11時20分ころホテルをチェックアウト。ヴィリニュスの町の規模を考えれば2泊(真ん中の1日が正味の市内見学)で正解だったかな。国鉄のヴィリニュス駅までは上り勾配を歩いて15分ちょっとです。空港から乗ったバスがまず駅前に着いてそこから歩きましたので、道順は心得ています。駅舎正面は中央ホールが左右の両翼を従えたシンメトリーな構成で、欧州の各地で出会うものですが、このところの中東欧遠征ではしばしば見るような気がします。造りがシンプルで美しく建設コストが安いのと、機能的で使い勝手がよいというのが理由でしょう。たいていの場合、切符売り場やカフェなどがウィングの部分に入っていて、ここもそうでした。建物に入ってすぐのところは名前のとおりのホール(ただの空間)で、もう1つ奥の、ホームに面したところに待合室があるというレイアウトもおなじみです。暖房が利いていてそこそこ暖かい。用心して早めに来たのだけれど、切符はインターネットで購入済みだし、昼ごはんはきょうも抜きにするので、とくにすることはありません。もしかするとWi-Fiが通っているかもしれないけど、そんなもの意地でもやるものか。空間と人間を観察するだけでぼーっとしていられる人なので、ベンチに座って待機することにしましょう。
リトアニア建築・アーバニズム研究センター(Mokslo centras „Architektūros ir urbanistikos
tyrimų centras“)のサイトによれば、ヴィリニュス駅はサンクト・ペテルブルクとワルシャワを結ぶ路線の途中駅として19世紀中ごろに建設され、ソ連時代の1950年に現在のものに建て替えられました。社会主義リアリズムにもとづく設計だそうで、知識がないためそうなのかと思うほかありません。さほど広くない待合室の四隅それぞれに昔ふうの売店があるのがおもしろい。
ヴィリニュス駅 いつもみたいに駅名標を撮りたかったのだけれどホーム上に見当たらず・・・
コンコースに掲出された出発案内板を見ると、ここを発車する便は11時45分、12時10分、12時30分、12時40分、そして私が乗る12時45分と、さほどの頻度でもありません。首都の鉄道駅とはいえ、国内移動も近隣国への移動もバスが主軸であることは、これまでの中東欧歩きで承知しています。もちろんヴィリニュスからカウナスへのバス便もあり、鉄道よりもたぶん便利なのだけど、鉄道で行けるのならば行きたいという心情?ではあります。欧州の鉄道旅行を志す向きは、乗りつぶしとか移動ざんまいを味わうのであればレール・パスの利用がいいですけれども、1〜2回の移動ならばネットで手配することを勧めます。現地の窓口にて異言語(英語)でやり取りするのがどうも、という人はとくにね。検索エンジンに<国名 railway>と入れると日本のJRに相当するカンパニーが出てくるのが普通で、必ず英語版もありますから、そこに日時や区間を入れれば容易に手配できます。スマホの画面でよい場合もありますが、私はそんなものをもっていかないので、PDFで送られてくるEチケットをA4判の紙に印刷して持参。今回のヴィリニュス〜カウナス間は所要1時間19分、1等で€5.40です。
ヴィリニュス駅で発車を待つ827列車 2階最後列の、テーブルに囲まれた謎の区画が指定されていた
これも日本を含めてよくある構造ながら、コンコースはそのまま手前のホームにステップレスでつながっています。わが827列車はその1番線から出るようでありがたい。列車頻度がさほどでないためか、12時15分ころ早くも入線してきました。機関車の引く客車列車を想像していたら、オール2階建ての電車3両編成でした。毎度この話になるけれど、鉄道のことを、路線・車両・システムなどに関してよろず「でんしゃ」っていうのやめなよね。機関車牽引でなく客車が自力走行するタイプで、外部から電気を取り込んでモーターを回すものが電車(electric car: EC)だからね! これは紛れもなく電車だな〜。3両編成のうち1号車2階のみが1等車。見たところ1等と2等の違いは、1等は座席の間隔が少しだけ広いのと、1列+2列というゆとりのある配置になっていることくらいみたいですね。座席の質は違わないようだし(色は違う)、おそらく座席指定できるのは1等だけなのではないかな? 1時間ちょっとを2階のゆったりした席で過ごすというのは、たま〜に利用する高崎線のグリーン車みたいな感じ。――と思ったが、いつ乗っても込んでいる湘南新宿ラインなど首都圏のグリーン車に対し、1等の空間にいるのは私のほかに2組くらいでした。そもそも首都と第二の都市を結ぶ真っ昼間の便が3両編成で済んでしまうというのだから、流動も大した量ではないことが予想されます。
切符に記された1号車1番を見てみれば、階段を上ってすぐ、ボトムの部分です。1列+2列の2列側の、最後尾だけがなぜか1席だけになっていて、他のブロックと異なりここだけテーブルが窓側にもあって、私の1席だけがL字に囲まれているという謎の設定。夏のポーランドで特急列車に乗った際も不思議な配置の席が充てられました。どうもそういう運勢らしい。実は国際線の航空便を利用する際にも、空いていればボトム席をとります。すぐ後ろがお手洗いと共用スペースなので立ち上がって運動しやすいのと(CAさんがいてビールをもらえるからという話もある)、機種によってはそこだけ列数が少なくゆとりがあるからです。レベルは違うが、この列車の座席配置がそうなっていますね。
リトアニア国鉄のEチケット A4に印刷して持参する 右は乗車区間・運賃を記載した部分
12時45分の定刻に発車。近くの席にいた若いカップルは英語で話しています。といっても英語を母語とする英国やアメリカの人とはかぎりませんね。近ごろは商売や留学、あるいはネットを通じて知り合った国際カップルというのがめずらしくなく、共有する言語が英語だというのは世界的に普通になっています。あてにされている感じがしないリトアニアの鉄道ですが、ヴィリニュス駅付近には車庫やヤードなど結構な規模の鉄道施設群がつづき、それらを抜け出すのに5分くらいかかりました。車窓が急に田舎の景観になり、一気に加速。標高はどこも低い国だけど、農村部はさすがに積雪が多く、白い冬のリトアニアそのものになりました。25歳くらいまでは冬場に列車に乗って日本の東北地方によく行っていたなあ。鉄道旅行と雪の景観というのは私にとってかなり親和性が高いので、なんだかうれしい。13時を過ぎたころ恰幅のよい男性の車掌さんが現れて検札します。Eチケットを差し出すと、QRコードを読み取り、小さなレシートをくれました。これまでの経験では検札印が普通で、この措置は初めて。
起伏がなくほぼ直線ルート、ちょいちょい停まりますが基本的にはひたすら針葉樹林か原っぱの中を進みます。車窓から見えた沼または池は結氷していて、男性が穴釣りを。絵に描いたような冬景色です。子どものころ晴海の国際見本市のソ連館を妙に気に入り、物産を買うだけでなく掲出されていた大きな地図をじっと眺めていたものです。でかい国だなあ、でも東側の国だから(※社会主義圏という意味ですよ、平成世代のみなさん)行くことは難しいんだろうなあ、ソ連の鉄道に乗ってみたいなあなんて本当に思いました。実際に来る前にソ連は崩壊しちゃいましたけど、ソ連だった場所の鉄道には乗ることができました。ソ連感は皆無だけれども!
カウナス駅に到着 駅舎のホーム側に杉原千畝を記念するプレートが
最後まで1等客室の旅客の出入り(乗降)はなし。ほぼ定刻にカウナス駅に到着しました。駅舎に面してメインのホームがあるのはここも同様ですが、着いたところはその1番線の後方に食い込んだ行き止まり式の部分(「欠き取り」といいます)。こうすればステップレスで複数の列車に同時にアプローチすることができます。ただ駅舎そのものが小さいため、停車位置から100m近く、寒い中を歩かなければなりません。ホームも一部結氷しているので注意しよう。改札がないので、駅舎の建物をスルーして手前の切れ目から直接町に出てもよいのだけれど、やっぱり鉄道好きとしては駅舎内の様子も見てみたい。明後日にここを去るときには列車ではなくバスの予定なので、駅はこのときかぎりですからね。――それで、大半の乗客が建物の手前で折れていく中を私だけが直進し、駅舎に近づいてみると、ホーム側の外壁に思いがけないプレートが掲出されていました。「東洋のシンドラー」杉原千畝(すぎはら・ちうね 1900〜86年)の肖像が刻まれ、「杉原千畝は1940年9月4日にカウナス駅を出発する直前まで「命のビザ」を発給し続けた」と、リトアニア語、日本語、英語で記されています。
寒さも忘れて感激しました。杉原千畝のことがなければ、リトアニア編はヴィリニュスだけで終わらせていてもおかしくはなく、その足跡に少しでも触れたいというのがカウナスを訪れた動機だったからです。何冊かの書籍を読み、映画やドキュメンタリーも観ていますので、杉原が列車に乗り込んでからも、窓から手を出して、押し寄せるユダヤ人たちに手書きのビザを書きつづける場面をすぐに思い描くことができました。いまは乗ってきた電車が後方にいるだけの寂しい空間ですが、ここで実際に起こった出来事だったのですね。あす午前に、駅からも遠くない杉原記念館を訪ねることにしており、彼をめぐって考えることはそこで記します。
カウナス市街地の概念図
(左)カウナス駅正面 (右)そこから500mくらい進んだところ(左側の3軒目にバス・ターミナルがある)
駅前広場がなく、地下道を通って反対側に抜けなくてはならない歩行者には迷惑な構造で、これも残念ながらあちこちで見かけます。最近ではブルガリアのルセ駅がそうだったな。そういえばルセも社会主義リアリズムっぽかったような気がしますし、カウナスもたぶんそうなのでしょう。駅舎の屋根が平らなぶん、ヴィリニュスよりもソ連っぽく見えます。「地球の歩き方」で事前に調べたところでは、町の構造はいたってシンプルで、駅前から延びる道が1kmくらい先で直角に左折し、そのまま西にまっすぐ進めば旧市街に出る、ただし2kmちょっとはあるよというところ。ホテルをどこに取るか悩むところではありましたが、鉄道駅から遠くなく、去る際に使うバス・ターミナルに至近の場所にお値打ちの宿を見つけたので、予約サイト経由で押さえました。道順は簡単なので迷いようもないはずですが、道なりといってもその道がけっこう長いのと、町が条里的なのでどこで左折すればよいのかがわかりにくく、2回くらいきょろきょろしてから、発見できました。駅から15分くらいかかっています。ホテル・エウロパ・ロイヤル・カウナス(Hotel Europa Royal Kaunas)はレンガ造りの外観で、入ってみるとかなり奥行きがあるようです。レセプションはきわめてスマートですが、エレベータまわりや廊下の感じがくたびれた病院か市役所のようで、建物自体はソ連時代のものなのでしょう。客室も時代がかった感じだけど広くて天井も高く、上々です。水まわりが清潔で洗面所が広いのがまたいいですね。これで2泊朝食つき€108(予約時決済)なのでいうことはありません。あ、そうだ。靴べらがあるかどうかチェックしなきゃ・・・ ありました! いや、かなり寒いのがわかっていたので出発前日に津田沼の靴屋さんでブーツ型のものを買ったのですが、新品でカタをつけていないため、来るときのANAフランクフルト便で脱いだのはよいが履くことができず、CAさんに聞いても手のひらサイズの小さな靴べらしかないとのことで、スリッパのまま降機して空港でシューズを買いなおすか?くらいのことを焦って考えたほどでした。慣れないものを着用するものではありませんね(汗)。座席ポケットに挿してあるANAのミール・サービスのパンフレットが縦長のものだったので、それを二つ折りにして靴べら代わりにしたら、どうにか履くことができました。ヴィリニュスのホテルでも真っ先に靴べらを確認しています。あるのが普通ですが、外国では何が普通で標準なのかなんて当てになりません。用心のため、フランクフルト空港でさらに頑丈そうな縦長パンフを入手して持参していました。
予約時と到着時には忘れていたのですが、Europa
Royalといえば昨年夏にルーマニアのブクレシュティ(ブカレスト)で1泊していましたね。あちらは1泊朝食つき€72で、かなりクオリティの高いホテルだったのを思い出します。このチェーンはヴィリニュスが本拠のようで、リトアニアとラトヴィアに展開するほか、なぜかかなり離れたブクレシュティにぽつんとホテルがあるみたいです。ルーマニアはともかくリトアニアの人が「ヨーロッパ」という名を冠したがった気分はよくわかります。
ホテル・エウロパ・ロイヤル・カウナス
再装着が可能なのがわかったので少しの時間だけ靴を脱いで休憩し、15時ちょっと前に町歩きに出ます。日が短いのであちこち回るのは難しいでしょうね。ともかくも一直線の道を歩いて、旧市街をめざしてみることにします。単純な往復になってしまいそうだけど仕方ない。ここカウナス(Kaunas)は、ヴィリニュスも面していたネリス川とネムナス川(Nemunas)の合流地点の内側、つまり鋭角になっている部分に立地した都市ですので、市街地全体が行き止まり構造になっているのです。ちなみにネムナス川のほうが本流で、ロシア語ではネマン川(Неман)、ベラルーシ語ではニョーマン川(Нёман)と呼びます。水源はベラルーシ領内で、リトアニアを流れ、下流はリトアニアとロシア領カリーニングラードの国境をなすので、本来ロシアは関係ありませんが、ソ連時代にはまるごとネマン川と呼んでいたのではないかな。ちなみに今回訪れることはできませんが、ネムナス川河口の右岸側にあるリトアニア最大の港湾都市がクライペダ(Klaipėda)です。歴史に詳しい人ならば、ドイツ語でメーメル(Memel)と呼ぶほうがピンとくることでしょう。長く東プロイセン、すなわちドイツの本領というべき地域の一角をなし、第一次大戦で敗れたドイツがヴェルサイユ条約で手放しました。当初は国際管理地域(実態はフランスの占領下)でしたが1923年に独立したばかりのリトアニア共和国に編入されました。ただし住民のマジョリティはドイツ人で、ドイツ・アイデンティティが濃厚だったため、1938年にナチスが市の選挙で圧勝すると強引な住民投票に持ち込んで翌年ドイツに復帰しました。しかしこの経緯が逆にあだとなり、第二次大戦後はソ連が接収、もちろんリトアニアの一部ではあるがソ連の一部となってしまいました。ソ連がこのときカリーニングラード領に編入していれば現在もロシア領であったと思いますが、同じソ連なんだからいいかというので(リトアニアに編入するのでなければ筋が通らないというのが建前)リトアニア領としたため、1991年の再独立後もリトアニアの貴重な港湾として残っているわけです。いずれ行ってみたいですね。
さて町歩き。「地球の歩き方」によれば、「ヴィリニュスを迷路にたとえるとしたら、ここカウナスは長い長い一本道」(『バルトの国々』、ダイヤモンド・ビッグ社、2015年、p.218)とのこと。ライスヴェス通り(Laisvės alėja)という道が東西方向にまっすぐ通っていて、これが旧市街につながっているようです。ホテルからほど近いところに聖ミカエル教会(Šv. arkangelo Mykolo (Įgulos) bažnyčia)があり、そこがライスヴェス通りの東の起点。教会はどことなく正教っぽいですがカトリックだそうです。ここを背に西のほうを向くと、たしかに幅広の直線道路が伸びていました。中央分離帯に並木をしつらえ、両側にはわりにおしゃれなブティックなどが並ぶなど、新市街のメイン・ストリートなのだろうと思いますが、大半の部分が工事中で歩道のみ使用できる状態。欧州各地で都市を観察してきた経験から考えるに、完成後も車両の乗り入れはさせず歩行者専用の道路になるのではないかな。地図を見るとこの通りから南北にそれぞれ100mほど離れたところを直線道路が並行していて、トロリーバスもそれらの路上を上下系統で分かれて運行されているようなので、あちこちでよく見る歩車分離の設定なのでしょう。それは大いに結構で、日本の各都市ももう少しその方法を見習うべきだと思いますが、掘りくり返された工事中の道路というのは見ていて無残なので、いまの状態では遺憾ながら点数が下がります。
聖ミカエル教会とライスヴェス通り〜ヴィリニアウス通り
まっすぐの道を1.2kmもただ歩くという、おもしろみに欠ける行程になりました。書店もカフェもブティックもあってそれなりにお客もいるのだけど、寒空の下であることもあって、どうも生活のにおいとは遠い感じがするんですよね。「迷路」でありアップダウンがあるヴィリニュスのほうが、町の景観としてはおもしろい。北側を並行して走る自動車の道が、右手からやってきて鋭角に合流する地点に達しました。今度は歩行者がその流れを引き取るように、左手に鋭角で折れていきます。道路名はヴィリニアウス通り(Viliniaus)に変わりました。町のトーンが徐々に旧市街っぽくなってきます。右手に旧大統領官邸が見えたところで、なぜか南北方向の道路をアンダーパスして再浮上。こんな自動車本位の造りにするほどの交通量と道幅でもあるまいに、もしかして社会主義的な都市計画なのですかね。その先がいよいよ旧市街です。石畳の、落ち着いた風情になってきました。いや駅から旧市街まで、都市の規模を考えればちょっと遠すぎるね。
旧市街に入ったあたりのヴィリニアウス通り
(左)旧市庁舎広場のクリスマス・ツリー 後方はイエズス会の教会 (右)旧市庁舎
カウナスには2泊することにしており、あすも杉原記念館を見学したあとは同じように西進して旧市街をめざすだろうから、きょうは町の感じをつかむくらいでよしとします。16時が近づいて空も暗くなってきました。ヴィリニアウス通りの「突き当たり」が旧市庁舎広場(Rotušės Aikštė)というほぼ正方形の広場で、大きなクリスマス・ツリーや数軒のクリスマス・マーケット、仮設の児童遊具などが置かれています。お母さんに連れられてきた子どもたちが結構いて、寒いのにみんな元気です。こっちが市庁舎だろうと思った建物が実はイエズス会の教会(聖フランシスコ・ザヴィエル教会 Kauno šv. Pranciškaus Ksavero (Jėzuitų) bažnyčia)で、教会っぽいと思ったほうが旧市庁舎(Kauno rotušė)なのだそうです。イエズス会とかザヴィエルという名をバルト三国あたりで聞くと妙な感じもしますが、カトリック国なので当然つながりはあるのでしょう。
(左)カウナス城 (右)ヴィリアニウス通り
広場の周りをひと回りしてみると、小さな教会がいくつかあるほか、この町の礎となったカウナス城(Kauno Pilis)もあって、狭い範囲にいろいろ見どころがあります。ただ残念なことに日没してしまいました。気温は一気に冷え込んで、おそらく氷点下になっています。そればかりか、先ほどからちらちらと当たっていた雨がいよいよ継続的に降りはじめて、今回のツアーで初めて折り傘を開くことになってしまいました。この気温、この調子で降りつづけば雨は夜更けすぎに雪へと変わるでしょうね。たくさん歩いたことによる疲労に加えて寒さのため手足の先が痛くなってきました。嫌いなマフラーは当然装着していますが、これはこのまま外を歩いていると風邪をひき血圧が上昇するに違いありません。暗いといっても16時台なので、いまごろ夕食というわけにもゆかず、このままホテルに戻ることにしました。ホテルは新市街の外れなので周囲に飲食店があるのはあまり期待できません(あとで思えばバス・ターミナルに行けば軽食くらい得られた)。ライスヴェス通りをそのまま引き返し、途中にあった小型のスーパーでサンドイッチと燃料を購入。長い夜を長いパブ・タイムにするということね。シャブリと缶ビール、サンドイッチで€20.35とエコノミーでした。赤ワインを主燃料にするはずの私がシャブリ(ブルゴーニュ地方の白ワイン)に手を出しているのは、赤の品ぞろえがぱっとしなかったためです。日常的にワインを飲む文化ではないのでしょうか。ホテルに戻ればもちろんぬくぬくと暖かく、リラックスして過ごせます。
12月28日(金)はくもり。日本は仕事納め、大納会でしょうが、このところこの時期は海外なので、そうした年末のあれこれとは無縁でいます。8時すぎに1階に降りて朝食。おかず関係が豊富で味もよく、翌朝は早朝のチェックアウトなので食べられなくて残念ですが、ダイニングの感じがどうもテキトーというか、やはり古いビルのホールをにわかに改良したように見えます。ジャガイモ関係が多いのと、ニシンの酢漬けがあるのがこの地域っぽさでしょうね。きょうも昼抜きを予定しているので、勢いあまってデザートにアップルパイまで食べてしまいました。おいし。
めあての杉原記念館が10時オープンなので、ゆっくり出動して、まずはホテルの南側にある大規模なショッピング・センター、アクロポリス(Akropolis)に行ってみました。SCって大好物で、あれば必ず入ってみることにしています。ここのはかなり本格的で、店舗のヴァリエーションも豊富のようです。クリスマス特売は終わったのか、朝だからなのか落ち着いていました。つづいてバス・ターミナルに行って、内部を見学します。非常に明るく清潔な内装で、待合スペースも十分にあります。ファスト・フードやカフェのほか結構な規模のスーパーまで併設されていて立派。ホテルはすぐそこなので、夜ここに寄って燃料を買うことにしよう。あすは7時20分発のバス便でラトヴィアのリーガに向かうことにしており、乗り場などを予習しておきます。鉄道とバスの格差がしっかりとあって、鉄ちゃんとしては切ない。
カウナス・バス・ターミナル
階段を上って、高台の住宅地へ
バスTを訪れてみたのは、記念館への経路上にあるからでもあります。バス車両の出入りするターミナル側面に沿って進むと、100mくらいで崖に行きあたります。そこに設けられた急な階段を上り、高台の住宅地へ進んで、一筋裏手に回り込んだところに見えてきました。周囲は一戸建てが並ぶ普通の住宅地で、東京の郊外あたりで見かける景観となんら変わりはありません。自動車の交通量が少ないのか、残雪や結氷がかなりあるので慎重に歩きましょう。杉原記念館(Sugihara House / Sugiharos Namai)は、ぱっと見にはそうした戸建て住宅のひとつにも見えます。もともとこの建物は在リトアニア日本領事館兼領事公邸だったもので、杉原一家もここに居住していたそうなので、住宅街にまぎれても不思議はないのでしょう。いっては悪いが当時の日本にとってリトアニアの外交的価値はさほどあるわけではなかったでしょうから、杉原領事代理が何人かのスタッフを雇えば十分に活動できたものと思います。平素ならば。入口に見えたところは実は2階部分で、わきの斜面を降りたところから入るんですよと、2階付近にいた日本のテレビ・クルーの方に教えてもらいました。ドアを押すと小さなスーヴェニア・ショップを兼ねた受付があり、若い女性のスタッフに€4の入館料を納めます。「ビデオをごらんになりますよね? あなたのために、いまから放映しますので、まず映写室においでください」とのご案内。日本人が来るとそういう対応をするようです。50人くらい入りそうな映写室に1人だけなので、観やすい場所を選んで座りました。ビデオ作品は20分ほどの日本語版で、出身地である岐阜県八百津町などが制作したものとのこと。
杉原千畝の一連のストーリー自体は、いくつかの作品でなぞっているため、ほぼ承知しています。ただ、実際にいまいる場所でそうした出来事があったのだと思うと、本当に78年前に引き戻されるような感覚にもなってきます。現在でもなお「カウナス」という地名を心得ている日本人は少数派だと思いますが、1940年の時点では「リトアニア」という国名ともども、ほとんど知られていなかったのではないでしょうか。そんなところにいた日本の外交官は、苦悶します。
杉原記念館
最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。回訓を文字通りに民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対して従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。(略)私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。・・・果たして浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないのか。それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。(千畝手記より 記念館配布の『杉原千畝本 未来を繋いだ外交官』、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター、2016年、p.5に掲載のものを引用)
1940年7月18日の朝、在リトアニア日本領事館に押しかけたのはユダヤ系ポーランド人たちでした。前年の夏ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発、ポーランド領内のユダヤ人に対しても収容所送りなどの迫害を開始します。これを逃れる道はいくつもなく、ここで日本通過のビザを取得してシベリア鉄道経由で日本領内にいったん入り、神戸か横浜からさらに安全な第三国に向かうという命懸けの長い逃避行を試みたのでした。しかし当時の日本はドイツと同盟関係にあり、ヒトラーの機嫌を損ねるようなことはできないので、外務省は手続き上の不備などを理由に却下せよと杉原領事代理に回訓を送ります。取るに足りない避難民ごときのために、と、ひどい言い方をすれば外務省のセンスはそうだったのでしょう。しかし必死で訴える生身のユダヤ人たちを至近距離で見ている杉原は、ついに本国の命令を無視して日本通過ビザの発給を開始するのです。
7月29日、ビザ発給開始。パソコンで打つのでも大変なのに、当然ですが当時はペン書きです(万年筆が途中で折れたためペンをインクにつけて書きつづけた)。杉原が寝食を忘れて懸命にビザを書いているとき、リトアニア共和国の運命も決していました。8月3日、ソ連が併合を宣言します。建前上はリトアニア議会が「ソヴィエト連邦に加入させてください」と決議し、その希望をソ連側が了承したということですが、この年の6月にソ連のモロトフ外相がバルト三国の各政府に最後通牒を突きつけ、ソ連軍の駐留を即時認めなければ攻撃すると通告し、そうした脅迫のもとで共産党ばかりの議会が招集され、自発的なソ連加入という手続きをとらされたのでした。独立が失われた以上、在リトアニア日本領事館も閉鎖が決まります。8月25日閉鎖。杉原はホテルに移ってもビザを書きつづけ、ついに9月5日、あのカウナス駅のホームから列車に乗ってこの地を離れる瞬間まで、計6000人ものビザを送り出したのでした。
杉原領事代理の執務室
記念館には、ビザを得て脱出に成功した人たちのその後の運命なども展示されており、状況と出来事がよく理解できる構成になっていました。ユダヤ人たちはソ連当局の意地悪な対応にも耐えてウラジオストクから船で敦賀港に向かい、中国やアメリカなどに脱出していきます。杉原自身は敗戦をブクレシュティで迎えますが、そこでソ連軍に逮捕され、1年間の収容生活を余儀なくされました。すでに「ソ連」となっていたカウナスでソ連当局の命令に背いておかしな行為をつづけたという理由によります。帰国すると、回訓に違反したことが響いて外務省を退職させられました(理由・原因については諸説あり)。戦後は語学力を生かしてソ連関係の貿易などに携わりました。約20年を経てイスラエル大使館に呼び出され、かつて命を救った少年――イスラエルの外交官になっていた――から「ずっと探していました」と声をかけられて、ほどなくイスラエル政府から名誉勲章を贈られる・・・
というストーリーは、道徳のテキストや各種の読みものですっかりおなじみになっていますね。
杉原千畝は早稲田大学高等師範部英語科の出身。高等師範部は中等教育の教員養成を期して1903年に設置されたもので、私学では他に日大に同様のセクション(現在の文理学部)があるのみでした。第二次大戦後の新制大学発足時に教育学部に改組されていますので、杉原は私の大・大先輩ということになります。著名人を多数輩出する早稲田にあって、教育学部というのは(その役割からして当然だけど)地味な印象が強いのですが、杉原千畝の存在はあまりに大きく、後輩の私にとっても誇りとするところです。私が教育学部の学生になったのは1988年、杉原はその2年前に亡くなっており、晩年はようやく日本でもその功績が評価されて、各種メディアで取り上げられるようになっていました。ただ、どうにも腑に落ちないのは、1990年代に入って歴史教育の右傾化をもくろんだ人たちが「左翼の連中は日本を悪くいってばかりだが、近代にもこんなすばらしい日本人がいた」というので、誇れる偉人のリストを掲げるようになったその中に杉原千畝の名も入っていたことです。誇るのは結構だが、外交官が国家の命令に背いたのだから右翼・国家主義の立場で容認できるのかどうか怪しいし、彼らが正当化しようとしている「戦前・戦中の日本」こそが杉原を抹殺しようとしたのではないのでしょうかね。日本政府が杉原千畝の名誉回復を公式に認めたのは、冷戦終結からさらに10年を経た2000年のこと。河野洋平外相より、遺族への謝罪と杉原の顕彰がおこなわれました。この件で外務省はかなり評判を下げてしまっていましたからね。
実のところ、杉原千畝の物語というのは「リトアニア」という国に直接かかわるものではなく、ドイツに追われてここに逃れてきたポーランド人をソ連経由で日本に送るという、そのゲートがたまたまカウナスだったということにほかなりません。そこに彼がいたことは、避難民たちにも、日本人みんなにとっても幸運だったといえるでしょう。リトアニアは1920年に独立を達成してまだ日が浅く、しかも日本とのかかわりがほとんどない国でしたので、領事館を設置したこと自体が不思議なのですが、どうもドイツやソ連の動向をモニター(スパイ?)するための拠点として陸軍が押し込んだというのが本当のところらしい。外務省が軍部に引きずられるようになっていたのです。
そうした事情もあって、リトアニア国内で杉原の名が知られるようになったのは1991年の再独立後のことです。日本人が杉原の再評価を開始するのとほぼ同時期だったので、半ば押しかけるように種々の交流がはじまったということでしょう。ですから私も、リトアニアと聞いて杉原千畝と即答するのには躊躇があります。リトアニアにはリトアニアの、知っておきたい現代史があるからです。
PART4につづく
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