古賀毅の講義サポート 2026-2027

Études fondamentales sur l’éducation- 1

教育基礎総論1(中・高) C


早稲田大学教育学部教職課程(全学部対象)
春学期 金曜5限(17:00-18:40)  早稲田キャンパス 14号館 402教室

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2026(令和8)年度 教職科目における指導・評定方針

 

20266月の授業予定
5
29日 歴史の中の教育思想(2):新教育思想をめぐって
6
5日 フォーラム 高度化する教育課題と学校の学び
6
12日 日本教育史(1):近世〜明治前期の教育
6
19日 日本教育史(2):明治後期〜昭和戦前期の脅威幾
6
26日 日本教育史(3):占領期の教育改革


次回は・・・
9-
日本教育史(1):近世〜明治前期の教育

ここから4回にわたって近代日本の教育史を扱います。教職科目の設計(設定)としては、欧米教育史はゼネラルな理解の枠組をなすもので、日本教育史はそれが具体的・実際的にどのような発現の仕方をしたのかという実写版にあたります。同時に、現在の学校教育の状況を歴史的に考察する際の有力な補助線にもなるものと思います。学校で歴史を初めて扱うのは小学校6年生の社会科ですが、そこにおいてすでに「明治維新のすぐあとに、近代的な学校がつくられ、子どもたちが学ぶようになった(いまのみんなと同じように)」という趣旨のことが写真資料とともに学ばれます。こまかな年号や状況はともかくとして、学校教育が明治維新後にはじまったということ自体は、広く知られているのではないでしょうか。日本における近代公教育の創始は、1872(明治5)年の学制の布告によります。学制と書くと制度のことかな?と思いがちですが、これは法令名です(他に「市町村制」などもあります)。大日本帝国憲法や帝国議会ができるのはずっと後で、明治5年の時点では太政官という律令めいた政府の枠組が機能していました。天皇のもとで政策や行政を扱う太政官が、教育に関して布告した、というような趣旨で理解してください。欧米を視察した岩倉使節団のうち専門視察として大半を独自に調査行動した田中不二麿(尾張藩士出身の行政官)が「理事功程」という詳細なレポートにまとめ、それが学制の基盤になったといわれます。もとより大急ぎでこしらえたものなので不備が多く、また実際に機能しない部分もかなりあったのですが、それにしても維新から数年にして公教育の有用性と必要性を適切に受け止め、制度化まで果たした当時の政府首脳の慧眼には驚かされます。この学制は、至急かつ広範に広報する必要がありましたので、立法趣旨を示す序文がつけられ、その内容が文書や高札のかたちで全国に公示されました。この学制序文は、日本の近代公教育宣言とも呼べる記念碑的な文書です。150年前の日本のトップが公教育の制度化に何を期していたのかを、ここから読み取ってみることにしましょう。

日本史に詳しい人ならおわかりのように、明治維新の後も、日清戦争(1894-95年)ころまでは政治が常にぐらぐらしており、日本国家の進むべき方向もなかなか定まりませんでした。学校教育もそれに振り回されることになります。なかなか実の上がらない学制に替えて、1879(明治12)年には教育令が出されますが、その内容に政府部内でも批判が起こり、翌年には大規模な改正があります。改正教育令とか反動教育令といわれるもので、「反動」と評したのはおそらく戦後のマルクス主義系の教育学だと思いますが、たしかに「むやみな改革や前身はさせない」というような強い意志の込められた修正でした。伊藤博文や森有礼などは漸進的な改革・欧化路線を採ったのに対し、公家出身の政治家や尊攘志士あがりの行政官、そして地方の地主層などは保守的な価値観を尊重する教育を志向しました(伝統秩序のベースにあった儒教に、なぜか神道の要素が混じり込んだのが特徴です)。明治天皇とその側近グループも保守派を後押ししました。そうした綱引きないし押し合いを、いい感じで(保守派寄りで?)収拾したのが山縣有朋です。学校教育の内容や方向をめぐる議論ですが、それはそのまま近代日本の歩むべき進路をめぐる論争に直結しました。日本にかぎらず近代教育とはそういうものなのかもしれません。その「成果」として、1890(明治23)年に渙発された教育ニ関スル勅語(教育勅語)があります。日本史の学習だと、ともすれば「教育勅語が出されて、子どもは暗誦を強いられ、天皇中心の価値観が浸透していくことになった」というようなシンプルな記述で終わりがちなのですが、学校教育とその理念を考えるうえでは、制定の経過やその影響なども含めてきわめて重要な考察対象ですので、今回はなるべくじっくり取り上げます。

教職科目の教育史では、いま述べたような、学制→教育勅語という変遷とその意図・趣旨が常に中心的に取り上げられます。これは戦後ずっとそうでした。私も基本的にはそれでよいと思うのですが、少し物足りなく感じる部分があります。それは、教育を受けなさいと命じた国(政府)の意図とは別に、そのように命じられた一般民衆(国民という概念、感覚はまだほとんどない)の側がどのように受け止め、行動した(しなかった)のかということへの見通しがないことです。当時の日本人の多くは貧しい農民でしたし、子どもも貴重な労働力でした。寺子屋で十分じゃないかという発想が平均的なところだったのではないかと思います。読み書きに加えて算術や歴史や理科も学ぶということの意味を一般民衆が理解したとは思えないのですね。まあしかし、令和の国民がそれを適切に理解しているのかというと、心許ない気もします。就学して学ぶという新しい規範が、人々の内面や価値観、そしていまでいうキャリア・プランにどんな変化をもたらしたのか。しっかりとしたエビデンスがないので想像や推測を交えることにはなりますが、そこに目配りをしながら、明治中期までの教育の変遷を追いかけることにします。

 

REVIEW 5/29
*文意を損なわない範囲で表記や表現を改めています。掲載を省略したり、複数のものを統合したりする場合があります。

新教育思想について学んだ。国家などではなく子どもを教育の中心に考える経験主義という発想が印象に残った。子どもの興味に重点を置き、発展をめざす考えは、いままで私が受けてきた教育には足りないと考えた。(文構)

新教育と伝統的な教育は、正反対であるはずなのに、どちらが正しい、間違っていると言い切れないのが不思議だ。子どもの興味・関心が社会に都合がいいように現れるとはかぎらないから、いまもなお新教育が完全には普及していないのかもしれない。子どもにとって文化資本や性格、身体などの差があるからこそおもしろいし、難しい。(文)

新教育について考えたことはなかったが、このように子どもの興味に寄り添った教育になっていたことがわかった。その時代の教育に関する本を他にも読んでみたいと思った。(文)

教育は、教えて育てるという意味であると解釈し、教と育をセットで捉えていたので、「育」を重視し「教」を批判する(教と育は異なるものとする)考え方が衝撃的だった。まず本人に学びたい、もっと知りたいと思う分野や感情を知ってもらい、その後に伸ばしてあげる、と考えると、言葉で表すのなら「育教」がよいのかなと考えた。(文構)

新教育も旧教育にもよい面と悪い面があるが、少なくとも以前とは「学習者」の性質が変わっている現代において、その方法を再検討することは大切なことだと理解した。数百年前は、高等教育は学びたい金持ちだけのもので、だからこそ学びたいけれど学べない人もいた。しかしいまは比較的多くの人に開かれていることに加え、高等教育自体が就職市場において価値をもつため、高等教育の一部がいわば就職予備校的な側面をもちはじめてしまっているかもしれない。そのような意味で、高等教育がはじまった当初とも、公教育がはじまった当初とも、現代教育が「違う」ことを理解することがまずは大切なのかもしれないと思った。(政経)

教えれば学ぶという考えは、基礎的知識を学ぶうえでは、強制力があり効果的であるが、少しの遊び心のような教育の展開がない&反復的で生徒自身の学びへの理解がなくなってしまうと考えた。学習に対する納得感を生徒に与えられるような「質」にも着目した教育観が必要だと考えた。それは、教えるだけでなく学ばせるという難易度の高い教育観だとあらためて学ぶことができた。(教育)

「知識を教えれば学ぶ」というのは、義務的に勉強させられている現在の中等教育においては成り立たなくなっていると思う。しかし、ほとんどの生徒は教えなければ学ばないとも思う。(教育)
・・・> 「教える」に2種類の含意があることに、ご自身で気づいておられるでしょうか?

教えれば、学ぶと思うか? 正直にいって、学ばないと思います。新教育の「端緒とされる傾向」にあるように、嫌いなこと・苦手なことを学ばず、自分の好きなもの・得意なものだけ学ぶと思います。(基幹)
教えれば、学ぶのか。現代の教育で考えても、学ばない生徒のほうが多いと思う。学びの主体は子どもであり、おとなはあくまでその補助に徹するべきだが、それを現代で実現させるのは困難だと感じた。(文構)

教えれば、学ぶ のか? 数学の授業(中・高・大)は黒板に先生が書いているだけでつまらなかったけど、完全に自習ならいいのかというとそれも違う気がする。中等教育だと、その先生自身の考え方や経験などを伝えながら授業を工夫していくのがいいのかな〜と思う(今の超未熟な私は)。(教育)
・・・> 中学校の数学の授業は、黒板に先生が書くだけということはもうないと思うんですけどね。ま、私立の中高一貫進学校は教育方法の点でかなり遅れていて、学力差が前提となっている公立中学校では何よりもまずその部分の改善に取り組んでいますので、数学の授業こそ先進的で工夫がある、という印象です(レビュー主がどういうご経歴なのかはもちろん存じません)。

おとなが教え込む一方的な教育の限界ということに、大きく共感した。一方的な教育は効率的ではあるが個性が無視される。いまの生徒の積極性を求める新教育は、まさにいまの自分が身をもって受けている、授業内でのディスカッションの増加があった。成長も感じるが何より楽しかった。これからの新教育ではさらに積極性と個性の発揮を求められると思った。(教育)
・・・> 書いておられることにとくに異存はありません。ただ「これからの新教育」というのが微妙。新教育は思想または運動のことです。


川越市立博物館の展示物

 

教室の雰囲気のことは、トットちゃんの話で、効率のよさを求める教育の名残であると感じた。とはいえ日本の文化を考えると、学校の教室は、間違ってはいないが多様性を受け入れることのできる状態ではないのかもと考えた。(教育)

公教育が統一性を重視し、「みんな同じような教育」をするものとして定着したが、新教育が展開されるのにあたって、これまでより子どもの興味や関心に合わせた学習方法を提供するという考え方が主流になった。教えれば子どもが主体的に「学ぶ」のかという課題は、たしかに的を射ていると考える。私の高校では、「あなたの興味は何?」と質問されたときに、両極端に分かれてしまった。教師として、どのように子どもの関心を引き出せばよいのか、アプローチの仕方が難しい。伝統的な教育方法では、皆に一方的に同じものを提供すればよかったものの、新教育では個々を重視したアプローチを求められるため、生徒によって、あるいは教師によって質が変化しそうだ。家庭の経済状況も大きく関係するため、公教育でどう補うのかも考える必要がある。(国教)
・・・> 外すべきでないポイントがあります。それは発達段階(と学校種)。「あなたの興味は何?」と前提なしで訊ねるというのは、小学校では大いにアリですが高等学校ではナンセンスです。既得・既習のことがそれなりに系統化され、蓄積され、さらに自身の適性や進路についても考えつつある高校生に、学校で学んでいることと無関係に興味を聞いても意味はないどころか、変な期待をもたせれば有害ですらあります。物理とか英文法に興味があります、という生徒は少数派で、シンプルに興味を聞かれればスポーツとかサブカルとか恋愛のことじゃないですか? デューイ先生ならば得意の話術で巧みに取り込んでしまうかもしれないし、実は私もその手のバイパスづくりが得意で、好きなのですが、普通は無理でしょう。教科学習の中にいくつかの傾向や特徴を見出して整理し、生徒自身の言葉でそれをいわせて、近接しそうな話題をこちらから提供する。これが高校段階での興味・関心の探り方(の例)です。中等教育の教員は「教科の専門家」です。だから自身の専門教科を離れたところ(たとえばサブカル)で勝負しても、生徒には勝てません。しかし中等教育の教員は「教科の専門家」です。それは、自身の専門教科を、個々の生徒にとって最適化するワザや視点をもっているという意味での専門家でもあります。

今回の授業を通して、系統主義教育と経験主義教育について学ぶとともに、学校ビオトープの設置やそれを活用した学習活動の実践にも、経験主義教育の考え方が取り入れられているのではないかと考えました。また経験主義教育の課題として文化資本と子どもの学力、知的好奇心に相関があるのではないかということが考えられ、そうした問題の緩和には、鹿児島市や江戸川区で実施されている「青少年の翼」プロジェクトのような、経済的負担を家庭に与えない好適な取り組みの普及、周知を図ることが重要だと考えた。(教育)

educereeducareの対比がとてもきれいだと思ったが、いまの教育はどちらも混ざっているのかな?と思った。生徒たちが議論や意見を言い合うといった教育が大事。しかし、どのようにすれば生徒たちがそのようにできるか、環境づくりなどどうしたらよいですか? (スポ)
・・・> 学級経営や日ごろのコミュニケーションを通して、生徒間そして生徒・教員間の信頼関係を構築しておくことです。ここでは何をいってもいいし、間違ってもとんがっても別にかまわないという合意がある状況を、ひとむかし前の教育学では支持的風土といっていました。教育実習はだいたい56月なので、実習校に行ったら各学級の風土をよく観察してみてください。担任の先生のご指導がどのように反映されているか、そしてどんな環境・状況であれば議論しやすくなるのか。

今回の授業を通して新教育について学び、とても理想的な形であるように感じた。しかし現在の日本の公教育に、これを全面的に反映させることは困難であると思う。また個人的には、「学ぶべきことがある」とする伝統的な教育の形を完全に取り去るべきではないと考える。どんな子どもでも教育を受ければ立派なおとなになれる、という考えのもとでは、一定の「学ぶべきこと」があるのではないだろうか。(教育)

新教育思想は、子どもの興味や発達に合わせて学びを引き出す点が特徴的だと思った。柔道をしているが、柔道でもただ技を教えられるだけでなく、自分で考えながら練習するほうが成長できるし、この考え方は大事だと思った。自由を重視しすぎたら基礎が身につかないので、そこではバランスが大切だと考えた。(スポ)

デューイや手塚岸衛の、皮肉のこもった文章がおもしろかった。新教育は発達理論の発展やさまざまな教育法の確立に役立ったが、理論的には簡単に見えても実践の難しさや文化資本のことなど、問題がたくさんあり、いろいろなことを考えなければならないなと思った。(文)

さまざまな国で新教育がおこなわれていた。新教育という言葉を聞いたことはあったが、内容までは知らなかったので興味深かった。日本史選択だったので羽仁もと子の名前を見て少しうれしかった。私に優劣の判断はできないが、私も新教育を受けて見たかった。(教育)

現代の人に、新教育に対して否定的な人はいるのかなと思いました(いるだろうとは思うから質問ではない)。だとすると、新教育の前の教育を受けた人たちで、あまり自分たちの受けた教育を否定したくないのだろうか。でも、新教育に表れた、生徒の自主性をいちばん適用すべきなのは初等より中等教育であると思う。しかし中等教育は、生徒のモチベはあるがそのぶん知識の詰め込みもしやすく、可塑性のある初等教育のうちに知識を入れさせたいが、初等はモチベが薄いから入らないと思われる。難しい・・・。(教育)
・・・> モチベの違いもそうですが、初等と中等では学習内容のレベルや抽象性が格段に違います。知識を入れようとしてもなかなか入らない、というのが中等教育。

新教育の思想は、学びの主役=子ども と考えるということでしたが、それは本当に子どもにとっての自由なのでしょうか? それともおとなが理想とする、主体的な子ども像に子どもを近づけようとしているだけなのでしょうか? 私には、おとな側の理想や期待が含まれているように感じました。また、「個性を大事にする」ということは、個性がない人(いないかもしれませんが・・・)にとっては、プレッシャーに感じてしまうのでは? (教育)
・・・> 前半の問いは、ご自身でいっていることが途中で入れ替わってしまっています。「学びの主役」と「自由」は別の話で、自由ということは、私はいわなかったと思う。おとなの理想を当てはめすぎるという批判は当然あります。ただ、新教育が、子どものやりたいようにさせるというものではないことは押さえておいてください。なんらかの知識や思考を載せていって人間を成長させていくという教育の全体像においては、新旧でさほどの違いはありません。そのプロセスと仕込まれる内容(の配列)が大きく違う、ということです。後半、個性尊重というのはしばしば生徒のプレッシャーになるというのは、大いにありえます。ただ、それは生徒目線の(一種の被害者意識の)話ですので、教育側からどのように表現できるか、考えておいてください。私は、個性尊重をいいすぎるとネオリベ(新自由主義)的になり、それこそ文化資本の有無に左右されるのではないかと心配します。

外からの注入のおかげで教員になれた人も多そうだが、これは公教育の性質上、不可避だと思う。そこに問題があるかどうかはわからない。(基幹)
・・・> 問題はあるでしょうが、「外からの注入」がそんなに悪いものでもない、と考えれば、それ自体は問題ではないかもしれません。手塚岸衛先生はあの世でお怒りかもしれませんが。

新教育は、教育技術の習得が難しいという短所があるのではないか。子どもの興味に臨機応変に合わせるには、教育の高い専門性が不可欠であるからだ。また、子どもの自発性に任せるのも、それだけでは学力低下につながるのではないか。(社学)

新教育思想は、子どもを解放する思想というより、「命令されなくても自分から学び、社会に役立つ人間になる」子どもを育てる思想にも見える。知識を押しつける教育を批判しながら、今度は興味や主体性という言葉で子どもの内面まで教育の対象にしているからである。だから子ども中心という言葉をそのまま信じるべきではない。自由に見える教育とはだれにとっての自由なのか、どんな人間に育てるのかを疑う必要があると感じた。(教育)
・・・> す、するどい。


九品仏浄真寺(世田谷区) 17世紀に創建された浄土宗の寺院
3
つの建物に3体ずつの阿弥陀如来像が納められていることから九品仏(くほんぶつ)の名がついた
トモエ学園の子どもたちがこの付近を歩く様子が「トットちゃん」に何度か登場する

 

デューイの「民主主義と教育」にもあるように、教員がただ教えるだけでは、学習者である子どもは学ばないということをあらためて感じた。学習は、さまざまなことを経験して自分で考え、自分で理解するという主体的なものであるため、教員をはじめとする「教える側の人」は、学習者である子どもがどのような経験から何を学ぼうとしているのかを理解し、対話などを通して、子どもが学ぼうとする姿勢を支援することが重要だと考えた。(文)

学校の学びに対するデューイの、興味のあることを学べばよく必要な時に必要なことを学べばよいという考え方はおもしろかったし、それは学びの本質のようにも思えた。しかしその一方で、全生徒がその自発的な学びをできるとは思えず、全員が一定程度の学力を得ることを学校の役割として期待した場合、これは非現実的だと考えた。理想的ではあるが、生徒に任せる部分が多くなるほど、成長の低度にばらつきが出てしまうのではないか。それでもやはり、学校の外でのほうが好奇心旺盛だというのはひどく共感したし、無視できない問題だと思った。(教育)

デューイの、同心円で学びを広げていく考えにとてもよさを感じました。学習者が興味をもったことを深め、関心が広がり、最初にもっていた興味とつながるときの学問的な喜びは何にも代えられないものだと思います。この考えを私の専門に照らし合わせて。同心円的に学ぶための工夫は、興味のある物事から英語を学ぶことではないかと考えています。ワンピースが好きな人が英語版ワンピースから文法を学ぶ、などです。適切な指導方法でしょうか? 古賀先生のご意見を聞かせてください。(教育)
・・・> すみません、英語教育は数学や理科以上にわかりません(数・理はお仕事なのでわりとわかる)。そちらの専門の方にお訊ねください。ONE PIECEも、表紙を開いたことすらありません(汗)。

デューイの考えたことはとても画期的だったのに、どうしてヨーロッパではそんなに無名なのかが疑問だ。(教育)
・・・> 画期的だと思ってもらえなかったからでしょう。

アメリカの自由に対する意識の強さが見えるように思った。また新教育の実践について、方向性や方針はわかるが、具体的な手段については難しくて、さまざまな関連する本や論文を読もうと思った。デューイの著書を読むとき、『民主主義と教育』『学校と社会』のどちらを先に読むべきですか? (政経)
・・・> どちらでも好きなほうから読んでよいと思いますし、なんなら『子どもとカリキュラム』のほうがおもしろいかもしれません。『民主主義と教育』は、ちらっと読んでみておわかりのように、ダイナミックで書きぶりもおもしろいのですが、何しろ長いんですよね。前のほうから読んでいくと、なかなか経験主義の話に到達しないので、本を読みつけない人にはしんどいかもしれません(笑)。

新教育の中に経験主義というのがありますが、修学旅行は、この経験主義と何か関係はありますか? (商)
・・・> 目のつけどころがいいですね。関係は、まったくなかったのですが(戦前)、関係づけられて取り込まれました(戦後)。修学旅行というのは日本の学校教育独自の文化で、本来はつらら型中等教育にセットされていました。当時、資金を積み立てて子どもを遠方の宿泊研修に送り出せる家がそうそうあるわけではありませんからね。これから社会を牽引していくエリート階層の生徒たちが見聞を広める、というのが主旨であったようです。余談ですが私が福岡県の高校生だったころ(昭和60年代)には、旧制中学校の教育を受けた世代の先生がまだ現役で活躍されており、「修学旅行では博多港から大連まで船で行って、そこから満鉄に乗って満洲へ・・・」という話を直接聞きました。満鉄ってすごいな。で、第10回で扱う占領期の教育改革において、デューイの経験主義教育理論(learning by doing的なもの)を取り込んだ特別教育活動という領域が新たに設定されます。それとは別に学校行事というカテゴリがあったのですけれど、趣旨が重なるというので昭和431968)年の学習指導要領において特別教育活動と学校行事を合流させ、こんにちもつづく特別活動が設定されます。修学旅行を含む宿泊系行事は、そのようにして後から経験主義的なカリキュラムに取り込まれた、ということになります。

私たちが受けてきた教育には、体験や主体性を重要視しておこなわれる総合的な学習の時間の授業があり、デューイの影響の表れだったのかなと思った。私は、教えられるタイプの授業で知識を得ることが好きだったが、それが苦手な生徒にとっては新教育型の授業はかなり得られるものが大きいなと、トットちゃんの場面を見て思った。また、それだけ実践的な学習をするノウハウを身につけて、実行できるようになりたい。(基幹)
・・・> 総合的な学習の時間(高校は平成30年版以降、総合的な探究の時間)は、平成101119981999)年告示の学習指導要領で初めて導入されたので、デューイ思想の影響を直接受けたものではありません。しかし、導入や定着に最も尽力したのがデューイ系の研究者たちでしたし、なんといっても日本の教育学にはデューイの影響が非常に強いので、「間接的な影響」というには強すぎるかなとも思います。私は、実は総合の初期オタ、じゃなかった古参の研究者のひとりです。当時から、総合は「体験」ではなく「知的総合」であるべきだと主張してきました(たとえば『現代教育の理論と方法』、勁草書房、2004年に所収の拙稿を参照)。多勢に無勢でどうにもならず、世の総合の実践が体験ばかりに傾いたので、もうあきらめかけていましたが、なぜか文科省が急旋回してこちらに寄せてきました(というわけではないでしょうが)。この経緯や論点は、『教育原理』第二版 p.110を読んでください。

新教育の考えは、ゆとり教育と似ていると考えられる。そのうえで、ゆとり教育が終わってしまったのは、実践が難しいことと貧富の差が明確に現れてしまうことだと考えた。学校と社会をつなげたデューイの考えは、学校の目的が明確であり、生徒が学校と社会のギャップを感じにくいという点ではよい考えだが、児童・生徒自身が社会を見据えて学びを得ることは困難だと考える。(人科)
・・・> ゆとり教育といって指す範囲、対象が何なのか、人によって異なるので注意してください。いずれにしても「終わった話」ですので、いま取り上げることにさほどの意味はありません。一般には、平成1011年版学習指導要領の基本方針や方向性をそのようにいいますが、文科省などが「ゆとり教育」なる語を用いて説明したことは一度もありません。そして、一般にゆとり教育とされる対象は、教育課程とその運用のことですので、新教育でもなんでもありません。新教育は思想ないし運動のことです。ほかならぬ学校教育のことですので、似ている感じが含まれるのは当然ですが、次元も場面も範囲も異なる、まったくの別件です。新教育をテーマにすると、いつもこの誤解があるので、ああ今回もなんですねという程度で、とくにダメだというつもりもありません。そのうち、ゆとりの記憶(悪夢?)も完全に忘れ去られて、話題にならなくなるでしょう。


自由が丘の上品な町並 この通りは九品仏川の暗渠上にある

 

「自由教育真義」が1922年に書かれているのにもかかわらず、受動注入が打破されていないことから、どの時代でも教育における課題は改善されないものがあり、今後改善していく必要があると思った。お互いに説明し合ったりすることで生徒の思考力や言語化の能力が向上するので、新教育のほうがよいと思っていたが、今回の授業を受けて、旧教育のよい部分や悪い部分もしっかり理解して、今後実践しようと思った。(基幹)

「窓ぎわのトットちゃん」を初めて読みましたが、いかにも新教育といった内容で、つづきが気になりました。買って帰ります。(基幹)

ずっと読みたいと思っていた「トットちゃん」を、一部ですが読んで、内容を知ることができ、昭和の約60年前にこんなにも自由な教育のやり方があったことに驚き、胸を打たれたというか、頭を殴られたというか、そのような感覚になりました。全面主義道徳教育がデューイによってもたらされていたとはいえ、体罰が多くおこなわれていた中で、私立とはいえそんな考え方で自由な方針があったことを知り、いままでにおこなわれてきた一般的ではない教育方法についても知りたいと思いました。(文)
・・・> 少し時間の感覚が事実とずれているので修正しましょう。「トットちゃん」の物語は第二次大戦中の1940(昭和15)年から1945(昭和20)年までです。はっきりは書かれていないのだけど、物語の衝撃的なラストで、終わりの年代が推定されます。全面主義道徳教育の導入は占領期の1947(昭和22)年の学習指導要領。いまどきの大学生世代は昭和と聞いただけで大昔のように思うのかもしれないけど、私が大学生になったときはまだ昭和でしたよ! (『窓ぎわのトットちゃん』の初版刊行は1981=昭和56年。あの時代と地続きだったからこそ、大いに読まれたという面はあるのでしょう)

私は「窓ぎわのトットちゃん」が大好きで、おもしろいお話だな〜と思っていままで読んでいたが、「教育」を考えながら読むと感じ方が変わると気づいた。よくよく考えていると変わった学校だ。いまの探究の授業の展開に似ているのではないかと考えた。(教育)

「窓ぎわのトットちゃん」を読み、個性を育てる教育とは何なのかを考えさせられた。知識を教えることが教師であるという先入観であったが、知識を教えると生徒は吸収していくという前提自体が、転換されなくてはいけないのではないかという指摘は、教師の技術向上には必要だと思う。トットちゃんの物語では、子どもたちがその知識を吸収するのを促すための工夫がなされていたので、私もその姿勢を学んでいこうと決めた。(教育)

「畠の先生」のように、専門分野の達人を呼んでおこなう、より実践的な「授業」はとても画期的だと考えました。このような授業によって、いわゆる教員免許をもつ先生でなくても、生きるための教育、おとなになるための教養を子どもたちに共有させられれば、子どもも楽しく実用的に学べるはず。トットちゃん読みます。学ばせるための工夫、考えてみようと思います。(教育)

先生がかねてから「シェルパになりたい」とおっしゃっていたことが、実は新教育における発明の一つであることを理解した。とくに「窓ぎわのトットちゃん」に出てくるトモエ学園の教育法は、かつての寺子屋の形式に似ている印象を受けた。日本における新教育の導入は、ある意味で前近代への回帰だ、と捉えることは正しいのでしょうか? (教育)
・・・> 故きを温ねてそのよさを再評価するということは大いにありますが、前近代への回帰というには、学校教育は(大正期の時点で)相当に近代化してしまっており、ゆえにこそ新教育が招来されたのだということではないでしょうか。

実感を伴った教育が児童の可能性を引き出す、という考えは、文面だけで見ると、いますぐ実践すべき授業形態は新教育なのではないかと思いそうになるが、実際に学校にそのシステムを導入する、トットちゃんが受けた授業のようなものを先生がみなおこなうというのは、難しすぎて非現実的だと感じた。(文構)

授業を受けながら、新教育は児童中心の傾向があるらしいがこんにちの公教育は一斉教授にこだわっているように感じた。武田塾のように、学ぶべきことを提示したあとに生徒が自力で学ぶことを手助けするような考えにいたった人はいないのだろうか?と考えていましたが、トットちゃんはまさにそのような形式で驚きました。提示だけして自由に学ばせる方式を公教育に取り入れるのは難しいのでしょうか。子どもの発達に合わせるのならこの形がいちばん適しているように思えるのですが・・・。(教育)
・・・> 児童目線(の記憶)がどうなっているのかはわかりませんが、小学校は相当に新教育型です。


エレン・ケイ(スウェーデン マルメ博物館の展示物)

 

実践的な教育を志向する新教育は、過去の米国中西部により近い状況にある発展途上国のほうが、より適用しやすいと考える。新教育の実践にコストがかかってしまうが、先進国での失敗を生かして途上国でもできるものなのか、はたまた新教育自体に問題があるため適用するべきではないのかが気になった。(政経)

ルソー、ペスタロッチからの「ヘルバルト」が飛ばされてしまっているのは、さすがにかわいそうだなと思いました・・・。(基幹)

新教育運動の背景は、現在の私立大学削減(私立大学を問いなおすこと)と重なる部分があるのではないかと思う。(社学)
・・・> すみません、よくわかりませんでした。時代も場面も教育段階も違うと思うのだけど、どのへんが重なるのか、もう少し詳しく説明できますか?

私はいままで固定概念的に、学校は社会に役立てるためのことを学ぶ場だと考えてしまっていたのですが、先生が絶対に学校と社会には壁があるべきだとおっしゃっていた理由が気になりました。ご教授いただきたいです。(教育、類例複数)
・・・> 固定念ね。間違えやすいので注意。キセイガイネンのほうは既成念です。レビュー主のいうとおりに、学校が社会に役立てるためのことを学ぶ場だったとして、それと壁がある/ないということは、直接のかかわりはありません。社会で役立てるためのことを、社会からは隔絶された学校で学んだって、別にかまわないわけです。私が考えているのもそのようなことです。学校は社会の縮図とか社会と地続きとか、同じ塩分濃度であるということはないと考えています。学校は学校であり、塩分濃度も違います。一般社会(シャバ、とかいったらまた反社スラングなので怒られそうです)であれば法や道徳に触れたり、なんだこいつはと信頼を損ねたりするようなことでも、学校は社会のルールや作法とは一線を画する場であるがゆえに、許され、成長や学びの機会を与えられます。学校は「子ども仕様」のエリアであって、失敗や挫折やつまずきや屈託を許容される、いや大いにそれが重視される場です。一般社会のおかしな雰囲気や風潮があったとすれば、それを持ち込ませないくらいの頑丈な壁があっていい。もちろんデューイ(派)もそういうことをいっているわけではないと思うのだけれど、地続き論者はえてして社会に寄り添いすぎて子どもの発達や学習ということの優先順位を下げてしまいがちです。新教育側の人がそれをやってはいかんでしょ。

現在の学校教育は、再度知識詰め込み型に戻っているような気もする。記憶力、忍耐力があるだけで将来が約束されている現代だからこそ、見かけ上の「教えれば学ぶ」が成立しているが、さすがにそろそろ新・新教育が必要だと感じる。AIの発展した現代なら、教師とされる人のやるべきことは「育」ただ一つになってもよいのではないか? (基幹)

冒頭で先生が話されていたように、教育には社会にとって成功・失敗があるようですが、教育を受けた生徒が社会に出て働くなどして、社会に実際に影響を与えるまでには少なくとも2030年は要すると思います。しかし学習指導要領の改訂はもっと短いスパンでおこなわれているように感じており、不思議に思いました。また、社会には広い年代の人々がともに生きているのに、どうやって特定の世代の教育への責任を取ることができるのか、疑問に感じました。(文構)
小中高のカリキュラムが数年ごとに変わるのはどうしてですか? 学ぶことが減ったりすると、年上の人たちの差が出る気もします(数学の行列とか)。(基幹)
・・・> 日本の幼小中高特の教育課程(カリキュラム)の基準となるのが、行政法規である学習指導要領です。数年ごととありますが、910年ごとですので、もうちょっと間隔が長いかな。現行版は、幼小中は2017年、高特は2018年に告示されました。いま審議中のものはおそらく20272028年となるはずです。時代が変われば教育課題も変わりますし、学問の内容が変わればそれが反映されますし、それまでなかったものが現れて影響が大きければ導入しなくてはなりません(AIなんかも)。年上の人たちとの差が出るのは当然で、それの何が問題なのか、もう少し明らかにできるでしょうか? なお行列は、いま審議中のプランでは、むしろ現行版よりも学ぶ機会が広がるのではないかとみられます(文系学部に進む生徒もマトリックスやらせろよ、という記述になっている)。

前回につづいて、文化資本の話が心に残った。自分がいまここで勉強できているのも、広い視点で見たら、非常に恵まれた経済状態にあるからというのを忘れないようにしたい。(教育)

いままで新教育的なものを理想だと思っていて、今回新教育について学んで、よい考え方だと思ったが、経済的な格差が反映してしまう子どもを忘れないようにしたいと思った。(政経)
新教育のあり方、あるいは、教えれば学ぶのか、といった話についても、公教育である以上、やはり文化資本に乏しい人を軸に論じられるものなのでしょうか。今回の話は、とくに教育を受ける側の文化資本に大きくかかわるものだったと思いました。(教育)
・・・> 公教育である以上、文化資本に恵まれない児童・生徒を視野のど真ん中に置いて論じるべきものです。ただ現実には、スルーないし捨象されがちでもあります。

文化資本。親の給料と学力が影響しているかということに関しては、教育にはお金がかかることだし、無償では提供できる限界があると思う。(社学)
・・・> 文化資本の趣旨や意味内容を取り違えているようです。そのままではまずいので、事典や用語集の類を読んでしっかりと整理しておいてください(当然だけどネットやAIはだめよ)。

教えるのではなく学ばせる・・・ 興味をもたせる、意欲を向けさせる。その子がある程度の文化資本を素養としてもっていることが前提なのでしょうか。文化資本と一口にいっても、親のお金がなくたってある程度つけることができるのではないでしょうか。まったくゼロという子はいないと思います。新教育派です。文化資本というだけでなく、まったく学校の外に興味・関心のない子はいないと思います。(スポ)
・・・> 最後の「学校の」というのが、ソトなのかホカなのかで意味はだいぶ違うのですが、どちらでしょうか。文化資本(capital culturel)というピエール・ブルデューの提唱した概念は、子どもがもつ素養のことではなく、家庭・家族に蓄積された教養(的状況)のことです。「ある程度つけることができる」というのは、したがって前提を取り違えたための誤解で、つけることはできません。この話を学校・教員の側の視点で見るときには、過度の楽観も悲観もよくないと考えています。楽観がだめなのは申すまでもありません。一方で、所詮といったら語弊がありますが、学校や教員が児童・生徒の私生活にまで介入することはできませんし、またするべきではありません(公権力の一部ですからね)。むしろ自分たち教育する側のしていることが、文化資本の有無や大小を軽視したものになっていないか(それは児童・生徒には暴力ですらある)、という自戒の材料にするべきではないかと思う。

私が教師を志したのは、高校で初めて習った世界史がおもしろく感じられたからなのですが、いま思えば授業形態はまさにTHEヘルバルト式で、ひたすら先生から教え込まれました。人は、自分が学んできたようにしか教えられないとの言葉も教えていただいたので、自分が新教育的な授業形態をつくれるのかとても不安です。これからデューイさんなどの本を読み、少しでも理解を深めていきたいです。(文)
・・・> 2回の授業で、学んだようにしか教えられない、といったときにも申し添えましたが、児童・生徒としてどんな学び方(教わり方)をしたかではなく、いま、そしてこれからどのように学ぶのかという学び方の問題をいっています。過去の記憶の(縮小)再生産とか再放送をされても、未来の教え子には迷惑ですからね。

 配付資料より

大学に入る前は、教育学とは、子どもにどんなふうに教えたらいいのか、どうやってわかってもらうのかということを学ぶのかなと思っていましたが、それこそ伝統的な教育の考え方の枠組でしか思考できていなかったなと感じています。(教育)
・・・> 普通はそうですよねええ。そもそもヘルバルト先生が教育学をこしらえたときには、「子どもにどんなふうに教えたらいいのか」という学問だったのです。新教育だってその定義で説明してかまわないと思うのですが、子ども理解や発達支援という考え方が必ずセットになる現代の教育学は、新教育を支持しない立場であったとしても、その強い影響を受けているということになります。




開講にあたって

教職課程へようこそ。この教育基礎総論Iは、その名のとおり教職課程の基礎として位置づけられるものであり、教員免許状の取得要件を規定する教育職員免許法施行規則において「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」とされている分野にあたります。当クラスの受講生は、中学校 and/or 高等学校の教員免許状の取得をめざす学生です。中高の免許状には「教科」名が明記されており、たとえば「国語の先生」「保健体育の先生」というように、特定の教科の専門家として指導にあたります。大学入学前のみなさんは、「国語の先生」「保健体育の先生」になるためには、国語や保健体育の関係科目を学べばそれでよいと考えていたでしょうか? 実際には、担当教科を問わず全員が受講し、単位を修得しなければならない科目がたくさんあります。これが「教職科目」と総称される一群であり、基本的には卒業単位の外側ですので、みなさんは教職課程を履修しない学生と比べて、おおむね2割増しくらいの授業を受けなければならない(もちろん授業を受けるだけでなく、それ以上に頭を動かして思考しなければならない)ことになります。それにしても、中高の教員になるにあたって、教育の理念、歴史、思想の学習がどうして必要なのでしょうか? 不思議に思われるかどうか、この分野は、1949年にいまの教員養成の制度ができたときからずっと、基礎の基礎として設定され、ただの一度も揺らいだことがありません。端的にいって、未来の教育者になるためには、教育の理念、歴史、思想を学ばなければならないというコンセンサスができているのです。

理念はともかく歴史や思想というのは、文系の一部門であり、高等学校でいえば世界史、倫理あたりに相当するものですから、これを全員が共有するというのはなかなかわかりにくいところがあります。その答えらしきものは当科目の最終回(第14回)で回収できるはずですが、開講にあたって一つだけ申しますと、現代教育の基本理念というのは歴史的に形成され、それには思想が内包されているということです。なぜ、どのような経緯でそうなったのか。そしてそれは時代の変化や地域の違いなどによってどのような実態をもつのか。課題や矛盾は何か。そうした点を知るには、歴史や思想の学びが不可欠です。忘れてならないのは、みなさんがこれから教員になるとして、その数十年のキャリアのうちに、また社会は変化し、教育も変移します。いま、この瞬間の教育だけを知って、わかったようになっていても、動体視力は養われず、化石のような認識を振りかざすどうしようもない先生になってしまいます(そういう人は残念ながら少なくありません)。

このクラスでは、最初の2回で問題意識を共有して、第3回以降の歴史・思想編で順次、問いへの答えを回収していくというプロセスを踏みます。本年度は他所での業務の関係で、スケジュールが若干入り組んだものになりますが、おおむね欧米教育史+教育思想史→日本教育史という流れになります。最後の2回がこの先の学びへの展望を含む、整理・まとめです。「卒業単位外だし資格モノだから、テキトーにやる」という人は向きません。おそらく脱落します。最終回で明示するように、中学校・高等学校の教員になるために(実は幼稚園・小学校・特別支援学校も同じです)なぜ大学を卒業する必要があるのか、という点をよく考えてみてください。大学での学び、大学ならではの学びこそが、教員に必要不可欠だからです。大学での学びとは、要するに学問です。みなさんには14回にわたって「学問」をしていただくことになります。でも、それはなかなかおもしろく、有意義な作業でもあります。教育者としてのしっかりとした足腰を備えるためにも、週の最後のほうの授業になりますが、万全の態勢で臨み、大いに思考し、深めてください。


<使用するテキスト>

古賀毅編著『教育原理 第二版』、学文社、2026
*大学生協ブックセンター扱い 主に第2章〜第4章を扱います。

 

<評価>
複数回の課題の内容によって評定します。
課題作成における生成AIの使用に際しては、適切なルールを定めます。
出欠は評価の対象としません。

 


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