Voyage aux pays baltes et plus: Lettonie, Estonie et Finlande

PART1

 

 

もう数えきれないほどお世話になっているパリのシャルル・ド・ゴール空港で、乗る予定の便を出発案内板で確認しました。毎度のことながらその目的地のバラエティがありすぎて、頭の中で地図を重ねては愉快な気分になります。1830分〜19時の出発便は、ジュネーヴ(スイス)、ザグレブ(クロアチア)、モンペリエ(フランス)、カーディフ(英国/ウェールズ)、ロードス島(ギリシア)、リーガ(ラトヴィア)、タリン(エストニア)、トゥールーズ(フランス)、バーミンガム(英国/イングランド)、カターニア(イタリア/シチリア島)、チューリヒ(スイス)、イスタンブール(トルコ)、ミラノ(イタリア)、ヴェネツィア(イタリア)。日本で見るのとの違いは、欧州各地への直行便が充実しているというのは当然ですが、いわゆる国内線も国際線も1枚の案内板に並べているところです。上記のうちスイス、ギリシア、ラトヴィア、エストニア、イタリア各国は、いうところのシェンゲン圏(域内自由通行を相互承認したシェンゲン協定Schengen Agreementの締結国)ですのでフランス国内に行くのと手続きは同じ。原則的に出入国検査がありません。スイスはEU非加盟ですがシェンゲン協定締結国です。逆に英国はEU加盟国ですが非シェンゲン圏なので、東京やニューヨークに向かうのと同様の出国手続きが必要になり、使用するサテライトも隔離されます。(これは20168月の記事です。将来これをお読みになって「EU加盟国ですが」のところに引っかかったら、歴史的な記述としてご了解ください)

子どものころから世界地図が大好きで、欧州の地図もさんざん見てきたのだけど、その「子どものころ」の記憶が強いゆえに、まだ理屈では割り切れない何かが私の中にあります。イタリアはEUの前身であるECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)の初期メンバーの1つ。旧枢軸国であるイタリアや西ドイツとフランスが手を携えて歩んだのが欧州統合の歴史でした。でも、小中学生だった私の地図では、欧州大陸の真ん中に「鉄のカーテン」が下りていて、EC(欧州共同体)は西側陣営の経済同盟として了解されており、東側のコメコンと対峙していました。チェコやポーランドがフランスと「国内扱い」のシェンゲン圏であるというのは、もう1つピンと来ていないところがあります。そして、現在のシェンゲン圏を示す地図の中には、小中学生だった私の地図にはその輪郭すら描かれていなかった3つの「国家」がしっかり記載されています。リトアニア、ラトヴィア、エストニア――個々の国名を思い出せなくてもバルト三国Baltic States)という総称のほうが有名――は、1991年までは、国家として存在はするけれど国際的にはそのように認知されないものでした。かのソヴィエト連邦を構成する共和国であったからです。


エア・バルティックのボーイング737-300機に搭乗(シャルル・ド・ゴール空港)


大学生だったとき、「あの」ソ連から三国が独立を勝ち取ったというニュースをリアルタイムで見ていて衝撃と興奮を味わったのがついこの前のことのように思い出されますが、それから25年後の2016年夏、そのうちの2ヵ国を訪れようと思い立ちました。826日(金)1840分発のエア・バルティックBT694便でラトヴィア共和国の首都リーガに向かいます。シャルル・ド・ゴール空港のターミナル2Dに行ってみれば、エア・バルティック(ラトヴィア)、チェコ航空、エア・セルビア、クロアチア航空、ブルガリア航空、モンテネグロ航空、ベラヴィア(ベラルーシ航空)、トルクメニスタン航空といったキャリア(航空会社)のエリアでした。気のせいではなく、搭乗を待つ人たちの顔立ちが東欧系なので、これまでに触れてきた欧州各地域とはやっぱり傾向が違う。上記のうちエア・セルビア以降はシェンゲン圏外に向かう路線なので、同じ並びのカウンターでチェックインしても、そのあと出国審査があり、たぶん免税コーナーとかもあります。私はちょっと早めに来すぎたため、待合コーナーで時間をつぶしたあと、いつものようにキャリーバッグ1個を預けてチェックインしました。ここはパリ郊外ですが当たり前のように英語オンリーで処理しています。


パリ→リーガの搭乗券(右にはみ出しているのはバッゲージ・タグ)


エア・バルティックはラトヴィア共和国のフラッグ・キャリア(国を代表する航空会社)でありつつLCCLow Cost Career 格安航空会社)でもあります。機内サービスはすべて有料という旨が事前に告知されていました。リーガ到着は2225分、バルト三国などと西欧標準時を使用するフランスとのあいだにはプラス1時間の時差があるので所要時間は3時間ほど。夜の便なので軽食くらいはほしいですが、有料にしても大した選択肢はないでしょうから、空港でサンドイッチを購入して、リュックに入れておきましょう。昼にしっかり食べたし、午後もあまり歩いていないのでさほどの空腹でもなく、リーガの宿に着くまでもつんじゃないかな。22時半というのはかなり遅い時間だけど、フランス時間では21時半ですからね。UTC(協定世界時)プラス2時間のゾーンに降り立つのは初めてです。たいていのLCCがそうであるように、わがエア・バルティックもボーディングブリッジをつながず、建物から離れたところにあるスポットまでバスで移動しての搭乗になります。ボーディングブリッジもけっこうお金がかかるらしい。機内はほぼ満席とみました。乗ってしまえばあとはのんびりするほかありません。全ページに英語が添えられた機内誌には、これから訪れるリーガやタリンの情報が載っていましたけれど、あまり予習しすぎてもおもしろくないので、ほどほどにしておきます。ほぼ時刻表どおりにリーガ国際空港Starptautiskā lidosta Rīga / Riga International Airport)に到着。もとより入国審査はなく、預け入れ手荷物を請け出して、そのまま非制限エリアに出てきました。

 
リーガ国際空港に到着 さっそく見慣れない綴りの表示が・・・


ロビーを見るかぎりこの空港は思ったよりも小ぢんまりしていて、昨年末に利用したマルタ空港と同じくらいか、もっと地味かもしれない。首都の玄関とはいっても国の規模を考えればこんなものでしょう。ラトヴィア共和国Latvijas Republika)の総人口は約200万人、首都リーガRīga)は約70万人。比べても意味がないですが、福岡県の人口は約500万人、福岡市は150万人。あとで述べるようにこの都市の基礎を築いたのはドイツ人で、ドイツ語ではリガ(Riga)と発音し、英語は綴りと発音をそのまま継承しています。現地のラトヴィア語では ī という長音文字を入れてリーガと伸ばすのだそうです。ラトヴィア語はバルト諸語と呼ばれる、古い印欧語のかたちを残す言語で、話者はこの国の住民にほぼ限られます。しかも首都リーガにはロシア語を母語とする人も半数近くいるらしい。それにしては、空港内の表示はラトヴィア語と英語だけで、ロシア語のキリル文字がまったく見えません。旧ソ連に来た気がしないねえ。

空港から市内へは複数のバス路線があるということでしたが、時間が遅いので、タクシーを利用することにしました。マルタで経験したのと同じで、ターミナルビル内のカウンターで定額チケット(€15)を購入し、運転手に渡します。「緑色のバルティック・タクシーを選んで乗ってください」とカウンターのおねえさんのインストラクション。乗り場に行くと、さまざまな塗色の車に交じって、パリから乗ってきた航空機と同じ色のタクシーが何台か見えます。航空会社系列のタクシー会社に違いなく、ここまで同じ色にするとはね。関西本線の各駅停車みたいな色(往年の山手線より少し濃い)。はがき大のチケットを掲げて振ると、少し後方に待機していたバルティック・タクシーが寄ってきて、運転手が招き入れてくれました。ホテル名を告げると、OKといって走り出します。

 航空会社系のタクシーで市内へ


空港の敷地を抜け、幹線道路に出ると、日本の国道沿いによく見るようなロードサイドの店舗がぽつぽつ。都心までタクシーで€15ですのでリーガ市域も大して広くないのでしょう。同年代くらいに見える運転手が英語で話しかけてきます。「ラトヴィアは初めてですか?」 ――はい。日本から来ました。「おージャパン。この前、日本人のヤング・ツーリストたちを、ラトヴィアのカントリーサイドまで乗せていきました。彼らはあまり話してくれなかった(笑)。このあと別の国にも?」 ――はい。リーガに2泊したあと、エストニアのタリンに行きます。「ラトヴィアは凸凹がほとんどない、フラットな国なんですよ。その大半が森林ですけどね。そっちのほうもすばらしい景色だから、今度ぜひ行ってみてください」。と、ここまではありがちなやりとりだったのですが、「日本には多様性(diversity)がありますか」という問いをきっかけに、ラトヴィアのシリアスな部分がさっそく垣間見えてきます。「ラトヴィアにはロシア語を話す人たちがたくさん住んでいます。複数の言語グループがあるのです。でもそれはソヴィエト時代に、ロシア語を押しつけられた結果なんですよね!」 ――ほう、ソヴィエト時代に。「そう、もう何もかも最悪でしたよソヴィエト・タイムは。やることがいちいちクレイジーだったし、町も彼らに破壊されてしまいました」 ――独立後はどうなんですか? 「この国は西欧(West Europe)をめざしています。新しい建物もたくさんできたし、社会のしくみも西欧に近づいてきました。でも、すぐ東側にビッグ・カントリー(ロシアのこと)があるので対応が難しいのですよ」 ――そうでしょうね。国境を接しているんでしょ? 「イエス。ロシアはあまりにビッグだから」 ――実は日本もロシアの隣国なんですよ。「ああ、そうでしたね! 思い出した、たしか島を2つ(発言ママ)取られていたんじゃないですか?」 ――そうなんですよ。こっちも難しくてね(笑)。まあ、もう70年以上も経ってしまったから・・・。「時間なんか関係ないですよ。ラトヴィアはソヴィエトと戦って勝利したんです。日本はラトヴィアと違ってビッグ・カントリーなんだから、ロシアに対抗しなきゃ!」

ロシア系住民もかなりいるというのに、こういうトーンで大丈夫なのかなと思うものの、運転手のソヴィエト&ロシアへのディスりは止まりません。この部分でやたらに英語が流暢になるところを見ると、西側からの観光客らしき乗客には毎度やっているな。明朗な人なのですが、話に力を入れるたびに前方から目を離してこちらを振り返るので、ちょっと怖い(汗)。都心部が近づくと町の特徴などもいろいろ話してくれました。「日本といえば、私は寿司が大好きでね。リーガにも、いくつも寿司屋がありますよ」と、今度はやけにステレオタイプな話題。――(寿司といってもアレでしょ?) ノルディック・サーモンですか? 「イエ〜ス。サーモンが大好きなんですよ!! (やっぱりね。それは日本の寿司としては邪道の部類だけど、実は私も好き)


 
ホテル・ローマ(外観は27日朝)

 

インターネットで予約したホテル・ローマHotel Roma)は、旧市街と新市街の境目あたりにある大型ホテル。設備もばっちりで、部屋は広々としています。これで2€135(素泊まり)なのでいうことありません。23時を回っているので、さすがにこれから出かけるわけにはいかず、シャルル・ド・ゴール空港で買ったサンドイッチと赤ワイン(重いのに!)で夕食兼晩酌。テレビのチャンネルは15あり、ラトヴィア語のものが2局、英語が7、ロシア語3、ドイツ語・フランス語・オランダ語各1となっています。ロシア語はさっぱりわかりませんが、独特の発音と画面に流れるキリル文字のテロップを見て、ようやく旧ソ連圏にやってきた感じがします。とはいえ、窓の外にある広場では若者たちがけっこう遅くまで大音量のロックを流して歌い踊り、バイクの爆音も聞こえ、その前に見えるのがマクドナルドであるなど、タクシー運転手のいっていた「西欧化」は若者世代では当たり前のことになっているのだなあと。

27日朝は少しゆっくりして8時半過ぎに町歩きスタート。今回は素泊まりなので朝食はなしです。別払い€15で食べられるけど、まあいいや。途中でおなかがすいたら何かつまめばいいですね。リーガの町は歴史地区である旧市街(Vecriga)とその外側の新市街(Jaunā Riga)から成っていて、まるごとユネスコの世界文化遺産になっている旧市街は1km四方ほどの狭い区画です。宿泊しているホテル・ローマはその東縁にあります。玄関を出たところに旧市街の外周道路であるアスパズィヤス通り(Aspazijas bulvāris)があり、トラム(路面電車)が走っている。その道の向こう側にはけっこう広い緑地帯があります。ピルセータス運河Pilsētas Kanāls)に沿った南北に長い公園で、これが旧市街と新市街を隔てるグリーンベルトになっています。旧市街の西縁にはラトヴィアのシンボルでもあるダウガヴァ川Daugava)が流れていて、それ以外の東南北は運河というかお濠を掘って都市を護ったという名残なのでしょう。新市街のほうを見やると現代的なビルが整然と並んでおり、歴史地区との差が一目でわかります。

 
 
朝のピルセータス運河周辺  自由記念碑や国立オペラ座などリーガのランドマークがある


すばらしい好天ということもあり、朝の公園というのは実にすがすがしい。前夜は若者たちが大騒ぎしていましたが土曜の朝は静かで、公園を散歩する人もまばら。運河を渡ったところにそびえ立つモニュメントは自由記念碑Brīvības Piemineklis)。1935年に建てられたもので、リーガのランドマークの一つになっています。この碑の歴史的な意味合いはラトヴィア政府観光局(日本語サイト)に語らせましょう。

自由記念碑は間違いなくラトビアのシンボルともいえる存在です。高さは42メートルあり、「祖国と自由のために」という文言が刻まれています。リガの中心部にあります。自由記念碑は巧妙なラトビア人彫刻家、カールリス・ザーレの手による不朽の名作です。1935年に完成しました。この記念碑の上にはラトビアのクルゼメ、ヴィゼメ、そしてラトガレ地方を意味する3つの星を掲げる乙女が設置されています。そして十字軍の信号や19世紀の祖国奪還、そして自由への戦いを模した13の彫刻が施されています。/第2次世界大戦後、ソビエト連邦はこの記念碑を取り壊そうとしましたが、世界的に有名なロシア人彫刻家、ヴェーラ・ムヒーナがその蛮行を食い止めたのです。/80年代後半にはソビエト占領に対抗したデモがラトビアで行われました。デモの出発点はこの記念碑でした。この自由記念碑を守る衛兵は毎時交替し、祝祭日にはラトビアの首脳のみならず世界各国から訪れる政府関係者たちが花を手向けます。

ラトヴィアは18世紀にロシア帝国に併合されました。――と書くとそれ以前には民族国家があったような感じですがそうではなく、中世後期にドイツ騎士団が植民して支配を開始し、ポーランド・リトアニア(中世後期には同君連合国家だった)つづいてスウェーデンの支配を受け、18世紀初めの北方戦争でスウェーデンのバルト海覇権が終わりを迎えるのと同時にロシアの支配権に入ったのです。上の記述にあるように、ラトガレ、クルゼメといった諸地域に分かれており、リーガもまたそれ単体として一領域で、「ラトヴィア」という括りはありません。それはのちにロシア支配下で「自分たちはロシアではない何かだ」として自覚された近代的なアイデンティティであったわけです。ドイツ騎士団の建国いらい現在のラトヴィア地域の支配階層はずっとドイツ人で、それは宗主国が変わってもつづきました。後発の帝国であるロシアにとっても、西欧に向けた窓であるリーガはきわめて重要で、西欧文化や経済の要部を握っているドイツ人たちのはたらきが不可欠でしたので、その地位を保全したわけです。そんなこともあり、第一次世界大戦中にはドイツがバルト地域に進軍し、交戦国であったドイツとロシアがともに革命で「敗れる」という奇妙な状況の中で民族主義者たちが独立戦争を挑み(相手はドイツ+ロシア白軍と、ロシアのボリシェヴィキ)、1920年に独立を達成しました。「バルト三国」というセットはこのときにはじまりました。民族自決の勝利といえば聞こえはよいものの、つまるところロシア共産主義(1922年以降はソヴィエト連邦)の拡張を食い止めるための防波堤としての役割を西欧から期待され、国内の統合もおぼつかないままの独立を認められたのです。自由記念碑はその独立を記念するものでした。1940年に三国を強制接収したソ連にとってはおもしろくない存在だったのですが、引用文のとおり守り抜かれ、やがて反ソ運動のシンボルになっていきます。


アスパズィヤス通り


緑地の中にラトヴィア国立オペラ座Latvijas Nacionālā Opera)がありました。パリともウィーンとも違って、落ち着いた感じがいいなあ(朝っぱらで人の気配があまりないせいかも)。リーガに行きますという話をしたら、同僚のA先生がこんなことを話してくれました。生徒時代にマレーシアに住んでいた先生は、巡業?していたソ連のバレエ団の公演を見ていたく感動したのだそうです。それがリーガのバレエ団だったと。ソ連・ロシアといえばいまも昔もバレエの本場で、「本場から本物が来たる!」みたいな感じだったのでしょうね。ボリショイとかでなくリーガのチームというのが当時としては二枚落ちではあるのでしょうが、東南アジアまでわざわざ遠征してきた「本場」の踊りはさぞまぶしかったことでしょう。そのリーガ・バレエ団の本拠地である写真を撮ってさっそくA先生に電送したところ、こんな立派なところで踊っているチームが東南アジアの田舎の公民館みたいなところで見せてくれたことにあらためて感動します、という趣旨のお返事でした。国際共産主義運動の元締めであったソ連は文化輸出にも熱心でしたので、そんなことは平気でやったのでしょうけれど、メンバーはどこへ行っても全力で本場の演技を見せてくれたのではないでしょうか。当時の彼らがソ連代表を誇っていたのか、実は屈折したアイデンティティを抱いていたのかは想像してもわかりませんが。

 
 
(上)いまや資本主義そのものの広告電車がリーガを走る (下)電停に設置された自動券売機とEタロンス


オペラ座の1ブロック南からいよいよ旧市街の内部へ入ります。その交差点は新市街側から来るトラムが合流する地点で、しばらく見ていたらかなりの頻度で2両連接の電車が行き来しています。旧市街内部はトラムはおろかバスも入らないので、おそらく午後の利用になると思いますが、電停に自動券売機があったので英語を指定して操作してみると、ガイドブックには載っていなかった一日乗車券が候補に現れました。日付で区切るのではなく24時間有効なので旅行者には便利。午前は旧市街見学のつもりなので、いま買うとあす28日朝に使えるかどうかが微妙になりますが(購入時から24時間なのか刻印したときからなのかが券売機の案内ではわからない)、明朝はさほど動くつもりもないし、気が変わって電車やバスを利用したくなったとき手持ちがあればラクでもあるので、買ってしまいましょう。何しろ€5ですので非常に安い。ちなみに1回乗車だと€1.152回乗車または1時間有効のチケットは€2.30で、その次が24時間チケットになっています。旧社会主義圏は一般に公共交通が安い。自由化されたからといって、いいところまで改めることはないですやね。コインを投入するとe-talonsと称する名刺大のカードが発券されました。もとよりICチップ入りです。欧州各地のトラムやバスに乗っていますけれど、ICチップ式のところとぺらぺらのレシート式とに二分されており、おもしろい。東京都区部の路線バスは定額の現金を先払いで投入して領収書が発行されないので、外国人は不安に思うかもしれません。

アウデーユ通り(Audēju iela)という東西の道に入って西に進みます。緩やかな登り坂で、石畳。穏やかな色彩の建物が両側に並んで、見るからに欧州の旧市街です。観光レストランらしい飲食店がかなりあり、路肩にテラス席も出して、一部はカフェとして営業開始しています。表に掲出してあるメニューに“Our food is good!”とごつごつした英語で書いてあって、ターゲットにしているのが「外国人」であることがわかります。そこは単数形でいいのかな? ケンタッキーなどのファストフードがちゃんとあるのは資本主義である証拠。

 
 朝のアウデーユ通り  複数の両替店が目に入ったのだが・・・


それにしても、ここを歩いているだけで2軒の両替店がありました。このあと旧市街の各所でやはり見かけることになります。観光都市だからまあわかるものの、ユーロとの両替という表示は経緯を知らないとピンと来ないですよね。ラトヴィアは独立後の1993年に、ルーブルに代わり戦前の独立国時代に使用していたラトヴィア・ラッツを復活させましたが、20141月にユーロ圏に入り、通貨は全面的にユーロに切り替えられました。だから私も昨日までパリで使っていたユーロの財布をそのままもってきて、たぶんフランスのものであろうユーロ硬貨を先ほど自動券売機で使用しました。旧ソ連でユーロとはなかなか感慨深いものがある・・・ と、いちいちソ連時代を想起するのもどうなのかね。ラトヴィアの周辺でいうと、バルト三国仲間であるエストニアが2011年、リトアニアが少し遅れて2015年にユーロ圏になりました。対岸のフィンランドはユーロ発足時からの加盟国。スウェーデンはいまなお独自通貨であるスウェーデン・クローナを保持しています。そして東隣のロシアはもちろんルーブル、同じく国境を接するベラルーシはベラルーシ・ルーブルです。ユーロ導入により両替屋さんの仕事そのものは減ったと思われますが、何やかんやいってもロシアとロシア人の占めるところは大きく、彼らにも観光やビジネスに来てもらって外貨を落としてもらいたいというところですよね。

狭い路地に入ってみても早い時間なのでただのんびりしているだけ。すぐ聖ペーテラ(ペテロ)教会Sv.Pētera Baznīca)のファサードの前に出ました。リーガ旧市街にはいくつもの教会があってたいてい尖塔がありますので、下から見上げても青空に突き刺さるような感じで何本も見えます。この教会の塔は展望台になっているので、あとで来てみよう。この時間は屋台の準備をはじめる数台の自動車が広場に来ているだけです。その西側にブラックヘッド会館Melngalvju Nams)なるやけにゴシックなファサードをもつ建物があり、広場をはさんで市庁舎Rātsnams)と向かい合っています。このあたりが旧市街の西の端で、もうダウガヴァ川が見えていますね。ブラックヘッドというのは商工会の固有名詞らしく、ここは社交場として建てられたもの。1941年にドイツ軍による空襲で焼け落ち、1999年に再建されました。0階部分にツーリスト・インフォメーションがあったのでシティ・マップをいただいておきました。

 
(左)ブラックヘッド会館  (右)市庁舎(左の建物)


市庁舎の東側はちょっとした広場で、屋台風の露店や飲食店のテラスが並んでいます。観光客向けの微妙な民芸品なんかもある。広場の前にコスタ・コーヒー(Costa Coffee)があったのでカフェラテ(€2.70)飲んでモーニング・コーヒーとします。英国のあちこちで見かけるコーヒーチェーンで、バルト三国にも進出しているんですね。そのあと聖ペテロ寺院の東側に回り込んだら、隣接して聖ヤーニャ教会Sv.Jāņa Baznica)という別の教会がありました。地図を頭に浮かべながら動いているというよりは、場面フリーというか、おもしろそうな方向に進んでいるだけです。特段のめあてがないのでね。旧市街の輪郭は頭に入れていますし、全体が1km四方くらいですのでそこから飛び出す恐れはまったくありません。ヤーニャはラテン語読みすればヨハネ(英語読みだとジョン、フランス語だとジャン)です。朝っぱらからポルトガルの団体さんがいて、ガイドさんが一生懸命に説明していました。各自が耳につけているレシーバーに音声ガイドを飛ばす昨今のスタイルで、ガイドさんがポルトガルの国旗を目印として掲げているので国籍が判明したわけです。ポルトガルの首都リスボンの旧市街もしびれるくらいに素敵でした。ここリーガは一回りも二回りも小さな規模の都市です。イベリア半島からはるばる、というほどの距離ではないけれど、時差は2時間ありますね。

 
聖ヤーニャ教会と中庭につづくトンネル


石畳の路地をテキトーに入ったら、レンガ積みのがっしりとした壁に、かわいいトンネルが開けられていました。あとから調べるとヤーニスの中庭(Jāņa Sēta)と称する空間で、いまは複数の飲食店が営業中。ガイドブックによればレンガの壁は城壁の一部だった由です。中庭は行き止まりではなく反対側に抜けられる構造で、東側に出たところがカレーユ通り(Kalēju iela)という狭い道路。ここも石畳のシックな商店街で、やや上品なブティックや飲食店が並んでいます。ショッピングセンターもあるし、このあたりが商業的中心かな? 土曜の午前とあってさほどの人出ではなく、静かですが、お天気がよく、町の雰囲気もきわめて明るいですね。

ここリーガはダウガヴァ川の河口部に位置する要衝です。古代よりバルト海の有力港湾でしたが、13世紀の初めにアルベルトというドイツ人司教が教皇インノケンティウス3世の許可を得て十字軍を結成し、リーガを含むリヴォニア地方を占領しました。なるほど、「皇帝は月、教皇は太陽」という絶頂期の教皇がからんでいるのか。第4回十字軍が聖地エルサレムではなくなぜかコンスタンティノープルに向かったのとほぼ同時期に、アルベルト司教は帯剣騎士団(Schwertbrüderorden)を結成してここにとどまりました。これはほどなくドイツ騎士団に吸収され、のちにはプロイセン王国の原型をなすのですが、その話はいずれリトアニアに行ったときにでもいたしましょうか。十字軍運動が、当事者たちの思惑とは別に中世後期の全欧的な商業の復活を招いたことはよく知られます。ドイツ人が築いた都市リーガもその流れに乗り、1282年にはハンザ同盟都市となりました。ですからリーガ旧市街はどことなく北ドイツの町並に似ていると評されます。まあ、そもそも私は北ドイツの都市に行ったことがないので似ているかどうかの判別は無理。

 
カレーユ通り


バルト三国というくらいで、バルト海が商業のメインルート、大動脈であったわけです。ドイツ系の支配階層はずっとドイツ語を話していたらしく、リヴォニアの農民たちとはしばしば対立したようです。リヴォニアといっても現在のエストニア方面にまで伸びており、もともと現地のリーヴ人はウラル語系の言語を話していました。いまウラル語系の言語を話すのはエストニアとフィンランドです。これはアジアとつながる言語ですので印欧語とは構造がまったく異なります。ラトヴィア語のルーツは古バルト語なのでエストニア語やフィンランド語とは親戚ではありません。ラトヴィアとエストニアは、言語系統はまったく異なるが、歴史的経過というか事情がよく似ています。一方、ラトヴィアとリトアニアは、言語系統はほぼ同根ですが歴史がまったく異なります。リトアニアは中世後期に大きな国家を建設したことがあり、一度も国家的に自律したことがなかったラトヴィアとはそこが違う。バルト三国と一括され、第一次大戦後の独立も同時期であり、1940年のソ連への強制接収も同時であり、かつ1991年の独立でも共同歩調をとりましたが、それは対ロシア、対ソ連という動きの中で形成された新たなアイデンティティなのでした。

 
リーヴ広場 右の写真の尖塔は聖ペテロ寺院のもの


カレーユ通りを北に向かって歩くと、旧市街の東西のメインストリートであるカリチュ通りKalķu iela)に出ました。目の前にはリーヴ広場Livu Laukums)が見えます。リヴォニアの名の由来にもなった先住民族の名を冠しているのですね。この1ブロック東には宿泊しているホテル・ローマがあるので、旧市街の南半分を1時間かけて一周してきたことになります。いま10時ですのでこれからようやく人が出てきて町が活気づくというタイミングと思われます。散歩するにはこれくらいのサイズの町がいいかもしれない。縦横の道が不規則に展開するのは旧市街ならではで、うっすらとした傾斜あり、どれがどの教会だか容易には覚えられない尖塔群ありで、才能と技術があったらRPGの舞台にしちゃいたいくらいです。

 
リーヴ広場にあった無料のお手洗い 外来語の「トイレット」が訛って綴られた形跡が・・・

 
ラトヴィア軍事博物館は火薬搭を利用したもの

カリチュ広場は、南北に長い長方形をした旧市街の、ちょうど真ん中付近を東西に貫いています。いままで旧市街の南半分を回ってきて、これから北半分に入るというわけ。例によってじぐざぐ、適当に歩いていくと、苔むした円筒形のかわいい建物が交差点に面して建っていました。これは火薬搭(Pulvertornis)。最初のものは14世紀に建てられ、17世紀に再建されたのが現在のものだそうです。近づいてみるとLatvijas Kara Muzejs / Latvian War museumとあり、入館無料。ラトヴィア軍事博物館ということね。この手のものには大いに興味があるので有料でも入館します!

各階の展示物をじっくり見て回りましたが、この博物館は非常によくできています。昔の役所みたいな重厚な手すりのある階段を上ってワンフロアごとに見ていくわけだけど、展示の仕方も解説もしっかりしている。すべてに英語の解説があるので内容は十分に理解できました。ラトヴィアの歴史は本を2冊読んだくらいであまり頭に入っていなかったのですが、展示を見るうちにいろいろつながってきます。ラトヴィアと首都リーガは、2度の世界大戦においていずれもドイツ×ロシア(ソヴィエト連邦)の戦闘のフロンティアになっています。したがって20世紀前半の展示には力が入っていました。前述のように、第一次世界大戦は、約200年にわたってラトヴィアを支配してきたロシア帝国と、リーガを建設して商工業を営み、また農村地帯の地主階層として君臨したドイツ系住民にとっての「祖国」たるドイツ帝国の戦いになりました。まずロシアが二月革命と十月革命(ロシア暦による)によってボリシェヴィキ政権に代わり、19182月のブレスト・リトフスク条約で同盟国側(ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国)に敗北を認めて戦線を離脱しました。このときロシア・ボリシェヴィキ政権は、ラトヴィア、エストニア、リトアニア、ポーランド、フィンランド、ウクライナなどに関する権利の一切を放棄しました。半年後の11月にドイツなど同盟国が英仏などの連合国に敗北したため、同条約は無効となりましたが、手放した領域はロシアに戻りませんでした(ウクライナは広い国土が分断された内戦を経験し、一部がポーランドに接収され、大部分はソ連に併合された)。長いロシア支配の中で「ロシアではない」というアイデンティティをはぐくんでいたラトヴィアに、このとき初めて独立国が誕生しました。博物館には独立国時代の指導者の写真などが掲出されていました。が、栄光の独立達成とはいえ、国家運営の経験があるわけではなく、これまで経済的に一体化していたロシア(ソ連)が敵に回ったため、世界恐慌の直撃をもろに受けて運命は反転します。ハンガリーやルーマニア、ユーゴスラヴィアなど、第一次大戦後に「帝国」から独立した国々は1930年代に入ると独裁ないしファシスト的政権に移行しましたが、ラトヴィアもまた同じ運命をたどりました。独立初期の議会制民主主義時代に首相を務めたカールリス・ウルマニス(Kārlis Ulmanis)は、政情が不安定化した19345月にクーデタを起こし、議会制を否定して権威体制を確立します。反ロシアのラトヴィア民族主義者だったウルマニスが、やがて皮肉なことに、この国をソ連に引き渡す役回りを果たすことになっていきます。

 

PART2につづく


*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=113円くらいでした。

<主な参考文献>
伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』、山川出版社、1998
志摩園子『物語 バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』、中公新書、2004
志摩園子編『ラトヴィアを知るための47章』、明石書店、2016
『バルトの国々 エストニア ラトヴィア リトアニア』、「地球の歩き方 201516」、ダイヤモンド・ビッグ社、2015


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。