(フィンランドを含む)は、私が軸足を設定しているパリから見れば、たしかにかなり遠い。欧州というのはそこまで拡大、拡張してきました。多様性の多様ぶりがいっそう顕著になり、有力国とか有力民族だと自覚していた人たちがますます相対化されていきます。そのくせ経済力については有力国のそれに乗っかろうとします。欧州って、何なのだろう。いままで何であって、これから何であろうとしているのだろう。

 
ルフトハンザのエアバスに乗って(フランクフルト経由で)東京・羽田へ帰ろう  朝のフィンランドは美しい緑と水の世界でした


レセプションからのモーニング・コールを待つまでもなく3時ごろに目覚め、ゆとりをもってターミナル1のチェックインカウンターへ。ANAなど日本の航空会社は、国際線に関しては搭乗の2時間前までにチェックインしてくださいと、おそらく用心を含めて案内しています。経験上も、それくらいの余裕がないとまずいのはわかります。ただ、早朝645分発の便に乗るには何時に行けばいいのだろう。遠征に出るとき羽田のチェックインカウンターで、ANAの地上係員さんに聞いてみたところ、「さあ、私どもは2時間前とご案内しておりますが、ルフトハンザさんは・・・」と正解を知らない様子でした。同じアライアンスなのだから電話して聞いてくれるくらいの配慮があってもよさそうですけどね。前夜あらためて空港のサイトで出発案内を見ていたら、ルフトハンザは出発40分前までにお越しくださいとドライなインフォメーション。それはそうだよね。フランクフルト行きは「国内扱い」なのだし。

西欧あちらこちらを、もう10年も書きつづけています。ボーダーレスな欧州を満喫し、うらやんで賞賛していた初期の記事がなつかしいほどに、最近ではこの先どうなる的な書きぶりになっているのを自分で承知しています。フランスやドイツの人が不安がるほどだし、現に英国人は動揺しまくってあのような答えを出してしまった。同じEU加盟国でもラトヴィアやエストニアやフィンランドなどの「小国」の人たちは、いっそう「私たちにどうにかできる話かね。運命の問題では」と考えるのかもしれません。でも他方で、大国に翻弄されアイデンティティがぐらぐらになってきた近代の経験が、欧州全体、世界全体にとっての希望になることだってあるように思います。

バルト2/3プラス1 おわり


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