Malte, la
forteresse invincible
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PART2 |
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旧宗主国である英国の首都は聖誕祭翌日の26日もボクシング・デーと称する祝日で、地下鉄の便数なども間引かれ、人出もいま一つでしたが、ヴァレッタにそうした設定はなく通常の(そして2015年最後の)楽しい土曜日といった感じで、朝っぱらからにぎやかです。マーチャント通りとリパブリック通り、そしてその北側斜面などをじぐざぐに歩きます。市域が狭く道路がすべて直交する条里式の町なので、道に迷うとか方向感覚を失うということは基本的になさそうです。ただアップダウンだけは二次元の地図では読み取れません。実際に歩いてみて、うわ〜こうなっているのかとそこで実際に体感するのが楽しいと思いますよ。尾根にあたるリパブリック通りから、半島北岸のマルサイムシェット湾、南岸のグランド・ハーバーへはほぼ等距離です。北岸のほうに行ってみようかな。今日もお天気で朝日がきらきらしており、道路の斜面や湾内の水面を照らして、きれいですね。冬場どんより気味の西欧の人たちが避寒地としてここを訪れるのもわかる気がします。何より暖かい。当然のことに、クリスマスの遠征には欠かせないダウンコート(通称「満州コート」)ではなく、通常着用している普通のコートをまとっていますが、それも要らないくらいです。 オールド・ベーカリー通り(Old Bakery Street)という不思議な名前の道路をしばらく歩きました。かつてパン屋さんがあったそうだけど、かつてといっても数世紀前のことらしい(笑)。薄汚れた建物が密集する坂道を抜けると、半島北岸に出ました。スリーマ行きのフェリーはこの下ですという表示があり、たしかに隅田川の水上バスみたいな船が小さな桟橋に停泊していました。滞在中これにもぜひ乗ってみなくては。いまいるヴァレッタの古めかしさと対岸のスリーマの現代感は、前日も思ったけどすごいギャップ。どちらかが冗談なんじゃないかとすら思いますよね。ここにも馬車タクシーが来ていて、けっこうなスピードで一般道を走り抜けていきました。町の広さとアップダウンのおもしろさ、座標の取りやすさなどからすると、大人数で巨大ドロケーとか逃走中なんかをやると盛り上がりそうかな。ポルトガルの首都リスボンも勾配が基本という町でした。あちらは湾曲した道路ばかりなのに対し、こちらヴァレッタは縦横のはっきりした構造なので、勾配があればかなり先のほうまで見通すことができ、それがまた独特の景観をつくっています。たまに来るのはいいけど住んでみると大変かもね。膝かどこかをすぐに悪くするか、逆に嫌でも歩くので身体が頑丈になるかのどちらかでしょう。 行く年2015年は、個人的には波乱も混乱もない非常に穏やかな1年で、心身ともまずまず健康に過ごせました。1年前は奥歯を痛めてしまい、その手当てと大規模な改良工事のためにいろんなことが制限されていました。今年に入ってから工事は継続中であるものの、それをきっかけに身体のメンテナンスに気を配るようになったこともあって、別のどこかがイカレるということにもなっていません。あえていえばIT依存が過ぎたためか近眼が悪化してメガネの度を強めたくらいですかね(箱推ししていたアイドルグループが終わってしまった虚脱感はなおつづいていますが)。しかしそれよりも世界と日本の情勢悪化のほうが心配です。国家と国民の関係をひっくり返して考える権力者には社会契約説の初歩から学びなおしてもらいたいものだけど、そういう知的な物言いこそムカツクんだよね〜というような反知性主義の気分に立脚した権力者どもだから、そんなお勧めを聞き入れるはずもありません。どうしたものだろう。あとから振り返って2015年が分岐点だったなんてことにならないといいのですが。
前日も歩いた国会議事堂前にやってきました。妙なゆるキャラが活動?しているけど何だろう。2016年のカウントダウン・イベントの告知を掲げているのは、ギリシア・ローマの遺蹟みたいな不思議な空間。孤立した柱廊がむき出しで立っています。ここはロイヤル・オペラ・ハウス(Royal Opera House)の跡。1866年に竣工した名建築でしたが、1942年4月にドイツ軍の空襲を受けて焼け落ちました。廃墟然となった跡地をどうするかがなかなか定まらず、近年になってようやくメモリアル・パークとして保全することになったそうです。新たにつけられた名称はマルタ語でPjazza Teatru Rjal。英語に直すとRoyal Theatre Squareということらしい。悲劇の痕跡をどう扱うのかというのはいつでも難しい問題です。ここマルタは、ナポレオン没落の1814年に英国の王立植民地となり、海軍の基地が置かれました。第二次大戦では枢軸陣営のイタリアに対する最前線に位置したことから空爆の対象になったわけです。戦後も「独立国、主権国家ではない」という部分が微妙な足枷になりました。長年この島を支配している英国こそ何ものなのだという複雑な感情が入り混じります。アイルランドに行ったときにも少し似た構図を見ました。ナポレオンやヒトラーなどが、反英・反宗主国の民族意識を煽って接近ないし支援をはたらきかけています。攻撃を受ければ、「英国なんかに付き合うと痛い目に遭うぞ」というメッセージにもなるわけですね。
さて、これからマルタ島の東海岸にあるマルサシュロック(Marsaxlokk)という漁村に足を運んでみます。固有名詞の綴り方が見たこともない感じだね。明日の日曜だとフィッシュ・マーケットが立つことを承知しているのですが、聖エルモ砦のパレードを見たいのでそっちを優先。まあ何かあるでしょう。ヴァレッタのバスターミナルは、方面別のプラットフォームが路肩に区切られている立派なものです。系統などは事前にネットで調べてあります。その81系統のバスが停まっているので、マルサシュロックに行きますかと運転士に確認して乗車。東京と同じ前乗り中降り前払いです。前述したように公共交通機関はバスかタクシーしかなく、そのバスというのもいうところの「路線バス」だけ。このサイズの島ならそういうことになるでしょうね。太川さんと蛭子さんでなくてもここに来れば「路線バスの旅」しかないわけだ。ものの本によれば、つい最近までマルタのバスはボンネットタイプのクラシックなもので、それが名物でもあったのですが(土産物店にはそれのおもちゃが売られている)、おなじみのタイプに替わりました。白と薄緑色のさわやかなツートンで、強めの陽射しにきらきら輝いています。運賃は何と€1.50均一。これは冬のもので、夏は€2だそうですが、それで島のあちこちに行けてしまうのだから安いですね。英国と同じで、運転台でお金を払うとレシート状のチケットをくれます。
まもなく平成27年が暮れようとしています。もうかなり前のことになりましたが日本の平成元年(1989年)は世界的に見るとものすごい変革・変動の1年でした。8月19日のハンガリーの国境開放にはじまる一連の東欧民主化は、連鎖というのがふさわしいほどの劇的な展開を見せます。ハンガリーは10月23日に社会主義体制を放棄。11月9日、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が国境を開放、つまりベルリンの壁が崩壊。翌10日、ブルガリアのジフコフ独裁体制が崩壊。11月17日にはチェコスロヴァキアの民主化(ビロード革命)。ソ連の影響下になく独自の社会主義路線を採っていたユーゴスラヴィアとアルバニアでも民主化につながる政変が起こりました。最後まで強硬な姿勢を崩さなかったルーマニアのチャウシェスク政権が民衆の暴動によって信じられないような結末を迎えたのが、暮れも押し迫った12月25日のことでした(ことの経緯は非常に興味深いのでその時代を体験していない人はぜひお調べください)。ルーマニアをのぞく東欧の社会主義国が雪崩を打って「民主化」していったのを受け、それらの総元締めだったソ連のゴルバチョフ書記長は、アメリカのブッシュ(父)大統領とのトップ会談に臨みます。12月2日、マルサシュロック湾に停泊していたソ連の客船ゴーリキー号でのことでした。歴史の教科書にもマルタ会談として掲載されているこの会議で、何が取り決められたというわけでもないのですが、両者は初めから歴史に名を残すつもりで、その「儀式」に踏み切ったのです。冷戦が、終わりました。東西冷戦の終結が、ここで宣言されたのです。――日々報道される目の前のリアルがあまりに劇的だったため、歴史を学ぼうという当初の意図を打ち捨てて、教育学に転向しようと決めた(決めてしまった)のがそのときでした。 どうやら「ヤルタからマルタへ」(From Yalta to Malta)という語呂合わせをしたくて、米ソはここを会談の場所に選んだふしがあります。ヤルタ会談というのは対独・対日戦の終わらせ方を取り決めた1945年2月の米英ソ首脳会談。44年の年月を経て、一つの時代が終わったことになります。マルタといえば?と問われても多くの日本人はピンと来ないのですが(ここが原産の小型犬マルチーズMalteseの名前に気づくこともないので)、ある年代以上の人にとっては「ヤルタからマルタへ」はたしかに印象深いフレーズとして残っています。それがどこにあるのかを知る人は、やっぱり少ないでしょうけどね。 バス停は、まるで湖岸のように見える海岸にありました。そのそばにけっこうな数の屋台が出ています。名産のハチミツやジャム、塩などを売る食材店や、これも名物なのかテーブルクロスなどの布をぶら下げて販売するお店、そしてよくあるスーベニア・ショップ。あいだを通り抜けると両側から明るい声がかかります。観光地ではありますが、観光客が一度にわさっと押し寄せるわけでもないだろうに、商売になるのかな? 屋台群を通り抜けると、今度はレストランのテラス席が並んでいます。海岸道路に面した店舗がそれぞれに張り出しをもっているような感じで、7、8軒はあったような。11時過ぎなので各店ともランチの準備に入っているところ。あとでどこかを選んで食事しよう。
1軒のテラスに席をとりました。あと3mで海だけどちょうどパラソルの影に隠れるくらいの場所です。先客は2組くらい。正午になるころ満席になりました。案内してくれたマダムは南欧系と中東系の中間くらいの顔立ちで、なかなか陽気です。かなり訛りの強い英語でお勧めを紹介してくれました。その後も観察していると、観光客らしい人たちの言語はけっこう多様で、イタリア語、スペイン語、フランス語などが聞こえました。当然のことに店側とのコミュニケーションは英語です。マルタの人は基本的にマルタ語と英語のバイリンガルらしい。そういう環境で育てばそうなるだろうということのほかに、英語を話さなければ商売にならんというシンプルな事情があるはずです。
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