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PART2 にもどる
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3 シャンゼリゼと20世紀のパリ
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アルマ橋付近からモンテーニュ通りを見る 前回は気づかなかったけど
正面にモンマルトルの丘(サクレ・クール寺院)がきれいに見えます!
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トロカデロ広場→ヴィクトル・ユゴー広場→シャルル・ド・ゴール広場(凱旋門)→シャンゼリゼ通り→ジョルジュ・サンク通り→モンテーニュ通りと歩いたときからプロ野球の投手並みの中5日空けて、2月28日(土)に、「黄金の三角形」の残る一辺を歩いて見ることにしました。ブルターニュから戻ってパリで1泊し、この夜のANAで東京に帰るのですが、羽田便ができてからシャルル・ド・ゴール空港発が20時55分とかなり遅くなり(成田便だけだった時代は19時40分)、帰る日をまるまる1日使えるようになりました。とはいっても、時間の隙間を惜しんで観光するようなキャリアではないし、どうしようかな。そうだ、何度も通っているからと省略してしまった三角形の残りを歩こう!てな感じになったわけです。
パリを去る日の朝(とパリに着いた翌朝)はノートルダム寺院を参詣するのを佳例としていますので、左岸のサン・ミッシェル・ノートルダム駅(Saint-Michel Notre Dame)からRER-C線でポン・ド・ラルマ駅(Pont
de l’Alma アルマ橋)にやってきました。アルマ橋を右岸側、「自由の炎」の側へと渡ります。ダイアナ妃にあやかったカップル鍵は今日も満載。無粋なことをいうようですが、永遠の愛と非業の最期は紙一重だからね。というより、ポン・デ・ザール(芸術橋)や湘南平も含めて、公共の場でこういうことをする人のセンスを私は疑いたい。
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アルマ橋からジョルジュ・サンク大通りを、前回と同様に出たり入ったりしながら歩いて、ルイ・ヴィトン前まで来ました。
時刻は12時ちょっと前。お天気のよい土曜の昼ですが、やはり心なしか人通りが少ないような気はします。そうでもないのかな。昨日までブルターニュの小規模な都市を歩いてきて、首都に戻ってみれば、やっぱりパリは別格にでかく、人の多いところだなとは思います。両親が住んでいる福岡から戻るとき、ときどきのぞみに乗るのですが、多摩川を渡って都内に入ったあたりで、あ〜自分のいるべき場所に帰ってきたなと思います(飛行機はそれがないやね)。ナントからパリまでTGVに乗って、モンパルナス駅ちかくになり、車窓に大都会の景観が広がったときに、似たような感じを抱きました。パリ>福岡なのが気になるところですが(笑)、花の都は私のアイデンティティの一部です。
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(左)世界のトヨタ (右)マカロンのラデュレ
(左)世界のH&M (右)世界のルノー(とハーゲンダッツ)
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シャンゼリゼ通りは、コンコルド広場(Place
de la Concorde)を起点としてシャルル・ド・ゴール広場までの1.9kmの道路です。道幅は70m。この真下をメトロ1号線が走っていて、東から順にコンコルド、シャンゼリゼ・クレマンソー(Champs- Élysée Clémenceau)、フランクリン・D・ルーズヴェルト、ジョルジュ・サンク、シャルル・ド・ゴール・エトワールと駅があります。このうちクレマンソーをのぞく4駅で距離を3等分できるとひとまず考えてください。コンコルド側、すなわち東の3分の1は両サイドに建物がなく、グリーンベルトの中を通り抜ける区間。共和国大統領官邸のエリゼ宮(Palais de l’Élysée)もその一隅にあります。前回の終了地点であるフランクリン・D・ルーズヴェルト駅は、残り3分の2の「にぎやかなシャンゼリゼ」の起点でもあります。
シャンゼリゼの車道はいつでも交通量が多い。パリでいちばん多いんじゃないかと思うことすらあります。これほど広くてまっすぐの道路があまりないということかもしれませんね。7月14日(革命記念日)の軍事パレードとか、ツール・ド・フランスの最終ステージとか、クリスマス・イルミネーションとか、人によってさまざまな絵を想像することでしょう。
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ベルギー発のムール貝レストラン 私は合わんと思うが必ずフライドポテトがつきます
ディズニーストア(右)
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「黄金の三角形」とはいいながら、真に高級とか上等なのはジョルジュ・サンク通りとモンテーニュ通りで、シャンゼリゼは非常に大衆的なのがわかります。大衆的って褒め言葉ですよ。大ざっぱにいって、凱旋門に向かって左側にはショールーム的なものが多く、右側にはカジュアル・ブティック、ファストファッション、大型スーパー、メディアショップ、映画館、ファストフードなどが多くあります。およそ思いつくようなものは何でもあります。
ここはまた、シンボリックな場所ゆえに、悲劇的な使われ方をしたこともありました。1871年にプロイセンなどドイツ諸邦連合軍が凱旋門をくぐってここを行進したことがあります。普仏戦争でフランスは惨敗し、皇帝ナポレオン3世が自ら捕虜になってしまうほどでした。1940年6月にはナチス・ドイツが西部戦線を突破してパリになだれ込み、ここを行進してフランス占領を世界にアピールしました。しかしナチス占領下での抵抗運動も、しばしばシャンゼリゼを行進することでおこなわれています。1944年8月、ノルマンディから連合国軍が押し寄せ、セーヌ川の橋をすべて爆破しパリを廃墟にしてしまえというヒトラーの命令はほかならぬドイツ軍によって黙殺され、この町は4年ぶりに解放されました。8月26日には解放と勝利を祝う大行進がシャンゼリゼでおこなわれています。
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シャンゼリゼ円形交差点が見えてきた
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私の実質的なパリ・デビューは1999年で、エッフェル塔にはミレニアムまでのカウントダウンが表示されていました。今回歩いたコースは、2000年に及ぶパリの歴史の中でも話題がとくに20世紀史に集中していたように思います。フランスで同時代史(histoire contemporaine)というとき、たいていはフランス革命以降のことを指し、それはいくら何でも長すぎるだろうと思ってしまいます。いまからちょうど100年前に戦われた第一次世界大戦は、かたちばかり参戦した日本人にとっては経済発展への天佑(これは元老井上馨の言葉)というくらいのものでしたが、フランス人やドイツ人にとってはその精神にとてつもなく深い痕跡を残す出来事でした。パリやフランス各地を回ってみると、第二次大戦よりも第一次大戦関係のモニュメントがかなり多いのに気づきます。もっとも、両世界大戦はひとつづきの事象でした。フランスはその後、インドシナ戦争(北ベトナムとの凄惨な戦争で、結局インドシナの植民地保持を断念)、アルジェリア独立戦争といった負の記憶を刻み込まれます。1968年のパリ五月革命(カルチェ・ラタンを中心に学生らが放棄。内政以上に現代思想や、日本を含む世界各地の学生運動に影響を与えた)も忘れるわけにはいきません。1980年代以降は、欧州統合と移民の増加・定着・世代交代という流れの中で、革命以来のフランスのアイデンティティとは何かという葛藤の日々を過ごしています。あとから振り返るとき、2015年年頭の出来事は何を表象したということになるのでしょうか。
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歩いて見ようのベースキャンプ、左岸カルチェ・ラタンの常宿レスペランス(Hôtel de l’Espérance)とはもう16年のお付き合い。「パリを歩く人」としての私の30〜40代の歴史と完全に一致します。昨年8月に訪れた際、1ヵ月ほど前にオーナーであるエレーヌさんのご主人、アンドレさんが亡くなったと、息子さんからうかがっていました。今回久しぶりにお会いしたエレーヌさんは、私の顔を見るなり、「主人が亡くなって私はどうしてよいかわからない」と涙を浮かべます。「自分の84歳の誕生日に逝ってしまったのよ」と。かける言葉もありません。
2012年2月に私の母との3ショット
出会ったころはバリバリの現役で、常時レセプションに立ってスタッフにてきぱき指示を出していたマダムも、65歳だったかを機に現場を離れました。当たり前だけど、お互い年を重ねましたね。「でも息子や嫁がホテルをやってくれるようになったから大丈夫。私もがんばるわ」と最後は自分を励ますようにおっしゃっていました。常客が少しずつ姿を見せなくなったり訃報を聞いたりするのが寂しいともいっていたので、私は少しでも時間の隙間を見つけて訪れることにしよう。
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PART4へつづく
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