Malte, la forteresse invincible

PART2

 


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26日は7時ころ起床。前日指示されたとおり8時ころ1階にある朝食ルームに行くと、笑顔の主人が立っていて、席に案内してくれます。どうやら階段を下りる物音に反応して、0階の簡素な調理場から上がってくるらしい。「おはようございます。今朝のご気分はいかがですか」 ――ベリーグッド、サンキュー。「卵はフライドエッグになさいますか? スクランブルド? お飲み物はコーヒーでよろしいですか?」 ――フライドエッグにしてください。あ、卵は1個で結構です。それとコーヒー。朝食ルームはテーブル3つ、つまり同時に3組しか入れないスペースですが、おそらく宿泊のキャパ自体がそうなのでしょう。反対側のテーブルに先客男性がいて、ハイペースで食事しています。Morningと声をかけたものの無言。様子から見て30代くらいの日本人らしく困ったものです。テーブルにはパン、オレンジジュース、バターやチーズやジャムのたぐい、シリアル、そして生ハムなどが並べられています。スライスした小さなパンは麦芽の風味がして美味しい。コンビニで売られているような袋入りの菓子パンもこんもり盛られているのは不思議。ジャム入りクロワッサンやビスケットふうのパンなので、おそらくこれはイタリアの朝食の感じですね。ほどなく運ばれたお皿にはベーコンエッグとビーンズ(白インゲンを煮たやつ)。こちらは完全に英国仕様で、隣国やら旧宗主国やらの文化がハイブリッドになっているわけですか。上品な奥さんも初めて顔を見せました。

 


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時半ころゆるゆると出動します。この午前はバスに乗って東海岸に遠征(というほどでもないか)することにしており、まずはバスターミナルに向かってゆっくり歩こう。宿のあるところから1筋北側に進むと、前夜ウサギを食べたレストランもあるマーチャント通りです。ここに朝市が出ていました。左右に露店が立って道路のスペースをほとんど埋めつくすほどです。食品はほとんどなく、衣類、下着、小物・アクセサリー、バッグ、靴など。お祭りの縁日で売っていそうなプラスチックのおもちゃなんかもあります。こんなので商売になるのかねと思いますが、通りかかった人とお店の人が親しげにマルタ語で会話していたりするので、ご近所さんの日常ということなのでしょう。町の景観が西欧離れしていて、英国式に左側通行の国なのに、なぜだかユーロが普通に使われているというのも不思議といえば不思議です。ちなみに電源のコンセントも英国式の3つ穴BF型(ただし宿の部屋には西欧式の2つ穴C型も並置されていました)。

 
マーチャント通り

旧宗主国である英国の首都は聖誕祭翌日の26日もボクシング・デーと称する祝日で、地下鉄の便数なども間引かれ、人出もいま一つでしたが、ヴァレッタにそうした設定はなく通常の(そして2015年最後の)楽しい土曜日といった感じで、朝っぱらからにぎやかです。マーチャント通りとリパブリック通り、そしてその北側斜面などをじぐざぐに歩きます。市域が狭く道路がすべて直交する条里式の町なので、道に迷うとか方向感覚を失うということは基本的になさそうです。ただアップダウンだけは二次元の地図では読み取れません。実際に歩いてみて、うわ〜こうなっているのかとそこで実際に体感するのが楽しいと思いますよ。尾根にあたるリパブリック通りから、半島北岸のマルサイムシェット湾、南岸のグランド・ハーバーへはほぼ等距離です。北岸のほうに行ってみようかな。今日もお天気で朝日がきらきらしており、道路の斜面や湾内の水面を照らして、きれいですね。冬場どんより気味の西欧の人たちが避寒地としてここを訪れるのもわかる気がします。何より暖かい。当然のことに、クリスマスの遠征には欠かせないダウンコート(通称「満州コート」)ではなく、通常着用している普通のコートをまとっていますが、それも要らないくらいです。

 

スリーマ行きのフェリーが着く桟橋

オールド・ベーカリー通り(Old Bakery Street)という不思議な名前の道路をしばらく歩きました。かつてパン屋さんがあったそうだけど、かつてといっても数世紀前のことらしい(笑)。薄汚れた建物が密集する坂道を抜けると、半島北岸に出ました。スリーマ行きのフェリーはこの下ですという表示があり、たしかに隅田川の水上バスみたいな船が小さな桟橋に停泊していました。滞在中これにもぜひ乗ってみなくては。いまいるヴァレッタの古めかしさと対岸のスリーマの現代感は、前日も思ったけどすごいギャップ。どちらかが冗談なんじゃないかとすら思いますよね。ここにも馬車タクシーが来ていて、けっこうなスピードで一般道を走り抜けていきました。町の広さとアップダウンのおもしろさ、座標の取りやすさなどからすると、大人数で巨大ドロケーとか逃走中なんかをやると盛り上がりそうかな。ポルトガルの首都リスボンも勾配が基本という町でした。あちらは湾曲した道路ばかりなのに対し、こちらヴァレッタは縦横のはっきりした構造なので、勾配があればかなり先のほうまで見通すことができ、それがまた独特の景観をつくっています。たまに来るのはいいけど住んでみると大変かもね。膝かどこかをすぐに悪くするか、逆に嫌でも歩くので身体が頑丈になるかのどちらかでしょう。

行く年2015年は、個人的には波乱も混乱もない非常に穏やかな1年で、心身ともまずまず健康に過ごせました。1年前は奥歯を痛めてしまい、その手当てと大規模な改良工事のためにいろんなことが制限されていました。今年に入ってから工事は継続中であるものの、それをきっかけに身体のメンテナンスに気を配るようになったこともあって、別のどこかがイカレるということにもなっていません。あえていえばIT依存が過ぎたためか近眼が悪化してメガネの度を強めたくらいですかね(箱推ししていたアイドルグループが終わってしまった虚脱感はなおつづいていますが)。しかしそれよりも世界と日本の情勢悪化のほうが心配です。国家と国民の関係をひっくり返して考える権力者には社会契約説の初歩から学びなおしてもらいたいものだけど、そういう知的な物言いこそムカツクんだよね〜というような反知性主義の気分に立脚した権力者どもだから、そんなお勧めを聞き入れるはずもありません。どうしたものだろう。あとから振り返って2015年が分岐点だったなんてことにならないといいのですが。

 
ヴァレッタは坂の町  (左)急な階段 (右)急な斜面


マルタ語/英語が併記された表示 おお、ラテン文字に見たことのない符号がついている!!


しばらく北岸側の斜面をジグザグ歩いたのち、リパブリック通りに復帰しました。まだ10時過ぎなのにかなりの人通りがあります。クリスマスを家で過ごした人たちが、最後の週末を楽しもうというので出てきたのでしょう。明日は日曜なのでまたお店はクローズになるはずで、買い物をと思わぬでもありませんが、火曜の午前まで長々と滞在するのでそこはまだ余裕。

前日も歩いた国会議事堂前にやってきました。妙なゆるキャラが活動?しているけど何だろう。2016年のカウントダウン・イベントの告知を掲げているのは、ギリシア・ローマの遺蹟みたいな不思議な空間。孤立した柱廊がむき出しで立っています。ここはロイヤル・オペラ・ハウス(Royal Opera House)の跡。1866年に竣工した名建築でしたが、19424月にドイツ軍の空襲を受けて焼け落ちました。廃墟然となった跡地をどうするかがなかなか定まらず、近年になってようやくメモリアル・パークとして保全することになったそうです。新たにつけられた名称はマルタ語でPjazza Teatru Rjal。英語に直すとRoyal Theatre Squareということらしい。悲劇の痕跡をどう扱うのかというのはいつでも難しい問題です。ここマルタは、ナポレオン没落の1814年に英国の王立植民地となり、海軍の基地が置かれました。第二次大戦では枢軸陣営のイタリアに対する最前線に位置したことから空爆の対象になったわけです。戦後も「独立国、主権国家ではない」という部分が微妙な足枷になりました。長年この島を支配している英国こそ何ものなのだという複雑な感情が入り混じります。アイルランドに行ったときにも少し似た構図を見ました。ナポレオンやヒトラーなどが、反英・反宗主国の民族意識を煽って接近ないし支援をはたらきかけています。攻撃を受ければ、「英国なんかに付き合うと痛い目に遭うぞ」というメッセージにもなるわけですね。

 

ロイヤル・オペラ・ハウス跡


マルタは1964年に英連邦国家(英女王を元首とする)として独立しますが、10年後の1974年にはマルタ共和国として完全に英国の影響下を脱しました。東西対立が深刻になっている時期なのに思い切った決断だなと思うものの、英国そのものの力が最も衰退していた時期でもあるのです。欧州連合(EU)への加盟は2004年。空襲の記憶をどうするかという問題が決着したのは、時間の経過もそうですが、冷戦終結とか欧州統合という文脈で考えるほうがよいかもしれません。地図少年だった私がマルタという小国の存在に気づいたのは4年生くらいだったと思います。ということは国家として自立したばかりの1970年代か。実際にこうして訪ねることになるなんて思いもしませんでした。このところEU加盟国をコンプリートしようかなんて思いかけており、そういう動機なのだとすれば非加盟のままなら今回も視野に入れなかった可能性があります。

さて、これからマルタ島の東海岸にあるマルサシュロックMarsaxlokk)という漁村に足を運んでみます。固有名詞の綴り方が見たこともない感じだね。明日の日曜だとフィッシュ・マーケットが立つことを承知しているのですが、聖エルモ砦のパレードを見たいのでそっちを優先。まあ何かあるでしょう。ヴァレッタのバスターミナルは、方面別のプラットフォームが路肩に区切られている立派なものです。系統などは事前にネットで調べてあります。その81系統のバスが停まっているので、マルサシュロックに行きますかと運転士に確認して乗車。東京と同じ前乗り中降り前払いです。前述したように公共交通機関はバスかタクシーしかなく、そのバスというのもいうところの「路線バス」だけ。このサイズの島ならそういうことになるでしょうね。太川さんと蛭子さんでなくてもここに来れば「路線バスの旅」しかないわけだ。ものの本によれば、つい最近までマルタのバスはボンネットタイプのクラシックなもので、それが名物でもあったのですが(土産物店にはそれのおもちゃが売られている)、おなじみのタイプに替わりました。白と薄緑色のさわやかなツートンで、強めの陽射しにきらきら輝いています。運賃は何と€1.50均一。これは冬のもので、夏は€2だそうですが、それで島のあちこちに行けてしまうのだから安いですね。英国と同じで、運転台でお金を払うとレシート状のチケットをくれます。

 
バスターミナルに立つ屋台群は日常生活の場でもある


このバスは1020分発。途中までは空港から市内に入ったのと同じ道路を進み、そのあと首都の新市街らしきパオラ(Paola)の市域に入りました。この周辺は東京近郊を含めてよくある町並です。つまり世界遺産のヴァレッタだけが見るからに異様なクラシック・タウンであるわけね。道幅はどこも狭くて、運転士はなかなか器用にハンドルを回します。しばらく走って、ようやく田園風景が見えてきました。ヴァレッタとそのつづきの市街地は思った以上に広がりがあります。道路は直線になりましたが舗装状態が何ともひどい悪路で、スピードともあいまってがたがたと揺れます。運転席上部の電光掲示板に次の停留所名が示されるのはどことも同じ。ただここのはマルタ語と英語が交互に表示されます。音声アナウンスはありません。悪路区間を抜け、けっこうなアップダウンを経て、約40分でマルサシュロックに着きました。同類の観光客らしき数名と一緒に中ドアから下車。

 


さっそく目に飛び込んでくるのは青い空と青い海。そして青い漁船たち。空と海だけならよくある景観だけど、船までスカイブルーに塗られているのがとても印象的です。こんなに詰めて大丈夫なのと思うほどの数が密集して繋留されています。船上で作業している人もちらほら。いまいるところはマルサシュロック湾のいちばん奥にあたります。この湾は大臼歯のような形状、つまり2ヵ所で陸側に海が入り込んでいます(歯医者さんの世話になりすぎて喩えが変)。マルタ島全域の中ではヴァレッタの両岸に入り込んだ2つの湾が特徴的だけど、東海岸のマルサシュロック湾もなかなか深くて、良港なのだと思われます。

まもなく平成27年が暮れようとしています。もうかなり前のことになりましたが日本の平成元年(1989年)は世界的に見るとものすごい変革・変動の1年でした。819日のハンガリーの国境開放にはじまる一連の東欧民主化は、連鎖というのがふさわしいほどの劇的な展開を見せます。ハンガリーは1023日に社会主義体制を放棄。119日、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が国境を開放、つまりベルリンの壁が崩壊。翌10日、ブルガリアのジフコフ独裁体制が崩壊。1117日にはチェコスロヴァキアの民主化(ビロード革命)。ソ連の影響下になく独自の社会主義路線を採っていたユーゴスラヴィアとアルバニアでも民主化につながる政変が起こりました。最後まで強硬な姿勢を崩さなかったルーマニアのチャウシェスク政権が民衆の暴動によって信じられないような結末を迎えたのが、暮れも押し迫った1225日のことでした(ことの経緯は非常に興味深いのでその時代を体験していない人はぜひお調べください)。ルーマニアをのぞく東欧の社会主義国が雪崩を打って「民主化」していったのを受け、それらの総元締めだったソ連のゴルバチョフ書記長は、アメリカのブッシュ(父)大統領とのトップ会談に臨みます。122日、マルサシュロック湾に停泊していたソ連の客船ゴーリキー号でのことでした。歴史の教科書にもマルタ会談として掲載されているこの会議で、何が取り決められたというわけでもないのですが、両者は初めから歴史に名を残すつもりで、その「儀式」に踏み切ったのです。冷戦が、終わりました。東西冷戦の終結が、ここで宣言されたのです。――日々報道される目の前のリアルがあまりに劇的だったため、歴史を学ぼうという当初の意図を打ち捨てて、教育学に転向しようと決めた(決めてしまった)のがそのときでした。

 
海岸には市も出ている

どうやら「ヤルタからマルタへ」From Yalta to Malta)という語呂合わせをしたくて、米ソはここを会談の場所に選んだふしがあります。ヤルタ会談というのは対独・対日戦の終わらせ方を取り決めた19452月の米英ソ首脳会談。44年の年月を経て、一つの時代が終わったことになります。マルタといえば?と問われても多くの日本人はピンと来ないのですが(ここが原産の小型犬マルチーズMalteseの名前に気づくこともないので)、ある年代以上の人にとっては「ヤルタからマルタへ」はたしかに印象深いフレーズとして残っています。それがどこにあるのかを知る人は、やっぱり少ないでしょうけどね。

バス停は、まるで湖岸のように見える海岸にありました。そのそばにけっこうな数の屋台が出ています。名産のハチミツやジャム、塩などを売る食材店や、これも名物なのかテーブルクロスなどの布をぶら下げて販売するお店、そしてよくあるスーベニア・ショップ。あいだを通り抜けると両側から明るい声がかかります。観光地ではありますが、観光客が一度にわさっと押し寄せるわけでもないだろうに、商売になるのかな? 屋台群を通り抜けると、今度はレストランのテラス席が並んでいます。海岸道路に面した店舗がそれぞれに張り出しをもっているような感じで、78軒はあったような。11時過ぎなので各店ともランチの準備に入っているところ。あとでどこかを選んで食事しよう。

 
漁船の目玉模様はフェニキア由来のおまじないらしい


このあたりは観光色がちょこっとある程度で、雰囲気は平穏そのもの。都市部と違って集合住宅が少なく、空間にゆとりがあります。当然ヴァレッタとはかなり景観が違います。何か見どころがあるわけでもなくて、こういう雰囲気そのものをのんびり味わいましょうというところかな。かれこれ20回以上も欧州に来ていますけど、真冬にしてこのまぶしさ、空と海の青さというのは初めての体験で、たぶん欧州各地から避寒のために訪れる人もこれを味わおうとしているのでしょう。例の本とかガイドブックの写真でそうしたブルーの感じを見てはいましたが、夏のものだと思っていたんですよね。12月でもそうなのか、いいなあ。当方も一昨日までけっこうハードな日常だったので(年末だからね)、解放された気分になっています。

 
裏通りもちょこっと散策 マルタ語オンリーの貼り紙は、Google翻訳によれば「ごみの不法投棄には罰金を科す」ということらしい


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時半を回ったので、ぼちぼちどこかのテラスに座ってランチにしようかな。昨夜の感じからしても料理がさくさく運ばれるとは思えず、ならば1時間半くらいみてゆっくり過ごすほうがよさそうです。店の造りや雰囲気はどれも似たようなもので、黒板メニューなどをのぞき込んでも料理や料金にさほど違いはありません。「獲れたて新鮮」みたいなキャッチが目立ちます。店によっては食材となる魚介類を尾頭つきのままディスプレイして、客を誘導しているね。ところで、ふだん食べる肉類といえば牛・豚・鶏くらいで、欧州に来るとそれに仔羊や昨夜のウサギなどが加わる程度。いっぽう魚介類は種類豊富で、古今東西ゲームをしてもなかなか決着しないと思うほどです。それは欧州でも同じ。ですからお魚関係を英語で何というのかほとんどのものは知らないんですよね。そもそも日本近海と地中海とでは魚の種類もずいぶん違うでしょうし。

1軒のテラスに席をとりました。あと3mで海だけどちょうどパラソルの影に隠れるくらいの場所です。先客は2組くらい。正午になるころ満席になりました。案内してくれたマダムは南欧系と中東系の中間くらいの顔立ちで、なかなか陽気です。かなり訛りの強い英語でお勧めを紹介してくれました。その後も観察していると、観光客らしい人たちの言語はけっこう多様で、イタリア語、スペイン語、フランス語などが聞こえました。当然のことに店側とのコミュニケーションは英語です。マルタの人は基本的にマルタ語と英語のバイリンガルらしい。そういう環境で育てばそうなるだろうということのほかに、英語を話さなければ商売にならんというシンプルな事情があるはずです。

 
 
道路沿いの飲食店がその「前」の海岸にテラスを出している シイラ(Lampuki)の料理はMust Tryとありますね!


がっしりとしたメニューのバインダーを手にしましたが、黒板に出ている日替わりメニューにしようかな。Lampuki Seasonとあり、その名詞がすでにわかりません。リュックにはポケットサイズの英和辞典(『エクシード英和辞典』、三省堂)が入っています。欧州遠征の際のお守りみたいなもので実際にこれを開くことはまずないのだけど、久しぶりに単語を調べてみました。しかし載っていないなあ。これはきっとマルタ語ですね。そこで「地球の歩き方」の料理名リストみたいな箇所を見てみたら「シイラ」のことらしい。シイラというのは安物のカマボコに使われるやつじゃなかったかな?(あとで調べたらやはりそうで、すぐに鮮度が落ちるため日本ではメジャーではないらしい。ハワイでいうマヒマヒ) Seasonとあるのだからいまが旬の名物なのでしょう。魚のスープとメインのランプキのグリルで€12だから値段もお手ごろです。飲み物はグラスの白ワイン。


 


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年前のゴルビーとパパブッシュは何を食べたんだろう? 白ワインを舐めながら待っていると、ややあって魚のスープが運ばれました。トマトで色と風味をつけてありますが、魚のダシのにおいがぷんぷんします。具はいずれも細かく刻んだタマネギ、ニンジン、セロリ、ニンニクと何だかの香草(ハーブに詳しくないのです)、それと白身魚。魚も細かいのだけどけっこう大きめの身も入っています。深い味わい。きっとあれだな、料理用としてサクを切り取ったあとの中骨とその周辺を煮出してストックをとったんですね。われわれがタイの刺身を食べたあとでアラの吸い物を出してもらうようなやつですたぶん。12月の屋外なのに気温はどんどん上昇中でおそらく25度くらいあります。コートは要らんです。スープのあとメインディッシュが運ばれるまでにやっぱり20分以上かかりました。尾頭つきで来るかなと予想していたら、魚を骨ごと輪切りにしてニンニク風味をつけ、オーヴンで焼いたもののようです。というわけで前夜のウサギにつづいて解体ショー。外側はかりっとしており美味い。身はかなり分厚いですね。歯ごたえと味わいはマグロのカマ焼きに近いかもしれません。だんだん欧州にいる感じがしなくなり、日本のどこかの海岸で焼き魚を食べているような気分になってきました。隣席の夫婦はシーバス(スズキ)の丸焼きに挑んでいます。そちらは尾頭つきのまま丸焼きで、でかい! お箸があれば万能なのにナイフとフォークでというのがいつももどかしいな〜。ワインが早々になくなり、追加しようかなとも思ったのですが、魚の味が濃いのでそれを洗いたくなり、めずらしくスティル・ウォーター(炭酸のないミネラル・ウォーター)を頼みました。お勘定は込み込みで€17。地中海の海岸でシーフードなんて、われながらずいぶん直球のことをやりますなあ。

 

PART3につづく


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。