独特のアクサン記号がついたトルン(Toruń)というのはもちろんポーランド語での呼称で、ドイツ語ではThornと綴りました。1945年まで、ここはずっとドイツだったので、Thorn時代のほうが断然長かったことになります。トルンに拠点を築いて都市化の端緒をつくったのは13世紀のドイツ人で、15世紀にポーランド・リトアニア連合領に移り、18世紀末のポーランド分割でプロイセン王国が獲得してから第二次大戦の終結まで、プロイセン→ドイツ領でした(ナポレオンがつくったワルシャワ大公国の数年間は同国領)。民族・言語・宗教の点では、ドイツ語を話しプロテスタントを信仰するドイツ系と、ポーランド語を話しカトリックを信仰するポーランド系が拮抗する、いわばフロンティアでもありました。1473年にここで生まれたコペルニクスは本当にポーランド人なのか?という例の疑問がまた出てくるわけです。ドイツ語を母語とし、ラテン語で本を書いたコペルニクスが「ポーランド人」とはおよそいいがたいが、さりとてドイツ人ともいえず(ドイツなどという国家は存在しなかったので)、仮の結論は、別にどっちでもいいじゃん、主権国家とか国民国家という概念が成立する前の話なんだから、ということになります。かつて中国と韓国・北朝鮮のあいだで、高句麗(고구려 紀元前1世紀〜紀元後7世紀)は中国の王朝なのか朝鮮のそれなのかという論争がありました。別にどっちでもいいじゃん、というのが、どちらとも無関係の私の見立てなのだけど、絶対にどっちでもよくないらしいんですよね。そういう心情ないし主張の態度こそ近代的な限界なのだと考えます。よその国、民族のことなら「どっちでもいいじゃん」と普通にいえるのに、いろいろ不思議ですね。
トルン市街地(ツーリスト・インフォメーション発行のマップ) オレンジ色の部分が世界遺産の旧市街
●1 バス停 ●2 宿泊したHotel Nicolaus ○3 旧市街広場 ○4 バス・ターミナル
鉄道のトルン本駅はヴィスワ川の対岸(地図下側)にあり、右端に見えるのはトルン市駅
さてホテル・ニコラウス(実はコペルニクスのファースト・ネーム)は、町の中心である旧市街広場(Rynek
Staromiejski)のすぐそばにあります。ランドマークである旧市庁舎(Ratusz Staromiejski)を取り囲む、ほぼ正方形の広場です。旧市庁舎はオリジナルが13世紀にできたゴシック様式で、現在あるのは16世紀に再建されたものと考えられます。当時の交通手段はヴィスワ川の水運がメインだったはずで、河港のすぐそばに市庁舎や教会などの拠点を置き、その周囲に騎士や商人などの家を配置していったのでしょう。前述したように、ここに最初の町を建設したのはドイツ系の人たちで、より具体的にはドイツ騎士団(Deutscher
Orden)でした。日本の「世界史」の教科書に必ず出てくるが、団体の性格と行動がいまいちわかりにくいタームではあります。要するに非キリスト教世界に教えを広めていこうという趣旨の下で、実はゲルマン系の人たちの生存圏や活動圏を北東に拡張しようという征服運動でもあり、「北の十字軍」とみる向きもあります。現在のロシア領カリーニングラード、長くドイツ語でケーニヒスベルクと呼ばれていた地方は、中世後期にはプルーセンと呼ばれ、非キリスト教徒でバルト諸語に属する言語(ほぼ絶滅)を話す人々がいました。カトリックを受容してヴィスワ川流域に拠ったポーランド王国はこれと対立しますが、ポーランド自体が分裂傾向にあって兵力もままならないことから、ドイツ騎士団を呼び込み、あそこを征討してくれれば領有を認めるという条件を示しました。信仰なのか野心なのか、騎士団は誘いに乗り、プルーセン周辺の奪取に成功します。どうもポーランドというのは歴史の最初からそういう不運(あえていえばチョンボ)に見舞われるらしく、誘い込んだはずの騎士団が勢力を増してポーランド自身の宿命の敵になってしまいました。騎士団はバルト海沿いに勢力を広げ、現在のバルト三国の沿岸部をほぼ制圧、さらにはヴィスワ川をさかのぼってこのトルンにも拠点を築いたというわけです。男子の王位継承者が不在となったポーランドがこの危機を乗り切るために画策したのがリトアニアとの連合であり、1386年に両国は連合しました。ポーランド・リトアニア連合の末路については前述のとおりです。
プルーセンですが、ドイツ系が乗っ取ったあとはドイツ語風にプロイセン(Preußen)となります。国名は同じでも中身はすっかり入れ替わりました。騎士団やドイツ系の勢力も分裂や結合を繰り返して訳がわからなくなりますが、宗教改革のあとルター派を受け入れて世俗化したかつての騎士団本流は、のちにポーランド王の宗主権を認めました。カトリックのポーランドがプロテスタントのプロイセンを従えたわけです。領主階級に牛耳られたポーランドが著しく弱体化するのはその後の話で、プロイセンはいつしかドイツのブランデンブルク選帝侯国(現在のベルリンを中心とする国家)に乗っ取られました。ブランデンブルク選帝侯を世襲するのが、かのホーエンツォレルン家にほかなりません。神聖ローマ帝国の域外に位置するプロイセンは皇帝から王号を認められましたので、本質的には皇帝に従属する選帝侯だったブランデンブルクの君主はまんまと王へと成り上がりました(1701年)。フリードリヒ大王のもとで軍事国家化し、マリア・テレジアのオーストリアに対しても優位に立った18世紀のプロイセンが、ポーランドを西からぐいぐい圧迫したのはいうまでもありません。君臣関係がいつの間にか逆転する下克上で、プロイセン(前述の事情で、いつまでも併合した属国の国名を名乗りつづけた)は現在のポーランド西部の支配を確立しました。ドイツ系とポーランド系が半々くらいだったトルンもその支配下に入ります。
トルンの中心、旧市街広場 (左)旧市庁舎 (右)聖霊教会
旧市庁舎前のコペルニクス像
旧市街広場をぐるりとひと回り。若い人が多くていいな。広場の南東の角に、コペルニクスの立像がありました。いい顔していますね。あとで調べると、この像が建てられたのは1856年のことで、ファウンディング方式で資金を募って完成させたものですが、最大の寄付者はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世でした。
旧市街は東西方向に長い楕円形をしており、その長径をつらぬくように東西のメイン・ストリートが走っています。ホテル付近はルジャナ通り(Różana)、旧市街広場から東はシェロカ通り(Szeroka)、さらにクルロヴェイ・ヤドヴィギ通り(Królowej Jadwigi)とこまめに名称が変わります。マクドナルドやピザハットなどおなじみのチェーンもありますが、大半は普通の商店で、昔の商店街の感じ。街角パフォーマーなども出ていてにぎやかです。これといった特徴があるわけではないが、いい雰囲気。
このメイン・ストリート周辺は、時間帯によるのかもしれませんが、一般車両の乗り入れができない歩行者専用のようです。欧州の都市の、とくに旧市街にはそういうところが多いですね。中世由来の都市は総じて範囲が狭いうえに、輪郭がはっきりしていますので、テキトーに歩いても迷うことがありません。いや迷ってもたちまち知っている場所に戻ってきます。私が実際に歩いたところでは、ラトヴィアの首都リーガの旧市街がまさにそんな感じでした。トルンともどもハンザ同盟都市です。私にしても、どうしても大都市とかその国の中心的な都市を優先しがちで、ハンザ都市のようなところはあまりめぐっていないのですが(中世の雰囲気を伝えるということは、逆にいえば近代的発展が不十分だったということでもある)、日本人向けの観光案内やツアー旅行などでもあまり見かけないような気がします。大都市のような圧迫感や猥雑感がないし、ゆったりとしていて絵になるので、いいと思うんですけどね。知名度の低さから「トルンに行ったよ」と自慢しにくいとか、まさかそんなことでもあるまい。
区分的には旧市街のはずですが、新市街広場(Rynek
Nowomiejski)という方形の広場があり、こちらはすっきりしていました。何となく町はずれの感じで、人通りもまばらになります。さらに歩くと旧市街のリミットで、いまは壁があるわけではないのですが景観の違いですぐにわかります。乗り入れ規制のためか、旧市街の輪郭をなす道路は交通量が多く、トラムも走っていました。あとから地図を見ると、その近くにトルン市駅(Toruń Miasto)が見えます。MiastoはCityなので町なかの意味なのでしょう。ワルシャワからの列車を下りる準備をしていたとき、トルン東駅につづいてトルン市駅に停まったのに気づきましたが、ガイドブックの地図からは微妙に外れていたため迷わず本駅をめざしていました。前述のように、鉄道の線路はヴィスワ川を渡って対岸の本駅に入っています。メイン・ステーションが旧市街の中心から外れた場所にあるのは不思議ですが、もしかすると後から市駅が設けられたのかも。日本の地方都市でも、JRの駅が中心を外した位置にあり1、2つ先に中心市街地寄りの駅があるというケースがかなりみられます。とはいえ、初めからそのことがわかっていてトルン市駅で下車しても、ホテルまで徒歩15分くらいではあるでしょうが、旧市街の石畳にキャリーのキャスターを取られて難渋したに違いありません。
新市街広場付近 手前の尖塔は聖ヤコブ教会、奥が聖カタルツィーナ教会
さて、夕食会場を探そうと思うのですが、前夜とは逆に、ほどほどの飲食店がありすぎて迷います。ピエロギを前面にアピールする店が目立つけれど、きのう食べてしまったしな。ときどき外周道路に出たりしながら旧市街の北半分をじぐざぐ歩くと、そろそろディナー・タイムがはじまりかけており、人々が集って入店という光景があちこちで見受けられます。そんな町の一角に、さほど大きくない食品店というかなんでも屋さんのような店が見えたので入ってみました。お、酒類のレパートリーが広く、燃料探しにもってこいではないですか。ワインやスピリッツの品ぞろえがかなりあります。スティル・ウォーターと缶ビール、それにフランス・ワインのフルボトルを1本ずつ手にしてレジへ。水1.39 zł、ビール2.99 zł、ワイン49.99 złで54.37 zł。なぜかここは内税で、レシートを見ると23%がすでにカウントされていました。外国で買い物するとき、その通貨に不慣れの場合には、細かい端数のついた勘定への支払いに手間取ります。数字はぱっと見ればわかりますが紙幣・硬貨の種類を心得ていないので、どれを出せばよいのかわからなくなります。ユーロやポンドはさすがに慣れているけれどズウォティはお初なので、案の定まごまご。後ろに数名並んでいたので、それらしい表情をつくってエクスキューズ・ミーといったら、ノー・プロブレムといってもらえました。いやすみません。
レジ袋はありませんので、リュックに直接入れるか、リュックにしのばせているエコバッグ(アムステルダムで購入したやつ)を使えばよいのだけれど、いずれにしても液体の入ったボトルを3点も買ったので重たくなります。ガラスびんをまた壊すのも嫌なので、いったんホテルに戻って荷物を置き、手ぶらで出直そう。
どうも決め手を欠いたまま旧市街をもう一回りし、旧市街広場の一筋東のスチシュトナ通り(Szczytna)にあるJan Olbracht- Browar Staromiejskiというレストランに声をかけました。綴りのイメージからブリュワリー、つまりはビア・レストランなのだろうと想像します。20時ちかくになっているためか席はかなり埋まっていて、テラスの隅っこのほうか、もしくはこちらにと誘導されたのは、テラスにつづいているガレージのような区画。おそらく本当にガレージで、シーズンオフにはバイクなどを駐めているような場所ではないかな。4つばかりテーブルが置かれています。私のすぐあとにも複数のグループが誘導されてこの区画に来ました。この時間ではありますがけっこう蒸し暑く、快適さでは問題がありますが、旅の絵としてはおもしろい。
さて注文。手渡されたメニューにはポーランド語、英語、ドイツ語が記されています。生ビールは4種類。ピルスナー、小麦ビール、ジンジャー風味ビール、そしてスペシャル・ビール(spezialbier)です。14 złの「スペシャル」にもスペシャル感があって惹かれますが、「月替わりで最良のものをお出しします。スタッフにお訊ねください!」とあり、多忙そうなスタッフがこのガレージに回ってくる機会が少なそうなので一発オーダーにしよう。店名を付したOlbracht Pilsでいいですね。10 zł。料理のほうは、例のポーク・ナックルのほか、アイスバインのビール煮込み、バイエルン風の白ソーセージ、パッパルデッレ(平打ちパスタ)など、ポーランド風というよりはドイツやイタリアに寄っています。食べ物に国境というのはあるようでないし、外側にいるわれわれが勝手に「これはドイツ風」とか思い込んでいる節もなくはありません。といってドイツ風だとおもしろくないので、ビーフ・グーラーシュ、ポテト・パンケーキ添え(Beef Goulash with Potato
Pancake)33 złというのを注文しましょう。
運ばれた生ビールは、ピルスといいつつエールみたいな風味で、フルーティーでした。毎晩のように、じゃなくてリアルに毎晩ビールばっかりよく飲むものだと思いますが、30歳になるまで飲酒の習慣はありませんでした。欧州通いとともに燃料摂取の日々がはじまったのです(威張る話かね)。ちなみにピルスナー(Pils)というのは、現在チェコ共和国の域内になっているプルゼニ(Plzeň)のドイツ語呼称ピルゼン(Pilsen)の形容詞形で、拡大解釈されて下面発酵系のビールの総称となります(上面発酵は「エール」)。日本で「ビール」だと思われているものの大半が、住所でいうとピルスナーに属し、さらにいえばその中のラガーという区分に含まれます。
グーラーシュは肉を赤ワインやパプリカで煮込んだもので、本来はハンガリー料理(ハンガリー語ではグヤーシュ)。ポーランドを含む中東欧一帯でよく食べられる料理だと承知しており、クロアチアやスロヴェニア、スロヴァキアでもメニューに載っているのを見ました。実物はパリとプラハで食べたことがあります。昨年の暮れにハンガリーのブダペストを訪れた際には、ぜひものではあったのですが、少し悩んで発注を回避しました。血圧が沸騰して強い薬で抑えている時期で、発病してから初の海外だったこともあって塩分制限をいま以上にかけていたのでした。東京の日常でも細かい塩分計算をしています。最近は薬も弱めのものに変わり、塩分リミットも前よりは高くなっているのでグーラーシュくらい大丈夫でしょう。夏場だしね。料理は洋食屋さんみたいな鉄板に載せられていました。パンケーキの上に牛肉がゴロゴロ。食べてみると、私たちが知るビーフシチューそのものというような味で、とても美味しいですが、味が強く、これだけで5gくらいありそう(涙)。パンケーキがいまいち頼りなくて、もう少しサクサクしていたらいいのにな。雁屋哲さんはポーランドでいろいろインスピレーションを得たらしく、先に紹介したサッカー話の次の回で、ポーランド風パンケーキを山岡記者につくらせています。「この上に、今日はハンガリー風のシチュー、グーラーシュをかける」と、まさにこんな感じの料理が描かれていました(雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』、小学館文庫版66巻、2009年、pp.151-156)。マンガではピクルスを刻んでグーラーシュの中で煮込んでいますが、この店ではガラス瓶に別盛り。中身はキュウリ、赤タマネギ、パプリカで、酸味が美味しいですが、こちらも塩分満載のはずなのでちょこっとにしよう。肉だけで200gくらいありそうで、他に具材はないので、最後のほうは飽きてきました。「牛丼」だってタマネギ入っているのにね(笑)。いや〜たらふくいただきました。ごちそうさま。
黄昏のコペルニクス・・・ 20時半ですけど
8月9日(木)もいいお天気。8時ころ朝食をとろうと0階に降りたら、パテオにテーブルがしつらえられていて、こちらでどうぞと。例によって従業員の対応はスマートですし、食事がとても美味しいのがまたしても高評価です。レストランが本業なのかもしれません。卵+ベーコンというイングリッシュ・スタイルと各種チーズ、ハムの盛り合わせというドイツ式の混合で、中東欧の各地ではたいていこの朝食メニューです。それだけに実力がはっきり出ます。
昨夜レストランを探してぐるぐる歩きまわったため、トルン旧市街の主要なエリアはだいたい歩いてしまっています。バスは15時半なので持ち時間は十分すぎるくらいにあり、きょうは全体にゆっくり過ごすことにしましょう。10時ころチェックアウトして、荷物をレセプションに預けました。まずはホテルのすぐ裏手にあるコペルニクスの生家(Dom Mikołaja Kopernika)へ。1473年生まれのコペルニクスが本当に住んでいたのかねと思って由緒書きを見たら、建物自体がそれから100年くらい前の14世紀ころに建てられたものだそうです。ハンザ都市に特有のゴシック建築だと説明されているものの、それにしても周囲からはちょっと浮いたコテコテの造りなので、有力者の居館として建てられたのかもしれません。コペルニクスといえば、彼自身のあずかり知らぬところではあるけれど、2017年ころ突如ベストセラーになった吉野源三郎の少年向け小説『君たちはどう生きるか』の主人公コペル君を思い出します。何十回も読んだし、教職課程の学生にもレポート課題として何度も読ませた作品なので思い入れは強い。冒頭部分でデパートの屋上から東京の町を俯瞰した中学生の主人公は、それまでの主観的な視界ではなく、自身を含めたさまざまな主体が相互関係を切り結んでいるという絵を、そこに発見します。「人間分子の法則」などと勝手に名づけて、アドバイザー役の叔父さんに褒められるのですが、それは「社会」への気づきでした。あの本を普通の精神的成長の物語だと思ったら浅いですよ。唯物論的な社会観と、その社会観を認識しうる発達段階である中学生年代の意味を見事に表現しているのです。自分中心の視界で生きている児童期を抜け出し、自身をも客観的文脈の中で認識できるようになるという点で、天動説からの脱却ということができ、ゆえにコペル君の名をもらっているわけですね。いい齢をした成人の中にも天動説的なやつが多すぎる今日このごろ、冥界のコペルニクス先生はどのように思っておられるのでしょうか。なんて。
コペルニクスの生家
コペルニクス邸の2筋ほど南に、旧市街を囲む城壁が残っていて、そこにクラシュトルナ門(Brama
Klassztorna)という立派な城門があります。門を出るとすぐヴィスワ河畔で、いまは簡易な船着き場があるだけですが、往時はおそらく立派な河港が設けられていたはずです。とすると、陸上よりも水上交通が主であった中世にあっては、クラシュトルナ門こそトルンのメイン・ゲートだったと思われます。欧州のメジャーな河川はどこでも水量たっぷりに、ゆたゆたと流れており、河畔を含めてすばらしい景観をつくっています。ポーランドの母なる川、ヴィスワ川についてはなぜか事前のイメージがあまりなく、それほどポーランドに関心をもっていなかったせいなのかもしれませんが、やっぱりよき眺めですね。今回はワルシャワ、トルン、これから向かうグダンスクと、この河川に沿ってバルト海方面をめざす行程になっています。
(上左)ヴィスワ川 写真奥が上流側 (上右)クラシュトルナ門 (下2枚)ドイツ騎士団の城跡
東西方向をゆくメイン・ストリートの南側(ヴィスワ川側)、コペルニクス邸のつづきにあたる地区は、小さな作業所やオフィスなどは見えますが基本的には住宅街のようで、とても落ち着いた町並です。景観保存地区で暮らすということの不便はあるだろうけれども、イチゲンのヴィジターにとっては心地よい景観。教会や小公園なども全体にしっとりして見えます。そのまま東に進むと、城壁に沿ったところにドイツ騎士団の城跡(Ruiny Zamku Kryzyżackiego)があります。入場料9 zł。幅にして100mあるかどうかという狭い区画で、レンガを積んで造った要塞の様子がよくわかります(といっても半分は復元されたもの)。防御のための仕掛けや展示されている昔の武具・武器などは見慣れたものなのでとくに新鮮さはありませんが、要塞の本体部分を「廃墟」そのものとして見せる演出はおもしろい。騎士団がこの場所に拠点を築いたのは13世紀で、ポーランド系住民とのあいだの緊張関係は持続されます。そして1454年、騎士団と地元勢力、ポーランド王などが絡む騒乱の中でこの要塞は破壊されました。「ドイツ人をやっつけた歴史の跡」というコンセプトが大事なのかなという感じもありますが、考えすぎでしょうか。
これで見るべきものは見終えましたので、あとは旧市街散策とベンチでの小休止を組み合わせて、東京の日常にもないようなゆったり時間を過ごしましょう。そうだ、身軽でいるあいだにバス・ターミナル(Toruń Dworzec Autobusowy)の場所を確認しておくかな。バスTは旧市街の北側に1ブロックほど離れたところにあり、すぐにわかりました。キャリーを転がしていくのに最適のルートも偵察しておきます。
ワルシャワの噴水公園もすばらしかったが、ポーランドはどこでも水の演出が得意なのかも
(上左)新市街広場 (上右)旧市街広場 (下)旧市街はずれの公園
15時前にホテルに戻って荷物を請け出し、バスTへ。EUコンプリートを期して中東欧めぐりに取りかかってから、長距離バスでの移動が当たり前になってきました。どことも社会主義時代に建設された鉄道のインフラが不備であることが多く、少ない投資で済むバス路線網が発達してきたという経緯が共通します。2016年はラトヴィアのリーガからエストニアのタリン、2017年はブルガリアのソフィアからルーマニアのブクレシュティ(ブカレスト)まで一部区間をのぞいてバスで移動しています。バスTの造りも各地でよく似ています。まあそれをいったら日本のTだって似たようなもので、基本設計を違えようはありません。鉄道駅との比較でいうと、コンコースの中央に吹き抜け的な空間をとりがちな鉄道駅に対してバスTはそれがないこと、鉄道とバスの構造の違いに由来して、線路およびホームが駅舎と並列的にある鉄道駅に対してバスTは建物に垂直に突っ込むような位置にホームを設けてあること、といった特色があります。
今回、航空券はかなり早めに購入していたものの、3都市での宿泊と都市間の移動は3週間くらい前に一挙に手配しました。ネットって便利ね。そういうのがなくて、現地であれこれ聞きながら切符を買うのも存分に楽しかったけれど、そういう機会も減っていくことでしょう。トルン発15時35分、グダンスク・バス・ターミナル(Gdańsk Dworzec
Autobusowy)着17時50分で、インヴォイス(領収書)によれば運賃$3.99、座席指定料金$1.49、サービス料$2.00でトータル$7.48と、2時間も移動するわりにはやはり格安です。なぜUSドル表示なのかというと、オンラインでの発券を請け負っているのがフリックスバス(Flixbus)というドイツの業者で、全世界共通のシステムを採用しているため。IT化とかグローバル化ってそういうことですやね。PDFで発券されたチケットには「この路線はポーランドにおけるパートナー、Souter
Holding社によって運行されます」との記載がありました。荷物はハンド・ラゲージ(車内持ち込み手荷物)と預け入れのもの各1までで、それ以上は追加料金。航空機を含めてこのパターンが多くなりましたので海外旅行を志す向きはご注意ください。
下見で確認したように、グダンスク行きは十数列あるホームのいちばん端から出発します。ベンチに座って観察していると、実に多種多様な車体のバスがやってきては、乗客を呑み込んで出発していきます。旅館の送迎とか千葉工大の教職員バスくらいのマイクロもあるし、昭和30年代の地方都市に走っていたような(昭和44年生まれなので実見したわけではない)古い形のものも来ます。もちろんいまどきの車体もあります。それはいいのだけれど、「バスは赤色のデザインですのでご注意を」とチケットに記載があるのに、発車予定時刻を過ぎてもわれわれのホームにはバスが来ません。「もう時間だよね」という感じで、周囲の人たちもチケットや時計を見比べて不安がります。迎えの便が遅れたのか、整備に時間を要したのか、まあそんなところでしょう。15時45分ころようやく赤い車体がやってきました。名鉄特急のような鮮やかな塗装で、ハイデッカー。1学級分くらいの乗客がいるので、切符のチェックや荷物の積み込みにも時間がかかります。走りはじめたのは16時ころでした。
指定された座席は2Dで、前から2列目の窓側ということですが、メガネをかけた若い女性がすでにその席を占めています。面倒になったので隣の2Cに座ることにして、置かれていた荷物だけ引き上げてもらいました。すると、ここはベスポジであることがすぐにわかります。1Cが空席だったため、ハイデッカーの最前面で展望できる! 香港の2階建てトラム以来ではないでしょうか。
バルト三国でもバルカン半島でも、ハイウェイらしきものはなくバスはひたすら下道を往きました。しかし今回は、出発してすぐにハイウェイに入り、グダンスク近郊まで快走します。とろいトラックがいれば追越車線に移って抜き去りますが、でもいたって安全運転で、変な飛ばし方をしないので安心です。ブルガリアのバスは、対面通行の一般道でも平然と追い越していたものな〜。かぶりつきでの展望は乗りもの好きには最高の愉悦。いい席に座っているのにスマホいじっている連中は人生を考えなおしたほうがいいよ。こうして前面展望すると、ポーランド北部が真っ平らな地形であることを再確認できます。もちろんアップダウンはありますがとても緩やかで、全体としては遠くの地平線めがけてひたすらまっすぐに走るという感覚です。
渋滞はなく、きわめて順調に走行したバスは、18時10分ころグダンスクBTに着きました。着いたところはいわゆる降車ホームですが、回転場とホームとプールが混然となったターミナルはけっこう広く、トルンとは比べものにならないほどの利用客の姿が見えます。町はずれにある鉄道の駅に対してバス・ターミナルは市街の中心というのが日本の感覚でしょうが、こちらではバスも真ん中を外れたところに発着するケースがめずらしくありません。トルンは町の規模が小さかったので、まだ中心の近くといえるのですが、ブルガリアの地方都市ヴェリコ・タルノヴォは1kmくらい歩かされたな(しかも登り坂)。横浜駅東口バスターミナル、博多バスターミナルみたいに鉄道駅のすぐそばにターミナルを設けることも多く、ラトヴィアのリーガ、ブルガリアのソフィアとルセがそうでした。ここグダンスクも駅の真横(真裏)です。上野駅付近のJR線のように崖線に沿って鉄道が敷かれているようで、グダンスク本駅(Gdańsk Główny)は崖の下みたいな位置にあります。対してバス・ターミナルは崖の上を走る幹線道路に面して設けられています。バスTの建物の横に下り階段があり、いったん幹線道路をアンダークロスし、その先で長いエスカレータを下って線路の下のレベルまで進みます。こちらの鉄道には改札がありませんので、そのまま駅の地下通路につながっており、地平側に建つ本駅駅舎のそばに出てきます。
(左)グダンスク・バス・ターミナル (右)ポーランド鉄道グダンスク本駅
今回3ヵ所目の滞在地、バルト海に面した港湾都市グダンスク(Gdańsk)です。ポーランドを代表する工業都市であり、現代史の因縁を全身にまとったような宿命の町でもあります。予約しているホテルは駅からかなり遠いので、事前にバス路線などを調べておきました。グダンスク本駅とバスTは市街地の西端にあり、ホテルは中心部より東寄りにあります。どうやら中心部は車両乗り入れのできない地区のようで、路線図を見るとその南縁を回って進む路線しかありません。一息に宿のそばまで行ければいいが、そうもいかなそうなので、歩くのを承知で500mくらい手前の停留所をめざして路線バスに乗ることにしました。駅前の停留所で10分くらい待って、やってきた111系統はけっこうな込み具合。通勤時間帯だからかもしれません。旧市街の東縁をなす運河を渡って最初のバス停で下車。前夜Google Mapは調べましたがガイドブックの地図だと運河の東が切れてしまっているので、あまり内陸に進みたくありません。運河沿いに歩けば、時間はかかっても確実に目的地に着くことができます。降りたところは団地の一角みたいなところで、しばらくは西日を浴びながら運河沿いを進みます。ワルシャワでしたように駅近くに宿をとればよかったような気もしますが、なんとなくグダンスクでは中心部に近いところに泊まりたかったのと、無意識のうちにワルシャワとの違いを設けて自分の中でバランスをとっていたのかもしれません。実は、111系統はいったん運河を離れますがぐるりと回ってホテルの近くまで来る路線だったようですが(停留所を発見してわかった)、何でもないような住宅街をだらだら歩くという経験もおもしろいので、損した気はしません。
バスを降りて運河沿いをベタ歩き
予約したホテル・クロレヴスキ(Hotel Królewsli)は、運河をはさんで旧市街の対岸にあります。予約サイトでいろいろ見たのですが、どこもぱっとせず、まあここかなと消極的に選びました。2泊朝食つき€176(754.20 zł)なのでまあまあな料金ではあります。運河ビューというのがグダンスクらしくていいかなというのはありました。ただ、部屋に通ってみてびっくり、この真夏にエアコンがない! まさかとは思ったが、窓が初めから開放されているし、いまどき扇風機が置かれているので、どうやら本当に無冷房で2泊を過ごさなければならないらしい。宿泊してみて知った難点を先回りして挙げてしまいますと、部屋が古くてくたびれており(建物自体が古いものを再利用した感じ)水まわりもいまいち、部屋が広いわりにコンセントが少なく、しかもベッドやデスクから遠い位置にしかない、さらにはWi-Fiがきわめて弱いのでバームクーヘンの立つところを探してタブレットを動かす羽目になりました。ホテルの公式サイトには「あなたは王様か女王様にでもなったような気分になられるはずです」などとあり、予約サイトのレビューも高評価のものが目立っています。去ったあとで問題点をきっちり書き込んであげることにしましょう。大外れってめったにないのだけど、前夜の宿がよかっただけに反動かもしれません。ま、ポーランドに王様がいたのは200年以上前で、そのころにはエアコンもインターネットもなかったのは確か。
ホテル・クロレヴスキ 扇風機が目に入った瞬間に、嫌な予感がしたんだよね(笑)
もう19時を回っているのですがまだまだ明るいので、モトワヴァ運河(Kanal Motława)を渡って旧市街に行ってみましょう。ホテルのある運河の東岸側には広めのプロムナードがつくられていて、この時間は散策する人、食事する人などが多数出ています。さほど広くない運河をはさんで対岸の旧市街が目の前に見えるのだけど、200m以上進まないと渡れる橋がありません。オランダの都市みたいに橋を架けすぎると興趣を失う気もするし、何より舟運の妨げになるので、難しいところではあるでしょうね。もとより現代の水上輸送というのはこんな狭い運河に依拠するものではありませんので、「往時の繁栄」をもたらしたインフラがかえって近代の発展のブレーキになったことは容易に想像されます。最近になって、一周回ってノスタルジックな景観が好まれ、観光地化したというケースなのだろうと思われます。
モトワヴァ運河 ホテルはこの手前のほうにある
PART5につづく
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