ホテルから見て旧市街は目の前なのですが、モトワヴァ運河があいだにはさまっており、それが途中で二流に分かれているためかなり遠回りになります。予想以上にめんどくさいな〜。それでも、さきほどは暑い中を荷物を引きながらホテルをめざし、周囲をゆっくり見渡すのは後回しにしていましたので、運河べりの様子を眺めながら進みます。旧市街を画する旧モトワヴァ運河に対して、その一本外側の新モトワヴァ運河に沿って、ホテルや飲食店、コンビニなどが並んでいます。よくある話ではあるが、港湾都市グダンスクは一時期オワコン化しかけて、景観を売りにした観光都市として再生したという経緯があります。このあたりも運河のたたずまいを取り込んで再開発した地区なのでしょう。運河に停泊しているのが小型のレジャー・ボートばかりなのは仕方ありません。いまどき町なかに商船が入港することはないですからね。
(左)新モトワヴァ運河沿いの遊歩道 (右)「牛乳缶」が見えてくる
ホテル付近から300mくらい南下したところで、ようやく新運河を渡る橋に出会います。渡ったところに、太い鉛筆のような形状の黒ずんだ建物?が見えます。Stągwie Mleczneという名称をいまGoogleさまに頼んで翻訳してもらうと「ミルク缶」と出ました。おそらく生乳の貯蔵施設だったのではなく、形状に由来する愛称なのでしょう。ドイツ語ではMilchkannentorだそうです。新旧の運河にはさまれた島はヴィスパ・スピシュシュフ(Wyspa Spichrów)で、これは「貯蔵島」とのことらしい。ここグダンスクの前身もハンザ同盟都市で、プロイセンの支配下でも自治を享受し、後述する事情によって第一次世界大戦後は一都市一国家という異例の存在になりましたので、武器・弾薬を含むいろいろなものを都市の周囲に配備していたに違いありません。
幅200mほどの貯蔵島を最短距離で横断します。さきほどバスで通り抜けたのは一筋南側。いま歩いている通りは歩行者専用で、飲食店が軒を連ねる繁華街になっています。建物の感じやお店のラインアップから察するに、このあたりも最近になって再開発されたのだろうと思います。トルンは田舎の都市でしたが、ここグダンスクはかなり都会の雰囲気があり、路上を歩く人が実に多いこと。いうほどの観光都市でもないはずで、それにしては人出がすごいなと現地では思ったものの、実はクラクフと競うポーランドきっての観光都市らしい。
観覧車も見える「貯蔵島」を横断して、「緑の橋」へ
Gdańskと、綴りにńが含まれていますのでグダンスクのンはニュとの中間くらいの発音。グダニスクという表記もしばしばみられます。同じ趣旨でToruńをトルニとする地図も見かけます。ただ、歴史の本に登場するときはだいたいにおいてドイツ語のダンツィヒ(Danzig)名義でしょう。トルンに似て、東方植民を進めるドイツ系(商人が主力)とポーランド系のせめぎ合いで中世後期いらい主導権がたびたび入れ替わりました。ただこの都市は経済力がありましたので、どちらが主導権を握っても高度な自治権は保ちつづけます。18世紀末のポーランド分割で、ダンツィヒはプロイセン領とされました。急成長するプロイセン王国に呑み込まれたダンツィヒの「ドイツ化」は急速に進行し、20世紀に入るころには住民の9割以上がドイツ語を母語とし、ドイツ・アイデンティティを有する人で占められるようになりました。歴史的・地理的には微妙だが「現実」のダンツィヒは完全にドイツの都市であったわけです。
ところがドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北すると、戦後処理のヴェルサイユ条約によって、ポーランドの独立を認め、そのバルト海への出口としてポーランド回廊(波Korytarz polski / 独Polnischer Korridor)を割譲しなくてはならなくなります。ドイツとしては、自分たちの創業地たる東プロイセンと陸続きでなくなったのも痛かったが、ドイツ人ばかりの主要都市ダンツィヒを切り離さざるをえなかったのは痛恨でした。一方のポーランドも、独立したからには農作物などの輸出で稼がなければならず、そのためにはグダンスク港の優先使用権が不可欠でした。英仏などの戦勝国側が考えたのは、自治の伝統があるダンツィヒの特性を生かしてドイツ系住民による都市国家とし、外交権を含む実質的な宗主権をポーランドに認めることで「ポーランドの港」でもあるという条件も満たしうるということでした。こうして、20世紀にはきわめてめずらしい都市国家、自由都市ダンツィヒ(Freie Stadt Danzig)が成立します。この微妙なバランスは、できたばかりの国際連盟によって担保されました。ま、両大戦間の「微妙なバランス」とか「国際連盟」といったキーワードは、ほぼすべての場面で、「ナチスの強行突破と英仏のヒヨリによってあっけなく崩れる」というオチにつづくことになっています。この港湾都市のたどった運命は、その要素を100%満たしたうえで、さらに衝撃の結末を迎えるというものでした。いま歩こうとしているダンツィヒ改めグダンスクに、いまドイツ系住民やドイツ語の痕跡はほとんどまったくありません。完全なる「ポーランド(人)の都市」になっています。そんなことってあるのだろうかというのが私の当初の問題意識で、したがって今回、首都ワルシャワの次に向かう先はクラクフやポズナンではなく、ここグダンスクになったという次第です。
グダンスク市街地の概念図
にぎやかな貯蔵島を抜けそのまま西に進むと旧運河に架かる橋があります。歩行者専用とはいえ、橋の上まで屋台がびっしり並んでいて、お祭りモード。ここが緑の橋(Zielony most)です。運河の対岸が旧市街で、隙間なく並ぶ建物が城壁の役割を果たしていて、その東辺が運河に沿っているのがおもしろい。したがって緑の橋を渡りきったところにすぐ城門に相当するトンネルがあります。これが緑の門(Zielona Brama)。緑ではなく、現状は赤レンガの門です。西日を浴びて真っ赤に輝いています。シチュエーションは異なるものの、水路と町の門の位置関係などがチェコのプラハを思い出させます。ドイツ文化圏の造りなのかもしれません。アーチ構造になっているトンネル部分では、男女の弦楽器トリオがパフォーマンス中。いい感じで音が響いて、歩行者もどことなくノリノリになります。
その先が旧市街のメイン・ストリートであるドゥーガ通り(Długa)。正確には緑の門に面する手前(東)のほうはドゥーギ広場(Długi Targ)なのですが、広場といっても幅広の道のつづきで、一体のものと考えてさしつかえありません。ここでも路上には露店屋台の列。飲食店の屋外テラスとともに、白いテントが独特の雰囲気をなしています。アクセサリー類やカバンなどの小物関係などの屋台が多いですが、まあさほどの品物は(笑)。中世後期の自治都市だった時代に造られた旧市庁舎(Ratusz Głównego
Miasta)の尖塔が天を指していますね。戦後再建された町並という知識にもとづいて予想していたよりも、かなりクラシックな商業都市の雰囲気をしっかりともっています。市庁舎のそばにはネプチューンの噴水(Fontanna Neptuna)。1633年に完成したものだそうで、海神ネプチューンはかなりシェープアップされたいい男だね。ハンザ同盟都市であり、バルト海の開運で栄えた町ですので、ネプチューンは守り神、繁栄のシンボルとして最適なのでしょう。
「緑の門」を抜けて目抜きのドゥーガ通りへ 尖塔は旧市庁舎 そのそばにネプチューンの噴水がある
東西南北を限られた旧市街の距離感というのは、本駅からの移動でだいたいつかんでおり、多少迷っても歩けばどこかの辺に出るだろうというので、地図は部屋に置いてきています。もちろんスマホなんてもちませんので、本当に「素手」。このくらいは余裕でしょう。スマホの地図に頼ると、どうでもいいような場面でも始終画面を見ながら歩くということになるようで、人間のスペックが低まってしまうのではないですかね。市庁舎のわきを北に折れると大きな教会(聖母マリア教会 Kościół Najświę)があり、そのあたりも裏道とかではなくて、たくさんの露店と人出があってにぎやか。マリアツカ通り(Mariacka)はアクセサリー関係の小さな露店がたくさん出ています。あとで知ったところでは、中世に由来する琥珀の取引がルーツで、いまも指輪やペンダントなどが主たる商品になっているとのこと。
マリアツカ通りなどにえんえん屋台が並ぶ それにしてもポーランドは噴水好きやな!
運河沿いは道が狭いこともあって、まっすぐ歩けないほどの人出があります。観光レストランのたぐいがずらり並んでいて活気があるのはよいのですが、こういうところに一人で入るのはおもしろくない。わいわい的な飲み会ならいいんですけどね。いずれにしても旧市街界隈の飲食店はツーリスティックになるでしょうから、程度と雰囲気で店を選ぼう。そう思ってそのあたりをぐるぐる回ってみるが、ピンと来るところがありません。結局、緑の門を抜けて貯蔵島のほうに戻ってきました。パブタイムとディナータイムの境目あたりにさしかかっているせいか、さっきよりもにぎわっています。ピエロギの看板が目立つけど、餃子はもういいや。肉を食べたい。ホテルへの帰り道にあたる新運河沿いのほうが落ち着いていたかなと、貯蔵島を抜けて対岸のほうに戻ったら、ホテル・グダンスク(Hotel Gdańsk)という直球名前のホテルの0階に、さほど上等すぎない感じのレストランが営業しています。案内の女性が立っているので入りやすい。声をかけたら、運河ビューのテラス席に案内してくれました。いまホテルのサイトで確認すると、レストラン(ホテルのメイン・ダイニング)は中にあり、テラスはBrovarniaというミニ・ブリュワリーということらしい。前夜のトルンと同種のビア・レストランですね。
民族衣装にポニーテールというかわいらしい格好の(ある意味あざといコスプレの)店員さんがメニューをもってきて、よどみのない英語で解説。やたらにスターター(前菜)を勧めてきますが、メイン・コース・オンリーでと二度ほどいって断ります。塩分制限があるので前菜まで食べていられないのはまことに残念。でも、欧州に来るとやたらに量を食べてしまうので、齢を考えてもぼちぼちセーブすべきタイミングなのでしょう。メニューに載っている肉料理は6種類、いちばん高いのがフィレ・ミニョン・ステーキで89 zł、最安はチキンのシュプリーム(suprême クリーム系のソース)で53 zł。さほどの値段でもありません。前夜もみたように、欧州のカジュアルな肉料理ってさほどの幅があるわけでもないので、地元ならではというふうにもなりにくいですね。トルンではビーフだったから鶏肉にしようかな。いや、アヒルがある。Traditional Gdansk duck with
potatoes dumplings, red cabbage and cranberry sauceなる料理が69 złということなので、地名に敬意を表することにしました。
飲み物は店名にもなっているBrovarniaを発注。メニューにはThe Best Beer in Polandと、中学生にもわかるような最上級の表現が付されていました。0.5Lで16 zł。20時半を過ぎ、ちょうどよい時間帯なのかほとんどの席は埋まっていて、客層が若く見えます。運ばれたビールは炭酸の薄いエールで、豊かな味わい。これは好きかもしれません。飲食店で飲むビールに関しては、その土地で最もポピュラーなものを発注する習慣になっており、まずいとか、こりゃダメだと思うことはまずないので、ビールは自動的にうまいものだとどこかで思い込んでいるふしもあります。店内では音楽の演奏もやっているみたいで、まあにぎやか。ちょうどいい具合に日が落ちてきて、運河の水面がきらきら輝きはじめました。
15分くらいかかって運ばれた料理は、ダック(アヒル)の半身で、クランベリー・ソースをまとっています。塩分濃そう(汗)。肉だけで200g以上ありそうで、若干のフラポとザワークラウトがついていますが、ほぼ肉。前夜のグーラーシュもそうでしたね。ポーランドはメイン食材と添え物のバランスが極端なのかもしれません。味は予想どおりで、鶏の胸肉のような淡白な肉に甘いソースが染み込んでいます。フランス料理をはじめ、欧州では狩猟系の肉(カモやウサギなど)には果汁やハチミツを使った甘いソースを用いることが多く、香辛料が十分にない時代の名残なのでしょう。家禽のアヒルもカモの一派なので、たいていそうなります。私にはちょっと甘すぎるかもしれません。提供が遅かったのでビールを干してしまい、2杯目を頼みましたが、この料理だったら赤ワインのほうがよかったですかね。ごちそうさまでした。
8月10日(金)もいい天気。もう1泊するので、きょうはグダンスク市内をじっくり見て回ることにします。8時過ぎに0階に降りて朝食。朝食会場は運河に面しており、ガラス張りなので絶好の眺め。戸が開放されているため食事の前後に運河沿いの遊歩道を散策することもできます。部屋の装備がまったくなっていないホテルではあるけれど、朝食は非常にまともで美味しい。シチュエーションと雰囲気で選ぶのならいいのでしょうかね。回送便らしい観光船がゆっくりと通り過ぎる様子など、たしかに眺望としてはよいので。
9時半に町歩きをスタートします。きのう中心部だけ一回りした旧市街はあとに回すことにして、まずは市街地の北のはずれにある欧州連帯センター(Europejskie Centrum Solidarności)を見学することにしています。方角としてはほぼ真北に向かって1kmちょっと歩く見当でしょうか。ホテルの少し北に運河を渡る歩行者専用の可動橋があり、そこを渡って、旧市街北辺の道路に出ました。ここにもテントの露店がたくさん出ています。朝っぱらなのでまだ準備中のところもあるけれど、散歩を兼ねたお客はけっこう来ていて、品物を眺めたりしています。欧州連帯センターへは、そのあたりから1回右折してまっすぐ進むだけだと心得ています。出る前にグーグル・マップで右折の目印になるパン屋を確認しておきました。カジュアルなパン屋さんがあることでもわかるように、このあたりはもう普通の住宅街で、たまに町工場や小オフィスがあるという、どこの都市にでもあるような日常空間。チェコやブルガリアなどでも見たのだけど、社会主義時代に造られた住宅街というのは全体に無表情で寒々しいところがあります。ただ、歳月を経ているため壁の色などがかなり渋くなってきていて、それで救われている感じ。東京23区内にもそのような地区がいくつもあるのだけど、このところ急速に建て替えられています。昭和末期の福岡市西部なんかも無表情なところが多かったな〜。
露店エリアを抜け、ごく普通の住宅街をまっすぐ北上
20分くらい歩いて、欧州連帯センターの立派な建物が見えてきました。空間的なゆとりがずいぶんあります。もともとレーニン記念グダンスク造船所(Stocznia Gdańska im. Lenina もちろん現在は「レーニン記念」が外されている)と呼ばれる巨大な造船所があり、かなりのスペースを使って東側屈指の生産をおこなっていたエリア。コンビナートというのは社会主義国の得意分野でもあり、この付近に重化学工業地区が設定されたのでしょう。
時代があちこちに飛んで恐縮ですが、第二次世界大戦終結時の状況を振り返っておきますと、ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで1944年8月に国内軍と市民の一斉蜂起があり、ドイツ軍の報復的な攻撃を受けて惨敗。その様子を静観していたソ連軍がポーランド国内の共産主義勢力と結んでワルシャワを「解放」し、ほどなくポーランド全域を制圧しました。ソ連の世話にはなりたくないと自力解放をめざしたばかりに、まるまるソ連の影響下に入るという思いがけない結末でした。第一次大戦終了後のポ・ソ戦争でソ連側に押し出していた国境線は否定され、現在の東部国境まで200km近くも後退を余儀なくされますが、その代わりにオーデル・ナイセ線以東の地域からドイツ人を追い出し、ポーランド領としました。第二次大戦を経て、ポーランドの国土は西に3分の1だけ移動したことになります。ソ連領になった地域のポーランド人のかなりの数が、ドイツ人が去って国有財産化された西部地域に移住したようです。自由都市ダンツィヒは、ドイツがポーランドに宣戦布告した直後に、住民投票を実施してドイツへの帰属を決定し都市国家であることを放棄していました。前述したように、住民の9割がドイツ人という都市だったわけなので、ようやく「本国」に戻れたということだったのですが、ドイツの敗北によってその安堵はたちまち剥がされてしまいます。オーデル・ナイセ線以東のポーランドへの割譲は米英もヤルタ会談で認めるところであり、ダンツィヒの運命も決しました。ソ連軍によって町の大部分を破壊され、大半のドイツ人が追放されたダンツィヒは都市名をポーランド語のグダンスクに復し、ポーランドの都市として再出発することになります。住民もまるまる入れ替わりました。ポーランドの統治は、他の東側諸国でもみられたように、旧社会党系と共産党系がソ連の指示(支持)のもとで合同した統一労働者党(Polska Zjednoczona Partia Robotnicza)による一党体制にゆだねられました。レジスタンスや亡命政府から合流した非共産主義者たちはまもなく排除され、1952年以降はポーランド人民共和国(Polska
Rzeczpospolita Ludowa)と称する、まごうことなき社会主義国家になったのです。
欧州連帯センターとグダンスク造船所
ソ連にとってポーランドは工業面でも軍事面でも欠かせない子分でした。そのため反ソ傾向が出るとつぶされ、モスクワに忠実な政権が培養されます。ただ、計画経済と工業化を無理やり推進した反動で、石油危機後の1970年代後半には食料品などのインフレが続発し、国民生活が苦しくなりました。社会主義化して30年、そのころのポーランド人たちが、内心ではソ連や社会主義を嫌っていたのか、すでに順応していて体制内で思考していたのかはよくわかりません。ただ、1980年にここレーニン造船所で発生したストライキが、一般のポーランド人たちによる体制批判、社会主義批判であったことは間違いありません。同年7月に食料品の値上げが発表されたとき(社会主義のため公定価格ですからね)、造船所の労働者たちは立ち上がります。当時の感覚でいいますと、資本主義国では労働者が団結して労働組合を結成すると、それは反体制ではあるが社会主義的になるというのが常識でした。これと正反対に、社会主義国で決起した労働組合は反社会主義的になります。もとよりあからさまな体制批判をおこなったわけではないが、食料品値上げ反対、国民生活を守れない政府はダメだと叫ぶとき、それは反社会主義にならざるをえず、かつまた反モスクワでもありえました。この折の決起が当局によってつぶされずに生き残り、むしろポーランド全土の市民を巻き込む運動体へと成長していったのは、当時38歳だった造船所組合のリーダー、レフ・ヴァウェンサ(Lech Wałęsa)の卓越した指導力によるところが大きい。日本を含む諸外国ではWałęsaは英語読みされて広まったため、ここでもレフ・ワレサという慣用読みを用いることにしましょう。彼が創設者のひとりとなった自主管理労働組合「連帯」(Niezależny Samorządny Związek Zawodowy “Solidarność”)と彼の名は、小学校高学年〜中学生だった私の目にも頻繁に触れるものになっていました。1981年の戒厳令あたりからポーランド情勢を伝えるニュースがかなりの頻度で流れていたためです。冷戦最末期、東西対立が厳しくなった時期で、日本を含む西側では、社会主義国家で起こった反権力、反ソ連?の動向に、ある種の期待をもって注目していたのでしょう。
この欧州連帯センターは、歴史に疎い人が見ればEU諸国と連帯するのかな?と思うでしょうが、要は「連帯」記念館ということであり、同組合やワレサの活動に関する展示をおこなっています。入館料は20 zł。内部は思いのほか広々としており、展示も見せ方も充実していました。すべての展示に英語表記があるのはありがたい。
欧州連帯センターの展示 (下左)1980年、ストライキに入ったレーニン造船所の労働者たち (下右)21項目の要求
「連帯」は、まずは団結権そのものの保障などを含む21項目の要求を出します。当時の権力者ギェレク第一書記(Edward Gierek)は政権運営の行きづまりと食料デモの責任を取らされて失脚、当局は懐柔の意味もあって「連帯」の承認に踏み切ります。これを収拾できるのは軍人だということなのか、1981年に共産党第一書記兼首相に就任したのはヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(Wojciech Witold Jaruzelski)将軍でした。2014年に世を去ったヤルゼルスキの評価というのは、その後のポーランド情勢の混乱もあってまだ定まっていません。先走っていえば、一党独裁の社会主義体制が崩壊したあともひきつづき大統領に選ばれており、東欧革命期におけるポーランドの「軟着陸」ぶりを体現する人物でもあります(同時期の韓国で軍事政権のトップだった盧泰愚が民主的な選挙で再選されたのと同種の驚きが私にはありました)。1981年のヤルゼルスキとしては、「連帯」の勢力が拡大すればソ連による介入は必至でありそれは避けたい、だが状況を冷静に見ればいま一方的に抑圧しても反動が大きくなるというので、ハンドリングに悩むところだったのでしょう。当初はワレサと直接会談して落としどころを探りましたが、12月13日、全土に戒厳令を布告して、ワレサらの身柄を拘束しました。冒頭で少し触れたように、私がポーランドという国を初めて強く意識したのがこのときでした。たしか昼間のラジオで臨時ニュースが報じられ、びっくりした記憶があります。
あとから冷静に振り返れば、戒厳令とワレサ逮捕により、ソ連の機嫌を損ねることは回避でき、ワレサをむしろ安全な場所にキープできたわけなので、なかなかの好判断だったのかもしれません。でも当時の国際世論はヤルゼルスキとポーランドを厳しく非難しました。当然のことです。英国、フランス、西ドイツ、そして日本でも、ポーランド政府の措置に抗議しワレサらの自由回復を求める運動が起こりました。
(左)レフ・ワレサ (右)戒厳令を布告するヤルゼルスキ第一書記(欧州連帯センターの展示物)
1981年8月の食料デモ(同)
右の写真はワルシャワ中央駅東側の交差点(ツェントルム)で、訪れたばかりの場所のため規模のイメージができた
1980年代のポーランドには、大物というか役者がそろっていました。これは幸運なことだったといえるでしょう。敵対するワレサとヤルゼルスキはいずれも大物だったと思いますが、それに加えて、1978年にポーランド出身者として歴史上初めて聖座に登ったローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(Ioannes Paulus PP. II)の存在がどれほど大きかったか。1983年2月、教皇は何度目かの祖国ポーランド訪問を断行し、ヤルゼルスキとも会見しました。政権側としては、警備の問題や、戒厳令下での人心の混乱を案じて、教皇の訪問に難色を示したのですが、教皇は堂々とワルシャワに乗り込みます。はたしてカトリックの信仰の篤いポーランド国民は教皇の訪問を大歓迎しました。そこに希望を託しました。いかに社会主義政権とはいえ、自国出身で世界最大の宗教組織のトップである教皇の行動をあれこれいうわけにもいかず、また教皇訪問がつくった国民のムードにさからって「連帯」をこれ以上抑圧するわけにもいかなくなりました。宗教と政治は古来一体のものですが、近代に入ると両者がセパレートされる傾向が強まります。1980年代のヨハネ・パウロ2世の行動はあくまで宗教的行為であり、ゆえに政治の側が過度に干渉することを許しませんでした。
1983年7月、ヤルゼルスキは戒厳令を解除。ワレサは解放されました。同年10月、ワレサにノーベル平和賞が授与されます。ワレサと「連帯」に、文字どおり国際世論が強い連帯を示しましたので、もはやむやみな手出しもできなくなりました。そのころソ連では、長年にわたって最高指導者だったブレジネフが死んでアンドロポフが最高権力者の地位にありましたが、前任者ほどの求心力はなく全体的に停滞していました。それも幸いしたかもしれません(この年の秋から病状が悪化して、1984年2月に死去)。
(左・中)ポーランドを訪れた教皇ヨハネ・パウロ2世(欧州連帯センターの展示物) 教皇を慕う人々が団地の窓などから身を乗り出して歓迎している
(右)ワレサのノーベル平和賞受賞を報じるフランスの『フィガロ』紙(同)
こうして、東側社会主義陣営では異例のことに、反体制的な組織が公認され、カリスマ的な指導者の存在と国際世論の支持という状況がポーランドに生じました。そうしているうちに親分であるソ連のほうでゴルバチョフが登場、冷戦終結に向けて歩みはじめるとともに、子分である東側諸国にも改革ムードが拡散されます。ヤルゼルスキは政権維持に固執しますが、統一労働者党の一党独裁の維持はもう困難でした。1989年6月、戦後初めての、そして社会主義陣営全体でも初となる複数政党による自由選挙が実施され、「連帯」系の圧勝、統一労働者党の惨敗という結果に終わります。ヤルゼルスキは大統領になりますが権限は大きく制限され、「連帯」系の内閣が組織されて、ほどなく社会主義の破棄が宣言されることになりました。日本の平成元年にあたる1989年といえば、このあと、バルト三国の「歌う革命」、ハンガリーの汎欧ピクニック事件、ベルリンの壁の崩壊(東ドイツの民主化)、ジフコフ独裁政権の崩壊(ブルガリアの民主化)、チェコスロヴァキアのビロード革命(共産党政権の崩壊)、そして年末のルーマニア革命とチャウシェスク処刑というふうに、あまりに劇的な変化が連鎖的に起こり、それらは東欧革命と総称されることがあります。しかし「連帯」という確かな前史をもっていたポーランドでは、きわめて穏便に、ソフト・ランディングを果たすことになりました。亡国の試練を何度も味わった国民が、ようやく手にした自由といえるかもしれません。レフ・ワレサは1990年に大統領に選出され、民主主義的な国家運営の難しさを存分に味わって、1995年の選挙で敗北して引退しました。ワレサの歴史的使命はもう終わっていたのでしょう。
1時間半くらいかけてじっくり展示を見ました。もちろん初めて知ることが多くて勉強になったのですが、なんといってもリアルタイムで経過を追っていたことですので、それを追体験しているような感覚でもありました。小中学生の団体が何組か見学していました。20世紀を知らない世代にとって、近未来ならぬ近過去の話って、どれくらい身に染みているのでしょうね。ポーランドは、ワレサ引退後の2004年に欧州連合(EU)への加盟を果たし、2007年にはシェンゲン圏入りしました。ですから私も、ミュンヘン空港で入国(入欧)審査を受けたきりで、ミュンヘン→ワルシャワは国内線扱いで移動したわけです。ユーロ未加入なのはなぜだかわかりませんが、早くしてもらいたいな〜。ま、最近ではハンガリーともども、行政権の突出と反民主主義的な傾向、そして排外主義的な政策が目立ちはじめていて、欧州の懸念材料にもなっています。困ったものだと思うものの、2010年代の情勢を思えば「人ごと」でもないような気もします。
大統領として国連で演説するレフ・ワレサ(欧州連帯センターの展示物)
PART6につづく
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