古賀毅の講義サポート 2023-2024

Études fondamentales sur l’éducation- 1

教育基礎総論1(中・高) C


早稲田大学教育学部教職課程(全学部対象)
春学期 金曜5限(17:00-18:40)  早稲田キャンパス 14号館 402教室

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2023(令和5)年度 教職科目における指導・評定方針

 

20237月の授業予定
7
7 日本教育史(4):高度成長期以降の教育
7
14 岐路に立つ現代教育:1990年代以降の展望
7
21 教員養成の歴史的展望

 

本年度の授業は終了しました。みなさんのご活躍をお祈りしています。
当科目の評定、課題12の総評などを、Waseda Moodleにて公開しています。参考になさってください。



 

REVIEW 7/21
*文意を損なわない範囲で表記や表現を改めています。掲載を省略したり、複数のものを統合したりする場合があります。

変わっていく社会の中で柔軟な考えをもつ教師が今後必要であることがわかった。最初の授業で「教育者は自分が学んだようにしか教えられない」という話があり、また今回それを聞いて、なるほどと思った。(教育)

教員養成という視点での授業は初めてで、新鮮でした。(教育)

「教育学部」には2種類あるというのが驚きであった。大学を出るだけで中等教育の教員資格を取れた時代があったことも驚きであった。教員になる人が少なくなったのは、教員免許を取得するために必要な科目が多いことも原因であると思った。しかし私は、教職課程での学びはすべて教員になるために必要な学びだと思っているので、教員の数と質を天秤にかけたときに科目数を減らすことがよいことだとは思わない。(基幹)

あらためて教職課程というものを俯瞰的に考えることで、開放制教員養成の実態を知ることになったが、教師に求められるものがどんどん増えているのも、教師になりたいと考える人が少ないのも、歴史的な流れによるところがあるのだとなんとなく理解できた。そして何よりも私の親世代の人たちがことごとく教員免許をもっているのに対し、私たちの世代では教職課程の履修者が半分もいないという理由が、そのカリキュラムの変遷も含めて、非常に納得できた。「学んだようにしか教えられない」という言葉は絶対に忘れません。(教育)

なぜ教員になるには大学で学ばなければならないのか理解できた。開放制であることを活かして、専門の科目だけでなく他の学問についても学びつづけていかなくてはならないと思った。(教育)

今回あらためて教員になることに対する熱意を抱くことができた。これから教員をめざすうえで、先生のいっていたことを思い出しながら、日々学びつづけようと考えている。(文構)

教員養成のしくみも、まだまだこれでいいのかな?と感じるところがあった。教員不足といわれているが、教員の質を落とさないことも大切だと思った。(人科)

先生が教わった先生が「漢文は暗誦だ」といっていたという話が印象的でした。私の中学校の理科の先生も、理科は理系で唯一の暗記教科だといっていたのを思い出しました。教育者は自分が学んだようにしか教えられないので、私もいまから学び方をもっと深くしたいなと思いました。(政経)

教育者は自分が学んだようにしか教えられない、という言葉に納得した。ただよい成績を取るためだけに「学んでいるふり」をするだけでは、人に教えることはできないと思った。(社学)
・・・> よい成績を取ることだけをねらって、しかし本当に学ぶということと、ご指摘のような「学んでいるふり」では、どちらがまずいんでしょうかね。そんなことを最近は考えます。日本の教育学界の大エースともいえる佐藤学さん(東京大学名誉教授)のお話を、先月久しぶりに聴きました。佐藤先生といえば「学びの共同体」であり、前提として「学びからの逃走」という指摘がかねてあって(エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」のコンセプトを援用したものです)、私もそれに影響を受けて、自分の解釈と表現を加えてお話ししてきたつもりです。就学期間が長期化し、みんなが高校・大学へと進むのは喜ばしいことなのだが、学びは儀式化・惰性化するばかりではないかという危機感があり、実際には子どもや青少年が学びを放棄して逃げ出しているのだ、という佐藤先生の指摘を重く受け止めたものでした。先月の講演では、「学びの偽装」ということをおっしゃっていました。偽装とはただごとではない。まさに「学んでいるふり」ということでしょう。コロナ禍のイレギュラーな事態(休校、分散登校、オンライン授業、ディスタンスなど)が世界的にそれを加速させたという仮説を述べられていました。思い当たるふしがかなりあります。明らかに偽装している学生は私の履修者の中にも残念ながら含まれており、別に私の科目に本気で取り組んでくれなくてもいいが、他の科目を含めすべてにおいてそうしていないですよね?と呼びかけたくなってしまいます。そういう人には、いまさらなかなか伝わらないのでしょうが。

 
二宮尊徳像(小田原市 報徳二宮神社内) 江戸後期の農政家で、農業経営コンサルのような立場だった
かつてはどこの小学校にも読書しながら歩く金次郎少年の像があり、「學ヲ修メ業ヲ習ヒ」の徳目を可視化していた
「ながら読書」は危ないし視力が下がるよという現代的な突っ込みはそれとして、「ながら動画」「ながらゲーム」の数万倍まともである

 

開放制教員養成は、より広い教養をもった人材を育成することができる制度である。一方で学生自身が進路を選ぶことができる点で、そもそも教員をめざす人材が少なくなるというデメリットを含む。教員不足は重要な課題の一つだが、師範学校にも特有のデメリットがあった。2つのよいところを集めた教員養成を考えるべきだと思う。(教育)

「教育」ということに興味をもち、学ぶことができるのが開放制のよいところである。ここで敷居を高くするのは日本教育の低迷につながってしまう。人それぞれに天職があるのだから、少しでもチャレンジさせてあげるべきだ。(社学)

教師になるなら教育専門の学校に行くほうがよかったのかなと思っていましたが、さまざまな分野を学び、広い視野をもつことができるのが開放制のよいところだとわかりました。(教育)

開放制教員養成制度の中で、専門性を得てから教師になることを期待されているということがわかった。一方でタコツボ化はこの時代に教育を通じて解決していかなければならないので、幅広い知識を求められていることを受け止めなければならない。教師になることへの壁を感じた。(政経)

つらら型において、エリート生徒とエリート先生のあいだにあった信頼関係というのが、考えてみれば当たり前だがおもしろかった。開放制であっても社会経験などでいえば視野の狭い教員が生まれそうなので、社会人を採用するシステムがほしいなと私も思った。(教育)

この授業で紹介された小説がどれもおもしろそうなので、試験期間を乗り切ったら読もうと思う。(文)
「二十四の瞳」は大学1年のころに読んだことがあるが、ある程度教育について学んだいま読むと、抱く感想が変わると思うので、また読みたいと思った。(文)

戦前では、女性にとっての最高度の教育機関が教員養成機関であったというのが実に興味深い。高等女学校以上のものがあったことすら知らなかったので、なおさらだ。戦後はGHQの介入で大きくシステムが変わった。アメリカの影響を強く受け、大学でのさまざまな教員養成が開始された。いろいろと問題はあった様子だが、女性にもちゃんと門戸が開かれたのは喜ばしい。(教育)

戦後、優秀な女性が高度な職業に就けずに小学校の教師になっていったことで、教育界が進歩したというのは皮肉なことだと思った。(教育)

所得が少なくても、優秀な人材が推薦によって地位を上昇させるチャンスがあり、それらの教員は向上心もあったという話を聞き、教員不足が問題となっている現在でも、やる気のある教員を支えるしくみをもっと充実させればよいのではないかと考えた。(教育)

女子の理系は少ないが、薬学・医学には女子が多い。それも女子にとっての貴重な身分上昇の機会だからではないか? (先進)
・・・> 薬学は多いですが医学はいうほどではありません。また医学部の合格ハードルの差別的な設定が数年前に明らかにされたように、医学の世界はジェンダーの壁が依然として分厚い業界です。勤務医でなく開業医が業界の主導権をもつという構造も要因になっているかもしれません。その観点で日本教育史を振り返ると、「女医さん」というカテゴリが「医師」とは実質的に別枠としてあり、女医を育成する女子医学という分野や学校が生まれました。医師免許を女性で初めて取得した荻野吟子や、東京女子医科大学の創立者 吉岡彌生などが知られます。戦後も、いくつかの女子医大を通じた別枠があることで、男性の圧倒的優位という状況を若干ですがカムフラージュすることができていたのかもしれません。当たり前ですが患者の半数かそれ以上は女性なので、女性の医師は半数かそれ以上いるべきなのです。他方で薬学というのは、それ自体が医学のサブカテゴリのように扱われてしまう状況があり、女性が専門性を生かして進出しやすい、むしろ女性的な分野・職場であるという実態も生まれました。看護師は余計にそうですね。

工業の教師は教職課程を履修せずに免許を取ることができる。だがその技術をもっているのなら社会に出てしまって教師にならない、ということに、なるほどと思った。(創造)

 
(左)高田早苗先生の座像(7号館前) (右)高田早苗先生ご夫妻の墓所(都立染井霊園)
早稲田大学の創立と発展に尽力した大功労者で、第2次大隈重信内閣では文部大臣を務めた

 

早稲田大学教育学部の謎だった部分がわかった。(教育、類例複数)

先日、母校の後輩から、なぜ早稲田の教育学部の初等教育専攻では中・高の免許が取れるのに、それ以外では初等の免許を取れないんですかと聞かれて、答えられなかった。今回の授業を聞いて、由来がかかわっているのだとわかった。後輩に伝えたいと思う。(文)
・・・> 由来もそうですが、そういう制度(教育職員免許法関係)だからというのが正しいかもしれません。

教育学部だけど必修の授業は文学史や漢文などで文学部みたいだなと思っていた。中等教育においては教科専門性が重要であること、開放制がいまもつづいていることを踏まえると、そのことに納得できました。でもそうしたら、教育学部ではなくて、「国語国文学部」「英語英文学部」「数学部」とかでよい気がしました。(教育)
・・・> だったら文学部も「文学部」「歴史学部」「哲学部」「心理学部」「社会学部」に分解する? 大くくりというのは文系のいいところだと私は思うんだけどな!

早稲田の教育学部誕生の詳細を知ることができてとても興味深かった。以前、教育学部国語国文学科と文学部の違いを他学部の人に聞かれてうまく答えることができなかったので、中等教員養成のために専門的な知識を教える学科であると、ちゃんと伝えておきます。開放制だからこそ教職科目は単位に入らないという事実も、歴史的な経緯から納得しましたが、教育学部では一部を卒業単位に含めることができるのはなぜですか? (教育)
・・・> 説明してもいいですがものすごく複雑なうえに、法・制度のテクニカルな部分なのでおもしろくないですよ(笑)。文部科学省が各大学の教職課程を認定する際には、どの科目が法令上のどのカテゴリ(枠)に対応するのかということを、シラバスなどを確認して、公認します。教職科目ではあっても他で教職カテゴリの最低単位数を満たしているのであれば学部の専門科目扱い(卒業単位)に繰り込んでもいい、という幅が少しだけ出てくるわけです。以前は教育学部でもそういう運用はなかったのだけど、このところの教職科目の増量を受けて、負担をなるべく減じてあげたいという学部側の思いやりだと思ってくだされば。

早稲田大学に大隈・高田の像はあるのに小野の像がないのは、小野が早世したことと関係しているのではないかと考えた。(教育)
・・・> 像はちゃんとあるよ! とその場でも申したのですが、行ってみたら姿がない。どうも私の記憶も20年くらい更新されていなかったようで、1号館の早稲田大学歴史館で聞いてみたら、小野講堂に移設されているとのこと。小野講堂そのものの移転もうっすら知っていたのだけれど私の記憶だと6号館だったので20世紀仕様でしたね(汗)。正門のすぐそば(外側)、27号館の地下につづく吹き抜けのところに、小野梓先生の像があります。

 
小野梓先生の像(27号館地下 小野記念講堂入口横)

 

初等教員の免許や中等教員の免許を取得できるところやそうでないところ、後に取得できるようになったところなど、実際に大学名などがプリントに並べられているのを見ると、「師範学校」など自分が実際には見たことがないものがたしかに存在したのだと、より深く感じた。この授業で昔から順を追って教育を見てきておもしろかったと思うし、「そういう流れだったのか!」とは思うのだが、現実味が得られなかった。しかしいまある大学名などが出てくると現実味が急に増した。(社学)

現存する教育大学の特徴は専門機関型教員養成の傾向に似ているのだろうか。各大学の教育学部の違いに驚いた。成り立ちを聞くとよく理解できた。私の地元の大学にも教育学部があり、受けようかと気になっていたが、教育学研究なのか教員養成なのか、調べたこともなかった。(文)

開放制と専門機関型のどちらが今後人気を得るかというと前者だと思います。専門で行く人が少なくなれば質は落ちると思いますか? (教育)
・・・> 専門で行く人ってどういうことですか?

開放制であることは、現代において産業界に人材が流出してしまうリスクを含んでいるが、教育に関する知識を身につけながら学部独自の知識を身につけることができるため、将来企業に就職する際に役立つのではないかと思った。(人科)
・・・> 企業に行くんかい(笑)。本当は、産業界でいくらでも活躍できそうな人材が教育職に就くというのが理想で、制度設計上はそうなっていたはずです。高度経済成長が歪めたのかもしれません。

早稲田大学は、開放制の短所である一般企業等への人材流出がいちばん顕著に表れていると思う。しかし早稲田では古賀先生など一流の教員が教育を教えてくれるので、給料が上がるなどの変革が起きれば、いちばん人材流出しない大学になると思った。(教育)
・・・> いいこというね(笑)。ただ早稲田の場合、流出ではなくて最初からそっちが本命、でもペーパー・ライセンスだけ取っておくという人が昭和期から主流でした。あー開放制だな〜と、学生時代の私は思ったものです。

教職概論などでも習ったが、教員は学校という閉鎖的な空間で勤務するため一般的な社会経験が会社勤務の人たちと比べて少ないとされ、そのせいで社会的地位があまり高くない。しかし開放制教員養成により、専門知識と教養の両方をもった教員や、大学卒業後に一般企業への就職を経て教員になるという人が増えることで、変化する時代に柔軟に対応できる教員が増えて、社会的地位の向上にもつながるのではないだろうか。(教育)
・・・> このご意見はかなり聞きますし、一定の説得力があるように思いますが、私は支持していません。社会的地位が高くないというのは大都市部のことで、経済成長を経て多くの産業部門がハイクラスとみなされるようになった(教員のステータスを追い越した)ことと、児童・生徒の親の学歴が高くなって教員と同等か上の立場で見るようになったことが「地位」変化の要因だと考えます。「教員は一般社会に出ないから社会を知らない」というのは、社会科教員のひとりとしても謙虚に受け止めますけれど、目の前の相手が教員であることを承知でその手のことを放言する人は、知っているつもりの社会が実は「会社」でしかない(それも「わが社」「わが業界」)ということが往々にしてあるんですよね。教員・警察官・公務員に対しては悪口をいっていいのだという風潮も否めません。

開放制がいまも残りつづけるのは、それだけやらないとグローバル化が進む社会で通用する人間を育てることができないからだと思う。しかし、この開放制が教員の不足につながっていることも事実のため、ありようを考える必要がある。(教育)

中学校からチューターを依頼されたときに、何年か前に定年されていた高齢の先生から、大学生になったから中学生の高校受験のわからないところは5教科全部教えられるよね、といわれた。全教科は無理だと思って反発したが、そのときの意図が今回の授業でわかってすっきりした。(教育)
・・・> 中学校受験だって3教科は無理じゃないかな。中学校(高校入試)の内容というのは、相当に高度で専門的です。あれをすべてこなす中学生ってすごいのです。

春学期のはじめのほうでは、教職科目も卒業単位に含められたらいいのにと思っていたが、開放制の特徴であるということを学んで、自由に学べるのはよいことだと思うようになった。(基幹)

他大学は教職課程の聴講料を徴収するのですか? 最後にとても気になったので、教えてください。(教育)
・・・> 教員養成がデフォルトの大学(実質的な専門機関型)をのぞいて、たいてい徴収していると思われます。もとは教育実習に際して実習校への謝金として遣われることが多かったのですが、十数年前に行政指導と業界の自主判断でほぼなくなりました。教職課程は外とのかかわりが多く(実習や認可手続き、免許状交付など)、こまごまとした経費がかかるのと、開放制のもとで最小限の決意を示すためのエントリー料といったところですかね。千葉工大は1万円。

中学校の時の英語の先生が、早稲田の教育心理学専修出身の方だったのですが、1クラスだけ社会を教えていました。英語と社会の免許を取るというのは、どれほど大変なのでしょうか。(政経)
・・・> 教育心理学専修では、以前も現在も英語の免許状を取得することはできません。ですからその先生は、臨時免許状を取得されたか、卒業後に他大学など(通信課程を含む)で英語の免許状を取得されたのではないかと思います。文学部の心理学だとすると、かろうじて両方取るという可能性が出てきます。複数教科の免許状を取得するのはかなり大変です。同じ学校種(中学校・高等学校)であれば教育基礎総論などの教職科目の部分は共通なのですが、開放制のもとでは教員養成の本体は学部の専門科目のほう(教科専門)ですので、いってしまえば14年生の専門科目をすべて学んで単位を修得する必要があります。プラス2年で修了できるかどうか。そして、せっかく2つ以上の教科の免許状をもっていても、採用は単一教科ですし、業界も別々ですので、一部の私立をのぞけばさほど歓迎されません。時間とお金をかけるのであれば、修士課程に進んで専修免許状を取得し、もともとの教科のバージョン・アップを図るほうがよいと思います。(社会・地理歴史・公民は全体で1教科と捉えています)

開放制教員養成は、できるだけそのマイナス面をカバーするようなしくみになっているようだ。今後、さらに上級の学校種での学びがより当たり前になっていけば、次は教員養成の本体とされる教科専門性が注目されるようになり、開放制の長所を伸ばすという方針に切り替わると思う。(国教)

 

いまの教職の学習事項もあまり多くないのだなと思っていたが、以前の教員になるために必要な内容の少なさにすごく驚いた。(教育)
・・・> いまの教職科目が「あまり多くない」というのは不思議に思われたかもしれませんが、レビュー主は教育学科の方なので、ちょっと事情は違います。教育学科(初等教育専攻をのぞく)は、「教職科目」に相当する部分をむしろ専門として学んでいますので、法定される教職科目のかなりの部分を卒業単位内でフォローしてしまいます。逆に教科専門(社会・地理歴史・公民)は弱いので、そこを卒業単位外で補強するという、他の学部・学科とは逆の構造になっています。教育学科は、私の古巣でもあり、社会科の教科専門性はいまいちでも教育的センスや生徒理解の柔軟さなどでかなりよい傾向をもっていると思っています。それでも中等教育の教員を志すのであれば、社会科系統の教科専門性は研磨してほしい。『教育原理』8.2に登場する中学校教員のK先生は、8.1の小学校K先生の1学年後輩で私の教え子ですが、もとより教育学専修のご出身です。すばらしい社会科の授業をされています。

以前の教職課程の科目数がとても少なかったことに驚きました。現在も教員の人手不足が問題になっているため、条件が緩くなる可能性があるのかなと思いつつ、いろいろな人を適当に教師にするわけにもいかないというところが難しいと思いました。(基幹)
かつての教職課程はあれほどまでに科目数が少なかったのかと驚きました。ただ、多くの人が高等教育に進むといった社会状況や、教えるべき内容の高度化に加えて、過度な情報化の背景を踏まえると、それらのあらゆることを理解した人でなくては教壇に立つべきではないのかと思いました。(教育)

開放制教員養成を通じて、学問の専門性に強い教員が育成されるようになっているが、教職科目が多くなりすぎてもはや開放制ではないのではないかと思った。教員になるために、プラスアルファとして受ける部分がこんなに多くなって、教員になる人が減少したりしないんですか? 私はこの状態が普通だと思っていたが、教職科目が増えたのが結構最近のことで驚いた。(教育)
・・・> ペーパー・ライセンスの人は減っていると思いますが、コアな層(教員が本命という層)はあまり変わっていないと思います。地方はとくにそうですね。ま、でも、「教職科目の変遷」を見てわかったでしょ。みなさんの恩師や保護者の方が「大学生になったら教員免許状だけでも取っておきなさい」なんて簡単におっしゃる意味が(笑)。

開放制はやめるべきではないと私も思います。学期のはじめのころに、教師になるか迷っていると先生に質問したとき、教師になるつもりがないなら教職課程は勧めないとおっしゃっていましたが、開放制とは反対の意味ですか? (国教)
・・・> 開放制ではあるけれど教職科目が増えすぎたため、むしろ総量はものすごいことになっています。なるつもりが(まったく/ほとんど)ないのであれば、その負担は他の学びに振り向けるほうがいいですよ、という趣旨です。教員免許状そのものは、実際に教壇で教えるのでなければさほどの値打ちをもちません。それも昭和期と令和のいまとの違いでもあります。

専門機関型の教員は、経験上だとろくな人間がいなかったので、教員の数も大事だが、ある程度の社会常識はもってほしいと思う。(教育)
・・・> ですよね。そして、そういわれる(指をさされる)側にいるのだということも、そろそろ心得ておきましょう。

 
(左)嘉納治五郎の像(国立競技場前) 本人は東大文学部出身だが東京高等師範学校で長く校長を務め、第1回箱根駅伝に学生を参加させるなど
近代スポーツの発展に寄与 講道館柔道の創始者(柔道の父)であり、日本にオリンピック文化を根づかせた功労者である
(右)杉原千畝のレリーフ(リトアニア カウナス駅) 早稲田大学高等師範部英文科中退 外交官となりリトアニア領事となったとき
ナチスの迫害を逃れて日本経由の許可を求めるユダヤ人に独断で「命のビザ」を書きつづけ、1985年にイスラエル政府より顕彰された
「すごい人たちが中等教員養成に関係していた」のではなく、中等教員はそのような環境で育つべきだ、という理想を示していると考えよう

 

開放制だからこそ教職科目が多くて時間割がパンパンになってしまっているのだとわかった。しかし開放制でなければ、なんとなく教職を取ろうと思う人が減少し、なんとなく教師になる人も減少し、全体の教師数も減ってしまうのではないかと思った。教職科目はもっと必要だと思うときもあったが(いじめなどについて学びたい)、増やすのは無理だなと思った。(教育)

教員の質を保つとは、臨機応変な対応をできる人が教師になるということであろう。学びつづける教師こそが生徒のための教師であり、学問においても人間として生きる部分においても自分磨きを怠らない人が、理想の教師であると思った。(教育)

開放制教員養成にはさまざまな意見があり、教師の不足などやむをえない部分もあるのだと思うが、いまこうして教育のしくみなどについて学部を越えて学べているのはとてもよいことなのではないかと思う。(文)

開放制はつづけるべきだと私も思う。複雑で多様で高度な問題に立ち向かっていく必要がある現在、そのための人材を育成するには、多様なものに対応できる、広い視野が教員に必要だからである。こんな時代に教員を志すことは大変だなと感じているが、がんばりたい。(教育)

授業は非常におもしろかったです。知識だけでなく、物語のように理解できて、教職への興味・関心が高まりました。(基幹)
難しかったけれど新しく学ぶことが多くてよかったです。(スポ)

英語の教師になりたいと思っていて、日々進化する学問に追いつくために学びつづけなければいけないという言葉がとても刺さりました。高校時代の英語の先生が、言語は生き物であり、その時代によって変化するといっていたのですが、その言葉とリンクして、とても納得のいく話だと思いました。(文)
・・・> 言語は生き物なんですよ本当に。それ以上に、言語によって表現され、解釈され、分析される対象が生きています。「英語」は言語ですが、英語を介して語られる内容は社会であり理科でありスポーツであり文芸であり情報系でありサブカルチュアであり、人の世のあれこれ、神羅万象です。英語の先生の学びの質が、公教育の課題にばっちり重なります。頼みますばい。

「学びつづける人が教える人になる」という言葉が印象に残った。たしかに私があこがれを抱く恩師も、中・高でわかりやすい授業をしてくれた先生もみな生徒とともに自らも学びつづけているような人だったと、振り返って思った。教師になると心に決めたときには、学びつづける人でありたいと思った。(文)

 

 

 


開講にあたって

教職課程へようこそ。この教育基礎総論Iは、その名のとおり教職課程の基礎として位置づけられるものであり、教員免許状の取得要件を規定する教育職員免許法施行規則において「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」とされている分野にあたります。当クラスの受講生は、中学校 and/or 高等学校の教員免許状の取得をめざす学生です。中高の免許状には「教科」名が明記されており、たとえば「国語の先生」「保健体育の先生」というように、特定の教科の専門家として指導にあたります。大学入学前のみなさんは、「国語の先生」「保健体育の先生」になるためには、国語や保健体育の関係科目を学べばそれでよいと考えていたでしょうか? 実際には、担当教科を問わず全員が受講し、単位を修得しなければならない科目がたくさんあります。これが「教職科目」と総称される一群であり、基本的には卒業単位の外側ですので、みなさんは教職課程を履修しない学生と比べて、おおむね2割増しくらいの授業を受けなければならないことになります。それにしても、中高の教員になるにあたって、教育の理念、歴史、思想の学習がどうして必要なのでしょうか? 不思議に思われるかどうか、この分野は、1949年にいまの教員養成の制度ができたときからずっと、基礎の基礎として設定され、ただの一度も揺らいだことがありません。端的にいって、未来の教育者になるためには、教育の理念、歴史、思想を学ばなければならないというコンセンサスができているのです。

理念はともかく歴史や思想というのは、文系の一部門であり、高等学校でいえば世界史、倫理あたりに相当するものですから、これを全員が共有するというのはなかなかわかりにくいところがあります。その答えらしきものは当科目の最終回(第14回)で回収できるはずですが、開講にあたって一つだけ申しますと、現代教育の基本理念というのは歴史的に形成され、それには思想が内包されているということです。なぜ、どのような経緯でそうなったのか。そしてそれは時代の変化や地域の違いなどによってどのような実態をもつのか。課題や矛盾は何か。そうした点を知るには、歴史や思想の学びが不可欠です。忘れてならないのは、みなさんがこれから教員になるとして、その数十年のキャリアのうちに、また社会は変化し、教育も変移します。いま、この瞬間の教育だけを知って、わかったようになっていても、動体視力は養われず、化石のような認識を振りかざすどうしようもない先生になってしまいます(そういう人は残念ながら少なくありません)。

このクラスでは、最初の3回で問題意識を共有して、第4回以降の歴史・思想編で順次、問いへの答えを回収していくというプロセスを踏みます。第4回〜第6回が欧米教育史、第7回・第8回が教育思想、第9回〜第12回が日本教育史、第13回・第14回がこの先の学びへの展望を含む、整理・まとめです。「卒業単位外だし資格モノだから、テキトーにやる」という人は向きません。おそらく脱落します。最終回で明示するように、中学校・高等学校の教員になるために(実は幼稚園・小学校も同じです)なぜ大学を卒業する必要があるのか、という点をよく考えてみてください。大学での学び、大学ならではの学びこそが、教員に必要不可欠だからです。大学での学びとは、要するに学問です。みなさんには14回にわたって「学問」をしていただくことになります。でも、それはなかなかおもしろく、有意義な作業でもあります。教育者としてのしっかりとした足腰を備えるためにも、週の最後のほうの授業になりますが、万全の態勢で臨み、大いに思考し、深めてください。


<使用するテキスト>

古賀毅編著『教育原理』、学文社、2020
*大学生協ブックセンター扱い 主に第2章〜第4章を扱います。

 

<評価>
複数回の課題の内容によって評定します。
出欠は評価の対象としません。

 

 


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