予定どおりのゆっくり、ゆったりとした昼食になりました。温暖で無風の海岸ぺたというのは国内も含めて久しぶりかもしれません。勘定を済ませて席を立ち、腹ごなしを兼ねてその界隈を再びうろうろ。14時近くになったのでヴァレッタに戻るバスをつかまえようかな。――と思ったのですが、さきほど降りた停留所のある海岸沿いの一本道は一方通行です。常識的には上下の便が並行する別の道路を走り分けているはず。ただ、とくに表示があるわけでもないし、少し裏側に入り込んでみてもそれっぽい道路やバス停の気配もないし・・・。下りの停留所そばで土産物の屋台を出している中東顔のおじさんにヴァレッタ行きのバスはどこから出るのかと訊ねると、ぶつぶつ切れる英語で「タクシーを呼んであげるから、ここにいなさい」といいます。――いやタクシーじゃなくてバスに乗りたいのです。バス停はどこ? 「ヒア、ヒア」。ああ訊く人を間違えた(笑)。そのままその場に滞留したら申し出を受け入れたことになってしまうので、ノー・サンキューと明確に告げて離れました。タクシー仲介料みたいなものを客またはドライバーから徴収するのかどうかは不明。
住宅街の中にあるヴァレッタ方面行きマルサシュロック停留所
まあ上りのバスがないということはありえないので近くのどこかには停留所があるはずです。このあたりの地形は、海岸通りを一歩入るとすぐかなりの勾配になります。それらしい道を入り込み、海岸通りと並行する道路をのぞき込んでみると、やっぱりバスが停まっていました。ヴァレッタ行きであることを確認して乗車し、€1.50のチケットを購入。バスは数百メートル先で一方通行区間を抜け出し、さきほど走ってきたルートに合流しました。またまたデコボコ舗装の道路をしばらく走ります。来たときには気づかなかったけど、路肩のところどころにあざやかなお花が植えられていて、信号待ちなどのときには目を楽しませてくれます。マルサシュロックを出発する直前に若い日本人男性2人組が乗ってきて、ガイドブックを手にあれこれと話し合っていましたが、「新市街」のパオラあたりで下車していきました。おそらく別方向へのバスに乗り継ぐのでしょう。この島のバス路線はヴァレッタのターミナルを基点として放射状に構成されているので、首都の半島に入り込まず手前で乗り換えるほうが便利な場合があるわけね。私は終点まで乗りとおしました。なお「ターミナル」と書いていますが実際の呼称はTerminus(テルミヌス)。ラテン語ですね。本来はローマ神話における境界の守護神で、英語圏でもフランス語圏でも「テルミヌス」という発音のまま鉄道やバスのターミナルの意味で用いられることがあります。パリの路線バスは、ターミナルでも何でもない路上の終点にもその呼び方を使っています。
15時半という中途半端な時間なので、半島の対岸に渡ってしまうと面倒な感じです。それこそさっきのパオラあたりで乗り換えてそちらへ向かおうかなと思わぬでもありませんでしたが、日が暮れてからうろうろするのも何なので、ヴァレッタ戻りに決めたのでした。ということで商業地のリパブリック通り、マーチャント通りと両道路にはさまれたブロックをべたべた歩いて、ウィンドウ・ショッピング。欧州に来ると自分用のネクタイを購入する慣わしなので、それらしい複数の店に入ってみたけれど、ぱっとしないのでやめておきます。帰路にフランクフルトに寄るのでそこで調達しよう。今朝は半島の北斜面を主に歩いたので、今度は南斜面(グランド・ハーバー側)を散策してみます。こちらのほうが急なのか、坂道だけでなく階段が多い。どんなふうにして都市が構築されたんでしょうね。その経過に興味が湧きます。昨日訪れたアッパー・バラッカ・ガーデンの周辺には小さなホテルがいくつか見えました。いずれも1〜2つ星程度の簡素な造り。どこに泊まろうかと宿泊予約サイトで探索していたとき、首都のヴァレッタ市内で手ごろな価格と場所の宿がなかなか見つからなかった理由がわかってきました。世界遺産の旧市街なのでホテル用に大型の建物を造りなおすわけにもいかず、既存の建物を生かす程度の安宿ばかりになるわけですね。普通の都市型ホテルは対岸のスリーマに多数ある模様。
この2日間でヴァレッタのだいたいの地区は歩いてしまいました。何しろ首都のエリアがきわめて狭いのです。土曜の夕方になったのでリパブリック通りもマーチャント通りもかなりのにぎわいを見せています。一方でちょっと裏側に入ると静寂そのものなので、そのコントラストもおもしろい。アイスクリームを舐めながら歩く人がけっこう目立ちます。この時間でも18度くらいはありそうなので、12月なのに路上でということにはならないですね。私はアイスよりもビールを欲していますが、アップダウンのせいかけっこう疲れたので、宿に戻ってゆっくりしよう。お昼にばっちり外食したから、夜はサンドイッチか何かを持ち帰って部屋で食べて済ませようと思います。ヴァレッタ市街、とくに半島付け根のターミナル寄りには、サンドイッチなどの軽食を売るスタンドがあちこちにあります。このところは金満旅行とまでは行かないまでもケチることがほぼなくなりましたが、10年くらい前まではお金がかかる外食の頻度を抑えようと、サンドイッチばかり食べていたような気がする。留学経験のある人なんかもそんな回想を話してくれることがあります。「サンドイッチは一生ぶん食べた」とか何とか。
黄昏のリパブリック通り
マーチャント通りにSUSHIの看板を掲げた小さなサンドイッチ屋さんが見えました。スツールが3つくらいあってイートインもできる、欧州ではおなじみのタイプです。ショーケースをのぞいたら、フランス式のバゲットサンドの他にラップサンドが各種そろっているので、今回はこっちにしよう。歯を悪くしてバゲット食べられなくなったんですかといわれそうですが、それ以前から回避傾向。Chicken Caesar Wrapなる€3.50のやつを発注しました。「お持ち帰りですか、こちらで?」と聞かれたのでTake awayと。アメリカ語ならTo goというところを英国式ですね。持ち帰ってすぐに食べるわけでもないのですが、プレスして(鉄板ではさんで焼く)ガワをいったん焦がしたほうが美味いので、そうしてもらいます。
そのあと宿の近くまで戻って、目をつけておいた酒屋兼何でも屋さんに入り、飲み物を調達。あと3泊するのでスティル・ウォーターの2Lペットと、缶ビール、そして赤ワインにしようかな。ワインの棚を見るとさほどの品揃えでもなく、たいていは€5前後の中に1つだけ€17.95というやつがありました。とはいっても2000円台前半ですので「高い」ワインではありません。近所の顔役的な感じのする店のおばさんはワインのボトルを確認して、「お客様はお目が高い(Good choice)。これはこの中でベストのワインです。マルタでいちばんよ。レストランなんかで頼んだら倍以上とられちゃうやつね」と、これも訛りの強い英語でいいます。かなり前から立ち話していたらしい近所のおばさんも、そうだそうだと相槌。お目が高いも何も、1つだけその値段なら当然そうでしょうよ(笑)。イタリアのつづきみたいな土地なのでワインも秀逸だというのは何となくわかります。マルタのワインはおそらくほとんど輸入されていないと思いますが、フランスのだと同クラスの品が日本の3分の1くらいになります(酒屋さん価格)。€17.95のやつは4〜5000円クラスになるのかな? ほどほどに重みのある味で個人的には好きな感じでした。ラップサンドは、あまりシーザー感?はなかったもののマイルドでこれも美味。
(上)ラップサンドをお持ち帰り (下)マルタの赤ワイン
12月27日(日)も8時に朝食。「新鮮なリコッタ・チーズが入ったのでどうぞ」と勧めてくれました。おかずなのかデザートか判然としないのですが、たしかにフレッシュで美味い。この午前は聖エルモ砦でのパレードを見物するつもりです。11時からとのことなので、それまで戦争博物館を見物すればよいと思います。めずらしいイベントではあるけれども、町の規模とか観光客の数から考えて、早くから並ばないと見られないということはないはずです。ということで何度目かの道をぶらぶら歩いて、10時前に砦へ。ミュージアムショップを兼ねたチケット売り場があり、パレードを見たいのですがどこでどうすればと訊ねたら、「パレードはミュージアムの中庭で11時からおこなわれます。ここでミュージアムのチケットを買って、まずはそちらを見学なさってください」と。入場料は€10ちょうど。若い日本人女性がひとり、数歩前を行っていたので、怪しまれてもいかんから「こんにちは、意外に暑いですね」とか何とかあいさつ。
ウォー・ミュージアムなどと物騒な名前がついていますが、要するにマルタ歴史博物館というべきもので、内容は非常に充実していました。建物自体が史蹟なので、その構造とか地中海の眺望などもすばらしく、展示物やその解説もよく整えられています。ここが単なる避寒地ではなく、文字どおりの「要衝」であることが歴史的に傍証されるようになっているわけね。私自身、マルタの歴史についてこの博物館でようやくそのアウトラインを学ぶことができました。
前述したように、マルタが独立国家になったのは1964年(英連邦を離れ共和国になったのは1974年)のことです。それ以前の長い歴史の中で、ここが「独立国」であったことは一度もありません。欧州世界に主権国家という概念が現れたのはだいたい16世紀ですが、そのころにはすでに他国や他地域の勢力下に置かれていたのです。紀元前にはカルタゴを建設したフェニキア人が交易の足場にしていました。ローマ帝国が支配した時期もあります。イタリア半島、シチリア島、アフリカ北岸、イベリア半島、さらにはレヴァント(地中海東岸)といった諸地域の結節点、地中海の諸ルートの交点だったこともあって、古くから注目され、利用されてきました。9世紀に入ると地中海をほぼ勢力下に収めたイスラム勢力がこの島を統治するようになります。中世後期から初期近代にかけてがけっこう激動の時期。シチリア王国(官僚制を高度に発達させたことで知られる、ノルマン人の国)の支配を経て、15世紀後半にはカタルーニャ(アラゴン王国+バルセロナ伯領)の手に入りますが、1530年にやってきた聖ヨハネ騎士団が定着し、以後3世紀半にわたってここを統治することになりました。聖ヨハネ騎士団というのはもともとエルサレム巡礼の安全を確保するための軍事および医療集団として成立し、欧州各地の封建領主が時にスポンサーとなり、時に利用して、かなり独立性の高い勢力に成長したものです。それこそ欧州各地から信仰心が篤く腕に覚えのある男たちが集まってきて、主に母語集団ごとに編成されました。ただ、そうした「傭兵部隊」的な性質ゆえに世俗君主から恐れられる場面もあり、しばしば土地を追われて長年の定着がかないませんでした。マルタに来る以前はエーゲ海のロードス島(現ギリシア領)にいましたが、オスマン帝国の最盛期を現出したスルタン、スレイマン1世の猛攻の前にそこを追われます。騎士団を高く評価し、対オスマンの最前線に配置したかったローマ教皇と神聖ローマ皇帝カール5世(兼カスティーリャ・アラゴン王カルロス1世)は、シチリア王(当時はカタルーニャと同君連合なので実はカルロス1世自身)からこの島を借りて拠点にさせたのです。
いま私は欧州キリスト教圏の一隅にいて、そちら側の立場から歴史を振り返っていますけれど、イスラム側から見ればまったく別の景色が見えるということは念のため確認しておきましょう。偏狭で文化的にも遅れたキリスト教世界に対し、寛容で文化的に優れたイスラム世界が大きく伸張して食い込んだというほうが、客観的にみればおそらく適切でしょう。対象が歴史であっても多面的に考察するクセをつけておかないと、現在のようなデリケートな問題に対する見方を誤ります。
急成長するオスマン帝国の前に風前の灯・・・
1565年というのがマルタ史のクライマックスとしてこの国で語り継がれた年号。地中海支配の拠点としてマルタ島の占領を企てたスレイマン1世が約200隻の大船団を送り込んできました。騎士団側はグランド・ハーバーの周囲にいくつもの要塞を建設して来襲に備えます。実質的な宗主国であるカタルーニャが兵力を送り、当然ながらヴァチカンも物心両面で支援しました。1年以上に及ぶマルタ包囲戦(Assedju ta' Malta)は欧州で戦争に火砲を用いるようになってから最大規模のものになります。両軍とも相当に消耗していきますが、大船団で来襲したといってもそのあとは上陸して白兵戦をたたかわなければならないオスマン軍は、岸上にそびえ立つ聖エルモ砦などの要塞を攻略することができませんでした。マルサシュロック湾に上陸した本隊も指揮命令系統が混乱するなどして有効な打撃を与えることに失敗しています。マルタ側の消耗も危険水域に達しつつあったものの、翌1566年にスレイマン1世が急死したことに救われました。この戦闘に先立って聖ヨハネ騎士団の団長に選ばれたフランス出身の騎士ジャン・ド・ヴァレット(Jean de Valette)は聖エルモ砦につらなる丘に、それ自体が巨大な要塞となる新首都の建設をはじめました。ヴァレッタは彼の名に由来して命名されました。
結果論でいえば、この戦争で西欧とイスラムの力関係が変わりました。オスマン帝国の西方拡大が止まり、「キリスト教世界の防衛」に功績のあったカタルーニャおよびカスティーリャ(同君連合で、いうところの「スペイン」)がこの地域の覇権を握ることになります。アラビア語系の言語を話しながらも敬虔なカトリックというマルタの心性はそうした歴史の中で形成されました。これ以後も、年あたり鷹1羽という賃料?で統治権が付託されるというフィクション仕立ての構図がつづきました。このためマルタ騎士団(Order of Malta)という通称で呼ばれることになります。1798年、ナポレオンのフランス軍がこの島を占領したときに騎士団は追放され、またしても流浪の時が訪れますが、すでに主権国家の時代に入っており、統治すべき領土も国民もない彼らは浮遊する集団となるほかありませんでした。日本ではあまり知られていませんが、現在もローマ市を拠点にマルタ騎士団が活動をつづけていて(主に国際医療集団として)、100以上の国から国家に類する扱いで「外交関係」を認められており、国連にもオブザーバー参加しています。もちろん現在のマルタ騎士団はマルタ共和国との直接のかかわりをもちません。
グランド・ハーバーを攻撃するフランス軍
さて騎士団が去ったあとのマルタ島のほうですが、フランスの支配は2年で終わります。ナポちゃんは海上での戦いに弱かったのね。ネルソン提督率いる英軍がこの地を「解放」したことから、マルタの人々は英国の統治を受け入れました。自律することの困難な小さな島ですし、長く変則的な統治構造を受け入れてきたこともあって、そのタイミングで独立国になるという選択肢はなかったのかもしれません。1814年のウィーン会議で正式に英国の主権が認められ、これが20世紀後半までつづきます。英国はすでにレヴァント南部やエジプトをオスマン帝国から切り離して影響力を行使しており、マルタは地中海ルートを抑える上でもきわめて重要な戦略拠点となったのでした。
第二次世界大戦に際してマルタが対イタリアの最前線に位置づけられたことは前述しました。このためドイツ軍やイタリア軍の空爆をたびたび受けることになります。それ自体が要塞であるヴァレッタの町にも、あちこちにシェルターが設けられたそうです。直接の交戦があったわけではないけれども、当時の日本はドイツ・イタリアの同盟国、英国は日本と直接の交戦関係にあったということは押さえておきましょう。大規模な空襲でロイヤル・オペラ・ハウスなどを破壊された1942年には、英国王ジョージ6世(現女王エリザベス2世の父)がジョージ十字勲章(George Cross)をマルタの全市民に贈っています。これは戦争や災害などの非常時に勇敢な行動をとった者に対する特別の勲章で、「みんな」が対象というのは異例。1942年の段階ではマルタを枢軸陣営から守りきれるかどうかが微妙だったのではないかと推察します。
ジョージ十字勲章
空からの猛攻を耐え抜いた不敗の砦は、連合国軍による反転攻勢の足場となります。1943年夏のシチリア上陸作戦(ハスキー作戦)では、英主力部隊の一部がここから発進しました。また、激戦の中で負傷した兵士の野戦病院としての役割も果たしたそうです。同年9月8日、この海域に孤立したイタリア海軍は降伏し、この時点でマルタの第二次大戦が実質的に終わりました。9月12日にはヴァレッタ市内で戦勝パレードがおこなわれています。マルタ全域で2万9000の建物が破壊されるという大戦の傷は非常に大きなものでした。英国政府は3000万ポンド(戦後のブレトンウッズ・レートに換算すると当時の300億円くらい)を一挙に拠出して復興に着手しました。マルタの市民生活を立て直そうという善意はもちろんあったことでしょうが、冷戦の勃発をにらんで、この島が再び地中海の軍事的要衝として機能するためには、「後背地」であるマルタ社会の復興が欠かせない条件だったのです。1945年2月3日にはここでフランクリン・ルーズヴェルト米大統領とチャーチル英首相のトップ会談がおこなわれています。ソ連のスターリンと会う前に米英の利害調整がおこなわれたのでした。こうして両首脳は翌4日にクリミア半島のヤルタに乗り込み、終戦戦略と戦後秩序を確認する歴史的な会談に臨んだのでした。「ヤルタからマルタへ」のヤルタの前に、実はちょこっと「マルタ」があったことになりますね。
「ヤルタ」前日のマルタ会談 ルーズヴェルトとチャーチル
戦争は終わりましたがここが英領であることに変わりはありません。1949年に北大西洋条約機構(NATO)が設立されると、マルタはNATO海軍の拠点になりました(1971年まで)。エジプトのナセルがスエズ運河の国有化を宣言したことに端を発する第二次中東戦争(別名スエズ動乱 エジプト×英国・フランス・イスラエル)では、主に空軍による中東攻撃の拠点として再び「利用」されています。このまま未来永劫、英国の軍事活動に付き合わされるかと思われたマルタでしたが、1962年の住民投票で独立を選択しました。博物館の展示は非常によく整っていて20世紀の歴史がよくわかるのですが、この独立に関する部分の歯切れがどうも悪く、一度も自律した国家をもったことのないマルタの人たちが何ゆえに小国として立つことを選択したのかがよくわからないままです。おそらくは戦後における英国のステータスの低下を受けて、同国に付き合わされることのリスクの大きさを思ったということでしょう。1979年には英海軍が全面的に引き上げます。解説板はこう語ります。「軍事力の存在から解放されたという喜びの反面で、マルタの人々は、産業、収入、そして経済的安定の主たる源泉を失ってしまったことを知った。マルタは真の試練に直面したのである」。
大戦中のシェルターを模した区画に、戦後マルタの歴史が展示されている
交通の、そして戦略上の要衝という以外にこれといった産業も、十分なマンパワーもないミニ国家は生き残りの道を模索したようです。1980年代に入ると、そうした「丸腰の要衝」という位置を生かして、自らは中立を宣言し、国際紛争を解決するための場を提供しますという立場を明らかにしました。文明の交差路であり、多様な人々に長く支配されてきたこともあって、寛容で視野の広い国民性がつくられていったのではないかと私は想像しました。「何だったら仲を取り持ちますよ」というのは、当事国にとっては貴重なコマになりえます。各国がマルタを信頼すれば、マルタの安全保障にもなります。なるほど、そういうことだったのか。1989年12月の米ソ首脳マルタ会談はそのような文脈の中でおこなわれたものだったということですね。
2004年、マルタ共和国はEU加盟を果たしました。現加盟国の28ヵ国中でもちろん最小の国家です。ただEUというのは「多様性の中の統合」(United in diversity)をうたっているとおり、どの国家・民族もマジョリティにはなりえない共同体です。現在のEUを主導するドイツも、このマルタも1つの加盟国としてカウントされ(この部分がEUの立法機関上院にあたる閣僚理事会の制度に反映されている)、他方で「マルタ人」一人ひとりは「欧州市民」として数億人のうちの構成員となります(この部分がEUの下院に相当する欧州議会の制度に反映されている)。国際金融と観光で経済を運営したいマルタにとって欧州統合というのが追い風となり、また命綱であることは間違いありません。でも、それが現在――という話はまた後で。歴史を再現したパレードがそろそろはじまります。時計を数世紀、巻き戻すことにしましょう。
歴史装束に身を包んで、騎士団の儀式などを再現!
博物館、というか聖エルモ砦の中庭がその舞台になります。この行事の名称はイン・ガーディア・パレード(In Guardia Parade)。だいたい月イチ開催のようなので滞在中に見られてよい機会となりました。前述のようにマルタは欧州各地から参戦した騎士団によって実質的に統治されました。出身地も母語も多様な寄合所帯のため、団結や契約を象徴するような儀式を定期的におこなわなければならなかったのだと推察されます。
赤い装束に銀色の兜、長槍という、絵に描いたような騎士たち(地元のボランティアだそうです)が現れました。ひとりだけ衣装の異なるボス的な男性が命令を出すと、それに従って一斉に槍を突き出し、攻撃するポーズ。他には太鼓とラッパの担当の騎士がいます。ボスは観客へのMCを兼ねていて、ところどころで「これはフランスから来た騎士団の・・・」みたいな解説を英語で入れます。近代のそれとはずいぶん違うものの、軍事教練には違いなく、それが参加する人の一体感や帰属意識やモラルを高める効果があるのは古今変わりません。余談ですがアメリカ発祥の特別活動(学級活動・生徒会活動・学校行事の総称)が日本の教育課程に入ってきて久しいですが、少なくとも学校行事とくに運動会・体育祭などの(準備を含めた)運用というのは軍隊・軍事教練モデルに依拠していると私は思います。いいか悪いかは別の話ですよ。このパレードが往時をどれほど忠実に再現できているのかはわかりませんが、おそらくいまよりもずっと「儀式」的であったと思われます。そうであるほど、敵に対するというよりは内側への効果が上がるから。
騎士団同士の交歓
そのあと剣を手にした男性が2人(×2組)出てきて、決闘の場面を再現。剣舞というよりは殺陣(たて)に近い感じでけっこう本格的です(私もその種の古典芸能を多少たしなんでいたので)。一進一退の攻防の末に、ヒール役が斬られて倒れ、観客から大きな拍手。トーンは剣劇そのものですなあ。今度は各騎士団の旗を携えた騎士がひとりずつ進み出て、その旗を赤地に白十字のマルタ騎士団の旗とゆっくりと突き合わせます。ボスがあいだに入って旗の端を結びつけ接吻。参陣したときの誓約を再現したものでしょうか。イングランド、イタリア、フランス、ドイツ、スペインなど本当に多方面から騎士団がやってきていたらしい。この催しでは各騎士団1名の設定ですが、おそらく実際にはそれぞれ何十人といて、出身母体の誇りや威厳にかけても気合を入れてこの儀式に臨んだのではないかと思う。ちょっとだけ動画を撮りましたので雰囲気をどうぞ。
観客は150人くらいだったかな。舞台と客席の区別がないので、けっこう自由に演者に近づいて写真を撮ることができます。欧州各地から来たとおぼしき家族連れが大半ですが、なぜだか日本人ファミリーが数組来ていました。ここだけでなくあちこちで出会うので、家族連れで旅行するにはマニアックなところなんじゃないかと思いかけたのですが、空港に着いた直後にお話ししたご家族が「パリに住んでいます」とおっしゃっていたことを思い出しました。おそらく在欧の方たちがクリスマス休暇を利用して温暖なマルタに来ておられるのでしょう。中には旅慣れた感じの中年女性のグループもいて、そちらは日本から来て、欧州のあちこちを頻繁に回っておられるのだと思う。それがしも似たようなものでござる。約30分のデモンストレーションが終わると、「写真撮影をしたい方はぜひどうぞ!」とボスが呼び込みました。みんな映画村のノリで記念撮影。フェイスブックとかツイッターに載せるんでしょうね。
立派な博物館と興味深い歴史劇を見て、かなり満足度の高い日曜の朝となりました。基本的には町歩き派で、見どころ(観光スポット)とかイベントにはさほど関心がないのだけど、適度に織り込むのは大事。こういうのは好きなように行程をアレンジできる個人旅行ゆえです。有名だから見ようという発想はどうなのかね。それこそFBで見せびらかして「いいね!」などとかまってほしいだけだと寂しいと思うよ。
アッパー・バラッカ・ガーデンからグランド・ハーバー対岸を望む 右の写真で入り江の左側がヴィットリオーザ、右の「半島」がセングレア
さて、これからグランド・ハーバーをはさんだ対岸に行ってみようと思います。もうすっかり慣れたヴァレッタの町を縦断するように歩いて、町の入口付近にあるアッパー・バラッカ・ガーデンの展望台にやってきました。お天気のよい日曜の正午とあって、非常に多くの人が来ています。まずはこれから行こうという「対岸」を眺望。斜面にまで建物がびっしり密集した独特の景観もさることながら、それ自体が「湾」であるグランド・ハーバーにさらなる切れ込みがあるような地形が、ある種の奇観に思えてきます。それらの「半島」の先端まで建物びっしりというのもすごい。前述したように、それらを総称してスリー・シティーズというわけですが、いまいるヴァレッタが16世紀のマルタ包囲戦のあとで聖エルモ砦と地続きの部分に建設されたのに対し、あちらはそれ以前から都市としての機能をもっていたようです。思うに、防衛上の観点から首都機能を「要塞」上に移す必要があったんじゃないかな。そのマルタ包囲戦では、船と鎖でスリー・シティーズの入り江を塞いで敵の侵攻を食い止めようとしたらしい。
ガーデン(というかヴァレッタ市街)は、その対岸に比してもかなり高い場所にあります。これを海上から攻め落とすのはたしかに容易ではないですね。ヴァレッタのバスターミナルから€1.50の路線バスに乗ってもいいのだけど、奥深いグランド・ハーバーをぐるっと回り込む関係で30分くらいはかかりそう。それよりも湾を横切るフェリー(渡船)に乗るほうが早いし、おもしろそうですね。ガーデンの端にエレベータがあり、これで一挙に海面レベルまで降ります。そのレベルの「地面」はほとんどなく、船が接岸するポケットとかその関係の最小限の設備だけがあります。フェリーも路線バスなどと一体経営で、運賃は片道€1.50。往復だと€2.80になるそうなので、2 ways ticketと告げてそちらを購入しました。日昼は毎時3往復の運航なので、タイムテーブルを確認することなく気軽に乗れるのはいいですね。日々の通勤で利用している人もいるのでは。
フェリーで対岸のスリー・シティーズへ
PART4につづく
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