Voyageur
à Lituanie: Vilnius et Kaunas
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PART4 |
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目に入ったのはカウナス工科大学(Kauno technologijos universitetas)と、スタイリッシュな建物のヴィータウタス・マグヌス大学(Vytauto Didžiojo universitetas)。このあたりの高等教育に関する知識が皆無なので、へえ大学があるよ、と現地では思っただけですが、カウナスに有力大学が集まっているというのにはやはり歴史的事情があります。18世紀末いらいロシア帝国に支配されてきたリトアニアは、第一大戦中の1915年、ドイツ軍が侵攻して占領したのを機に独立を宣言し、1918年にドイツが敗北すると自立をめざしました。しかし勢力の回復を図るロシア・ボリシェヴィキに加えて、こちらも久々の独立を果たしてその勢いで領土拡張をねらうポーランドも参戦し、三つ巴の壮絶な戦いとなります。どうにか統治領域を確保して独立を確定させたのは1922年。ヴィータウタス・マグヌス大学の前身にあたるリトアニア大学はこのとき国策として創立されました。本来ならば伝統あるヴィリニュス大学を復活させればよかったのですが、前述のようにヴィリニュス付近をポーランドに奪われてしまったため、臨時首都としたカウナスに新設することになったわけです。1940年以降に統治者となったソ連は何を恐れたのか文系学部の解体を命じ、医学部と工学部を分離させましたが(後者がカウナス工科大学)、1989年にヴィータウタス・マグヌス大学が復活をみます。この1989年というのがリトアニアにとってのメモリアル・イヤーになりました。
最初の独立と書きましたが、バルト三国の他2ヵ国、ラトヴィアおよびエストニアとは異なって、リトアニアは国家を形成した栄光の歴史を有しました。ただ前述したように、16世紀にはポーランドにほぼ吸収されてしまいますので、リトアニア大公国としての盛時は西暦1400年前後ということになります。そのころ大公だった人物が、大学や博物館の名になっているヴィータウタス(Vytautas 1352〜1430年)。リトアニア大学がヴィータウタス・マグヌス大学(マグヌスは「大」の意味)と改称されたのは没後500年の1930年で、1922年に独立を果たしたリトアニア共和国はすでにかなり傾いていました。長くロシアの支配下にあって国家運営の経験をもたなかったリトアニアは、そもそも小国であるため経済も外交もきわめて危うい状態にありました。ラトヴィア、エストニアともども、そしてフィンランドやポーランドもそうなのですが、英国やフランスなどの西欧諸国にとっては、新たに誕生してしまった巨大な社会主義国家・ソ連の影響力をできるだけ前方で食い止めるための緩衝地帯として、それらの国々の独立を支援したにすぎません。逆にソ連からすれば、欧州に勢力を拡大するためにはこれらの新興国を影響下に置くことが必須となります。リトアニアでは、議会政治が迷走して収拾がつかなくなり、1926年に独立の功労者のひとりであったアンタナス・スメトナ(Antanas Smetona ヴィータウタス大学の教員だった)がクーデタを決行して権威体制を敷き、彼の腕力でどうにか国家運営を安定させますが、それは民主主義の犠牲の上にあるものでしたし、いよいよ危機的状況に立たされたときに彼ひとりの判断で国家の運命が決まってしまうということでもありました。
1939年8月23日、ソ連とナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を電撃的に締結し、世界を驚愕させました。ソ連軍と戦闘中(ノモンハン事件)でドイツとの同盟をどうするかと考えていた日本の平沼騏一郎内閣が、どうなっとるかわかりゃせんと青ざめて(「国際情勢は複雑怪奇」)総辞職するという余波もあります。この独ソ条約には秘密協定が付されていて、ソ連とドイツにはさまれた地域――要するに例の「緩衝地帯」にあたる部分――を両国で山分けするという趣旨の取り決めが結ばれていました。バルト地域では、ラトヴィアとエストニアがソ連の、リトアニアがドイツの勢力圏であると定められています。が、どうやらスターリンは最初からリトアニアも取るつもりだったようで、1940年6月、バルト三国に対してソ連軍の駐留許諾を強く求め、認めぬならば軍事侵攻すると脅しました。三国それぞれに苦悩があり、そして同じ結論に達します。スメトナは6月15日の閣議をこの場所でおこなうのですが、ソ連の条件を飲むことに同意する閣僚はなく、最後はみずからの権限で受諾を決めるのです。スメトナは大統領を辞任してその日のうちに亡命、やがてアメリカで死亡しました。リトアニア議会の「加入要請決議」を受けてソ連が同国を接収するのは8月3日のことです。杉原千畝が「命のビザ」を書きつづけていたのはそのころでしたね。宿命の臨時首都カウナスは、失意の底に沈みました。
旧官邸を辞して旧市街に入ります。しっとりとした石畳はいつだって絵になりますが、また気温が下がってきました。市庁舎広場を通り越し、ネムナス川とネリス川の合流地点にあるサンタコス公園(Santakos Parkas)に行ってみます。公園といっても遊歩道といくらかの運動施設があるくらいで、足許の積雪に加えて風が吹きつけるため、まあ寒い。つい速足になって一周します。カウナス城をちらっと見学し、旧市街の何本かの道を歩いてみて、だいたいなすべきことを終えてしまいました。歴史的な経緯もあって、カウナスはヴィリニュスに対してライバル意識を抱いているそうですが、町の規模としてはかなり控えめなのではないでしょうか。ヴィリニアウス通りにあったチェーン店とおぼしきカフェで、ラテ(Mサイズで€2.30)を頼んで休憩。ま、夕食までの時間稼ぎですね。寒いせいかこのあたりのカフェはどこも盛況のようです。
さて夕食。最近は食事から就寝までの時間を長くして体重を増やさないように心がけており、18時より前に夕食をとることが多くなりました。12月のリトアニアでは、17時半といえば完全なる「夜」ですのでいつも以上にディナー・タイムにふさわしい感じです。私だけでなく、暗くなったらディナーということなのか、レストランのたぐいはどこもかなりのお客が入っています。1軒で満員だといわれ、市庁舎広場に面した別のレストラン(ENTO DVARAS)に声をかけて入ってみました。ヴィリニュスの目抜き通りでも見かけており、掲出してあるメニューの感じがファミレス風ではあるものの、リトアニア料理だそうなのでいいじゃないですか。ファミレス風といえば夏のワルシャワで入った店では店員がこちらのテーブルをスルーしてばかりで頭に来たのだけど、ここもわりとスルーがち(笑)。ま、急ぐわけでもないのでいいですけどね。
パンケーキといえば和製英語のホットケーキを思い出す人もあるでしょうが、中東欧のレストランでその表示があればたいていジャガイモをベースにしてフライパンで焼いたやつです。食感は中華の大根餅とか韓国のチヂミなどに近いかもしれません。予想以上にシンプルな料理でしたが、サワークリームがよく合って、また空腹だったこともあってなかなか美味しい。3枚もあったのでそれでけっこう腹にたまり、メインの肉を食べられなかったら嫌だなと思ったら、さほどの量でなかったので助かりました。よくある話で、写真つきメニューはボリューミーに盛っていました(笑)。これはしかし、素朴すぎる料理だなあ。つなぎをほとんど使用していない感じの肉団子で、鹿肉のためにおいがかなり強い。フランス料理では、ジビエ系や鹿肉などにおいの強い肉には甘酸っぱい柑橘系のソースというのが定番で、ここのもそれに似て、ベリー系のソースが供されているわけですな。それに、ソフトなマッシュにさわやかなビーツというのはなかなか好相性なのではないか。赤紫色のビーツが出てくるとロシア料理を思い出します。ロシアやソ連の色がほとんど見えないリトアニアですが、こういうところに残っているのか、それとももともとビーツを食べる習慣があったのか。客層はやっぱりファミリーや若いカップルなどが中心で、18時半が近づくと続々と入店してきました。北・東欧系の子どもってひどくかわいいですね。店内にはWham!の「ラスト・クリスマス」が流れていて、なんともちゃらい(大笑)。鹿肉ボール€8.95、パンケーキ€4.75、ビール€2.75で〆て€16.45というのは、またもごきげんです。
12月29日(土)はお天気不明。まだ暗いのでね。朝食つきの宿泊なのだけど開始が7時からで、それでは間に合わないためカットして、6時半にチェックアウトします。バスは7時20分発、バス・ターミナルはすぐそこなので焦ることもないが、早めに移動しておけばいろいろな事態に対処することができます。発車案内板には7時台の便の告知がずらりと並んでいます。それにしては待合スペースの旅客の数はさほどでもありません。時刻表によれば、ヴィリニュス行きは毎時2〜3本程度とかなりあります。やはりバスでの流動が大きいのでしょう。長距離便のところを見ると、主な行き先としては、ワルシャワ、グダンスク、ベルリン、シュトゥットガルト、プラハ、ボン、ソフィア、パリ・・・ と、欧州全域ともいえるスケールです。パリまでバスに乗っていくの絶対に嫌だな〜。
発車予定の10分前に乗車受付がはじまります。ドライバーさんはワンオペらしく、最初にチケットのチェック。「パスポートも出しておいてください」と言い添えています。2年前も国境で係官がパスポート・チェックをしていたので同じことなのでしょう。券面改めは、バーコードを読み取るというわけでもなく、アナログにも文字を読んでの確認です。つづいて床下に荷物を搬入。ワンオペなのでずいぶん時間を要します。それから乗車となりますが、車内が真っ暗でシート・ナンバーが見えず、どの席が指定された11番なのかわかりません。近くの人に聞いたら「好きなところに座って大丈夫ですよ」と。まあこの人数ならばそうですね。前から5列目くらいのところに座ることにしました。7時22分に発車。10分くらいして、市の郊外で若い男性2人を乗せます。真っ暗なのに途中でよく拾えるものだと思いますが、ネット予約が事前に判明しているのでしょう。夜が明けたのは8時30分ころで、それまでは基本的に「夜のつづき」なので車内はしーんとして、ほとんど会話もありません。8時50分ころどこかに停車して、10分休憩との案内がありました。ここからも何組かが乗車します。孫とその両親を見送りにきたらしいおじいさんが、運転士と何やら話して盛り上がっていました。
途中休憩のあたりから車内の話し声も解禁?になったらしく、ヘッドホンの音漏れも含めてにぎやかになってきました。バスは順調に走行して、予定よりもかなり早い11時10分ころリーガのバス・ターミナルに到着しました。ここは前回も利用しているので構造などは承知しています。この時間の発着便がかなりあるようで、降車プールも待合スペースも荷物をもった人でいっぱいでした。
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