第9シリーズ 夏のセーヌ河岸を一挙歩き! 


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3 アルマ橋〜ミラボー橋



右岸側のニューヨーク通りからドゥビリー橋、エッフェル塔を望む


パレ・ド・トーキョー


アルマ橋の前後から、いよいよパリのランドマーク、エッフェル塔Tour Eiffel)が視界に入ってきます。パリの中心部には景観規制があり、324mのエッフェル塔は飛び抜けて高い建造物ですので、実はかなり手前のほうでも見ることができます。今回の出発地点だったシテ島の南流路からは無理ですが、北流路であれば両替橋(Pont au Change)を右岸側に渡り切ったところでヘッドの部分を望めます。コンシェルジュリ、ポン・ヌフ、ルーヴル、そしてエッフェル塔のヘッドが1枚の写真に収まる穴場ではあります。ただエッフェル塔はスマートな脚部ごと見てこそでしょうし、それにはかなり近づかなければなりません。西北西に流れてきたセーヌ川はコンコルド橋付近で真西に方向を変え、アルマ橋付近で45度に折れて今度は南西に向かいます。エッフェル塔は市内のど真ん中ではなく南西の外れのような位置にありますので、ここから先でようやく常時、全体が見えるということになるわけです。真下に行けば見なくて済むなどと吐き捨てたモーパッサン先生には申し訳ないが、私はエッフェル塔のフォルムがとても好きなので、むしろあまり近づかずに遠巻きに全体を視界に収めたいなと思う。

アルマ橋から先は右岸側を歩いてみます。この付近の河岸にはニューヨーク通り(Avenue de New York)という名がついています。もともとナポレオン1世時代の軍人にちなんでドゥビリー河岸(Quai Debilly)といっていたのが、第一次世界大戦で同盟を結んだ日本の首都にちなんでトーキョー通り(Avenue de Tokyo)と改称され、第二次大戦では日本が敵方になったため今度は合衆国の都市名をとってニューヨーク通りと改められました。ただこれに面して1930年代に建てられた近代美術館には「東京宮殿」、パレ・ド・トーキョーPalais de Tokyo)の名がそのまま定着し、今日にいたっています。日本人には印象的なネーミングながら、この美術館と東京との直接的な関係というのはありません。



ドゥビリー橋

 


エッフェル塔直下のこの付近も観光船の発着所になっている


パレ・ド・トーキョーの斜め前あたりに架かるのがドゥビリー橋Passerelle Debilly)。Passerelleですから人道橋です。全長125m、鉄製のアーチ橋ですが、これまで見てきたアーチ橋とは異なり、アーチ部分が橋桁の上にふくらんだ下路式になっています。隅田川では永代橋や厩橋など下路式が目立つので都市河川の橋ってそういうものだろうと思いかけるのですけれど、今回歩いている区間のセーヌ川ではここだけなので、特異な感じがします。実際これはアレクサンドル3世橋とともに1900年の万博に合わせて開業したもので、シャン・ド・マルスのメイン会場への足として「仮設」のニュアンスで架けられました。鋼鉄むき出しの構造物ですのでエッフェル塔が嫌いな人ならこれも好むはずはなく、無用だから壊せという話がちょいちょい話題に上りつつもいつしか定着しました。

芸術橋の規制が強化されたころ、この橋に南京錠をぶら下げるヤカラが増えて、錠前を売るアフリカ系の兄さんたちが常時うろつくようになっていました。手すりと見れば錠前をぶら下げる行動様式って何なのだろう。この日も1人の兄さんが橋上に座り込んで商売していましたが、表向きはエッフェル塔の安い置物を売っているようです。

左岸側に渡ったところに、ケ・ブランリー・ジャック・シラク美術館(Musée Quai Branly- Jacques-Chirac)のモダンな建物が見えます。その名のとおりシラク元大統領の肝いりで建てられたミュゼ。ミュゼ(英語のミュージアム)には美術館、博物館とどちらを充てればよいのか迷うケースがあり、ここもそうです。非欧米世界の美術とはいうものの、私の目には人類学的ないし民俗学的な関心にもとづいてコレクションされているように思え、だとすれば博物館かなと。何度か訪れたことがありますが、どことなくアジア、アフリカ、オセアニア、中南米などをゲテモノとかキワモノのように扱っているふしが感じられて、愉快ではありませんでした。開館当時、フランス人の先生たちは絶賛していたんですけど。


 
エッフェル塔のすぐ下にやってきた!



イエナ橋 右岸側の建物はシャイヨー宮


いよいよエッフェル塔の真下にやってきました。革命100周年の1889年に造られましたのでもうすぐ120歳。よく造ったものだし、よく現役のままでいられるなと毎度感心します。最後に登ったのは20122月なのでもう5年以上になりますか。でも、登ってしまうと塔は見えないので、モーパッサンの逆張りで、私は外から眺めるほうを好みます。入場するのに延々並ばされるのが嫌だというのもあるんですけどね。

左岸側のエッフェル塔と右岸側のシャイヨー宮Palais de Chaillot)が向き合っていて、そのあいだをイエナ橋Pont d’Iéna)が結んでいます。もともとはエッフェル塔と関係なく、いまその「足場」のようになっているシャン・ド・マルス公園Champ de Mars)へのアプローチとすべくナポレオン1世が造らせました。シャン・ド・マルスの奥には陸軍士官学校(École militaire)がありますので軍人皇帝の強い願いだったのでしょう。シャン・ド・マルスは革命記念日の祭典などがおこなわれる場として整備され、19世紀後半以降はたびたび万博の会場として使用されました。エッフェル塔も本来は万博の「出し物」の一つでした。イエナ橋の全長は155m、石造りのアーチ橋で、これこそパリの正統なスタイル! イエナとはドイツ中部の都市で、1806年にナポレオン率いるフランス軍がプロイセン軍に完勝し、中欧に覇権を確立した戦いの戦場名。今回歩いている範囲よりも東側にオステルリッツ橋(Pont d’Austerlitz)があり、そちらは1805年の「三帝会戦」の戦勝地名ですので、ナポレオンの栄光というのはセーヌ川の橋梁名を通していまもアピールされているわけです。イエナ橋のたもとは左右両岸とも完全にツーリスティックな場所で、サンドイッチやワッフルなどを売る屋台が並びます。日本なら綿菓子とかも売るだろうな。そして、私が初めてここを訪れたときから常に、アフリカ系の兄ちゃんたちが安物のエッフェル塔をじゃらじゃらぶら下げて、「ワンニューロ(€1)!」などと観光客にまとわりつく光景が変わらず展開されています。お巡りさんが来るとクモの子を散らしたようにいなくなるのも、いつだって見事。



パリ日本文化会館




この日も大にぎわいのエッフェル塔を離れて、さらに下流方向へ。いつもは左岸のブランリー河岸(Quai Branly)を5分ほど歩いてRER-C線シャン・ド・マルス・トゥール・エッフェル駅を利用する観光客が多いのですが、前述のようにC線が工事で運休となっており、さらにシャン・ド・マルス駅付近も絶賛工事中のため、仮設の通路みたいなところを迂回せざるをえませんでした。RERが使えないので、路線バスを使うのでなければメトロ6号線ビラケム駅(Bir-Hakeim)を利用することになります。ただ都心に一直線で向かうC線と違って6号線は左岸地区を弧状を描きながら進む路線なので、必ずどこかで乗り換えの必要があります。ちょっと面倒やね。凱旋門へは1本ですので、その点では便利です。ビラケム駅は高架にあり、6号線もこの付近では「地下鉄」には見えません(メトロの原義は首都鉄道 Chemin de fer métropolitainなので「地下」のニュアンスを含まない)。そのビラケム駅のすぐ手前、キョート広場(Place de Kyoto)に面して、パリ日本文化会館Maison de la culture du Japon à Paris)のガラス張りの建物があります。文化イベントの会場になるほか、日本語教室とか物産の販売なんかもやっています。何でも729日〜831日まで休館だそうで、バカンスのスケジュールは現地並みなのね。ちなみに私が編集長をしている学術誌もここに収められています。「フランスの教育を日本でどのように研究しているか」を日本語で読みたいフランス人はぜひおいでください(って日本語でいうなよな)。


 


ビラケム橋


ビラケム橋を渡るメトロの車窓から撮影(20162月)
川べりの半地下部分をRER-C線が走っている


メトロ6号線のビラケム駅は川のすぐそばにあります。右岸側のパッシー駅(Passy)もそうなので、橋の長さが駅間の距離にほぼ等しい。ビラケム橋Pont de Bir-Hakeim)は全長237mの鉄製アーチ橋。他と明らかに異なるのは、道路の中央分離帯の真上をメトロの線路が走る、二層構造になっている点です。自動車道両側にも歩道がありますが、線路の真下を歩くこともできて、なかなかない景観のため、CMや映画の撮影に使われることがあります。

メトロ6号線は左岸側でしばらく高架線を走ります。雑然としたアパート群の中をくねくね曲がりながら進むと、エッフェル塔が次第に大きくなってくる。ビラケム駅を出てすぐビラケム橋ですので、進行右手を見ると、どどーんとりりしい搭とセーヌ川を一挙に見られますよ。

 白鳥の小径

ビラケム橋の右岸側は高級住宅街のパッシー(Passy)地区で、そのあたりの散策は2シリーズでやっています。ビラケム橋のことや、第二次大戦中のアフリカ戦線での戦勝地名であること、ここから下流側に伸びる中洲の遊歩道、白鳥の小径Allée des Cygnes)のことなどをレポートしていますのでどうぞ。もう4年前になるんですね。現在の職場に移った年のことで、あれから夏場の訪問もルーチン化して今日にいたっています。花の都は変わらず居心地のいいところだな〜。そういえば中学校時代の恩師が欧米通で、たまにこのシリーズを見てくださっているらしく、「古賀君の“花の町ぶらり”楽しみにしています」というメールをいただいたことがあります。それだと色っぽいところをうろうろしているみたいで人聞きが悪い(笑)。意味もなくうろうろしているのは確かです。




ビラケム橋の下流側 (上)白鳥の小径の左岸側の流路 (右)右岸側の流路


ルエル鉄道橋(右岸側)

 
(左)いまのところ休業中のプレジダン・ケネディ通り駅 (右)ラジオ・フランス


今回は白鳥の小径ではなく、右岸側に渡って進むことにしましょう。ニューヨーク通りはいつの間にかプレジダン・ケネディ通り(Avenue Président Kennedy)という名に変わっています。アメリカ好きやな。ケネディ通りの陸側にはわりに上等なアパート群が迫っています。パッシー地区のつづきというところでしょう。対岸の左岸側には高層マンションが林立していて、ここまでのパリの景観と明らかに違っています。欧州の歴史的都市ではよくあることに、中心部の景観規制が厳しいため、現代的な開発はその外側ということになるのですね。いわゆるマンションが見られるのは、ですからパリでは「山手線の外側」みたいなエリアに限られます。ビラケム橋あたりがその境界になっているのでしょう。その意味でもエッフェル塔はパリの南西端というべき位置にあるのですね。(ユネスコの世界文化遺産「パリのセーヌ川両岸」Paris, rives de la Seine はシュリー橋からイエナ橋まで)


歩道の落ち葉を除去する車


で、ここまでの中心部と違って、完全なる住宅街ですのでとりたててみるべきものもなく、川沿いの淡々とした景色がつづきます。小径を歩いていればよかったかなと思うものの変化がないとおもしろくありません。やがて前方にシャープなフォルムの下路アーチ橋が見えてきます。これはRER-C線の支線が右岸側に渡るための鉄道橋で、ルエル鉄道橋Pont Rouelle)という名がつけられています。左岸沿いに走るC線から分岐して川を渡るため、川面に対して垂直というわけにはいかず、小径で2つに分けられた流路を斜めに横断していきます。左岸側は単純な桁橋、右岸側がアーチで変化がつけられていますが、もしかすると地盤の問題があるのかもしれません。右岸に渡ってすぐのところにC線のアヴニュ・プレジダン・ケネディ駅(Avenue Président Kennedy)がありますが前述のように全面工事のためここも駅そのものが閉鎖中。

C線のガードをくぐると右側に大きな円筒形の建物、ラジオ・フランスRadio France)本館が見えてきます。NHKラジオみたいなものですが、残念ながらテレビはともかくラジオ放送にはほとんど縁がありません(ネットのフランス語放送をよく聴いていた時期はあったのですが・・・)。いつしか16時が近づいており、単調な景観が疲れを増すような感じになってきました。こういうときに限って、川沿いの道にはカフェの1つも見えません。




グルネル・カデ・ド・ソミュール橋 女神の後ろ姿が見える

 

 
(左)グルネル橋からルエル鉄道橋越しにエッフェル塔 (右)女神のバックショット!


鉄道橋からほどなく次のグルネル・カデ・ド・ソミュール橋Pont de Grenelle- Cadets-de-Saumur)が見えてきます。白鳥の小径の先端部を突き抜けて両岸を結んでおり、鉄製アーチ橋のようですがアーチ部分の丸みがさほどないためシャープな印象を受けます。全長220m、現在の橋は1968年に架け替えられたものだそうで、私とほぼ同年代。前回ここに来たのは4年前でしたが、その間に橋の名前が少し変わっていたようです。単純にグルネル橋だったところに、第二次大戦中にロレーヌ地方ソミュールの防衛にあたった士官候補生たち(Cadets)の功績をたたえた部分が乗っかりました。セーヌ川の橋ってどこも国防的だな〜。

小径はこのグルネル橋を少しだけはみ出していて、橋の中ほどから降りるスロープもあり、自由の女神像Statue de la liberté)が置かれています。ニューヨークのやつは合衆国の独立100周年を祝ってフランスが贈ったもので、その返礼として革命100周年の1889年に在パリのアメリカ人たちが寄贈したものです。もとよりフォトジェニックなポイントなのだけど、真下からだといまいちなので、次のミラボー橋から見ることにしよう。


グルネル橋の右岸を少しだけ陸側に入ったところ、ケネディ通りがヴェルサイユ通り(Avenue de Versailles)と名が変わってすぐの角に、Les Ondesというカフェ兼レストランが見えます。場所柄からしても雰囲気でも「ちゃんとした」飲食店であることが一目瞭然。テラスに腰かけ、ペリエ(€5.10)を発注。のどが渇いたときはやっぱりコレだね。さあ、もう一息。



本日のゴール、ミラボー橋 橋脚の彫刻が美しい


 

 


女神の背後をかすめて右岸側に移り、さらに500mくらい進んだところが、今回のゴールに設定したミラボー橋Pont Mirabeau)です。全長173mの鉄製アーチ橋で、1893年落成といわれるとそれなりの風格を感じます。ベル・エポックですもんね。ミラボーは超有名な革命期の指導者です。私の指導教授が一時期、「地名には教育効果がある」といって学生にそういう研究テーマを勧めていたことがありますが、彼女が留学されていたパリないしフランスのことを念頭に置いていたのだなとあらためて思う。愛国的要素を教科書でごり押ししたところで試験が終われば忘れちゃうけど、固有名詞は日常ですからね。そういうテーマで研究しろといわれたら私は完全拒絶ですが。(結局ナショナリズム事案を選んだのですが師匠の望むのとは逆ベクトルだったと思います。でもちゃんと学位もらえましたよ)


RER-C線ジャヴェル駅


ずっとセーヌ右岸の地下を走ってきたRER-C線はこの手前で地上に現れ、橋のたもとのジャヴェル駅(Javel)に着きます。再々いうように現在は都心部が工事運休のため、このジャヴェルが仮の起点になっています。電車を降りた乗客たちはメトロやバスに乗り換えるようです。



自由の女神は、フランス共和国を象徴する女性マリアンヌ(Marianne)がモチーフになっています。マリア信仰に根ざすものの、革命後はキリスト教色を抜いたかたちで浸透しました。今回のスタート地点であるノートルダム(Notre Dame)を英語に直訳すればMy Ladyですのでマリアさまのこと。起終点に神聖な女性像というのはなかなか一貫性があってよかったですね。というのは、いま考えたこじつけです。

時刻は17時。夏場なのでまだまだ明るいのですが、朝から夕方までずっとセーヌ河岸にいるというのは初めての経験でした。いまさらいうまでもないことながら、花の都はセーヌの流れとともにあるのです。昔も今も。

花の都を歩いて見よう IX おわり

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