古賀毅の講義サポート2024-2025

Programmes et cours d’étude

教育課程論


千葉工業大学工学部・創造工学部・情報科学部・社会システム科学部 教職課程
前期 土曜67限(14:00-16:00) 津田沼キャンパス 6号館 615教室


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2024(令和6)年度 教職科目における指導・評定方針

 

202445月の授業予定
4
27日 教育内容と人間形成
5
11日 学習指導要領とその変遷(1):試案期〜昭和5253年版
5
18日 学習指導要領とその変遷(2):平成元年版〜平成2021年版
5
25日 現行学習指導要領の要点と特色

 


次回は・・・
3-
教育内容と人間形成

教職課程の大学生というのは、依然として学ぶ側(student)でありながら、教える側(teacher)の視点で考える、という、結構難儀なポジションでもあります。学びながら、自身の学びを突き放して、一枚外側から捉える、という習慣をつけましょう。それでいうと、いま大学でみなさんが学んでいることは、これからの自身の生活や人生において、何に資するものだと考えられるでしょうか。一般人は「○○のために学ぶ」というふうに、学びの目的を掲げることが多いです。なんらかの職業に就くためとか、資格を取るためとか、あるいは自分の好きな分野をとことん深めるためとか。学びの先にあるものがそれら(だけ)だとすると、学習という行為は具体的な目的や成果とセットである、ということになります。乱暴に言い換えると、いま学んでいることが何の役に立つのか、という点をクリアにする、ということでしょう。で、実際に、「これを学んで何の役に立つんだよ!」というふうに思ったり、発言したりしたことが一度ならずあるのではないでしょうか。高等学校以上になると、ことはそう簡単ではないので、授業本編ではもう少し丁寧に扱いましょう。

たとえば数学を例にとります。率直にいって、数学くらいいろいろな分野にはめ込まれて活用される教科も他にはなく(国語が同等かな?)、それは工業大学の学生になると、どの学部学科に属していても実感としてわかるはずです。中高生のころ、数学が好きだ、得意だと思っていた人であっても、「ああ、こんなふうに使うんだ」と大学生になってわかってゾクゾクしました、ということはあるだろうと思います。試みに、教育課程論の教室でグループ討議でもさせてみれば、ほぼ全員がそんな感触を共有できて、数学は大事だよね〜という結論になることでしょう。でも、それは工業大学だからかもしれない。中高生の過半以上は文系ですし、スポーツ系や芸術系ですし、大学には進学しない人も半数近くあります。「数学なんて使う機会がない」と、たぶん彼らは考えますし、実際に多くはそうです。数学の先生になって現場に降り立ったら、実際にはそうした生徒のほうが多いので、あなたがつかみかけた「数学は使える」という感触が吹き飛ぶかもしれません。「歴史や古典なんて何の役にも立たないし、おもしろくない」と生徒時代に思っていた人も少なからずいることでしょう。同じことを、数学や理科に対して、文系の生徒はいうかもしれない。いや、いっています(笑)。どの教科も、高等学校段階になるとかなり抽象的・理論的になり、「使う」には高度すぎます。それでも高校生は全員、全教科を学ばなければなりません。自分の専門教科を軸に、いったい何のために全員対象で教えるのかということを、この機会に考えましょう。冒頭で述べたように、学びながら教えることを想定する、という教職課程学生ならではのリフレクション(よーく考えること)になるはずです。

あえて新教育の立場にさからっていいますと、子どもの興味・関心なんて狭小で、ちっぽけなものです。そんなものをいくら引き出して、延長したところで、社会や世界の広がりや深みには絶対に到達しません。みなさんも、おそらく教科学習やそれ以外の学びの機会において、さまざまな「興味のないこと」「興味があるかどうかも考えたことがないようなこと」の情報をたくさん受け取って、その中に自身の新たな関心を見出し、それまでの経験や知識とスパークさせて、いま大学生というところまで来たのではないでしょうか。その意味で、高校レベルの高度で複雑な内容の知識を生徒に振り浴びせることには、大いに意味があります(もう少し設定年齢は低いのですがルソーも「エミール」の中でそんなことを述べています)。いってみれば「将来の可能性のために学ぶ」ということかな? それは、何かの役に立つべきだという学びの見方と両立可能なのでしょうか。そして、学びの意味というのはそれだけなのでしょうか?

 

REVIEW 4/20

教育課程の編成原理とそれぞれの特徴について学んだ。教科や単元ごとに3つの編成原理を調整していくということに驚いた。これは、教員の力量によって少しずつ変わってしまうものなのではないかと考えるが、実際にどれほどの差異があるのか気になった。
・・・> 変わってしまうという表現を使っておられます。ズレてしまって大丈夫なのだろうかという心配とか、自分の力量が足りるかどうかという懸念を含むのでしょう。普通に考えて、学習指導要領が学習内容のコアを示していたとしても、生徒の状況や地域ないし学校の実情によって、学ぶ内容や学び方をアレンジすべきことは当然ですし、微妙な部分だと学級・ホームルーム(対象生徒)によっても変えていくべき部分があります。また、今後の当科目でも取り上げますが、現行の学習指導要領ではカリキュラム・マネジメントという考え方を重視していて(『教育の方法・技術ICT3.4)、管理職だけでなく一人ひとりの教員が教育課程の一体的な把握と運用をするべきことが定められています。ご指摘の部分はこれからの教員の非常に重要な責務であると考えてください。

教育課程の編成原理について学び、想像していたよりも複雑に各教科が配置されていることに驚くと同時に、親学問について他の学生よりもしっかり理解しなければならないと再認識した。
親学問の知識をきちんと身につけた状態で教師になれるよう、日々の勉強をがんばろうと思った。学問的要請にもとづく編成に偏らないように、子どもや社会に目を向けていきたい。

児童・生徒の発達に関する研究を通して多種多様な生徒を知り、生徒のレベルに合った教え方や言い換えなどができるように、親学問に関する研究もしていけるようにしたいです。
教える立場としては、いくつものフィルターを通して教えなければいけない大変さがあることを理解した。学んできた難しい学問をわかりやすくしたり、一歳下の学年を見てどうするべきか考えたりなど。

私のように、子どもの教育についてバリバリ勉強するわけではない学生は、自身の専門の学問的なところでがんばらなければならないと思いました。しかし発達も重視して教えたいし、そこが重要であるので、自分でも積極的に発達を学んでいこうと思いました。

親学問に関しては、自分が生徒に教える立場になるのだからしっかり勉強しないといけない。またひとりの社会人として世界情勢とか常識を知っておかなければならないと思う。

学習指導要領にもとづいた授業はもちろんのこと、それに加えて自分の考えなどを織り交ぜていく必要があると考えた。そのバランスを考えることが今後の自分の課題になると思った。

教育課程が3つの編成原理で成り立っており、それぞれがどのような意味をもっているかということを理解できた。大学生活で、親学問への理解と教育技術の獲得はある程度できると思うので、いまのうちから教科教育法などの授業で意識していきたい。

中等教育の教員になるうえで私たちがいまできる一番大切なことは、親学問といわれる科学の知識を深め、高等教育だからこそできる学びをすることである。ただ、発達的要請にもとづく編成で生まれた問題点をなくすために、ちょうどいい兼ね合いを見つけるのが、難しいが必要だと思った。

先生になる者として、大学での学びをもっと大事にしていこうと思いました。教育課程の編成原理を理解し、社会の変化に対応できるように深い学びを得ようと思いました。
・・・> ×先生 ○教師・教員・教育者(文脈によって) このあたりはもうぼちぼち会得すること。

とくに工業系は、日々絶えず技術力が高まっていくため、教育内容が増える傾向にあるが、基になる部分を確立させることに重点を置くことで、時代に対応できると考える。

3つの編成原理で完全に分けるのではないという話に納得した。
学問・発達・社会の3つの方向からの要請は、どれか一つだけを考えればよいわけではなく、それぞれ組み合わせて考えていくことが重要であることがわかった。

社会変化が停まらない中で、社会に流されて教育が変わるのではなく、教育をしっかりとおこなうことで社会をつくっていくということが重要である。そのためには、スライドにもあったが基礎をしっかり学ぶ必要がある。教員は生徒に基礎をちゃんと教えるべきである。
社会がどう変化するのかわからないため「基礎」部分を構築する、ということに加えて、今後どう変化していくか、その教科とどのように関係していくのかを生徒に考えてもらうのもいいのかなと思った。
・・・> 私もそのように思うのですが、(1)学ぶべき「基礎」って何のことだか、ちゃんとわかっているだろうか(専門教科に関して)、(2)たいてい「基礎」はつまらなくて、そのわりに時間と忍耐を必要とするが、そこを指導する際のポイントは何か、という点を考えてください。

3つの基準の中で、発達的要請にもとづく編成がいちばん対応が難しいと思いました。現在、子どもの心の成長が早期化しているので、教員も常に学ぶ姿勢が大切だということを実感しました。

社会システム科学部は数学の親学問に通じていないと指摘された。逆に、それが数学の親学問に通じている他の人とは違う強みを見つけていきたいと思った。

学問的要請による教育課程は、2S教育原理で学んだような昔の教育の名残のように思われたが、そういうことなのだろうか。
・・・> もちろんそういうことですけれど、「昔」の終わった話ではなく、その時期の構成がいまも有効であるということです。

 

『教育原理』のp.86を自分で事前に読んでみたが、授業を聞いてやっと少しわかった気がした。
・・・> 率直に書いておられますが、それはいいことです。おそらく半数くらいの方は、自分で読んで、文脈を見定めて、いわれていることを読み取るのは難しいはずです。くれぐれも「あとで読もう」とか、変なことを考えないようにしましょう。

教育課程の3つの編成原理によって、教師が親学問の全体に精通し、生徒の心身の発達や認知に沿って順序と内容を組み立てることで教育していくことに納得した。
教育課程は、大学の授業で学ぶ内容の親学問に関することと発達に合わせること、社会情勢の3つを組み合わせることが必要であることを知れた。
IT化やグローバル化が進んでいる社会において、社会的要請に振り回されないような教育が大事だと思った。
教育課程の編成として大切な学問的要請、発達的要請、社会的要請についていろいろ聞けてよかったです。学問の構造、子どもの心身発達、知識・スキルなどでそれぞれ編成されていることがわかりました。
・・・> おそらく、ほとんどわからなかったか、聞かなかったか。何もいっていないし、かろうじて書いている内容がスカスカで、キセルもいいところです。体調や単元との相性もあるだろうけれども、今回の内容は教育課程論の基本にして最も易しいところでもあります。この先でちゃんとカバーできるように、気を引き締めて臨んでください。

年齢や学校によって教える教科が異なり、内容も少し変わることに驚いた。
・・・> これしか書いていないのだけど、この内容は本当ですか? 悪い冗談に見えてしまいます。次回以降もこのトーンだと(文字も汚くて読みづらいし)、なんらかの警告を発することになります。

平安時代の文学、平家物語などは、古典(国語)とも歴史(社会)とも受け取ることができ、どちらで扱ってもよいということだったが、これを利用して片方の教科に力を入れた学校などはあるのだろうか? 私自身や周りの経験では古典に入れられることが多かったわけだが、その理由もあれば知りたい。
・・・> どちらで扱ってもよいというのは、おそらく聞き違い。歴史的にみて、200300年くらい前までは親学問が確立されておらず、したがって○○学という分け方がなかったor薄かった、という話です。そのころは公教育もないので、どちらの教科で扱うかという問題自体がありません。平家物語は、12世紀後半、武家の時代の到来を壮大なスケールと哀歓あふれる語りでつづった文学で、ジャンル的には「軍記物」といわれます。内容は歴史なのだが、いまでいう「歴史小説」とか大河ドラマみたいなものだと思ってください。歴史を素材にした文学です。だからこれを歴史学として扱う際には、同時代の史料(公家や僧の日記、鎌倉幕府の発行した公文書などが挙げられます)と突き合わせて、史実とフィクションをより分ける必要があります。また、源義経が鵯越(ひよどりごえ)の逆落としをやったとか、屋島の戦いで那須与一(なすのよいち)が平家方の掲げる扇を弓矢の遠方射撃で打ち抜いたとか、壇ノ浦で平知盛(たいらのとももり)が重い船の碇(いかり)を背負って海中に沈んだとか、文学としては最高におもしろくても歴史としてはどうでもいい(結果こそが重要なので)部分が多いですね。ま、実際には、社会科の歴史を教える際に、そういう文学的な要素をいっさい抜いてしまって生徒をおもしろがらせるのは難しいので、適宜入れ込むだろうとは思います。

小学生の様子と中学生の様子の違いの例を聞いて、そうした発達に沿った教育が必要だと思った。

学問的要請にもとづく教育課程と発達的要請にもとづく教育課程が、小学校と中学校のあいだでぶつかってしまい、中1ギャップが生まれているのだとわかった。
・・・> そうです。教育原理で扱ったことを重ねて、少しフォローしておきますと、発達段階でいう青年期への移行期(『教育原理』5.3を参照)が学校制度における小学校と中学校の境目とタイミングが重なってしまい、中学校のほうには発達を支えるようなプログラムや人員が不足しているため、学習や学校生活になじめず問題を抱えてしまうことが多々あります。これが中1ギャップと称されるものの根本的な要因。なぜ小学校と中学校で、同じ義務教育なのにそこまでシステムやリズムが違うのかというと、初等教育(全国民を教育して国力を強化する)と中等教育(社会をリードするエリートを育成する)とで歴史的な成り立ちが異なるから、ということでしたね。復習しておきましょう。

授業を受ける側の興味を惹くには、体系的な内容であるべきと考えていますが、学習指導要領とのすり合わせが難しく、そのため、いきなりつながりのない話からはじまってしまうのだろうと思いました。
・・・> これは、教育内容というのもあるのですが、どちらかというと教育方法・技術、そのうちの授業設計という、テクニカルな要素が強いと思います。学習指導要領と無関係ということではないが、落語でいうマクラのように、本編に引き込むための導入などができるかどうかです。これをちゃんとできるのがプロの教員。『教育の方法・技術とICT』の第4章をいまからしっかり読んでおいてください。5Sで扱います。

私は、7割親学問についての研究、3割生徒の発達に関する研究と考えていたが、生徒は全員がその科目を専門とするわけではないので、社会に関するものとその科目のつながりもかなり大切だとわかった。そのため、考え方を改め社会に関する研究をおこない、社会変化に対応できるようにしたい。
・・・> 科目ではなくて教科。2年生になったら教育の用語や概念は適切に使えるようにしましょう、といいかけたのですが、工業なので本当に科目といいたかったのかもしれません。どちらでしょうか。それにしても、工業こそ社会的要請を意識しないわけにはならないはずなのに、事前に0割(!)だったのは遺憾です(笑)。普通に考えて、高校で学んだ数学や理科の知識を社会のどこかで直接使うことはないけれど、工業はまさにそのものですよね?

 

大学で教員免許を取得し、社会に出ないまま教員になるパターンが多いと思うので、社会の流れにはとくに注意を払いたいと思った。

教育課程の編成において、社会的状況や今後起きるであろうことなどをしっかりと見据えていく必要があり、努力しなければならないと思った。

授業等での発言におけるタブーは、自分が認識していないものもあると思うため、視野を広くもって気を配っていこうと思った。

社会的要請に振り回される?という話に関して、まだ学んでいる途中なのに学んでいるところが変化したり、学び終えたところが社会に出たときには変化していたりするというのを想像すると、それに適応できるのか不安に感じた。

社会について知らなければ要請にこたえることもできないし、生徒に教えることもできない。現状を知るだけでなく、自分の言葉で説明できるように理解することも大切だ。多方向から物事を見る目を養うことも重要である。

時代によって、社会に出たときに必要とされる知識やスキル、知っておいたほうがよいことは変化するのに、いまだに「はどめ規定」があるというのには少し違和感を覚える。(類例複数)
発達段階を考慮して「扱わない」という、いわゆる「はどめ規定」について、古賀先生は(人の受精に至る過程は)SNSにはたくさんある、といわれた。これを受けて私は、ではなんのために学校教育があるのだろうか、と疑問を感じた。私の答えは、科学的根拠にもとづく事実を正しい順序で学ぶことだ、と考えるのだが、それならば、このはどめ規定の内容についても学校で正しく教えるべきである。

発達段階を考慮して「扱わない」と学習指導要領に書かれていることがある。現在はネットなどで情報や知識を得ているという状態だと知りました。子どもの危険を避けるためにも、時代に合わせた教育が必要だと思いました。
教育課程の編成のあり方が興味深かった。学習指導要領に「取り扱わない」という範囲があることに驚いた。私自身が中・高で受けてきた教育を振り返るとそのとおりであった。
私が小学生のときも、人の受精に至る過程は教わりませんでした。人口も減っている中で、しっかりとした教育がおこなわれないのはよくないことだと思いました。望まない妊娠の問題に対しても、しっかりとした教育がおこなわれないことが原因であると思いました。

発達段階に応じて、教えられる部分を教えないということを、以前はそこまで不思議に思っていませんでしたが、いまとなってはたしかになぜだろうと思いました。グレーゾーンではあるのですが、性教育はおとなになっていくうえで重要なことだと思うし、まだ中学生には早いからとためらってしまってはいけないと思います
性教育の話が大変興味深かった。われわれがほとんど通らなければならない道であるのに、これほどまでに回避しようとするのは異常だと思う。もっと中学生くらいからしっかり学んでおくべきではないか。
中学生になってもきちんとした性教育がなされず、妊娠の意識等がちゃんとある人がいないという話があった。私も少し疑問がある。たとえば女性の生理の話などは女子だけが受ける講習があるなど、男性への配慮なのだろうが、正しい知識を授けられずネットの情報に頼ることになるというのは問題だ。

はどめ規定があるのに、それを越えて生徒たちに教えた先生を批判する風潮ができてしまっているということに納得できなかった。人の命や将来にかかわることについては、もう少し規定を緩めるきっかけがないのだろうか。
はどめ規定に関して、ただ教えてはならない(教えなくてよい)というだけではなく、教えるとつるし上げられることがある、ということに少し怖さを感じた。
・・・> この部分(はどめ規定)に関する関心が高いようです。受講生の誰からも、いまの性教育は行きすぎているから抑えるべきだとか、年ごろの生徒に変な情報を与えて性的逸脱を促しているといったコメントがないのは、感心というか安心します。これって、LGBTQとか夫婦別姓とか、さらには女性天皇の話などに通じるものがあると思いませんか? 世の意見の代表的、公約数的なところと、法律や教育内容とのギャップが相当に開いています。政治家の中には、拠って立つイデオロギーによって大きく分けると保守という人とリベラルという人があるのですが、保守というのも幅が広くて、「極端に右」「かなり右」「明らかに右」「右っていうほどでもないかな」「左とも合意できそうな右」というふうにグラデーションがあります。2000年前後から性教育に対する批判を強め、学習指導要領や教材の中身にまで非難を浴びせるようになったのは、「極端に右」「かなり右」の人たち。複数の政党にまたがってはいるが、まあ自由民主党の安倍派に多いというのは間違いないですね。安倍晋三・元首相が「宗教2世」らしき男の恨みを買って銃撃され亡くなったあとで、その宗教団体と安倍派など自民党議員との関係が問題になりました。あのように信者数も大したことがない宗教団体でも、与党に食い込めば、自分たちの信念を政策や教育に反映させることができるというので、盛んに活動していたのでした。政治家の側も、選挙を手伝ってくれるからというだけでなく、「いまの世の中はなんか物分かりがよすぎて気に入らないな、男と女は違うし、やっぱりお母さんは家にいてほしいし、夫婦は同じ姓がいいし、娘は結婚するまで純潔でいてほしいな」という思いでもやもやしている層から、選挙で投票してもらえるという利点がありました。そうして、世の相場よりもかなり「右」に寄った政策や教育内容が出てきてしまっているわけです。性教育の「はどめ規定」に関しても、現場や教委に介入するなどして「活動」(圧力)した複数の人物の名が明らかになっています。
教育者をめざすみなさんが、真摯な思いと純正な心で、「はどめ規定」や教育・指導の抑制を批判しているのはよくわかりますが、以上のような「おとなのやばい事情」も、やはり知っておかなければなりません。自分自身と大事な生徒を守るためです。教育実習の段階では、性やジェンダー、セクシュアリティに関することは、何がどう誤解されるかわかりませんので、指導教員との打ち合わせの範囲を絶対に越えてはいけません。間違ってもネタとかフリとかノリで口にしてはいけません。また、プロの教員になったあかつきにも、この種の指導をおこなう際には、校長・副校長や学年教員団との綿密な打ち合わせとGOサインが不可欠だと承知しておいてください。そんなことをいいたくはないのだが、状況は非常に深刻なのです。

 

大学での専門科目の学びを社会と結びつけて考えやすいという点が、教育学部などと比較したとき、工業大学の強みでもあり弱みでもあるなと考えた。

塾で中学校の理科と社会を教えているが、内容面では高校より簡単だが、幅が広く大変である。理科・社会を教えている先生方はすごいと思う。とくに自分たちが学んでいたものとは別のものを教えなければならなくなるため、過去の自分の経験から教えるのはやめようと思う。
社会の変化に合わせた教育は大切であるとは思うが、自分たちが受けた教育と、自分が教えなければならない教育が違うのは、教育者の立場からしたらとても難しい問題だと思う。変化のつど教師の知識をアップデートしなければならないとは思うが、さらに教師の負担が増えるという新たな問題も発生してしまうことも考えられると思う。

この教科を教えることでどんなことを学んでほしいか、どんな考え方をしてほしいかなどの意図をもって生徒に教えられるようになりたい。

自分が教師として教壇に立つとした場合に、科目や、そうでなくても学ぶべき事項や知識が不足するのではと不安になりました。いまからできる対策は、科目の勉強や大学の授業のほかに何がありますか?
・・・> これも、本当に「科目」でよいのか心配です。理科であれば、化学はできるが地学が不安だ、というような科目別の問題があるでしょうが、数学・情報の人はふつう科目単位で考えないのでね。学ぶべき事項や知識の不足は、大学2年生であれば当たり前のことですし、大学を卒業して教壇に立ったばかりの新任教員にも同種の不安がついて回ります。若いころの私自身も含めて、完全な状態にしてプロになるということはほとんど不可能なので、実際にはプロになってからも研鑽を積み、知識を得ていくということになります。問題は、それを入れる(載せる)ウツワのほうですね。これはもう大学生であるあいだに、しっかりと構築し、磨いておかなければなりません。受身ではない学びをとにかく増やすこと。大学の授業や、ときに卒業研究なんかであったとしても、他律的で「やらなければやらないから来週までにやる」みたいになりがちです。専門内外の書籍を読み、新聞を読んで、知の獲得ということを自分がどこまで楽しめるようになるかどうか。そのウツワをつくってしまえば、コンテンツを載せるのはさほど苦ではなくなります。

 

 


開講にあたって

教育課程論は、教職課程のうちいわゆる教職専門性(担当教科にかかわらずすべての教員に共通する専門性)の形成にかかわる科目のひとつです。おおまかにいえば、2S教育原理が教育の目的・目標、この3S教育課程論が教育の内容5S教育の方法・技術とICTが教育の方法を学びの対象としますので、目的・目標を踏まえた教育内容educational contents)を考える、ということになります。ただ、教育の内容といってもピンとこないことが多いかもしれません。学校種によっても、教科によってもさまざまですし、広がりがかなりあります。また、生徒目線で考えると、教育の内容というのは初めから決まっていて(決められていて)、個々の教師はそれを順に教えていくだけだ、というふうに捉えている人もあることでしょう。たしかに生徒としては、先生が繰り出してくる内容を順に学び、消化していくのが常で、そこにどんな論理や特色があるのかなど、考える余地はほとんどありません。しかし、教育内容というのは自明でも不動でもなく、常にリフレッシュされるものです。グローバル化の進展とともに英語の学習が強化され、ICT/AI時代の本格化とともにプログラミング学習がカリキュラムの中心に入ってくるということからもわかるように、社会のあり方が変わることに伴い、教育課題・教育目標も変化ないし拡張して、それに伴って教育内容も再編成されます。時代とともに不要になる部分ももちろんあり、「私が中学生のころは普通に学んでいたのに、いつの間にか教科書から消えている」といった項目も、思いのほかたくさんあります。社会科とくに公民の内容が、社会状況に応じて変化するのはわかりやすいですが、みなさんの専門である理系教科もまた、科学や技術、そしてそれをとりまく社会状況の変化などに伴って、内容をリフレッシュしていきます。

学校の教育内容を時系列に沿って配置したものを教育課程course of study)といいます。したがって、教育課程論という名の当科目では、教育の内容だけでなく、それをどのような順に配置するか、どのラインに配置するかといった点も重要になります。とくに高等学校段階では、教科のサブカテゴリとして科目があり、教科そのものはめったに変わらないものの科目のタイトルや切り分け方、必修パターンなどは約10年おきに変動します。自身が中高生だったころの経験に依拠して考えるのがナンセンスであるのはいうまでもありませんが、プロの教師になってキャリアを重ねるあいだに何度も科目構成などが変わりますので、そもそも何のためにそういう配置になっているのかという点を適切に理解しなければ、その時々の生徒に対して指導することはできなくなります。1年生のとき以上に、プロ寄りの視点が重視されることになります。

当科目は3部構成をとります。第1部は、教育課程とは何か、いかなる論理や原理に沿って編成されるのかということを考察します。かなり重要で、基礎的な内容ですが、ゼネラルであるぶん抽象的で、ふだんそのような頭の使い方をしていない人にとっては難解で混乱するかもしれません。しかしこれを突破して自身の頭で思考できるようにならなければ教育者の道は相当に厳しいと考えてください。第2部は、教育課程の基準として国(文部科学省)が示している学習指導要領の内容とその変遷、そして現行の(最新の)学習指導要領の要点を学びます。現行の学習指導要領は、中学校が2021年度、高等学校が2022年度から実施されているもので、すでにみなさんが中高生時代に学んだ内容、構成から変わっています。自分が学んだ内容が過去のものである、と考えると、学習指導要領の歴史(歴代の要点)を整理しつつ、最新のものの新しさや従来のものから受け継がれている部分などを検討することの意味や重要性がわかるのではないでしょうか。第3部は、現在の教育課程を構成する教科以外の領域を一つずつ取り上げて、教育課程上の位置づけやその特色、課題などを考察するブロックです。道徳教育、キャリア教育、総合的な学習(探究)の時間、特別活動、特別支援教育を取り上げます。これらに関しては、それぞれ個別の教職科目があり、4S以降で順次学んでいきますので、そのあらましを紹介するインデックスの意味を含みます。教育課程の全体像を捉えるために、あえて個別の内容を考えるという試みです。当科目では、教育用語が頻出します。「学校の先生」であれば誰でも普通に知っているが、生徒を含む一般人は知らない単語が毎回のように出てきます。意味は調べればすぐにわかりますが、位置づけや「意義」は一筋縄ではいきません。2年生になって、いよいよ教職課程の学びも本格化していきます。心と頭のギアを切り替えて臨むようにしてください。


<当科目で使用するテキスト>
A
古賀毅編著『教育原理』、学文社、2020
B
古賀毅・高橋優編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022
Aは教育原理で使用したものです。主に第5章〜第7章の内容を学びます。B5S教育の方法・技術とICTでも使用します。当科目では主に第3章の内容を学びます。

学習指導要領および学習指導要領解説は随時紹介します。下のサイトから各資料にアクセスできます。書籍版もありますので希望者は購入してください。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm

 

<評価>

提出物(レポート)の内容により評定します。
出欠はとりませんし、評定には組み込みません。ただし欠席がちの学生が当科目で単位を修得するのは相当に困難であると心得てください。

 

 


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