Aimez-vous la Méditerranée?

PART 2- トリノの街歩き(前)

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216日夜、パリから鉄路をたどって北部イタリア・ピエモンテ州(Piemonte)の州都トリノへやってきました。私たちはトリノと表記しますし、発音もに強勢が置かれますが、駅のアナウンスなどを聞いているとトリ〜ノという感じでを強く発音するようです。英語・フランス語ではTurinと書いてそれぞれテューリン、チュランといいます。

 
まだ20時過ぎなのに、ほとんど人の気配がしないポルタ・ヌオヴァ駅と駅前

 

トリノ・ポルタ・ヌオヴァ駅は目抜き通りに直結するターミナルで、たしかに貫禄のある建物でしたが、この時間帯に発着する列車がほとんどないのか、いまの急行から降りた人くらいしか見当たりません。しかも、駅そのものが大工事の最中らしくて、駅正面も手狭になっている。ホテルはネットで予約してあるため、駅のインフォメーションで地図をもらって歩く腹づもりでいたのだけれど、インフォメそのものが店じまいしているし、ターミナルには不可欠のはずの市外地図の掲出が見当たりません。あったのかもしれないが、工事中のあたりは暗くてよくわかりませんでした。到着が遅くなることが決まったのでホテルを事前にとったのですが、よかった。この調子だとホテルリストすら入手できないところでした(翌日以降の記事でみるように、中都市以下だとまだやりやすく、トリノのような100万都市では飛び込みはかなり困難)。やむなく駅に横付けして客待ちしていたタクシーをとり、ホテルの名前と住所を見せて、ほとんど灯を落としてしまっている都心部の街路を走り出しました。

トリノは初めてですが、よろしくと告げると、初老のドライバーさんは初めからハイテンションのイージー・イングリッシュで話し出し、「トリノへようこそ。わがトリノは人口約100万人、とても大きく美しい都市です。ユヴェントスとフィアットの街でございます!」と郷土自慢。そう、トリノにも冬季五輪にも関心がないという人でも、サッカーファンであればイタリア・セリエAで最多の優勝を誇る名門チーム・ユヴェントスを知っていますよね(地元ではダービー相手のトリノFCも人気がある)。いまならデル・ピエロとか。そして、ミラノが商業都市の性格を強くもつのに対して、この街というか都市圏全体が自動車大手のフィアット(Fiat)を中心に発達した工業都市になっています。それはすばらしい!とか何とか調子のいい相槌を打ってはみたものの、こちとらカルチョ(サッカー)にも自動車にもまったく興味がありません。いつものように思いつきで来ただけです。なんていえませんわね。欧州都市の旧市街独特の、石畳ふうの狭い街路を何度か折れて、トラム(路面電車)の線路も敷かれているものの広くない道路に面したホテルに着きました。たしか€ 6.60だったので、€ 7を渡しておつりはチップに。ドライバーさんは、フィアット自慢をしすぎて日本人を刺激してはまずいと思ったのか、トヨタはいい、とくにプリウスはイブリーデ(ハイブリッドのイタリア語読み?)でエクセレントだと強調していました。不況知らずだったトヨタが今回ああなってしまって、列島で例外的に短期雇用が順調だった名古屋圏が急速に冷え込んでいますけれど、自動車都市トリノはどうなんだろう。

 
ドアが手動式のエレベータ ゴンドラが着いたらまず鉄扉を引き、つづいて観音開きを開けます

 こんなお部屋

 

さて、ネット予約していたホテル・アルピ・リゾートHotel Alpi Resort)の看板はあるものの、狭いドアの向こうには西欧の古い建物でしばしば見かける小さなエレベータ(英国ふうにリフトといいたい感じ)があるだけで、ホテルのレセプションらしい雰囲気がどこにもありません。ためしに1階(欧州は地平を0階といいますので、日本式でいえば2階)に上がってみても、古びたアパートメントです。あれ?といぶかしんでもう一度玄関に下りて道路に面した小さな表札を見ると、ホテルのロゴは3階のところに書いてありました。わかるかそんなの! せめてエレベータの中に貼っておかんかい。あらためて3階に行くと、落ち着いた雰囲気のレセプションがあり、20代とおぼしき男性がひとりで勤務しています。こちらが名乗ると英語でチェックインを進めてくれ、レセプションの真横の部屋を開いて「ユア・ルーム」といい、パスポートを5分ほど預かるので部屋に入って待っていてくださいと。いやなかなか広々としたいい部屋だし、水まわりも清潔で、すばらしい。使い捨てのスリッパとか、石鹸・シャンプーの揃えなど実にしっかりしているし、ミニバー(飲み物の入った冷蔵庫)には各種の飲料があるしスナック類も選べるようになっているなど、3つ星の名にたがわぬサービス水準です。こちらのホテルはたいていドアの内側に正規料金を掲示してありますが、それによると1€ 80とのこと。私が英語のホテル検索サイトで予約したのは朝食つき€ 54ですからネット相場はたしかに安く、都心部のこの水準の部屋でその料金ならいうことないですね。入口がわからなかった不快さは、安さに負けて霧消!

 21時過ぎのヴィットーリオ・ヴェネト広場

 

トリノ滞在は今夜とあすの午前中だけのつもりなので、残り3時間も有効に使わねば。パスポートを引き取ったついでに、レセプションに積んであった折りたたみの市街地図を手に取り、お兄さんに食事できる場所を訊ねます。タクシーで来た経路はどことも真っ暗で、レストラン街はおろか開いていそうな店も見当たらなかったので。すると、ホテルのすぐ近くを2ヵ所マークし、「今夜開いているのはこの2軒だけです。月曜の夜はトリノ全体がクローズなのです」と。そういうことか。近いところが開いているならよかった。お兄さんの解説によれば、1軒はピッツェリア(ピザ中心の軽い食事どころ)、1軒は北部イタリアの典型的・伝統的な料理を出すレストランとのことで、両方見てみましたが、典型・伝統を選びました。夜の街は暗く寂しい雰囲気。ピッツェリアのすぐ前がポー川のようで、夜景もなかなかいい感じですが、明朝あらためて。英語の案内なので「レストラン」だけれど、こちらでリストランテ(ristorante)といえばわりにしっかりした本式の店で、その店の表示はトラットリア(trattoria)。ガイドブックなどには、カジュアルでパスタだけの注文もいいよ、なんて書いてあります。

 明るい店内

 

古びた建物の古びたドアを押すと、明るくて小ぎれいな店内だけど、先客は1組と、同じようにたったいま来たばかりのカップルが1組だけ。中年の女性店員が迎え入れてくれ、両組のあいだのテーブルを勧められ、革カバーのついたメニューを渡してくれました。そうだ、イタリア語はまったくできないんだった! もちろん、フランス語と同系統の言語なので字面や文法は似たようなものだし、その昔にはスペイン語を習っていたこともあったのですが、料理名なんてわかるわけないよね。パリでも最初のころは、論文専門で普通名詞を知らないものだから、どれが肉で魚で野菜なのかいちいち確かめないといけなかったので、それを思い出して懐かしく感じます。前菜にパスタを食べるというのが日本人には驚きだけど、郷に従うべきところでしょうから、パスタを適当に選び、メインは店員さんの勧める肉料理を。名前も内容もわかりませんが、間違ってもここで納豆を出されることはあるまい。イタリアですから、飲み物は当然ワイン。イタリアものの知識はまったくないので、フランスでやっているのと同じように「小さなピッチャーの赤ワインはありますか?」と訊ねたら、もちろんですと。要するにハウスワインで、私たいていこのパターンです。店員さんは英語もフランス語もほとんど話さないようで、こちらが英仏語で訊ねてもイタリア語で返すのですけど、売ってなんぼのレストランだし、何とかなるね。先客のふたりはフランス人らしく、フランス語で話している。左のカップルはイタリア語。

 

 

前菜に運ばれたのは、小エビとズッキーニをオリーブオイルでまとめたスパゲティ。日本ではたしか1980年代半ばころから、スパゲティのことをパスタと呼びかえる店とか人が大半になってしまいましたが、パスタというのはもう1つ上のカテゴリーのはずで(当時の日本にはスパゲティとマカロニくらいしかなかった)、いまだに謎。スパゲティはスパゲティであり、昭和の呼び方に戻すべきですって。このスパゲティ、空腹もあってか非常に、ひっじょーに美味く、するっと食べきってしまいました。麺のゆで方も絶妙だし、オイルの加減もね。つづいてメインは、見た目と味で判断するなら、仔牛の肉を赤ワイン系統のソースで煮込んだやつだな。甘い小タマネギがたくさん添えられています。甘辛くて、日本人なら好きな味かもしれません。これも美味しくて完食しましたけど、一皿あたりの肉の量はさすがに多いですね。込み込みで€ 27くらいだったかな、かなり値の張る食事になってしまうのは、フランスのように前菜+主菜+デザートで定食(menu)を編成しておらず、アラカルトで注文しなくてはならないため。2人で来るなら前菜かメインのどちらかをシェアで十分ですね。雰囲気は寂しかったけど味は上々で、満足満腹してホテルへ。

217日の朝は少しガスっているけどいいお天気でした。朝食はこのごろ多いセルフサービス式(なぜかホットドリンクだけ、機械式なのにお姉さんがサーブしてくれました)で、チーズや生ハム、卵もあっていかにもな感じ。クロワッサンと思ったらマーマレードの入ったやつで、あとで調べるとイタリアの朝食ではこの手の菓子パンみたいなのが多いのだそうです。フランスでは週末限定ですがね。9時ころカードで€ 54を支払いチェックアウト、荷物をレセプションに預けて、トリノの町たんけんに出ます。昨夜は暗くてよく見えなかったポー川Fiume Po)は、水量たっぷりでゆったりと流れていました。ポー川流域といえば地理の教科書では米の産地ということになっていて、トリノも有力な集積地でした。リゾットが食されるのはそのためです。郊外の丘とか山を見やると、由緒のありそうななさそうなお城がいくつもあるのがさすが欧州。

 
 
朝のポー川  (右)上流側を見ると、アルプスの高嶺が

 

住宅地を一回りしたあと、今度はポー通り(Via Po)という広めの道路を西(都心方向)へ歩きます。路面電車も走っていて東西の目抜きのようですが、両側の歩道は建物の地平面を切り込んだ回廊(アーケード)になっています。イタリアには多くて、とくにトリノのそれは本格的なんだとか。朝9時台なので各商店も開店準備の段階ですが、午後になって人が集まってくるとにぎやかでしょうね。

 

 王宮

 

回廊が途切れたところがカステッロ広場(Piazza Castello)。まんなかにマダマ宮殿なる古代美術の殿堂があり、その奥に王宮Palazzo Reale)がありました。世界史に強い人ならおわかりのように、イタリアには19世紀まで統一国家がなく、このピエモンテ周辺はむしろフランスやハプスブルク帝国とのかかわりの中で歴史を過ごしてきました。15世紀、サヴォイア家(Savoia)がこの地方の支配権を獲得し、アルプス西麓の山地から豊かなポー川地方に本拠地を移してトリノを都にしました。日本の高校の世界史教科書にこの国が登場するのは、シチリア島を手放してサルデーニャ島を得たあたりから。サヴォイアは公爵(英語でDuke)、サルデーニャは王(King)でなぜか後者のほうが形式的に格上だったため、トリノの国家がサルデーニャを併合したのに、この国はサルデーニャ王国と称することになります(ブランデンブルクが併合した遠方の王国の名をとってプロイセン王と称したのと同じ事情。この場合のプロイセン王国も、中心地は旧ブランデンブルクのベルリンでした)。この経緯が省略されるため、高校生は「何でサルデーニャが主役になるんだ??」と混乱することになります。サルデーニャ王国は、19世紀にカルロ・アルベルト王のもとで勢力を拡大し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II 1849年襲位)のもとでリソルジメント(Risorgimento イタリア国土統一運動)の中心的存在となり、1861年にはガリバルディが征服した南部を併合して半島のほぼ全域を制圧、1870年に教皇領を強制接収するにいたります。バチカンが極小の独立国なのはこの措置に抵抗しつづけるローマ教皇とムッソリーニがのちに妥協した結果でしたね。ということで、ガイドブックに取り上げられない地味な存在のトリノですが、幕末維新でいえば薩長の立場にあったわけで、ここの王様がイタリアの王になったのです。ただし、準統一4年後の1865年に王と政府はフィレンツェに移り、1871年にはさらにローマに移転したので、この場所が「イタリア王国」の王宮だった期間は4年間だけということになります。なお、王家のルーツであるサヴォイアは昨日TGVで越えてきた峠の向こう側、現在はフランス領サヴォワ(Savoie)になっています。リソルジメントに際して、サルデーニャの宰相カブールがフランスの支援を得るためナポレオン3世と密約をむすび、サヴォイアとニースをフランスに割譲したためです。この結果、経済力に富むミラノやヴェネツィアの併合に成功したので、安い交換だったかもしれません(住民の意思はどうなるのかというのはまったく別の話。ナショナリズムってそういうもので、維新政府も外交交渉で先島諸島を割譲しようとしたことがあります)。

王宮の内部を見学しようとしたら、定時のツアー見学限定で、次は11時ですと。まだ1時間もありそれではあとの予定に差し障るので、残念ですがまたお会いしましょうといってそこを去りました。


王宮を背に目抜きのローマ通りを見ると、正面にポルタ・ヌオヴァ駅

 中心商業地区 遠くアルプスの山並みも

 

何やらの美術館などはあるものの、あとは商業地をぶらぶら。西欧旅行ではこれが至福のひとときです。10時を回ったばかりだけれどけっこう人出もあり、にぎやかになってきました。トリノの街は、京都とか、2週間前に訪れた札幌と同じように碁盤の目のように造られていて、方向感覚が非常にわかりやすい。これ、西欧の都市ではめずらしいケースです。ポルタ・ヌオヴァ駅1305分発の列車を本命と考えて、11時半くらいまでにホテルで荷物を引き取ればいいから、持ち時間1時間ほどジグザグできるわけです。テブラ・デ・アルクォーネ!(手ぶらで歩こうね)。すると、あ、あった!


  本日の第1バール

 

バールbar)だわ。英国のパブ、フランスのカフェ、そしてイタリアのバール。物知りによれば、毎日毎朝バールでエスプレッソを飲むのがイタリア人のたしなみだそうで、そういうことなら1バール(本日の第1バール)しなくちゃね! 1€ 0.90。フランスでもコーヒーといえばエスプレッソ(フランス語ではエクスプレス)で、東京でも求めて飲むほど私も大好きなのですが、話には聞いていたけど、いやあ、イタリアのエスプレッソの濃さは本気だね。フランスの倍くらい濃いのでは? 狭いカウンターには先客もあり、また次々にお客が来るのですが、非常に回転が速い様子。

 
 トリノの街角

  本日の第2バール

 

王宮前から駅までまっすぐ伸びる目抜きのローマ通り(Via Roma)は後回しにして、いったんホテルに立ち寄って荷物を引き取りろう。ところが思っていた感覚よりポー川沿いは遠く、息切れしてきたので、早くも2バール。本気のエスプレッソを立て続けに飲んでいては胃が荒れそうなため、まだ11時半ではあるがビッラ(birra ビール)を。この店では生ではなくてビンのを空けて出してきました。イタリアはあまりビールを飲まない国らしいです。そろそろテーブルではクロスとナイフ・フォークをセットして昼食の準備にかかっているころ。私はもちろんカウンターですが、先客は一人だけだったのにここでも続々と客が回転しています。店員や常客とのトークを楽しむというのではなくて、「コーヒーを飲むこと」自体をめあてにしているわけで、コーヒー消費量世界一というのは本当なのね。ホテルのレセプションは今朝から50代くらいのダンディーな男性に代わっています。トリノはいかがでしたかと訊ねるので、初めてトリノ、いやイタリアに来ましたがとてもよい滞在でしたと。リップサービスではなくて、昨夜の夕食ときょう午前中の散歩だけだったけど、整った街と落ち着いた雰囲気に大いに満足しました。話に聞く「イタリア」とはかなり違って、フランス的な感じがしなくもありません。レセプションの男性はうれしそうに笑って右手を差し出し、「ひきつづきよいご旅行を」。グラッチェ!

 

PART 3 へつづく

 

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