ヴィリニュスは、バルト三国の首都の中では唯一、海に面していない内陸都市です。ネリス川(Neris)の左岸の河港を足場に広がったもののようで、下の地図を見ると、都市名と重なるヴィリニャ川(Vilnia)という小河川がネリス川に合流する地点の地形をうまく生かして、リトアニア大公の拠点を築いたものらしい。地図には入りきれていないのだけれど、メイン・ストリートを南に進む、つまり勾配をかなり登った先に「夜明けの門」(Aušros Vartai)という城門があって、そこが旧市街の南限。かつては欧州都市の多くに見られるように城壁が周囲をとりまいていたようですが、いまは失われました。だいたい下の地図の範囲が旧市街だと思ってよいはずです。首都のご多分に漏れず、現在の市域はこの何倍にも広がっています。
ヴィリニュス旧市街(赤丸付近に掲出されていた地図を撮影したもの)
この町に来たならばコレ!というほどの見どころがあるわけでもないので、例によって景観を純粋に楽しむ町歩きに徹することにしましょう。大聖堂の裏手に回り、国立博物館前をスルーして、ネリス川の川べりにでました。両岸に積雪があり、歩道も凍結しているので、足を滑らせて真冬の川に転落でもしたらえらいことです。でも白い景色ってすがすがしくていいですよね。河畔を1ブロック上流側(東)に進み、ヴィリニャ川が合流する地点から南に折れます。
(左)ネリス河畔 写真左側が大聖堂のある旧市街側 (右)旧式のトロリーバスを見ると社会主義国っぽさも感じられる
前述したように築山らしき盛り上がりがあって、その上にゲディミナス城(Gedimino Pilis)という建物、というかその残骸が見えます。かつては強固な城砦だったのだけど一部の城壁だけが残っていて、展望台になっているらしい。リフトもありますが運休中。大した高さでもないので登ってみようかなと思って、側面に設けられた徒歩用の登山道に入り込んでみました。拙宅から遠くないところに、東京23区最高地点の「箱根山」という場所があって、そこは江戸時代の大名が構築した築山(富士山信仰の一種)なのだけど、まあ似たようなサイズと構造ではあります。「箱根山」と同様に、緩やかなスロープが山肌をループしながら登っていく感じ。ところが、階段部分はよいのですが、スロープの部分はやばかった。敷石が完全に凍結していて、かなりの確率で滑ることが明らかです。朝っぱらで誰もいないこともあり、こんな低い山で真冬に滑落死でもしたらシャレになりません。観光客に冬場の白い景観を展望させるのもよいと思うのですが、除雪が間に合っていなかったのかもしれませんね。ということで早々に下山。
しかしこの程度の規模で「お城」というのはずいぶんスケールが小さいですねえ。リトアニア大公国の最盛期は中世終盤の13〜15世紀。このあたりから出て、現在のベラルーシ方面に勢力を拡大し、最大版図は現在のウクライナ方面、黒海沿岸にも及ぶ広大なものになりました。いわゆるバルト三国の中で、現在のエストニアとラトヴィアにあたる地域が「北の十字軍」と称されたドイツ騎士団の勢力下に入ったのに対し、リトアニアはこれを撃退することに成功しました。エストニア、ラトヴィアは自前の国家をついにもつことがなかったのですが、リトアニアは大帝国になった栄光の歴史をもちます。この国の繁栄をもたらしたのがゲディミナス大公(Gediminas 在位1316〜41年)。本当はキリスト教徒だったようですが、異教徒を多く含む広範な地域を統治するため、寛容政策を打ち出しました。これはハンザ同盟などの商人を呼び込んで商業を活性化させる一方で、騎士団などからは「異教の王」とのレッテルを貼られ執拗に攻撃されました。
凍結していて滑落必至?のゲディミナス城へのアプローチ
首都ヴィリニュスを建設し、この「お城」を構築したのがゲディミナスその人です。その孫ヨガイラ(Jogaila 在位1377〜1434年)は、大公家内部の争いに勝利して国家を継承しますが、1386年、同じようにドイツ騎士団の脅威にさらされ、しかも幼い女性継承者しかいなかった隣国ポーランド王国に接近して、11歳の女王ヤドヴィカ(Jadwiga 1384〜99年)と結婚、君主は共通だが国家は別といういわゆる同君連合の結成に踏み切りました。ヤドヴィカ自身もハンガリー王家の出身で、運命が変転してポーランド君主の座に就いているのですが、ともかくも東欧の有力2国家が結びついたことで情勢が大きく変わることになります。1399年にヤドヴィカが産褥死したあと、ヨガイラは単独でポーランド王位をも継承し(ヴワディスワフ2世ヤギェウォ Władysław
II Jagiełło)、これ以降はリトアニア大公家がポーランド王を世襲するわけですが、文化的・社会的にはむしろポーランドに対する従属性が強まってゆき、大公や貴族はポーランド語を母語とするようになっていきます。私が高校生だったころの教科書には「ヤゲロー朝が成立した」とあり、ずいぶんシンプルに記述されていましたけれども、ポーランド語の読み方(ヨガイラのポーランド語読みがヤギェウォ)や国家の性質についての研究もずいぶん進んだようです。「ヤゲロー朝」を知った当時は、ポーランドは社会主義圏の独立国、リトアニアはソ連邦の構成国だったので、そうか、歴史を見る際に現在の国境で考えてはいけないんだなと思った記憶があります。
一体化が進んだ(リトアニアの自律性が薄れた)両国は、1569年に合同してポーランド・リトアニア連合国家を成立させました。君主号は依然としてポーランド王兼リトアニア大公だったのですが、ポーランド独特の貴族制や選挙で王を選出するしくみなどのためもあって弱体化が進み、属国だった(ポーランド&リトアニアに宗主権があった)はずのプロイセンに主客逆転を許して、18世紀末の滅亡を迎えることになります。いわゆるポーランド分割で、これにより旧ポーランド地方はプロイセン、旧リトアニア地方はロシア帝国の領域にほぼ取り込まれることになりました。18世紀の有為転変を通していつのまにかロシア帝国に取り込まれていたエストニア、ラトヴィア両地域と、いよいよ運命が合流しはじめます。
(左)聖オノス教会(手前の茶褐色のファサード)とベルナルディン教会(奥のレンガ造り) (右)聖オノス教会の内部
どの都市でもそうだといえばそうなのですが、ヴィリニュス旧市街は、メイン・ストリートをのぞけば本当に静か。狭い道路が曲がりくねっている旧市街で、それにしてはその範囲がかなり広いのです。普通の住宅とオフィスの境目もわからないほど、美しい景観に建物が溶け込んでいます。これまでラトヴィアのリーガ、エストニアのタリンを歩きましたが、バルト三国の首都の中ではいちばん散策と目の保養に適した町かもしれません。直行便がないこともあって日本人の報告をあまり聞きませんけれど、昨今の言い方ですと文句なく「映(ば)える」ので、ツーリスティック指向の強い方にはとくにおすすめしたいところです。真冬に来たのがまたよかったのかもしれません。
そしてヴィリニュスは、とにかく教会の多いところです。パリのカフェより高頻度で出会う感じ。ヴィリニャ川が大きく湾曲するあたりに、茶褐色というには外壁の色が渋すぎる聖オノス教会(Šv.
Onos Bažnyčia)、そしてそのすぐ裏手にベルナルディン教会(Bernardinų Bažnyčia)が並んでいます。オノスのほうは15世紀のゴシック建築で、「火焔式」と呼ばれる外観が非常に個性的。これ以上ギザっていたら品がなくなるという、ぎりぎりのラインを攻めたデザインです。背後のベルナルディン教会も現存する建物は16世紀ころと古く、リトアニアの繁栄を直接見た最後の世代ということもできます。そのすぐ並びには聖母被昇天大聖堂(Vilniaus Dievo Motinos Ėmimo į Dangų katedra)。公式サイトがロシア語で書かれていることからもわかるように、これはロシア正教のカテドラルです。鉛筆型の尖塔にロシア式の八端十字架(カタカナのキに斜め棒を加えたような感じ)があるのでそれとわかります。メイン・ストリートに戻ったところにも聖ニクラウス教会(Šv. Nikolajaus cerkvė)という正教の建物がありました。聖ニクラウスはカトリックとも共通の聖人ですが、正教世界ではとくに崇敬を集める4世紀ころの大主教(サンタクロースのモデルとされる人物)です。
どれだけ信仰心があるんだ、というほど教会ばかりのヴィリニュス (上左)聖母被昇天大聖堂 (上右)聖ニコラウス教会
(下左)聖カジミエル教会 (下右)聖三位一体教会
旧市庁舎のすぐ目の前に建っているのが聖カジミエル教会(Šv.
Kazimiero Bažnyčia)。こちらは17世紀にイエズス会がつくった教会なのですが、一時期ロシア正教に変わり、ソ連時代には「無神論博物館」にされるという苦難を経験したそうです(「地球の歩き方」による)。ピンクがかったファサードが美しい。そして旧市庁舎から駅のほうに少し進んだところに、聖三位一体教会(Švč.
Trejybės Bažnyčia)があります。ファサード正面が口を開いており、そのまま一般道が向こう側に抜けるトンネル状の構造をしているので、近づいてみるまで城門だと思っていました。これも「地球の歩き方」によれば、ポーランド・リトアニア国家が16世紀にウクライナに進出した折に現地の正教と妥協してウクライナ・カトリックという宗派をつくっていて、その聖堂とのことです。キリスト教会の数や密度がすごいだけでなく、宗派的多様性もなかなかのもの。ソ連という宗教軽視の時代を経験したことで、かえって古いまま温存されたという面はあるのかもしれません。
正午が近づきました。旧市街の東半分(といってもメイン・ストリートが東寄りなので東西の幅は200mくらい)を一周した感じになっているので、今度は西のほうを歩きましょう。旧市庁舎から北西に向かうヴォキエチュウ通り(Vokiečių)は、幅広の歩道と並木を伴ったグリーン・ベルトで、おそらくソ連時代に整備されたものだろうと思います。この外側は新市街のようで、建物も現代風。しばらく進むと公衆トイレの標識が見えました。普通のビルの地下に外側から降りていくような構造で、天井が低く間口も狭いけれど、内部はまずまずゆったりしていました。外扉を開けたところの狭小なブースに女性係員がいて€0.30を徴収。料金を払うと遠隔操作でトイレ・スペースのドアを開けてくれるしくみになっています。いうまでもないことですが、欧州の町歩きでは見かけたときにトイレを利用しておかないと後々困ることがあります。冬場はとくにね。
ヴォキエチュウ通りに面して公衆トイレがあった
道なりに往くと、その少し先で道幅が狭くなり、またいくつかの教会のあいだをすり抜けるように進みます。ヴィリニアウス通り(Viliniaus)という道のようで、途中から下り勾配になりました。石畳風の、シックでおしゃれめの通りのようです。カフェやブティックなどが両側に見えます。観光色はほとんどなくて、ヴィリニュスの日常風景なのでしょう。ただし第二クリスマスのためか半分以上の店はクローズしています。坂の半ばあたりに、おそらくチェーン店と思われるカフェがあったので、足休めのため入店。20代前半に見えるおねえさんがワンオペ操業中で、カフェラテを頼んだら€2.20とかなり安く、表面のツリー模様もきっちり。なかなかスタイリッシュなカフェで、中2階のスペースには店内のらせん階段で登るというデザインもいい感じです。祝日のゆえか、あるいは時間によるのか人通りはほとんどありません。けっこう寒いですしね。
店を出てしばらく下ると、東西の主要道路であるゲディミノ通り(Gedimino)と交差する地点に出ました。今度はゲディミノ通りを西に向かいましょう。この通り沿いにはZARAやH&M、マクドナルドなど世界各地でおなじみのファスト店も点在。こういう商業地区は国や地域ごとの個性が本当になくなりました。ゲディミノ通りは、今朝ほどお参りした大聖堂を起点として西に伸びる道です。しばらく歩くと店舗が少なくなり、オフィスや官公庁の建物が目立つようになりました。まっすぐ700mほど進んだところで、湾曲して流れるネリス川を直角に横切る地点に出ました。そこにリトアニアの議会セイマス(Seimas)の議事堂がありました。
(上左)ヴィリニアウス通り (上右)ヴィリニアウス通り沿いのカフェ
(下左)ゲディミノ通り (下右)リトアニア議会議事堂
あの、ドラマティックな出来事の舞台なので特徴的な建物なのかなと想像していたら、実際には日本各地の県庁や市役所のような普通の直方体でした。1981年に落成したこの建物、初めはリトアニア・ソヴィエト社会主義共和国最高会議(Lietuvos Tarybų Socialistinės Respublikos Aukščiausioji Taryba / Верховный Совет Литовской Советской Социалистической Республики)が使用しました。個性のない、社会主義時代のセンスといえばそうかもしれません。ソ連なる国家が地上から消えてもう27年になります。連邦消滅をロシアなどが宣言したのが1991年12月26日で、きょうはソ連の「命日」なんですね。当時の記憶のない世代は、ソ連の話をしてもすぐ「ロシア」と勝手に変換して文字にしてしまうようですが、国名がソ連からロシアに変わったのではなく、連邦が解体されてその一階層下にあった構成国が主権を獲得したということ。変なたとえでいえば、アメリカ合衆国が解体されてニューヨーク州とかカリフォルニア州といった「州」が主権国家になったということです。ただ、連邦解体時に12あった構成国のうちロシア共和国の面積と国力は他を圧していましたので、なんとなくソ連→ロシアという流れでみんな捉えてしまうわけね。ロシア名物マトリョーシカみたいに、外側がまるごとなくなったのだと考えてください。
解体時の構成国は12だといいました。しかしその2年前までは15ヵ国でした。「ソヴィエト」というのは労働者と農民のつどう「会議」のことで、国家の運営主体。この「会議共和国」が15ヵ国集まって結成されていたのがソヴィエト社会主義共和国連邦(Союз Советских
Социалистических Республик)という主権国家でした。構成国は、ロシア、ウクライナ、白ロシア(現ベラルーシ)、モルダヴィア(現モルドヴァ)、グルジア(現ジョージア)、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメン(現トルクメニスタン)、カザフ(現カザフスタン)、ウズベク(現ウズベキスタン)、キルギス、タジク(現タジキスタン)、エストニア、ラトヴィア、リトアニアで、最後の3つを総称してバルト三国といいます。バルト三国は、ソヴィエト連邦結成時(1922年)にはそれぞれ独立国でしたが、第二次世界大戦勃発後の1940年、ソ連に半ば強制的に接収され、主権を失いました。リトアニア最高会議というのは、構成国としての最高意思決定機関にあたるものです。三権分立がないので、西側ルールに慣れきっていると理解が難しくなりそうですね。
リトアニア国立図書館 この左手にある議事堂よりも建物の貫禄がある
前述のように、ポーランド・リトアニア連合国家はロシア帝国によって消滅させられ、リトアニア地域が帝国領に編入されました。そのロシア帝国で1917年に勃発した社会主義革命の結果、ボリシェヴィキ政権が成立し、1922年にはソヴィエト連邦が発足しますが、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの3地域は民族国家の樹立をめざしてその動きから離れ、第一次大戦終了間際のドイツ軍やその残党、ロシア白軍(帝国の保守勢力、反ボリシェヴィキ勢力)、赤軍(ボリシェヴィキ軍)などと大混戦の戦いに突入します。リトアニアに関しては、同様にロシアの支配から抜け出し、その勢いで領土を拡張しようとしたポーランド軍とも戦闘を繰り返す羽目になりました。いまのポーランド東方国境は、英仏などが当初想定していたラインだったのですが、ポーランドは調子に乗って?そこから200kmも東に食い込みました。いまベラルーシ、ウクライナ領になっているところにポーランド領があったのです。そしてリトアニア人たちが新独立国の首都に想定していたヴィリニュス周辺も、このときポーランドに奪われました。ヴィリニュス大学の沿革を紹介した際に、戦間期にはポーランドの大学になっていたと書いたのはそうした経緯によります。このためリトアニアは、憲法に定めた首都が実効支配領域内にないという変形国家であることを当初から余儀なくされます。1939年にソ連がポーランドに武力侵入し、ナチス・ドイツとともこれを分割占領した際に、ヴィリニュス地域をポーランドから切り離し、リトアニアに「与えた」のですが、その翌年にはリトアニア自体がソ連に呑み込まれてしまいました。1939年8月23日、独ソ不可侵条約の秘密議定書(モロトフ・リッベンドロップ協定)でバルト地域のソ連への併合が合意されており、英仏などがその救出に動かなかったためです。もともとバルト三国の独立は、ソ連という社会主義国家に対する「反共の防波堤」として西欧諸国に期待されたことによるもので、世界恐慌やナチスの台頭でそれどころではなくなり、ついには見殺しにされたということでした。
1985年に登場したソ連のゴルバチョフ書記長は、ペレストロイカと呼ばれる一連の改革を断行し、国内政治と外交・安全保障の両面で大ナタを振るいました。長く禁じられていた民族文化の公開が、バルト三国では合唱祭というかたちで展開され、そこにチェルノブイリ原発事故(1986年)以降の環境保全運動や情報公開の流れが合流します。当初はゴルバチョフの改革と親和的でしたが、やがて民族運動が高揚し、運命を決めた秘密議定書から半世紀の1989年8月23日にはヴィリニュスからエストニアのタリンまでの約600kmを人間の鎖でつなぐ「バルトの道」(Baltic
Way)が結ばれます。世界に向けて「自分たち三国はソ連の被害者だ。50年前の接収は不当だった」と連帯して訴えることになります。素朴な合唱集会からはじまったため歌う革命(Singing Revolution)の名をもつバルト三国の独立運動は、ロシア人を域内に多数含むラトヴィアの動きが悪くなったのを機に、民族的な純度が高かった(8割以上がリトアニア語話者でカトリック)リトアニアがリーダーシップを発揮することになりました。運動体サユディス(Sąjūdis)とその代表ランズベルギス(Vytautas
Landsbergis)の名は、連日のように日本のニュースでも流れました。
「セイマス」は英語表記でもかたくなに守るんですね 意味通じないと思うけど・・・
やがてソ連中央の意思に反してリトアニア共産党が分離を宣言。リトアニアの主権を認めるという点でサユディスと協調します。これを受けておこなわれた自由選挙でサユディスが圧勝し、ランズベルギスは最高会議議長に就任しました。ゴルバチョフは、自らが推進した民主化や規制緩和が、自身が意図したところを追い越して進むのを止められず、ついには反動的な独立阻止に動きます。1991年1月13日、ソ連軍がリトアニア領内に侵入してヴィリニュスの市内要部の占領に着手しますが、リトアニア政府と市民は一体となってテレビ塔やこの議事堂を死守しました。このとき13人が死亡、そのニュースはたちまち世界に発信され、ソ連とゴルバチョフは大恥をかく結果となります(血の日曜日事件)。ソ連の最大構成国でありながらゴルバチョフと対立していたロシアのエリツィン大統領はこの機会にリトアニアの独立を承認。ソ連はこれ以降、ラトヴィア、エストニアを含めて手を出すことができなくなり、8月のクーデタ(ゴルバチョフが保守派に軟禁され、政敵エリツィンに救出される)によってバルト三国の独立が実質的に確定しました。
ソ連が消滅したというのは人生でも指折りの衝撃的な出来事でしたが、それに先立って、「あのソ連」から小国が3つも独立を勝ち取ったというのは実にセンセーショナルでした。いまと同じように真冬のヴィリニュス、この議事堂の緊迫した場面が思い出されます。きょうは曇天の寒い日。そして人影もまばらです。大聖堂付近に戻り、朝に歩いた道をゆっくり歩いて14時過ぎにホテルに戻ったら、クリーニングやベッド・メイクがまだ済んでいません。連泊のよさは休憩できることなんだよなと思いつつ、仕方ないので15時ころ再出動しました。日没が近いので、いまのうちにもう一つ、見ておきたい地区に足を踏み入れます。
ウジュビス地区の入口付近 (左)なぜ日本語? (右)「ラッパを吹く天使」なるこの地区のシンボル
何度目かのメイン・ストリートを横切って、午前に歩いたロシア正教の聖母被昇天大聖堂のそばに出ました。そこでヴィリニャ川に架かる橋を渡ったところがウジュビス地区(Užupis)。格別に予備知識があるわけでもなくて、「ウジュピス共和国として独立を宣言」というシャレ案件がガイドブックに紹介されていたのです。治安が悪く旧市街から隔絶しがちだったところに、アーチストやデザイナーなどが多数住みついて、アートの町として売り出しているのだと。なるほど坂道に沿って工房やブティック、スーヴェニア・ショップなどが点在します。たそがれどきとあって絵になるね。やはり人通りはあまりなくて、小公園で子どもを遊ばせている若いお母さんと、あとは絵になりそうな構図を撮影している同好の士?らしき2、3人くらいです。「対岸」の旧市街が見える感じがとてもよき。「外国人」とおぼしき若いカップルがいて、対岸の絵を背景にして彼氏が彼女を撮ろうとしたから、お先にどうぞと譲ってあげたら「サンキュー」とにこやかに笑ってくれました。そのあとしばらく旧市街をうろうろして、メイン・ストリートを歩いていたら、ある店からそのカップルが出てきたところでまた出会い、「セカンド・タイム。よくお会いしますね」とまたにっこり。きょうび、鎌倉とか浅草あたりに行っても同じようなことがよくあるんだろうね。
静かな坂道、ウジュピス地区はたしかにインスタ映えしそう
イチゲンの観光客が歩きそうなところは真ん中へんにぎゅっと集約されているというのが欧州の都市。この小国の首都は、人口50万人程度ですので板橋区とか杉並区よりちょっと少ない程度。わが東京をはじめとして、東アジアの大都市なんて迫力ありすぎますよね。リトアニアは2004年に北大西洋条約機構(NATO)、そして欧州連合(EU)の加盟国になりました。小国ではあるが、欧州の国々と「地続き」になっています。域内自由通行のシェンゲン圏と、ユーロ圏でもありますので、たとえばの話、ポルトガルからここまで陸路やってくるならば出入国審査はありません(ただし国境での旅券検査は可能。スキャンして押印する公式の審査は認められない)。
メイン・ストリートを下って、昨夜いらい3度目の「王宮」&大聖堂にやってきました。クリスマス・マーケットの灯が今夜もきれいですね。カトリック国だからお店が開いていなかったらどうしようといった当初の心配はまったく杞憂でよかった。バルトの残り二国、ラトヴィアとエストニアを訪れたのは真夏の8月だったのですが、冬場のバルト地方は空気ごときれいな印象で、一つだけ取り残しておいてよかったかもしれません。もともとポーランドとセットで訪れようと思っていたのだけれど、今夏に計画を立ててみたらポーランドが広すぎるのと、リトアニアとのあいだにビザを必要とする(しかもEU圏ではない)ロシア領カリーニングラードがはさまっていて、鉄道・バスのいずれでもかなりの時間を要することがわかり、リトアニアの旅程を分離しました。いや真冬もアリです。
またまたやってきた大聖堂付近 プロジェクション・マッピングもなかなかスマートです
17時半ころ、勝手知った旧市街をぐねぐね歩いて宿の付近に戻り、前日と同じ道筋(ホテルが面している)にあるレストラン、Lokysのドアを押しました。ゆったりとした店内が窓の外からもうかがえて、いい感じだったので。けっこう奥行きのある店内に通ると、早い時間帯ですが2組の先客がありました。1組は英語を話している若いカップル。もう1組は30代くらいの女性の友達同士のような感じです。町のあちこちで観察したところ、15〜16時台に食事している人もかなりいるようで、飲み食いフリータイムの傾向があるのかもしれません。日本人にはそちらのほうが気楽でいいですね。テーブルに届けられた英語メニューを見ると、Meat Course(肉料理)に3種。牛フィレと鹿肉のビール煮込み、ニンジン・パースニップ・マッシュルーム添え(Stew of
beef fillet and venison meat with beer, carrots, parsnips and mashrooms) €13、ビーフ・ステーキ(Beef steak) €19、ポーク・テンダーロイン・ステーキ(Pork tenderloin steak) €10で、いずれにも散文の説明がさらに添えられていて親切です。どれも安くて美味しそうだけど、牛&鹿というめずらしいやつにしてみようかな。ワインは部屋飲みにするとして、ここはビールを。生が2種類、ボトルが7種類でいつもなら生を選びますが、リトアニアン・エールと添え書きのあったKurko
keptinisを発注しました。こちらは€4。それにしても物価が安いな〜。
まずビールとパンが運ばれました。出た、黒パンにハーブ・バター! ラトヴィアとエストニアでもこれでした。正教の教会をのぞけば「ソ連」だった痕跡がほとんどみられない町なのに、食の部分でロシアっぽさが残っているのはおもしろい。ビールはダーク・ビア風でしっかり麦の味がします。意外に炭酸が強い感じ。
数分で運ばれた煮込みは、マッシュ・ポテトで構築した円形の器に肉・野菜を盛りつけた、変わった見た目でした。ラトヴィアのリーガで食べたポーク・ナックルにもマッシュの堤防が盛られていたし、このへんの作法なのでしょうか。肉は少し硬いが、よく煮込まれていて、よい味がします。ニンジンはわかるけれど、タケノコみたいな触感のダイス型の野菜は何?(これがパースニップという根菜らしい) 全体にざくざくした触感で、牛肉を赤ワインで煮込んだフランスのブフ・ブルギニョンよりもいっそう素朴な味がします。食後にエスプレッソ(€2.50)をとって、ゆっくり勘定にしたら、ガラスのおちょこに入った食後酒をサービスで出してくれました。スピリッツでしょうが、味わいは中国の白酒っぽい。
12月27日(木)は、ヴィリニュス駅を12時45分に出る列車の指定券をネットで押さえてあり、午前はひきつづきヴィリニュス散策です。といっても旧市街の主だったところは回ったので、そのあたりをぐるりと一周する感じにしましょう。地下の食堂に降りて朝食を頼むと、前日にはあったソーセージや卵の箱がなく、マダムが「キッチンでつくります」と。オムレツ、スクランブル、パンケーキの中から選んでほしいということだったのでオムレツを指定。運ばれたのは卵4つくらい使ったでかいオムレツで、ふわふわ、ありがたいことに薄味でかなり美味しい。ビュッフェ方式でなくオーダーメイドになったのは、客数が少ない日だったせいかもしれません。さて、メイン・ストリートを大聖堂とは逆の方向に進むと、夜明けの門(Aušros Vartai)があります。旧市街が城壁に囲まれていた時代の名残らしく、防衛機能をもつ見張り台といったところですね。
夜明けの門
4度目の大聖堂を訪れて参拝。きょうも静かです。ヴィリニュスは内陸だからか、歴史の違いなのか、バルト三国の他の2首都(リーガ、タリン)とはだいぶテーストの違う都市でした。ここから20kmくらい東に行くとベラルーシとの国境です。かなり広いEU&シェンゲン圏の、ここがぎりぎり端っこということね。そんなことだからポーランドにねらわれ、せっかく独立国になった戦間期には首都でいられなかったという悲運に見舞われたともいえます。第一次共和国の臨時首都になったのが、70kmほど西方の都市カウナス。これから列車に乗って、そのカウナスに移動することにしましょう。
PART3につづく
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