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西欧あちらこちら にもどる
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1 右岸の上品な地区を歩こう
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中心にフォッシュ像のあるトロカデロ広場
フォッシュは第一次大戦時のフランス軍(戦争末期には連合国軍全体)の総司令官で
ドイツとの休戦協定を締結した際の全権代表 この協定の日付(1918.11.11)を冠して、
現在では「トロカデロ・11月11日広場」が正式名称となっています
「第一次大戦の栄光に捧ぐ」モニュメント
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今年も2月がやってきました。この季節のパリに、13年連続で来ています。2月22日(日)11時ころ、おそらくいちばんわかりやすいランドマーク、エッフェル塔(Tour Eiffel)を望む展望デッキ、正確にはセーヌ川をはさんで対岸のシャイヨー宮(Palais de Chaillot)の前に私はいます。お天気もいいし寒くないし、気分は上々。3年前だったか、このあたりの噴水が全面結氷するほど寒いときに来たことがありました。ヘビー・リピーターがイカニモ系のスポットを毎度訪れるのを不思議に思われるかもしれませんけれど、まあ何というか、元気に1年を過ごせましたという定点観測的な自己の点検確認みたいなものです。
私はいたって元気です。しかし、花の都パリが元気ではないと、事前にいろいろなソースから伝わってきました。1月7日午前(現地時間)、バスチーユの裏手あたりにあるタブロイド紙の本社を複数の人間が襲撃し、編集者らを殺害、これに連動する人質事件なども合わせて十数名の犠牲者が出る惨劇となりました。イスラム過激派(といってもいろいろですが)による大きなテロ事案は21世紀に入ってからも、英国、スペイン、ドイツなどで発生しており、中東への関与が大きいフランスで起きないわけはないと誰もが思っていましたが、その新聞が預言者を揶揄するような風刺漫画を載せたことが直接の引き金となって、白昼の悪夢となったものです。再び預言者を描写するような同新聞の行為があったにもかかわらず、その後に連鎖があったわけではなく、大都市の一隅で起きるかもしれない何かを気にしていたら海外になんて行けないわけだから、予定を変更することもなく、私はいつものようにやってきたのです。でも、どこかに「平素とは違うんじゃないか」という気分というか先入観ないし用心のようなものが。こんなときでも、こんなときだから、花の都を歩いて見ることにしましょうよ。
日本外務省の海外渡航情報でフランスに「注意喚起」がどーんと出ています。いわく「特にテロの標的となりやすい場所(政府・軍・警察関係施設、公共交通機関、観光施設、デパートや市場など不特定多数が集まる場所)は可能な限り避け」よとのことですが、そんなこといったら行くとこなくなっちゃう。
出発地点はシャイヨー宮のまん前、トロカデロ広場(Place du Trocadéro et du 11 novembre)。歩いて見ようの第2シリーズでもここを通り抜けています。トロカデロというのはスペインの地名で、1823年、自由主義勢力が起こしたスペイン立憲革命を鎮圧するため復古王政下のフランス軍が介入(*)、「トロカデロの戦い」に勝利したことを記念しています。今般の事案じゃないけど、「自由」が至上の価値だと考えるフランス人が隣国の自由を圧殺したことを記念してよいのかどうか。まあナショナリズムとか19世紀なんてそんなもんだわな。21世紀になってもその思考から抜けられない人たちってどこにでもいますし。
(*)フランスが革命干渉に踏み切ったのは、ナポレオンの兄で自由主義的な憲法を制定したスペイン王ホセ1世の正統性を否定するとともに、フランス・スペイン両国で復活したブルボン(ボルボン)朝の支配が揺らぐことを恐れたためです。
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レイモン・ポアンカレ通り
(左)チェーン系何でも屋さん (右)高級バス用品店 1つ€65のスポンジっていったい・・・
カフェのランチメニュー バーガーセットはいいとして「スシ定食」ってね(笑)
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さて5回目となった歩いて見ようは、セーヌ川右岸、パリ全体から見ればやや西(下流側)に寄った地区をテーマとします。わかりやすくいうと、「エッフェル塔と凱旋門を結ぶラインの前後」です。スタート地点のトロカデロ広場をのぞけば私がほとんど関心を払ってこなかったエリアなのですが、観光客には人気の高いところですし、おもしろそうなものもあるので、この機会にまとめて探訪してみることにしました。トロカデロはよくある円形広場ですが、片側をシャイヨー宮に塞がれているため、放射状の道路が半円部分だけになっています。田園調布駅西口の感じだと思ってください。そのうち凱旋門に向かって直進するのがクレベール通り(Avenue Kléber)。クレベールは革命期の軍人で、ナポレオンとともにエジプト戦線に赴き、暗殺された人。ただ今回はその通りではなく、一筋西のレイモン・ポアンカレ通り(Avenue Raymond Poincaré)を往きます。ポアンカレは日本の世界史の教科書にも登場する大物で、第一次大戦をはさんだ時期に首相→共和国大統領→首相を務めた人物です。第2シリーズではやはりトロカデロ広場につながるプレジダン・ウィルソン通り(Avenue Président Willson)を歩きました。どうもこの界隈は近代史の「利用」のにおいがぷんぷんしますね。
ルネサンス・パリ
日曜の午前中なのと、基本的には住宅街なのとで、車道を通る車も歩道を歩く人の姿もほとんどありません。静かでいいねえ。途中で、見るからに高級そうなホテルがありました。ドアボーイの姿勢がぴしっとしています。ルネサンス・パリ・ル・パルク・トロカデロ(Renaissance Paris le Parc Trocadéro)というマリオット系列の5つ星ホテルだそうで、いまサイトで調べたら1泊€270くらいかららしい。このところ私の旅行費用がインフレ気味になっていることでもあり、そのうち「5つ星を体験するぞ」とか調子こくかもしれませんね(笑)。
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ヴィクトル・ユゴー広場
ヴィクトル・ユゴー通り 正面に凱旋門が見える
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トロカデロから約700m、ゆっくり30分くらい歩いて、ヴィクトル・ユゴー広場(Place Victor Hugo)に出ました。R.ポアンカレ通りはまだつづくのですが、私はここからヴィクトル・ユゴー通り(Avenue Victor Hugo)に入ります。V.ユゴーはいうまでもなくフランスの国民的作家で、ナポレオン3世に抗して長く英国などに亡命していました。無情やね。V.ユゴー広場には一度だけ来た記憶があるのだけど、うっすらあった記憶の場所と雰囲気が違うので、勘違いかもしれません。来たことがあるとしても10年以上前のように思います。長期にわたっていろいろなところを歩きましたので、印象や記憶がこんがらがっている場所がかなり増えてきました。
V.ユゴー広場には飲食店やパン屋さんなどもあって生活空間のにおいがするのですが、そこからV.ユゴー通りに進むと、ブティックや小物屋さんなどのショーウィンドウが並んでいました。相当に上品な印象があります。ただ、日曜は飲食店をのぞくすべてのお店がクローズになっていますので、人通りはやはり少ない。ショーウィンドウは生きていますから、ウィンドウ・ショッピングしながらゆっくり歩くことにしよう。店員さんと目が合って気まずくなることもないため、休みの日のほうがその点ではよいかもしれない。ただ、この数百メートルのあいだにホームレスの人が5、6人もいて、格差というか落差が切ない。
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凱旋門に、斜め後ろから接近する
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V.ユゴー広場から600mほどで、凱旋門を中心に据えたシャルル・ド・ゴール広場(Place Charles de Gaulle)に着きます。各方面への道路を放射状に配した円形広場は、ある面では信号を設けるよりも合理的であるため、欧州各都市、もちろんパリにもたくさんあります。中でもこのシャルル・ド・ゴール広場は円のサイズが大きく、12本の道路を結びつける規模で、かつ二重の円を描いていて車両の通行をスムーズにさせる仕掛けがしてある本格的なものです。空から見れば星のかたちだというのでかつてはエトワール広場(Place de l’Étoile)と呼称していたのですが、レジスタンスの英雄で第五共和政の創建者であるシャルル・ド・ゴールが1970年に亡くなると、その名を冠して改称されました。細かい話ですが、パリのRER(高速郊外鉄道網)の駅で「シャルル・ド・ゴールまで1枚」とかいうと、空港なのか凱旋門かと聞き返されますので、「アエロポール」「エトワール」とはっきり告げましょう。
リュード作「出撃する義勇軍」(1792年)
1805年、モラヴィアのアウステルリッツで、ロシア皇帝アレクサンドル1世および神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としては1世)と、フランス皇帝ナポレオン1世が激突。3人の皇帝が直接対峙したことから世に「三帝会戦」と呼ばれる戦いで圧勝したナポレオンは、欧州大陸の覇権を確立し、古代のローマ皇帝がしたように「凱旋門」の建設を命じました。が、あまりに本格的なものを造ろうとしたためか、工期がさんざん長引き、完成をみたのは1836年になってからのことです。その間にもフランスの政体は第一帝政→復古王政→百日天下→復古王政→七月王政(オルレアン家のルイ・フィリップ王)と推移しており、ナポレオンの遺体がセント・ヘレナから「凱旋」してこの門をくぐったのは実に没後19年後の1840年のことでした。凱旋門は世界各地にありますので、固有名詞としてはエトワール凱旋門(Arc de Triomphe de l’Étoile)といいます。
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シャンゼリゼ通り101番地は、番地表記もヴィトン風
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凱旋門から南東にまっすぐ伸びるのが、これもご存じシャンゼリゼ通り(Avenue des Champs-Élysées)。ギリシア神話に登場する死後の世界、エリュシオン(Elysium)がフランス語に転訛してエリゼ(Élysée)となります。シャン(champ)は原っぱなので、「エリゼが原」といったニュアンスです。フランス語の特性上、発音しない複数形語尾の-sが後ろのéとリエゾンを起こしてシャン・エリゼ→シャンゼリゼ。17世紀ころ、パリの西縁を拡張する意図で一直線の並木道が造られ、19世紀半ばには商業の集積が進みました。私もそれほどあちこちを見たわけではないのですけれど、人の話を聞いても、「世界屈指のメインストリート」といってよさそうです。そのぶんコテコテで、観光客向けに徹していて、最近はそうでもないですが以前はどうにも好きになれない地区でした。
そんなわけで、パリにはたびたび来ているもののシャンゼリゼを歩いた回数はさほどでもありません。そうした経験の浅さを承知でいえば、歩いている観光客がちょっと少なすぎるように思う。例の一件で「外国人」が敬遠したということが、はたしてあるのかどうか。たまたま、一昨年と昨年の2月の日曜にここへ来ていますけれど、いずれも16時くらいでした。いまは正午。夕方になれば人が集まるということだったらいいのですが。
今回は行きませんが、シャンゼリゼの北側(凱旋門に向かって右側)には、パサージュ(passage 屋根つき商店街)がいくつもあって、町のにぎやかさを立体的にしてくれています。また、世界的企業がショールームを展開していて、「世界のショーウィンドウ」としての機能をもっています。パリ初心者の方はぜひぜひどうぞ。って、ここには行くよね。凱旋門(地下にシャルル・ド・ゴール・エトワール駅)から200mくらいのところで、早くもメトロ1号線では「次の駅」のジョルジュ・サンク駅(George V)。ここから斜め60度くらいの角度でジョルジュ・サンク通り(Avenue George-V)が分かれており、今日はこの通りを歩いてみようかなと。シャンゼリゼとの交差点、鋭角側に超有名カフェのル・フーケ(Le Fouquet’s)、鈍角側にルイ・ヴィトン(Louis Vuiton)。
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ル・フーケ
ジョルジュ・サンク通り
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ルイ・ヴィトンは角っこのビル全部なので、この界隈でも存在感は群を抜いています。入店するでもなくこの前で記念撮影する人も多し。ル・フーケは、何でも「パリ4大カフェ」のひとつだそうですが残りはどこなんだろ。ネットで調べてもいろいろな説があり、大半はモンパルナス界隈のいわゆる芸術家カフェなので、おのぼりさん向けのシャンゼリゼとはテーストが違うじゃんね。ひとりで入るには敷居が高い感じもするので、私まだどこも試したことがありません(サン・ジェルマン・デ・プレの老舗レ・ドゥー・マゴとかフロールには入ったことがあります)。いま挙げたような有名カフェはたいていレストランも併設しているので、どんなものなのかとエントランスに掲出されているカルト(メニュー)を見てみると、ランチで€80くらいからみたいですね。終わっとる(笑)。
さて今回は、ここから右折してジョルジュ・サンク通りに入ります。ちょこっとのぞいたことはあったと思いますが、まともに歩いた記憶がありません。道幅40mの広い道路です。フランスの「道(車道)」には並木大通り(boulevard)、大通り(avenue)、普通の道路(rue)などがあるのですが、基準はいい加減なもので、アヴニュを名乗るシャンゼリゼやこのジョルジュ・サンクも見るところは並木大通り。というか、いま歩いてきたこの界隈はいくつものアヴニュが織り成すゾーンです。ジョルジュ・サンクというのは英語読みすればジョージ・ファイヴで、第一次大戦時の英国王だったジョージ5世のこと(通常、英語では序数のfifthを用いますが、フランス語のラフな文体では基数で表現)。アルマ通りと呼んでいたこの道に隣国の現役君主の名を冠したのは1918年7月14日だったとパリ市の道路情報検索のページにあります(このページはけっこう便利で、歩いて見ようシリーズを執筆する際にはちょいちょい世話になります)。この日付でピンと来ますかね。第一次大戦末期のフランス革命記念日。ドイツが総崩れするのは終盤も終盤の秋のことなので、この時期はまだ帰趨が明らかになっていません。総力戦で消耗がつづく中、フランス共和国にとっていちばん大切な日をどのように過ごしたのでしょうか。英国の王様に向けて「最後まで一緒にがんばりましょう・・・」ということだったのかもしれません。なお、ジョージ5世の孫にあたるのが現在のエリザベス2世です。
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ブルガリとジバンシィ
ル・ルレ・ド・ラントルコートとメゾン・ド・ラ・トリュフ
冬のパリでおなじみの光景 エカイエさん(シェ・アンドレ)
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シャンゼリゼがショールーム的な傾向をもつのに対し、ジョルジュ・サンクは高級ブティックの路面店と高級ホテルが特徴的。「立ち並ぶ」というほどではなくて、そうしたお店がぽつぽつとあって、全体にエレガントな雰囲気をかもし出しているのです。道路が碁盤目状の縦横になっている町ならば、いったん横道にそれると四角形の3辺をたどって戻らなければならないのですが、前述のようにジョルジュ・サンク通りはシャンゼリゼに対して約60度傾いているわけだから、他の道路ともだいたいそんな感じで交差して、この地区は三角形の束みたいになっています。それならジョルジュ・サンクを直進するのでなく、ちょいちょい内側に入り込んで、三角形の2辺をたどって戻ればいいな。まずフランソワ・プルミエ通り(Rue François 1er)に入ります。高級ブティックがいくつか見えます。フランソワ・プルミエことフランソワ1世はカール5世とイタリア戦争で争ったヴァロワ朝の王。
クレマン・マロー通り
ジョルジュ・サンク通りを進むはずが、やはりというか、三角形状にぎざぎざ出入りする感じになりました。ピエール・シャロン通り(Rue Pierre Charron)でいったん戻り、今度はクレマン・マルロー通り(Rue Clément Marot)に入り込みました。店構えがというより客層がハイソな感じのカフェがあって賑わっています。お、メゾン・ド・ラ・トリュフ(Maison de la Truffe)がある。マドレーヌ広場の店舗に入ったことがあり、あちらが本店だと思っていたけど、いま同社のサイトを見るとここマルブフ通り(Rue Marbeuf)店のほうが前に書かれていますね。今日は日曜でお休み。フランスかぶれとかいわれるわりに、トリュフを積極的に食べようとか買おうという気分になったことは一度もありません。その向かい側のル・ルレ・ド・ラントルコート(Le “Relais de l’entrecote”)は市内のあちこちにあるステーキ店(ステック・フリット=フライドポテトつきステーキのコースのみという明快?な内容)。もう1つはシェ・アンドレ(Chez
André)で、日本のガイドブックなどにもしばしば登場するビストロ風のレストランです。ほほう、こんなところにあったのか。正午すぎなのにお客がいる様子はなく、店頭で前掛けエプロン姿のエカイエさん(écailler カキを剥く専門のスタッフ)が黙々と作業しているという、冬のパリでおなじみの情景がみられます。
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ジョルジュ・サンク通り
パリ・アメリカ大聖堂
ジョルジュ・サンク大通りの起点
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そしてまたまたジョルジュ・サンク通りに復帰。パリを代表する超高級ホテルのフォー・シーズンズ・ジョルジュ・サンク(Four Seasons George V)などが見えます。1泊€1200くらいします(汗)。この手のホテルに泊まる人がメトロや路線バスを利用するはずはなく、付近に駅がなくてもさほどに不便はありますまい。タクシーの運転手にいくらチップを出せばよいのかとか、小さなことを考えているあいだはそういうところの客にはなれないでしょうね。通りに面して、ずいぶんすっきりしたファサードをもつ教会がありました。パリ・アメリカ大聖堂(American Cathedral in Paris / Cathédrale américaine de Paris)で、米国聖公会の欧州における拠点のひとつ。同教会のサイトによれば、1886年の感謝祭の日に落成した建物とのことで、パリにおける英語話者の拠りどころという意味合いを強く含んでいる模様。
その先のジョルジュ・サンク通りにも、ひきつづき上等そうなブティックが並んでいますが、飲食店も増えてきました。なぜかシーフードを売りにしているところが目立っているような気がします。相場はやはり高め。別にヒヨるわけでも、海産物が嫌いなわけでもないのだけど、明日からしばらくブルターニュに行くことにしていて、そうなれば「本場」のシーフードを口にするだろうから、内陸のパリで無理に食べることもないかなと思っているのです。山の中の温泉旅館でもマグロの刺身をデフォルトで出してきたりするのが、どうも気に入らないのですが、それとは別に、魚料理が真に美味いのは水揚げしたところよりも東京や大阪だという考え方もあり、その感じで行けばパリこそ海鮮フレンチの本場といえなくはない。でも、エカイエさんが剥いたカキを生で食するのに料理の腕もワザもないような気がするんだよなあ。あるのかな?
ジョルジュ・サンク通りは全長730m、思った以上に距離があります。パリの住所表示はセーヌ川に近いほうから番地のノンブルを振りますので、私がいま歩いてきた行路はそれを遡る「上り」になります。ちなみに、セーヌ川を背にしたとき、道路の左側が1、3、5、7・・・と奇数番地、右側が2からはじまる偶数番地になります。ジョルジュ・サンク通り1番地および2番地はアルマ広場(Place de l’Alma)に面していて、セーヌ川のアルマ橋(Pont de l’Alma)のあるところです。アルマというのは、いま世界的な争点のひとつになっているクリミアの中心都市セヴァストポリ近くを流れる川の名で、1854年、オスマン・フランス・英国の連合軍がその地でロシア軍を撃破し、クリミア戦争の火蓋が切られたという場所。つまりはこれも戦勝地名ということです。
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*「歩いて見よう」の表現は、五百沢智也先生の名著『歩いて見よう東京』(岩波ジュニア新書、1994年、新版2004年)へのオマージュを込めて採用しています
*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=138円くらいでした
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PART2へつづく
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