古賀毅の講義サポート 2025-2026
Études fondamentales
sur l’éducation- 1 教育基礎総論1(中・高) C
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2025(令和7)年度 教職科目における指導・評定方針
2025年5月の授業予定
5月2日 欧米教育史(1):歴史の中の近代
5月9日 欧米教育史(2):近代国家の形成と公教育
5月16日 歴史の中の教育思想(1):近代教育思想の展開 *オンライン(動画配信)
5月23日 欧米教育史(3):20世紀の教育課題
5月30日 歴史の中の教育思想(2):新教育思想をめぐって
進行上の都合で教育思想の回をはさみましたが、欧米教育史(2)で取り上げたように、19世紀は公教育が確立され、急速に整備された時期でした。そして、民衆の側のニーズとも合致していったことで普及が進み、公教育は不可欠で重要だよね、という認識は広く共有されることになりました。みんながみんな就学して学ぶなんて、18世紀前半まで誰も考えたことがなかったはずなのに、驚くべき教育観(価値観)の転換です。さて、そこで確立され普及が進んだというのは、主に初等教育(elementary education)でした。ひとまず初等教育が一般化されたと考えておきましょう。いってみれば、欧米教育史(2)で考察したのは「0(ゼロ)を1にする話」です。今回は「1を2にする話」。いったん成立した公教育なるものを、前後左右いずれかに広げていこうという話にほかなりません。私たちの主要な関心の対象である中等教育(secondary education)が、ようやく教育をめぐる議論の中心に入ってくることになりました。これまで高等教育と初等教育の話がほとんどで、中等がないことをいぶかしんだり、もやもやしたりしていたのではないでしょうか。中等教育は、何のために、どこから出てきたのでしょうか? 欧米教育史(1)で前近代の教育を取り上げた際に、フランス語のエリート(élite)という概念を紹介しました。「選ぶ」(élire)という動詞の過去分詞系で「(神様に)選ばれた」という含意があります。つまりは生まれながらにノーブルな身分の人たちを指します。今回その概念が制度の成り立ちにがっちりかかわってきます。中等教育=エリートのもの? その公式1つだけでよいのかはさておき、ひとまずそんなふうに捉えておきましょう。学びが浅く、自身の生徒目線での経験とその周辺だけをうろうろしているあいだは、「よい学校」の入試を受けて入学してエリートになることをめざすわけだから、それはそうだろうなあ、などと受け止めるのではないか。学問的な知見をもってそこを強力に修正するのが今回です。でも先生、それは欧州の話であって、日本でエリートといえば高学歴の人のことですよね、というかもしれません。いやいやそれはあなたが見ている21世紀の日本の、それも全体像ではなく自身の主観的経験から見える範囲の話です。今回(第6回)でお話しすることは、同時期の日本でほぼ同一のことが起こっている、というふうに捉えることが可能です。土台になった文化や社会構造が違うはずなのに、教育の構造はほぼ同じなんて、おもしろいですね。でも、どうしてそうなるのか。 19世紀と20世紀の違いというか、教育課題の広がりということでいえば、公教育確立のそもそもの意義・目的であった近代国家の確立とその成員の形成ということが、いったん果たされたあとで、どのように変質・変容するのかという点が挙げられます。19世紀になって、急にナショナルな教育になっていったわけですけれど、そのナショナルという枠組は不動のままではいられませんでした。すでにナショナル教育の話題の段階で、いやな予感はあったのではないでしょうか。うちの国は最高で最強だ、と強調すればするほど、他の国はそうでもないとか、最悪だというふうなことを述べることになるからです。その先に国家間の衝突(世界大戦)が待っていました。欧州は2度の世界大戦で消耗し、こんどは米ソを軸とした東西冷戦のフロンティアになっていきます。東側(ソ連・社会主義陣営)との対抗はあるが、西側(アメリカ・資本主義陣営)内部で国家どうしがもめている場合ではなくなります。ナショナルな教育の意義が相対化されていきました。また、非欧州圏から続々と移民労働力がやってきて、もともと多様だった欧州社会の民族構成(もちろん宗教や言語も)はより多様で複雑になっていきます。そこに「われらフランスは○○である」といった単数形の説明を付して、それで済むはずはありません。また、冷戦期は東西それぞれが科学技術を磨いて対抗しましたので、かなり専門的でレベルの高い内容を身につける必要が生じました。これも従来型の教育(だけ)では支えきれない要因です。今回の内容は公教育論はもちろんですが「社会構造まるごと」の話になり、かなりスケールというか話の範囲が広いので、この種の議論に不慣れだと面食らうかもしれません。でも、これを突破できると、学校教育をとりまく状況や構造がウソみたいにはっきりと見えてきますので、この機会にセンスを磨いておいてください。
REVIEW (5/9) ■人々に自由な生き方を提供した教育が、しつけと表裏一体であるというのがおもしろいと思った。最初は強制的にやらされていても後に効果を実感したからこそ存続したのだという先生の意見にはっとした。でも、戦時中のように、国家が国民を統制するためのツールになってしまわないように教育を守るのは大変なことだと思った。(文構) ■近代公教育が前近代の教育と大きく異なるのは、義務教育的側面、経費が無償である点、共通のカリキュラムが組まれた点、教科が系統的に分かれた点、宗教と分離した点であるということが理解できた。ただし教育や職業選択における自由が保証されたにもかかわらず、共通の知的・道徳的基盤を学ぶ義務という不自由が生じる、という矛盾が発生したところが興味深かった。さらに前近代において自然科学は経済・軍事に結びついておらず、趣味としてしか研究できなかったという事実に驚いた。(教育) ■公教育を制度化することは、国民の意識や文化を統一するために不可欠であったのだと思う。また公教育は宗教と一線を引いているというのが特徴であるが、やはりその線はあいまいなままであったのではないかと思った。(文構) ■宗教が、宗教を大きくするために子どもに教育を与えたように、国家が国家を成長させるために国民に教育したという対応が、大変おもしろいと思いました。(教育) ■公教育が普及し定着したのは「受ける側が利点を実感したから」という理由に納得しました。しかし現在、公教育を受ける人々の中に、本当にそのように考える人はあまりいないのではないかと思います。以前の授業でも出てきましたが、塾で習うから学校は重視しないという人もいます。彼らにとって公教育は「受けさせられる」印象が強いのだと思います。この状況は、公教育がはじまる前、農業中心だった時代にそうだったように、教育の大切さがわからない「先祖代々してきたように」という型にあてはめているだけだと思います。(政経) ■前近代の教育から近代公教育に転換していく中で、教科の分化がほとんどない状態から系統的に分かれていったことが大きかったと思う。分化しすぎることで、本来つながりをもってイメージしやすかったものがイメージできなくなることも考えられるが、初等教育段階においてはできるだけ項目を少なくシンプルにしたほうが、子どもたちが可視化できて、適切なのだろうと思った。(社学) ■学問は、産業に結びつかなければ無用の長物となってしまうというのが、いまの自分の勉強姿勢について考えさせられた。(教育) ■啓蒙思想の英語がenlightenmentで「知識の光を当てる」という意味であるのは知っていたが、フランス語でもLumièresが「光」を意味することを知ってとても驚いた。(文) ■1792年当時のフランスは前近代の要素をかなり残していたため、コンドルセの案はかなり先駆的であった。社会のニーズを早すぎるうちに察知して、近代国家に必要なものを提案する先見の明は、福沢諭吉に似たものを感じます。(教育) ■高等教育の発達によって初等教育も発展するという話がありましたが、初等教育は教会の教育方法がもととなって、そこに高等教育からいくつかの要素が加わるという解釈で合っていますでしょうか。(社学) ■宗教観を分離させたのは、教育に宗教観を入れると公教育の知のはぐくみに支障がでることも一つにあるのか気になりました。(教育) ■国家という枠組ができてから、科学、経済を伸ばすために大学ができたにもかかわらず、いまの大学生は国に貢献したいという意思が低いと感じた。(基幹) ■ナショナルというワードがたくさん出てきたが、是近代と比べて近代は対象や経費負担、目標などの主が国家になり、いいところも悪いところもあると思うが全員が同じ内容を学ぶことができるというのは、進歩なのではないかと考えた。(商) ■公教育の構成要素を見ると、これまで何も考えずに捉えていた「教育」あるいは「学校」という言葉および概念の背景に、国家の存在があることを認識した。前近代のゆるい感じがなつかしい。(教育)
■近代国家を構成する国民のレベルを高め、一体化を進めることで国民国家の地位を高めることを目的として、国家によって強制的にはじまった義務教育だが、民衆がそこで習った国語や算数などの「知」のよさに気づいたことで、公教育が不動のものとなり、当たり前のものとしてつづいてきた。そのため現代に生きる自分たちは、なぜ義務教育があるのか答えることができなくなっているのではないかと思った。 ■公教育を受けることが国民の義務となり、すべてにおいて選択の幅が広がって、それにより「先祖代々してきたよう」な生き方がもはや許されなくなった、という考え方は目から鱗だった。(文) ■「国語」を英語でなんというか?というのがとても興味深かった。たしかにJapaneseではないような・・・ と思っていたので納得した。学校の授業のチャイムの話も興味深かった。鉄道によって時間の感覚が身につくというのはとても納得した。(教育) ■近代国家が強大化するためには言語の統一が必要であるため、国語という概念が広がったが、はたして標準語でないとされているものを標準語に変えなきゃいけないというとき、反発はなかったのかなと気になる。私は山口県出身なのだが、標準語に変えるときはすごく嫌だったしつらかった。だからたとえば、フランスが国語を統一しようとしたときどうなったのかを知ってみたい。(国教) ■国民共通の言語としての国語について、言語を介して一つの国民国家としての意識が、ある意味では無理やりつくられた形になったが、これはフランスや日本など言語とそれをつくった民族が一致している場合であって、たとえばブラジルなどの国の国民意識はどのようにしてつくられるのだろうか。(教育) ■日本史が近畿地方史になっている、という先生の発言にはっとさせられました。私は京都出身なので、地元の歴史を詳しく学べるのが楽しくて、日本史の勉強が大好きでした。しかし近畿以外に住む人は、縁もゆかりもない、行ったことがあるかどうかすら怪しい土地の歴史を教え込まれるわけで、少しおかしいなと思いました。(社学) ■共通の思い出が帰属意識を高めるということに納得した。(社学、類例複数) ■共通の歴史や思い出があると人々の団結力が上がるということを知った。国民が自分の国を誇りに思うのは、国語や歴史を教育されてきたからなのだなあと感心した。(文) ■国家として近代化をめざすため、国家みずから国民に公教育をおこなったこと、またそこに国民側のニーズも合致して受け入れられたため近代公教育が定着したことがわかった。その近代公教育で疑問に思ったのは、国民の記憶としての歴史(日本だったら京都・奈良のように)の一部分に限定したのかということだ。もちろん覚える量が膨大になるのはわかっているが、地理のように地方ごとに学習する案や事例はなかったのだろうか。(教育) ■以前、韓国の歴史教科書の日本語訳を読んだのだが、その訳に悪意がないというのを前提にすれば、日本の歴史で習ったものとは乖離がある箇所があり、引っかかった記憶がある。どちらが正しいかはともかく、お互いの教育は国史を浸透させるという点において成功しているのだとわかった。教育は自分に知識や選択肢という恩恵を与えてくれるものではあるが、教育が国民国家をつくる要となっている以上、すべてを鵜呑みにするのではなく、ある程度の作為が含まれていることを意識して学ぶべきだと思った。(文構) ■納得のいく話ばかりだった。とくに国語や歴史を教育する理由がとても腑に落ちた。少なくとも日本においては、国語や日本史、日本地理は、国内共通の基礎を身につけるため、英語や数理教科、世界史は世界共通の基礎を身につけるためのものなのだろうか。共通の基礎というのは、国家内におけるものだけではない、という認識でよいのだろうか。(先進) ■時間の感覚やルールを守ることなど、「教育」をあまり感じにくく自然に身につくものだと捉えていたが、教育によって布かれたレールの上を走る中で身についたために自然だと感じるのだと考えた。(社学) ■近代公教育の三大原則の一つに「無償」があります。現在は義務教育でも教育が有償という国もあります。この原則が行きづまったのにはどのような背景があるのでしょうか? ■以前の授業でも取り上げられたが、時間厳守の重要性と同じくらい、食事への感謝(いただきます)は大事だと思うか。(基幹) ■自分の中で「時間を守る」ということが定着したのは、学校教育、親の教育、部活動だと思う。まず小学校で時間に従って行動するということを教わり、他人に迷惑をかけない時間の使い方を親に教わった。そして部活動で、自分で時間を管理することを学んだ。(政経)
■公教育は、国家の側も一般の国民も、どちらもメリットを感じられなければ成立しないという話を聞いて、人類の長い歴史の中でここ100年ほどしか義務教育の制度が存在していないことに納得しました。(教育) ■近代になって形づくられた教育がいまもその形を崩さずに残りつづけていること、すなわち近代と大きく違う現代の人々も、いまの教育に利点を実感している点が非常に興味深い。時代や価値観が違えど、人という生き物はあまり変わっていないのでしょうか・・・。(文構) ■公教育のおかげで人々の学力が向上し、社会の発展につながっているけれど、学校に行かないで家業をしてほしい親にとっては迷惑になる。そのとき子どもに勉強してもらいたくない人が教育の大切さを理解するようになったということを知り、国による公教育の影響は絶大だったと実感した。(文構) ■近代公教育が急速に普及したことには、市民革命・産業革命などの要因があったことがわかった。アフリカなどの、教育が現在でも乏しい場所では、社会全体が成長することによって教育の普及の具合が変わってくると考える。(人科) ■近代公教育が定着した理由には深く納得した。近代の一斉式授業は、先生一人が多くの生徒を教え、啓蒙を促すことができるのでよい方法だと思うが、取り残される生徒がいることを忘れてはならないと思う。現代において、そのような生徒を個別で教えてあげるなど、するべきだと思う。また学校が、近代国家が国民にナショナリズムの風潮を広める装置になって、大きな役割を果たしていたのだとわかった。(教育) ■公教育を受ける側のニーズあっての普遍化であるとおっしゃっていました。一方、経験的には、能力の向上や社会的地位の向上というニーズに対してはあまり自覚的でない生徒も多いという印象です(早稲田大学の学生は例外ですが)。このような自覚をより深めることが、教育の効率性を高めると思うのですが、いまの教育に求められる要件として、考えておきます。(教育) ■洗脳と教育の違いはどこにあるのだろうか。単純な疑問であって公教育が洗脳であるといっているのではない。対象の思考や行動を改めさせる点では同じもののように見えなくもない。ほどこす側の目的によるのか、あるいはその内容によるのか、はたまた別のところにあるのか。そもそも切り離せないものなのか。先生のお考えをご教示願いたい。(教育) ■国民国家を批判するとき、そのような批判をできるようになるだけの学力は、国民国家が確立した近代公教育によって育てられた。というのはなんともいえない気持ちを抱きました。(教育) ■ひどく失礼なことを書きますが、先生は反公教育すぎると正直思ってしまいました。自分はネット、SNSによる全国のつながりの進歩はナショナリズムに傾くべきで、画一であるべきだと考えていたし、先生は国家の僕(しもべ)であるべきだと思っていました。といっても逆の視点(反公教育、反ナショナリズム)を考えることで、「公教育への解釈」がクリアになったと思いました。(教育)
■他の教職課程の授業でも、公教育とは何かというのを議題にされることが多く、そのほとんどでポジティブな印象を抱いていた。しかし自由や平等を背景に置いた社会であるにもかかわらず、公教育という名の国家権力が浸透しているこの状況が、少し矛盾しているように感じた。しかし近代化に伴う産業革命には、国民一人ひとりの知的な基盤構築が「国家」の役目として必須だったのだろうと考えた。(教育) ■体育館がどうしてスポーツセンターではなく体育館なのかということを、いままで疑問に思ったことはなかったけれど、話を聞いていてどうしてなのか気になりました。ただ、意外とあまり意味はなく名づけられている可能性もあると思います。(教育) ■体育館になぜ「体育」がつくのか、いわれてみて初めて疑問をもちました。同様に、体育館の他にグラウンドがあることも不思議に思いました。それは単純に活動範囲を広げるためですか。一つだけでは足りない理由があったのでしょうか。(教育) ■「規律や集団生活、決められた学習行動などに同調することが苦手な子どもにとっては苦難の時代の到来」という部分を読んで、学校がなかった時代のほうが、文字が読めなかったりして大変だったのではないかと思っていたが、発達障がいのある子どもたちにとってはのびのびと過ごせて、よかったのかもしれないということに気づいた。(文) ■フランスの公立学校で、ヒジャブやアバヤの着用を禁止する法律があったように思うのだが、フランスが他国よりも強硬に非宗教を徹底するのは、過去に宗教から教育の権利を奪取するのに苦労したからなのか。それとも単にキリスト教的な表現を学校で禁止しているから、それとの釣り合いをとるためなのだろうか。(文構) ■フランスの19世紀の読み物で愛国心を養ったという話を聞き、国家が好きなように国民に教育できてしまうからこそ、極端に愛国心を煽り、特定の国の短所を教えたり自国の行動を正当化したりしてしまえるところは怖いと感じました。だからこそ国家の未来を担う若者への「教育」は、国家にとってとても重要なものであるともあらためて思いました。(教育)
教職課程へようこそ。この教育基礎総論Iは、その名のとおり教職課程の基礎として位置づけられるものであり、教員免許状の取得要件を規定する教育職員免許法施行規則において「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」とされている分野にあたります。当クラスの受講生は、中学校 and/or 高等学校の教員免許状の取得をめざす学生です。中高の免許状には「教科」名が明記されており、たとえば「国語の先生」「保健体育の先生」というように、特定の教科の専門家として指導にあたります。大学入学前のみなさんは、「国語の先生」「保健体育の先生」になるためには、国語や保健体育の関係科目を学べばそれでよいと考えていたでしょうか? 実際には、担当教科を問わず全員が受講し、単位を修得しなければならない科目がたくさんあります。これが「教職科目」と総称される一群であり、基本的には卒業単位の外側ですので、みなさんは教職課程を履修しない学生と比べて、おおむね2割増しくらいの授業を受けなければならない(もちろん授業を受けるだけでなく、それ以上に頭を動かして思考しなければならない)ことになります。それにしても、中高の教員になるにあたって、教育の理念、歴史、思想の学習がどうして必要なのでしょうか? 不思議に思われるかどうか、この分野は、1949年にいまの教員養成の制度ができたときからずっと、基礎の基礎として設定され、ただの一度も揺らいだことがありません。端的にいって、未来の教育者になるためには、教育の理念、歴史、思想を学ばなければならないというコンセンサスができているのです。 理念はともかく歴史や思想というのは、文系の一部門であり、高等学校でいえば世界史、倫理あたりに相当するものですから、これを全員が共有するというのはなかなかわかりにくいところがあります。その答えらしきものは当科目の最終回(第14回)で回収できるはずですが、開講にあたって一つだけ申しますと、現代教育の基本理念というのは歴史的に形成され、それには思想が内包されているということです。なぜ、どのような経緯でそうなったのか。そしてそれは時代の変化や地域の違いなどによってどのような実態をもつのか。課題や矛盾は何か。そうした点を知るには、歴史や思想の学びが不可欠です。忘れてならないのは、みなさんがこれから教員になるとして、その数十年のキャリアのうちに、また社会は変化し、教育も変移します。いま、この瞬間の教育だけを知って、わかったようになっていても、動体視力は養われず、化石のような認識を振りかざすどうしようもない先生になってしまいます(そういう人は残念ながら少なくありません)。 このクラスでは、最初の2回で問題意識を共有して、第3回以降の歴史・思想編で順次、問いへの答えを回収していくというプロセスを踏みます。本年度は他所での業務の関係で、スケジュールが若干入り組んだものになりますが、おおむね欧米教育史+教育思想史→日本教育史という流れになります。最後の2回がこの先の学びへの展望を含む、整理・まとめです。「卒業単位外だし資格モノだから、テキトーにやる」という人は向きません。おそらく脱落します。最終回で明示するように、中学校・高等学校の教員になるために(実は幼稚園・小学校も同じです)なぜ大学を卒業する必要があるのか、という点をよく考えてみてください。大学での学び、大学ならではの学びこそが、教員に必要不可欠だからです。大学での学びとは、要するに学問です。みなさんには14回にわたって「学問」をしていただくことになります。でも、それはなかなかおもしろく、有意義な作業でもあります。教育者としてのしっかりとした足腰を備えるためにも、週の最後のほうの授業になりますが、万全の態勢で臨み、大いに思考し、深めてください。
古賀毅編著『教育原理』、学文社、2020年 <評価> |