西欧あちらこちら にもどる

1 サン・トノレ通り <1>


RERシャトレ・レ・アル駅ただいま大改良工事中!
メトロとRERの路線が集中しベテランでも迷うという伝説的な構造はどうなる?


サン・トノレ通り 東の起点

西欧の都市では大小すべての道に固有名詞があるということはよく知られています。住所は「○○通り×番地」というふうに表すんですね。「背骨」的な大通り以外はアバラや小骨なので長くないのだけれど、たまに「地味に長いなこの道〜」というのがあります。今回は右岸と左岸の「地味に長い道」をひたすら歩いて、見ます。といっても、紹介する2本の道路はいずれもショッピングゾーンとしてしばしば日本のガイドブックなどに紹介されており、それゆえにかえって気乗りせず足を向けなかったというところでもあります。過去2回の本シリーズで、ただべたべた歩くだけでもいろいろな発見があることが体感的にわかってきており、今回はついに「歩いて見よう」用に歩いて見ることになりました。ではよろしく。

 リヴォリ通り

2014223日は日曜日。日曜のショッピングゾーンといえばお店が閉まっていてがらんとしているのは先刻承知なのですが、それはそれでおもしろいのではないか。ターゲットは右岸のサン・トノレ通りRue Saint-Honoré)です。シテ島からセーヌ川を右岸側に渡ったところに若者の繁華街シャトレ(Châtelet)がありますが、その付近からリヴォリ通り、シャンゼリゼ通りという東西幹線(いずれもショッピング街道として有名)の1筋北側を並行して走ります。リヴォリ通り(Rue de Rivoli)は日本での知名度こそ低いものの若い人には楽しめるところですよ、という話は1年前の歩いて見ようで紹介しました。




通りの名を冠した商店たち

サン・トノレの名は6世紀の聖人「アミアンの聖オノレ」(Honoré d’Amiens)に由来します。通りのほうは、その原型は中世には成立していたようですが、東西をむすぶいくつかの道路片に分かれていたところ、19世紀半ばにセーヌ県知事オスマンがパリを再開発した折にぶち抜きの道路として名称ごとつなげたということのようです。パリの各地区を知ろうとするといつでもオスマンの都市計画の話に行き当たりますね。シャトレ地区はレ・アル(Les Halles パリの中央市場)を中心として再開発され、そこを東の起点にしたのでした。パリの番地表示は、セーヌ川と並行する道路では上流(東)側からナンバリングされていき、左(南)側が奇数番、右(北)側が偶数番になります。でも、サン・トノレは歴史的経緯から33番地がトップナンバーになっています。

シャトレ地区に長くあったレ・アルは郊外に移転、1980年代には総合ショッピングセンターのフォーラム・デ・アルForum des Halles)に生まれ変わりました。中に入ればどう見ても4階建てなのだけど地上に立てば平屋造り、つまりは吹き抜けを生かした地下構造になっているという、なかなかハイセンスな建物でした。RER(高速郊外鉄道網)の3路線が集まる拠点駅でもあります。私はけっこう好きで、滞在中に1度は足を運ぶのですが(とくに総合メディアショップのフナック FNACで本を買うことが多い)、いま2016年の完全リニューアルに向けてRERステーションともども大工事の真っ最中。営業中ではあるものの覆いがかけられてせっかくの採光構造が無になっています。早く完成してほしい。

 

シャトレ付近のサン・トノレ通りは実に地味。ホテルとか飲食店はあるものの、明らかに「裏通り」です。それはそうで、すぐ南側にリヴォリ通りがあり、ファストファッションや各種路面店はそちらに集中していますからね。この付近のショッピング・ストリートとしては、フォーラムの北側にあるエチエンヌ・マルセル通り(Rue Etienne Marcel)も「おとなのカジュアル」的なもので有名。

考えてみれば私もリヴォリ通りばかり歩いていてこのあたりのサン・トノレは初めてのような気がします。オラトワール・デュ・ルーヴル教会(Temple Protestant de l’Oratoire du Louvre)というのにも初めて気づきました。パリでは少数派の、プロテスタントの寺院のようです。

 
(左)コンドームの自販機はけっこう唐突なところにある (右)「よい子たち通り」?

店舗やアパートでなく「ビル」っぽいものが増えてきました。パリは、というか西欧の都市では商業地とビジネス地区と住宅街の境界線というのが案外あいまいで、ここはトップナンバーのパリ1区なのだけど「何の地区」といわれると、さて何といえばいいのだろう。


カフェ・サン・トノレという名のカフェ


1789
年のフランス革命のときは、この付近が常に「現場」になりました。パリ市域というのは現在よりずっと狭く、右岸のこの付近は市民がかなり密集して住んでいたようです。彼らはしばし決起して政治情勢を突き動かしました。いわゆるヴェルサイユ行進でパリに戻された国王一家は、このすぐ西側にあったチュイルリー宮殿に住まいました。彼らそれぞれの悲劇に見舞われるまでは。

 
(左)方形広場をはさんで、奥がルーヴル美術館、その手前がリヴォリ通り
(右)メトロ1号線のルーヴル駅はただいま閉鎖中(路線マークに×印)


コンセイユ・デタ

と、左(南)側の建物が途切れて、方形の広場が姿を現しました。バスや乗用車が盛んに行き交うリヴォリ通りがすぐそこに見えています。リヴォリ通りに面してつらなっている建物はおなじみルーヴル美術館Musée du Louvre)。今日は日曜だからお客さんいっぱいいるでしょうね。ルーヴル周辺には、観光客ねらいが見え見えのお土産屋さんや飲食店、両替店などが並んでいます。この広場の地下に、メトロ1号線および7号線のパレ・ロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーヴル(Palais Royal Musée du Louvre)駅があり、いうまでもなく美術館への下車駅になっています。ただ1号線の同駅はただいま改装工事中のため閉鎖されています。駅まるごと閉鎖して工事というのはパリではめずらしくなく、いつもどこかで必ずやっています。都心の主要駅でもかまわずやるあたりがすごいけど。ま、手前(シャトレ側)のルーヴル・リヴォリ(Louvre Rivoli)駅で降りて歩いても、3分くらいしか変わらないと思う。


リヴォリ通り側(左の写真の反対側)から広場を見たところ


広場に面してコンセイユ・デタConseil d’État)の堂々たる建物があります。国務院と訳すこともありますが、似た概念の組織が日本にはないのでなかなか難しいところ。英語でいえばCouncil of Stateで、政府のアドヴァイザリー機関であると同時に、行政訴訟系列における終審裁判所の役割も果たします。フランスの研究をしていると、しばしばコンセイユ・デタの判断がうんぬんという文字に出会うことになります。

 

サン・トノレ通り探訪の途中ですが、少しだけ寄り道しましょう。リヴォリ通りに面した壁には「穴」が開いていて、歩行者だけでなく自動車も中庭に入り込めるようになっています。ここを通るバス路線もいくつかあります。ルーヴル美術館は空から見ればコの字の横棒を2本ともぐい〜んと引っ張ったような形状をしています。いま通り抜けた北側の「横棒」がリシュリュー翼(Aile Richelieu)と呼ばれる部分で、イチゲンの観光客にとってはいちばん縁遠いところかもしれません。中庭には大きなガラスのピラミッドがあります。ミッテラン大統領の肝いりで1980年代にルーヴルの大改造がおこなわれ、ピラミッドはその折に造られました。古いコレクションを展示するミュゼにふさわしくないという声もあったようだけど、すっかり定着しました。私なんかも、ルーヴルといえばまずこのピラミッドです。この中にエントランス(と手荷物検査)があり、地下1階に降りてチケットを購入という段取りになります。

観光客が大勢いるのは予想どおりでしたが、彼らをねらって、エッフェル塔のおもちゃをぶら下げたアフリカ系の兄ちゃんたちが数名うろうろしていたのは意外でした。そういえば当のエッフェル塔直下から最近この兄ちゃんたちの姿が消えたなあと思っていたところでした。警察のチェックが厳しくなったのでシマを替えたのかもしれません。「ワンニューロ!(€1)」という声は相変わらず。

 
(左)パレ・ロワイヤルの回廊 (右)コメディ・フランセーズ


アンドレ・マルロー広場からオペラ通り越しに見たオペラ・ガルニエ(突き当たり三角形の建物)

あとから思えば、観光色が強いこの付近でサンドイッチのひとつも買っておけばよかったかもしれない。サン・トノレ通りに戻って散策をつづけましょう。

ルーヴルの壁を再び抜け、リヴォリ通りの信号を渡り、サン・トノレに戻ってきたところがアンドレ・マルロー広場(Place André Malraux)。広場に面して、コメディ・フランセーズComédie Française)が見えます。長くフランスを専攻していながらそちら方面にはまったく明るくないのですが、演劇の世界では古典劇の王道ともいうべき劇団とその拠点劇場(モリエールの流れです)。ルイ14世のころ王立劇団として創立されました。コメディの建物が広場側にはみ出すようになっていて、その背後にパレ・ロワイヤルPalais Royal)の回廊があります。直訳すれば「王宮」なのだけど、実際にはルイ14世がちょこっと住んだだけで放棄され、太陽王はヴェルサイユに移ってしまいました。その後オルレアン公の居館となったものの、借金がかさんだとかで本館(これが現在のコンセイユ・デタ)に隣接して回廊的な建物をつくり、そこにさまざまな店舗を入居させてテナント料を稼ぐ作戦に出ました。アンシャン・レジーム期にはかなりただれた雰囲気だったと、革命史関係の本を読むと書いてあります。デムーランがそのへんのカフェでAux armes! (武器を取れ!)と叫んで民衆をアジったのはバスチーユ襲撃の2日前、1789712日のことでした。いまも回廊部分には飲食店とかブティックが入っていますが、工事中らしく、残念ながら賑わいはありませんでした。

アンドレ・マルロー広場から北に向かうオペラ通りAvenue de l’Opéra)は右岸のメインストリートの1つ。リヴォリ通りに対しては45度くらいの角度のため、地理オンチの人は方向感覚が狂うかもしれません。正面にオペラ・ガルニエOpéra Garnier わかりいやすくいうと「オペラ座」)が見えます。見れば近そうなのですが歩くと15分以上かかると思います。この界隈には、ANAJALJCB、ヤマト運輸、そして各種日本料理店や日本食材店などが点在し、ジャパニーズ濃度の高い地区になっています。



ジャポン関係の飲食店多し
サッポロラーメンの看板の店は日本のカジュアルメニュー何でもあってわりと有名

正直なところ、この界隈というのはほとんど来たことがありません。このへんに来てもオペラ通りに曲がってしまうのと、まああんまり用事がない(笑)。ルーヴル美術館とコンコルド広場のあいだにはチュイルリー公園Jardin des Tuileries)があり、その一隅にはモネの「睡蓮」をダイナミックに魅せるオランジュリー美術館があります。モンブランとガチで濃いココアで有名なアンジェリーナ(Angélina)はチュイルリー公園そばのリヴォリ通り沿いにあります。

サン・トノレ通りはまだまだつづくよ。うなぎの名店、野田岩もこの通りにありますが日曜はお休み(日本で食べても高いのでパリではちょっと 笑)。その先にサン・ロック教会Église Saint Roch)が見えました。サン・トノレが狭いので窮屈な印象が否めません。ファサードからつづく手前の礼拝堂はマンサールの手になるすばらしいものなのですが。

 サン・ロック教会のファサード

 


*「歩いてよう」の表現は、五百沢智也先生の名著『歩いて見よう東京』(岩波ジュニア新書、1994年、新版2004年)へのオマージュを込めて採用しています
*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=140円くらいでした

2へつづく

 

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