Voyageur à Lituanie: Vilnius et Kaunas

PART4

 


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杉原記念館のある高台からの「下山」は違うルートを通りましたので、カウナスの住宅街をゆっくり散策する結果となりよかったです。ホテルの立地する付近を含めて、この駅寄りの地区の景観は日本の地方都市のそれによく似ていて不思議。あまり欧州感がありません。正午を回ったのでいったんホテルに戻って小休憩。クリーニングが済んでいたので助かりました。1320分ころ再出動し、前日につづいて徒歩で旧市街をめざすわけですが、同じルートではおもしろくないので(しかも工事中のライスヴェス通りは興ざめだったので)、一筋北のトロリーバスの走る道を進んでみることにします。こちらも住宅街の一角ではありますが、オフィスやホテルなども目立ちます。そして文教地区でもあるようで、いくつかの大学やその図書館、ミュージアムなどが集まっていました。

目に入ったのはカウナス工科大学(Kauno technologijos universitetas)と、スタイリッシュな建物のヴィータウタス・マグヌス大学Vytauto Didžiojo universitetas)。このあたりの高等教育に関する知識が皆無なので、へえ大学があるよ、と現地では思っただけですが、カウナスに有力大学が集まっているというのにはやはり歴史的事情があります。18世紀末いらいロシア帝国に支配されてきたリトアニアは、第一大戦中の1915年、ドイツ軍が侵攻して占領したのを機に独立を宣言し、1918年にドイツが敗北すると自立をめざしました。しかし勢力の回復を図るロシア・ボリシェヴィキに加えて、こちらも久々の独立を果たしてその勢いで領土拡張をねらうポーランドも参戦し、三つ巴の壮絶な戦いとなります。どうにか統治領域を確保して独立を確定させたのは1922年。ヴィータウタス・マグヌス大学の前身にあたるリトアニア大学はこのとき国策として創立されました。本来ならば伝統あるヴィリニュス大学を復活させればよかったのですが、前述のようにヴィリニュス付近をポーランドに奪われてしまったため、臨時首都としたカウナスに新設することになったわけです。1940年以降に統治者となったソ連は何を恐れたのか文系学部の解体を命じ、医学部と工学部を分離させましたが(後者がカウナス工科大学)、1989年にヴィータウタス・マグヌス大学が復活をみます。この1989年というのがリトアニアにとってのメモリアル・イヤーになりました。

 
(左)小学校のデザインというのはだいたいどこでも似ている? (右)ヴィータウタス・マグヌス大学 3行目のローマ数字は「1922年」

 
(左)展望台と結ぶケーブルカーは運休中  (右)ヴィエーニベス広場に国家的偉人の胸像が並ぶ


ヴィータウタス大学の少し先に、ヴィータウタス大公戦争博物館(Vytauto Didžiojo Karo Muziejus)の立派な建物があり、その手前がヴィエーニベス広場(Vienybės aikštė)。長方形の広場を取り囲むように10体の胸像が並びます。固有名詞は知らないものばかりでしたが、記された生没年を見ればだいたい20世紀前半に活躍した人が多く、最初の独立にかかわる人物だということなのでしょう。灯火のともされたモニュメントは独立戦争の犠牲者を悼むものだそうです。「地球の歩き方」の記事によれば、ソ連時代に撤去され、これもやはり1989年に再建されたと。

最初の独立と書きましたが、バルト三国の他2ヵ国、ラトヴィアおよびエストニアとは異なって、リトアニアは国家を形成した栄光の歴史を有しました。ただ前述したように、16世紀にはポーランドにほぼ吸収されてしまいますので、リトアニア大公国としての盛時は西暦1400年前後ということになります。そのころ大公だった人物が、大学や博物館の名になっているヴィータウタス(Vytautas 13521430年)。リトアニア大学がヴィータウタス・マグヌス大学(マグヌスは「大」の意味)と改称されたのは没後500年の1930年で、1922年に独立を果たしたリトアニア共和国はすでにかなり傾いていました。長くロシアの支配下にあって国家運営の経験をもたなかったリトアニアは、そもそも小国であるため経済も外交もきわめて危うい状態にありました。ラトヴィア、エストニアともども、そしてフィンランドやポーランドもそうなのですが、英国やフランスなどの西欧諸国にとっては、新たに誕生してしまった巨大な社会主義国家・ソ連の影響力をできるだけ前方で食い止めるための緩衝地帯として、それらの国々の独立を支援したにすぎません。逆にソ連からすれば、欧州に勢力を拡大するためにはこれらの新興国を影響下に置くことが必須となります。リトアニアでは、議会政治が迷走して収拾がつかなくなり、1926年に独立の功労者のひとりであったアンタナス・スメトナ(Antanas Smetona ヴィータウタス大学の教員だった)がクーデタを決行して権威体制を敷き、彼の腕力でどうにか国家運営を安定させますが、それは民主主義の犠牲の上にあるものでしたし、いよいよ危機的状況に立たされたときに彼ひとりの判断で国家の運命が決まってしまうということでもありました。

 
(左)旧大統領官邸  (右)アンタナス・スメトナ像


ライスヴェス通りに戻って、そこから先は前日と同じルートで旧市街をめざします。狭義の旧市街の少し手前に旧大統領官邸(Istorinė Lietuvos Respublikos Prezidentūra Kaune)。現在は歴史博物館になっているそうなのでのぞいてみましょう。受付の女性がいうには、1階はテレビの撮影をしているのでいま入れない、2階だけでよければと。まあいいか。荷物とコートを預けて2階に上ると、歴代大統領の肖像やその遺品などが展示されていました。歴代といわれても数名ですし、スメトナをかろうじて知っているくらいで他はまったく。建物自体は興味深いのですが、やはりメインであるはずの1階の展示を見られないのは遺憾でした。

1939823日、ソ連とナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を電撃的に締結し、世界を驚愕させました。ソ連軍と戦闘中(ノモンハン事件)でドイツとの同盟をどうするかと考えていた日本の平沼騏一郎内閣が、どうなっとるかわかりゃせんと青ざめて(「国際情勢は複雑怪奇」)総辞職するという余波もあります。この独ソ条約には秘密協定が付されていて、ソ連とドイツにはさまれた地域――要するに例の「緩衝地帯」にあたる部分――を両国で山分けするという趣旨の取り決めが結ばれていました。バルト地域では、ラトヴィアとエストニアがソ連の、リトアニアがドイツの勢力圏であると定められています。が、どうやらスターリンは最初からリトアニアも取るつもりだったようで、19406月、バルト三国に対してソ連軍の駐留許諾を強く求め、認めぬならば軍事侵攻すると脅しました。三国それぞれに苦悩があり、そして同じ結論に達します。スメトナは615日の閣議をこの場所でおこなうのですが、ソ連の条件を飲むことに同意する閣僚はなく、最後はみずからの権限で受諾を決めるのです。スメトナは大統領を辞任してその日のうちに亡命、やがてアメリカで死亡しました。リトアニア議会の「加入要請決議」を受けてソ連が同国を接収するのは83日のことです。杉原千畝が「命のビザ」を書きつづけていたのはそのころでしたね。宿命の臨時首都カウナスは、失意の底に沈みました。


ことし2018年はリトアニアの独立宣言(1918年)から100周年


1941
年に独ソ戦がはじまると、ドイツ軍が侵攻してリトアニアを占領しますが、1944年になってソ連軍が大反攻に転じ、奪回します。第二次世界大戦が終わってみれば、バルト三国はいずれもソ連構成国としての立場に押し込まれることが確定してしまいました。1985年にゴルバチョフが登場して流れが変わった話は前述しました。独ソ不可侵条約から50年にあたる1989823日、バルト三国は人間の鎖「バルトの道」を結んで世界に再独立をアピールします。ヴィータウタス・マグヌス大学やリトアニアの民族的英雄を顕彰する公園が復活するのも、この時機だったということでしょうね。満20歳だった1989年のいろいろな出来事は、強く強く記憶に刻まれています。大学生になり、成人して社会的視野がぐんと広がるそのタイミングで、世界が大変動を起こしました。その秋にはベルリンの壁の崩壊をはじめとする「東欧革命」が展開するわけですが、それに先立つバルト三国の「歌う革命」は、ソ連という巨大な国家の内部から起こったことでしたので、衝撃というか驚愕の出来事だったのです。

旧官邸を辞して旧市街に入ります。しっとりとした石畳はいつだって絵になりますが、また気温が下がってきました。市庁舎広場を通り越し、ネムナス川とネリス川の合流地点にあるサンタコス公園(Santakos Parkas)に行ってみます。公園といっても遊歩道といくらかの運動施設があるくらいで、足許の積雪に加えて風が吹きつけるため、まあ寒い。つい速足になって一周します。カウナス城をちらっと見学し、旧市街の何本かの道を歩いてみて、だいたいなすべきことを終えてしまいました。歴史的な経緯もあって、カウナスはヴィリニュスに対してライバル意識を抱いているそうですが、町の規模としてはかなり控えめなのではないでしょうか。ヴィリニアウス通りにあったチェーン店とおぼしきカフェで、ラテ(Mサイズで€2.30)を頼んで休憩。ま、夕食までの時間稼ぎですね。寒いせいかこのあたりのカフェはどこも盛況のようです。

 
(左)サンタコス公園 左からネムナス川、右からネリス川が来てここで合流  (右)カウナス城


そのカフェの並びには、数軒のスーヴェニア・ショップがあり、小物好きの人であれば喜びそうな感じです。そしてチョコ屋さんがあるのを前日に発見していました。欧州土産といえば、手軽でだいたい喜ばれるチョコなので、ここで購入。安いのはいいけれど思いのほかごっつくてびっくりしました。福岡の母に1つあげたら弟のところにおすそ分け?が行ったらしく、義妹のメールには「エストニアのチョコおいしかったです」と微妙な間違い(笑)。おそらく母も義妹も「バルト三国のどこか」であるという認識はあるのだが、一つ一つの国を峻別するわけでもなく、なんとかニアという似た国名に引きずられていますね。ただ、198991年の「歌う革命」は日本のニュースでもかなり大きく報じられましたので、その当時を知る世代は「バルト三国」という存在を強く認識しているのは確かのようです。リトアニアとラトヴィアは言語が似ているが宗教が異なり(カトリック/プロテスタント)、歴史的展開もまるで違う。ラトヴィアとエストニアは言語がまるで違うが(印欧語族バルト語派/フィン・ウゴル語族バルト・フィン諸語)歴史的展開が非常に似ている。こうした微妙な差異をはらんでいて、しかも似たようなサイズの小国が3つ連なっているならば、たいていアイデンティティがぶつかって仲が悪いんだろうなと普通は思います。「一緒にすんじゃねえよ」とかいわれそうですものね。しかし彼らは、不当にもソ連に接収されたという負の歴史を共有し、手を取り肩を組んでそれを世界に発信したという仲間意識を強くもちます。Baltic Statesというセットでアピールしたからこそ、「ソ連は3つもの国に対してひどいことをしたのか」と印象づけられたといえるわけです。

さて夕食。最近は食事から就寝までの時間を長くして体重を増やさないように心がけており、18時より前に夕食をとることが多くなりました。12月のリトアニアでは、17時半といえば完全なる「夜」ですのでいつも以上にディナー・タイムにふさわしい感じです。私だけでなく、暗くなったらディナーということなのか、レストランのたぐいはどこもかなりのお客が入っています。1軒で満員だといわれ、市庁舎広場に面した別のレストラン(ENTO DVARAS)に声をかけて入ってみました。ヴィリニュスの目抜き通りでも見かけており、掲出してあるメニューの感じがファミレス風ではあるものの、リトアニア料理だそうなのでいいじゃないですか。ファミレス風といえば夏のワルシャワで入った店では店員がこちらのテーブルをスルーしてばかりで頭に来たのだけど、ここもわりとスルーがち(笑)。ま、急ぐわけでもないのでいいですけどね。

 
 


写真つきメニューでおすすめとあった鹿肉のミートボール(Kepti elnienos maltiniai)というやつにしてみましょうか。散文の説明がリトアニア語と英語で付されています。「オーヴンで焼いた鹿肉の団子を、ホウレンソウ入りのマッシュ・ポテト、赤ワイン・ブルーベリー・クランベリーのソース、そして酢漬けにしたビーツとともにご提供します」と。ついでのことに、ポテト・パンケーキのキノコソース(Bulviniai blynai su grybų padažu)というやつも頼んでみよう。「どちらを先にお持ちしますか」ともっともな問いがあったので、パンケーキを先出ししてもらいましょう。飲み物は例によって生ビールのラージ。

パンケーキといえば和製英語のホットケーキを思い出す人もあるでしょうが、中東欧のレストランでその表示があればたいていジャガイモをベースにしてフライパンで焼いたやつです。食感は中華の大根餅とか韓国のチヂミなどに近いかもしれません。予想以上にシンプルな料理でしたが、サワークリームがよく合って、また空腹だったこともあってなかなか美味しい。3枚もあったのでそれでけっこう腹にたまり、メインの肉を食べられなかったら嫌だなと思ったら、さほどの量でなかったので助かりました。よくある話で、写真つきメニューはボリューミーに盛っていました(笑)。これはしかし、素朴すぎる料理だなあ。つなぎをほとんど使用していない感じの肉団子で、鹿肉のためにおいがかなり強い。フランス料理では、ジビエ系や鹿肉などにおいの強い肉には甘酸っぱい柑橘系のソースというのが定番で、ここのもそれに似て、ベリー系のソースが供されているわけですな。それに、ソフトなマッシュにさわやかなビーツというのはなかなか好相性なのではないか。赤紫色のビーツが出てくるとロシア料理を思い出します。ロシアやソ連の色がほとんど見えないリトアニアですが、こういうところに残っているのか、それとももともとビーツを食べる習慣があったのか。客層はやっぱりファミリーや若いカップルなどが中心で、18時半が近づくと続々と入店してきました。北・東欧系の子どもってひどくかわいいですね。店内にはWham!の「ラスト・クリスマス」が流れていて、なんともちゃらい(大笑)。鹿肉ボール€8.95、パンケーキ€4.75、ビール€2.75で〆て€16.45というのは、またもごきげんです。

 
 
澄んだ冬の空気に映えるカウナス旧市街 下2枚はライトアップされた旧大統領官邸

 


外気はまたも氷点下のようで、2kmも歩くのはかったるく、旧市街の入口付近からトロリーバスを利用。ヴィリニュスでも結局機会がなかったし、乗り物好きとしては1回くらい乗っておかないとね。停留所にあった英語の説明書きでは、運賃はシングル€1on boardでチケットを購入とあるのに、ドライバーさんはなぜか無反応で、こちらのアタックを無視します。受け渡し口があるのにどうしたことだろう。こういう公共交通のしくみはたいていローカル・ルールで、地元の人にとっては当たり前のことがヴィジターにとっては当たり前ではないので、わかるようにしてもらわないとねえ。心ならずも無賃乗車になってしまいました。バス・ターミナルの前で下車し、予習しておいたビル内のスーパーでビールと水を購入。合わせて€1.69とまたまたごきげんです。ワインは前日買ったシャブリがまだ半分あるのでそれを。リトアニアで買ったものはリトアニアで消化するのが作法です(ほんとか?)。

1229日(土)はお天気不明。まだ暗いのでね。朝食つきの宿泊なのだけど開始が7時からで、それでは間に合わないためカットして、6時半にチェックアウトします。バスは720分発、バス・ターミナルはすぐそこなので焦ることもないが、早めに移動しておけばいろいろな事態に対処することができます。発車案内板には7時台の便の告知がずらりと並んでいます。それにしては待合スペースの旅客の数はさほどでもありません。時刻表によれば、ヴィリニュス行きは毎時23本程度とかなりあります。やはりバスでの流動が大きいのでしょう。長距離便のところを見ると、主な行き先としては、ワルシャワ、グダンスク、ベルリン、シュトゥットガルト、プラハ、ボン、ソフィア、パリ・・・ と、欧州全域ともいえるスケールです。パリまでバスに乗っていくの絶対に嫌だな〜。

 
 


私はこれからバスで国境を越えて、ラトヴィアのリーガに向かいます。リーガは20168月に既訪なのですが、同じ空港でイン・アウトというのもつまらないし、前回はリーガからやはりバスで国境を越えてエストニアのタリンに向かっているから、今回も2都市間を結んでバルト三国を「つなぐ」ほうがいいような気がします。バス便はネットで事前に手配しており€20720分発、リーガのバス・ターミナルに1130分着の予定です。リーガ→タリンも4時間半くらいだったので、まあ似たような距離感でしょう。なぜか早朝と夕方に便が偏っていて、仕方ないのでこの便を押さえました。流動としてはヴィリニュス〜リーガの両首都間のほうが太いでしょうね。バルト三国と総称され、狭い区域に3つの国がぎゅっと固まっている感じなのに、それぞれの首都を結ぶ交通手段は、航空便を使うのでなければバスに限られます。それもハイウェイではなく一般道を往く便。この地を長く支配したロシア帝国とソ連が、モスクワから放射状に各首都への鉄道路線を敷いたため、相互の移動が不自由になったという次第です。

発車予定の10分前に乗車受付がはじまります。ドライバーさんはワンオペらしく、最初にチケットのチェック。「パスポートも出しておいてください」と言い添えています。2年前も国境で係官がパスポート・チェックをしていたので同じことなのでしょう。券面改めは、バーコードを読み取るというわけでもなく、アナログにも文字を読んでの確認です。つづいて床下に荷物を搬入。ワンオペなのでずいぶん時間を要します。それから乗車となりますが、車内が真っ暗でシート・ナンバーが見えず、どの席が指定された11番なのかわかりません。近くの人に聞いたら「好きなところに座って大丈夫ですよ」と。まあこの人数ならばそうですね。前から5列目くらいのところに座ることにしました。722分に発車。10分くらいして、市の郊外で若い男性2人を乗せます。真っ暗なのに途中でよく拾えるものだと思いますが、ネット予約が事前に判明しているのでしょう。夜が明けたのは830分ころで、それまでは基本的に「夜のつづき」なので車内はしーんとして、ほとんど会話もありません。850分ころどこかに停車して、10分休憩との案内がありました。ここからも何組かが乗車します。孫とその両親を見送りにきたらしいおじいさんが、運転士と何やら話して盛り上がっていました。


リトアニア・ラトヴィア国境は白い雪の中

 
国境で、ラトヴィア側の係官が乗客のパスポートをチェック


たまに集落があるものの、建物らしきものがほとんどない平場の一本道で、運転士さんも集中力を切らさないのは大変だろうなと思います。信号もなくて、分岐箇所ではロータリー式が採用されていました。10時ころ国境に達します。男性係官が乗り込んできて乗客のパスポートを視認。いわゆるパスポート・コントロール、入国審査というのはシェンゲン協定により認められませんが、こうした視認でのチェックはあちこちで実施されています。周囲の乗客はみな欧州市民のIDを提示していてさっと終わりますが、私の分はページを1枚ずつめくって入国の形跡を探しているようなので時間がかかります。入国といってもリトアニアに入った証拠はどこにもなく、今回最初にシェンゲン圏に入った1225日早朝のフランクフルト国際空港のスタンプを探し当ててもらうしかありません。ただ私のパスポートはあと8ヵ月で10年満期になるというベテラン?で、その間に何十回も出入国を繰り返していますのでスタンプだらけ。探すのは大変よね。手伝ってあげようかなと思ったところで、見つけたらしく、旅券が戻ってきました。国境は何もない畑の真ん中で、この係官もワンオペらしく、お仕事とはいえ大変。

途中休憩のあたりから車内の話し声も解禁?になったらしく、ヘッドホンの音漏れも含めてにぎやかになってきました。バスは順調に走行して、予定よりもかなり早い1110分ころリーガのバス・ターミナルに到着しました。ここは前回も利用しているので構造などは承知しています。この時間の発着便がかなりあるようで、降車プールも待合スペースも荷物をもった人でいっぱいでした。

 
リーガ・バス・ターミナルに到着


ラトヴィア共和国Latvijas Republika)の首都リーガRīga)はバルト三国最大の都市です。2016年に初めてここに降り立ったときは、「ソ連」だったところ、そしてあの「歌う革命」を経験した場所に実際にやってこられて感慨深いなと思ったものです。それから24ヵ月ほどで再訪するとは思ってもいませんでした。ここで1泊して、あす30日の午後にリーガ空港発の便で帰国の途につくことにしています。いわば「出口」をお借りしたわけですが、前回は夏だったので、別の季節を体験できるのも楽しみ。リーガの旧市街は長径1kmくらいの完結したエリアであり、内部は迷路みたいですが歩いていればどこかには行き当たるという気楽さがあります。たぶん地図も不要でしょう。前回と同じホテルを予約しており、バス・ターミナルから徒歩10分くらいで道順も承知していますから、迷わずさくさく進みましょう。

 

PART5につづく


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