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■次回は・・・
7- 歴史の中の教育思想(2):新教育思想をめぐって
1841年に亡くなったヘルバルトは、生前にその自覚があったとはいえないのかもしれませんが、結果的に近代公教育のコア部分である初等義務教育を理論と実践の面で力強く支える役割を果たしました。彼が活躍したプロイセンはもちろんですが、遠く離れた日本にも明治前期にその考え方が到来して、はじまったばかりの公教育に多大な影響を及ぼしたということは、前々回に指摘したとおりです。近代公教育について私(古賀)は、国民を育成・統合して国力を強化しようとする国家(政府)の側の意図だけでなく、「公教育を受けてよかった」「受けるべきだ」という民衆側の実感や期待がセットになって、初めて本格的に定着するのだと強調しました。それが本当だとすれば(本当なのですが)、さらなる展開が予想されます。公教育を受けて知的に啓蒙された人々の中から、教育自体をさらによいもの、自分たちにとって真に望ましいものへと改良していくべきだという考え方が生まれ、高まっていくわけです。その点でヘルバルトの系譜を受け継ぐ教育学(Pädagogik)はハードすぎて、国家やおとな社会の思惑を子どもにどんどん押し込むという形式に陥っており、そこに教員の力量不足もおそらくあって、公教育は国家本位、おとな本位、教師本位だという面を強くしてしまいました。どうせやるなら、ちゃんとやろう。一部のめざめた人たちは、そのように考えます。教育を考える際の主軸や視点を、おとなから子どもへ、teachingからlearningへとシフトさせる、新たな教育観が生まれ、やがて世界規模に広がっていきます。
20世紀前半に急速に拡大した新たな教育思想には、さまざまな流儀があって一つの傾向にはまとめきれませんけれども、子ども・学習者を中心に据えた教育観という意味で共通します。そうした思想群を新教育(New Education /
éducation nouvelle)と総称します。教育の世界で新教育というと、新しい教育という一般的な意味ではなく、子ども中心主義に立つ教育思想ないし教育運動のことを意味します。新といいつつ、もう100年以上の歴史をもっているわけですね。今回取り上げる中で、年代的に古いのは北米の新教育です。北米は、大西洋を隔てた欧州とは、いろいろな部分で人間や社会に対する捉え方、考え方に相違がみられます。教育観などはとくにその傾向があるのかもしれません。北米大陸の中では歴史が古く、欧州(主に英国)の社会的伝統がそれなりにあった東海岸と異なり、中西部はまさに「これから社会そのものを形成し、発展させていく」状況にありました。学校教育はその基点として期待されます。決まりきった学問的成果を薄めて子どもに教える、というクラシックな(ヘルバルト式の)学習が、わりと手前のほうで限界に達してしまうことがわかります。それにしても、1900年をまたいで長期間にわたり活躍した教育学者・哲学者ジョン・デューイという巨人の存在が、なんといっても格別の影響力をもちました。授業ではデューイの言説の一部を聴き取ってみましょう。
新教育思想の興味深いところは、それが思想にとどまらず教育実践や教育運動に直結しがちであったことだろうと思います。そして、第一次世界大戦後の融和ムードにも乗って、1920年代には当時の先進国において、同時多発的な広がりを見せました。大正期の日本にももちろんすぐに伝わり、澤柳政太郎(成城学園の創立者)や中村春二(成蹊学園の創立者)といったすぐれた思想家兼実践家を表舞台に引っ張り出すことになります。彼らはある特定の私立学校の先生という立場にもかかわらず、同世代さらには次世代以降の日本の学校教育に多大な影響を及ぼしました。その力強さは政治家や官僚には決して出せない、教育者ならではのものだったと私には思えます。世に新教育なかりせば、公教育は100年くらいでその役割を負えて歴史の舞台から退場していたかもしれません。新教育思想・運動が、公教育に新たなエネルギーを注ぎ込んで再生させたのだというのが私の見立てです。ただ、物事にはいろいろな面があります。新教育の限界、明暗の暗の部分も明らかにしなくてはなりません。それも含めて、21世紀の教員をめざす立場であれば、自身の教育観を鍛えるという意味で必ず触れておかなければならないテーマであると私は考えます。
REVIEW (5/22)
*文意を損なわない範囲で表記や表現を改めています。掲載を省略したり、複数のものを統合したりする場合があります。
■下構型と上構型に分かれていた複線型学校制度から、民主化を通して単線型の制度へ変化したことが理解できた。現代でも所得水準と子の学力に相関関係がみられるが、それをどこまで公教育が是正すべきなのかという点が興味深い。(教育)
■20世紀の社会変化の中で中等教育がエリート向けから全員向けに広がった点を理解した。だがその結果として学力差や不登校など新たな問題も生まれており、教育は量だけでなく質も大事なんだなと感じた。(スポ)
■中等教育を一部の人だけでなく、多くの人に開くことにしたが、学校制度を開放しても家庭環境や文化資本の差によって、学力差や学校離脱が生まれる可能性がある。つまり教育の機会を広げることと、本当に学びを保証することは同じではないと思った。等しい教育だからみな同じではない。当たり前のことだけど、今回再認識した。(教育)
■いままでの歴史の授業の伏線が、段差の理由のところで回収された感じで、すごく理解しやすかったです。(教育)
■2回目の授業で扱った中1ギャップと、小・中の制度上の大きな違いの理由がわかって、とても納得した。また個人間の文化資本の差を埋めるための公教育という視点は、とても大切だと思ったので、この理念を忘れないようにしたい。(政経)
■全階層が中等教育を学べるようになったのはよかったのか?という問いは、中等教育に携わる教員が気にかけるべきポイントを示すものでもあり、興味深かった。機会の均等から考えるとよい変化だったが、結果の均等にはなっておらず、教員は結果の均等をめざして、個別具体的な対応が求められる時代なのかなと考えた。(文構)
■結局のところ生まれた家庭の豊かさによって学力が決まってきてしまっているという現状には驚いた。また、イギリスとドイツが、出身家庭によって通う学校も違うというふうになっているとは知らず、これにもびっくりした。その差をいかに埋めていくかが公教育の役割だという話もとても納得できて、自分の実になる授業回だった!
(教育)
■現代の日本の学校制度は単線型であり、平等を尊んでいて、さらに下構型と上構型の統合された中等教育になっている。しかし資本主義の社会では貧富の差が生まれ、複線的で下構型的な学校のあり方に行きつく可能性があることを学んだ。このような揺れ動きを抽象化してみる視点が非常に重要であると知覚した。(教育)
■いままで無意識のうちに、学業不振やコースアウトした人に対して彼ら自身の責任だと考えていたことに、今回の授業を通して気づきました。教職課程を取っておらず偏った視野のまま社会に出ていく可能性もあったことを考えると、恐ろしいです。(文)
■戦後の中等教育の一般化や学校制度の単線化は、重化学工業化など社会の複雑化に対応するためであったことを学ぶと同時に、現在の日本の学校制度が、ICT化などにより進んでいる破壊の複雑化に対応しきれていないと考えました。(教育)
■中等教育が、下構型と上構型が(半ば強引に)接合されたものであるから断絶があると知って、腑に落ちた。(法)
■私の経験した中等教育はそもそも高等教育のためにあったのか、両面あったのかもしれないが、そう思うと腑に落ちる。高校までの教育の延長を大学でもつづけている感覚があった。(社学)
■さまざまな国家によって学年の区切り方や数え方が違うのは知っていましたが、中等教育の部分が、つらら型もしくはたけのこ型で生成されていたことで生じたものだと、初めて知りました。つららちゃんかわいいですね^^ (基幹)

■先生がいわれていたように、義務教育の中学校で学んだ数学の内容は、社会に出て使わないのになぜ学ぶのかについて、下構型中等教育がもとになっているとわかって納得した。(教育)
■中等教育では具体的な内容を抽象的に捉えることのできる能力を養うことが重要だという話を聞いて、中学校・高校の国語の授業で抽象的・論理的な読解方法を叩き込まれた理由がわかりました。(文構)
■非実学的な学び(学術・教養)は全階層に本当に共有されうるのか? という問いが印象に残った。全員が共通して抽象的な知識を学ぶ現在の制度が、学習不振や学校と職業の接続不良を生んでいるという指摘には納得した。その点から考えると、全階層への共有というのはほとんど不可能に近いのではないかと考えた。(文構)
■今回の授業で気になったのは、中等教育を多くの人に開放したことで、逆に学力格差や学習不振が広がったという点である。教育の平等性について考えさせられた。全員に同じ内容を教えるだけで対応しきれない部分もあるのだろうと考えた。これから社会が複雑になっていく中で、一人ひとりのための教育と、全体を見る教育の共存について考えなければならないのだろうと思った。(文構)
■単線型の中等教育は、もともとは大学準備教育と就業準備教育が合わさったものだが、民衆の要望やみんなが同じものを受けるという関係で、ある一つの職業に特化して教育することができず、大学準備寄りになり、学ぶ内容も抽象化されて、学業不振やドロップアウトなどが起こった。その現状を見ると、複線型学校制度も、学ぶ目的がはっきりしえ下り、いいなと思った。しかし自由権や社会権の観点から考えると、それも問題があり、難しい問題だなと思った。(文)
■中1ギャップの正体として、同じ義務教育である小学校の延長として中学校での学習を捉えている生徒や親が多い一方で、実際にいまの中学校の役割は高等教育の内容に寄った、その架け橋的なもので初等教育とは離れた存在である、という、人々の認識と実情のズレがあるのかなと思った。(文構)
■中学校では、内容が抽象的になり、つまずく人が多いですが、その事実を知っているのならばなおさら、教科書の内容を逆に具体的に書けばよいのに、なぜ抽象的に書くのですか?
(商)
・・・> 中学校の教科書は、基本的にどの教科でも具体と抽象のあいだを行き来するようなつくりになっています。今度じっくり観察してください。で、少しずつ抽象化のほうに生徒を引っ張っていかなければなりません。個別の知識やスキルはその場面でしか使えないのに対し、抽象化するとそれが普遍性・一般性を帯びて、使えるものになります。ヘルバルトもそこまで論じているのですが、読み手の学力が足りていなくて、いろいろな知識をとにかく教えるというところで停まってしまいました(日本でも欧州でも、20世紀前半までの小学校教員はたけのこ型中等教育機関で育成された)。

『わが子をコレージュ(中学校)へ』という教育書(Hachette, 2005)
中学校とはどのような教育の場であり、小学校と何が違うのか、なじむにはどうするか・・・
など細かく書かれたガイドブック フランスでは1990年代後半に小・中接続不良が問題化して
このような本がたくさん著された コレージュの教師がいかにも知識伝達系だったことも不評だった
このころフランスでこの種の書籍を買い込んで読み、いまお話ししているような問題意識を強めたのだ
■つらら型やたけのこ型など、いろいろな形の中等教育があることを初めて知ることができた。とくにドイツの学校制度が、私の知っている学校制度とはまったく違うもので驚いた。(教育)
■複線型学校制度がつづいていくと貧富の差が常に埋まらず、階級性をより強め、貧困層の不満が高まっていくと思った。フランスの教育に複線型学校制度の名残があることや、初等教育と中等教育の乖離が、中等教育が2つの異なる教育が合体してできたために生じたということがよくわかった。(基幹)
■ドイツの学校制度は、子どものうちに将来を決めなくてはいけないし、一度決めたら変更しにくいためよくないと考えていたが、それぞれの学校がどのような目的でつくられ、変化していったものなのかを知ると、自然なもので悪くない制度なのかもしれないと思った。(教育)
■ドイツの小学生が進学する学校を選ぶのは、選択肢が狭まってかわいそうだと思ったが、逆に高等教育向けの教育に付き合わされるほうがかわいそうだという視点は新鮮だった。(基幹)
■日本の生徒は、単線型の制度によって人によっては必要のない偏差値レースをさせられているという意見に納得した。ドイツのように10歳ころから専門が決まるほうが、格差を意識しづらくなるのではないだろうか。(文構)
■ドイツの複線型教育に関して、やりたいことが定まっていない人が多い10歳という年齢で将来が決まるのはかわいそうという意見もあるかもしれないが、一方で自分に合った学びを早い段階から受けることができ、一人ひとり異なる能力を伸ばす教育が与えられているという点ではよい面だと考えた。(文)
■ドイツやイギリスの制度は、日本から見ると不自由に見える。しかし日本のように18歳で自由に進路を決めろといわれ、そのままの流れで大学に来るというより、10歳の時点で進路を確定させ、自分の進むべき道に全力投球したほうが、学びも深まるのではないかと思った。(教育)
■ドイツの教育の複線型について、効率的な育成ができる点でよいと思いましたが、いつ自分がしたいことが決まるかわからないし、一部の知識しか十代で得られないのはもったいなく、その点で個人的に日本の教育のほうが、教養が身につくと思いました。(文)
■複線型学校制度への批判点として、発達段階としての青年期の問題が考えられる。この時期には、メタ認知・抽象的思考、アイデンティティが育まれる。そのためこの時期には多くの人とかかわり、他者と自分とを抽象的に比較し自己成長につなげ、アイデンティティを確立することが重要だと考えられる。10歳で進路分岐してしまう複線型は適当ではないと考えた。(人科)
■いままで日本の教育システムしか知らず、それを当たり前のように捉えていたため、イギリスやドイツの教育システムの複雑さには驚かされた。単線型と複線型のどちらがよいか、とのことだったが、私はやはり単線型がよいと考える。それは自分自身が日本の教育制度の中で育ったからというのもあるかもしれないが、それだけでなく、10歳で自身の一生を決める進路を選択させるというのは早すぎると思うからである。ある程度、現実的に自分の将来を考え、親の意向のみに左右されることなく、自分自身の責任で決断できる年齢に決断するシステムのほうがよいと考えたからである。(教育)
・・・> 現在のドイツの制度は10歳で分岐ですが、戦前の日本の複線型は12歳分岐でした(小学校は現在と同じで6年間)。12歳なら大丈夫ということであれば、複線型のよしあしではなく分岐のタイミングの問題ということになります。12歳でも早いということならば、発達段階を用いて説明すべきところでしょうね。レビューとは直接関係ないのですが、私立中学校(中高一貫校)を受験するかどうかの選択を小学4〜6年生(とその親)に迫る首都圏のここ30年くらいの風潮は、非制度的な再複線化であると批判されることがあります。当クラスには該当する方がたぶんかなりいらっしゃるので自身のことを考えにくいかもしれませんが、このレビューと合わせて検討する意義はかなりあるように思います。
■ドイツと日本の学校制度を比べると、やはり、可能性を広げるために日本のほうがいいと思います。どんな職業に就くとしても、全員がもっている常識が多ければ多いほど、全員にとって住みやすい社会にできる可能性が大きくなると考えられるからです。(教育)
・・・> 浅いな〜。考察が浅いまま、どっちがいいという判断をするのは、あまりよろしくありません。厳しめに申しますと、出来のよい中学生みたいなレベルの発言に(結果的に)なってしまっています。私の指摘や挑発に賛成してもしなくてもいいが、ちゃんと踏まえて議論しましょう。これだと、仮にドイツに生まれ育っていたら、まったく同じ文脈で「可能性を広げるためにドイツのほうがいいと思います」って発言しそうです。
■日本の中等教育が、中学校と高校に分離したのは、当初の教育スタイルが、下構型と上構型とがまだ融合していなかったことも要因にありますか?
(政経)
・・・> そうではなくて、一律に前期中等教育を義務教育課程として後期と切り離した関係です。
■21世紀になると職業がとても細分化されたため、中等教育以降に全体に向けた教育では具体的な内容をとても教えきれない。現在の中等教育は、職業の大枠を定める役割を果たしているのではないか? そうなると学習不振の生徒にどう指導して正当な仕事に就く道に誘導するかが最重要項目だと感じる。難しいのは知識を増やしていく勉強しか知らない子どもに、どう説得するか。(基幹)
・・・> 私の考えですけれど、現在の中等教育(の大半)は、職業の大枠を定める役割は果たしていないと思います。果たすべきなのかもやや微妙。本質的には「先送り」しているのではないかと思います。
■たけのこ型とつらら型が融合していまの中等教育の制度ができたというお話でしたが、つらら寄りになった中等教育の代わりに、たけのこ寄り、つまり実務的・非エリート的な中等教育をおこなってくれる場所はあるのでしょうか。商業高校など普通科以外のコースを設置している高校がそれにあたるのでしょうか?
(教育)
・・・> 推測されているように、商業・工業・農業・水産といった専門学科の半分くらいは、戦前の上構型中等教育の系譜を引いています。それらの学校がもし100年以上の歴史をもっているならば、旧制度の時代には中学校ではなく実業学校というカテゴリに属していたはずです。ただ、1947年の学校教育法によって単線化が実現し、商業も工業も戦後は「高等学校」として一括されています。たけのこっぽさは大いにありつつ、でも大半の生徒が普通科に進んでしまうことや、商業科・工業科なども専門学科以外の数学や英語は普通にありますので、普通科におけるものと同種の問題をはらむことになっています。ま、2020年代の情勢としては、なまじの文系大学卒よりも工業高校卒のほうがまともな就職のチャンスは多く、生涯年収の点でも遜色ないんですよね。学校と職業との接続不良の話をしましたが、大学進学というのは問題を先送りしているだけで、大学教育そのものに職業準備のしくみは内在しないので(就職課やキャリアセンターというのはカリキュラムの欄外、自主的な活動に属する)、マクロな視野で見ると問題山積です。
■環境が何かわからない子どもに与える影響の大きさ(所得など)を理解した際に、EXIT兼近さんの言葉を思い出して、子どもは努力できるからその方向性が違うことを単に否定したくない、という彼の言葉が非常に共通すると感じました。たけのこ型の生き残りである工業系の生徒が、大学へ行かないという選択をすることで、大学を出たつらら派の下で働き、結果として所得が低いことでその子どもが大学に行きたいと思ってもその所得の差が影響すると考えると、「公教育」への期待とその一端を担うことになる私たちの役割の重さを胸に刻みたいと思った。(教育)
・・・> ちょっと文意を汲み取りにくいのと、兼近氏の言葉(私は知らない)のどの部分がどこに共通するのかがよくわかりませんでした。1つ上の私のコメントも読んでほしいのですが、工業高校の就職実績はかなりよくて、満足度も高い。大卒の下に来ると安直に信じていると、社会人になるにしても教壇に立つとしてもまずいことになるかもしれませんので、もう少し慎重に考察しましょう。現下の主要な問題は、つららの系譜を引く普通科の中等教育を受けながらその内容をものにできないまま年数だけ重ねた、大卒者の空虚さのほうです。大学を出たのに学術的・教養的・観念的・抽象的・論理的な思考がまともになっていない人の多さ。
■イギリスの学校制度における高等教育カレッジと大学では、学ぶ内容や設立経緯にどのような違いがあるのでしょうか。また単線型である日本の学校制度も、専門職大学の設立により、なんらかの変化が起きるのでしょうか?
(教育)
・・・> 英国(イングランド)の高等教育カレッジは、名前の印象とはうらはらに?
日本でいう専門学校に近いタイプの学校です。職業直結。日本の専門職大学は、国や一部の人たちは熱心にやろうとするのだけれど、なかなかうまくいきません。しかし少子化をテコに、大学数を減らすなどの再編がうたわれていますので、やがて日本の高等教育が複線化するのではないかとみられます。
■高等教育に分類される高等専門学校は、わりと職業準備のための学びだと思うが、たけのこ型で生まれたのだろうか、そもそもつくられたのが遅いため、つらら・たけのこは関係ないのだろうか。(社学)
・・・> つくられたのが遅い(第二次大戦後)ので、つらら・たけのこは関係ありません。位置づけ的にはドイツのレアルシューレ(実科学校)やフランスの職業リセ+職業大学などに近いかもしれません。

つららちゃんは左が利き顔なのかな? (GPTさんまかせ 笑)
■親の所得と子の学力の相関の話のときの、だからこそ公教育でのアプローチが大切だという話に感動した。(文)
■親の所得水準と子どもの学力には明確な相関関係があるということは、なんとなく感じていた。しかし言及しにくい話題であるのか、これまでこのことに関する議論を聞いたことがあまりなかった。(政経)
■誰もが均しくアクセスできる教育を前提とした、ゼネラルな中等教育を、これまであるがままに享受してきました。しかし、その中でも感じていた格差や違和感の根源について、今回触れることになりました。公的な中等教育がはじまって以来、解決されずにいた課題に加え、これからの社会変革の中で新たに解決しなければならない課題がのしかかってくると、非常に重圧を感じています。(文)
■中等教育の公教育化に伴う副産物、それこそが中等教育の教師の役割なのでは、とすら思った。私はそこにアプローチしたい、というのが教師をめざす理由の一つだが、とんでもなく困難に思える。(社学)
■かなりの程度の寝不足でしたが、とても目が覚めました。正直、教員になることはないと考えています。中等教育が、つらら型とたけのこ型が混じっているということや、文化資本格差を均すことが公教育の使命であることの話を聞いて、教員への熱が冷めていた理由についての解像度が上がりました。(教育)
■私は中高一貫で、大学へ進むのが当たり前の環境だったが、複線型や中学受験など格差問題では低所得・低学力層の再生産もだけれど、学力の高い層が自らの環境を当たり前だと思ってしまうことも問題だと気づいた。(教育)
・・・> おっしゃるとおりです。で、いま教員になる人の過半は、大学へ進むのが当たり前だと思っていた人なんですよね。目の前の生徒の状況に寄り添えるのかどうか。(プロになってまで自分の来歴や経験からしか教育観を見いだせないようでは困るけど、まあそうなりがちですよね)
■親の経済水準と子どもの学力に相関関係があることに、非常に納得した。たしかに文化資本(家に本があるか、美術館に行くかなど)は、子どもにとって無意識のうちに大きくかかわっている。東京に来てみて、飲食店に入ると小さい子どもに向かって世界情勢を語るお父さんを見て、本当に驚いた。勉強のスタートラインがやはり違うのと、費用面でも格差が出てしまう。そのような環境は、子ども自身は選べない。だから公教育でまかなうことが必要であり、効果的な学習支援を考えたいと思った。また、なんのために学ぶのかということに真剣に向き合いたいと考えた。大学を出ていないとエリートになれないような日本で、自分はどのような価値を見出すのか、しっかり結果を考えたい。高校を卒業して、一度働いて、学びたいことがあったから大学に入りなおす外国人の話も聞いたことがある。学びに意味をもって向き合いたい。所得の低いおとなから生まれる子どもも低所得というループを抜け出すのは、勉強をがんばることでしかできないのか、公教育でどこまで成長させられるのか知りたい。(国教)
■親の所得水準と子どもの学力に明確な相関関係があるということは前から知っており、家庭教師代や私立に通わせる学費、教材代を豊富に出せるからそのような相関関係があると思っていました。しかし、親の財力があれば、博物館や美術館に行ったり、外国に行ったりするなど、文化的・言語的素養なども成長して学力が高くなるという視点は考えたことがなかったので新鮮だった。(教育)
■東大生でも親の所得は1000万円以上・・・ 盲点でした。たしかに親の話し方やテレビのチャンネル、小さいころに連れていってもらうところが、似た友達が多いです。意識しないうちだったとしても、たくさん経験させてもらって感謝しかないです。私これ知ってる!! というだけで、どれだけ勉強の理解が深まるか・・・。(教育)
■親の経済力と子どもの学力が深く関係しているというのは、やはり経済力があると塾に通ったり習い事をしたりなどの環境があるからだと思う。これを公教育で埋めるのにはどうすればいいのだろうかと思った。(スポ)
■親の所得と子の学力の相関関係、文化資本の話で思ったのですが、これは学力という指標だけでなく、たとえば運動能力(スポーツ競技力)にもいえるのではないでしょうか。優秀なトレーナーや設備、強いチームのある学校に通えるかどうか、道具の面たとえばスパイクのようなギアによる差も、生まれるのではないでしょうか。(スポ)
・・・> スポーツというもの自体がもともと強い階層性をはらんでいますからね。「スポーツは純粋なものだ」と、生徒がいうのはかまわないが体育の先生が本気で信じたら、それは無知を超えて無責任というものです。このあたりの勉強はきちんとしておきましょう。で、やはり体育の教員をめざすのであれば、概念の取り方にも注意してください。運動能力とスポーツ競技力はまったく別のものです。いまの環境だと気づかないかもしれないが、これを混線させるのはよろしくありません。

シティ・オブ・ロンドン・スクール テムズ川に架かるミレニアム・ブリッジ(歩行者専用橋)をセント・ポール大聖堂に向かって
渡ったところの左岸側にある 全寮制でなく通学制のためパブリック・スクールには通常分類されないが
かなり学費の高い、エリート教育のためのインデペント・スクール(私立中等教育学校)として知られている
■教師を志すうえで、親の所得と子の学歴の相関関係は否定できないと思った。文化資本のある生徒が、勉強ができるというのは受け入れるとして、そうでない生徒の学習不振やコースアウトをどれだけ防げるか、格差をどれだけ埋められるかが、これからの中等教育に求められると思う。そんな中で教職科目半減なので学生ながら心配。(教育)
親の所得と子どもの学歴に相関があるなら、格差はずっと埋まらないのでしょうか。また、この格差がある現状は正しいと思いますか?
(教育)
・・・> 学歴ではなく学力。意味はだいぶ違います。自由主義・資本主義の社会では、格差はやむをえないものとして容認しますが、生まれ方は選べないので最低限度の底上げは公権力によっておこなうことになっています。正しいと思いますかという問いの立て方が正しくない、というか学問的に適切ではありません。社会的な事象を正・邪とか善・悪の尺度で判じても、その先がないからです。著しく不合理とか容認できるレベルを超えたというような問題設定が望まれます。
■公教育で一律の水準を保つのは、難しいのではないかと思う。文化資本や学校間の格差、都市に住んでいるかどうかなど、帰る場所がある以上、国が水準を維持するのは難しい。学校の先生のがんばりに依存してしまう部分も多く、先生の大変さの一部を知った気がした。(教育)
・・・> 一律の水準を保つというのは、趣旨はわかりますが表現がいまいちかもしれない。可視的な公平さ(あらゆる水準を一定にする)ということではなく、1つ上で述べているように「著しく不合理ではないレベル」「容認できるレベル」を下回らないように措置し、下回った場合に対応するということです。過度にやると、フリーライディング(福祉などにただ乗りする現象)や、行政権の肥大化に伴う癒着・汚職・財政悪化などを招きます。しかしスルーしすぎると格差の拡大と社会の分断が進みます。もうおわかりかもしれませんが、教員・教師=公教育の主たる担い手になるということは、公権力の側に立って、そうした作用に与するということです。その覚悟はないとまずいですね。
■教育課題は難しいが、制度そのものを変革するという方向というよりは、対症療法的に困っている人を助けることが現実的ではないかと思った。(政経)
・・・> そこで終わっては不足でしょうね。これは第2回で述べたことに通じますが、大学の教室で教育を学んでいる私たちが何を考え、申し述べたところで制度の改革にはなかなかつながりません。しかし学問として教育を考察することで、どこに欠陥や不備やディスアドバンテージがあるのかがわかります(もちろん長所や利点も)。教育者として取り組む際に、欠陥や不備をカバーしながら影響を最小化するというのが大切ですし、その視点をもつということが教員の専門性だということです。「困っている人を助ける」前に、「困っている人」が誰であり、その病因は何なのかを見出せるかどうか。そこで「そいつ次第じゃん」と切り捨ててしまわないかどうか。
■親の所得水準と子どもの学力に相関があるのは、お金がある人たちはいい学校や塾に行けて、あまりない人たちはお金を稼ぐために仕事等で時間を使う必要があったりするのだろうなと思いました。そのことが幸なのか不幸なのかは人によって変わると思うので、その点について少し考えてみたいです。(基幹)
・・・> いや、そういうことではありません。文化資本の概念をきちんと学んでください。幸か不幸かという問題も、ここでは無関係です。
■親の資本が子どもの学力に相関するというのは、ちょっと間違った見方かもしれないが、かつての学校の形態がまだ残っているという感じがする。エリートのための高等教育準備。(教育)
・・・> う〜ん、ちょっとわからん(汗)。もう少し言葉を尽くして文脈をつくってくれるといいな。
■所得水準と子どもの学力の相関について、ある程度所得の高い層に絞ったときに、まだ相関は保たれるのだろうか。私は、そうはならないと予想する。つまり、ある程度豊かであれば教育に割り当てられる私財の量はそこまで変わらなくなるのではないか。(基幹)
・・・> 分析としては正しいと思いますが、高い層に絞り込む意味があまりないように思います。学力が高いぶんにはいいわけなので。それと、文化資本の考え方というのは「教育に(直接)割り当て」るということでは、必ずしもありません。むしろ文化的・教養的な消費の部分が学習を下支えするという考え方です。

パリ リュクサンブール公園 奥の建物は上院議会議事堂
万国旗がデザインされたヨットを有料で貸し出しており、子どもたちが楽しそうに遊ぶ姿がいつも見られる
■中等教育の発生源が現在の中1ギャップを含む諸問題につながっているのだと思った。現在の中学校や高校は、高等教育への進学や就職をあまり考えず、社会で生きていくための一種のスタンダードとして入学している人がほとんどだと私は考える。そのため従来のカリキュラムや指導法のままではだめなのではないだろうか。(教育)
■小学生のころからあまり学校が好きではなかったが、学校の、興味のないことも強制的に学ばせる教育のおかげで、日々のさまざまなことを楽しめていると思う。そういった点では、やる気のない生徒を無償化によって通わせる方法は、実りは少ないかもしれないがまったくの無駄ではないと考える。(先進)
■親には小さいころからさまざまな経験をさせてもらい、早大に入ることができてとても感謝。先生はラグビーについて少しお詳しいようでしたが、プレーの経験はありますか? 私は13年、九州でやっていました。(教育)
・・・> ラグビーの話題って、競技名がイングランドの学校名だという話しかしていないのですが、お詳しいというほどでも(笑)。私も福岡県ですのでラグビーは盛んな土地柄で、高校の体育の授業で結構やらされました。渡来が4点、そのあとのゴールキックが3点だった時代です。競技経験はありません。学生時代は早明戦がいちばんピークだった時期ではないかな。チケットなんてまず入手困難でしたからね。のちに監督を務めた清宮克幸さん(日本ハム清宮幸太郎のお父さん)は2学年上で、そのころの早稲田は結構強く、よく観戦していました。実際のところア式蹴球よりはよく観ますし、好きかもね。
■教職課程の科目が減って、実質的に教員免許状を取得する難易度が下がるというのは悲しかったです。個人的には教職に就きやすくするのではなく、単純に給料を増やせば優秀な方も教師をめざすのではないかと思っています。保育士など、人生の中で必要不可欠な職業は総じて仕事量と給料が釣り合っていないように思ってしまいます。なぜなのでしょうか。(文)
・・・> これは教育の問題というより社会・経済の問題。経済の常識として知っておいてほしいのですが、今回の授業でも取り上げた第一次・第二次・第三次産業という区分でいえば、数字が大きくなるほど付加価値が高くなる(つまり儲かる)ということです。第二次産業≒工業の中でも、軽工業より重化学工業のほうが高付加価値。人間が真に生きる・生活するために必要不可欠なもの、たとえば穀物の栽培や繊維工業(衣類の生産)は低付加価値で、娯楽や文化にかかわるものはなぜか高付加価値です。エッセンシャル・ワーカーの低待遇構造もこれに類似します。私がそれを是としているわけではなく、そうした基本構造を前提にしておかないと、事態を改善することも難しくなるということですね。
■私はいま「ちょっと待って期間」。身体的にはおとなだし、成人もしている。でも国家や会社、他人のために働くには、まだ準備が整っていない。意志の強さやスキルが足りていないです。モラトリアムです。(教育)
・・・> 普通です。ちょっと(だけ)待ってあげます(笑)。
■青年期が11〜30歳と、そこまで長いのに驚きました。青年期や成人期などというのはどれくらい前からある言葉なのですか? (基幹)
・・・> 発達心理学という学問が、そのような発達段階を提唱しました。ただ、当初は子ども(それも乳幼児が中心)にしか関心がなかったようです。おとなはおとなだと考えられていたのでしょう。子どもの発達を体系的に区分した元祖は有名なフロイトで、ジャン・ピアジェが12歳くらいまでの発達段階を整理しました(テキスト第5章)。人間は亡くなるまで発達しつづけるという生涯発達(lifelong
development)の概念を提唱したのはアメリカの心理学者ハヴィガーストです。みなさんも教職科目で学ぶことになるのではないかと思います。
■かつての元服の年齢や児童婚、児童労働の話を聞くと、私たちは「若すぎる」と驚きますが、そもそも私たちが「おとなというのは20歳くらいから」という感覚をもっているのは、職業選択が自由になりモラトリアムが長くなったからなのでしょうか? 仮に児童婚や児童労働が問題である(とされている)地域で義務教育を18歳くらいまで設け、それがうまくいったとすれば、児童婚や児童労働はなくなるのでしょうか?
(教育)
・・・> 欧米や日本における青年期の長期化(出口の後退)は20世紀後半に顕著になりました。ご指摘のように、それによって「おとな」の入口設定が以前よりも高い年齢になっています。前近代では、身体がおとなになれば親の跡を継いで働けるわけですから、そこからがおとなでした。女性も満年齢で14〜15歳くらいで結婚・出産というのはめずらしくありませんでした。世界に目を向けると、冷戦終結後の1990年代ころからグローバル化が急速に進み、一部の先進国で発達した人権感覚が共有されるようになり、各地域の前近代的な遺制を「克服すべきもの」というふうに捉える傾向が強まります。国連のSDGsでもそのようなこと(普通教育を受ける権利)がいわれています。長年つづいた社会慣習や習俗が一挙になくなるということはありませんが、全員がまともな教育を受けるということは、知を得て(enlightened)自身の境遇や周囲の環境を批判的に認識し、社会参画によって前に進む力を獲得するということでもあります。現在の日本にだって人権感覚のおかしな慣習や風潮はまだあります。教育の重要性がますます問われます。一問一答式の暗記式の学習では、いくら積んでもそうした思考力や行動力は養われず、むしろ「空気を読んで現状に従えよ」みたいな同調圧力を生むかもしれませんね。

公立男子校の跡 歴史的建造物として保存されている(フランス シャルトル)
■21世紀の教育のポイントは読解力だと考える。多大な量の情報(21世紀ならではの)を正しく読み取り、知らない人、初対面の人と適切な?コミュニケーションをとるために必要な能力だと考えるためである。この授業を受けていて、私の読解力のなさを実感している。高学年だが、早いうちにこの授業を受けていたかった・・・。(人科)
■国家全体の課題ではないが、最近は中等教育での制限(校則など)を理由に初等教育の段階で自由な子ども(染髪など)が増えている点が問題だと考えた。(文)
・・・> まあ、いっては何だけど、どうでもいいレベルの問題なのではないですかね。いっときのことです。
■いまの社会が、排外主義的になっているのが非常に気になる。国際協調が重要になっている中で、時代に逆行しているのではないだろうか。(教育)
■外国に住んだときに自分の子どものナショナリズムがどうなるのかが気になった。日本は単一だと思っていたけれど、地域ごとに特色がある、その違いは?
(スポ)
・・・> もう少し文字量を増やして、説明を尽くしたほうがいいかな。短い2文だけなのですが、どちらにも誤解や認識のズレが含まれます。「自分の子どものナショナリズム」というのは表現として少し変で、ナショナリズムという概念の捉え方がずれているかもしれません。愛国心や帰属意識、ナショナル・アイデンティティならば成り立ちます。ナショナリズムは思想や思潮のほうで、誰か個人の中に根ざすものではありません。日本は単一だと思っていたというのはもちろん自由ですが、何が単一なのか(民族なのか言語なのか宗教なのか)を明らかにしなければロジックとしておかしい。「一つの国家」だというのなら、そりゃそうでしょということになります。地域ごとの特色の話は、私はしていないつもりです。国内のグラデーションや多様性に気づかないと、と申しました。もしかして、自分の住んでいる地域は「単一」「均質」と思い込んでいました?
■アイヌ、沖縄の人々を同化した歴史は、一時的には近代国家の成立やその推進としてはよかったのかもしれないですが、大変失礼で、おかしいものだった。(ほぼメモですが)郷に入っては郷に従え、はどこまでをラインとすべきか・・・。(教育)
・・・> 裏面に書いてくれたつぶやきみたいなメモなのですが、非常に重要な点なのでコメントします。おっしゃるように、日本の近代国家建設に際しては、北海道や南西諸島という、江戸時代には幕藩体制のほぼ外側にあった地域とそこに代々住んでいる人々を取り込み、同化を促しました。和人によるアイヌ社会の征服はそれより少し前の江戸中期に加速しています。北海道や南西諸島の取り込みは、どちらかというと軍事的な都合によるところが大きかったので、余計に問題でしたし、なんなら現在でもそれを引きずっています。本土の一部の人たちの南西諸島への視線には、しばしばイタいものがみられますよね。日本を含むアジア諸国では、西欧における動き以上に、公教育とマス・メディアが近代国家の確立と国民統合に大きな役割を果たしたとされます。後段、郷に入っては郷に従えということわざの意味を、ちゃんと知っている人はどれくらいいるのでしょうか。英語の
“When in Rome do as Romans do.” (ローマにいるあいだはローマ人たちがするようにせよ)というのもほぼ同趣旨のことわざないし慣用句です。いずれも、これから「郷に入る」「ローマに行く」側の心得をいっています。よそ者としておじゃまするのだから先方の流儀を尊重して、それに添いましょう」ということですね。断じて、迎え入れるマジョリティ目線の「ここに来たならわしらのルールや作法に従え」という意味ではありません。そのように誤って解釈した瞬間に、この言葉はとんでもない暴力性をはらむものになります。私は海外旅行が好きで、訪問国数は日本の都道府県にぼちぼち並ぶくらいなのですが、「来るんだったらうちの国のルールや作法をちゃんと学んでからにしてよね」といわれたら、ヒヨるかひるみます(汗)。自分がマイノリティになるという想像がなさすぎる人が多いのかな。
■中等教育制度も「国家」という存在そのものについても、今回の授業でお話があったように、それぞれ多くの問題をはらんでいる。しかし、たとえば中等教育は2つの型の教育が合わさってできたという、いわば「目的不純」の状態であり、国家も本来バラバラだったものを無理やり統一して国民国家としてまとまるように、上から圧力をかけたことによる不自然な集合体だ。いまこのような問題が表面化してきたのは、そもそも両社とも存在意義から不自然さが残るためであって、(その是非は置いておくものとしても)いま一度目的を考えるべきだと思った。(政経)
■産業が高次化するにつれて初等教育だけでは教育が足りない、となったことでできた中等教育、高等教育への準備としての中等教育があるが、前回のルソーの「子どもに教育を」的な考え方は、初等だけで対応できていたあの時代だからこそよかったのであって、初等教育は当たり前!の現在では土台が底上げされているから、中等で余計に差が出てきてしまうのかと思った。公教育がどのような役割を果たしているのか、やっとわかった。早稲田に通うことができるのは親のおかげであり、恵まれているという自覚はあったが、そうではない人の学習の背景を考えると、大きな差があることに気づけた。それとともに恐怖を感じた。(教育)
開講にあたって
教職課程へようこそ。この教育基礎総論Iは、その名のとおり教職課程の基礎として位置づけられるものであり、教員免許状の取得要件を規定する教育職員免許法施行規則において「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」とされている分野にあたります。当クラスの受講生は、中学校 and/or 高等学校の教員免許状の取得をめざす学生です。中高の免許状には「教科」名が明記されており、たとえば「国語の先生」「保健体育の先生」というように、特定の教科の専門家として指導にあたります。大学入学前のみなさんは、「国語の先生」「保健体育の先生」になるためには、国語や保健体育の関係科目を学べばそれでよいと考えていたでしょうか? 実際には、担当教科を問わず全員が受講し、単位を修得しなければならない科目がたくさんあります。これが「教職科目」と総称される一群であり、基本的には卒業単位の外側ですので、みなさんは教職課程を履修しない学生と比べて、おおむね2割増しくらいの授業を受けなければならない(もちろん授業を受けるだけでなく、それ以上に頭を動かして思考しなければならない)ことになります。それにしても、中高の教員になるにあたって、教育の理念、歴史、思想の学習がどうして必要なのでしょうか? 不思議に思われるかどうか、この分野は、1949年にいまの教員養成の制度ができたときからずっと、基礎の基礎として設定され、ただの一度も揺らいだことがありません。端的にいって、未来の教育者になるためには、教育の理念、歴史、思想を学ばなければならないというコンセンサスができているのです。
理念はともかく歴史や思想というのは、文系の一部門であり、高等学校でいえば世界史、倫理あたりに相当するものですから、これを全員が共有するというのはなかなかわかりにくいところがあります。その答えらしきものは当科目の最終回(第14回)で回収できるはずですが、開講にあたって一つだけ申しますと、現代教育の基本理念というのは歴史的に形成され、それには思想が内包されているということです。なぜ、どのような経緯でそうなったのか。そしてそれは時代の変化や地域の違いなどによってどのような実態をもつのか。課題や矛盾は何か。そうした点を知るには、歴史や思想の学びが不可欠です。忘れてならないのは、みなさんがこれから教員になるとして、その数十年のキャリアのうちに、また社会は変化し、教育も変移します。いま、この瞬間の教育だけを知って、わかったようになっていても、動体視力は養われず、化石のような認識を振りかざすどうしようもない先生になってしまいます(そういう人は残念ながら少なくありません)。
このクラスでは、最初の2回で問題意識を共有して、第3回以降の歴史・思想編で順次、問いへの答えを回収していくというプロセスを踏みます。本年度は他所での業務の関係で、スケジュールが若干入り組んだものになりますが、おおむね欧米教育史+教育思想史→日本教育史という流れになります。最後の2回がこの先の学びへの展望を含む、整理・まとめです。「卒業単位外だし資格モノだから、テキトーにやる」という人は向きません。おそらく脱落します。最終回で明示するように、中学校・高等学校の教員になるために(実は幼稚園・小学校・特別支援学校も同じです)なぜ大学を卒業する必要があるのか、という点をよく考えてみてください。大学での学び、大学ならではの学びこそが、教員に必要不可欠だからです。大学での学びとは、要するに学問です。みなさんには14回にわたって「学問」をしていただくことになります。でも、それはなかなかおもしろく、有意義な作業でもあります。教育者としてのしっかりとした足腰を備えるためにも、週の最後のほうの授業になりますが、万全の態勢で臨み、大いに思考し、深めてください。
<使用するテキスト>
古賀毅編著『教育原理 第二版』、学文社、2026年
*大学生協ブックセンター扱い 主に第2章〜第4章を扱います。
<評価>
●複数回の課題の内容によって評定します。
●課題作成における生成AIの使用に際しては、適切なルールを定めます。
●出欠は評価の対象としません。
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