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Aimez-vous la Méditerranée? |
PART 4- コロンブスの故郷ジェノヴァにて(前)
トリノ・ポルタ・ヌオヴァ駅を13時05分に出発する特急は、10両くらいの長い編成でしたが車内はがらがら。1等車は最後尾の2両だけれど、これもがらがらで、それなのになぜか、先客2名のいた車端のボックスシートに席が割り当てられていました。このあと途中で1人がやってきて4人が向き合ったのですが、相変わらず車内はすいていて、どういうシステムになっているのか意味不明ではあります。車両のアコモデーションは、西欧の一般車でよくあるタイプのもので、東海道線や高崎線で使用されるグリーン車よりもクラスとしては劣る感じがします。めざすは地中海に面した港町ジェノヴァ(Genova)。時刻表では14時49分着なので1時間45分ほどの行程です。トリノ市内を貫通するポー川は長靴の(地図でいう)右側にあるアドリア海に注ぐので、左側に位置するジェノヴァへは分水嶺をひとつ越えなくてはなりません。思ったよりはっきりした峠のアップダウンがあり、進行方向左前方に高いアペニン山脈(長靴半島の脊梁部にあたる)が見えてきたころには下りに入っていました。私は第二次ポエニ戦争の英雄ハンニバルのことを思い出していました。いまのスペインから象を含む部隊を率いて進軍したハンニバルは、アルプスを越えてイタリアに侵入し、アペニン山麓でスキピオに敗れました。フェニキア人の植民市カルタゴの故地といえば今のレバノンあたりで、それがチュニジアあたりに根拠地を築き、さらにスペインに進出して、そこからアルプス回りでこのあたりにやってくるなんて、紀元前3世紀に何ちゅうスケールで行動しとるんじゃ。
定刻を数分遅れてジェノヴァ・ピアッツァ・プリンチペ駅(Genova- Piazza Principe)に到着。日本のガイドブックでジェノヴァに充てられているのはこれまた4ページ程度と少なく、地図も貧弱なもので、プリンチペ駅も行き止まりの終点かと思ったら、どうやらトンネルで市の北を占める丘を貫通して、ローマ方面へのターミナルであるジェノヴァ・ブリノーレ駅(Genova Brignole)へとスルーしているようです。何日か前にジェノヴァに降りたといっていたU子によれば「駅のすぐ裏側が山になっていて、どこも急な坂」という街の構成だとの報告でしたが、なるほどそのとおりのようです。考えてみればわかるように、商船時代の「天然の良港」というのは、山から海にストーンと陸地が落ち込んで深い入江が形成されているような地形の場所で、古代以来の港町ですから当然そうなのでしょう。現代のタンカー埠頭は人工掘り込み&巨大な突堤なので、景観もかなり違う。
ジェノヴァ・プリンチペ駅
コンコースへ上がるとこの駅もあちこち工事中でしたが、まずはツーリストインフォメーションに出向いてホテルの確保を。カウンターでにこやかに出迎えてくれた若いおねえさんに、60ユーロ台でこの駅から近いところをと告げたら、リストに蛍光ペンでいくつかマークして、「当方では紹介はしますが予約はいたしません。ご自身で電話なさってください」と。オンラインシステムになっていないのか何らかの利害がからむのか、それをしなかったらツーリストインフォメーションの価値なんて半減するはずだが、仕方ない。まずは駅前の通りをすこし下った広場にあるホテルを訪ねましたが、カウンターのおばさまは「今夜の部屋はございません」とあっさり。それならば最初から駅周辺を探せばよかった。駅のすぐ裏に戻り、インフォメのリストで1泊€ 50からと記してあるガラタ・ホテル(Galata Hotel)を発見しました。ガラス張りの玄関先で旦那が若いカップルに何かアドバイスして去らせたので、「ここも空室なしかな?」と思いかけたのですが、フランス語で「今夜空室はありますか?」と声をかけたら、派閥の領袖なのに存在感がいまいちの自民党の津島雄二さんみたいな顔かたちとヤサ声の旦那が、「いえいえ、空室あります。ございますとも。お一人さまですか、ささ、どうぞこちらへ!」という具合にウェルカムモード。日本人とわかるや「はーい、コガサン! こんにちは。ありがーと」なんていうので、覚えたてのイタリア語でプレーゴ(prego どういたしまして)といっておきます。1泊素泊まり€ 50で即決し、1階の部屋に荷物を置きました。
2泊目の部屋
ここでも「参考文献」は先ほどのインフォメでもらった折りたたみの地図だけ。たぶん真ん中に印刷されている都心部しか使わないと思うので、山に登る人がよくやるように天地左右を裏側に折り込んで使用しよう。一般的な旅行者の感覚からしますと、トリノよりはずっと観光地としての値打ちがありそうだし、おそらくは、よりイタリア的であるような気がします。
プリンチペ駅を背にまっすぐ伸びるバルビ通り(Via Balbi)は、最初に断られたホテルへ行く際に通ったばかりでしたが、身軽になってもう一度。狭い一方通行の下り坂で、おそらくは古くからの道でしょう。300mくらいのものかな、その間は小さなホテルやバール、銀行、お土産屋さんなどで、はっきりいえば活気がない。西欧の都市では駅周辺はにぎやかさに欠け、20分くらい歩いて中心商業地区に出るというパターンが少なくないので(日本もそうだったのですが、このごろは地方都市の衰退で「中心」すらダメになりつつあります)、もう少し先に行ってみないと。坂を下りきったところにヌンツィアータ広場(Piazza della Munziata)があり、各方面への道路の結節点。自動車は直進して丘の下をくぐるトンネルに入りますが、歩行者はトンネルの手前で右折してカイロリ通り(Via Cairoli)、さらにその先のガリバルディ通り(Via Garibaldi)へ。石畳の古い道で、両側もクラシックな建物がつづきます。このあたりにも、ホテルとかカフェがちらほら。トリノでも感じたのだけれど、イタリアの道路は、車道と歩道の境目が不明瞭ですね。段差がついておらずセンターに向かって微妙に傾斜している緩いV構造で、自動車の発達以前からのスタイルなのかな。歩行者専用だと思って歩いていたら後ろから自動車がやってきて・・・というのが何度もありました。
バルビ通り
(左)カイロリ通り (右)ガリバルディ通り
リソルジメントの英雄ガリバルディの名を冠した通りの先で右折し、南に向かってもう少し歩けば、フェラーリ広場(Piazza de Ferrari)。ここが市のセンターのようです。夕方とあって老若男女がこの周辺に繰り出していました。いま歩いてきたあたりは、雰囲気と景観からしてずっと旧市街だったのでしょう。ガリバルディ通りの両側にはずいぶん古くてごつごつした壁をもつ建物が並んでいて、ちょっと印象的でした。道路が狭く建物が高いので、全般に日陰が多くて圧迫感があります。建物の隙間を縫うように階段とか路地があって、どこもかしこも石畳というのも不思議な感じ。これまで西欧の各都市を回ってきた中で、歴史のある都市の旧市街にはときおり見かける景観で、要は近代以降の造りなおしがないということです。よくいえば歴史的景観を保持していることになり、悪くいえば近代化から取り残されているわけ。ちなみにパリは、第二帝政のころオスマン知事の辣腕で大改造され、道路も拡張されましたので、古い都市なのにこうした景観をほとんど残していません。
フェラーリ広場
フェラーリ広場から1筋南に入ると、「コロンブスの家」(la Casa di Colombo)があります。まあねえ、ジェノヴァといったらコロンブスで、彼が生まれた家というのを復元したのがこの史蹟だそうです。思えば、小学生の古賀が初めてジェノヴァの地名を目にしたのは、たしか4年生くらいでコロンブスの伝記を読んだときでした。世界地図大好き少年でしたので、さっそく地名を探し当てたことです。コロンブスにかぎらず、「大航海時代」の冒険家というのは、封建制の解体が本格化する中で身分移動が生じ、そこに商業的発達もあいまって、命を惜しまず一発当ててやろうという精神だったように思います。彼はカスティーリャ(アラゴンと合邦してスペインを形成)に渡って例の大西洋横断に向かうわけですが、主権国家形成以前とはいえ船乗りというのには余計に国境意識が稀薄だったことでしょう。
コロンブスの家
コロンブスについていえば、成し遂げた「偉業」のわりに晩年の没落が厳しく、各種の伝記でもどう評価したものか躊躇するものが目立ちます。20世紀後半になって、「発見」された側の問題意識がクローズアップされると、「欧州人によるアジア、アフリカ、ラテンアメリカ侵略の先鋒」という位置づけをされてしまい、これまた当人の責任を大きく離れたところで指弾されてしまうわけです。私が思うに、それはそうなんだけど、コロンブスひとりのせいではあるまいに。あとからそれに便乗した諸国家権力こそ元凶でしょう。ところで、「コロンブス」というのは日本語のようです。彼が主に活躍したカスティーリャの言葉(いわゆるスペイン語)ではコロン(Colón)といい、スペイン語を教わったときに「何で当該国の言語で呼ばないのかな、英語なのかな?」と疑問に思ったものだけれど、実は英語の発音はコランバス(Columbus)。イタリア語では何とコロンボ(Colombo)!
先生がこれからジェノヴァに行くと知っていろいろアドバイスしてくれようとするU子に、「ジェノヴァがコロンブスの地元だって・・・まあ知らないよね」とあきらめ半分で訊いてみたら、「ええ? 本当ですかああ」だって。事前に知っていたら彼女がそこで何をしたとも思えないが、ある後輩を十数年前に柴又に連れて行ったところ「古賀さん、ここって寅さんと何か関係あるんですか?」と質問されたのに匹敵する件だね(苦笑!)。強いていえば『母をたずねて三千里』でしょうけど、あのアニメは古賀が幼少のころのもので、U子は知るまい。
コロンブスはともかく再現された「家」に興味はなく、その横から丘の上に登る小径に入ります。先ほどのフェラーリ広場の南側は小高いという以上に高い丘になっていて、それが海岸までつづいている様子。その尾根に沿って歩いていくわけです。古い建物が両側に迫り、ここも圧迫感がありますが、住宅地らしく生活のにおいがする。インフォメでもらったイラスト地図は、道路の幅がけっこうでたらめで、小径ゾーンになると方向感覚がわからなくなります。どうにかここを抜けて海沿いに出て、この旅行で初めての地中海を愛(め)でたらんと思うのだけど、あれ、どこだ? やむなく道沿いの店に入って本気のエスプレッソを飲み、ゆっくりと地図を読みなおしました。
本日の第4バール 洗濯物が・・・
さらに狭い道を進んで、いちばん「標高」の高いところに登ると、そこからようやく海が見えました。ただし、大規模なドック越しなので、雄大な海を眺めて・・・という感じではありません。いわゆる海らしいところは郊外に行かなくては見られないと知っていますので、遠く水平線を望めるだけでもいいか。
ジェノヴァ市内から見た地中海
旧港方面を望む
本当に、海岸線のすぐそばまで段丘が迫っているんですね。そのあたり、人の気配がほとんどないので静かすぎて不気味ではあります。ジェノヴァは、ヴェネツィアと覇を競った古い海洋商業都市で、近代初期までその海軍力もあり地中海世界に影響力を保持していました。金融や流通のしくみに関して初期資本主義的な展開もみられたようです。ただ、17世紀以降の欧州世界は絶対王政のもとで領域国家化が進む時代であり、ジェノヴァのような「海上共和国」はその存在意義を急速に失っていきました。19世紀の統一においては、早々にトリノ(サルデーニャ王国)の軍門に下ってその外港に甘んじてしまいます。英語ではジェノア(Genoa)、フランス語ではジェーヌ(Gênes)。日本サッカーのプロ化時代初期のヒーロー、三浦知良が初めてセリエAでプレーしたときは大いに盛り上がりましたが、その最初のチームがジェノアでした。さほど活躍したわけではなかったけれど、カズの移籍を通じてこの都市の名を知ったという日本人も少なからずいるでしょうね(カズさん、古賀より年上です。今も現役で活躍とは見事です)。
(左)旧港付近の海岸段丘を下る道は、崖の上に張りついた桟道みたいな感じ (右)向こうの丘の上にも建物が林立している
もう少しきちんと地中海を愛でたらねーと思うのですが、そろそろ暗くなってくるし、ヒト気のない海沿いの地区は物騒ではないともいえないので、来た道とは別のルートでフェラーリ広場に引き返そう。海沿いをすこし歩いて、商店などが立ち並ぶサン・ロレンツォ通り(Via San Lorenzo)を東に進めば、マッテオッティ広場(Piazza Matteotti)。ここに、ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)と、サン・ロレンツォ寺院(Cattedrale di San Lorenzo)がありました。この周辺はかなりにぎやかで、若い人が多く歩いています。ドゥカーレ宮殿はもともとジェノヴァ共和国の総督公邸だったとの由。
(左)ドゥカーレ宮殿 (右)サン・ロレンツォ寺院 横の縞模様が非常に特徴的ですね
ドゥカーレ宮殿の裏に回ると、そこがフェラーリ広場でした。ジェノヴァの旧市街はU子の報告どおりアップダウンがあって、さまざまな景観に出会えますね。18時ちかくなって就業時間が終わったのか、フェラーリ広場の人出はさらに多くなっています。
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