古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études fondamentales sur l’éducation- 1

教育基礎総論1(中・高) C


早稲田大学教育学部教職課程(全学部対象)
春学期 金曜5限(17:00-18:40)  早稲田キャンパス 14号館 402教室

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2025(令和7)年度 教職科目における指導・評定方針

 

20255月の授業予定
5
2日 欧米教育史(1):歴史の中の近代
5
9日 欧米教育史(2):近代国家の形成と公教育
5
16日 歴史の中の教育思想(1):近代教育思想の展開 *オンライン(動画配信)
5
23日 欧米教育史(3)20世紀の教育課題
5
30日 歴史の中の教育思想(2):新教育思想をめぐって


次回は・・・
6-
欧米教育史(3)20世紀の教育課題

進行上の都合で教育思想の回をはさみましたが、欧米教育史(2)で取り上げたように、19世紀は公教育が確立され、急速に整備された時期でした。そして、民衆の側のニーズとも合致していったことで普及が進み、公教育は不可欠で重要だよね、という認識は広く共有されることになりました。みんながみんな就学して学ぶなんて、18世紀前半まで誰も考えたことがなかったはずなのに、驚くべき教育観(価値観)の転換です。さて、そこで確立され普及が進んだというのは、主に初等教育(elementary education)でした。ひとまず初等教育が一般化されたと考えておきましょう。いってみれば、欧米教育史(2)で考察したのは「0(ゼロ)を1にする話」です。今回は「12にする話」。いったん成立した公教育なるものを、前後左右いずれかに広げていこうという話にほかなりません。私たちの主要な関心の対象である中等教育secondary education)が、ようやく教育をめぐる議論の中心に入ってくることになりました。これまで高等教育と初等教育の話がほとんどで、中等がないことをいぶかしんだり、もやもやしたりしていたのではないでしょうか。中等教育は、何のために、どこから出てきたのでしょうか?

欧米教育史(1)で前近代の教育を取り上げた際に、フランス語のエリート(élite)という概念を紹介しました。「選ぶ」(élire)という動詞の過去分詞系で「(神様に)選ばれた」という含意があります。つまりは生まれながらにノーブルな身分の人たちを指します。今回その概念が制度の成り立ちにがっちりかかわってきます。中等教育=エリートのもの? その公式1つだけでよいのかはさておき、ひとまずそんなふうに捉えておきましょう。学びが浅く、自身の生徒目線での経験とその周辺だけをうろうろしているあいだは、「よい学校」の入試を受けて入学してエリートになることをめざすわけだから、それはそうだろうなあ、などと受け止めるのではないか。学問的な知見をもってそこを強力に修正するのが今回です。でも先生、それは欧州の話であって、日本でエリートといえば高学歴の人のことですよね、というかもしれません。いやいやそれはあなたが見ている21世紀の日本の、それも全体像ではなく自身の主観的経験から見える範囲の話です。今回(第6回)でお話しすることは、同時期の日本でほぼ同一のことが起こっている、というふうに捉えることが可能です。土台になった文化や社会構造が違うはずなのに、教育の構造はほぼ同じなんて、おもしろいですね。でも、どうしてそうなるのか。

19世紀と20世紀の違いというか、教育課題の広がりということでいえば、公教育確立のそもそもの意義・目的であった近代国家の確立とその成員の形成ということが、いったん果たされたあとで、どのように変質・変容するのかという点が挙げられます。19世紀になって、急にナショナルな教育になっていったわけですけれど、そのナショナルという枠組は不動のままではいられませんでした。すでにナショナル教育の話題の段階で、いやな予感はあったのではないでしょうか。うちの国は最高で最強だ、と強調すればするほど、他の国はそうでもないとか、最悪だというふうなことを述べることになるからです。その先に国家間の衝突(世界大戦)が待っていました。欧州は2度の世界大戦で消耗し、こんどは米ソを軸とした東西冷戦のフロンティアになっていきます。東側(ソ連・社会主義陣営)との対抗はあるが、西側(アメリカ・資本主義陣営)内部で国家どうしがもめている場合ではなくなります。ナショナルな教育の意義が相対化されていきました。また、非欧州圏から続々と移民労働力がやってきて、もともと多様だった欧州社会の民族構成(もちろん宗教や言語も)はより多様で複雑になっていきます。そこに「われらフランスは○○である」といった単数形の説明を付して、それで済むはずはありません。また、冷戦期は東西それぞれが科学技術を磨いて対抗しましたので、かなり専門的でレベルの高い内容を身につける必要が生じました。これも従来型の教育(だけ)では支えきれない要因です。今回の内容は公教育論はもちろんですが「社会構造まるごと」の話になり、かなりスケールというか話の範囲が広いので、この種の議論に不慣れだと面食らうかもしれません。でも、これを突破できると、学校教育をとりまく状況や構造がウソみたいにはっきりと見えてきますので、この機会にセンスを磨いておいてください。



REVIEW 5/9
*文意を損なわない範囲で表記や表現を改めています。掲載を省略したり、複数のものを統合したりする場合があります。

人々に自由な生き方を提供した教育が、しつけと表裏一体であるというのがおもしろいと思った。最初は強制的にやらされていても後に効果を実感したからこそ存続したのだという先生の意見にはっとした。でも、戦時中のように、国家が国民を統制するためのツールになってしまわないように教育を守るのは大変なことだと思った。(文構)

近代公教育が前近代の教育と大きく異なるのは、義務教育的側面、経費が無償である点、共通のカリキュラムが組まれた点、教科が系統的に分かれた点、宗教と分離した点であるということが理解できた。ただし教育や職業選択における自由が保証されたにもかかわらず、共通の知的・道徳的基盤を学ぶ義務という不自由が生じる、という矛盾が発生したところが興味深かった。さらに前近代において自然科学は経済・軍事に結びついておらず、趣味としてしか研究できなかったという事実に驚いた。(教育)

公教育を制度化することは、国民の意識や文化を統一するために不可欠であったのだと思う。また公教育は宗教と一線を引いているというのが特徴であるが、やはりその線はあいまいなままであったのではないかと思った。(文構)

宗教が、宗教を大きくするために子どもに教育を与えたように、国家が国家を成長させるために国民に教育したという対応が、大変おもしろいと思いました。(教育)
宗教を教える対象であった子どもが、現在のように公教育を受ける対象になっていく契機が、前回はわからなかった。回収されてよかった。(教育)

公教育が普及し定着したのは「受ける側が利点を実感したから」という理由に納得しました。しかし現在、公教育を受ける人々の中に、本当にそのように考える人はあまりいないのではないかと思います。以前の授業でも出てきましたが、塾で習うから学校は重視しないという人もいます。彼らにとって公教育は「受けさせられる」印象が強いのだと思います。この状況は、公教育がはじまる前、農業中心だった時代にそうだったように、教育の大切さがわからない「先祖代々してきたように」という型にあてはめているだけだと思います。(政経)
・・・> う〜ん、ちょっと違うような気がするんですよね。「受けさせられる」と捉えているのは公教育ではなく「授業」ではないでしょうか。「教科」といいたいところですが、それこそ塾が代替しますからね。学校教育そのものについては、惰性かもしれないけれど、ニーズはかなりあります(全員に、ではないです)。とくに「友達や仲間(や先生)と、時間・空間をともに過ごす」という経験は、規模の面でも内容の多彩さでも学校教育に勝るものはいまのところありません。コロナのパンデミックがはじまった当初(2020年度の1学期)、出校停止や分散登校、黙食の徹底、部活動や学校行事の中止などが相次ぎました。「授業」だけはどうにか維持しようと学校側はがんばりました。つまり学校教育にとって最優先は「授業」であり、そこを欠いてはならないから他には目をつぶったわけです。すべての大学と少なからぬ高等学校でおこなわれたオンライン授業は最たるもので、とにかく「授業」があるのだから最小限の教育は担保できていると、私たちは思っていたのですね。でも実際には違っていました。授業なんかよりも、友達と休み時間にわちゃわちゃ、いちゃいちゃすることこそが学校生活の本体でした。それは無意味で無用なおまけではなく、そうしてつくられたヒューマンな空間と仲間との共感が生むポジティブな心持ちがあって、ようやく学習という動作が安定して持続するようになるのです。当時の生徒・学生は本当に気の毒で、言葉もありませんが、教育者・教育学者としての私には、公教育(学校教育)の本体部分をあらためて思い知る、よい経験になりました(古賀「2020年に起こったこと/2020年に見えたもの」、古賀・高橋編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022年、pp.2-5に詳しく記しました)。

前近代の教育から近代公教育に転換していく中で、教科の分化がほとんどない状態から系統的に分かれていったことが大きかったと思う。分化しすぎることで、本来つながりをもってイメージしやすかったものがイメージできなくなることも考えられるが、初等教育段階においてはできるだけ項目を少なくシンプルにしたほうが、子どもたちが可視化できて、適切なのだろうと思った。(社学)

学問は、産業に結びつかなければ無用の長物となってしまうというのが、いまの自分の勉強姿勢について考えさせられた。(教育)
・・・> 無用の長物となってしまう、といった覚えはありませんが、そのように受け取ったとすれば、身に覚えがあるのかな? 理系も文系も、いまどきは「それを学んで何の役に立つのか」とすぐいわれるのだけれど、2回で考察したように、役に立つという発想はしばしば有害になりえます。安直な実用論者にかぎって「そんなことやって何になるのか。無用の長物じゃないか」というのでしょう。とくに理系は、産業に結びつくかどうかを存在意義として意識しすぎるきらいがあります。純粋に学問としておもしろいかどうか、のほうがはるかに意味があり尊いです(食えるかどうかは存じません 大笑)。

啓蒙思想の英語がenlightenmentで「知識の光を当てる」という意味であるのは知っていたが、フランス語でもLumièresが「光」を意味することを知ってとても驚いた。(文)

1792年当時のフランスは前近代の要素をかなり残していたため、コンドルセの案はかなり先駆的であった。社会のニーズを早すぎるうちに察知して、近代国家に必要なものを提案する先見の明は、福沢諭吉に似たものを感じます。(教育)

高等教育の発達によって初等教育も発展するという話がありましたが、初等教育は教会の教育方法がもととなって、そこに高等教育からいくつかの要素が加わるという解釈で合っていますでしょうか。(社学)
・・・> 合ってなくはないけど、合っていないんじゃない? (いくつかの要素って何?)

宗教観を分離させたのは、教育に宗教観を入れると公教育の知のはぐくみに支障がでることも一つにあるのか気になりました。(教育)
・・・> 何度か書いていますが「気になった」はなるべく避けましょう。質問があれば疑問文で。「宗教を分離」って文法的におかしくないですか? 「教育に宗教観を入れる」のは文法的に間違っていないけれど、意味は意図したものと違っていませんか?

国家という枠組ができてから、科学、経済を伸ばすために大学ができたにもかかわらず、いまの大学生は国に貢献したいという意思が低いと感じた。(基幹)

ナショナルというワードがたくさん出てきたが、是近代と比べて近代は対象や経費負担、目標などの主が国家になり、いいところも悪いところもあると思うが全員が同じ内容を学ぶことができるというのは、進歩なのではないかと考えた。(商)

公教育の構成要素を見ると、これまで何も考えずに捉えていた「教育」あるいは「学校」という言葉および概念の背景に、国家の存在があることを認識した。前近代のゆるい感じがなつかしい。(教育)


二コラ・ド・コンドルセ像(パリ 学士院前) 公教育の父にして人類の恩人

 

近代国家を構成する国民のレベルを高め、一体化を進めることで国民国家の地位を高めることを目的として、国家によって強制的にはじまった義務教育だが、民衆がそこで習った国語や算数などの「知」のよさに気づいたことで、公教育が不動のものとなり、当たり前のものとしてつづいてきた。そのため現代に生きる自分たちは、なぜ義務教育があるのか答えることができなくなっているのではないかと思った。

公教育を受けることが国民の義務となり、すべてにおいて選択の幅が広がって、それにより「先祖代々してきたよう」な生き方がもはや許されなくなった、という考え方は目から鱗だった。(文)

「国語」を英語でなんというか?というのがとても興味深かった。たしかにJapaneseではないような・・・ と思っていたので納得した。学校の授業のチャイムの話も興味深かった。鉄道によって時間の感覚が身につくというのはとても納得した。(教育)
「国語」という教科がなぜJapaneseなのかずっと疑問に思っていたが、中央集権の政府が統治している領域に対して押しつけたという説明に納得した。(教育)
「国語」という教科名の英語訳の仕方に、学びがあった。中高生のときは何も考えずにJapaneseと訳していたが、それだと単に「日本語」である。だからnational languageとして、その国の中心のある場所の言語をあらわすのだということがわかった。(文)
・・・> 日本の「国語」が東京山の手の話しことば(明治期の)、フランスのlangue nationale(国語)がパリを含むイル・ド・フランス地方のことば、英国の標準語とされるのがテムズ川河口付近の話しことばに依拠する、というふうにだいたいは「その国の中心のある場所の言語」にもとづいて、国語がつくられます。でも、「をあらわす」すなわちイコールということではありません。マジョリティの母語とはまったく別の言語を標準語として公定することも可能です。シンガポールの英語、インドネシアのインドネシア語、フィリピンのフィリピン語、中華民國(台湾)の台湾華語などがそうです。

近代国家が強大化するためには言語の統一が必要であるため、国語という概念が広がったが、はたして標準語でないとされているものを標準語に変えなきゃいけないというとき、反発はなかったのかなと気になる。私は山口県出身なのだが、標準語に変えるときはすごく嫌だったしつらかった。だからたとえば、フランスが国語を統一しようとしたときどうなったのかを知ってみたい。(国教)
・・・> 「変えなきゃ」というのが標準語ならぬ東京弁に特有のフレーズだと思うのだけど、それはいいのかな? (ていうか書きことばでは「変えなければ」のほうが安全!)

国民共通の言語としての国語について、言語を介して一つの国民国家としての意識が、ある意味では無理やりつくられた形になったが、これはフランスや日本など言語とそれをつくった民族が一致している場合であって、たとえばブラジルなどの国の国民意識はどのようにしてつくられるのだろうか。(教育)
・・・> 前提の部分が少し甘い。フランスや日本も言語的な統一がなかったからこそ、近代公教育はその中核部分に国語教育を据えたのです(といいたかったのですが)。公教育を通じて統一や一致が図られた結果のほうを見て、いっていませんか? いわゆる「先進国」以外の国民統合と公教育のかかわりは、それが進んだ時期によって、いろいろなパターンがあります。ブラジルは比較的早い段階で国民統合が進みました。言語面ではポルトガル語、民族の面では「多様な人種・民族が共存する社会がブラジル」という自己認識を中核に据えました。カナダが「うちは2言語あるのが特長であり誇り」という価値観を教育しているのと似ています。

日本史が近畿地方史になっている、という先生の発言にはっとさせられました。私は京都出身なので、地元の歴史を詳しく学べるのが楽しくて、日本史の勉強が大好きでした。しかし近畿以外に住む人は、縁もゆかりもない、行ったことがあるかどうかすら怪しい土地の歴史を教え込まれるわけで、少しおかしいなと思いました。(社学)
・・・> 補足しますとね、それなりの年齢になって、学びのレベルが上がってくると、縁のない地域や遠い外国の歴史にも興味をもちますし、学んで楽しいと思えるようになります。そもそも歴史(過去)というのが、身近でもなければ今後経験することもない話であるわけで、何年も生きていない子どもがキャッチするのは難しい対象ですよね。初等教育段階でナショナルな歴史を学ぶ(学ばせる)というのは、そういう意味で、実は結構アクロバティックなことでもあります。初期近代におけるキリスト教の子どもに対する教育(教育技術)が、そこで意味を帯びてくるわけですね。

共通の思い出が帰属意識を高めるということに納得した。(社学、類例複数)
公教育と国民国家の結びつきがこれほど強いとは思っていませんでした。とくに、国民共通の記憶という意味での歴史によって仲間意識を育てるというところには驚きました。(教育)

共通の歴史や思い出があると人々の団結力が上がるということを知った。国民が自分の国を誇りに思うのは、国語や歴史を教育されてきたからなのだなあと感心した。(文)

国家として近代化をめざすため、国家みずから国民に公教育をおこなったこと、またそこに国民側のニーズも合致して受け入れられたため近代公教育が定着したことがわかった。その近代公教育で疑問に思ったのは、国民の記憶としての歴史(日本だったら京都・奈良のように)の一部分に限定したのかということだ。もちろん覚える量が膨大になるのはわかっているが、地理のように地方ごとに学習する案や事例はなかったのだろうか。(教育)
・・・> あれ? そこをわかっていないと「なぜ公教育なのか」「なぜ歴史を教えるのか」という点がぼやけてしまわないですか? 地方の歴史なんか学ばせるヒマはないのでは。

以前、韓国の歴史教科書の日本語訳を読んだのだが、その訳に悪意がないというのを前提にすれば、日本の歴史で習ったものとは乖離がある箇所があり、引っかかった記憶がある。どちらが正しいかはともかく、お互いの教育は国史を浸透させるという点において成功しているのだとわかった。教育は自分に知識や選択肢という恩恵を与えてくれるものではあるが、教育が国民国家をつくる要となっている以上、すべてを鵜呑みにするのではなく、ある程度の作為が含まれていることを意識して学ぶべきだと思った。(文構)
・・・> 私、高等学校公民(公共)の教科書を書いているのですが、中学校でも高校でも公民教科書では「新聞を読もう」みたいな特集があって、各社により論調や重視するポイントが違うので、主体性をもって読み取れるようにしましょう、できれば別の新聞と比較して読みましょう、ということが必ず書かれています。すごく大切なリテラシー。それだったら、社会科の教科書も(国家によって?)論調や重視するポイントが違うので、主体性をもって読み取れるようにしましょう、できれば他国の教科書と比較して読みましょう、というロジックになってもおかしくないのだが、そうはなっていません。教科書さまは絶対です。いやもちろん、教科書会社も執筆者もそのようにはいっていないし、そのように教えなさいともいっていません。でも、「教科書に書いてあること」の基本線はおおむね正しくてそれ自体を疑うものではない、というところはなぜか無邪気に信じられていますよね。なぜなのか?

納得のいく話ばかりだった。とくに国語や歴史を教育する理由がとても腑に落ちた。少なくとも日本においては、国語や日本史、日本地理は、国内共通の基礎を身につけるため、英語や数理教科、世界史は世界共通の基礎を身につけるためのものなのだろうか。共通の基礎というのは、国家内におけるものだけではない、という認識でよいのだろうか。(先進)
・・・> 今回の話は公教育の形成期。したがって、現在の視点で見ると誤ります。算数や理科は国内限定です。当時は。英語や世界史、そしてレビュー主がおそらく想像しているであろう「数理教科」は、今回の視野から除外します。義務教育は初等のみでしたからね。それにしても、「世界共通の基礎」というのは、観念的にはありえますが、実際には無いんじゃないの?というふうに思います。それを教育しようとする国家があるだろうか。国家を超えた存在がない以上、難しいのではないか。という問いは、さっそく第6回(『教育原理』では3.7)に出てきます。

時間の感覚やルールを守ることなど、「教育」をあまり感じにくく自然に身につくものだと捉えていたが、教育によって布かれたレールの上を走る中で身についたために自然だと感じるのだと考えた。(社学)

近代公教育の三大原則の一つに「無償」があります。現在は義務教育でも教育が有償という国もあります。この原則が行きづまったのにはどのような背景があるのでしょうか?
・・・> 財政の問題じゃないですかね。国にお金がない。

以前の授業でも取り上げられたが、時間厳守の重要性と同じくらい、食事への感謝(いただきます)は大事だと思うか。(基幹)
・・・> 思いません。手書きの最後のところが少しだけブレていて、「大事だと思うか」(質問)なのか「大事だと思うが」(自問)の判断がつかなかったのですが、質問ならば「思いません」。私(古賀)が、食事への感謝が重要だと考えるかどうかという問題ではなく、「時間厳守の重要性」は近代国家およびそこで生きる人たちにとって重要だった、という話ですので、食事への感謝などとは次元が相当に違います。それは家の中でやってくれ、という話。

自分の中で「時間を守る」ということが定着したのは、学校教育、親の教育、部活動だと思う。まず小学校で時間に従って行動するということを教わり、他人に迷惑をかけない時間の使い方を親に教わった。そして部活動で、自分で時間を管理することを学んだ。(政経)
・・・> そうなんでしょうけど、今回の内容にあまり関係ないのでは? これしか引っかかりませんでした? (引っかかっていませんよ)


ジャンヌ・ダルク像(パリ ノートルダム大聖堂内)
ジャンヌは「救国のヒロイン」とされ非宗教的・国家的な文脈で理解されることが多いが
近代になってカトリックから祝聖され「聖人」の列に加わっている
数々のジャンヌ像の中でもこの像は特別に好きで、訪れるたびに対話しているのだが
2025
2月に火災いらい6年ぶりに見ることができて感激だった

 

公教育は、国家の側も一般の国民も、どちらもメリットを感じられなければ成立しないという話を聞いて、人類の長い歴史の中でここ100年ほどしか義務教育の制度が存在していないことに納得しました。(教育)

近代になって形づくられた教育がいまもその形を崩さずに残りつづけていること、すなわち近代と大きく違う現代の人々も、いまの教育に利点を実感している点が非常に興味深い。時代や価値観が違えど、人という生き物はあまり変わっていないのでしょうか・・・。(文構)
・・・> 仮説。近代と現代は、実は「大きく違う」ものではない。あるいは、いまの教育に利点を実感するというよりは「そんなものだから」という惰性が優越する。あるいは、価値観も人間も変わっているのだが教育とのズレくらいならば辛抱してしまう。あるいは、教育もかなり変化したのに自分たちがそれを捉えられていない。

公教育のおかげで人々の学力が向上し、社会の発展につながっているけれど、学校に行かないで家業をしてほしい親にとっては迷惑になる。そのとき子どもに勉強してもらいたくない人が教育の大切さを理解するようになったということを知り、国による公教育の影響は絶大だったと実感した。(文構)

近代公教育が急速に普及したことには、市民革命・産業革命などの要因があったことがわかった。アフリカなどの、教育が現在でも乏しい場所では、社会全体が成長することによって教育の普及の具合が変わってくると考える。(人科)
・・・> アフリカのイメージが数十年前のままになっていない? いまたいていの国家で教育の充実がみられ、「先進国」がアフリカ人材の囲い込みをするほどなんだけど。

近代公教育が定着した理由には深く納得した。近代の一斉式授業は、先生一人が多くの生徒を教え、啓蒙を促すことができるのでよい方法だと思うが、取り残される生徒がいることを忘れてはならないと思う。現代において、そのような生徒を個別で教えてあげるなど、するべきだと思う。また学校が、近代国家が国民にナショナリズムの風潮を広める装置になって、大きな役割を果たしていたのだとわかった。(教育)

公教育を受ける側のニーズあっての普遍化であるとおっしゃっていました。一方、経験的には、能力の向上や社会的地位の向上というニーズに対してはあまり自覚的でない生徒も多いという印象です(早稲田大学の学生は例外ですが)。このような自覚をより深めることが、教育の効率性を高めると思うのですが、いまの教育に求められる要件として、考えておきます。(教育)
・・・> そうですね。「効率性」ではなく別の表現のほうが(教育という分野では)腑に落ちやすいかもしれません。今回(第4回)のテーマは「公教育の形成」でした。次々回(第6回)は「公教育の変容」。形成期にはニーズあっての公教育の定着だと考えて間違いないのですが、それが変容するとはどういうことなのだろう。ニーズも変容するのか、など、考えておいてください。

洗脳と教育の違いはどこにあるのだろうか。単純な疑問であって公教育が洗脳であるといっているのではない。対象の思考や行動を改めさせる点では同じもののように見えなくもない。ほどこす側の目的によるのか、あるいはその内容によるのか、はたまた別のところにあるのか。そもそも切り離せないものなのか。先生のお考えをご教示願いたい。(教育)
教師は国家の手先であり、その教育によって国家に対して批判をもつというのは、とても皮肉なことであると思いました。古賀先生は、「教育を洗脳といわないように」とおっしゃっていましたが、正直私は、今回の授業を聞いて、教育と洗脳には近しいものがあると思いました。先生はどうお考えですか。(社学)
・・・> 前々回の当欄で触れたと思うのですが、あらためて申します。世の人々が日常の話しことば的な表現として「洗脳」をよく用いていますが、それはスラング。リアルなbrain-washingは、そうして用いられるのとは次元の違う、超ハードなもので、犯罪行為です。教育を身近な対象として論じるのは結構なのだけれど、そこに非学問的な、メディアなどで用いられる用語や概念を持ち込む際には、内容や範囲の合致があるのかどうか慎重に検討しなくてはなりません。その点で、公教育を洗脳だとみなせるケースはほぼ皆無です。要するに、あなたが(レビュー主だけでなく教職課程の学生みんなが)、いままでなんとなく用いてきた洗脳なる用語とその意味を捨てなさい、それは洗脳とはいいませんよ、ということですね。教育する側(直接の当事者とはかぎらず、たとえば国家権力とか資本などの場合もある)の意図を学習者にたくみに入れ込んで、その内面に影響を及ぼす作用(今回の内容にほぼ相当する事象)は、心理学・教育学では「刷り込み」(imprinting)といいます。なお、ABには近しいものがある、というふうに表現なさっていますが、こちらについてもアドバイス。10年くらい前から、若い世代を中心に、そのような表現が目立つようになりました。印象では理系の人になぜか多いかなと思います。「近(ちか)しい」という形容詞は、「親しい(ちかしい、と読むこともできる)」と同じ意味で、人と人との心理的な関係が近いことを指します。ABが似ているという場合には用いないでください。それはシンプルに「近い」です。文語文法の形容詞にク活用とシク活用があるのをご存じと思いますけれど、「ちかい」と「ちかしい」とは別の語彙で、当然意味も違います。

国民国家を批判するとき、そのような批判をできるようになるだけの学力は、国民国家が確立した近代公教育によって育てられた。というのはなんともいえない気持ちを抱きました。(教育)
・・・> 教育ってそういうものというか、そういうポテンシャルを含んでいます。教育する側の意図やねらいを飛び越えて、教えたものが別の作用を起こし、思いがけないような影響を生むという。それは個人レベルでも社会レベルでも起こることです。教育の陶冶性(とうやせい)というやつです。

ひどく失礼なことを書きますが、先生は反公教育すぎると正直思ってしまいました。自分はネット、SNSによる全国のつながりの進歩はナショナリズムに傾くべきで、画一であるべきだと考えていたし、先生は国家の僕(しもべ)であるべきだと思っていました。といっても逆の視点(反公教育、反ナショナリズム)を考えることで、「公教育への解釈」がクリアになったと思いました。(教育)
・・・> 別に失礼ではないですよ。学問や議論はオープンにするほうが楽しいし有意義です。大学生にもなって私(古賀)や担当教員のいうことを是として受け取るだけの態度は、なんちゅうか、無意味という以上に有害なのではないかとすら思います。今後もぜひどうぞ。さて、私は授業内でも「アンチナショナリスト」である旨を述べたように、反ナショナリズムであることは自認しており、隠そうとも思いません。ただ「反公教育」という指摘を受けたのは初めてで、まあ不本意です。私くらい公教育推しの人はいないんじゃないか(笑)と思っているからです。学会や業界団体でも、公教育を連発しすぎて(もちろんポジティブな意味で)うざがられるほどです。おそらくレビュー主が、公教育という概念を十分に考察できておらず、捉えそこねたのでしょう。公教育という用語を、日ごろあまり意識的に使ったことがないのではないですか? 教職の授業でにわかにそれに触れて、とくに今回は「公教育=国家権力による教育」という面を強調する回だったから、反国家的な古賀は反公教育だというふうにショートなさったのではないかと推察します。どうでしょうか? レビュー主が右派・保守派なのかどうかは断定できませんが、書いていることから想像するに、真ん中よりは右ですよね。アドバイス。「公教育」とか「国民国家」っていうワードを連発するのはどちらかというと左派・リベラルで、現在のナショナリズムとは距離を置く側です。右派・保守派はもっと別の言葉遣いをします(教えないけど 笑)。もうずいぶん前になりますが、熱烈な右翼学生がいて、でもSNSか何かでかぶれたくらいの浅学な右翼だったため、「古賀先生は国民国家を否定していますが、国民国家を尊重することこそ教育の使命です」みたいなことを書いてきました。批判・抗議のつもりなのだろうけど、右翼なら「国民国家」なんて言葉を使うなよな、仲間ににらまれるぞ、と思ったことです。ま、SNS以前のネット交流の時代からそうですが、ネットでかぶれた右派・右翼は本当に浅学で困る。ナショナリズムや保守思想の学問的な厚みは相当にあるのだから、それを学んでほしいよね(レビュー主にではなく、世のなんちゃって右派の若者に)。

 
歴史=国民の記憶の共有は、公教育のみならずメディアを通して、あるいは建造物やモニュメントを通してもおこなわれる
「わが国の英雄」的な人物の像を公共空間に置くことで、市民が常時そうした「記憶」に触れ、価値を内面化するのである
(左)ロンドン中心部のトラファルガー広場に立つネルソン提督の像 ナポレオン軍を海戦で撃破した英国の英雄
(右)ニューヨーク証券取引所前に置かれたジョージ・ワシントンの像 いうまでもなく独立戦争の指揮官で合衆国の建国の父

 

他の教職課程の授業でも、公教育とは何かというのを議題にされることが多く、そのほとんどでポジティブな印象を抱いていた。しかし自由や平等を背景に置いた社会であるにもかかわらず、公教育という名の国家権力が浸透しているこの状況が、少し矛盾しているように感じた。しかし近代化に伴う産業革命には、国民一人ひとりの知的な基盤構築が「国家」の役目として必須だったのだろうと考えた。(教育)
・・・> 前半の考察はすばらしい。その矛盾は、教育にとどまらず近代(化)一般にみられます。これが見えてくると(見えなくなると、というべきか)文系はおもしろくなります。後半も悪くはないし間違っていないのですが、国家がその役目を意図的に果たしたのか、結果としてその「役を演じる」ことになったのかによって、ずいぶん違ってきます。

体育館がどうしてスポーツセンターではなく体育館なのかということを、いままで疑問に思ったことはなかったけれど、話を聞いていてどうしてなのか気になりました。ただ、意外とあまり意味はなく名づけられている可能性もあると思います。(教育)
・・・> あまり意味がなくて名前がついているものほど、注意深く考察するべきでしょう。無意識のうちに自分たちの価値観やバイアスが反映して、妙なことになるケースが多いのです。実害がないのだから放っておけ、ではなく、そこに文化や思想の脈をさぐるのが文系の学び。西欧に生まれた近代スポーツが日本に入ってくるのは明治・大正期ですが、そのころスポーツという呼び方はほとんど定着せず、だいたいにおいて体育と変換されました。体育は身体教育physical education)ですので、意味するところは大幅に違うはずですよね。体育祭というのは学校の行事だから体育でもいいのかもしれないが、日本体育協会(2018年に公益社団法人日本スポーツ協会に改称)とか国民体育大会(2024年度から国民スポーツ大会に改称)というのはどう考えても体育ではなくスポーツの大会です。「体育」的なところからスポーツを解放するべきでは、という議論が一部にありました。

体育館になぜ「体育」がつくのか、いわれてみて初めて疑問をもちました。同様に、体育館の他にグラウンドがあることも不思議に思いました。それは単純に活動範囲を広げるためですか。一つだけでは足りない理由があったのでしょうか。(教育)
・・・> おわかりとは思いますが念のため確認しておきます。「体育」館という呼び方の話と、体育教育の場として2種類の施設があるという話は、まるで別件です。ちょっと連想しちゃっただけですよね? 日本の近代公教育(とくに初等義務教育)において、最初からあるのはグラウンドのほうです。いまはグラウンドのほうが定着していますか? 現在も制度上の呼称は「校庭」です。私が児童・生徒だったときには「校庭」一択だったように思う。体育館なる施設が標準化されたのは第二次大戦後です。それまで講堂はあって、そこで体育をすることも出てきたようですが、趣旨が逆転して、体育施設としての体育館を設け、そこで始業式や卒業式などの儀式もおこなう、「講堂」の役割果たすようになりました。最近は規制緩和・地方分権が進んでいて、校舎と校庭と体育館が標準装備、ということでもなくなりつつあります。私が専門にしているフランスの学校は、空から見るとのような形の校舎が多く、中庭(パテオ)はあるものの日本式の校庭はないところが多いです。とくに都市部では。私がこれまでに勤務した学校の中には、グラウンドが附属していないところもありました。首都圏の私立高校には多いかもしれませんね。むしろ体育館のほうが(場所を取りませんので)標準的になりつつあるかもしれません。ただ、校庭での体育や行事に熱中症のリスクがあるのと同様に、体育館もやばくなってきています。公立小中高の多くは空調のない古い体育館のままで、設備更新の優先順位も低く、また体育館規模の建物にエアコンをつけるとなると膨大な費用がかかります。私が学校施設の整備にかかわっている自治体ではその問題が深刻化していて、さきごろ実地で見せていただきました。真冬だったため体育館内は酷寒。卒業式なんかも寒くてたまらないだろうなと思いました。私の子ども時代はともかく、冷暖房の中で育ったいまの世代にとってエアコンは必須なのに!

「規律や集団生活、決められた学習行動などに同調することが苦手な子どもにとっては苦難の時代の到来」という部分を読んで、学校がなかった時代のほうが、文字が読めなかったりして大変だったのではないかと思っていたが、発達障がいのある子どもたちにとってはのびのびと過ごせて、よかったのかもしれないということに気づいた。(文)

フランスの公立学校で、ヒジャブやアバヤの着用を禁止する法律があったように思うのだが、フランスが他国よりも強硬に非宗教を徹底するのは、過去に宗教から教育の権利を奪取するのに苦労したからなのか。それとも単にキリスト教的な表現を学校で禁止しているから、それとの釣り合いをとるためなのだろうか。(文構)
・・・> よくご存じですね! フランスは、以前にお話ししたライシテ(laïcité)というのを国家原理のひとつにしており、憲法にも明記しています。ライシテは公教育の分野でとくに注力され、トラブルや論争が起きるのも多くは公教育の場。それは、ご指摘のように、過去に宗教(カトリック)から教育の権利を奪取するのに苦労したからです。そうやって1905年に最終的な分離が法定されました。その段階では、実質的にカトリックと教育の分離(séparation)です。20世紀後半にイスラームの住民が増え、いま人口の1割程度を占めるほどになりました。そして、またまたご指摘のように、キリスト教的な表現を学校で禁止しているのだから、釣り合いをとるためにムスリマにもダメよということになります。でも、現代のキリスト教とイスラームでは、宗教や信仰と社会生活との距離やかかわり方がまるで異なります。自身のありようと一体化した宗教的表象を「公共の場だから外してね」といわれるのは、ムスリム・ムスリマにとってはありえない指示なのですね。「要は、フランス人=白人のキリスト教徒という線を守り、異質と感じるイスラームを排除したくて、そんな意地悪をいうのだな」というふうに受け取られるようになっていきました。ライシテは、時代・時期や分野や場面によって、どうとでも主張されうる不思議な概念です。右派も左派もライシテが好きです。教・教分離のころには、概してカトリック=右派・保守派でしたので、ライシテはそれと対抗する中道・リベラル・左派などが好んで主張しました。現在は、どちらかというと「フランスの<伝統>に沿えないのならフランスにいるべきではない」とする右派や排外主義者によって用いられることが多くなっています。伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』(岩波新書、2018年)をぜひお読みください。

フランスの19世紀の読み物で愛国心を養ったという話を聞き、国家が好きなように国民に教育できてしまうからこそ、極端に愛国心を煽り、特定の国の短所を教えたり自国の行動を正当化したりしてしまえるところは怖いと感じました。だからこそ国家の未来を担う若者への「教育」は、国家にとってとても重要なものであるともあらためて思いました。(教育)
・・・> 愛国心教育だけではないですよ。英語だろうと数学だろうと体育だろうと、国家や学校は、生徒たちに「(好きなように?)教育できてしまう」主体です。中身を替えてもそれはたいてい成り立ちます。だからよいのであって、だから怖いのです。そして、気づいているだろうか、若者への「教育」とお書きになっている部分(主語)に、近未来のご自身も含まれているということを。




開講にあたって

教職課程へようこそ。この教育基礎総論Iは、その名のとおり教職課程の基礎として位置づけられるものであり、教員免許状の取得要件を規定する教育職員免許法施行規則において「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」とされている分野にあたります。当クラスの受講生は、中学校 and/or 高等学校の教員免許状の取得をめざす学生です。中高の免許状には「教科」名が明記されており、たとえば「国語の先生」「保健体育の先生」というように、特定の教科の専門家として指導にあたります。大学入学前のみなさんは、「国語の先生」「保健体育の先生」になるためには、国語や保健体育の関係科目を学べばそれでよいと考えていたでしょうか? 実際には、担当教科を問わず全員が受講し、単位を修得しなければならない科目がたくさんあります。これが「教職科目」と総称される一群であり、基本的には卒業単位の外側ですので、みなさんは教職課程を履修しない学生と比べて、おおむね2割増しくらいの授業を受けなければならない(もちろん授業を受けるだけでなく、それ以上に頭を動かして思考しなければならない)ことになります。それにしても、中高の教員になるにあたって、教育の理念、歴史、思想の学習がどうして必要なのでしょうか? 不思議に思われるかどうか、この分野は、1949年にいまの教員養成の制度ができたときからずっと、基礎の基礎として設定され、ただの一度も揺らいだことがありません。端的にいって、未来の教育者になるためには、教育の理念、歴史、思想を学ばなければならないというコンセンサスができているのです。

理念はともかく歴史や思想というのは、文系の一部門であり、高等学校でいえば世界史、倫理あたりに相当するものですから、これを全員が共有するというのはなかなかわかりにくいところがあります。その答えらしきものは当科目の最終回(第14回)で回収できるはずですが、開講にあたって一つだけ申しますと、現代教育の基本理念というのは歴史的に形成され、それには思想が内包されているということです。なぜ、どのような経緯でそうなったのか。そしてそれは時代の変化や地域の違いなどによってどのような実態をもつのか。課題や矛盾は何か。そうした点を知るには、歴史や思想の学びが不可欠です。忘れてならないのは、みなさんがこれから教員になるとして、その数十年のキャリアのうちに、また社会は変化し、教育も変移します。いま、この瞬間の教育だけを知って、わかったようになっていても、動体視力は養われず、化石のような認識を振りかざすどうしようもない先生になってしまいます(そういう人は残念ながら少なくありません)。

このクラスでは、最初の2回で問題意識を共有して、第3回以降の歴史・思想編で順次、問いへの答えを回収していくというプロセスを踏みます。本年度は他所での業務の関係で、スケジュールが若干入り組んだものになりますが、おおむね欧米教育史+教育思想史→日本教育史という流れになります。最後の2回がこの先の学びへの展望を含む、整理・まとめです。「卒業単位外だし資格モノだから、テキトーにやる」という人は向きません。おそらく脱落します。最終回で明示するように、中学校・高等学校の教員になるために(実は幼稚園・小学校も同じです)なぜ大学を卒業する必要があるのか、という点をよく考えてみてください。大学での学び、大学ならではの学びこそが、教員に必要不可欠だからです。大学での学びとは、要するに学問です。みなさんには14回にわたって「学問」をしていただくことになります。でも、それはなかなかおもしろく、有意義な作業でもあります。教育者としてのしっかりとした足腰を備えるためにも、週の最後のほうの授業になりますが、万全の態勢で臨み、大いに思考し、深めてください。


<使用するテキスト>

古賀毅編著『教育原理』、学文社、2020
*大学生協ブックセンター扱い 主に第2章〜第4章を扱います。

 

<評価>
複数回の課題の内容によって評定します。
出欠は評価の対象としません。

 

 


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