Vers la région nordique ou l’Europe du Nord!: le Danemark et la Suède

PART2

 



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こうなってしまった上は、コペンハーゲンおよびデンマークは潔くあきらめて他日を期するというのもアリかな。でも、航空券と宿泊までセットしたのにただ「来て、寝た」だけだというのはあまりに不本意です。1136分の列車に乗るには、余裕を見ても11時くらいまでに宿に戻ってくればよいので、コペンハーゲンの一部だけでも見ておこう。というので朝食をとっとと済ませました。朝食ビュッフェのラインナップはドイツ寄りですが、デンマークにいることだしデニッシュを1つ食べておこう。そのときはそう思ったのだけど、これを書きながらちょっと不安になってコピペソースの殿堂ウィキペディアを見てみたら、デンマークではウィーン発祥と考えられWienerbrødと呼ばれている由。フランスでも、バターと生地とを何百もの層に練り込んで焼いたパンをヴィエノワズリー(Viennoiserie ウィーン風という意味)と総称します(クロワッサンもそのひとつ)。卓上に、「お昼のためにビュッフェの食事をお持ち帰りになりませんか?」と、50 DKKのテイクアウト用バッグを勧めるお知らせ。私もホテルの朝食は好きだけど、それはホテルで朝に食べるからいいんであって、持ち出してまで昼に食べたくないなあ。でも欧州って、グルメで知られるフランス人を含めて、パン1個とか、バナナやリンゴなどの果物を持ち歩いてお昼にする人がことのほか多いんですよね。日本のお弁当文化を基準に考えると発想が狂います。

 
(左)コペンハーゲン・スター・ホテル 奥の三角屋根がコペンハーゲン中央駅  (右)朝食


レセプションにチェックアウト・リミットが正午だということを確認して表に出ました。先にチェックアウトして荷物を預けてもよいのですが、部屋を確保しておくほうが何かと都合がよいのも確かなので。まだ820分ですが持ち時間は3時間弱なので、都心方面に行って帰ってで終わりだろうな。ホテルは中央駅の「裏」なので、いったん駅構内に入って通り抜けます。通勤時間帯でもあり利用客であふれているね。ゆっくり見学する時間がないのが残念だけど、この駅はさほど大きいわけではなく、規模からすれば横浜駅の半分以下でしょうが、大きな1つのコンコースに機能が集約されていて利用しやすいように思います。

 
 
(左上)中央駅正面  (右上)チボリ公園  (左下)朝の自転車通勤  (右下)朝の自転車通勤を見守るセブンイレブン


その中央駅は市街地の西辺に位置します。ホテル街のある裏口から入って、表口に出てみれば、そこは都心につながるビジネス街――というのが博多駅とか広島駅とか名古屋駅とか札幌駅のパターンなのだけど、ここコペンハーゲンは、駅正面のまん前にチボリ公園Tivoli)という都市型遊園地があるので、都心方向に行くには公園を迂回しなければならないという不思議な構造。チボリ公園は1843年に開業、コペンハーゲン近代化の流れの中で、勃興しつつあった中間層の娯楽に資する目的で造られたといわれます。中世都市から発展したコペンハーゲンは、「水上都市」としての位置ゆえに攻撃への備えがきわめて厳重で、それが古い城塞を越えて町が拡張するのを阻みました。市民社会の到来に際してようやく外側に「新市街」が造られるようになり、チボリもそのエリアに造られています。19世紀半ばの市域拡張というのは欧州では非常にありふれた話ではあります。チボリ公園は、ガイドブックで見るかぎりだと、その昔の後楽園ゆうえんち(現在は大きくコンセプトを改め東京ドームシティアトラクションズに)みたいな感じなのかな。これもその昔のバブル末期に、岡山県倉敷にチボリ公園が誘致され、その時期その種の施設の常としてバブって閉園に追い込まれたことがあります。

チボリ公園の外縁に沿って1ブロック進むと市庁舎København Rådhus)が見えます。欧州諸都市にしばしばあるように、市役所そのものが歴史的モニュメントになっているという例。ほとんど狂いのない時計が自慢だと聞きました。この周辺は、朝の8時半なので自動車の交通量が多く、それ以上に自転車が途切れることなく走っていく眺めが壮観。オランダと並んで自転車の普及している国ですもんね。もとより専用レーンがしっかり確保されています。


市庁舎 竜の噴水は悪を退治するデンマークがモチーフになっている


コペンハーゲンの目抜き通りといえばストロイエStrøget)。市庁舎の前から東に伸びています。まあ朝っぱらなのでお店はほとんど開いておらず、重くて眠くてという朝の都心ならではのけだるさが否めません。通りの入口にコペンハーゲン・プライドの横断幕が掲げられています。811日スタートとあるので明日からじゃないですか。世界最大のLGBTの祭典で、盛大なパレードの様子などは何度か報道で見たことがありますが、この時期だとは知りませんでした。それもあって週末のホテル価格が高騰していたのかもしれませんね。例のパリからのSAS機でコペンハーゲンをめざした人の中にはこれを見よう(or 参加しよう)と思った人もいるに違いなく、余計にやきもきしただろうなあ。いずれにしても朝のうちはいたって静かで、外来の人たちがあふれるという想像はほとんどつきません。

 
 
(上)ストロイエ 入口付近にコペンハーゲン・プライドの横断幕がかかる
(左下)レゴ・ストア レゴはデンマーク発祥の世界ブランド  (右下)We Change €uroをうたう両替屋さん


今回は徒歩のみで回るためストロイエの半ばほどで停止します。この先、東側のほうには新市街とかいくつかの宮殿、そして少し離れたところに世界三大がっかり1つとして名高い?人魚姫の像(Den lille havfrue)があります。どんなものだかぜひがっかりしてみたかったなあ。ブリュッセルの小便小僧のほうは見たことがあり、要は「ちっちゃい」(ないしは「ちゃちい」)てことですよね。コペンハーゲンはまた、水路にとりまかれた水の都でもあります。いま歩いている地区が属するのはデンマーク最大の島であるシェラン島(Sjælland)で、カストラップ空港があるところはアマー島(Amager)。アマー島は、欧州大陸からみれば属島のさらに属島ということですけれど、シェラン島とのあいだは隅田川くらいのものでしかなく、普通に写真を見れば川にしか見えないことでしょう。コペンハーゲン市街は両岸にわたって広がっています。対岸アマー島のクリスチャンハウン(Christianshavn)地区あたりが本格的な水の都のテーストらしい。そのあたりにも行ってみたかったな。

かつての世界地図少年は、地図を眺めるうちいくつもの不思議な事実に気づくわけです。そのうちの1つが、デンマークは欧州大陸の国なのになぜわざわざ「島」に首都を置くのかということ。実際に、大陸に領土(植民地ではなく)を有していながら首都を島に置いている国は、世界広しといえどもデンマークの他には赤道ギニア共和国だけです。赤道ギニアは2ヵ所近接していた旧スペイン領を合同して独立した経緯があるわけですが、デンマークは古来、ユトランド半島を有していましたからね。社会科的な思考をめぐらせていくうちに、デンマークという国の成り立ちからしてシェラン島のコペンハーゲンが中心にならざるをえないのは何となくわかってきます。商業の海であるバルト海に、検問所のように立ちふさがるのがデンマーク、というかシェラン島。航行する船は、エーレスンド海峡(デンマーク語でØresund スウェーデン語でÖresund 英語ではthe Sound 子どものころの私はなぜか地図がドイツ語読みだったのでズンド海峡Sundと覚えていた)を抜けるほかなく、そこで通行税を徴収されたのでした。デンマークとスウェーデンは、いまでこそ運命共同体みたいな感じになっているけれど、歴史的にみれば仲の悪い時期が圧倒的に長く、スウェーデン側はこの出口を確保するためたびたび戦争を仕掛けています。陸路がなければ不便だよなと思ったのは現代人ないし子どもの不見識というやつで、ある時期までは水路・水運こそメインでした。町なかの水路というのは、同時にお城を護る濠(ほり)の役割をも果たします。ちなみに「ハムレット」の舞台になったクロンボー城はシェラン島の北岸、エーレスンド海峡がいちばん狭くなっているところに面しています。

 


目覚め前のストロイエには、思いつくかぎりのショップが並んでいて、まあこういっては何だけど欧州のどこにでもある商業地ではあります。両替屋さんは朝っぱらから営業していて、自動両替機もあちこちで見かけます。そんなに両替のニーズがあるならユーロに加入すればいいのに。――でもそこをあえて自国通貨にこだわるのがデンマーク。実は現在の欧州連合(EU)が発足する際の法的根拠となったマーストリヒト条約を、デンマークはいったん国民投票で否決しています。「統合」というのは、主権国家にとってはきわめて大事なものを手放すことにほかならず、ドイツやフランスはともかく小国デンマークにとってそれはアイデンティティの喪失以上のものかもしれないという恐れがあったのです。結局、条約の修正を受けてどうにか批准にもっていったわけですが、このデンマーク・ショックは当時の世界的ニュースでした。デンマークの大陸領土であるユトランド半島のうち、付け根の部分にあたるシュレスヴィヒ(デンマーク語Slesvig ドイツ語Schleswig)は、長くデンマークの宗主権のもとにありましたが、人口移動や産業化の影響などで言語を中心とするアイデンティティが分断され、そこを大国化しつつあったプロイセンにつけこまれて、数度の戦争の末に1866年、ついに奪われてしまいました(最終的にはオーストリアを巻き込み、あえて権利関係をぐじゃぐじゃにさせてドイツ統合から排除しようとするビスマルクの戦略に利用されました)。デンマークが北欧の覇者だった中世はともかく、時代が近代に入ると、ナポレオン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦など欧州規模の戦争が起きるたびに「どちらにつくか」を迫られ、他方から激しく攻撃を受けるという経験を繰り返してきました。最も近くでは、ヒトラーが対ソ防衛線をスカンディナヴィア半島の向こう側に設定しようとして、真っ先にデンマークを侵略し占領しています。抵抗するゆとりもまったく与えられませんでした。いまさら平和に統合しようよといわれても素直に応じかねるというのが、国民感情としては当然のところだったことでしょう。

アマトゥー広場(Amagertorv)のところで右折し1ブロック。さほど広くない人工の水路が掘ってあり、その向こうにクリスチャンスボー城Christiansborg Slot)の雄々しい姿が見えてきます。水路からの距離がほとんどなく、全体にどっしりとした造りのため威圧感すらあります。15世紀、古くからの要塞跡を王家が接収して城を建てたのに由来し、これが都市コペンハーゲンそのものの中核になりました。クリスチャンスボーという命名の由来は、いったん崩落した城塞を建てなおした18世紀の王クリスチャン6世(Christian VI)にあります。語尾のボー(-borg)というのは城郭のことで、英語のバーグ(-burg)、ドイツ語のブルク(-burg)、フランス語のブール(-bourg)、スウェーデン語のボリ(-borg)と同じ(スコットランドの首都エディンバラの語尾-burghもこの転訛)。ですから「城」をつけると本当は屋上屋とかトートロジーになります。

 クリスチャンスボー城
 
(左)城のすぐそばにあるニコライ教会  (右)「欧州の義父」クリスチャン9世(現王家の祖)の騎馬像


市内屈指の見どころとあって、朝から観光バスでやってきた団体客――その大半は欧州の主要都市どこにでも出現する中国人ご一行様――がカメラを手にお城を取り巻いています。天気がよくてすがすがしい気分。「史蹟」ではあるものの現役の施設で、現在ではデンマーク国民議会(Folketing ちなみに一院制です)、首相府、最高裁の三権がここに本拠を置いています。王家はというと、ここから1.5kmほど離れたアメリエンボー宮殿(Amalienborg Slot)に居住。現在の元首はマルグレーテ2世(Margrethe II)で、同国史上初の女王です。スマートで気品があり、威厳とかとは違う君主の風格を感じさせる方で、当然ながら国民の絶大な人気を誇ります。初の女王なのに2世を称するのは、王母・摂政として実質的な女王の座にあった14世紀のマルグレーテ1世に敬意を表したため。この人はデンマーク王の娘として生まれ、ノルウェー王に嫁ぎ、父王の死に際してデンマークおよびノルウェーの実権を掌握しました。幼い息子を王位に就けた上でのことですが、女性と幼児だから与しやすいと踏んだ貴族たちの思惑を逆に利用して、たぐいまれな政治力を発揮したのです。息子のオーロフ2世が若くして死んだのちも彼女の指導力を頼る声が高まったため、実質的な君主の座は揺るぎませんでした。ついにはスウェーデンとの最終決戦に勝利して、1397年、北欧の3国は同一の君主を戴く国家連合を成立させました(デンマーク王エーリク7世、ノルウェー王エイリーク3世、スウェーデン王エリク13世は同一人物)。世界史の教科書にも登場するカルマル同盟(英語The Kalmar Union / ラテン語Unio Calmariensis)です。デンマークは北欧の覇者になったわけね。この同盟は1世紀あまりつづきましたが、1523年にスウェーデンが戦争の末に独立を果たしました。この経緯についてはストックホルムのところで述べます。ノルウェーとの連合はかなり長くつづいて(実質的にはノルウェーが長く属国だった)、ナポレオン戦争の余波で引き離され、今度はノルウェーがスウェーデンの属国となります。ノルウェーが完全な主権国家となるのは1905年のこと。現在の国の枠組になってから、まだ100年くらいのものなのですね。(武田龍夫『物語 北欧の歴史』、中公新書、1993年ほかを参照)

 
(左)城内の錬馬場  (右)花の中庭


三権の府が集中しているというわりには、このお城はずいぶんコンパクトに思えます。広くない中庭を囲むようにいくつかの建物があります。その庭には錬馬場もあって、王宮だったときの名残をとどめています。いったん外側に出ると、また小さな中庭があって、あざやかな色の花が咲いていていい雰囲気。まだ9時半ですので散策する人もまばらです。ここに面して武器博物館(Tejhusmuseet)という実に興味深い施設もあるのに、何と正午オープンのため入館できません。入れたところで持ち時間を考えれば超高速の見学になってしまうことでしょう。中庭を抜けたところに、一転して超モダンな黒い建物が現れました。ああこれがデンマーク王立図書館Det Kongelige Bibliotek)ですね。何かの写真で見たことがあります。その外観からブラック・ダイアモンド(Den Sorte Diamant)の愛称があります。狭いながら交通量の多い道路をはさんで建てられていて、空中回廊でつながり、クリスチャンスボー宮殿側の古いどっしりとした建物とも接続しているようです。さすがに図書館は9時台ともなれば開いています。公共スペースのお手洗いを借りたら、4つ星ホテルにでも来たんじゃないかと思うほどきれいでした。お礼?に、0階にあるカフェでコーヒー飲んでいこう。エスプレッソではなく日本でいうところの「ブレンド」がいいな。ガラスポットの中に入っているのが見えるので、存在は確実。ただメニューがデンマーク語なので意味不明なのです。レジのおねえさんに英語で、ドリップド・コーヒーをくださいといってみました。そんな表現があるのかどうかは存じませんが、スタバでブレンド頼むときはドリップだし、でも過去分詞にするほうが正解かなとか。一発で伝わったらしく、ポットを指して「これ?」というので、それくださいで落着。30 DKKだったかな(失念)。テラス席は川・・・じゃなかったアマー島とのあいだの運河(Københavns Havnebade)に面して設けられ、眺めと気分がよさそうなのでいったん座ってみましたが、思いのほか日差しがまぶしすぎて断念。夏の北欧は斜めから強烈な日差しが射すといわれますね。室内もなかなか快適な空間だし、セルフのカフェなのにコーヒーが普通に美味い。あとで聞けばデンマーク人はかなりのコーヒー好きらしいです。紅茶好きの国民だからなのか、英国のブレンドコーヒーは美味かったためしがない(涙)。

 
 
「ブラック・ダイアモンド」王立図書館は現代的な施設


エスカレータで上階にあがり、回廊を通って古い建物のほうにも入ってみました。そちらはもうどっしりとした石造りで、年季が入っています。自習スペースのブースは若者たちでほぼ埋まっており、みな熱心に本を読んだりPCを叩いたりして、研究しています。物音ひとつしません。これこそ研究だと称して、図書館にもめったに行かず出先をうろうろ歩いて写真を撮るだけの研究者としては後ろめたい気持ちがないわけでもありません。そんな私も院生の修行時代はガリガリやりましたですよ。当時はまだPCもインターネットも十分には普及していなかったので、私なんかがアナログで学問修行を積んだ最後の世代ではないかと思う。パリ左岸にあった国立教育研究所(INRP いまは組織自体が改変され消滅)の、やはりクラシックな図書室で、1行ごとに辞書を引かなければ読めないような分厚いフランス語の本と格闘したことを思い出します。いまの学力と視野があれば、もっと効率的かつ生産的にいろいろな知的発見ができただろうにと思うのは早計で、若いころの(先の見えないような)めったやたらな格闘があったればこそ、それなりの見通しを得られたということでしょう。学問業界における昨今の成果主義(論文の本数でその人の能力を測る)も、高等教育政策における文系軽視(大学教育を即効的な意味のありそうな学問に集約せよとの発想)も、実際に文系の学問なんかしたことがないやつが言い出したのに違いない。

 
フレデリクスホルム運河の景観 建物ごとに外壁の色を変えるのがコペンハーゲンらしいところ


いつの間にか10時半が近くなったので、ホテルに戻る時間も考えればそろそろ潮時でしょう。わずか3時間なら、それこそ本でも読みながらお茶して時間をつぶせばいいところではありますが、好天にも恵まれ、せっかくやってきたコペンハーゲンの一隅だけでも見られてよかったです。王立図書館を含むクリスチャンスボー城は、一辺を運河に、残り三辺を狭い水路に囲まれた台形の敷地に建ちます。運河を直進する歩道がなさそうだったのと、風情がありそうなのとで、何となくそのうちの1つの水路(フレデリクスホルム運河 Frederiksholm Kanal)に沿って歩くことにしました。おお、両岸が散歩道として整備されており、繋留されている舟と、家々が暖色系の外壁をもつコペンハーゲンならではの眺めとがあいまって、首都の一角とは思えぬほど穏やかで美しい景観を描き出していますね。北欧のパリとかいわれるけれど、この界隈の雰囲気はベルギーやオランダで見たものに近いような気がする。プリンセンス橋(Prinsens Bro 「王子橋」の意味)という、めがね橋風の石橋がまたすばらしい。自動車の姿もなく、19世紀から景色が動いていないんじゃないかとすら思えます。素直に感動して、「はー」てな嘆息を自覚しながら欄干に歩み寄ってみると、同類の方とおぼしき観光客がやっぱりカメラを向けています。あれ、この人は――

すぐに目が合って、双方にっこりですよ。ちょうど2日前、パリのシャルル・ド・ゴール空港で欠航便の振り替え手続きを延々待たされていたとき、けっこう長い時間話し相手になってくれたニュージーランドの獣医先生でした。少し離れたところにいた奥さんもすぐに呼ばれ、まさかの再会となったわけです。お互い「コペンハーゲンに観光で行く」という話はしていたので不思議でもないのだけれど、それなりの広がりがある町で同時刻に同じ地点に来るというのはかなり難度の高いことではないですかね。私からすればわずか3時間の町歩きだったのでなおさら偶然をうれしく思えました。――またお会いできてとてもうれしいです。私は昨夜遅くにコペンハーゲンに着き、今日はこれからすぐに出発してスウェーデンに向かわなければなりません。「日程が短くなってしまったんですね(笑)。でもこのあたりは本当に美しい。すばらしい町ですコペンハーゲンは」 ――本当ですね。こちらにお着きになったのは? 「私たちも昨夜です。デュッセルドルフ(ドイツ)乗り継ぎでした」 ――私はルクセンブルクでした。お互いハードでしたね。「家内はバッグが1つ、なくなってしまいました。長いこと旅行をつづけているのですがこんなことは初めてです。でもあなた(古賀)が空港で、“C’est la vie”(フランス語の慣用句で「これが人生さ」)といっていましたよね。本当にそうだと思います」 ――(笑)そうですね。この先も、どうかよい旅を。「サンキュー、あなたも」。ほんと、欠航トラブルでも、なかなか愉快な思いを残してくれるものです。これが人生さ。

 何でもないような町並も、実に居心地がいい


プリンセンス橋の道路を南西に進めば、チボリ公園の南辺に出ます。最初に通ったのとは反対側をぐるりと迂回して、11時ちょっと前に中央駅に戻りました。初めての都市でこれほど時間計算どおりの町歩きというのもめずらしい。おっと、ホテルに行って荷物を請け出す前に、これから乗車する特急列車のチケットを発券しておきましょう。切符は、スウェーデン国鉄(SJ)のサイトに必要事項を入力して購入しました。すでにカード決済は終わっていますが、コレクト(collect 予約した切符の発券)に関して、購入確定メールにこうあります。
Collect your ticket from a SJ ticket machine. Tickets can also be collected, for a fee, from SJ Resebutik travel office, Pressbyrån or 7-Eleven outlets. The fee is payable on collection of the tickets.
いつものことなので何となく受け流していたのだけれど、ここはデンマーク国鉄の駅なのでSJチケット・マシーンがそうそうあるはずもなく、有料で発券するというトラベル・オフィスなるものも存在するものかどうか。Pressbyrånというのはスウェーデン語でスポークスマンの意味ですが、東日本キヨスクに相当する駅構内売店チェーン。セブンイレブンというのが何とも北欧っぽいけど、これもデンマークで通用するかどうかはわかりません。しかし案ずるまでもなく、散策をスタートした正面玄関を入ったところに、郊外線の自動券売機とならんで給湯器のおばけみたいなSJのマシーンがありました。かつては私もトラブルが嫌なので窓口での発券を好んでいたのですが、ここのところは券売機のほうが簡単だし、行列しなくてよいという利点もあるので、シフトしつつあります。SJのように「窓口有料」とかいわれたらなおさら。

 SJの券売機


プリントアウトしていたメール書面を持参しています。そこにある予約番号を入力すると、たちまち切符が2枚、ぺろんと出てきました。日付や自分の名前を見て、間違いないことを確認します。たしかにここはデンマーク国鉄の駅ではあるけれど、スウェーデンへの直通列車がけっこうな頻度で走るのだし、最も近いスウェーデン領までは40分くらいですので、熱海とか米原みたいな「境界の駅」でもあるのです。あ、東京駅とか新大阪駅にJR東海が入り込んでいるのを思い浮かべるほうが近いかもしれない。

ホテルに戻って部屋を改め、荷物をもってチェックアウトしました。朝も話をしたレセプションの男性が、「あなたのチェックアウトは明日なのでは?」というので、いやいや今日です、ジャスト・ナウと強硬?に。たしかに2泊予約のところ1泊しかしていないけれど、そちらさまに損失を与えたわけではありませんて。

 

PART3につづく


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。