日本の「世界史」の教科書にはまず出てこない1944年8月のワルシャワ蜂起は、ポーランド史のみならず冷戦史を考える上できわめて重大な分岐点となる出来事でした。渡辺克義さんの言を借りるなら、「蜂起の失敗は英米にありと決めつけるのは容易であるが、はたして英米が圧力をかけさえすればスターリンの態度を変えられたのであろうか」(『物語
ポーランドの歴史』、p.155)。また、同書からの孫引きになりますが、ポーランド人の歴史家チェハノフスキは「ワルシャワ蜂起は戦争やドイツ軍によるポーランド占領を一日たりとも縮めることもなく、ポーランド共産主義者の全土での権力掌握を阻止できなかった。否むしろ、スターリンに際立った協力をすることになり、ポーランド共産主義者の権力掌握を容易にしたのだった」とまで厳しく断じています。ただし渡辺さんは引用につづけてこの見解が「結果論あるいは後知恵の感がなくもなく、国内軍総司令部が置かれていた当時の八方塞がりの状況を考えれば、厳しい評価だけを与えるのもどうかと思わざるを得ない」(同、p.156)と留保を示しています。何しろ現代史ですので、かなりの冷却時間を経ないとこのあたりの解釈はできないと思われます。私のような専門外の外国人が下手なコメントを加えようものなら、アイデンティティを賭して猛反発するポーランド人は多いのではないでしょうか。ワルシャワ蜂起での死者は民間人だけで約20万人。
旧市街広場 何ヵ所かに井戸があり、暑い日には癒しの場所になる
旧市街広場の裏手あたり どんなメニューよりもエアコンがごちそう?
この旧市街と、その北側にある「新市街」(といってもさほど新しくなく、17世紀以降に都市化された部分)を含めたワルシャワ歴史地区は、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。どこかが認定されると大騒ぎになる日本とは違って、欧州のそれなりの都市を歩くとだいたい認定されているため、世界遺産のありがたみというのはとくにありませんし、世界遺産だから見ておこうという気にもなりません。もともと世界遺産なるものは、人類の文化文明の足跡を次世代に確実に遺すために国家は(税金を大量に投入して)全力で保全せよ、という国際公約です。あれを「国連機関であるユネスコが与えた、超一流観光地のお墨つき」だと考えているうちはダメでしょうね。とはいえ、ワルシャワの市街地が1980年代に入って認定されたというのは、戦時中の惨禍とそこからの復興という「歴史」に対しても意味を認めたことなのだろうと思います。
東西新聞の山岡士郎・栗田ゆう子夫妻は旧市街の復元に触れた上で、「復元の執念は強烈で、建物のひび割れのひとつに至るまで、昔の記録や記憶に照らして復元したそうです」「で、知っているでしょう。ポーランドも、今回のワールドカップで日本同様、一次リーグで敗退しました」「ワルシャワ旧市街を瓦礫の山から元通りに復元したポーランド人です、次の南アフリカ大会までにはサッカー代表も態勢を立て直してくるでしょう」「その時にわれわれ日本人だけ負けた負けたと悲観して、しょんぼりしていていいんでしょうか!?」(雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』、小学館文庫、2009年、pp.133-134)と、敗退に気を落とす仲間に訴えます。2006年のドイツ大会のときのネタですね。相当に牽強付会で、参照するような話かよと思いますが、マンガだからいいか(そもそも問題解決をすべて料理でやるこの作品のコンセプトが牽強付会の主因だわね)。これはポーランドの餃子ピエロギを紹介する回で、たぶん原作者が現地で歴史と料理に触れて、このストーリーを考えたのではないかな。12年後のW杯で直接対戦し、しかも戦術で物議をかもすとはね。いまのところポーランド人からの苦情はありません(当たり前か)。ピエロギは今夜にでも食べることにしよう。
バルバカン
旧市街を外界と隔てる城壁に、バルバカン(Barbakan)という砦(とりで)が建てられています。レンガ造りの強固な城壁の前に空堀をめぐらせ、敵の侵入を二段構えで防ごうとするものらしい。円筒形の、ちょっとユーモラスにも見える砦の本体は、物見やぐらと攻撃用の発射台を兼ねるもので、往時は遠くからでも見えたでしょうからその威容で攻める気を削ぐことにも目的があったかもしれません。中世の欧州都市にはめずらしくなかったようですが、現存するのはフランスのカルカソンヌとポーランドの古都クラクフ、そしてこのワルシャワ。といっても、ここもワルシャワ蜂起の際に崩壊しましたので、戦後に復元したものです。本来のものは16世紀、首都が移転してくる少し前のものだったそうです。戦争(戦闘)の規模がこれくらいで済む程度のものだったらね、と思うけど、まあ時代の違いというほかありません。真っ平らな地形で、「平原」というような語源によるとされるポルスカ(ポーランド)は、中世を通して東西南北からさまざまな民族の襲来、侵入を受けました。もちろんこちらから出かけて攻撃することもあったのですが、当時の人口や生産力を踏まえると、城砦を築いたくらいでは不安で仕方なかったのではないか。中世において最大の外敵襲来は、13世紀前半のモンゴル帝国によるもので、ワルシャワはスルーされたようですが、南西部の都市レグニツァ(Legnica ドイツ語ではリーグニッツLiegnitz)付近でキリスト教側の同盟軍(神聖ローマ帝国、ドイツ騎士団、ポーランド王国など)とモンゴル軍が全面衝突し、話にならんレベルでモンゴルが勝利しています。煙幕を用いた集団戦法をやられては欧州の騎士どもがかなうはずもなく、そこいらじゅうに死体の山(「死体の山」を意味するワールシュタットWahlstattの戦いという名で知られる)が・・・。これが1241年のことで、北条時宗に前もって教えてあげたかったですね(時宗はまだ生まれておらず、父の時頼すら成人前)。
「新市街」側にも美しい教会の姿
例によって特段のあてがあるわけでもないのでそのまま進み、「新市街」と呼ばれる地区に入ります。前述のように、新といっても「中世ではない」くらいの意味です。住宅地ふうではあるけれど、観光客向けの商店もぱらぱらと見えます。広場にはここでもテラスの飲食店がずらり。夏場になると、男女ともここぞとばかり薄着になるのが欧州の人たちで、いまのうちに日光を浴びないと損するよということなのでしょうけれど、すぐ黒く日焼けして肌にダメージが生じるので私はダメなんですよね〜。表で短パンやサンダルはくのもダメ(笑)。ときどき、ガイドのついたツアー客にも出会います。聞こえてくるのはたいてい英語で、英米人の団体が多いのではなく、案内する側とされる側の共通語が英語だということでしょう。これほど使えるんだからもっと腰を据えて学んでおきなさいよと、北条時宗じゃなくて生徒・学生時代の自分に教えてあげたかったですね。なんであんなに逃げ回ったのだろう。なおポーランドの公用語であるポーランド語(polski)は、数世代にわたる亡国の時期を越えて民族の魂として生き延びた言語であり、文法もなかなかしぶとい。名詞が格変化して文法的な役割を果たし、その格が7格(主格・生格・対格・与格・造格・前置格・呼格)もあるという、事前に知ったらたぶん逃げ回りそうな言語です。英語ありがたいな〜。
それでもなお、英語は特定の国民ないし民族の母語であり、それを普遍語とすることが当然で自然だというのは帝国主義的でけしからん!とお怒りの向きには、人工の普遍語であるエスペラントをどうぞ。1880年代にユダヤ系ポーランド人(国家消滅の時期なのでそのように表現してよいのかな? ダメならばロシア帝国の人)の眼科医であったザメンホフが考案したものです。ザメンホフ自身はポーランド語のほかイディッシュ語、ロシア語、英語を話し、学校では書きことばとしてのラテン語も学んでいますので、総じて言語能力の高い人だったのだろうと思います。あの時期のポーランドでユダヤ系市民として育ったという生い立ちがエスペラントの理想を生んだといってよいでしょう。
住宅街にひっそりと置かれた碑
「故国の自由のために流されたポーランド人の血に対してささげられる場
/1944年8月29日、ナチスはここで市民を殺害した」
新市街広場(Rynek Nowego
Miasta)という名のついたほうは、旧とは違ってのびやかな住宅地の中の空間です。そこを抜けて閑静な地区に入りました。ヴィスワ川の河畔に大きな公園があることを承知しており、いったんそちらに向かおうかなと考えています。ゆるゆる歩いて河岸段丘の上まで来たときに、立像のりりしい後ろ姿が目に入りました。あ、これはと思って前に回ると、やはりこの人でした。マリア・スクウォドフスカ(Maria Skłodowska)、ロシア支配時代のワルシャワで生まれ育った科学者で、パリに移って結婚、夫ピエールとともにノーベル物理学賞、夫の死後には化学賞を受賞したマリ・キュリー(フランス語Marie
Curie)その人です。ポーランド時代のキュリー夫人は、ワルシャワ旧市街界隈で学問修行に励んでいたらしい。この像の情報はガイドブックの地図に記載がなく、得した感じがします。理工系の大学で働くようになってから、サイエンスの話題がちらちら気になるようになりました。
子どものころの私が歴史好きになったきっかけは、小学校の図書室に多数あった伝記を片端から読んだことでした。科学者や技術者のそれは政治性が薄いためか児童向け図書として推奨しやすいらしく、野口英世や豊田佐吉、ライト兄弟にエジソンといったあたりが定番。キュリー夫人もそのひとりで、たぶんいまでも人気の高い人物ではないでしょうか。ま、いま挙げた人物はだいたいうさんくさい(人間くさい)面を存分にもっており、ピュアな気持ちで読んで「感動しました」なんていっている子どもが成長したあとで知ったらがっかりするかもしれない。子どもの私がキュリー夫人の人生をどう読んで、何を思ったかはまったく記憶にありませんが、祖国再興運動に注力して社会的地位も財産も失った科学者の父をもち、亡国の屈辱を故郷でもパリでもかみしめながら生きた一生は、科学史の文脈をのけて完全に文系の話にしてしまっても十分に重く、考察に値するものように思います。1898年に発見した新元素ポロニウム(Po)は祖国ポーランド(フランス語でポローニュPologne)に由来するもので、政治性に富んだネーミングにほかなりません。「現在の地図」で世界を見ていた小学生の私が、ポーランドという国がどういうコンテキストの中にあったのかを知るはずもなく、「外国から来た女性なのにがんばったんだね」くらいにしか考えていなかったのではないか。
マリア・スクウォドフスカ- キュリー(マリ・キュリー)像
(上)パリの偉人霊廟パンテオンにあるピエール・キュリーとマリ・キュリーの墓所(2017年8月撮影)
(下)パリのカルチェ・ラタンにあるピエール&マリ・キュリー通り 写真左側がパリ大学ピエール&マリ・キュリー・キャンパス(2019年2月撮影)
キュリー像の足許の階段を下りると、ヴィスワ川の河岸に面した噴水公園(Multimedialny
Park Fontann)があります。公園に噴水があるのは常ながら、噴水そのものをメインにした公園というのは興味深い。大きな池の周囲に小さな池や水路が配されて、それぞれに噴水がしつらえられ、独特のリズムで水を噴き上げています。まるで音楽みたいだな。夜になるとライト・アップも加わって水と光のショーになるらしく、それもよさそうですね。池の中に入るのは当然ダメですが、水遊びできる区画もあって、子どもたちが楽しそうにしています。中央駅あたりの街路や緑地の造り方にはある種の社会主義臭が感じられて、ちょっとどうかなと思ったのですが、旧市街界隈のオールド・ワルシャワはちゃんとヒューマンな構成になっていてすばらしい。欧州遠征するようになって最初のころは年に1回、だいたい冬場の2月に来るだけだったのが、5年前あたりから年3回のハイペースになりました。それでEUコンプリートなどと言い出すことになったわけだけれども、やっぱり夏場のほうが何かと動きやすいし、町が明るくていいなと思います。真冬に噴水眺めても気分が冷えるしね。ただ、こちらもベテランですので、冬のヴィスワ川の景観を想像で思い描くことは難しくありません。平らな大地をゆっくりと、灰色の川が進んでいくのでしょう。
噴水公園
けっこう急な坂を登って河岸段丘上の「新市街」に戻ります。今度はバルバカンから南西方向に進んでみます。何となく文教地区のように見える区画を過ぎると、大きな交差点に面して1944年ワルシャワ蜂起記念碑(Pomnik
Powstania Warszawskigo 1944r.)があります。町のあちこちに1944という数字を刻んだプレートやモニュメントがあって、あれだけの惨劇があったのだから、そりゃ記念(祈念)するよなと思う。米軍機が無抵抗の一般市民を逃がさないように焼夷弾を降り浴びせた東京大空襲があったのに(それも2度)、東京の人々がそれを記念(祈念)している感じでもないのはいまも不思議です。広島・長崎と比べて東京には他にいくらでもストーリーがあるからというかもしれないけれど、そういうものでもないと思うよ。同時に、被害を受けたことならいくらでも言い立てられるが、こちらがやらかした件について沈黙しがちである点には留意しておきましょう。
1944年ワルシャワ蜂起記念碑
バルバカンを通り抜けて再び旧市街に入り、旧市街広場の一角にあるワルシャワ歴史博物館(Muzeum
Warszawy)を訪ねました。20 zł。「ポーランド」ではなく都市ワルシャワの歴史をたどる、わりに小規模なミュージアムです。市街地がいまいる付近に限定されていた中世から、近代における膨張を経て、現代に向かう状況がさまざまな資料によって語られており、とても興味深い。蜂起の件は、どういうわけかここでは抑制的。さすがに腹いっぱいというところではありますね。旧市街広場に置かれた人魚像(Pomnik Syrenki)のオリジナルもこの館内に展示されています。人魚って海洋性だろうに、内陸のワルシャワで市の紋章にもなっているほどのオフィシャル・キャラクター?なのは不思議。その昔、ヴィスワ川を遡上してこの町を気に入り定着した人魚が、あれこれ悶着があった末に市民を護ることを決心したという伝承によるものだそうです。騎士のような盾と剣を手にした人魚って、りりしくていいですよね。もともとバルバカンに、まさに町を護るシンボルとして像が置かれていたのが、復元に際して旧市街広場のシンボルとしてリプレースされたものらしい(ただし広場のものはレプリカ)。
ポーランドの最初の国家らしきものは、966年にミェシュコ1世(Mieszko I)がカトリックを受容したときにはじまります。部族分立時代がどうにか収拾されてきたころで、その中で少しだけ力のある君主だったのでしょう。ミェシュコの称号は公でしたが、子のボレスワフ1世(Bolesław I)が1025年に王号を称しました。カトリックを受け入れながらも神聖ローマ帝国とはほとんどの時期に対抗関係となります。隣接する「ドイツ」とのかかわりは当初から微妙なものだったようです。そのころの首都はポズナンで、ここワルシャワのあるヴィスワ川流域は内陸漁業がほそぼそと営まれる程度の寒村でした。中東欧をめぐるとどこでもジャガイモがやたらに供されるのですが、ドイツやアイルランドも含めて、コロンブス以降にこの作物が導入されなかったら何を耕作して食糧にしていたのだろうと思うほど、本来は脆弱な土壌でした。人魚の伝説は、海から来て新天地を築いたパイオニアたちの集合的記憶がモチーフになっていたのかもしれません。
歴史博物館(左端)の入っている建物が破壊され、その後に復元された様子
人魚像
国家としての歴史が1000年くらい、しかもワルシャワに都が置かれた時期はその半分くらいで、広くて平らな国土でもあることから、ポーランドの主要都市はわりに分散していて、人口規模なども大差がありません。王国の最初の都であるポズナンやその後に長いこと都であったクラクフは、歴史的景観という意味ではむしろ見るべきものがありそうです。今回、5泊6日の旅程をどのように組もうか少し悩みました。ワルシャワ起点というのは当初から決めていたのですが、ポズナンに行こうとすれば他にセットするべきところが微妙になるし、クラクフに行けば何といってもオシフィエンチム(Oświęcim ドイツ語でアウシュヴィッツAuschwitz)がセットになるだろうけれど、それもちょっとなあ。社会科の先生として一度は行っておくべきかもしれないが、だとするとEUコンプリートなどという気楽な企画に乗せないほうがいいような気がします。それとクラクフは、スターアライアンスだと航空便の設定があまりよくなかったのです。ポズナンなど、もとドイツ領だった地域はベルリンからも近いし、クラクフなどはスロヴァキアとセットにできそうだから、いずれまた出かけることにしましょう。ポーランドが広すぎて、見どころがあちこちに散っているのが困難の素。
博物館の5階(日本式にいえば6階)は、屋根裏の吹き抜け部分で、そこから旧市街広場を一望できるようになっています。ああ、ガイドブックやテレビの旅番組などで「ワルシャワで〜す」といって出てくる絵はこれですね。何しろ真っ平らな地形なので地平線まで存分に見渡せます。中央駅方面などの新・新市街の現代建築と、この界隈のクラシカルな屋根とのコントラストがなかなかエモい。ゆっくり見物して外に出ようとしたら出口が見当たらず、しばらく0階と地下1階をうろうろするという、私にしてはヘボなことになってしまいました。
歴史博物館の最上階から見た旧市街広場
14時半を回っていますので、ゆるゆる動きながらいったん部屋に戻るかな。暑さのせいか、実質初日にしては消耗の度合いが大きいような気がします。日が長い夏場なので、夕食の時間帯も明るいに違いなく、そのときに町歩きパート2とすればよいでしょう。旧王宮前で、今度はガスなしのスティル・ウォーターを購入し、一口飲んでからリスタート。国立オペラ劇場(Teatr Wielki Orera Narodowa)の立派な建物の前を通り過ぎて、南北方向の幹線道路であるマルシャウコフスカ通りに出ました。トラムが盛んに行き来しています。利用しないのもアレなので、電停2つぶんくらいですが乗っておきましょう。トラムやバスの乗り方(というか運賃の支払い方)は都市によってばらばらで、つど調べなければなりません。東京さくらトラム(都電荒川線)のように運転士に直接払うところ、車内に自動券売機があるところ、有人のキヨスクで切符を購入もしくはICカードをチャージするところなどいろいろ。ただ、さきほどから停留所付近の路面に自動券売機があるのを何度も見ています。あれで事前に切符を購入するわけですね。英語の表示も出てきました。シングル(片道1回券)が4.4 złですが、20分以内だと3.4 złと激安! もとより電停2つぶん、1km弱の利用とわかりきっているので20分で十分です。
オペラ劇場
これまでドイツや中東欧諸国で何度もお目にかかっているタイプの、しゅっとしたフェイスの車両がやってきました。日本では見ないが欧州ではごく当たり前の、前後のある連接車両です。つまり運転台が片側にしかついておらず、終点でラケット上の線路をループして方向転換するわけね。それはいいけど冷房がないらしく、車内は猛烈に暑い。窓が大きくてやけに採光がよいのはよいけれど、下段は固定ガラスで開かないので、もう温室状態です。本式の夏はせいぜい2ヵ月くらいでだろうから、冷房を搭載する気にはなれないのでしょう。中央駅に近いツェントルム電停で下車。文化科学パレスの前の緑地をもう一度通って、駅北側のショッピング・センターに入ってみました。冷房が恋しい(大汗)。何と表現すればよいのかわからない曲面で覆われた建物ですが、動線が上手につくられていて、なかなか居心地がよさそうです。マクドナルドやH&Mが入っているような、どこにでもありそうなコンテンツではありますが、これが現代の消費社会というやつですな。そういえば歯ブラシを忘れてきたので、ドラッグ・ストアで購入しよう。実は昨年暮れにウィーンとブダペストに行ったとき、サニタリー・バッグの中身を新しいものに積み替えようと思っていて半端なまま出かけてしまい、ウィーンで買う羽目になったばかりでした。しかもその日は第2クリスマス(12月26日)で市内の大半のお店が終日休業、ようやく駅ナカの小型スーパーで見つけて購入しています。今回もチョンボの原因は同じで、学習しないもんですやね。8月7日は何の祝日でもないのでもちろんどこでも買い物できます。結構なお客でにぎわっているドラッグ・ストアですが、歯ブラシのバリエーションは大したことがない。というか、種類はありそうなのだけどどれも同じような型で当方の好みではないけど、文句をいっている場合ではないね。あと8日ほどこれを使うことになります。1本16.99 zł、こちらは医薬品という扱いではなくて消費税率23%が含まれています。ショッピング・センターみたいなところに来ると、冷戦時代、社会主義経済だった当時の市民の生活ってどうだったのかなとふと思います。そして、「いまみたいな消費生活」が本当に幸福なことなのかという疑問(自問)も。
PART3につづく
|