古賀毅の講義サポート 2024-2025

Études fondamentales sur l’éducation- 1

教育基礎総論1(中・高) C


早稲田大学教育学部教職課程(全学部対象)
春学期 金曜5限(17:00-18:40)  早稲田キャンパス 14号館 402教室

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2024(令和6)年度 教職科目における指導・評定方針

 

202456月の授業予定
5
24日 欧米教育史(3)20世紀の教育課題
5
31日 歴史の中の教育思想(1):近代教育思想の形成
6
7日 歴史の中の教育思想(2):新教育思想をめぐって
6
14日 日本教育史(1):近世〜明治前期の教育
6
21日 日本教育史(2):明治後期〜昭和戦前期の教育
6
28日 日本教育史(3):占領期の教育改革


次回は・・・
7-
歴史の中の教育思想(1):近代教育思想の形成

ここから2回は思想編です。思想は現実の制度や教育動態と不可分にかかわっていますので、これまで学んできた歴史編にも実は随所に織り込まれていました。今回と次回は、あえて教育思想の部分だけを抽出して、そこに近現代の教育を構成する理念や要素を読み取るという作業をしていきます。本当は原文(ルソーであればフランス語、ペスタロッチやヘルバルトはドイツ語)で読めればいいのでしょうが、そうもいきませんので、日本語に訳された彼らの文章を講読します。歴史の授業から、一転して国語の現代文みたいになりますが、文系の学び方の王道みたいなものでもありますし、何より教育者をめざす立場でいましておくべき学び方でもあります。世界史や倫理の教科書だと、人名と作品名と○○主義というワードと1行解説みたいなのが書かれていて、それでおしまい、生徒は試験前に覚えるということが多いのかもしれません。それを当科目でやってしまっては意味がありません。今回は、教育思想という膨大な蓄積の中のほんのかすかな部分ではあるが、「本物」に直接向き合って、過去の精神と知的な交流を図ります。「主体的・対話的で深い学び」という現行学習指導要領のキャッチフレーズのうちの「対話」には、「先哲との対話」も含まれているのです。はるか過去に生きた先哲との対話って、どのようにすればいいのでしょうね?

変な話ですが教員採用試験の教職教養に出題されそうな人名は、たぶん2030人くらいでしょうか。現代の心理学者みたいな人も混じっているので、純粋に教育思想家となると1桁かもしれません。今回はその中でも、「近代」教育思想の祖となったジャン-ジャック・ルソー、民衆教育の父ペスタロッチ、教育学の創始者ヘルバルトという3人を取り上げることにします。3人抽出の意味は、学習後にあらためて検討してみてください。ルソーは、「社会契約論」などの著作で知られる啓蒙思想家のひとりで、公民の教科書には絶対に載っている、名前だけなら誰でも知っている偉人です。ルソーの「エミール」は、子どもの教育を主題にしたフィクション(小説)です。ルソーの生前における社会的影響をいえば、「社会契約論」「人間不平等起源説」よりも「エミール」のほうが大きかったかもしれません。この内容が当時としてはかなりラディカルだったらしく、ローマ教皇を怒らせて、ヴァチカンはルソーを逮捕しようとします。ルソーはそれを避けてしばらくロンドンに逃避行したほどです(彼の活動拠点はパリでした)。また、「エミール」に描かれた人間観に衝撃を受けたイマニュエル・カントは、体が震えて立つこともままならず、いつもルーティーンでおこなっていた散歩に出なかったため町の人たちが心配したというエピソードを残しています。そして、「エミール」の教育観を創作の世界から召喚して実地に落としたのが、スイスのペスタロッチでした。神の信託を信じたペスタロッチは、子どもたちの教育を自らの使命として背負い、亡くなるまで教育実践に尽くしましたが、ありがたいことに自身の実践を著作として公刊しており、ゆえに彼の思想は小さな学校を飛び出して全欧、そして東洋の島国にも伝わって、多大な影響を及ぼしました。

3人目のヘルバルトは、教育学(Pädagogik)という学問分野をつくった人です。私も教育学者のはしくれですので、ヘルバルト先生のはるか川下につらなる者という自覚があります。つまりルソーやペスタロッチのような「思想」で終わらせず、それを再生産可能な学問に昇華させ、いましているように教育学部などで共有、伝承されるきっかけをつくりました。教育学(部)というと、いま当クラスがそうであるように、教員の養成ということをイメージする人が多いことと思います。それはまったく正しくて、教育学は当初から、純粋な研究分野というよりも、次世代の教員を育成するための理論としての役割を負っていました。それなのに(それゆえにか)ヘルバルトはこの3人の中では絶望的に不人気です。人の好き嫌いは評価する側の自由なのでどうでもいいですが、ヘルバルトがなぜ嫌われるのかという点にこそ、近代教育思想の意味や位置を知る手がかりがある、というのが私の見立てです。

 

REVIEW 5/17
*文意を損なわない範囲で表記や表現を改めています。掲載を省略したり、複数のものを統合したりする場合があります。

今回、現代の教育制度の問題の根源を知ることができました。ただ自分が教師になって生徒を相手にするとき、今回の内容を生徒に伝えるわけにはいかないと思うので(こちら側の都合にすぎないので)、この制度の中で最善の結果を生徒にもたらすために自分が何をするべきかをよく考えなければならないと思いました。そうすると、できるだけ多くの生徒、自分のいましていることが少しでも楽しいと感じてもらえるようにするというのが、いま考えつく自分なりの答えです。(教育)

自分がこれから臨む中等教育というものの由来がどのようなものかを知れてよかった。現代においては、下構型・上構型的なニーズの両方に応えられるようにならなくてはならないのだろうか。(教育)

19世紀までは、国家が国民を教育するということがうまくいっていたものの、20世紀硫黄、教育を受ける生徒のキャパシティを超えるようになったとありましたが、それはいまもつづいていると思いますし、今後もつづいていくだろうと考えました。科学技術は日々進歩し、グローバル化や多様性の尊重など子どものころから学んだほうがよいということは増えつづけるため、国家主導の教育では対応が間に合わないのではないかと不安になりました。(教育)

初等教育は最低限のもの、高等教育は過剰な、趣味のようなものだと考えていて、そうなると中等教育の意義がわからなかったのだが、今回の授業で、両者の延長線を合わせたものなのだとわかった。(文構)
以前は、中等教育が発展して高等教育になったと考えていたため、高等教育への準備教育としての下構型中等教育があるというのには非常に驚きました。中等教育の教員免許を取得しようとしているので、なぜ教育が必要とされているのかを理解し、考えつづけなければならないと思います。(社学)

中等教育には下構型と上構型があったという話が印象的でした。初等・中等・高等教育は同時につくられたと思っていましたが、そうではなく、進学や就職の準備のために中等教育が後からつくられたのだとわかりました。(法)
最初にできたのは高等教育で、相当高度な勉強をするところだった。大学で必要なラテン語などを学ぶため予備学校に通うようになり、中等教育ができた。19世紀半ばに初等教育から派生したたけのこ型の中等教育とはまったく別系統に存在したということがわかりました。(教育)

まず高等教育ができて、19世紀半ばにおいては学んでいることもまったく異なる、つらら型・たけのこ型の2種類の中等教育が生まれ、これをそのまま取り入れたので、いまでもこの2種類の影響が残っているのだと理解しました。また文化資本の話がとても印象的でした。教養的なことを、学校以外のところでどれだけ土台づくりしておくかで、学力が変化するという話が衝撃的でした。(教育)

初等教育の次に広い層が受けているのが中等教育なのに、エリート向けの高等教育に由来するというのが興味深かった。(教育)

小学校と中学校のあいだで、形式や、教師との距離が大きく異なる理由を最初に考えたとき、社会に出るための準備だと思ったのだが、そういうことではなく、歴史的な経緯でそのような境ができてしまったということがわかって驚きました。(教育)


パリの公立中学校 コレージュ(collège)は、かつては下構型中等教育機関の一種だったが
1960
年代以降に前期中等教育(543の真ん中)を担当する学校種の名称になった

 

最低限度の生活を送るためには学校に行かなければならない。それは拘束だと思われるが、学校に行かなければもっと自由が奪われてしまうと先生がおっしゃっていて、とても納得した。(文)

すぐ仕事に直結しないような教養的な勉強でもちゃんとやる意味があるということがわかってよかった。(教育)

重化学工業化が教育課題の高度化をもたらしたことなどについて知ることができて、大変興味深かったです。(教育)

重化学工業化によって社会が変化し、現在の中等教育を開放しようという考えにそれが影響したというのがすごいと思いました。歴史が苦手でちょっと理解が追いつかなかったので、これについて調べてみようと思いました。(国教)
・・・> ここを直結させるのは古賀ならではのところがあるのと、社会構造と教育制度のかかわりという複雑なテーマを見るには、「調べてみようと思いました」というくらいでは難しいのではないかな。本を読めばどこか1ヵ所に簡潔に整理されているというわけではないし、ましてネットではそういう説明を引き出せない。歴史が苦手とありますが、実はこのような思考を鍛えるのは、歴史の本ではなく社会学が適切で、どの本を読んだものだか大変じゃないかな。と思って、ためしにChatGPTさま(最近の遊び相手)に「重化学工業化の進展が中等教育の拡大につながったのはなぜでしょうか」と聞いてみたら、なんと85点くらいの回答が出ました。彼女(カレシなのか?)このごろカシコすぎるなあ。

社会の複雑化に伴って、「知らなければならないこと」が増えたから大学に・・・とはよく耳にする論だが、大学での学びとその「知らなければならないこと」にどれほど共通部分があるのか、はなはだ疑問に思う。(文)
・・・> 「大学での学び」「知らなければならないこと」を、個別の知識とかその集積だと捉えるならば、そうなりますよね。見方を広げてみてはどうですか?

人権の観点から学校制度を単線化して、とありますが、その必要性を感じませんでした。複線のままでも学習機会の平等は満たせたのではないかと思いました。(先進)
・・・> 形式的な機会であれば複線型でも満たすことはできます。しかし形式的な平等に見えて、実際には差別構造を再生産する仕掛けになってしまっています。何よりヨコ移動(いったんどちらかに入ってから他方に移ること)ができない「袋小路」になっていた点が問題です。

中・高の勉強が教育史とつながると楽しい、というコメントを前回書いたのですが、そもそもそのために(高等教育の学びのために)中等教育ができたものなのだと思って、納得しました。(文構)

教育の歴史を見ると、なんでこんな意味のないことも学ばねばならんのや、という子どもたちの問いに答えられそうな気がしてきた。しかし、中学校のつまらない宿題をそつなくこなし、塾に通って、なんで勉強するのかという大学生の講師に問うような子どもには、今回の内容をかみ砕いて説明すればよいと思うが、学校の内容についていけず、親によって塾に入れられ、なんで勉強するのかと問う子どもにはどう答えようものかという感じ。(教育)


台湾の公立女子高級中等学校 台湾は日本と近い633だが後期中等教育段階で
普通高級中学(普通科)と技術型高級中学(職業科)に分かれる

 

中等教育の成立には、2種類の異なる過程があったのだとわかった。つらら型中等教育とたけのこ型中等教育では、まったく内容が異なるものだったはずなのに、万人向けの中等教育として統合したことにより、教育機関内での格差が生じたということがわかった。現在の中1ギャップなどの問題はこの経緯により生まれたのだと思った。(基幹)

エリートが高等教育に行くために必要な知識を学ぶための下構型中等教育と、非エリートが初等教育よりもう少し学ぶための上構型中等教育があり、それらを合体させてしまったとき下構型の要素が強くなって、いまの中等教育ができたということがわかりました。私も合体するときに公教育の仕様を変えるべきだったのではないかと思いました。(教育)
教養を身につけ高等教育の基盤をつくることを目的とした下構型中等教育と、職業に向けた実践的学習を目的とする上構型中等教育が、重化学工業化を機に単線型になり、いまのような抽象的な内容の中等教育が成立したことがよく理解できた。先生は、いまの日本で高校が義務教育に算入されることは防ぐべきだとお考えでしょうか。(教育)
・・・> なんで防ぐの?? 義務教育というか、最低保証教育でしょうよ現在では。

中等教育が、おとは下構型と上構型に分かれていたが、単線型に移行したことにより、両方のよさを取り入れることにはならず、抽象的でジェネラルなものになっていったということがわかった。知識を教えるというのは個別化された職業準備よりも統制しやすく、また上流階級の制度が優遇された結果がそのような結果をもたらしたというのは、仕方のないことだと思った。(人科)

中等教育が、高等教育の前段階としてできたものと、初等教育のつづきとしてできたものの2つに由来し、それらが統合されて現在の形になっていたことがわかった。統合の過程で、学術的で教養的なもののほうが、実学的で職業準備的なものよりも多く取り入れられるようになったというのは、その制度をつくったのがéliteの人たちだったからでしょうか。それとも別に何か理由があるのでしょうか。(基幹)
・・・> 1つ上のレビューでだいたい説明できるのではないでしょうかね。そもそも「身分が高い人たちの教育ずるい。僕たちも混ぜてほしい。僕たちにも身分上昇するチャンスをくれ」というものだったのです。

複線型から単線型になってつらら要素が強く残ったことによる弊害が、こんなに深刻であったことに驚いた。中等教育の本質がつらら型にあるとするなら、いつ役に立つのかわからない抽象的な内容をエリートが学び、たけのこ型要素が不十分になって職業選択に支障が出てくる・・・という問題があるので、日本の将来が心配になった。(教育)

今回は、中等教育の開放についての話だったが、前回までの流れとつながる話も多くあったので、とてもためになった。とくに中等教育が2つの系統に分かれていたことに関しては驚きであった。自分の中では軍の関係のことだと(日本限定では)考えていたが、よく考えてみれば日本が手本にしていた国々に対する視点が欠けていた。それをもったうえで日本の教育制度やその問題点、利点について考えていく必要があるのだろう。(文構)

下構型中等教育の一面として、エリートが通うというものがあり、裕福な家庭でないと学費の負担が厳しいということだった。現在の受験勉強は学習塾などを使う都合上、中等教育ではないが、内容的にも下構型といえるだろうと考えた。(教育)
・・・> 今回の内容がほとんどわかっておられない感じです。こじらせては危険なので、いったんリセットしてください。そして、あらためて『教育原理』3.7を読んで!

中等教育がみんなに開かれたために内容が高度化し、抽象的でついていけない人が出てくるようになったというのは皮肉だなと思った。最近、学力が上がっているマレーシアもつらら型なので、たけのこ型でうまくいくという未来はないのかなと思った。(教育)

中等教育の問題は、エリート型中等教育と非エリート型中等教育を統合する際のつじつま合わせに失敗しているから起きているのだと知りました。教員になったときには、生徒ごとに文化資本が異なるということを念頭に置きたいと思います。(教育)
中等教育の発展の経過を知って、第3回で出てきたフランスの学年の呼び方が、?から!に変わった。大学までそれほど苦しむことなく、なんとなく過ごしてこられたのは、家での教養のおかげなのかと、少し納得した。中学校で勉強についていけなくて、勉強キライといっていた友達はいまどうしているだろうかと、ふと思い出した。(教育)

いわゆる「役に立たない」学問を中等教育で学ぶのは、高等教育から派生したつらら型の中等教育が残ったからだということがわかった。もともと貴族などの特権階級が娯楽としてしていたからこそ成り立っていた教育に、異なる階級の人たちが入ってくることで問題が生じるというのは、簡単に想像できるが、なぜどの国もあり方を変えようとしなかったのだろうか。(文構)
なぜ複線型と単線型の制度が存在しているのか、中等教育の歴史的な成り立ちを学んでわかった。いまの自分がいるのも、小さいころから文化資本に恵まれて、環境がちゃんと整っていたからなのだと納得した。先生は、中等教育を単線化する際に、どのようにしくみを変えたほうがよかったと考えるのですか? (教育)
・・・> 本当に「簡単に想像でき」たのだろうか。普通に考えれば、一部の人たちがうまくやっているのだから、同じやり方のままでいいよね、というふうになるのではないか。副作用というのは、社会科学の場合はたいてい後知恵なのです。そして、過去を振り返ってタラレバをいってもさほど意味はありません。仕様を変えられなかったのだから、その事実を引き受けて、今後のことを考えましょう。

教育は平等だといっても、お金持ちは学校で教育を受ける以前に家庭で教養として学んでいる部分があるので、学校で教えられることに対する興味・関心や学びの吸収の差は明らかに出てくるのだとわかりました。たしかに家がある程度お金をもっているところの人は頭がいいイメージがあります。私自身も平均以上の家に生まれたと思うので、恵まれていたのだと思いました。(先進)


パリ リュクサンブール公園 英国式の名園で、この建物はフランス議会上院として使用される
(つららの写真がないかなと思って探したけど見つからず、結氷くらいで許してもらおうという話)

 

たけのことつららを合体させたときに個別性が失われ、抽象的になったと聞き、中等教育のあり方の難しさを実感した。家庭環境が子どもに及ぼす影響の大きさがあらためてわかった。知の光、啓蒙が可能なのは、エリートだけなのかもしれないと思った。(教育)
・・・> 後段はするどい指摘だと思う。思想編につづく。

インターネット上で定期的に話題になる古典廃止論、実学重視論は、つらら型に一本化するかたちで単線化したことに起因するのだろうと考える。自分で意識したことはなかったが、私の家も大河ドラマや池上彰の番組を見たり、読書が好きだったりするなど、比較的つらら型だったのだろう。話を聞いていて思いのほか当てはまることが多く、目からうろこだった。ただ自分は運よくつらら人間だったからよかったが、たけのこ人間だったらさぞ生きにくかったのだと思う。無知のヴェール的な思考を忘れないように戒めなければならない。(文)

箱根駅伝の喩えがとてもわかりやすかった。中学生になったとき、急に周りの友達の学力がはっきりしてきて、小学校のときに頭いいなと思っていた人が自分よりもはるか下にいたということもあった。(文)

たしかに幼児期から博物館などに行っているかどうかでは、前提となる知識が異なるなと思いました。(文)
エリート型の下構型中等教育において十分な効果を得るには、家庭環境の影響がとても大きいと考えられます。学校の中で優秀層にいた生徒の話を聞くと、幼少期にNHKばかり見せられたという話がよく出るので、自前で身につけた教養により自発的にさまざまなことに興味をもって学習する習慣がついているのだと思いました。(人科)

文化資本の差が大きいということへの解決策として、子どもを図書館で過ごさせる法律あるいは宿題を出し、差を縮めていくようにすればよいと考えるが、どうだろうか。(文構)
・・・> 一般論としては、差が開くと考えられます。反転授業ってわかりますか? あれは学びの本質に沿ったいいものだと思うけれど、同種の(致命的な)欠点があります。

家庭間に文化資本の差があるということに納得しました。だからこそ本がいまでも重要視されているのだろうかと思いました。私は実際に家族で文化体験をした記憶がありませんが、本や漫画が好きで、そこから知識を得て学校で発展させる子どもでした。授業でなるほどと思ったことは、たいていマンガで知っていたことでした。直接的な体験はしない、できないという家庭でも、間接的には体験できるので、本・漫画やYouTubeなどのメディアが、文化資本の格差を多少は緩和しているのではないでしょうか。(教育)
・・・> 本とか(知的な)マンガを与えるというセンスが、そもそも文化資本に富んだ家庭にしかないのではないでしょうか。YouTubeを含めICT関係は、生まれながらの格差を均す効果をもつことが期待されるのと同時に、格差を拡大させる効果が懸念されます。わかりますかね?

家庭内の文化資本や、中学校でのドロップアウトの話がとくに印象に残った。小・中学校でドロップアウトする人が少ない環境で育ってきたので気づきにくかったが、文化資本に恵まれた環境であったのだとあらためて認識した。(教育)

初等教育と中等教育のあいだのギャップが大きいのは、今回学習した内容がかかわっていると思うと、非常に興味深かった。いままで知らずに、そういうものだと理解していたが、教師になるうえでは、そのようなことは知っていて当たり前でなければいけないと実感した。(社学)

小学校のころ担任の先生が一人ひとりの児童の性格をよく理解していて、元気がない子どもには声かけをしてくれていたことを思い出しました。(教育)

 
ドイツ ミュンヘン大学のチャペルと校舎

 

文化資本の差があるという前提で、社会で平等な競争のスタートラインに立てるようにすることが公教育の役割なのだと理解しました。自由な競争とセーフティ・ネットを用意するだけでは、格差が広がることになると思います。となると現在の教育のあり方に疑問をもちます。少なくとも、決まった知識をどれだけ獲得できたかをペーパーテストで評価するだけでは、どれだけ個別のケアをしたとしても、平等な競争のスタートラインには乗せてあげられないように思います。(教育)
・・・> 以下は教育評価という技術的な話になります(教職課程では必須なので、先々どこかで学ぶことでしょう)。学習活動のワンサイクル(たとえば1学期」)を終えた段階で、到達度や習熟度を測るのは総括的評価といいます。期末試験というのがまさに典型ですが、それって「瞬間風速」ですよね(『教育原理』6.2も参照してください)。これに対して、生徒の学びのプロセスに寄り添って経過や変化ごと評価するのが形成的評価。以前は、評価といえば総括的評価にほぼ決まっていたのだけれど、学習・教育観の変化につれて形成的評価の地位が上昇してきました。生徒目線であっても、それを感じる機会がきっと何度かあったはずです。総括的評価のみで足れりというのは、知識伝達型の教育ばかりだった時代のものといえます。いまは教育活動も評価も多様化しなくてはならないとされます(こっちは「複線化」するのですね!)。

教育関係の授業を受講していると、生まれで決まってしまうということがかなり多くあるなと感じるが、そういったギャップを公教育が均しているようには思えない。結局、もともと文化資本がある人間が文化資本のある親になる、ということの繰り返しのような気がする。そのような格差は均すことができるのだろうか。(文構)
・・・> いっとき「親ガチャ」などという嫌なワードが流行語になりました。教職課程の学生はそうしたスラングに流されないようにしましょう。ご指摘のように、もともと高所得の親の子どもが高学力になり、高学歴になって高所得になるという構造を、社会学で階級再生産といいます。フランスの社会学者ピエール・ブルデューが『再生産』その他の著作で実証しました。もちろん、完全に均すということは不可能ですが、「最悪の状態を回避する」だけでも大いに意味があります。またそれは公権力の作用をもってしか実効的におこないえません(ボランティアやNPOの活動は偏在的になりますからね)。

お金持ちがさまざまな面で恵まれていて、他の階層との差は広がる一方であり、全体をある程度均すのは公教育しかできないと聞いて、公教育の存在の大きさを感じた。また公教育がもつ性質を、どんどん変化していく社会における多様な考え方と調和させるとしたら、その内容が重要だと思いました。(教育)

いままで疑問だった教育制度が、歴史を通して説明されて納得したが、問題点を抱えている以上、絶えず変えつづけなければならないと思った。競争があることを前提としてセーフティ・ネットを設けるという政策には感心した。(基幹)
イギリスのブレアが提唱したという中等教育修了以降の子どものための強制的蓄財(or 国家保障)や中等教育の多様化は非常におもしろいと思った。(文)
・・・> 山口二郎『ブレア時代のイギリス』(岩波新書、2005年)をお読みください。

文化資本があるかどうか、つまり家庭の経済力や日常の会話内容の差があると、実際の作品や建築物を見ることで身につく知識の差なども開くということを聞いて、今回の授業が理解しやすくなった。私の高校は知識を伝達することが大事だと考えるつらら型であったため、学びというのが進学の手段になっていたということにあらためて気づいた。もう少したけのこ型の要素を入れるのはどうだろうと考えた。(教育)

「大学に行ってから役に立つよ」が通用しない理由が自分でもわからなかったが、今回の授業で少し理解できた気がする。文化資本の話も印象に残った。お金がない家の子どもは、旅行に行って何か学術的なものを見る機会がないのに、同じ内容を教えられつづける。その差を緩和するために都内見学などがあるのかと思ったが、だいたい勉強した内容を振り返っているわけなので、違う気がしてきた。(法)

中等教育における格差の発生や、生徒の脱落が、下構型・上構型を一本化した弊害として起こった(下構型への収束の結果そうなった)ことを学びました。一方で、上構型の中等教育でも、格差・脱落といった問題は発生しえたのでしょうか。それとも上構型に進む前に、格差・脱落が起きて上構型の中で分かれる(たとえば職種が変わる)のでしょうか。(教育)
・・・> お訊ねは、中等教育が上構型タイプに一本化されたとすれば、ということなのでしょうか? だとするとタラレバですので、あまり深く考えても意味はないように思います。複線型時代の上構型は、初等教育のみでは就労が不安だという人がその動機・意思をもって就学するところでしたし、就学期間もせいぜい23年ですので、下構型よりも問題ははるかに少ないと思います。格差というけれど、職種がいくつかに分かれるわけだから、もともと「相違」はあるわけです。そこがつららとの違い。

私は千葉県民で、市船や習志野高校という身近な学校がたけのこ学校だったということに、とても驚きました。(教育)
・・・> 早稲田実業もたけのこですよ。だからみんな野球が強いんだね(ウソです)。

統合に際して、つらら型に寄ってしまったことで個別性が薄れたものの、従来たけのこ型にいた人たちに知の光を当てて慣れさせることができると知り、公教育への理解が深まったと思いました。高等教育を見据えた抽象的な学びを提供できる公教育ですが、職業準備の学びは与えられないのではないかとも思いました。(教育)
・・・> 21世紀に入ってから盛んになっているキャリア教育(『教育原理』6.6)は、公教育のどのあたりに位置づけられると思いますか?

学校に入学した時点で文化資本による差が開いている、また新しいことを呑み込む能力も幼いころに培われたものが大きい、ということに納得した。こういうしくみの公教育になってしまった以上、教師は自律の補助に徹しないといけないと思った。いわゆるエリートのタイプの人は、自分の価値観で語ってはいけないことがあるということを、もっと知る必要がある。(教育)
私たちがめざしている教師は、教科の伝達を目的とする下構型タイプの教育であり、個人特化で職業直結型の内容は教えることができない。そのような教師にできるのは、出自や家庭教育に合わせた教育ではなく、そうした原因で脱落してしまうことがないようにサポートすることだと考えた。また、すべての人が高等教育まで進むことを望むわけではないので、下構型タイプをすべての人に開きながらも、それとは別に上構型タイプの学校を選択できるようにすることが望ましいのではないかと考えた。(文構)

最近、大学の数を減らして職業訓練校などの実用的な教育を重視するべきだという論調が目立つようになってきていると思うが、それは、中等教育を統一する際に実学的で具体的な上構型中等教育を切り捨てたことの反動なのではないかと思った。(教育)
・・・> まったくそのとおりなのでしょう。すでに飽和している大学を2タイプに分けて、一方を地域に根ざした職業準備的なものにするべきだ、なんて意見も根強いですね。単線化された中等教育に深刻な問題があるのはそれとしても、再複線化というのは基本的には悪魔のささやきだと思っておくほうがよいと私は思います。

単線型が問題であったならば、複線型に戻そうという動きはなかったのか気になった。(教育)
もし日本が複線型になったらどうなるのかを考えていたのですが、職業至上主義になりそうだなと思いました。(文構)

 

お金持ちやエリートは、文化資本があるからギャップにつまずきにくいが、つまずいてしまう人を助けるためにも公教育が必要であるということを学ぶことができました。(教育)

私の家は、NHK for Schoolをつけてくれたり、クラシック番組を見せたりしてくれましたが、旅行にはあまり行かず関東を出たこともほとんどなく、塾にも行ったことがないので、大学に入って学力差をあらためて痛感していました。もっと非エリートがつまずかずにいられるように、教員がもっと青年期のことも学習の理解度の差もしっかり把握して、ギャップをなだらかにできるようにがんばらなければいけないと思いました。(教育)

現在の日本における普通科の中等教育の内容は、下構型由来の抽象的・一般的なもので、伝授が基本であるのに、議論や実地での体験が重視されていることや、中・高の段階から文理選択やそれ以上の専門の選択が受験において求められていることに矛盾を感じた。出自によって異なる文化資本を享受する程度の差や、それによる学習の程度の差を公教育で是正することには大きな意義があると思う一方で、私立校や公立高校のように入学試験を必要とされる現状では、はたしてどれほど是正が機能しているのか疑問に思った。(教育)
・・・> それってあなたの出身校に閉じた話ではないのかなあ。一般的な相場と随所でブレているんですよね。議論(討論かな?)や実地での体験が重視されるのは学校種を問わず近年のトレンドですし、文系・理系の選択というのは進学校のウチワの勝手な都合ですし(そのようにしなくても一向にかまわない)、入学試験と格差是正のあいだに何の関係があるのかよくわかりません。もう6月に入るころなので、受験生的な発想は押し入れか冷凍庫にでもしまっておいてはいかがでしょうか。教育を学問として捉えるときの目が曇りますよ。

初等教育と中等教育のギャップの理由が、成立の仕方の違いにあったということがわかって、納得した。「主体的・対話的で深い学び」ということに対して、教科教育法の授業で議論しているが、いつも「知識がなければ探究的な学びにつなげられない」という考えに至り、無理やりな印象が否めないと感じている。今後また変わることを期待したい。(法)
・・・> わからないではないが、だからといって「知識をまず入れろ」という意見にそのまま同調するのも避けたい。知識を投入してするする学んでくれるのは文化資本に富んだ、つらら耐性のある生徒だけだから。そもそも「知識をまず入れる」ということの困難を思い知れば(塾の講師などやっているとわかりそうですね)、「学ぶ気にさせる」という活動が重要な意味をもってくることがわかるはずです。

アクティブ・ラーニングを高校でやりましたが、意見を交換するのだって、結局その分野に詳しかったりする人がリードしていって、残りの人が講義を聴くようなかたちになることがあることに気づきました。一部の生徒がアクティブになっていない問題は、意見をいう人がただただ自己主張が激しいというだけではないことがわかりました。(教育)
アクティブ・ラーニングでは、できる生徒であればインプットしたものを勝手にアウトプットできるが、それをできない生徒はそこまでたどり着くことができないので援助する、といった考え方ができるかな?と思った。(教育)
・・・> そういうことですから、なんでもかんでもアクティブにしろ、なんて文科省も専門家もいっていないわけです。カリキュラム・マネジメントをはたらかせて、個別最適の学びとしてアクティブな活動を入れましょう、ということ(余計にわからなくなったという人は、拙編著『教育の方法・技術とICT』(学文社、2022年)をぜひどうぞという宣伝でした。

グループ・ディスカッションなどで身近なことをちまちま学ぶより、知識を与える(光を照らす)ほうが効果的だという話がありましたが、個人的には、グループワークで身につく、能動的に考える力というのは、レベルのより高い高等教育で役に立つため、まったくグループワークをしないというのもあまりよろしくないのではと考えました(高等教育の場でグループワークをするかどうかはさておき)。先生はどうお考えですか? (教育)
・・・> 私がいったのは、当科目のように教育の歴史や思想を教えるという趣旨にGWが合わない、ということです。実際には、私くらいGWやっている人はめずらしいくらいです(でもないか)。

抽象的思考の力が搭載されてくる青年期に、教科担任制になって先生との関係が密接ではなくなり、サポートが薄くなっていく。その結果、ギャップに苦しむ生徒が多数いるということを、もっと問題視して、対策を考えていくべきだと思った。(教育)

1ギャップに対して、かろうじて付け足しの機能のように保健室や部活がそのフォローをしているとあった。最近いろいろな自治体で学習支援の策が動くようになっていて、それもそのような付け足しでのフォローにあたると思った。公教育の抜本的改革がなかなか進まない中で、とりあえずの福祉的な事業をおこなっているところも多いように思う。そのような事業の効果については、確かめるようなことがあまりない。付け足しの、とりあえずの事業でも、果たせる意義を忘れることなく改善しつづけることは大切だと思った。(人科)

なぜ共通テストに情報が追加されたのですか? 変化する時代なのに情報の知識を詰め込んだら、嫌になる生徒もいるのではないかと思います。(法)
・・・> いまどきの主要3教科というのが英語・数学・情報だからではないですか。理系の大学にいると、それはそうだよな〜と、すんなり考えてしまうのですけどね。1つ下の私のコメントも読んでください。

地元では、小中連携、中高連携といった事業が進められていたが、高大連携というのはなかった。中等教育→高等教育のイメージはもちにくく、分断があるのだと考える。(教育)
・・・> 前二者に比べると、高大連携というのは空間的な範囲がぐんと広がります。「地元」で気づかなかったのも無理はありません。実はいま最も連携が求められているのが、ほかならぬ高大連携です。100%近い人が高等学校に進み、そこで自身の適性や学びのタイプを心得て、大学や専門学校を選択します。その段階になるともう狭い専門の世界になり、実社会や職業に直結します。したがって高校の学びをより最適化することで、高大一体となって「よりよい人材」の育成を果たすことができます。センター試験をやめて共通テストにしたのは、そのためです。というのをご存じでしたか? あれは、高大接続改革の重要な一環。高校側が、いつまで経っても「だって大学入試があるから」というのをエクスキューズにして、儀式的・惰性的でおもしろくもない知識伝達に終始するものだから、「じゃあ大学入試を変えてやるよ。だから高校教育を変えなさい」というプレッシャーだったのです。現行の平成2930年版学習指導要領の策定に際しては、小・中学校についてはとくに心配ないからその調子で進めてください、高校がガンなので徹底的に改良します、ということになりました。現行学習指導要領のもとになった中教審答申(20161221日)を読むと、ちゃんとそういうことが書いてありますし、告示直後の講演会で文科省の担当官が「高校がガン」と強い表現をなさっていたのを私は聞いています。だとすると、高大接続改革とか大学入試の改良、つまりは高校をなんとかするという改善計画の動機が文科省の中にあったのだと思われそうですけれども、真にそのことを欲しているのは経済界です。経済界というのは、経団連などに集まる日本を代表する大企業たちのことです。経済界が安倍晋三内閣(第二期は201220年)と深いかかわりをもっていたことはよく知られていますが、政権が長期安定している折に、アジアとの競争力低下に苦悩する経済界が、「使える人材をとにかく送り出せ。それが学校教育の役割だ」とプレッシャーをかけたのが、いま述べた現行の学習指導要領だったというわけです。そう考えてくると、プログラミング学習とかダイアローグ(対話)とか、情報科のメジャー化とか、すべてのことの文脈が見えてくるのではないですか。

高等教育から発達した下構型の中等教育と、初等教育から発達した上構型の中等教育が組み合わさってできた中等教育は、下構型の性質が強く残っているためにエリート的で、学習指導要領についていくことのできない生徒が大量にいることにつながっているのだろうか。(文)
・・・> それはそうなのですが、学習指導要領が、知識やコンピテンシー(知識の運用能力)を項目として掲げている以上、ついていける・ついていけないという学力差はいつだって生まれて当然です。国内すべての児童・生徒が均一の能力をもっているなんてことがあるはずはありませんからね。


インド ムンバイの女子中等学校 ここは英語系の学校らしい
生徒の送迎用のバスが終業を待って待機している

 

青年期のモラトリアムについて、複雑化する社会の中で青年期が長期化することが現代の課題であると考えた。そのために、いままで怒られてこなかった人が怒られたら退職を考えるようになったり、ユルハラなんて言葉が生まれたりするのだと思った。このような社会環境と精神のギャップを知るか知らないか、乗り越えるか乗り越えないかで、人生が大きく変わってくると考えた。(スポ)
・・・> この内容自体は別にいいですが、教職課程の学生としては、「乗り越えるか乗り越えないかで人生が変わる」なんて評論家風のことをいうのではなく、教師や学校や公教育を主語にして、「私たちはそこにどう向き合うか」という文型で表現するほうがよいと思います。

大学生になってから、出会う人や行動の範囲も広がったため、モラトリアムは必要なのではないかと思いました。私の中では、大学生活はモラトリアムに含まれるのではないかと思います。高校までの視野だと、社会に出てからの自分の行動範囲が狭まってしまうと思いました。今回の授業は、いままでの学びがつながっていて、とてもおもしろかったです。(文構)

制度の民主化以降、下構型中等教育と上構型中等教育を混ぜてしまったせいで、経済的に豊かな家の子どもはドロップアウトしないが、そうでない子どもはアウトしがちになるという現実を、授業の中で知ることができてよかったです。金持ちではない多くの家庭の生徒を、公教育を通して社会で立派に生きられるようにするためのサポートをおこなう使命があるということを学び、その自覚をもつことが大切だと思いました。(法)

今回の授業を受けて、こんにちの中等教育にはあまりにも多くのものが詰め込まれすぎていると考えた。中等教育ができた過程の関係で、致し方ないことではあるが、エリート以外の子どもが中等教育での学びを自身の将来の学びや仕事に活かすことができているかを考えると、厳しい状況だというのが現状だろうと思った。(スポ)

以前の私のレビューに対する古賀先生の返答「教員は児童期から青年期への移行の専門家であるべき」ということの意味がわかった。いままでずっと、家庭環境に恵まれている子ども、そうでない子どもがいることに疑問をもち、どうにかしたいと漠然と考えていた。その差を少しでも埋めるためにあるのが公教育で、そのためにサポートするのが教員であると考えると、本当に何年ももやもやしていたことが、今回この授業ですっきりしてうれしい。自分が将来教員として何をできるか考えます。がんばる。(文構)

 

 


開講にあたって

教職課程へようこそ。この教育基礎総論Iは、その名のとおり教職課程の基礎として位置づけられるものであり、教員免許状の取得要件を規定する教育職員免許法施行規則において「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」とされている分野にあたります。当クラスの受講生は、中学校 and/or 高等学校の教員免許状の取得をめざす学生です。中高の免許状には「教科」名が明記されており、たとえば「国語の先生」「保健体育の先生」というように、特定の教科の専門家として指導にあたります。大学入学前のみなさんは、「国語の先生」「保健体育の先生」になるためには、国語や保健体育の関係科目を学べばそれでよいと考えていたでしょうか? 実際には、担当教科を問わず全員が受講し、単位を修得しなければならない科目がたくさんあります。これが「教職科目」と総称される一群であり、基本的には卒業単位の外側ですので、みなさんは教職課程を履修しない学生と比べて、おおむね2割増しくらいの授業を受けなければならない(もちろん授業を受けるだけでなく、それ以上に頭を動かして思考しなければならない)ことになります。それにしても、中高の教員になるにあたって、教育の理念、歴史、思想の学習がどうして必要なのでしょうか? 不思議に思われるかどうか、この分野は、1949年にいまの教員養成の制度ができたときからずっと、基礎の基礎として設定され、ただの一度も揺らいだことがありません。端的にいって、未来の教育者になるためには、教育の理念、歴史、思想を学ばなければならないというコンセンサスができているのです。

理念はともかく歴史や思想というのは、文系の一部門であり、高等学校でいえば世界史、倫理あたりに相当するものですから、これを全員が共有するというのはなかなかわかりにくいところがあります。その答えらしきものは当科目の最終回(第14回)で回収できるはずですが、開講にあたって一つだけ申しますと、現代教育の基本理念というのは歴史的に形成され、それには思想が内包されているということです。なぜ、どのような経緯でそうなったのか。そしてそれは時代の変化や地域の違いなどによってどのような実態をもつのか。課題や矛盾は何か。そうした点を知るには、歴史や思想の学びが不可欠です。忘れてならないのは、みなさんがこれから教員になるとして、その数十年のキャリアのうちに、また社会は変化し、教育も変移します。いま、この瞬間の教育だけを知って、わかったようになっていても、動体視力は養われず、化石のような認識を振りかざすどうしようもない先生になってしまいます(そういう人は残念ながら少なくありません)。

このクラスでは、最初の3回で問題意識を共有して、第4回以降の歴史・思想編で順次、問いへの答えを回収していくというプロセスを踏みます。第4回〜第6回が欧米教育史、第7回・第8回が教育思想、第9回〜第12回が日本教育史、第13回・第14回がこの先の学びへの展望を含む、整理・まとめです。「卒業単位外だし資格モノだから、テキトーにやる」という人は向きません。おそらく脱落します。最終回で明示するように、中学校・高等学校の教員になるために(実は幼稚園・小学校も同じです)なぜ大学を卒業する必要があるのか、という点をよく考えてみてください。大学での学び、大学ならではの学びこそが、教員に必要不可欠だからです。大学での学びとは、要するに学問です。みなさんには14回にわたって「学問」をしていただくことになります。でも、それはなかなかおもしろく、有意義な作業でもあります。教育者としてのしっかりとした足腰を備えるためにも、週の最後のほうの授業になりますが、万全の態勢で臨み、大いに思考し、深めてください。


<使用するテキスト>

古賀毅編著『教育原理』、学文社、2020
*大学生協ブックセンター扱い 主に第2章〜第4章を扱います。

 

<評価>
複数回の課題の内容によって評定します。
出欠は評価の対象としません。

 

 


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