古賀毅の講義サポート2025-2026

Programmes et cours d’étude

教育課程論


千葉工業大学工学部・創造工学部・情報変革科学部・未来変革科学部・情報科学部・社会システム科学部 教職課程
前期 土曜67限(14:00-16:00) 津田沼キャンパス 6号館 614教室


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2025(令和7)年度 教職科目における指導・評定方針

 

202567月の授業予定
6
21日 総合的な学習(探究)の時間の構想(1)
6
28日 総合的な学習(探究)の時間の構想(2)
7
5日 特別活動の構想/特別支援教育の構想
7
12日 教育課程と評価

 


次回は・・・
13- 教育課程と評価

最終回のテーマは教育評価education assessment)です。学校教育は、家庭教育や社会教育と異なり、教育それ自体を目的として実施されるものであり、一種の「事業」です。したがってそこには実施計画があり、実際の事業が当初の計画に照らしてうまくいったかどうかの検証が不可欠になります。また、「うまくいったかどうか」だけだと1つのサイクルが終わらなければ判断できないわけなので、「うまくいっているかどうか」をプロセスの段階で検証することも必要です。飲食店で喩えるなら、調理途中での「味見」というのがそれにあたります。お客さんが全部食べ終わってから「おいしかったけど味が薄かった」といった評価をしてくれることがあり、そのお客さんには申し訳ないですが、次回同じ料理のオーダーがあったときに(別のお客さんであっても)より改善を期して料理をつくることになるのではないでしょうか。「味見」程度の感覚的で初歩的な評価作業であればさほど難しくないでしょうが、教育の評価には一定の技術や作法があります。ある程度統一された基準や作法で評価しなければ、組織としての事業に見合ったものにならないからですね。

学校教育も事業ですので、企業などの評価活動と基本的な趣旨は同じです。ただ、学校教育ならではのややこしさもあります。教育活動(という事業)の全体とか、「わが校の道徳教育」「この地域の英語力の向上」といったことであれば、企業の評価活動に近いものになるでしょう。しかし学校では、本来は受益者であるはずの児童・生徒・学生個々に対して「あなたの学業はこんな感じでしたよ」という評価をフィードバックしなければならず、この点が独特です。この活動を成績評価といいます。フードデリバリーやスキマバイトアプリであればお金を払ってオーダーする側(雇用主)が、配達員やバイト社員を評価するしくみがあり、その評価をユーザー全体で共有します。学校では、児童・生徒がこの雇用主の立場にあたるはずで、義務教育課程である小・中学校はともかく高等学校や大学、私立学校などではお金を払っている側でもあるのですが、そちら側の児童・生徒がスコアをつけられ、評価されるという妙な現象が発生します。おそらく大半の受講生が、教育評価と聞いて「生徒に点数(成績)をつけること」を思い浮かべたでしょうが、そのいびつさ、妙な構造に気づくでしょうか。本当はもっと大きな教育評価の枠組があり、成績評価はその一部分です。学校教育の「中の人」(教職員)としては、その構造をきちんと理解したうえで各種の作業に従事しなくてはなりません。

何ごともそうなのですが、評価といっても数値化できるもの(数量に還元できるもの)とそうでないものとがあります。ここ四半世紀くらいの世界の流れとしては、数値化できる部分は数値化しようということになっています。教育というのはかなり巨額のお金が動く一大産業ですし、いまやグローバル・サイズで人々が動く時代のため受益者が近隣の人たちだけではなく、しばしば言語や文化を異にする人であることもあって、なるべく客観的に共有できる部分を多く取りたいからです。他方で数値化できない部分も、教育ではきわめて重要です。「再生回数の多い楽曲」が「すぐれた作品」とはかぎらないし、まして「自分の趣味や好みに見合った作品」であるわけでもない、というのに構造は似ています。そのような個別的・個人的な評価が入り込む余地がいまのところあまりないのが難点なのですが、そういった課題を含めて、教育評価の全体像を知ることで、事業としての学校教育にかかわっていくプロの視点を獲得するのにまた近づくことになるのだろうと思います。

 

 

REVIEW 6/21

75日のレビューは遅れて更新します。しばらくお待ちください。

 

学習の目的の根本が、総合だといえるのかなと思った。学問を教え込むだけが学校ではないということの再確認になった。(応化)

教科と教科のあいだにある「なにかしらの問題」や、社会に必要とされる力などを考えるときに、各教科を局所的に教えると生徒にその間のつながりを任せることになり、教育としてカバーできていない。そこで総合的な学習(探究)の時間を用いて横断的な教育体制をとっていく必要があると思う。(応化)

いままで、体験するというのはよいことばかりだと思っていたので、抽象的で高度な学びや知識を扱う中等教育では、体験できることでは知的なものにつながらないのだということに気づいて、気をつけていかなければならないと考えました。教科の専門性を生かして、総合的な探究の時間を展開していけるようになりたいです。(高度)

先生が考える総合的な学習(探究)の時間の趣旨として、学際性や領域横断性が黒板の図として示されたが、「総合的」の補足的な説明になっていてわかりやすかった。クロス・カリキュラムを組むにしても、生徒に教えるということ以外に、どのようにしてその教科・科目に興味をもってもらうかということにも効果が出てくると思う。(高度)

総合的な学習(探究)の時間は、既存の教育課程を温存しながらもその外側に新たな枠組として設定されるものであることから、通常の教科指導とは異なったかかわり方が必要だと思った。(経デ)

総合的な学習の時間は、教科ごとの枠組を越えて、それぞれの教科を横断するという、大学や社会での勉強につながるものだと思った。(機電)

総合的な学習の時間はさまざまな設定の方法があることがわかった。自分の学校は毎週1時間で、それが普通だと思っていた。自分の担当教科以外にもかかわることがあるとわかった。(認知)

生徒の主体性や意欲に火をつけることが大事だと思った。そのために、自身が担当する教科だけに専念せず、他の教科とのつながりや横断を意識していきたいと考えた。(高度)

「自分の専門じゃないからわからない」 ――生徒たちは専門でない教科をあなたから学ばされている、という言葉はすごく自分に刺さった。自然と抜け落ちてしまうことだなと思った。今後、とくに教員になった際にはその意識を欠かさないようにしたいと思う。(認知)
生徒は専門でないものを学んでいるのに、教員側が専門でないからわからないとはいってほしくない、という先生の話を聞いたとき、とても重く感じました。このことはとても大切なことだと私も考えるので、教員の立場になったときに、そのような言い訳を絶対にいわないようにこれから学んでいきたいです。(機電)

生徒のために学習をつづけられる教師でありたい。自分がどう教えたい、教えるべきかを考えるのではなく、どう学びたいのか生徒側の視点を忘れずにいたい。(認知)

自分の専門の教科や科目を教える際の責任感は必要だと考えた。私は理科の教員をめざす立場であるが専門は化学であり物理・生物・地学は専門外である。しかし専門外の科目を教える可能性もある。生徒の目線に立ってみると、専門ではない科目を教えられるというのは不安を感じるかもしれない。そうさせないよう教員の側が科目を研究して不足なく教えられるようにならなければならないと考えた。(応化)
・・・> 理科以外にも目配りしなければ、というのが授業で述べた主旨でしたので、それよりも内側の問題ではあるのですが、ことに理科と社会ではその問題はしっかり考えて取り組んでもらわなければなりませんね。教員(をめざす学生)自身が総合的・横断的な思考を日ごろから心がけていれば、「専門ではない科目を教える」といった身構え方をしなくて済むようになります。私(古賀)は地理歴史専修というところで学び、ゼミでの専門は日本近現代史でしたので、いってみればそれ以外の社会(地歴・公民)は専門外の科目ということになります。でも現場では一貫して公民の政治・経済を教えていますし、教科書は公共の倫理のところを書いています。物知りなんだかDDなのかそこはわかりませんが(笑)、まあそのほうが自分も楽しいし生徒のためにもなるよ、ということね。


アメリカ国立自然史博物館(ワシントンD.C.

 

総合的な学習の時間は、教科のみで考えるというのを取り払って考えることで、多様な見方や主体性を形成するもので、教科(知識)が社会でどのように用いられるのかという部分を考える時間だと思う。多くの人々の意見を用いて、さまざまな見方や考え方があることが重要になる。またそれによって教科の弱点となる部分を補う役割がある。進学実績が重視され、総合は軽視されてしまうが、教科の使い方やあり方を理解することで、教科の必要性や楽しさを知り、学びへの関心を高めることができると考える。(応化)

外に出たり体験したりするものこそ総合的な学習の時間だと思っていたので、考えを改めたい。教科をクロスオーバーさせることで生徒としても楽しい(interesting)学びができそうなので、しっかり考えたい。(認知)
総合的な学習の時間と聞くと体験というイメージが強かったのですが、知的な総合をめざしていくべきだということがわかりました。他の教科担当の教師と協働して指導するために、チーム学校として教育課程編成に取り組むことも必要になると思いました。(機械)

総合的な探究の時間はあくまで教科を横断する学びのための時間であって、キャリア教育や学校行事のための時間ではなく探究が必要であることがわかった。(応化)

総合的な探究の時間は、体験することよりも「知」の獲得が大事なので、初等教育の生活科の延長で考えるのではなく、中等教育としての抽象的なものの理解に重きを置く必要があるだろう。生徒はすべての教科を同時に学んでいるからこそ、クロス・カリキュラムを考え、多角的な考え方や「知」を身につけさせる必要があるのだと考えた。(高度)
・・・> そのように思います。ただ、知の「獲得」だとショートされる恐れがあります(従来型・受験勉強型の学習と何が違うのかと)。そこの表現を工夫してみてください。

総合的な学習の時間は領域横断的なもので知識習得がメインとなり、体験をメインとしてはならない。初等教育の生活科と一緒にしてはいけない。(認知)
・・・> 1つ上と同様に、「知識習得」だとショートします。それとも、「知」の学びといったら知識の習得しか考えられないでしょうか? それはそれで問題。

総合的な学習の時間を起案したのが初等教育の専門家だったのならば、中等教育にそのまま持ち込んだのはナンセンスだったのではないかと思った。(高度)
・・・> ナンセンス(センスがゼロ)というほどひどいかどうかはともかく、おっしゃるように中等にそのまま適用しようとしたのは大問題でした。授業でも申したことですが経緯を正確にいえば、(1)起案時点では初等ベースではなかった。小・中・高をつらぬく枠組であるわけだから中等には中等の論理があってしかるべきだと認識されていた。そして知的総合だった。(2)ところが実際にどうするとなったときに、学習指導要領(平成1011年版)に何も書かれていなかったため現場は困惑。この種の教育活動に従来から強かった初等教育の専門家が入り込んできて、議論をそちら(体験学習的な、陳腐な新教育)に引きずっていった。(3)教科に閉じてしか考えることをしてこなかった中等教育側も抵抗できずに引きずられた(本音は面倒なのでやりたくなかった?)。という感じです。

中途半端な総合学習は成績の低下につながるが、単なる体験学習ではなく身近なことと結びつける学習では成績アップが期待できる。
・・・> 学科表記は伏せます。ピントがずれまくっていて、しかも不正確。ついでにいえば成績のセキも間違った漢字を書いていました。自身のアップを真剣に考えないと教職どころではなくなりますよ。

知的な総合、自分たちでカリキュラムをつくり探究的な学習を組み立てるというのは面倒くさそうだが、おもしろそうだと思った。探究が大切であることはわかったが、ただ体験、ただ調べものというのではダメだ。(高度)

総合的な探究の学習の内容が難しかった。総合を学ぶ生徒に理解してもらう方法を考えたい。(情工)

総合的な学習(探究)の時間は「○○ではない」という話があった。私は、ものづくりを通じて知的なおもしろさというものを実感し、その実感が自動的に自ら学ぶことができた(好きな内容、たとえばロボットをつくる過程で必要な学び)。そこでは三角関数を使って坂道を登るために必要な角度を求めるなど、いろいろな知的な楽しさを感じた。知的なおもしろさを生徒が実感できるような内容が必要である。(機電)

総合は教える内容も教え方もいま学んでいる教科の授業とは別物だと思っていたが、目的が似ているのなら通用する部分があるのではないかと思った。(認知)

総合的な学習の時間の目的は、主体的に学習する能力を鍛えるという意味での知識の獲得ということにするべきであり、教科を横断した知識探究の拡大は、教員の側が生徒以上に意識すべきときだと思った。(認知)


ロンドン イングランド銀行附設ミュージアム

 

クロス・カリキュラムという学び方はとてもおもしろいと感じた。一つ一つの科目を独立させて教えるほうがわかりやすいこともあるが、2つの科目のつながりを生徒に見つけさせることで、新たな視点をもたせることもできると思う。学問だけでなく身の回りのこともつながりをもっているということに気づかせるきっかけになると思った。(応化)

クロス・カリキュラムを通すことで、成り立ち→結果が詳しく紐づけられ、片方が得意な科目であればもう片方を助けられる可能性も上がる。独立した学びではなく、出口を広げていくことで、学びの範囲や納得性が上がり、「専門性」を他にも生かすことができる。専門だからといって特定のものに関する知識だけでよいという認識を改めなければいけないと感じた。(高度)

理科単体を教えるだけでなく、他の教科とのつながり、問題の捉え方から、理科は理科だけ、他の教科や生活と関連はないと思わせないような教育が、その教科に興味をもたせるうえで大切であると理解できた。(応化)

教科をクロスさせることはとてもおもしろく、やるべきであるが、高校から研究をおこなうことを探究の授業にしてもよいと思うので、やるのであればもっと多くの時間を使ってもよいと思う。(情工)
総合的な学習の時間を使った教科横断的な学び、クロス・カリキュラムというのは体験したことがないものなのでとても興味深い。これを実現するには、教員側は専門の教科だけでなくクロスするほうの教科についての知識も必要であるため、自分の専門以外の知識もできるだけ身につけたいと思った。(機械)

横断的な学びを経験すると、その後の抽象的な学習もクロスを予測して継続でき、ひとつのテーマを複眼的な視点で見る力を育てることができる。「教わる」より「自分で学ぶ」姿勢が育ち、正解のない問いに対しても主体的で深い学びを実現できる。(都市)

国語を数学のように教える先生に出会ったことがあります。逆手に取れば数学も国語のように教えることができるのではないかと思います。高校のとき数学を学ぶのが楽しくて仕方がない時期がありました。次世代の生徒にもそのような体験をさせられる教師になりたいです。(高度)

工業はクロス・カリキュラムをつくりやすく、かつ抽象的な内容も多いため、短い線で横槍を入れ、導火線に火をつけてやりたい。そのためにも普段から他学科との交流をおこない、工業の人以外の視野を取り入れたい。(材料)
・・・> 工業で「横槍を入れ」「火をつけてやりたい」なんていうと物騒かもしれない(笑)。工業高校の学習を観察していると、当然のことに1年生から工業の専門がかなり高度なのに、中学校段階での数学や理科の学力がいまいちということがしばしばみられます。苦手意識を早くにもってしまうのはもったいないですね。工業高校では総合の設定はたぶんないので、教科指導の中にクロスの考え方を取り入れていくことと、ときには教科外での学習を支える体制をつくることが必要でしょう。

interdisciplinaryを考える、おこなうにあたり、いまの教職課程は環境としてうってつけだなと感じました。いろいろな学科が集まっているし。ぜひ生かしたいです。工業の免許を目標とするので、工業をピックアップしますが、「工業」なんでもうさまざまな学問が複雑に絡んでいて、教え方が散漫としてしまいそうで難しいなあと思いました。(機電)

教科横断の学びは、実際の社会の複雑な問題を多面的に考えることができたり、知識を深く学ぶことができたりしてよいとは思うが、教員の実力という面ではいろいろな問題を解決しなければ十分な効果を発揮できない可能性がある。教員が担当する科目以外の知識を得るための研修や、他の教科教員との話し合いの時間が必要不可欠だ。人手不足や時間外労働の問題から、さらに白熱するだろう。また40人対1人で知識を教えるという固定観念を壊し、教員を増やすか、生徒が他の生徒に教える(GWやプロジェクト学習を活用)というのもおもしろい取り組みになるだろう。(認知)


工業高校の学び

 

ハッカソン12みたいな感じなのだろうか? (情工)
・・・> 違うと思いますよ。あれはイベントだし、おそらく長続きしないし、デジタル業界以外に広がらないと思う。

私の家には炊飯器がありますが、いつも土鍋でお米を炊いています。水の量の調節が難しいですが、うまくできれば、より米の味がするおいしいごはんをつくれるので、ぜひやってみてください! (応化)

理数学科やSSHによって実際に何か変わったことはあるのかな。(応化)
・・・> あります。(Xのポストじゃないんだから気をつけなさい)

総合に課題研究が含まれていることに驚いた。
・・・> 総合に課題研究が含まれていることに驚いたといっていることに驚いた。別だとあれだけ強調したのに。しかもこの1行だけ?

重先生の現代社会論を履修しているのですが、そこでもニートやひきこもりについてやりました。いまそうなっている人に対して考えましたが、やはり重要なのは「そうならないように」だというふうに感じました。(機電)
・・・> これはどこにつながる話でしたっけ? ひとつ前のキャリア教育の話題ではなかったですかね。それはそれとしても「そうならないように」が重要だという考え方には結構な落とし穴があるので、もう少し考えよう。

2019年度の大学入学生まで、教職科目に総合に関するものがなかった。やや短絡的だが、私が受けた総合は、進路のことなどが多かった気がする。そのことが影響しているのか。(認知)
・・・> なくはないでしょうね。だって、教員免許をもっている人の大半が、総合に関してまともな知見をもっていないかもしれないのだから。とくに管理職や主任級の判断が甘かったと思います。といいつつ、2021年度以降は千葉工大でも総合の指導法を教えているわけなので、われらのOB教員がダメな内容の総合を実践してしまったら私のせいになります。ちゃんとやってねみんな(笑)。

横断的な学びの中で、たとえば中等教育ではやらない法律や地政学などは、教員が教えづらいと思うが、その場合はどう教えたらよいでしょうか。(機械)
・・・> 法律や地政学を(あなたが)教えたいのに教えづらいのか、教えるべきだと考えているのに難しそうだということなのか、どちらでしょうか。というのは、なぜ法律と地政学という2分野(それも相互にあまりかかわりがなさそうなもの)を挙げたのか、意図がよくわからないからです。法律は大学の法学部などに進まなければ学びません。「法というもの」の考え方、法的な思考ということであれば公民科の範囲です。また、レビュー主の専門である工業のほうがむしろその内容に直接かかわる法律の問題を扱うことがあります。あとは家庭科などがそうですね。横断的なプログラムを組んで、その一方を法律にして、たとえば工業をより立体的に学ばせるということであれば、大いに意味があると思います。公民の先生が頼りないようであれば法学部の先生や弁護士の先生に頼むのがよいでしょうね(ただしその方たちは中等教育仕様ではないので注意が必要)。地政学(Geoplitik)というのは、実は学問分野としてはまともに認知されていません。大学に「地政学部(学科)」ってありませんし、地政学なる科目を置いているところもほとんどないのではないかな。世の中ではかなり用いられる概念なのに、学問業界ではほとんど無いことになっています。別の学問で代替可能であるからでしょうね。いま地政学の原語表記をドイツ語にしたのには意味があって、もともとドイツ語圏で提唱され発展した概念なのです。ナチスに利用され、活用された経緯があるため、それでその後は忌避されることになったわけですね。

課題研究を総合的な探究の時間に置き換えることができるが、同じではない。宗教と道徳に似た扱いである。置き換えはできても同じではないといわれたときは、違いがわからなかったが、授業を受けて違うと思うことができた。

私は課題研究しかしたことがなかったので少し新鮮だった。逆に、普通科の人にも課題研究をしてみてほしい。楽しいので。(応化)

認知情報科学科の先生で教育と認知を関係づけて研究している方がいるので、そこで研究しつつ、最後にあったような理系エリートを育成できるような人材になれるようにがんばりたいと思った。理系エリートはとてもよいものであると思った。(認知)
・・・> 異論も異存もありませんが、世間の相場としては「理系エリート」と聞いて反感を呼ぶリスクは結構あるので、文字数を増やしましょうね。「私は理系エリートを育てています!」とだけいったら、友達の何人かは失うかもしれません(そんなやつ友達じゃないかもしれないけど)。

中学生のころを振り返ると、私自身が 教科>総合 だと思いながら授業を受けていた。しかし教師目線で考えたら、教科も総合も同等に扱わなければならないと思えるようになった。理科や社会など、混じり合わないような組み合わせだが、マッチする部分がある。このような授業はおもしろそうであり、普段の授業では学べないところを学ぶことができるから、学ぶ意義がなんとなく生徒でもわかるようになったり、学ぶことの楽しさがわかったりするのではないかと思うようになった。(応化)

教科・科目をまたいで学習するの場合、生徒が能動的にそうなるのは難しいので、教員にあたる立場の人が導いていく必要があると考えた。総合的な学習の時間として自由な時間が与えられて、何をすればよいのだ、という状態に教員がなってしまうのはよくないと思う。自分の専門だけでなく教員として生徒の発達に必要なものを思考しつづけることが必要であると考えた。5教科の枠がガチガチなのは、とくに中等教育で感じるが、高校のように科目訳をしてもよいのではないかと思う。ただ、最後のクロス・カリキュラムの考えを用いて、複数の分野を行ったり来たりするのもよいのではないかと思った。(電電)
・・・> 5教科がガチガチなのは、小・中・高を通じた安定感という点ではよいのでしょうが、マイナス面のほうが大きいと私も思います。小・中・高の範囲だけで「安定」してどうするよ。私は、高校の「科目」でもぼちぼち限界があるように思います。とくに理科ですね。せめて地理歴史と公民みたいに分割するほうがよいと思うけれど、4カテゴリの中で地学がどうしてもマイナーなので(失敬)、物理・化学と生物・地学に分割すると前者が「圧勝」してしまう心配もあります。どうしたものでしょうかね。フランスの教科は、物理・化学(physique et chimie)、そして生命と地球の科学(sciences de la vie et de la Terre)となっていて、まさに第1分野・第2分野の分け方なのだが。


サハラ砂漠(うそ 鳥取砂丘です)

 

 

REVIEW 6/28

教科の学習内容を深めるために、学び方や思考の進め方を総合的に探究し、学ぶことの意義を身につけることが大切なのだと思うことができた。教員は、総合的な学習の時間に地域の自然や歴史、社会などのテーマに関心をもてるよう、指導する側に求められる知識や理解を深めることが必要だとわかった。(応化)

総合的な学習では、地域社会型などのテーマをはっきりと決める必要がある。たとえば、なぜ学ぶのか、どこをゴールにするのかなどである。生徒自身に考えさせ、教師だから教えるというだけでなく、ときには逆の立場に立つことも必要だろう。(高度)

総合的な学習(探究)の時間の学習テーマを設定するとき、生徒の興味や関心を軸にすることと、低次元になってしまうのを避けるために教員がうまく誘導することの塩梅が重要なのだと考えました。(高度)

生徒の興味・関心を軸にするというのは、教科では学習指導要領があって難しいと思っていたが、総合的な学習の時間こそ幅が利くし、生徒の興味・関心に添うことができると思った。(認知)

総合のテーマは、生徒の興味だけに合わせるのではなく、しっかりと考えを深められるように工夫することが大切であるとわかった。(認知)
学習のテーマ選びも大事だが、それ以上に知的な考察をできるかどうかが重要であり、ときには教師が誘導していくことも必要だと考えた。(高度)

総合的な学習の時間は、生徒の自由に任せるだけでなく、教師の意図と支援が不可欠である。生徒の興味を出発点としつつも、それを学問や社会に関係づけ、学びの意味を深めていくことが求められる。教師が正解を用意するのではなく、生徒とともに問いを立て、考えるプロセスを大切にすることの価値を考えた。探究は、知識ではなく姿勢を育てるものなのかもしれない。(認知)
・・・> そうですとも! 主ちゃんの確変は継続中ですね!

 
都市の小河川はしばしば桜並木を伴い市民の憩いの場となる (左)船橋市 海老川  (右)市川市 真間川

 

「自ら課題を見付け」ること、たしかに経験がないと感じました。視野を広くもつこと(「コーヒー」から豆の流通の話)で目の前の浅い興味から深い探究へと運ぶことができると知り、私は学科のことのみ勉強していたが情報にかかわることを少しでも勉強して広い知識をつけたいと思いました。(認知)

学校の校風や地域によっても総合的な学習の時間のあり方が違ってくるので、これといった答えはないが、大学の卒業研究のようにテーマと目的をしっかり決めておこない、知的な学習につなげていけたらいい。私は、一部のテーマを生徒に決めさせて、そこから具体的な研究につなげていけたらよいと思う。(情工)
・・・> それこそ「テーマによる」のではないかな。千葉工大の卒業研究でも、たとえば情報系と工学系では設定の仕方から違いますしね。ゴールの見通しがはっきりしている研究のほうがよいのか、逆にゴールフリーでどちらに展開するかわからないおもしろさを味わうのか、それは生徒のタイプの問題かもしれません。もう一つ、大学の卒研との違いは、指導する側の教員が、必ずしもそれの専門家ではない、という点ですね。

実際に総合的な探究の時間の中身をどうするかを考えるのは、生徒の特性がさまざまな方面と関係していて、難しいものだと思う。学びへの昇華を誘発させながら、生徒の興味・関心などに触れる内容を、チーム学校としてある程度設定して、生徒が自ら学びを得られるような時間をつくることに、教員としての実力が求められていくのかなと考えた。内容にはさまざまな型があるようなので、それぞれの特徴を押さえて、場面により適切な型に沿って総合のよい部分を生かすことができるようにしたい。(電電)

総合的な学習の時間でさまざまなことができるのに驚いた。なんでもやれてしまうが、ここで何をするかが生徒の学びを大きく左右するように感じた。(機電)

総合的な学習の時間において、自分たちの興味がないことについて扱っていて、つまらないと感じていたが、教師側からの視点で見ると欲求・願望の承認、まとめの単方向的な垂れ流しの危険があるから、生徒からしたらつまらないと感じてしまうものなのだと感じた。(認知)
・・・> 違うと思いますよ。

総合的な探究の時間は、教師が知っていることを生徒に教えるほかに、生徒から学ぶこともあり、お互いによい刺激を得られるとわかった。(機械)
・・・> 違うと思いますよ。

総合的な学習の時間は新教育寄りの考え方であるため、生徒が主体的に学ぶことが重要であるが、興味はサブカルチュアなどに向くので、メインカルチュアへの誘導が必要であることがわかった。(応化)

「適時性」を与えるときに受験がちらついてしまう。悪いことではないが、一過性ではなく恒久的に必要だと思えるような意味づけは大変だ。グループか個人かなど、いろいろな形態があり、それによっても学習の意欲や成果が大きく異なりうると思う。(高度)

総合は、うまくすると生徒の興味を引き出せるとてもおもしろい教科だが、内容の組み立て、教員側の教育がとても大切であり、そこができていないといままでの?ただの調べ学習になってしまう。(高度)
・・・> そうなんだが、「教科」ではない。

ただ問いを投げて、それについてみんなで考える、ではなく、適時性・当事者性・有意性を踏まえなければ一つの問題で終わってしまうのだとわかった。(応化)

生徒の興味を軸にすると生徒の興味は得られるが、趣味や自分にかかわることへの関心が強く知的な学びにつながりづらい。自分が見えている世界だけでなく、見えていない部分の世界についても知り、考えることが大切になると思いました。(応化)

生徒自身の知識や経験をつなげていく中で、刺激を受け、視野を広げていくプロセスが、知のスパークを生む原動力となる。教科を超えた学びや教師自身の探究する姿勢は、教科の指導力にも直結すると思った。(都市)
総合的な学習(探究)を生徒たちとともにしていくと、教師の側も学びを得て、成長できることがわかりました。それを考えると、総合的な学習(探究)の時間を有意義なものとするために、多角的で深い見識をもっている必要があると思いました。(機械)

心理学のお話がありましたが、最近私は、サルトルやハイデガーなどの「存在」についての考えを「おもしろいな」と思って調べていました。サルトルは哲学だと思いますが、心理学で自分の内を知ろうとすることと、哲学で自分とは?と考えるのとでは、何が違ってくるのでしょうか。先生がおすすめの哲学者などがいましたら教えてください。教育系の人でしょうか、デューイさんなど。本当に好きなことを学ぶのはたしかに難しいなと思います。私は高校生のとき、大学で民俗学を学びたかったのですが、学んだ先の将来をどうしようというのがあって、次に好きだったものづくりを進学先に選びました。そのほうが職に就きやすいと考えたからです。いまでも趣味で勉強するので後悔はありませんが、興味・関心を軸にするのは難しいなと、自分の経験から思いました。(機電)
・・・> まず後半の話ですが、人のタイプにもいくつかあって、興味・関心や「本当に好きなこと」を大学での専攻や将来の職業に選ぶ人と、「それとこれとは別」といったん分けて考える人があります。どちらが正解というわけではありません。前者は成功するならうらやましいように思えるでしょうが、軸が1本しかない怖さ(挫折や失敗が人生そのものの大きなダメージとなるかもしれない)がどうしてもあります。「好きなこと」だったはずのことが嫌いになるのは避けられませんしね。私も「本当に好きなこと」を選ぶならアイドルとお花見だけでいいのですが、それだと挫折しそうなので教育学者をしています(笑)。心理学で「自分の内を知る」というのはまず無理で、そういうタイプの人が思っている心理学はたぶん心理学ではなく俗説のほうでしょう。ご指摘のように、人間とは、自分とは、存在とは・・・ という探究には哲学や倫理学がよいでしょう。文学や歴史なんかもいいですね。とにかく人文系です。それにしてもサルトルやハイデガーなどの実存哲学に関心をもったのは、何がきっかけだったのでしょうか。ハイデガーなんかさんざん学びましたがスパークしなかったんですよねええ。おすすめといっても向き不向きがありますし、実存系が好きという人に向くものでもないと思いつつ、ハーバマスとかアーレントがいいなと(その2人でもずいぶん違うけれど)。『ソフィーの世界』(日本語版は1995年)は読んだことありますか?

知的学習を回避する傾向があるのは、学問に興味・関心がないということがあると思った。興味・関心はランキング形式のように決まるもので、スマートフォンが普及した現代では、楽に情報に触れることができ、ゆえに学問への興味から離れているのだと思う。(認知)
・・・> 途中まではそうだと思うけど、ランキング形式ではないんじゃない? もっと絡み合っていると思うけど。

高校までは ex>0という条件は当たり前だった。しかし大学の微分方程式の授業で eiπx=-1 を教わったとき数学の世界が広がった感覚があった。知のスパークとは違うと思うが、「おもしろい」と思う瞬間が何回あるかで、学びへの意欲に差が出て、人生における差になるのではないか。(高度)

総合の中で、専門科目で扱った内容を種として利用し、結びつけて学びの納得性を高める。それにより専門科目への深い理解や生徒自身の学びに対するおもしろさが高まっていくことが考えられる。総合という科目を専門科目とは離れたものとして扱わずに、何かと結びつけカリキュラム・マネジメントとして理解を深めることが大切。(高度)
・・・> 大切なんですけど、総合は科目ではないし、専門科目といっているのは科目でいいんですか? 教科ではなくて?

 
ロシアをのぞけば欧州で最長の河川であるドナウ川 (左)オーストリア ウィーン  (右)ハンガリー ブダペスト

 

疑問文の形のテーマをそのままにせず、肯定文にすることの重要性がわかった。何かを考えさせるときに疑問文のほうがなんとなく考えやすいのではと思ったが、それは逆に何を考えたらよいのかわからなくなる原因になる。疑問文だったテーマをさらに分析し、調べやすいテーマにすることが求められるのだと考えた。(機電)

総合的な学習での学びを主とした大学の推薦について、増やすべきだと考えますか。(認知)
・・・> ?? ご質問の意味がよくわかりません。誰が何を誰に推薦するのですか?

総合的な学習の時間においては考えられるテーマが複数あり、またその際に一つだけではなく複数の教科を用いておこなうことに重要性に気づくことができた。さらにテーマ別のメリットやデメリットも考える必要も感じた。(認知)
・・・> メリット・デメリットではありません。その言葉はもうやめましょうよ、たいてい間違っているか、わかっていないのに使っている感じです。

総合的な学習を自分の専門教科のおまけとして考えることは、絶対にあってはならないなと思った。(応化)

専門で教える数学と情報を基にした総合的な探究を考えたい。その中で自分や生徒の体験が生きるようになると思う。(情工)

他の教科と自身の専門教科の内容を組み合わせて学ぶ必要がある。ただ、環境などの大きなテーマで考察・探究をおこなうのは難しい。身近な分野から教科の内容に発展させていく。興味のない生徒も、異なる教科の内容との共通点がわかると、「わかった!」とおもしろさが湧いてきて学習意欲が高まる。(応化)

地域にある河川の歴史を調べると、河川周辺の歴史も学ぶことができる。それにより地元への愛着をもたせたり、人とのコミュニケーションにつながったりするのだと思った。また、人物について調べて発表し合い、人それぞれの生き方や考え方を学ぶことができる。これを通して自分自身の考え方が似ている部分や違う部分を知り、自分というものを知る時間になると思う。(応化)
・・・> そう、だから歴史だけでなく国語や芸術教科なども重要になってくるわけですね。

河川について調べると、理系的な内容と文系的な内容どちらにもかかわるものになるので、とてもおもしろい探究になると思った。(機電)
河川の例で、普段はなにげなく使っていたり見ていたりするものが、調べてみると技術的なことや科学的なこと、歴史的なことが裏にあるというので、いまの自分は探究や気になることを見つけられていないなと思った。(高度)

工業科教育法でも、地域の産業と工業を結びつけた授業資料の作成というのがあったが、やはり地域の特徴を通して学ぶというのは、拡張させていくのが難しいと感じた。総合的な学習の時間で教師が専門外のことを学び、授業をつくるという経験は、専門教科の指導力・授業力に直結するということも頭に入れ、教員になる前もなった後も学びつづけるという意識をもちたいと思う。(機械)

キャリア教育的なものは、自主的に調べるのはあまりおもしろくないかも。じゃあ何がよいかといわれると思いつかない。(応化)

地域社会型は、自分が住んでいる地域の話題だからこそわかりやすいテーマにはなるが、諸事情で学区外から来る生徒や、最近は外国から来た人たちなど地域とあまり接点がないこともあるので、いわゆる偉人についての学習というのは誰もがやりやすいテーマだと思った。(機械)

 
平野部を流れる河川は地盤の硬さを避けて流れるためぐねぐね進むが、地殻変動で周囲が隆起し河川そのものの下刻が同時に進むと
曲線の峡谷を刻むことになる これが地形学でいう嵌入曲流(かんにゅうきょくりゅう)であり、日本では天竜川や四万十川に顕著にみられる
(左)パリ市内のセーヌ川 パリ盆地では驚くほど曲線を描く パリ五輪の際のマラソン・コースはこの流れに沿ってヴェルサイユに向かった
(右)ブルガリア ヴェリコ・タルノヴォ 絵に描いたような嵌入曲流で、14世紀にはオスマン帝国の大軍をここで迎え撃った要害の地

 

「教師も知らないことを生徒とともに学ぶ」――教える側はある程度の知識をもち、ある程度は教えることができなければならないと思っていたので新鮮だったが、同時に、それを自ら体現しなければならないというのは難しい。あらためて教員のスキルを高めることが大事だと思った。(経デ)

単に文系・理系の両方の視点から見て、あるテーマについて考えるだけでなく、そこで考えたことを他の意見と議論を交わすことが、違った考え方を取り入れるうえで大切であり、それは生徒のためになるだけでなく教師としての成長にもつながることがわかった。(応化)

生涯スポーツや生涯学習というように、長い人生で学びつづける姿勢、スポーツであればそれをつづける姿勢が重要だが、教員としてもそれが必要なのだと考えた。(応化)

工業科出身なので、さまざまな総合的な学習(探究)の時間のテーマを見ることができて、とても新鮮な気持ちになった。いくつか事例を見てみたいので、古賀先生が見てきた中でおもしろいと感じたテーマを教えてください。(材料)
・・・> 消費文化研究。あ、これは自分のやつだ(笑)。地域社会を調べてまとめるだけでなく自分たちが地域に出ていって活動し貢献するタイプの学習(というかもはや活動)は、見ていてこちらが元気になります。福祉系のテーマも非常に有意義でおもしろい(切り口が難しいけれど)。学校名はここに出せないのですけれど、都内の中堅私立中高で生物を軸にした探究をやっていて、それが最高におもしろかったですね。指導されている方が生物の先生で、そのセンスに頼りすぎている感じもあるのですが、成功している実践はたいていそうですから仕方ない。中学校レベルの昆虫の観察から高校ではDNA塩基配列まで進めていて、教科の学びといい感じで交差していました。「乗っかってこない生徒が結構多い」とその先生はおっしゃっていましたけどね。

何か好きなものの探究をおこなうと、単に「好きなものの紹介」になってしまい、それだけになってしまう。一歩先の疑問や拡張が欲しい。そこに学問の楽しさがあり意味があり、感動があると思うし、ぜひ生徒に知っていただきたいのですが、難しそうです。教員は、教科に一貫しているから他の教科との接点や入口がわかる、わかってほしい。その学びが知のスパークの起爆剤となる。逆もしかりで、生徒の学びが教員に対して起爆剤となる「師弟同行」。学ぶって楽しいし、学びは尽きませんね。(機電)




開講にあたって

教育課程論は、教職課程のうちいわゆる教職専門性(担当教科にかかわらずすべての教員に共通する専門性)の形成にかかわる科目のひとつです。おおまかにいえば、2S教育原理が教育の目的・目標、この3S教育課程論が教育の内容5S教育の方法・技術とICTが教育の方法を学びの対象としますので、目的・目標を踏まえた教育内容educational contents)を考える、ということになります。ただ、教育の内容といってもピンとこないことが多いかもしれません。学校種によっても、教科によってもさまざまですし、広がりがかなりあります。また、生徒目線で考えると、教育の内容というのは初めから決まっていて(決められていて)、個々の教師はそれを順に教えていくだけだ、というふうに捉えている人もあることでしょう。たしかに生徒としては、先生が繰り出してくる内容を順に学び、消化していくのが常で、そこにどんな論理や特色があるのかなど、考える余地はほとんどありません。しかし、教育内容というのは自明でも不動でもなく、常にリフレッシュされるものです。グローバル化の進展とともに英語の学習が強化され、ICT/AI時代の本格化とともにプログラミング学習がカリキュラムの中心に入ってくるということからもわかるように、社会のあり方が変わることに伴い、教育課題・教育目標も変化ないし拡張して、それに伴って教育内容も再編成されます。時代とともに不要になる部分ももちろんあり、「私が中学生のころは普通に学んでいたのに、いつの間にか教科書から消えている」といった項目も、思いのほかたくさんあります。社会科とくに公民の内容が、社会状況に応じて変化するのはわかりやすいですが、みなさんの専門である理系教科もまた、科学や技術、そしてそれをとりまく社会状況の変化などに伴って、内容をリフレッシュしていきます。

学校の教育内容を時系列に沿って配置したものを教育課程course of study)といいます。したがって、教育課程論という名の当科目では、教育の内容だけでなく、それをどのような順に配置するか、どのラインに配置するかといった点も重要になります。とくに高等学校段階では、教科のサブカテゴリとして科目があり、教科そのものはめったに変わらないものの科目のタイトルや切り分け方、必修パターンなどは約10年おきに変動します。自身が中高生だったころの経験に依拠して考えるのがナンセンスであるのはいうまでもありませんが、プロの教師になってキャリアを重ねるあいだに何度も科目構成などが変わりますので、そもそも何のためにそういう配置になっているのかという点を適切に理解しなければ、その時々の生徒に対して指導することはできなくなります。1年生のとき以上に、プロ寄りの視点が重視されることになります。

当科目は3部構成をとります。第1部は、教育課程とは何か、いかなる論理や原理に沿って編成されるのかということを考察します。かなり重要で、基礎的な内容ですが、ゼネラルであるぶん抽象的で、ふだんそのような頭の使い方をしていない人にとっては難解で混乱するかもしれません。しかしこれを突破して自身の頭で思考できるようにならなければ教育者の道は相当に厳しいと考えてください。第2部は、教育課程の基準として国(文部科学省)が示している学習指導要領の内容とその変遷、そして現行の(最新の)学習指導要領の要点を学びます。現行の学習指導要領は、中学校が2021年度、高等学校が2022年度から実施されているもので、すでにみなさんが中高生時代に学んだ内容、構成から変わっています。自分が学んだ内容が過去のものである、と考えると、学習指導要領の歴史(歴代の要点)を整理しつつ、最新のものの新しさや従来のものから受け継がれている部分などを検討することの意味や重要性がわかるのではないでしょうか。また202412月に文部科学大臣から中央教育審議会への諮問がおこなわれ、次期の学習指導要領の輪郭が少し見えてきたタイミングです。いままさに中教審において審議中であり、早ければ年度内(20263月ころ?)には、学習指導要領の骨格となる答申がおこなわれるものと予想されます。多くの受講生にとって、自分たちが学んでいないもの(現行版である平成2930年度版)を飛ばして、さらにその「次」を見据えなければならないわけで、めぐりあわせとしては大変なのですけれど、前述したような変化や推移を捉えるという点では、他の学年よりもすぐれた専門性をもつことができるかもしれませんね。第3部は、現在の教育課程を構成する教科以外の領域を一つずつ取り上げて、教育課程上の位置づけやその特色、課題などを考察するブロックです。道徳教育、キャリア教育、総合的な学習(探究)の時間、特別活動、特別支援教育を取り上げます。これらに関しては、それぞれ個別の教職科目があり、4S以降で順次学んでいきますので、そのあらましを紹介するインデックスの意味を含みます。教育課程の全体像を捉えるために、あえて個別の内容を考えるという試みです。当科目では、教育用語が頻出します。「学校の先生」であれば誰でも普通に知っているが、生徒を含む一般人は知らない単語が毎回のように出てきます。意味は調べればすぐにわかりますが、位置づけや「意義」は一筋縄ではいきません。2年生になって、いよいよ教職課程の学びも本格化していきます。心と頭のギアを切り替えて臨むようにしてください。


<当科目で使用するテキスト>
A
古賀毅編著『教育原理』、学文社、2020
B
古賀毅・高橋優編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022
Aは教育原理で使用したものです。主に第5章〜第7章の内容を学びます。B5S教育の方法・技術とICTでも使用します。当科目では主に第3章の内容を学びます。

学習指導要領および学習指導要領解説は随時紹介します。下のサイトから各資料にアクセスできます。書籍版もありますので希望者は購入してください。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm

 

<評価>

提出物(レポート)の内容により評定します。
出欠はとりませんし、評定には組み込みません。ただし欠席がちの学生が当科目で単位を修得するのは相当に困難であると心得てください。

 

 


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