Les Balkans 2017: la Bulgarie et la Roumanie

PART1

 

 

シャルル・ド・ゴール空港からエールフランスで約3時間、行く先はもちろんEU加盟国。いつもとさして変わらない設定ながら、気分的には何となく「はるばる」感があります。もちろん欧州での拠点にしているフランスのパリから物理的に離れているという事情があるにはあります。EU加盟国ながらシェンゲン協定の適用外(加入準備中)ゆえ入国審査を伴うとか、ユーロ圏でないとか、いろいろと説明することもできます。この10年ほどのあいだに東欧・スラヴ史に関する書籍もずいぶん読みましたが、それでも高校生のときから30年以上も学んでいる西欧史の蓄積にははるか及ばないから、この地域の歴史や文化や風土に関する知識が薄いということも、「はるばる」感の一因ではありましょう。そして、これはいまの50代以上の人ならば共有してくださるであろうことですけれど、ここは1989年まで社会主義圏のど真ん中でした。鉄のカーテンの向こう側は、本当に見えなかった。それも、ソ連や東ドイツ、チェコあたりならば情報もそれなりに入ってきていたものの、それ以外の衛星国については国名以上の知識がほとんど皆無に近かったのです。

7割くらいの座席が埋まったエールフランス319便は、Flybe、ブルガリア航空、KLMオランダ航空とのコードシェア便とアナウンスされています。KLMはエールフランスと同一会社の別ブランドで、白木屋と笑笑、ドトールとエクセシオールの関係みたいなものですからよいとして、Flybeは英国の格安航空会社(LCCという概念ができる前にすでに路線網を構築しており、LCCではないとされる)、そしてブルガリア航空はその名のとおりブルガリアのナショナル・フラッグ・キャリアです。それにしては「機内の言語」という表示にあるのはフランス語、英語、イタリア語、スペイン語でブルガリア語は記されていません。見た目で民族を見分けられるわけではないが、乗客の半数以上はブルガリア人のようだけど、まあパリに来ている(住んでいる)のであればブルガリア語の記載はなくてもいいのかな。826日(土)1225分発のところ、少し遅れて45分ころエプロンを離れました。前述のようにシェンゲン圏外に向かう便のため、シャルル・ド・ゴールで出国審査を済ませました。2月のクロアチアにつづいてシェンゲン圏外行きとなります。フランスとの時差がプラス1時間ですので、時計の針を進めておきましょう。現地時刻の1630分ころソフィア空港Летище София / Sofia Airport)に降り立ちました。

 
 ソフィア国際空港に到着 さっそくキリル文字が!


ターミナル・ビルの規模はザグレブと同程度で、欧州の首都にしてはさほど大きく感じられません。すぐ入国審査。このところまたも物騒な事件が相次いでいて、全般にチェックが強化されていると聞いていますが、とくに何かを聞かれることもなく入国スタンプを押されました。非制限エリアに出てきて最初にするのは現金の入手。ATMVISAカードを差し込んで50レヴァ紙幣5枚を受け取ります。ユーロ圏以外に来るときは「次回」がないつもりでぎりぎりの金額を請け出したいのです。でも物価の相場がわからないから何ともいえんね。この国の通貨はブルガリア・レフ(лев ラテン文字転写ではlev 略号Lv)ですが、スラヴ語は複数形が -sではないのが厄介で、レヴァ(лева / leva)となります。欧州連合加盟国ですのでゆくゆくはユーロに統合される方針で、レフはユーロに対し€11.95583 Lvで固定されています。ユーロの相場感は慣れたものですので、€12 Lv、値札の数字を半分にすると覚えておけば間違いありません。

ブルガリア共和国(キリル文字Република България / ラテン文字転写Republika Bulgarija / 英語Republic of Bulgaria)にやってきました。今夏は、首都のソフィアから陸路で国の真ん中を横切って、ルーマニア領に入り、ルーマニアの首都ブクレシュティ(ブカレスト)をゴールと決めています。12年目を迎えた西欧あちらこちらも、いつしかEU加盟国コンプリートの様相を呈しており、このブルガリアは私にとって22ヵ国目。残りあと6ですが、商店街のスタンプではないのでコンプリートしたところで自己満足以外には何もありません。ただ、欧州という広いようで狭い、狭いようで広い地域のさまざまな国を歩いていると、世界とか社会というのを複眼的に見る視点みたいなものがしっかりしてくるような気はします。教育者としては何より必要なものではないでしょうか。と、いう言い訳を用意しながら、今夏もバカンス。

 地図出典 http://www.sekaichizu.jp/  

 
ソフィア空港ターミナルの外観


飛行機が高度を下げてきたときも窓から外を眺めて思ったのだけど、すげ〜田舎の景観だなあ。ソフィア空港は比較的都心から近いことで知られていますが、それでこの伸びやかさだと、ソフィアもローカル都市然としているのかも。いつものように、ホテルまでの道筋と最小限の治安情報以外はほとんど予習していません。ブルガリアや、このあと向かうルーマニアはEU加盟国の中では治安がよくないことで知られており、そこはちゃんとチェックしておきますけれど、町の様子なんかをストリートビューで事前に調べるのはまったくもって意味不明。旅行する値打ちが半減するじゃんね。

地下鉄はこちらという足許の矢印に従って歩くと、ターミナル・ビルの外に出ました。20mくらい歩いたところにMの意匠を掲げた地下鉄(метро)の入口があります。たしかリスボン空港がこんな感じで、せっかく地下鉄を空港に乗り入れておきながら屋根の下でつなげないというのは残念なことです。都心からの距離が近く便利だといわれる福岡空港も、地下鉄の入口がなぜかビルの自動ドアを出たところにあり、不親切のような気がする(1993年まであった旧羽田空港もそうだったね)。どうやら地上駅のようで、入国審査からここまで段差なしで歩いてこられるのは立派。駅の雰囲気としては、伊丹空港に接続する大阪モノレールの駅みたいな感じです。自動券売機があり、英語も表示されますが、1回乗車1.60 Lvとのことで手持ちの50 Lv紙幣では購入できそうもありません。窓口にいる中年の女性駅員に紙幣を示し、これを使えますかと訊ねたら、バス整理券のようなぺらぺらの切符とおつりをくれました。いわゆる軟券ですがバーコードが印刷されており、自動改札機の読み取り部分にタッチして進むことができます。これまた段差なく、カマボコ型の屋根をかぶせた採光のよいホームに進みます。すぐにやってきた車両は、アイボリーの車体で路面電車みたいなフェイスをしていました。日本では正面に貫通扉を設けなければ地下鉄の基準を満たさないのだけど、ここのは一枚窓ね。

 
 


下車するのは12番目のセルディカСердика駅。市の中心で、地下鉄の主要路線が交差する地点なので、札幌でいう大通、名古屋の栄、福岡の天神に相当する場所のようだけど、そこまで規模がないだろうと予想しています。地図で見たところ、そこで降りれば予約したホテルまで徒歩10分くらいで、地下鉄で都心まで移動できるのはやっぱりいいですね。いまどきの電車なので車内の掲示板に次の駅が示され、西欧ではなかなか聞けない自動音声もありますが、何しろブルガリア語というのは何一つ解しませんし、キリル文字も読めない。幸いなことに英語(というかラテン文字転写)の表示も出てきました。途中までは、空港のつづきの田園風景の中、シェルターに覆われた地上の線路を走ります。札幌の地下鉄みたいです。そのうち地下に入り込みました。25分ほどでセルディカに到着。地下鉄の駅や車両の感じは日本の各都市とさほど変わりません。

 
地下鉄セルディカ駅


地上に出てみれば、目抜きと聞いたヴィトシャ通りбулевард Витоша)の北端付近で、ドーム状の聖ネデリャ教会を少しだけ迂回するようにトラム(路面電車)も走る道路が通っています。どの都市でもいいポジショニングのマクドナルドの四つ角でトラムは左右に分かれました。ここから先は歩行者専用道。西欧の町は中心部の目抜き通りをこのようにしているところが多いですね。と、いつものようなことを書きそうになりましたがここは欧。18時になろうとしていますがまだまだ明るく、ヴィトシャ通りの雰囲気はとても開放的でいい感じです。両側には飲食店が屋根つきのテラスを張り出し、たいていのところでテーブルは埋まっていて、わいわいがやがやという音も聞こえてくる。東欧とかブルガリアと聞くと、治安の悪さや物騒な話ばかり耳にするので意外な感じもしますが、駅裏とかそういうやばそうなところに行かなければたぶん大丈夫でしょう。スラヴ系の国では、これまでチェコ、スロヴァキア、クロアチア、スロヴェニアを訪れています。町を歩く人々を見てラテン系とスラヴ系をはっきり見分ける術はないものの、ブルガリアはアジアに近い顔立ちの人が(とくに男性で)多いような気はします。

 


民族はともかく商業地の造りは西欧と大きくは違わないなと思いつつ、しかし足許がガタガタなのは気になります。セルディカ駅を出てから歩行者専用道までのあいだの歩道は舗装が凸凹で、ところどころめくれ上がっており、平らな面というのがほとんどありません。普通に歩くぶんにはかまわないけど、キャリーバッグを引いているので、下手をするとキャスターが脱輪するくらいのものです。まだ1年ちょっとしか使っていないし先の旅程もあるので、せっかくのキャスターを転がさず持ち上げて早足で。衣類の軽い夏だからいいけどねえ。歩行者専用道は一応タイルが敷き詰められていて転がせる程度ですが、それでもメンテナンスはあまりよくない模様です。

地図で見て暗記したとおり、3つ目の角を右折して少しだけ歩いたところに、予約したベストウェスタン・プレミア・トラキア・ホテルBest Western Premier Thracia Hotel)が見えました。2月のクロアチアとスロヴェニアではベストウェスタン系ばかり利用しましたが今回も。この系列のホテルが立地する場所はだいたい治安がよいというふうに見ています。4つ星なのだけど、ブッキングドットコムで予約したら2泊朝食込み€125.14(ジーニアス会員割引)と格安でした。まだブルガリアの相場感がわかりませんけれど、物価はかなり安いと聞いています。0階のレセプションは小ぢんまりしていました。予約の旨を伝えると、係の女性は滑らかな英語で応対してくれます。首都の4つ星なら当然でしょう。6年ほど前に中国の地方都市でこのクラスのホテルを利用したとき、ホテルマンの誰ひとりまともな(それもごく単純な)英語を話さなかったのを思い出します。最近は変わっているのかどうか。ホテル名のトラキア(Thracia)というのは現在のブルガリア東部から欧州大陸南東端のイスタンブール付近にかけての古名で、ローマ帝国の属州の名前にもありましたね。部屋は広く、シックな内装で落ち着いています。アメニティなども申し分ありません。

 
  トラキア・ホテル


サマータイムで日没は20時過ぎらしく、まだしばらく明るい時間がありそうです。この日はヴィトシャ通り界隈を行ったり来たりして雰囲気を見よう。1845分ころ目抜きに戻りました。この道は南北にまっすぐ伸びていてずっと先のほうまで見通せます。そこにはヴィトシャ山の威容が。一神教たるキリスト教の世界ですので山がご神体ということはなかろうけど、おそらく都市づくりに際して、この特徴ある山に向けて道路を通したのは間違いないでしょう。ヴィトシャ山の最高地点は標高2,292mとかなりのものです。福岡の、私の実家あたりから見える油山(あぶらやま)は、これもやはり平らなところの先にどかんとそびえる特徴的な高みだけれども、600mにちょっと足りない程度。首都の真ん前に2000m級の山ってなかなかすごい景観です。このソフィア自体が550mほどの位置にあり、欧州ではスペインのマドリード(655m)の次に高いところにある首都ではあります。5月にちょっとした取材で富山を訪れたとき、町のど真ん中から雪をいただいた北アルプスがすぐ近くに見える感じをとても気に入りました。ソフィアもすばらしいですね。

 
 


ホテル名になっている属州トラキアのことを申しましたが、トラキアは現在のブルガリアの東部で、このソフィアは属州ダキアに属しました。ダキアはドナウ川下流域地方で、大半が現在のルーマニア領にあります。帝国後期になるとダキア・メリテラネア(Dacia Mediterranea 地中海ダキア)が分割され、セルディカという都市名だったソフィアがその中心都市になっています。私、日欧ともに古代史がわりに苦手なのですが、ローマ帝国がらみの本はけっこう読んでいて、属州の名前にはなじみがあります。これまでうろうろしてきた欧州の大半はローマ帝国の域外、当時でいう「蛮地」にあたるわけで、いまようやく帝国版図の真ん中にやってきたなと。ローマ帝国は4世紀末に東西に分裂し、東はビザンツ帝国の別称をもって15世紀まで永らえました。14世紀以降はイスラームを奉じるオスマン帝国がバルカン半島に進出し、19世紀半ばまで実効支配しましたので、ブルガリアなる国家が存在したのは中世の一時期と、19世紀末以降に限ってのことです。現在の首都ソフィアは、東西に長い長方形をした国土の西辺に近いところに偏っており、セルビアとの国境まで50kmちょっとしかありません。トラキアではなくダキアに属していたことでもわかるように、ブルガリアというまとまりの中心にするには多少無理がある位置です。ただ、中世初期に司教座が置かれて以来、キリスト教(ギリシア正教)の拠点でありつづけ、寛容を旨としたオスマン帝国の統治下でもそれは変わりませんでしたので(オスマン帝国は正教会をバルカン半島統治のシステムに組み込んでいた)、近代になってその求心性が高まっていったのではないかと思われます。

ソフィアが近代ブルガリアの首都になったのは1879年。露土戦争でロシアに敗れたオスマンはブルガリアなどから撤退、バルカン半島の多くを失いました。そのあとの歴史については後述しますが、民族・宗教・言語の多様性があったはずのバルカン半島でも国民国家化が指向されたため、それなりにいたはずのイスラーム教徒はいまほとんどみられず、支配層で話されていたギリシア語やトルコ語もどこかへ行ってしまいました。ただ、スラヴ系であるはずのブルガリア人の顔立ちがトルコに近いというのは、そうした歴史の反映だと考えられます(言語はスラヴ系だが血統はおそらくトルコ系が濃い)。EU加盟国を優先しつつ欧州各地を回っているわけだからいずれそうなるのは当然ながら、ついに「トルコの隣」まで来たのかという感じはあります。サッカーでは欧州枠に属するトルコですが一般的にはアジア側でカウントされますし、その「反対側の隣」にはシリア、イラク、そして滅亡寸前と報じられるISIL(自称イスラム国)まであるわけなので。

 
ブルガリア広場と文化宮殿 屋上広告が妙にアメリカンで東欧っぽくない(笑)


歩行者専用のヴィトシャ通りはホテル付近から南に300mほど進んだところで終わり。その先はブルガリア広場(Площад България)という方形の公園、そしてその奥に国立文化宮殿Национален дворец на културата)という大きな建物が見えます。劇場や会議場などの入る総合センターである由。土曜の夕方、というか夜なので、目抜き通りも公園も、おそらくはいつも以上に人が出て思い思いに過ごしているのでしょう。湿度が低く、気温も20度台半ばくらいで、半袖であればきわめて快適に歩けます。

 
ヴィトシャ通りの一筋裏あたり 右は学校だと思うのだけど、広告の入り方が微妙・・・


ヴィトシャ通りに引き返しますが、せっかくなので裏道をじぐざぐ。地図を見るとソフィアの中心部はきわめて計画的に造られており、縦横の筋がほとんど直交しているので、迷うことはなさそうです。もう少し詳しくいうと、地下鉄を降りたセルディカ駅付近を中心にいくつかの主要道路が放射状に出ていて、ヨコ筋はおおよそクモの巣の横糸みたいな感じでそれらを結んでいます。建物などを見ても、どこまでが社会主義時代なのかは判然としません。ヴィトシャ通りの商店や飲食店などを見るかぎり、キリル文字のほかラテン文字の表記も目立ちます。店名などは日本でも英語などで表記する場合が多いので、こちらにもそういう傾向があるのでしょうか。

静かな裏通りを抜け出してヴィトシャ通りに戻り、セルディカ駅あたりまで行ってみました。放射状に伸びる別のタテ筋を進むと見どころがいろいろあるのを承知しているのですが、もう夜なので、明日を期すことにしよう。中心部とはいえ、道路が広く、さほど高い建物もないので、ゆとりが感じられます。

 
水タバコ屋さんとローズ関連ショップ


ブルガリアの首都だけあって、名物と知るローズのお店があちこちに。もちろんバラの生花を売っているのではなく、ローズ・オイルを使った商品を並べています。着いたばかりだけどお土産を買っておこう。あすは日曜で、この手のショップが開いているかどうか定かではないし、月曜からは地方遠征に出るので当てになるかどうか。ほしいものは見かけたときに入手しておくというのが旅行の作法ですよね。売られている商品がそうだからなのか、コスメ屋さんのような雰囲気の路面店に入ると高価なものから安価なものまでいろいろな関連商品がずらり。計画経済だった時代には、こういうのはどうだったんでしょうね。お土産をいくつか購入しました。品質のよしあしはともかく「ブルガリアに行ってきました」感は絶対にあるな。

まだ明るいけど20時が近づいたので、どこかで夕食をとって散策を打ち上げよう。いつもの「西欧流」だと、目抜き通りと直交または並行する細めの道沿いにレストランを発見することが多いので、ここでもその手で探してみようかな。「地球の歩き方」とミシュランのフランス語のガイドブックはあるけど、そんなものを町なかで開いて探すのは上級者のプライドが許さない(!)。いくつかの筋をのぞいてみてもなかなか見つからなかったのですが、ホテルの面した道の、ヴィトシャ通りの反対側あたりに、それらしい看板を見つけました。近づくと英語(本来はフランス語)でレストランの文字が見えます。地下に降りていく造りのようで、代表的なメニューなどが入口に掲出してありました。客引きらしいおねえさんが出てきたので、ブルガリアン・ディッシュですかと訊ねると、「イエス、トラディショナル」と。それではお世話になりましょう。店名はРесторант Хаджидрагановите изби。こうやってキリル文字をタイプするだけでも大変なので読み方は勘弁してね(汗)。あ、Pではじまる前半は「レストラン」です。その昔のソヴィエト連邦(USSR)をロシア語ではCCCPと略記し、エス・エス・エス・エルと読むんだよと教わっていたので、PRCSに相当するのはうっすら憶えていました。

 
 


地下のホールに通されると、内装はやたらに民芸調の造り。ブルガリア語と英語を併記した立派なメニュー冊子が運ばれました。品数はかなりありそうです。何がこの国の名物という予備知識はなく、何となく豚肉関係かなと思ってBulgarian Dishes from Porkなるカテゴリから探しましょう。日本の飲食店の英語メニューもそうだけど、現地ではわかりきった料理名を英語では散文で説明するため、かえって全体のイメージがつかみにくいかもしれません。たとえば、いまどきTempuraならば通じるでしょうが、Tendonだったら「揚げられた天ぷらをライスにトッピングしてソイ・ソース系の甘辛いソースを添えたもの」みたいになるはずです。むー。で、英語でSpicy Pepper tepsiaなる品を指してオーダーしました。スマートな男性店員はそれなりにこなれた英語で、「イエス、これはブルガリアの伝統的な料理で、おすすめのものです」と。おーよかったよかった。散文の説明は、spicy shish kebap from pork meat and spicy pork sausage, served with garnish of grilled onion, potatoes with spices, boiled beans and seasonal saladとあります。意味は100%わかりますが、さりとてこれがどんな料理なのかは見てみるまでわからん。生ビールを頼んだらよくある普通のラガーで、0.5Lでした。店内はほとんど満席で、わいわいとにぎやか。何人もの店員さんが料理の皿をもって行ったり来たり、きびきび動いています。どれも大皿で、どこかのテーブルに運ばれたサラダはとくに巨大、おそらくグループでシェアする前提なのでしょう。メニューを見ると、あらゆる料理名の横に、価格とともに重量(g)が記されています。このあとブルガリア各地ですべてそうだったので、この国のルールなのでしょう。私の頼んだシシケバブは350gとのこと。もちろん肉だけでなくサイド・メニューごとの重量でしょうが。

10分くらい待って、私の料理も運ばれてきました。ピザに用いるような白木のお皿に、シシケバブとソーセージが串ごと突き立てられ、立体的なビジュアルです。と、店員さんは大きなフォークのような道具で串を外すパフォーマンス。そうとわかっていれば立体のときに写真を撮らせてもらうんだった。おすすめの伝統的ブルガリア料理とはいうものの、私たちの知識では中東あたりのメニューですよね。とくにトルコのイメージがあります。トルコはすぐ隣だし、何といっても旧宗主国なので、文化的にもかなり混じり込んでいるのは間違いありません。もとよりイスラーム圏では豚肉を食べることはありませんので、そこはバルカン流。もつ焼き屋さんで供される豚のつくね串焼きだと思えばよく、赤みがかすかに残る絶妙な焼き加減でかなり美味しい。ソーセージのほうはフランクフルターに近い味です。つけ合わせは説明どおりに、焼いた輪切りタマネギ(冷たくなっていたのが残念)、フライドポテト、チリ・ビーンズ、そしてオイルまみれのキャベツ。英語の説明に3ヵ所もスパイスと出てくるとおり、やたらにスパイシーです。香辛料大好きなんだけど汗かきなのですぐ鼻の頭が湿ってくるんだよね。焼いたシシトウみたいなのもついていたので、ちょっとかじってみたら、かなり辛いやつでした。ともかくビールに合う料理であることは確かです。


ポテトをかなり残しましたが、十分に満腹して、食後のエスプレッソを頼みました。そろそろ〆かなと思っていたころに、威勢のいい男性3人が楽器を携えて入ってきました。ことばは理解できませんが、あちこちで類例を見てきているので何がおこなわれるのかはわかります。音楽を演奏してチップを得る人たちね。楽器はアコーディオン、縦笛、太鼓。最初に奏でたのは三連符がやたらにたくさん出てくるノリのいい曲で、店内のお客さんたちも手拍子で合わせます。民族音楽なのかな? けっこう上手な演奏で、地下ということもあり音響も上々。そのあと職場の飲み会のような若いグループに近づき、リクエストをとって、1曲を演奏しました。これも楽しい曲。今度は私の斜め後ろにいた10人くらいのグループに近づきました。あれ、こんな小上がりみたいなコーナーがあったんですね。しかも全員が東洋人――明らかにコリアンの顔立ちです。ほとんどが中高年の方で、韓国からブルガリアに団体旅行ということなのか、こちらの関係者なのか。まさか旧共産圏だからって北のほうの人ということはないよね? やがてトリオはゆっくりとした三拍子の曲を奏ではじめます。おじさん、おばさんたちは、さほど上手ではないが明瞭な声で、おなじみのアリランを唱和しました。陽気な曲のリードを吹いていた縦笛が、今度はアリランのどことなく哀しげな旋律をたくみに表現していて見事。おそらく各国のメジャーな音楽を勉強していて、観光客などのリクエストに応えられるようにしているのでしょう。ブルガリアの首都でアリランを聴くとは思ってもみませんでした。こちらにリクエストの番が回ってきて日本の歌などを求めれば、それこそ火薬庫(バルカン半島の暗喩)にまで来て要らぬ問題を起こしかねないので、盛大な拍手の中をそっと抜け出して階段を上りました。出口のところに立っていたおねえさんがタブレットを示し、感想などを選択してタップしてくれと。たしか全部よいように押したと思う。料理が14.80Lv、ビールが5.60Lvで計20.40Lvでした。エスプレッソは勘定しそこなったのかな? €12Lvですので、値段は西欧の半分くらいの感じがします。ごちそうさまでした。

表に出ると、さすがにもう暗くなっていました。ヴィトシャ通りはそれでもまだにぎわっています。ホテル近くの酒+タバコ屋さんがまだ開いていたので、缶ビール(0.5L1.80Lv)とミネラル・ウォーターのペットボトル(0.5L0.55Lv2本)を購入して持ち帰りました。


8
27日(日)もすがすがしい晴天です。8時ころ1階(日本でいう2階)のダイニングで朝食をとりました。パンやおかずのラインナップ、朝食のシステムなどは西欧と同じです。サービス係の応対もスマートでいうことがありません。周囲のテーブルを見渡すと白人の欧米人ばかりですが、聞こえてくる言語はいずれもブルガリア語ではなく、ドイツ語、フランス語、スペイン語。ブルガリアはちょうど10年前の2007年に欧州連合(EU)に加盟しました。率直にいって政治も経済も社会も西欧のレベルにはかなり及ばないため、追試というか提出書類の再作成などを求められて、ぎりぎり合格させてもらえたという経緯があります。もう少し塩分濃度を西欧に近づけることができれば、シェンゲン圏入りとユーロ導入が可能になります。EU加盟国にはなっているので、人や資本や商品などの往来はかなり活発になっていて、おそらく朝食会場で見かけた人の何割かはそうしたビジネスがらみでソフィアを訪れているものと察せられます。

部屋に戻ったら内線電話が鳴り、レセプションの女性の声で「すぐに来てください」と。何ごとかと思えば、「システムが切り替わる関係で、いまご精算いただけますか」。びっくりさせないでよ! もちろんノー・プロブレムで、VISAにて決済。

 
日曜午前のソフィア中心部 ここはたしかにEU加盟国でした


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時ころソフィア探険に出動。ヴィトシャ通りを東側に渡り越して、昨夜のレストランのそばを過ぎ、トラムの軌道が見えるグラフ・イグナチェフ通りУлица Граф Игнатиев)に出ました。ソフィアは主要道路が放射状になっていると申しましたが、この道はヴィトシャ通りに対して付け根のところで45度くらいの角度で分かれ、南東にまっすぐ伸びています。明るくきらきらしたヴィトシャ通りに対し、こちらはしっとりとした感じの生活道路。商店も渋いものが多いです。市民図書館前の広場には古書の露店が出ていて、けっこうな量の本を並べていました。道路名になっているイグナチェフというのは19世紀ロシアの外交官出身の政治家で、清国公使のとき北京条約(1860年)を締結して沿海州を獲得し、オスマン帝国に転じてロシアの南下政策の実現に尽力、1878年には露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約(Treaty of San Stefano)を締結しました。高校世界史の教科書では、この前後で急にロシアが出てきて無理くりなことばかりする印象ですけれど、その主要な出来事に当事者としてかかわっているんですね。サン・ステファノ条約で、オスマンはブルガリアの宗主権をかすかに維持しつつ、実質的にはロシア保護国としてのブルガリア公国Княжество България)が成立します。ただ、この折のブルガリア公国の領土はやたらに広く、現在のギリシア北東部とマケドニアの大部分まで含むものだったため、ロシアのバルカン半島への進出を嫌う英国やフランスがこれを批判し、調停者のような顔をしてしゃしゃり出たドイツのビスマルクによってベルリン条約が結びなおされ、ブルガリアの領土はほぼ現在のサイズに縮小されました。高校時代の世界史の先生が、両条約におけるブルガリアの領土を地図上で比較して示し、エーゲ海への出口の有無という現代の日本人から見ればどうでもいいような相違に歴史の遺恨があるのだと力説したことを思い出しました。実際に、ロシアはこれで地中海に直接海軍力を伸ばすことができなくなり、イグナチェフは失脚しました。ソフィア中心部の主要道路にその名を冠したのは、ブルガリア独立のきっかけをつくってくれたことへの謝意なのか、ロシア→ソヴィエトへの忖度(このワード2017年は大流行したな)だったのか。

 
 
グラフ・イグナチェフ通り


ともあれ世界史の教科書に登場するブルガリアは散々な国です。前述のように誕生直後に難癖をつけられて領土を削られ、ようやくオスマンの影響力がなくなったと思ったら第二次バルカン戦争(1913年)で周辺国すべてを敵に回して敗れ、第一次大戦ではハプスブルクの誘いに乗って同盟国側(ドイツ、オーストリア・ハンガリー、オスマン)について敗れ、さらには第二次大戦でもヒトラーにそそのかされて枢軸側に味方してしまいました。私なりにあれこれ勉強してみて、(1)中世の一時期にバルカン半島東部に一大勢力を築いたブルガリア帝国の歴史的記憶があり、あれが本来のわが民族の姿だという思いがあること(長きにわたるオスマンの支配下でその思いが熟成?)、(2)1878年のブルガリア公国誕生時に領土を削られたことへの強い怨念、というのがブルガリアの意地というか、戦争してまでも周囲を切り取ろうとした執念に結びついたのかなと考えています。ただ、ロシア→ソ連に対する国民感情が本当はどうなのかという点は、よくわかりません。

 

PART2につづく


*この旅行当時の為替相場はだいたい1ブルガリア・レフ=67円くらい、1新ルーマニア・レイ=28.5円くらいでした。

 


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