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3 シャトレ→バスチーユ

 


サントル・ポンピドゥー ポンピドゥー広場側


シャトレで昼ごはん食べたあと町歩きを再開。フォーラムの東側を南北に走る広い道路がセバストポル通り(Boulevard Sébastpol)。左岸におけるサン・ミッシェル通りがシテ島を経て右岸に来るとこの名になります。このまま北に進むと突き当たりは国鉄のパリ東駅(Gare de l’Est)です。通りを渡って少し行くと、前衛的(ていうか意味不明)な外観のサントル・ポンピドゥーCentre Pompidou)が目に入ります。20世紀美術を多数集めた国立近代美術館(Musée national d’art moderne)の入る総合文化施設です。ポンピドゥーは文化政策を推進した大統領の名。

 ルナール通り側

 

 


 

サントル・ポンピドゥーの北面の通りをそのまま東へ進むと、フラン・ブルジョワ通りRue des Francs Bourgeois)になります。何ということもない狭い道路ですが、このあたり一帯(マレ地区 le Marais)の中心であり、かつての貴族の館を活用した美術館やブティックの多いところとして女性観光客に人気の高い通りです。

フラン・ブルジョワ通りに入ってすぐ国立文書館Archives nationales)の堅牢な石造りの門が見えます。ポスターのAux Archives, citoyens!というフレーズはフランス国歌ラ・マルセイエーズのサビAux arms, citoyen!(武器を取れ市民たちよ!)のもじり。公文書を学んで理論武装しなさい市民たちよ!

 

 


今回パリに来てから、ここでいちばん多くの日本人を見ました(オルセー美術館よりも多かったと思う)。そのほとんどすべてが連れ立って歩く女性で、どこかのショップの紙袋を提げた人たち。女性向けの雑誌やガイドブックには「マレ地区で愉しいお買い物」というのがほぼ漏れなく載っていて、いまどきあえてパリに行こうと考える人ならぜひ行きたいと思うものね。冷やかしているのではなくて、ちょっと安心しているのです。10年くらい前まで、パリのいたるところに日本人の「買い物客」があきれるほどいたのに、景気の暗転、円安の進行などに伴ってかなり減っていたからです。そのぶんというか、それ以上に中国人とロシア人が目立つようになりました。

 

 


フラン・ブルジョワ通りの終点ちかくにヴォージュ広場Place des Vosges)があります。パリにはめずらしい正方形の広場で、周囲360度をレンガ造りの建物が囲んでいて貴族街のシンボル的な広場になっているのです。で、なぜ貴族街なのかというと、ユグノー戦争を生き抜いてブルボン朝を打ち立てたかつてのナヴァル王アンリことアンリ4世(在位15891610年)がこの地区に拠点を設け、貴族たちが追従したため。当時のパリの中心はシテ島からルーヴルにかけての地区だったのですが(今もそうです)、商人や聖職者などが力をもつパリ市政と物理的にも心理的にも距離を置いて権力を確立しようとしたのではないかと思います。北部フランスからやってきたイングランドのノルマン朝がロンドンのシティを避けてウェストミンスターに拠点を置いたのと似た事情だったのではないか。

 


ロジエ通り 「ロジエ」はバラのこと

 
イスラエルは生きる! イスラエルは勝利する!とのアジテートも


いったんサン・タントワーヌ通り(Rue Saint Antoine さきほどのリヴォリ通りのつづき)に出て西方向に折り返し、今度はリヴォリ通りとフラン・ブルジョワ通りのちょうど中間を東西に走るロジエ通りRue des Rosiers)にやってきました。

 

 

マレはその後、シナゴーグがあったりする関係でユダヤ人の集住する地区になりました。西欧におけるユダヤ人の歴史をたどるのは日本人にとっては非常に困難な作業ではあります。フランスは第二次大戦でナチス・ドイツに屈服しパリも占領下に置かれましたので、その間はお決まりの迫害、強制収容、そして・・・という耐えがたい経験をしなくてはなりませんでした。戦後は第三世界などからのユダヤ人流入もあってこの地区は再び活気を取り戻しました。
(清岡智比古『エキゾチック・パリ案内』、平凡社新書、2012年 第I章を参照)

いまは観光客も多く、賑わっています。ファラフェル(ひよこ豆でつくった球形のコロッケ)などユダヤ・イディッシュの料理を出す店が多数。

 

 


マレをぐるぐる歩いてぼちぼち疲れました。南北方向のヴィエイユ・デュ・タンプル通り(Rue Vieille du Temple)にパリらしからぬ金属質な内装のカフェがあったのでおじゃましました。ゲーセンの休憩スペースみたいな造りだなあ。ステラ・アルトワ(Stella Artois ベルギーの有力ラガービールのブランド)のドゥミで€4。すこしだけ読書のつづきを。そういえば、パレスティナ問題のなかなかよさそうな新書を買ったので旅のお伴に持ち出そうと思ったのですが、日本語を読めなくても地図や写真をのぞき込まれたりしたら政治的ないちゃもんをつけられるかもしれず、用心して東京に置いてきました。下手なフランス語とか英語で中東情勢を語るのはきわめて危険! ましてマレ地区でなんてね。とかいうのは用心しすぎですか?

 

 リヴォリ通り

 
社会党支部 同性婚(みんなのための結婚法)にウィ(イエス)を!


燃料チャージが完了したので再起動します。何度目かのリヴォリ通りに出てきました。マレ地区に入ってからの動きは、大ざっぱにいうと、東西方向に行ったり来たりしながら塗りつぶしていく感じです。シャトレ以西のリヴォリ通りは前述したようにファストファッションなどの都心的なショップが多いですけど、シャトレ〜バスチーユ間はパン屋さん、惣菜屋さん、花屋さんなど商店街的なものが多い。東西方向の幹線道路なので交通量はかなり多いです。

リヴォリ通りの一筋南に入ってみたら、見覚えのあるレストランがありました。9年前の同じ季節に、日本人の友人とここでカモ料理を食べたのです。マレで晩ごはん食べたのはそれ1回きりなのですが、記憶違いとか経営が代わったということもあるでしょうから(パリは飲食店の「居抜き」がけっこう多い)、店名とか写真は控えます。その夜から何となく体調がおかしくなり、翌朝には北駅から高速特急タリスでベルギーのアントウェルペン(アントワープ)に行ったのだけど、お腹をこわしまして大変なことになり、ベルギービールどころかほとんど何も食べられずに初ベルギーの2泊を過ごしたのでした。「フランダースの犬」のネロ少年がはかなくも息絶えたあの教会が見える上等なホテルに泊まったのに、トイレの記憶しかない(涙)。友人にあとで聞いたら何もなかったそうだから、カモのせいではなくて当方の健康管理の問題だったのでしょう。――ていう思い出を振り返っていたら、この散策の夜、似た状況になってきまして、微熱が出たのか寒気もしはじめました。風邪を引いたらしい。しかも翌日から別の国に転戦、というのも同じパターンで・・・

旅先での体調管理には十分に気をつけたいですね。

 




リヴォリ通りと並行するサン・タントワーヌ通りを東へ進みます。両道路はメトロ1号線サン・ポール(Saint Paul)駅付近で左の写真のように微妙な歩道をはさんで接近し、この少し先で合流します。西欧の都市の中には車道と歩道の境目が不明瞭で、びっくりするようなコースを車両が走ることがあるのですが、パリはわりに明瞭ですから、このような場所はめずらしい。中州部分(ベンチのあるところ)にはユダヤ人広場の別称もあるそうです(前掲『エキゾチック・パリ案内』)。

メトロ1号線はリヴォリ通りの下を東西方向に走ります。西郊の新都心ラ・デファンスからシャルル・ド・ゴール-エトワール(凱旋門)、シャンゼリゼ、コンコルド広場、ルーヴル、シャトレとパリの枢要部を通り抜け、この先はバスチーユ、国鉄リヨン駅を通ってヴァンセンヌの森にいたります。札幌と同様のゴムタイヤ式、ホームドア、ドアの強制開閉(普通の路線は手動で開ける)、次の駅名の自動アナウンスなど、この路線(と14号線)はきわめて特殊。メトロもバスもヴェリブもあるのに、私はまだ歩きます。

 


(上)バスチーユの七月革命記念柱 (下)オペラ・バスチーユ




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つの道路が合流した先は、見た目の本支線とは逆にサン・タントワーヌ通りとなります(さきほどヴォージュ広場からいったん出てきたのもこのへん)。第二帝政期のオスマンのパリ大改造で、もとからあったサン・タントワーヌ通りにリヴォリ通りを接続させたのでした。そんぽまま進むと、青銅色のモニュメントが正面に見えてきます。あれは1830年の七月革命(反動的な政治をおこなったブルボン復古王政のシャルル10世が倒され、ルイ・フィリップの七月王政が成立した革命。ルーヴルに所蔵されているドラクロワの「民衆を導く自由の女神」はこの事件をモチーフにしている)の記念柱です。あまりに劇的で激しい展開が多かった近代のフランスにおいて、七月革命というのはこういっては何ですがいまいち地味というか、成果がよくわからん出来事ではあります。実はこの記念柱が建っている場所はバスチーユ広場Place de la Bastille)。もはや何らのモニュメントも残されていませんが、この場所こそフランス革命の発端となったモニュメンタルな広場なのです。1789714日、ここにあった監獄をパリの民衆が襲撃し、大革命の火蓋が切られました。

現在のバスチーユ広場は、いったい何本の道路が入り込んでいるのか数えるのも面倒なほど複雑な形になっています。信号機を用いずにあらゆる方向へ進む車両をさばけるこうした円形広場は日本ではほとんど見られません。私は免許をもっていないのでわからないのですが、日本での運転に慣れた人は、この手の輪っかに入るのも出るのもタイミングをつかめずにぐるぐる回ってしまうとか。ここから北に向かうリシャール・ルノワール通り(Boulevard Richard Lenoir)は上下線のあいだに広めのグリーンベルトがあり、その地下には水路のトンネルが掘られています。ここをカノラマという遊覧船で通り抜けてバスチーユに上陸したのは1年半前のことでした。広場に面した円形の建物はオペラ・バスチーユ(Opéra Bastille)。オペラ・ガルニエ(いわゆるオペラ座)に代わるオペラ上演の拠点として造られました。

4へつづく

 

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