Voyageur à Pologne: Varsovie, Toruń, Gdańsk

PART1

 

 


冷戦時代の「東欧」、社会主義圏の国々は、いわば「ソ連とその子分たち」という感じでひとくくりにされがちではありました。陸上や水泳の強い東ドイツ、女子体操のルーマニア、新体操のブルガリアというようにスポーツのイメージと結びつくことはありましたし、人名が知られるとすればその関係だったと思います。ポーランドも重量挙げが盛んな国として知られ、東京五輪の金メダリスト、バシャノフスキ選手の名が1964年当時を知る日本人にはわりに記憶されています。1969年生まれの私に東京五輪の記憶はもちろんなく、物心ついて、同年代の子どもたちより少しだけ早く世の中に興味を示すようになった1970年代後半は東西対立が再び先鋭化したころですので、東側諸国はまたも「子分たち」で一括されるようになっていたと思います。スポーツ観戦や五輪が好きではあったのですが、1980年のモスクワ五輪に日本が不参加だった(アメリカに同調してボイコットした)こともあって、一つ一つの国への見通しはほとんどもっていませんでした。最初に意識したポーランド人の固有名詞は3人。統一労働者党(共産党)の枠外で労組運動を起こしたレフ・ワレサ(Lech Wałęsa ポーランド語で適切に発音するとヴァウェンサ)、ワレサらの運動を弾圧した統一労働者党指導者ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(Wojciech Witold Jaruzelski)、そしてポーランド出身で初めて聖座に登りその出自を生かしてヤルゼルスキに強力なプレッシャーをかけつづけたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(ラテン語Ioannes Paulus PP. II / 英語John Paul II / ポーランド語Jan Paweł II)です。後述するように、この人たちが関係する社会的・政治的な葛藤は1980年代前半に起こり、他国にみられたような非共産党系への徹底弾圧が食い止められたこともあって、1989年のいわゆる東欧革命ではドラスティックな体制変革を回避することができ、比較的ゆるやかな着地になりました。

もちろん音楽好きの人は文句なくショパンを、サイエンス系の人はコペルニクスかマリ・キュリーを思い出すでしょうし、高校世界史をごりごり勉強した人にとっては3次にわたるポーランド分割(Rozbiór Polski)の印象が強いでしょうか。地図ごと国際情勢を覚えさせられるというのは難儀ですものね。そしてつい最近のことになりますが、628日におこなわれたロシアW杯予選リーグでポーランド代表と日本代表が対戦し、終盤で、決勝進出への細かい点数計算の末に1点負けていた日本がいっさい攻撃せずひたすらパス回しを繰り返すという戦術もしくは奇行をあえて採って、大ブーイングを浴びながら計算どおり決勝をものにするという事件?がありました。サッカーには興味がないし、事の適否や重みについても知る由がないのでどうでもいいですが、直後にポーランドを訪れる私は「日本ふざけんな」と現地で文句をいわれるかもしれない(汗)。まあそんなわけで、わりに話題も豊富な国ではあります。


ワルシャワ・ショパン空港


海外旅行に行くならどこがおすすめですか?と学生に聞かれると、興味のあるところ、興味のあるファクターのあるところに行くべきだよ、ただし慣れないうちは乗り継ぎの不要な、日本からの直行便の飛んでいる都市がいいかもね、というのが毎度の答え。私自身もそのつどの興味に引き寄せられてあちこちに足の裏をつけてきましたが、ここのところはわれながらタスク感、ノルマ感に駆られていることは否めません。2015年暮れにマルタを訪れたあたりから欧州連合(EU)加盟国のコンプリートを意識しはじめ、昨2017年は完全に「未訪国つぶし」で一気に5ヵ国を稼ぎました。ことし2018年も2月にギリシアを訪れて残り3としています。ポーランドにもともと強い関心があるのかといえば、ないからこそ最後のほうまで持ち越したわけですから、テーマ性の薄さは残念ながら認めなければならないな〜。落穂拾いみたいになっていることから、隣接する複数の国をついでに回るわけにもいかず、来春までは各個撃破です。何やってんだろ(笑)。――ということで、201886日(月)の21時過ぎに、ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska)の空の玄関、ワルシャワ・ショパン空港Lotnisko Chopina w Warszawie / Warsaw Chopin Airport)に降り立ちました。日本からの直行便がないことはないのだけど、私は欧州への往復でANAを利用する関係でルフトハンザ・ドイツ航空との乗り継ぎになります。羽田からミュンヘンに飛び、中2時間ほどと適正なインターバルでワルシャワ行きLH1616に乗り継いで、所要1時間半でポーランドの首都に着きました。

いつもだと、まずパリに数日滞在してそこから目的の国、都市に移動するのですが、価格と乗り継ぎ設定においてよきパターンを見出せず、逆ルートにしています。つまりポーランドで56日を過ごしてからパリに移動の予定。パリは何十回も行っているのだからいいじゃないかといわれそうだけど、定点観測もしくは「帰省」だからそこは外せません。例年は8月下旬の渡欧なのですが、2018年はその時期に教職関係の重要な公務が予定されていたので外しました。やはり8月上旬に渡欧した2015年の北欧行きと同じ事情です。実際、8月も終盤に入って重大な問題が起こりましたので、そのとき私が不在だったら教務課など関係部署のみなさんは二度と口を利いてくれなかったことでしょう(汗)。ふらふら遠出しているだけでなくて、ちゃんとお仕事しているんだよ。で、8月上旬となるとあれこれ探してもさほどに安いチケットはなく、込み込み30万円ほどと、私にしてはかなり張り込みました。ポーランドありきなのだから仕方ない。

 
空港から市内へ向かう郊外列車


ワルシャワに向かうルフトハンザ機は満席で、なぜだか中高年の日本人ツアー客が目立ちました。中東欧ではメジャーな国でもありますので、観光需要がそれなりにあるのでしょう。すぐ後ろの席で始終大騒ぎしていた何かの競技のチリ代表らしいハイティーンの女の子たちが、バッゲージ・クレームでも大声をやめないので非常に不愉快。国を問わず一部の運動部員にはありがちな絵で、誰かが教育しないとだめじゃんね。到着が予定より少し遅れ、バッゲージ・クレームもけっこう待たされたので、空港ロビーに出てきたのは21時半ころでした。この時期の欧州でもさすがに暗くなっています。まずはロビーのATMVISAを差し込んで、ポーランドの通貨ズウォティ(złoty 略号)の紙幣を引き出します。いまだにユーロじゃないんですね。1 zł30円なのでひとまず600 złを引き出しました。5月に国際学会でポーランドを訪れた同僚のK先生(フランス語の先生)から、使い余したズウォティの紙幣と硬貨をいくらかいただいています。円またはユーロと等価交換しませんかと持ちかけたのにご好意を受けてしまったので、フランスの美味しいチョコレートで釣り合いをとることにしましょう。

ワルシャワの空港アクセスには鉄道とバスの両方があります。鉄道のほうは2012年に開通したばかりだそうで、ぜひそちらにしよう。旧市街などに直行するならバスが有利ですが、予約しているホテルがワルシャワ中央駅のすぐ近くなので足場の面でも鉄道がよいようです。表示を見ながらやや薄暗い地下道を進むと、右に折れればバス、左は鉄道という箇所に鉄道の自動券売機がありました。有人の窓口や案内所はなく、ずいぶんとドライな感じです。券売機のしくみと文字に少しとまどったものの、親切なおじさんが指差しで教えてくれて解決。こういう場所なので本当に親切なおじさんなのか疑ってかかるわけだけど、中央駅とかはやばいが空港というのは何となく大丈夫の気がします。根拠はないのでみなさんは注意なさってください。都心までのシングル・チケット(片道切符)は4.40 złでした。ずいぶん安くて結構なのですが、受け取ったばかりの100 zł紙幣ではどうにもできず、K先生にいただいた小銭がさっそく役立ちました。K先生グッジョブ、じゃなくてフランス屋さんだからBon travail! ホームはすぐその先にあり、12線。片方のホームにはすでに流線型の車両が停まっています。これが中央駅に停まるかどうか、誰かに聞こうと思ったのに誰も現れず、頭上のスクロール式の発車案内掲示はポーランド語をえんえん流していてなかなか英語になりません。ようやく英語に切り替わると、今度はWarsaw ××というふうにいちいち都市名を冠した駅名が並ぶのでCentral Stationを見つけるのに一苦労。どうやらこれでOKのようです。こういう場所の列車では、最終目的地(行先)ではなく主要経由地のほうが重要な情報なんですよね。

 
ワルシャワ中央駅


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50分に発車。これは日本でいうJR、つまり旧国鉄を分割民営化した社の1つが経営する路線で、ドイツ式にいえばSバーン(郊外鉄道)です。車内のしつらえは欧州の各地でよく見かけるものでごく普通です。空港アクセス専用列車ではないため荷物置き場などがないのは物足りないが、この時間は他に誰も乗っていないので特段に支障はありません。スピードの遅い各駅停車で、日本と同じように停まるたびに「次は××です」とアナウンスが入ります。気のせいか、西欧より中東欧のほうで音声ガイドがつきがちかもしれない。もちろんこういうご時世ですのでポーランド語のあとに英語のアナウンスがあります。自動放送はかなりキレイな発音の男性の声。駅の表示でみたように、すべての駅にワルシャワが冠されていて、それもいちいち音声案内しますが、発音は英語式のワルソーではなく「ヴァルシャ」。この国の首都を日本ではワルシャワと呼んでいますが、ポーランド語の発音ではヴァルシャヴァWarszawa)で、WはすべてVで読むようです。ドイツ語に近いかな? ちなみに英語ではワルソー(Warsaw)、フランス語はヴァルソヴィ(Varsovie)、ドイツ語はヴァルシャウ(Warschau)。2206分ころワルシャワ・ザコトニア(Warszawa Zachodnia 西駅)に停車。空港アクセスは支線で、ここで本線に合流したらしく、品川並みにたくさんの線路が並んでいました。ここから地下に入り、2208分ころワルシャワ中央駅Warszawa Centralna)に到着しました。48線の堂々とした造りで、地下ではあるが圧迫感はありません。成田エクスプレスの着く東京地下駅は圧迫感と暗さがどうにかならんもんかね。欧州で首都の中心駅が地下というのはあまり記憶になく、ベルリン中央駅の半分が地下構造なのと、ブリュッセル中央駅がここみたいに完全な地下駅であるくらいかな?(市の中心にあるブリュッセル中央駅は地下だが、長距離列車の発着する南駅、北駅は地上駅) そうだ、EU加盟国でないから忘れていたけどモナコ・モンテカルロ駅も完全なる地下駅でしたね。2009年に途中下車しました。海岸から国境までの距離が1kmもない狭小な国家なので、駅のスペースを確保するのももったいないとばかりに地下化してしまったのでした。知識がなければ「フランス国鉄のただの途中駅」にしか見えません。

改札はなく、そのまま地下道を通り抜けて駅前道路の反対側へ。駅ナカの店も大半がもう閉まっています。予約したハンプトン・バイ・ヒルトン・ワルソー・シティ・センターHampton by Hillton Warsaw City Centre)は中央駅から1ブロックだけ南に入ったところで、背の高い建物なのですぐに見つかりました。ワルシャワの構造は、中央駅界隈がビジネス的な意味での新市街、新都心で、歴史的な意味での旧市街はそこから数キロ進んだところにあります。次の旅程が中央駅からの列車になるので迷わず駅前ホテルをとりました。

 
  
2泊世話になったハンプトン・バイ・ヒルトン・ワルソー・シティ・センター (上右の外観写真は7日)


首都の中央駅前、ヒルトン系列のビジネス・ホテルなので清潔で整っており、レセプションまわりも客室も申し分ありません。私は日本国内も含めて常時ユーロ建てで予約しており、今回は2泊朝食つきで€144(ブッキングドットコムのジーニアス価格)と、西欧の感覚からすればかなりエコノミーでした。現地通貨建てだと620.37 zł。ただしこの国は消費税8%が外税で、込み込み670 złになります。荷物を下ろしたところでもう22時半、ミュンヘンでの軽食とルフトハンザ機内でのサンドイッチで足りているためこれから夕食ということでもありません。羽田を飛び立った日のつづきなのでこういう遅い時間になってしまいます。あ、タイム・ゾーンはフランスやドイツと同じUTC+2(夏時間)です。これより東のリトアニアやベラルーシになると1時間加えることになります。サマータイムでは日本との時差が7時間。食事はいいけれど燃料はほしいので、開いていることを確認していたホテル0階のコンビニ、żabkaに行って仕入れましょう。このチェーンはポーランドの都市のあちこちにあり、大手のようです。0.5Lの缶ビール2.99 zł、赤ワイン(たしかイタリアだったかな?)のフルボトルが16.99 zł、おなじみLAYSのポテチが4.29 złと、日本のスーパー同様に微妙に小数点をつけた価格になっていますが、外税がかかるのでトータル24.27 złということになります。おや、レシートを見ると8%という税率はポテチだけで、ビールとワインには23%という高率が課税されている。日本と同じ8%だなと思ったのは早計で、欧州ではおなじみの複式税率ですね。食品などの生活必需品と一般商品との線引きは国によってまちまちで、ポーランドでは酒類は一般商品扱いのようです。それでもこれだけ買って1000円しないので安いのは安い。塩分を摂りすぎないようにポテチは数枚だけにして、ビールごくごくワイン舐め舐めで長い1日(24時間プラス時差7時間で31時間)を終了。

 
左は7日朝、右は8日朝の朝食 ドイツ式のパン(カイザー・ゼンメル)にするか、フランス式(クロワッサン)にするか・・・


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7日(火)は7時くらいに起床して、ゆるゆると2階だったかの朝食会場へ。採光のよいダイニングはいくつかの区画に分かれていて、かなりのキャパがあるようなのに、宿泊客の数も予想以上に多い。大半はビジネス客のようです。パンにベーコン、ソーセージという欧州の朝食は日ごろの塩分リミットを超えてしまいますが、滞在中の昼は抜くという方針でバランスをとっています。欧州でのランチ抜きは「発病」前からで、よほど空腹になればパンでも買えばいいやということね。一人旅ではよろず自分の都合で配分を決めることができます。和食にすればというご意見も聞くのですが、和食って意外に塩分過多なんですよ。主食の米飯こそ塩分ゼロですが、味噌汁に漬物、焼き魚に小鉢なんか添えた日にはそれだけで5gくらい行っちゃいます(成人男性の1日の摂取量モデルは8g)。

9時半ころ出動。ワルシャワ滞在は翌8日午前までで、中心部のだいたいのところは見て回れるかなと算段しています。首都クラスの都市ではたいていそうであるように、ワルシャワも市域の広がりは相当にあるものの、ヴィジターが押さえるべきところは中心部に集約されていて、地図で見積もれば長径5kmくらいかな。それでも5kmというのは徒歩だとかなりあります。最大の見どころである旧市街は、宿をとった中央駅から4kmくらい北の方向にあります。きょうはこれからじわじわ歩いて、そちらに向かいましょう。おそらく帰りは疲れてバスないしトラムの利用ということになるのではないかな。中央駅は通勤時間帯を過ぎたあたりで、けっこうにぎやかです。連絡地下通路を含めて小規模のお店がたくさんあって楽しい。バス、トラム、地下鉄に共通の一日乗車券を券売機で求めようとしたら、紙幣を使えずカード使用で、しかもピンコード(暗証番号)を打ち込んで購入が確定しているのに機械が動作をやめ、切符が出てきません。15 złとたいした金額ではないし、文句をいうのも面倒なので、朝っぱらから調子悪いな!ということでチケット入手は断念。一日乗車券があればあったで乗り物を使うでしょうし、なければ徒歩が多めになるだけのことです。

 
ワルシャワ中央駅 直方体の建物だが、屋根の断面はゆるやかなW型でユニークな形状


ホテル側と中央駅とを隔てる東西方向の広い幹線道路はイェロゾリムスキェ通り(aleja Jerozolimskie)。中心部は基本的に条里的な造りになっているため、幹線道路を頭に入れると動きやすくなるね。この道路上をトラムが走っており、中央駅は当然ながら拠点の一つです。中央駅を通る旧国鉄線は、空港からの利用でみたように中心部で地下化されていて、このイェロゾリムスキェ通りの路肩みたいな位置の地下に線路があります。地下といっても皮1枚くらいのもののようです。中央駅の駅舎は、前後左右とのつながりがなく孤立した直方体で、外観の好みは分かれそう。グローバル資本主義のアイコンであるマクドナルドやスターバックスもある構内を通り抜けて北側に出てみると、バス・ターミナルでした。といっても長距離路線ではなく市内の路線バスの発着するスペースです。長距離バスのターミナルは東あるいは西に少し離れたところにあり、欧州ではこのパターンがしばしばみられます。あすは中央駅から鉄道利用の予定ですけれど、中東欧ではバス移動がむしろ標準。2016年夏に「バルト三国」のうちラトヴィアとエストニアを訪れ、残るリトアニアはポーランドとセットにしようと考えて取りおいていたのですが、56日の日程でポーランドとリトアニアを動こうとすると、昼間のバス利用で6時間くらいかかってしまい、双方で回れる都市が限られてしまいそうだったので切り離すことにしました。歴史的にはパートナーだった時期も長いリトアニアとは直接国境を接しているものの、バルト海側を北上しようとするとロシアの飛び地カリーニングラードが挟まっていて厄介です。本当はカリーニングラード(第二次大戦までドイツ領で、「プロイセン」の故地。イマニュエル・カントの出身地で旧名はケーニヒスベルク)にも大いに関心があるけど、ビザが必要なのと、2度の国境越えでいろいろ面倒なことがあるので今回は回避しています。そのぶん今回はポーランドのいくつかの都市を回ることにしました。


ワルシャワ市街地の概念図


駅のすぐ北隣には大型のショッピング・センターがあります。大好物なのであとで見学しよう。その東側一帯は長方形の広い緑地公園(デフィラト広場 Plac Defilad)で、ビジネス街にほどよい空間をもたらしています。公園の真ん中に建っているのは文化科学パレスPałac Kultury I Nauki)なるタワー型のビル。映画館や劇場などのアミューズメント施設、いくつかの博物館、会議室などが入る複合施設で、趣味がよいとはいえないような外観。実際、冷戦初期の1950年代にスターリンの指示で建設されたそうで、この手の権威的なデザインは時代が変わるとイタさが目立ってきますね。有料の展望台があるらしいので、あとで登ってみようかな(結局忘れていた 汗)。東京ほどではないにせよ朝っぱらからかなり暑く、日差しも思いのほか強いので、本当は心地よいはずの公園散策がしぜん速足になってしまいます。パレスはともかく中央駅付近に広い公園を造ってゆとり空間をとるのには賛成で、町のつくりとしてはよくできているのではないかな。そのぶん空が広くて、きょうのところは一面の青空を突き抜けて強い日差しが降り注ぐというふうにはなっていますが。

 
(左)文化科学パレス  (右)パレス付近に広がる公園


デフィラト広場の南東の角で、イェロゾリムスキェ通りと、南北方向の幹線道路であるマルシャウコフスカ通り(Marszałkowska)が直交しています。双方の道路の地下をメトロが、地上をトラムが走っていますので、この交差点に乗換駅のツェントルム(Centrum)があります。札幌でいえば大通駅にあたるのかな? おなじみH&Mなどのグローバル・ブランドの看板も見えて、この付近には大型商業施設が並んでいます。通勤時間帯は過ぎているはずですが、わりと若い世代を中心にメトロ駅やそれに通じる地下道を歩く人が多い。地下道にはパン屋さんやコーヒー・スタンド、小物店などの小型店舗が並んでいます。ユーロの自動両替機が置かれているのもポーランドらしいところ。ユーロを導入するつもりはないのかねえ。私はさらに東に直進するつもりですが、横断歩道ではなくこの地下道を通らなくてはなりません。中央駅付近と同様で、ワルシャワも自動車優先の設計やね。

 
 ツェントリウム駅付近のイェロゾリムスキェ通り


イェロゾリムスキェ通りをさらに500mほど東に進み、そこで直交する新世界通りNowy Świat)を左(北)に折れます。この道路は王宮と旧市街に向かうワルシャワのメイン・ストリート。路面は片側1車線ですが歩道部分が少し広めで、空間的に余裕をもたせてあります。もとより電柱などはなくすっきり。沿道には飲食店を中心に小さな店舗が並びます。おなじみマクドやスタバのほか、なぜか寿司屋が数軒。さきほどからカルフール・エクスプレス(Carrefour Express)を何度か見かけています。フランスでもおなじみの大手スーパー系列のコンビニで、欧州のあちこちにありがちなオランダのSPARではないのね。もとより愛仏心があるわけではなく、暑さ対策のお水を買うべく入店するとずいぶん狭い店内。0.5Lのペットが1.60 złとかなり安いのはいいけれど、さっそく開封してみたらガス入りでした。ペットの底がごつごつしているのでわかりそうなものなのに、何となく日本や西欧のクセで、棚のメインどころに並んでいるのはスティル(ガスなし)だと思い込んでいるふしがあります。ガス入りでも別段悪くはないが、ごくごく飲むには適しないし、ぬるいと美味くないですよね。買いなおすほどの話でもなく、この陽気だと次のペットを買うタイミングはきっと早くなることでしょう。

この新世界通りは、両側の建物がすっきりした白亜系で、歩道に鮮やかな花の咲くフラワーポットが並べられるなど、いかにもツーリストの喜びそうな、絵になる道路ではあります。しかしどこかわざとらしく、味わいや貫禄は感じられません。メイン・ストリートなのにどうしたものかと思いますが、おそらく後述する事情により歴史的な色が抜け落ちてしまっているのだと思われます。


 
 
ワルシャワのメイン・ストリート、新世界通り


500m
くらい歩いたところで、道路名がクラクフ通りKrakowskie Przedmieście)に変わります。ひきつづき王宮・旧市街へのアプローチ。この名の道路に入ってすぐのところに、ポーランドが生んだ世界的偉人のひとり、ニコラウス・コペルニクスNicolaus Copernicus / Mikołaj Kopernik)の座像が見えました。ポーランドが生んだとはいっても、コペルニクス自身が話していたのはおそらくドイツ語で、自分がポーランド人であるという意識はなかったのではないかと思います。もちろんポーランドは意地でも彼を自国の偉人というところに引っ張り込みたいと考えます。科学史だけでなく哲学史にも大きな足跡を残した大人物ですから、当然そうなりますよね。そのすぐ先に聖十字架教会Bazylika Świetego Krzyza)のツイン・ヘッドのファサードが見えます。といってもファサードはメンテナンス作業中。この教会に、なぜか心臓だけが埋葬されている(というか柱に埋め込まれている)のが「ピアノの詩人」フレデリック・ショパンFrédéric François Chopin / Fryderyk Franciszek Chopin)。こちらもポーランドが生んだ世界的な大作曲家ですが、Chopinという苗字は明らかにスラヴ系のものではなく、彼の父は当地に移住したフランス人でした。ショパン自身も22歳でパリに移ってそこで活躍し、数え40歳で亡くなりました。遺体はパリ最大の公営墓地であるシェール・ラシェーズ墓地に葬られており、遺言によって姉が心臓をアルコール漬けにして母国に持ち帰ったとされます。なんだ、「純粋なポーランド人」じゃないのか、と思わないでください。欧州の真ん中にあって広いわりに平らなこの国は、古来さまざまな周辺勢力に切り取られ、人間も入り混じってきました。「純粋」というのは無理な注文。だからこそ近代のナショナリズムはそれを追求しようとします。

教会のはす向かいにはワルシャワ大学(Uniwersytet Warszawski)。地図で見ても実見してもさほど広くはないキャンパスです。むろんポーランド屈指の名門ですが、創立はロシア帝国の同君連合国(ロシア皇帝がポーランド王を兼任、実質的な属国)だった1816年と新しい。年号から判断すると、ナポレオンが保護者になってポーランドが一時期独立したあと、再びロシアの支配を受けるようになってすぐのことのようです。被支配民族に高等教育を許してよいのか、どの程度許してよいのかというのは統治技術としては難しいところで、ロシアも何度かこの大学をつぶしては再建しています。ナチス・ドイツは大学を廃止して学術資料なども根こそぎ持ち去りましたが、社会主義政権の下で復活し、今日にいたります。なお現在のポーランド領内における最古の大学は、14世紀に創立されたクラクフ大学(現在の名称はヤギェウォ大学)です。

 
(左)天球儀を手にしたコペルニクス  (右)聖十字架教会

 
ワルシャワ大学


本業は旅人ではなく(たぶん)大学の先生なので、大学の建物やキャンパスにはちょっと惹かれるものを感じます。こんな町なかに落ち着いたキャンパスがあるなんてうらやましいですね。そのそばには、若い女性のイラスト・タッチの肖像が何枚か掲出されていて、194481日の蜂起(Uprising)に参加して犠牲になった学生たちである旨が英語でも解説されていました。そこまで丁寧に解説しなくても、というくらい詳述されており、「外国」から来る人にワルシャワの、そしてポーランドの悲劇と祖国愛をぜひ知ってほしいという願いが直球で届きます。ポーランド人はどんな話題であっても祖国の悲運の物語に引きずり込む、というようなアメリカのネタがあるそうですが、私にしてからが、何をいおうとしてもその傾向に陥るだろうなと考えてしまいます。

ワルシャワ大学の北隣がポーランド共和国大統領官邸Pałac Prezydencki 直訳的には大統領宮殿)です。17世紀いらいこの地の政治的拠点として機能している場所で、建物自体は何度か再建され、現在のは19世紀末に建てられたものです。1944年のワルシャワ蜂起でもどうにか生き残りました。正面に置かれた騎馬像は愛国軍人ユゼフ・ポニャトフスキ(Józef Antoni Poniatowski)。王家の分家に生まれ軍人として頭角を現したものの、第三次ポーランド分割(1795年)で祖国が完全に消滅すると、その再興を期してナポレオンに接近し、フランス軍の一将軍に転じます。1807年、プロイセンを屈服させたナポレオンはワルシャワ大公国Księstwo Warszawskie / Duché de Varsovie 直訳的には「公国」)を建国し、ポニャトフスキはその軍トップに収まりますが、実質的にはフランス軍人のままでした。1812年のロシア遠征の失敗でワルシャワ大公国が崩壊し、フランスに失望したポーランド人の多くがこれを見限る中、ナポレオンへの恩義を忘れないポニャトフスキは最後まで従軍し、1813年の諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)で落命しました。評価の難しそうな人物ですが、ロシア(のちソ連)とプロイセン(のちドイツ)に圧迫されつづけたポーランド国民としては、一時的に「解放」してくれ、すぐ遠くに去ったフランスとナポレオンへの恨みは薄く、そこに殉じたポニャトフスキの人生に何か一貫するものをみたのかもしれません。官邸前には、2010年の専用機墜落事故で亡くなったレフ・カチンスキ大統領(Lech Kaczyński)を記念するプレートもありました。

 
大統領官邸 騎馬像は祖国再興をめざした軍人ポニャトフスキ 立像は戦間期の指導者ユゼフ・ピウツスキ


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世紀のポーランドは国家の体をなさぬほどにガタガタになっていて、これをどうにかしようという意思のある人たちも立場によって向きがばらばらでしたので、1795年の「滅亡」は致し方ないというか、歴史の記述としては「ポーランドという国は、こうして終焉を迎えました」と書くしかないものでした。ポーランドのすごいところは、約120年にわたる消滅の時期を経て20世紀前半に国家としてよみがえったところにあります。1917年のロシア革命、1918年の第一次世界大戦終結を経てヴェルサイユ体制が成立すると、英仏などは共産主義勢力の封じ込めを図り、ロシア・オーストリア・オスマン3帝国が崩壊したあとの中東欧に小型の民族国家を樹立して緩衝地帯にしようとしました。復活したポーランドはその中でもかなり大きな面積を占めました。ポーランドの指導者たちは、ボリシェヴィキ(共産党)の台頭によってロシアが混乱しているのに乗じて、大帝国を築いていた中世の版図の復活をねらい、東部国境を越えてロシア、ウクライナ方面に進撃します(ポーランド・ソヴィエト戦争 Wojna polsko-bolszewicka / Советско-польская война 191921年)。日本軍のシベリア出兵などと同じ反革命干渉戦争のひとつです。当初はポーランド軍が優勢も、中盤では巻き返したロシアの赤軍にワルシャワを攻略されるなど大苦戦しますが、1920年夏のワルシャワ北郊での戦闘で決定的な勝利を収め(「ヴィスワの奇蹟」)、前線をベラルーシ方面に押し戻す戦果を上げました。復活国家の東部国境は、西欧が想定していたもの(「カーゾン線」と呼ばれ、現在の東部国境とほぼ同じ位置)より200kmも東に設定されています。現在はウクライナ、ベラルーシ、リトアニア領となっている地域がポーランド領となりました。対コミュニズム緩衝地帯という意味で、英仏としては「まあいいか」ということだったのでしょうが、同様に緩衝国家としての役割を期待されたリトアニアは、首都にするつもりであった最大都市ヴィリニュスなどをポーランドにもっていかれ、大いに不満をもつことになります。

復活国家の主席に選ばれ、ポ・ソ戦争を主導したのがユゼフ・ピウツスキ(Józef Klemens Piłsudski)です。彼はポーランド系ですが現リトアニア領内で生まれ育ち、ヴィリニュスで学校生活を送りました。ポーランドとリトアニアは国家滅亡まで数百年にわたって連合しており、領主階級は入り混じっていまし、その後はいずれもロシア帝国の支配下にあるマイノリティでしたから、彼の生い立ちにさほど矛盾はありません。民族自決にもとづき民族国家が樹立されると国境をどこで区切るかという大問題が発生する、というのはこの時期の中東欧の常です。ピウツスキは社会党に参加していた左派リベラルの思想の持ち主で、リトアニアと連合していた時代の多民族共生を理想としており、それが対ソ戦争遂行の動機にもなりました。その後、国内の政争に敗れていったん引退したものの、経済不振や政治の混乱をみて1926年にクーデタに踏み切り、権威主義的な独裁政権を樹立して、1935年に死去するまでその座にありつづけました。これも戦間期の中東欧のいたるところで起こった現象と軌を一にします。彼の晩年はナチスの急成長の時期に重なります。政権を掌握したヒトラーはピウツスキに同盟締結を申し入れますが、多民族主義で親ユダヤのピウツスキがこれを容れることはなく、決裂。当然の態度ではあるものの、このことが彼の死後、独ソ不可侵条約(19398月)締結とポーランド侵攻(同9月)を招くわけなので、なかなか切ないところではあります。
ロシア帝政からの解放をめざしていたピウツスキは1904年に来日し、日露戦争をたたかう日本政府に対しポーランド独立勢力との提携を呼びかけましたが不発に終わりました。彼の兄ブロニスワフはツァーリ暗殺未遂で流刑となったサハリンでギリヤークや樺太アイヌの文化・言語の研究に着手し、貴重な資料を残したことでも知られます。

 
 王宮広場と旧王宮


クラクフ通りは連帯通り(aleja Solidarności)という東西の道路を陸橋で越えたところで終わり。その先は自動車が進入できないエリアで、狭義の旧市街にあたります。すぐ目の前に赤褐色の旧王宮Zamek Królewski)があり、その前の広場には地元の人や観光客が入り混じって、わいわい。広場に立つモニュメントはジグムント3世(Zygmunt III)を顕彰するものです。ジグムント3世はもともとスウェーデンの王位継承者で、選挙王制を採っていたポーランド・リトアニア連合王国の王に推戴されてクラクフにやってきます。しかし時代は宗教改革の吹き荒れる16世紀後半、ルター派が浸透する故国スウェーデンと敬虔なカトリック国であるポーランド・リトアニアは決裂、バルト海をはさんで17世紀前半まで深刻な対立がつづきました。ジグムント3世は多分にスウェーデン対策を目的として、中世の都クラクフを出てここワルシャワに新首都を定めました(1596年)。以降、ポーランドといえばワルシャワですので、顕彰碑もあろうというものです。ただしこの王宮は20世紀後半の復元です。このあたりの旧市街は、第二次世界大戦中にドイツによって徹底的に破壊され、戦後の復興に際して「伝統的な町並を、建物の汚れや傷みにいたるまで再現する」という方針のもとで、古めかしい姿を新たにこしらえたものなのです。

時計は11時半を回っていて、観光的な意味ではど真ん中の時間帯です。どこから来てどこに行くものか、明らかにツーリストとわかる人たちが旧王宮前から旧市街に入り込む狭い道をぞろぞろ歩いています。やたらにカメラやスマホで撮影するのですぐ識別できますよね。とかいっている当方もまったく同類。ただ、その大半は欧米系の顔立ちで、このところあちこちで見かける東アジア系の人の姿がほとんど見えません。私なんか、どこの国の人に見えるんでしょうね。

 
王宮中庭とワルシャワ旧市街(戦後復元された地区)

 旧市街をとりまく外壁


狭義のワルシャワ旧市街Stare Miasto)は長径300mもないほどの狭い一隅で、東側をヴィスワ川、西側を堅固な城壁で囲まれた城砦のような造りになっています。この区画は中世後期に都市化がはじまったころの名残で、首都になってからは市街地がさらに北側に広がりましたが、歴史的な重みがあり、おそらくは市政にあたる町の有力者たちがこの地区にいたことでしょうから、その後もシンボリックな役割を負っていたものと想像されます。まあ浅草でも京都の新京極でもそうだけど、観光地のコア部分はどうしてもコテコテになり、歴史的景観ですらわざとらしく感じられてきます。渋くて味わいのあるいい景色だなと本気で思ってスマホのレンズを向ける人たちには悪いけれど、少しばかり冷めた気分になっているんですよね。ショパンの曲がかかるというライヴ・ハウスの立看板や、陽気のせいか歩行者が次々に吸い寄せられていくアイスクリームの売店などを横目で見ながら進むと、やがて旧市街広場Rynek Starego Miasta)に出ました。ほぼ正方形で一辺が100m弱。石畳で、周囲には間口の狭い建物がずらりと並んでいます。これももちろん復元後の姿。夏場だけなのかどうか、飲食店は円形のテントをずらりと並べています。日差しと照り返しが強いので、ペースを上げるとダメージを食らいそう。空間の広さのわりに数が少ないベンチを見つけて腰かけ、広場の様子をしばし観察しました。公共Wi-Fiが飛んでいるようなので、そこいらのツーリストと同じようにワルシャワなう(ただし友達限定)。

 旧市街広場


ドイツ軍によるワルシャワの占領は19399月、連合国軍(実際にはソ連軍)による解放は19451月。この間には、メディアだけでなく教育機関を閉鎖するなどの統制がおこなわれ、抵抗・反抗するポーランド人に対しては容赦のない弾圧が加えられました。また、よく知られるように、人口の1割ちかくを占めていたユダヤ人を強制収容し、絶滅収容所などに送致しました。しかし町の破壊は長いこと起こっていません。先ほどから触れている「ナチスによる破壊」は、1944810月のワルシャワ蜂起Powstanie Warszawskie)に対する報復でした。つまり戦争・占領の最末期に起こった悲劇です。ソ連軍が大攻勢をかけて東部国境を越え、ワルシャワに迫りました。ロンドンの亡命政府と連動するレジスタンス組織、ポーランド国内軍(Armia Krajowa)は、ソ連軍やこれと提携する国民解放委員会(Polski Komitet Wyzwolenia Narodowego)の攻撃に先んじてワルシャワを自律的に解放し、「進駐してくるソ連軍に対し国の主人としてこれを迎える」(『物語 ポーランドの歴史』、p.146)という方針でした。亡命政府はもともと反共であり、スターリンによるポーランド兵の大量虐殺(カチンの森事件 発覚は1943年)に対する憎悪もあって、ソ連に恩を売られることを非常に警戒しました。しかし米英ソ首脳は第二戦線を西部戦線(フランス側)に展開することで合意しており、中東欧の解放は実質的にソ連軍にゆだねられます。自力での解放は無理だがソ連は嫌だとなると、ソ連軍がドイツ軍を追い払う寸前にワルシャワで一斉蜂起して、首都の主導権を握るのがよいと考えたわけです。ソ連のスターリンは冷酷な進軍停止でそれに応えました。ワルシャワの手前10kmまで来ていたソ連軍は傍観に徹し、市民軍とこれに協力する一般市民がドイツ占領部隊との激しい戦闘に突入してもいっさい手出しせずに、英軍などによる空からの救援作戦も拒絶しました。もともと装備では優勢だったドイツ軍は勢いを盛り返し、本国からの救援部隊の投入などもあって、約2ヵ月でポーランド国内軍を降伏に追い込みました。増援されたドイツ軍の中には素行の悪さで知られる部隊も複数あり、戦争全体としては末期状態にあったドイツの最後の悪行ということでもあったようです。略奪や暴行が公然とおこなわれ、最後にはやけくそになったものか、火炎放射器などを用いて市街地を徹底的に破壊しました。

1945年が明けると、ソ連軍はようやく進軍を再開し、末期症状のドイツ軍を追い出して廃墟となったワルシャワに入りました。ソ連と、その傀儡となった国民解放委員会が主導して、戦後のポーランド国家が再建されることになります。ポーランド人民共和国(Polska Rzeczpospolita Ludowa)という社会主義国家は、ポーランド国民の徹底した反共性ゆえに成立した(してしまった)ということになるでしょうか。

 

PART2につづく


*この旅行当時の為替相場はだいたい1ズウォティ=30円くらいでした。

<主な参考文献>
渡辺克義『物語 ポーランドの歴史 東欧の「大国」の苦難と再生』、中公新書、2017
渡辺克義『ポーランドを知るための60章』、明石書店、2001
伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』、山川出版社、1998


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