Voyage aux pays des Slaves du Sud: la Croatie et la Slovénie

PART4

 

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小さな町と承知しているリュブリャナに3泊もするというのはわれながらゆったりとした日程を組んだもので、そのぶん他の都市に泊まるとか、鉄道の旅を仕込むとかもアリなのだけど、そこはベテランの余裕?で今回はあえて同一地点でゆっくり過ごすというコンセプトにしています。昨夏の旅行で、リーガ→タリン→ヘルシンキという3首都を3日のうちに移動するという俊足をやって、これは少しもったいないぞと反省したのでした。そんなわけで222日(水)はゆっくり起き出して、8時半ころ1階(日本式でいう2階)のダイニングで朝食。さすが上等なホテルだけあって、ダイニングも広々として清潔だし、サービス係の対応がすばらしい。そして食べ物が美味しい。基本的にはイングリッシュ・ブレークファストの構成ですが、朝食が美味しいと、よき1日が保証されたような気にもなります。

 


この日は10時ころスタート。ホテルのある中心部から北西に1kmちょっと行ったところにある現代史博物館を最初の目標にしています。ただその前に、スロヴェンスカ通りを南に2ブロックほど進んでズヴェズダ公園(Park Zvezda)をのぞいてみました。さほど広くはないものの町の真ん中にゆとりのあるスペースがあってなかなかよい。いまは年3回のペースで渡欧していますが、もとは2月の1回だけだったので、欧州といえばこの冬枯れた感じが最もしっくりきます。今度はそこからスロヴェンスカ通りを渡って西側にある共和国広場(Trg republike)に行ってみました。シンプルな方形の広場で、その周囲に議会議事堂や大統領官邸、首相官邸があります。クロアチアのザグレブでいえば聖マルカ広場にあたりますが、こちらのほうが広くて現代的。スロヴェニアは旧ユーゴスラヴィア連邦の末期、1990年に初めて複数政党制による自由選挙を実施し、1991年の独立後はクロアチア同様に議院内閣制を採っています。欧州諸国は圧倒的に議院内閣制(Parliamental System 議会下院の最大勢力に行政権を預ける制度で、端的にいえば首相が権力のトップ。日本も採用している)が多い。英国の影響とか立憲君主制の国が多いといった事情はありますが(王様がいる民主主義国はまず間違いなく議院内閣制)、とくに旧社会主義圏では「権力をもった大統領」に対するネガティヴな記憶が強いということでもあります。

 
(左)ズヴェズダ公園  (右)スロヴェニア議会議事堂


このリュブリャナの町は非常によく整っていて、南北方向のスロヴェンスカ通りをはさんで東側が商業地区、西側が行政地区として機能しており、それでいて調和が感じられます。あまり高い建物がないのがよいのかもしれません。ザグレブと違ってトラムがないので個人的には残念ですが、この町並には不要の気もする。議事堂の並びには国立博物館や国立美術館、オペラ劇場などもあり、上野的な機能ももたせてあるのでしょう。その国立美術館のわきを進んで鉄道のガードをくぐったところがティボリ公園Park Tivoli)の入口。都心の真横に広大な緑地があるのはロンドンのハイド・パークと似た構造ですが都市の規模が違いすぎますね。犬の散歩に来ている人、ジョギングする人、そして遠足の子どもたちなど結構な人数が朝からここに来ているものの、空間が広いのでずっとひとりで歩いている感覚になります。

 ティボリ公園


緩やかな傾斜を登っていった先、公園全体の北端に近いところにスロヴェニア現代史博物館Muzej novejše zgodovine Slovenije)がありました。建物自体は18世紀の貴族の居城で、チェーキン館(Cekin grad)といいます。入館料は€3.50と非常にエコノミー。ホールの先にある階段で1階に進んだところが常設展示になっています。通路をはさんで2本の階段がシンメトリーに配置されているのがいかにも昔の邸宅ですが、その一段一段に、スロヴェニアの現代史年表が記されており、立ち止まっていちいち読んでしまいました。これはなかなかよい企画だと思う。ローマ帝国の時代からさまざまな民族や国家がこの地を駆け抜けましたが、20世紀史にこそスロヴェニアを理解するための手がかりが集約されています。

 
現代史博物館

 
 

常設展示に向かう階段が現代史年表になっている(反対側の階段はスロヴェニア語で)


第一次世界大戦終結(1918年)まで、この地はオーストリア・ハンガリー帝国の一部(オーストリア領)でした。ハプスブルクの二重帝国は敗戦を機に解体されたので、英仏など連合国はオーストリア、ハンガリーとそれぞれ講和条約を調印しています。前者がサン-ジェルマン条約(Traité de Saint-Germain)、後者がトリアノン条約(Traité de Trianon)で、世界史の試験用に覚えさせられた人もいるのでは。中欧の大帝国だったオーストリア・ハンガリー帝国が消滅し、両国はいまのような小国サイズに縮小され、その周囲にいくつもの国家が生まれました。「民族自決」というのはこの動きを正統化するための論理でした。自前の国家をもったことのないスロヴェニア人(主にスロヴェニア語を話す人たち)は、クロアチアのところで述べたように「南スラヴ民族の国をつくろう」というセルビアの呼びかけに応じるかたちで、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(スロヴェニア語Kraljevina Srbov, Hrvatov in Slovencev クロアチア語Kraljevina Srba, Hrvata i Slovenaca セルビア語Краљевина Срба, Хрвата и Словенаца)が成立します。ただこれは、オーストリア・ハンガリーとオスマンの2強大国にはさまれた位置で連合国としてよくがんばったねという意味もあり、セルビア王国が領土を拡張することを英仏などが承認したような面が強く、したがってセルビアによる接収であったともいえます。このため、とくに自立傾向のあるクロアチアが反発を強めると、1929年に国王アレクサンダル1世自身がクーデタを起こして独裁権を握り、セルビア中心主義を打ち出して、ユーゴスラヴィア王国(セルビア語Крљевина Југославија スロヴェニア語・クロアチア語Kraljevina Jugoslavija)と改称します。曲がりなりにも3民族を併記していたセルブ・クロアート・スロヴェーンがユーゴスラヴィアという単数形の国名に変わりました。私たちの世代はこのユーゴスラヴィア、略してユーゴという呼称のほうになじみがあるのですけれど、それは戦間期にクロアチアやスロヴェニアの民族性を半ば否定するものとして打ち出された概念だったわけです(ユーゴjugoは「南」で、ユーゴスラヴィアは「南スラヴ人の国」)。ユーゴスラヴィア王国はナチス・ドイツと同盟しましたが、クーデタが起こってこれが実質的に破棄され、ソ連との不可侵条約を結ぶに及び、ドイツ・イタリアなど枢軸軍の侵攻を受けてほぼ全土を占領されてしまいます。

ドイツからの解放と社会主義国家建設をめざしてユーゴスラヴィア各地で組織的な抵抗を見せたのが、クロアチアのところでも触れたパルチザン。その指導者となったヨシップ・チトーЈосип Броз Тито / Josip Broz Tito 本名はヨシップ・ブロズでチトーは愛称)は父がクロアチア人、母がスロヴェニア人で、第一次大戦では徴兵されてオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士だった人物です。職工の組合活動にかかわるようになったのをきっかけに、組合による自主管理的な社会主義体制を理想とするようになり、やがて卓越したリーダーシップを発揮してユーゴスラヴィアを解放に導きます。

 
チトーとパルチザン

 解放されたリュブリャナに入るパルチザン兵


チトーを元首として成立したユーゴスラヴィア連邦人民共和国(1963年以降ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国)は、戦後まもなくソ連と対立してコミンフォルムを追放され、前に述べたようにチトーの巧みなハンドリングで東西のあいだを泳いでいきます。ソ連に比べると各共和国の地位が高く、民族のアイデンティティが保持されたのですが、それは非セルビア人のチトーがベオグラードで指揮する「ユーゴ」だったからこそでしょう。ボトムアップ型社会主義という発想が分権的なしくみを容認したということでもあります。ただ、それが後年の分裂と相互の憎悪を招いた面は否めません。

西側フレンドリーな社会主義国として独自の地歩を築いたユーゴスラヴィアは、1980年代に入って歴史の試練に立たされます。19805月、87歳のチトーはこのリュブリャナで亡くなりました。前に述べたように日本の大平正芳首相(この1ヵ月後に急死する)や英国のサッチャー首相など世界の大物が国葬に参列し、弔問外交が展開されました。現役中は弱腰外交でとかく不人気だったアメリカのカーター大統領は参列せず、他の首脳が集まっている様子をテレビで見て「行けばよカーター」とおやじギャグを飛ばすというネタが朝日新聞の「フジ三太郎」に載ったのをなぜか強烈に憶えています。もう一つの個人的な記憶は、19842月のサラエヴォ冬季五輪のこと。日本人で期待されていた選手はスピードスケートの黒岩彰と橋本聖子(現参議院議員)くらいだったのですが、たしか学校から帰宅したら父が「銀メダルだよ」とうれしそうにいうので、おお黒岩がやったかと聞き返したら、「いや、知らない選手が」だって。期待の黒岩は入賞できず、ほとんど知られていなかった北沢欣浩が同種目で銀メダルを獲得したのでした。私、ある時期まではオリンピックが大好きで、テレビ中継があればほとんど見ていました。サラエヴォのときは中学生で、これほど長く東側の絵を見ることもなかったため、合わせて紹介される町の様子などにも深い関心をもってテレビ画面を見つめていたのです。チトーの国がたどり着いた五輪という世界的な祭典は、ユーゴスラヴィアにとって最後の輝きになりました。この8年後に勃発した旧ユーゴ最大の戦争、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争でサラエヴォの町は戦場となり、オリンピック・スタジアムは破壊されました。ボスニアについていえば、19982月の長野冬季五輪の直前に国旗が制定され、開会式の入場行進がそのお披露目になりました。ボスニア選手団が大きな拍手で迎えられた場面では、テレビの前で涙が止まりませんでした。サッカーW杯にユーゴスラヴィア代表という枠組で出場したのは1990年大会が最後で、そのときの(最後の)ユーゴ代表監督がのちに日本代表を率いたイビチャ・オシム。彼はボスニア人ですが、そのときのエースストライカーだったストイコビッチ(のちに名古屋グランパスの選手・監督)はセルビア人。もともとはユーゴスラヴィア人としてともに活動していました。浦和レッズのペトロヴィッチ監督(2017年途中で解任)はボスニア人でオシムの右腕だった人物。現日本代表監督のハリルホジッチは本来ボスニア人で、戦争で母国にいられなくなりフランスに移住して国籍変更しています。オシムが日本で会見するときには母語のセルビア語、パリに拠点を置くストイコビッチは英語、オーストリア国籍になったペトロヴィッチはドイツ語、ハリルホジッチはフランス語で話します。世界的なスポーツ選手だけでなく、この地域にはバイリンガル、マルチリンガルの人が多く、そうでなければ生きていけないという現実があったことも確かでしょうが、欧州統合やグローバル化の時代にあってそれが前向きに転化することを願ってやみません。

 
社会主義国家ユーゴスラヴィアのもとで工業化され発展するスロヴェニア


さて話の焦点をスロヴェニアに戻します。スロヴェニアはユーゴスラヴィアの中で突出して経済力のある国でした。「西欧」に隣接する地域で、オーストリア帝国時代に産業化の土台がつくられていたことなども大きいと思われます。このため、ひとたびユーゴとしての意識が緩んだりセルビアが政治的に強大化したりすると、「食わせているのは自分たちだ。スロヴェニアだけならもっと豊かな国になるのに、他の国が足を引っ張っている」といった感情を呼び起こしてしまうことになります。階段の年表にもある1974年の憲法で、各共和国の自治権がさらに拡大されたことで自立傾向が進むのですが、その反動としてセルビア人ミロシェヴィッチが登場し、ユーゴスラヴィア連邦の集権化(セルビア中心化)を進めると、いよいよ分裂は不可避になります。1989年の東欧革命の影響で連邦各共和国でも複数政党制による自由選挙がおこなわれ、スロヴェニアとクロアチアでは長年の単独与党であった共産主義者同盟は敗れ、民族勢力が主導権を握りました。当初は主権国家化しつつも緩やかな連邦を維持していこうという意向があったのですが、ミロシェヴィッチの連邦政府がこれを認めなかったため、1991625日、両国は独立宣言を発します(22歳の誕生日に、私は何をしていたのだったかな。目前に迫った教育実習の準備をしていたような)。ユーゴスラヴィア連邦軍が独立阻止のために展開し、スロヴェニア軍と戦闘に突入しますが、わずかな期間のうちにスロヴェニアの勝利が確定しました。今回たどってきたように、スロヴェニアはセルビアと直接に境を接しておらず、あいだにあるクロアチアも独立宣言したために、連邦軍が作戦を継続することが不可能になったのです。また、クロアチアやボスニアと異なり、スロヴェニアにおけるセルビア人の割合はかなり少なく、国内においてはスロヴェニア独立に反対する勢力がほとんどありませんでした。7月に入ってすぐ連邦軍は撤退を開始し、77日に停戦合意がなされました。これがスロヴェニアの十日間戦争Slovenska osamosvojitvena vojna)と呼ばれる独立戦争です。思いのほかあっさりと独立を達成した感はあるものの、この戦いこそが1990年代を通じて南スラヴ地域を悲惨な運命に巻き込む一連の旧ユーゴスラヴィア紛争の第一弾となったのです。

 スロヴェニアの独立宣言(1991年)

 
スロヴェニアのインフレーション 50万ディナールのインフレ紙幣が発行され1992年まで使用された


現代史博物館に展示された上のグラフが非常に印象的でした。1989年に入ってインフレがハイパー化しています。この時点でセルビアなどとの経済関係は切断されかかっていたのでしょう。工業化が進んでいるとはいえスロヴェニアは小国ですので、一国で経済を完結させることなどできません。いまでこそ欧州各国の結びつきが強くなっていますけれども、1989年といえばまだ東欧は「別の世界」でした。独立を果たしたスロヴェニア共和国は、旧ユーゴの仲間ではなく「西欧」をめざす道をまっしぐらに進むことになりました。ラトヴィアを訪れたとき、タクシーの運転手が「この国は西欧(West Europe)をめざしています」と力強く語っていたことを思い出します。ラトヴィアも同じようにソヴィエト連邦を支える工業地域でした。

旧ユーゴの他地域が泥沼の紛争を繰り広げていた1990年代、多くの日本人もそうだったように、私自身もスロヴェニアに注目することはありませんでした。おそらくは「西欧」化へのステップを確実に歩んでいたのだろうと思います。2000年代のかなり早い段階で、欧州の新たな国際観光地としてこの国の名前が挙がっていた記憶があります。またまた個人的なことで恐縮ですが、1990年代はほぼ私の20代にあたります。どんな職業でもそうであるように、20代は社会人としての修行の時期で、真のアイデンティティ確立に向けて動揺しまくる年代だろうと思います。黒歴史というわけではないが、しかし20代の個人的・社会的な記憶は、それ以前・以後と比べて相当に剥落しています。自分の中で思い出したくもないという部分なのでしょう。なまじ研究者という進路を選んでしまい、かなり他律的にフランスの専門家になってしまって、何のために何を学んでいるのだろうと煩悶していました。――そんなの社会人として普通だからね、と、20代の自分や、現在・未来の教え子には伝えてあげたい。30代を迎えた私に希望をもたらしてくれたのは、パリと欧州でした。初めて本格的に渡欧して数週間を過ごした1999年は、通貨統合の第一弾として、フランやマルクなどの各国通貨がユーロ(当時はまだ仮想通貨のような存在)にペッグされた年にあたります。2002年に現金もユーロに切り替えられました。昨今の欧州危機のニュースばかり見るとか、それしか知らない人にはなかなか伝わりにくいのだけど、欧州統合の原点は、2度の世界大戦を経て「もう殺し合いはしたくない」という各国(とくにフランスとドイツ)の共存への願いにあります。1990年代以降は、東西の分断という傷をいやし、欧州全体で歩んでいこうというふうにその枠組が拡大されました。方法論についてはあれこれ議論すべきでしょうが、「欧州」として進む道はたぶん間違っていない。


欧州連合加盟(2004年)とユーロ導入(2007年)


ただ、西欧あちらこちらの基本姿勢として、私は当該国・地域になるべく寄り添って話を進めるように心がけています。以上のストーリーをセルビア側から見ると、ずいぶん違った見え方があるのではないかと思います。あれほど悪者にされた国もありません。もともと同じ連邦構成国だったのに、それほどまでに善悪が分かれるなどということはありえず、戦争当時のプロパガンダとか、西側の偏見などが相当に入り込んでいることは否定できません。そのセルビアも現在はEU加盟に向けて諸条件の整備に努めています。欧州の小国にとっては、EU(とNATO)に加わってその恩恵を受けるという以外の選択肢がないのも事実。いずれセルビア、そしてボスニアも訪れることにしましょう。EUNATOは、セルビアからのコソヴォの独立というかなりデリケートな問題に直接介入し、彼らの管理下でコソヴォを切り離しました(日本を含め110ヵ国程度が承認。セルビアはもちろんロシアや中国も承認を拒んでいる)。経済支援とEU加盟をちらつかせ、権力の座から離れたばかりのミロシェヴィッチを逮捕して国際法廷にかけたのは、私から見てもかなり危険な行為でしたし、悪しき前例になりそうな感じもします。

それにしてもこの現代史博物館は小規模ながらコンセプトがはっきりしていて、展示物も充実してすばらしい。ちょっと文字数が多いかなという気はするものの、文字数を尽くさずに語れないのが当地の現代史なのかもしれません。あらゆる説明(見出しではなく)がスロヴェニア語と英語で書かれているところも評価できます。

 
フランシスコ会教会を北から見る 露店のお菓子はバルカン地方に共通するジャム入りドーナツのクラフィ(町のいたるところで売られている)

正午前に博物館を辞去して、ゆっくり歩いて旧市街のほうに向かいます。昨日は通らなかった旧市街北側のビジネス街もすっきりしていていい景観です。立ちっぱなしで疲れてきたけれど昼ごはんを食べようというほど空腹ではないので、リュブリャニツァ川沿いのカフェが出している外のテーブルにつきました。テントの脚がガスストーブになっています。風が冷たいので温暖とりまぜて不思議な感じ。以前ならば間違いなく生ビールを頼んでいたところですが、ここはヒヨってソフドリにしました。スパークリング・ウォーターを頼んだらイタリアのVoda san Pellegrinoのビンが運ばれました。ビールはアレだけどのどにびしっと通したいんですよね。眺めのよいカフェのテラスに座って€2とは安い。パリなら平気で€5くらいとります。

お昼どきなので、このあたりの飲食店はどこもにぎわってきました。パリからはじめて欧州のいろいろな場所をのぞいてきて、今回ザグレブ、リュブリャナと歩いて気づいたのは、人種・民族の多様性がさほどではないなということ。英仏独ならどこでもアフリカ系とか中東系の人、イスラーム教徒を見かけますが、そうした非欧州オリジンの姿をほとんど見ないのです。もとより南スラヴ内部での違いはあって、ゆえに1990年代にはあのようなことになってしまったわけですが、いま欧州全体を揺るがしている欧州対非欧州のような絵はほとんどない。バルト地域もそうだったな。要するに、社会主義圏を脱してようやく普通の欧州の国になったところで、移民を受け入れる段階にはまだなっていないということなのでしょう。シェンゲン協定がありますので今後は欧州域内での流動がかなりあると思いますし、バルカン半島は古来、中東と欧州を結ぶルートですから、多様性が高まってくるのではないかと予想されます。シリア情勢が悪化して大量の難民が欧州(西欧)をめざしたときには、クロアチアが通り道になり、対処に苦慮しているというニュースを見ました。ハンガリーの政権はそれもあって排外主義的な傾向を強めていて、中欧の不安定要因となっています。今後しばらくの中欧の動向が気になるのと同時に、こういう社会状況、時代の局面における学校教育がどのようになっているのかというのが、その筋の専門家としては最も気になります。


三本橋を渡った先の突き当たりに市庁舎があり、昨日はそこを右に折れて旧市街の南半分を一周しました。今回は反対側に行ってみることにしましょう。三本橋は真北に向かって流れてきたリュブリャニツァ川がほぼ90度に折れて東に向きを変える地点に架橋されています。ですから旧市街もそれに沿ってLの鏡文字のような形状になっています。折れてすぐのところにリュブリャナ大聖堂cerkev sv. Nikolaja)。正式には聖二コラーヤ大聖堂で、サンタクロースのモデルになったとされる聖ニコラオスの名を冠します。町並に溶け込むように整った外観なのですが、前後の建物には埋もれるようになってしまっているのがもったいない。スロヴェニアはイタリアのつづきみたいな位置にありますし、長くオーストリア領でもありましたので、宗教的にはこのカトリックが圧倒的に優勢です。ただ、かなり早くから社会の世俗化が進んでいたと聞きます。

大聖堂東側の広場には中央市場Osrednja ljubljanska tržnica)。19世紀の地震で町が壊れたあと、野外で青物を売るようになったのがはじまりとのことです。ザグレブの市場ほど密集していないが、面的な広がりではこちらのほうがあり、やはり顧客がついているようで、あちこちに笑い声が響きます。

 
 
中央市場と大聖堂

 肉屋橋


中央市場に面してリュブリャニツァ川に架かるのが肉屋橋Mesarski most)。何ちゅうネーミングなのかと思えば、肉屋がすぐ近くにあったからだと。英語ではButchers' Bridgeとヒネリも何もありません。第二次大戦前に架橋する予定だったのが、設計者が急死するなどして実現せず、何と2010年になってようやく完成したのだといいます。建設コストを節約しようとしたのか欄干は鋼製ワイヤーの透かしになっており、そのためカップルが南京錠をぶらさげる現象を招き込みました。私が大好きだったパリのポン・デ・ザール(芸術橋)は金網の欄干に錠が無数にはめられ、景観を悪化させただけでなくついには欄干そのものが重量に耐えられず崩壊してしまうという愚かな結果になってしまいました。末期は見張りの警官がいたのだけれど、その目を盗んで錠前をぶら下げるアホ男女がたくさんいました。永遠の愛などという安っぽい言葉に酔って景観美を破壊するとは本当に許せない! のですが、この肉屋橋についてはとくに思い入れもないし、橋自体が最近のものなので、寸評するつもりはありません。SNS時代になり、公式見解とか歴史性にまったく関心を寄せないまま、「みんなやっている」「これがトレンドらしいよ」というような正体不明の情報ばかりが踊って次なる行為を呼び寄せるということにはなっています。13時半ころいったんホテルに戻って休憩。ホテルの横に、ドイツでおなじみのスーパーSPARがあったので、夜の燃料とともに小さなパンとチーズ入りチキンカツ(コルドン・ブルーだよね)を購入しました。昼はこの程度で十分です。

 
(左)リュブリャナ大学本部  (右)フランス革命広場


15
時過ぎに再起動。多くの若者たちが憩っているズヴェズダ公園を抜けて南に進みます。リュブリャニツァ川左岸のこのあたりは文教地区で、まず目に入るのが小さなファサードがかえって貫禄を感じさせるリュブリャナ大学Univerza v Ljubljani)本部。大学自身の解説を読むと、1919年に創立され、学部生・大学院生合わせて40000人、学部数23ということで、相当に巨大な高等教育機関でありそうです。おそらく実際の校舎は日大方式で各地に点在しているのでしょう。大学の南には図書館や博物館があります。その先で道がやや広くなっているところがフランス革命広場(Trg francoske revolucije)。広場というほど広くはないように思うのだけど、夏にはこの場所が演劇・音楽のサマー・フェス会場になるそうです。いまのところは静かな環境で、あまり人も歩いていない。この地にフランス革命の名がつけられているのは意外ですが、1809年のワグラムの戦いでオーストリア軍を破ったナポレオン1世のフランスが現在のスロヴェニアと、アドリア海に沿ったダルマティア、ラグーザ(現ドゥブロヴニク)などを獲得してフランス領に編入したため、ウィーン体制成立までの短い期間ではあったもののリュブリャナにフランスの統治機構が置かれたことがあったのです。歴史地図を見るとたしかにこのあたりがフランス帝国領になっていて、なぜこのような飛地が必要だったのだろうとかねて不思議に思っていましたが、地政学的に考えるとオーストリアの海への出口を奪うことに眼目があったのではないかと考えられます。オーストリアは1815年にこの地を奪い返したのちもアドリア海への出口の確保に執着しつづけ、国土統一運動(リソルジメント)を進めるイタリアとのあいだに遺恨が生まれました。三国同盟に当初は属していたイタリアが連合国側について第一次大戦に参戦したのも、オーストリアとのアドリア海をめぐる争いゆえでした。今回私は、パリからザグレブまで飛行機で2時間ほど飛んでやってきましたけれども、アルプス越えを伴うナポレオン時代の移動はなかなかハードなものだったのではないかと思います。

もう少し上流側の聖ヤコブ橋(Šentjakobski most)でリュブリャニツァ川を渡って、前日も歩いた旧市街の商店街、スターリ広場に入ります。ゆっくりとウィンドウ・ショッピング。途中で道路(広場)名が変わってメストニ広場に入ったあたりに、小さなチョコ屋さんがあったので、お土産を探すことにしました。ザグレブ駅でも買っていますが欧州といえばチョコ。われながら安直やね。

 
旧市街のスターリ広場/メストニ広場


お土産を買いたいので商品を拝見させてくださいと店員さんに声をかけて入店。30代くらいの美人のおねえさんは、「こちらの商品をいまお勧めしています。スロヴェニアではちょっと有名なんですよ。塩の入っためずらしいチョコレートです」といって、板チョコの小片の試食を勧めます。きれいな英語を話しますね。お、けっこう美味しい。――これ、数秒してから口の中にソルティな感じが・・・。「そうなんです! チョコの甘さの中にかすかな塩味があるので好まれるんですよ」。そういうことならぜひ買っていこう(自分で食べるわけではないけど)。他の商品も含めて包んでもらっているあいだに、リュブリャナに初めて来ましたが、町が美しくてすばらしいところですねというと、おねえさんはまんざらでもない感じで微笑んで、なぜか隣国を褒めはじめます。「リュブリャナは小さな町、スロヴェニアは小さな国です。マーケットもとても小さい。リュブリャナのいいところといえば、車で40分も行けばイタリアのトリエステに行けるところです! イタリアで本物のカプチーノ飲んだら、タリーズとかもう行けないですよ(笑)。イタリアは、何を食べるかだけでなく、どのように食べるかっていう楽しみがあるんです」。まあ、そうですよねえ。歴史的にイタリア北東部とこのあたりは連続していて、だからこそオーストリア帝国も崩壊の瞬間までこの地の確保にこだわったわけだ。「ところで、どちらからいらしたのですか?」 ――フロム・ジャパン。「わーすごい、日本ですか! 私、一度だけシンガポールに行ったことがあります。人々もあたたかいし気候もホットですごかった!」 ――(そっか、リュブリャナあたりから見るとシンガポールと日本もひとくくりなんだね)エイジアン・エナジーはいますごいですからね。「そうなの! アジアすごいって思いました!」 自分自身がエイジアン・エナジーの一角をなしている気はまったくしないのだけど、いいことにしよう(笑)。

 
 
竜橋からトルバリェーヴァ通りへ


三本橋で再び左岸側に戻り、錠前いっぱいの肉屋橋を過ぎて、もう1つ下流側の竜橋Zmajski most)まで進みました。こちらは英語でDragon Bridgeで、欄干の両端4ヵ所にドラゴンの飾りがつけられているためこの名があるそうです。地図を見ると、この竜橋の道路がリュブリャナ駅にまっすぐ進むようで、交通量がかなりあります。左岸の河岸から一筋裏に入った道がトルバリェーヴァ通り(Trubarjeva cesta)。こちらは観光色がまるでなく、建物の調和も図られていない商店街で、これはこれで生活感があっていいな。キリル文字の看板を掲げたセルビア語の書店もありました。この道が300mほどつづいて、プレシェーレン広場に出ます。何だか今日の午後は同じようなところをぐるぐる歩いているので、明日は遠出してみようかな。

 

PART5につづく

 


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。