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5 グルネル通り <3>

 

 


 
食料品・飲食店街になっているクレル通り Fromagerieはチーズ屋さん

 

いま歩いているところはパリ7区。たびたび紹介されるように、パリの区割りは「かたつむり」構造をもっていて、前日歩いたルーヴルとかコンコルド広場のあたりが中心の1区、そこから右回りの渦を巻くように20区まであります。私が滞在しているカルチェ・ラタンは5区、その西隣のリュクサンブール公園やサン・ジェルマン・デ・プレ地区が6区、ここはそのもう1つ西側ということになります。

7区の住宅街を貫通するグルネル通りを歩いていると、これと直交する商店街らしき通りに出会いました。クレル通りRue Cler)というらしい。うすぼんやりした記憶ながら、以前ここに来たような気がするな〜。13時近くになっているのでそろそろランチの手配ということもあり、偵察を兼ねてこの道を歩いてみよう。商店がぽつぽつとあるのではなく、道の両側を埋めていて、いわゆる商店街そのものですね。レストランやカフェ、持ち帰り惣菜店、食品スーパー、八百屋さんに果物屋さん、そしてフランスらしくチーズ屋さんなどいろいろです。こういう生活のにおいがするところは好きなんですよね。ホテルも何軒か見えました。パリのホテルって、よほど上等なところを別にすれば案外と変哲もないような住宅街にあったりするので、予約した宿がどんな地区なのかによって町そのものの印象が変わってくるような気がします。シャンゼリゼとかノートルダムとかエッフェル塔のような観光スポットを中心に計画していたら、実は人々の生活の現場に舞い込み、そのほうがおもしろかったというような声はよく聞きますよ。





 

ただ、飲食店をいくつかのぞいてみるのだけどピンと来ません。そもそもカジュアル・レストランとかカフェのメニューってどことも似たようなもので、舌代の字面だけでは味までは判断できない。昼食の場合、日替わり料理(plat du jour)のユニークさかフォルミュル(formule 前菜+主菜または主菜+デザートの2品セット)を設定してくれているかというのが私の基準ではあります。1軒だけよさそうな店があったのだけど、そこは大混雑でちゃんとした席がない様子でした。

仕方ない、少し先に進むかというので賑わう商店街を出て、グルネル通りを再び西に歩きはじめてすぐ、その名もCafé Grenelleという店があった。間口が狭く、パリのカフェというよりドイツのカフェみたいな内装が見えますが、黒板に3種類の日替わりが書き込まれています。よしここだ。30代前半くらいのイケメンのムッシュが出てきて、窓際のいい席(グルネル通りを眺め放題の席)を充ててくれました。日替わりにはダブルチーズバーガーというのもあったけど、鶏肉のバスク風(poulet basquaise)なるものが€12で、何やらおもしろそうです。フランス料理では地名を形容詞形で冠して○○風というのをよく見かけますけれど、知識が乏しいとどんな味つけなのかわからんというリスク、ではなくておもしろさがあります。東京で生活しているかぎりバスク地方のことなんてまず考えたことないからな〜。ムッシュは「店内の黒板をごらんください、あと€3プラスすれば前菜つきのムニュ(menu コースメニューのこと)にできますよ」と教えてくれますが、「いえランチなので主菜だけでいいです」。

すぐグルネル通りのテラス席に若い女性2人づれが腰掛けてコーヒーを飲みはじめ、つまりガラス1枚隔ててすぐ外側なので変な感じがしますが、これもパリらしい。こんな狭い道の狭い歩道にもがんばってテラス席を張り出すのがパリの飲食店だし、こんな冬でも外で飲むわというのがパリジェンヌ。運ばれた料理はトマト、パプリカ、タマネギなどと煮込まれた腿肉でした。バターライスがごそっと盛られています。マスタードはいかがですかというのでそれもいただきます。うん、バスクを感じるかどうかは別にして美味い。フランスでは骨つき腿肉が普通に出てくるので、ナイフとフォークでどう解体するのが正解なのかいつも迷いますが、皿を下げにきたムッシュがBon travail!(いい仕事ですね〜!)といってくれたので、まあ健闘したのでしょうか。グラスの赤ワイン€4、食後のカフェ€2.30を乗せて込み込み€18.30の、なかなかよい昼食でした。すぐそばの立ち飲みカウンターでは、30代くらいの恰幅のいい男性がお通しのカワキモノをアテにビールをお代わりしながらタブロイド紙を読んでいます。そのうち気分が変わったのか最初からそのつもりだったのか、壁際のテーブルに移ってダブルチーズバーガーの食事をはじめ、デキャンタの赤ワインをがぶがぶ。顔に出ないのでうらやましいが、しかし昼間からよく飲むね。今度は日本人の若い女性3人が入ってきて食事をはじめました。ちょっと聞いたら「観光です」ということでしたが、1人は流暢なフランス語でムッシュとやりとりしていたので留学生の方だったのでしょうか。





前日とは違ってちゃんと食事もできたので上々。ここ数年、2月のパリでは寒い寒いといっていたのだけれど、今回は東京よりも温暖です(そのぶん東京が雪に見舞われるなどオカシかった)。

さあグルネル通りもあと少し――ちょっとずつ表情を変えながら左岸のいろいろな景観を楽しませてくれる、いい通りですね。

 



(上)ボスケ通り (下)グルネル通りとボスケ通りの交差点(手前がグルネル通り西方面)

 

 

カフェ・グルネルから2ブロックのところで大きな道路と交差しました。ボスケ通り(Avenue Bosquet)です。ずいぶん立派な道だなと思ったので、いま手許の地図で見てみたら、セーヌ川のアルマ橋(Pont de l’Alma 1997年にダイアナ妃が事故で亡くなった現場)につながる通りでした。左岸もこのへんまで来ると、町と道路の構造があまり頭に入っていないので、脳内のナヴィゲーションがあまり機能しません。5区、6区ならば地図座標の中に自分の位置が自動的にマップされるほどの高精度なんですけどね。それと、セーヌ川が急に向きを変えて南に流れ下るようになる関係で、6区と7区では町の構造が斜め45度くらいズレているのも、感覚が狂う原因でしょう。グルネル通りにかぎっていえば、どこに到達するのかを知っていますので、迷うということではありません。

このあとも、商店街とまではいえないけれど日本料理店やピザ屋さんなどもあって、人通りもそれなりにあります。グルネル通りは長い道ですけれど、自動車道としての値打ちがありそうなのはアンヴァリッドの東側(韓国大使館のあたり)くらいで、あとは並行する道路のほうが使い勝手がいいのではないでしょうか。全体に「自動車なんてものが出てくる前からある道」の印象です。



ブルドネ通りとの交点 ここがグルネル通りの「終点」

 

そんなグルネル通りは、ブルドネ通りAvenue de la Bourdonnais)との交差点で突然終わりを迎えました。迎えましたって完了形で書くのはこちらの勝手な都合なのですが、1番地から歩いてくるとそんな気分になります。最後は217 /218番地です。


西の起点から見たグルネル通り



ベルグラード通り

 


実はこの先にも道は伸びていて、「グルネル通り」がここで終了というのは固有名詞上の問題でしかないようです。ブルドネ通りとの交差点を過ぎたところから、ベルグラード通り(Rue de Belgrade)という名に変わっていました。事前にぼんやりと1枚ものの地図を眺めていた段階ではそのことに気づかず、実際に歩いてきてそれがわかりました。ただ、ベルグラード通りは正味100mもありません。ブルドネ通りと公園をつなぐアプローチ兼駐車場みたいな感じです。



陸軍士官学校(その背後にモンパルナス・タワー)

 

こうしてたどり着いた実質的な終点が、シャン・ド・マルスParc du Champs de Mars)。シャンは原とか園を意味します(シャンゼリゼは「エリゼの原」)。マルスは英語のマーズで、ローマ神話における軍神。火星の名にも冠されていますね。この勇ましい名をもつ「園」は、バスチーユ襲撃から満1周年を記念して1790714日に連盟祭(Fête de la Fédération)が開催された場所です。革命関連では、17946月にロベスピエールが主張する「最高存在」(l’Être suprême)を祀る謎の祭典もここで催されました。カトリックが絶対王政と組んで社会をおかしくしたのだという前提で、信仰すべきは理性raison)だという発想にもとづくものでした。そんなアホなというかもしれないけれど、近代という時代をある意味で象徴する行為というか発想ではあります。結局フランスの民衆はロベスピエールを見離し、彼はほどなく断頭台に送られ、カトリックの信仰が復活して精神的な安定を取り戻すわけですが、19世紀に入って産業革命が進展すると科学(science)の拠りどころとしての理性はむしろ高められていきます。サイエンスがサイエンスとしてのみ存在するあいだはよい。でも、それが産業(industrie)とか技術(technologie)と結びつくとき、社会構造や人々のメンタリティまでも大きく変えていく――今日あるようなものに――ことになりました。

 




チケット売り場に並ぶ行列
向こうに見える曲線的な建物は1937年万博の会場として建てられたシャイヨー宮です

 

広大な公共広場であるシャン・ド・マルスは19世紀後半にたびたび万国博覧会(Exposition universelle)の会場となりました。戦後日本で開かれたものも含めて、万博というのはそもそも科学+技術でその国家の強さを誇示するというのが基本的なコンセプトになっています。「世界との友好」というのは、「こんなにすごいわが国にみんな集まってくるんだ」という上から目線が前提になっているのだけど、いまなおそういう思想的な文脈がわからん市民が多いね。1867(慶応3)年のパリ万博には日本(江戸幕府と薩摩藩)が初めて出展しています。そして革命100周年にあたる1889年の万博に際して、理性→科学・技術の象徴としてこのシャン・ド・マルス会場に「特設」された物件こそ、エッフェル塔Tour Eiffel)にほかなりません。「特設」なので20年で撤去されることが予定されていましたが、もろもろの推移で存続が決まり、いまもパリというかフランスそのもののシンボルになっていることはご承知のとおり。

そんな理性の結晶を、私は嫌いではなくて、むしろとても好きでいます。パリ滞在中は(展望台に登ることはほとんどないけど)必ずここにやってきます。近代とか近代社会が好きなのかといわれると、それ以外の時代相を知らないのだから嫌いではないし、大いに愛着はあるけれど、でもその近代こそがあらゆるプロブレムの構造的根源なのだという、文系の学問では当たり前すぎる前提に私は立っています(このところ「自分の国とか時代を批判するなんてまぢありえない」とかいいやがる反知性的な大学生が増えすぎて困るね)。エッフェル塔の美しさと、それが背負っている近代性には、やっぱり愛憎半ばするところがありますね。

単に固有名詞の問題なのだけど、グルネル通りがシャン・ド・マルスまであと一歩のところで終わっているのは、やっぱり惜しいな〜。

 

 

6へつづく

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。