古賀毅の講義サポート 2021-2022

Programmes et Cours d’étude

教育課程論


千葉工業大学 工学部・創造工学部・情報科学部・社会システム科学部 (教職科目)
前期 土曜89限(16:00-18:00)  津田沼キャンパス6号館 611教室  

 

 

 

 

 

講義サポート トップ
2021(令和3)年度 教職科目における指導・評定指針


2021
7月の授業予定
7
3 特別支援教育の構想/特別活動の構想
7
10 教育課程と評価


 

 

本年度の授業は終了しました。

当科目の評定等はmanabaに掲出しています。諸般の事情にかんがみて、このサポートページへの掲出はいたしませんのでご了承ください。



REVIEW 7/10
*文意を変えない範囲で表現・用字法を改めることがあります

成績のセキの字を「のぎへん」にしている人が結構目立ちます。国語のセイセキがよくないのかな?
(学校の先生がこの漢字を間違えてはいけません。「生従」とか「講議」もダメ!)

成績や学校の評価について、今後は生徒目線で見るくせをやめていかなければならないと実感しました。だからといって「評価してやっている」という立場の理解の仕方を生徒にさせるのもよくないと思うので難しいです。

教育評価は想像と大きく違っていて、教師の見方が大きく変わった。生徒としての経験がいかに生かされないのかをあらためて知らされた。

これまでと違って、より技術的で、生徒だったときに間違えて捉えていたことが多かった。一人ひとりのことを理解することが重要であることを、これまで以上に強く意識した。

いままで生徒目線でしか見られていなかった評価の視野が広がったと感じた。

評価の話というところで、まさに成績の話なのかと思っていた。しかに生徒ではなく学校の評価の話だったので驚いた。テストは、生徒にとっても教師にとっても胃が痛いイベントであることをあらためて理解した。教育にかかわる以上、どうあがいても胃が痛いものだと思うとつらい。

教育評価の次元や方法、主体の違いや、それがもたらしうるさまざまな事象について学んだ。ペーパーテストの正しい意味についてしっかりと認識することの重要性がわかった。
評価はテストのスコアだと思っていたが、それ以外に学校評価、授業評価があることを知った。振り返りをして、何ができて何ができなかったかを把握し、問題を解決するための策を見つけ、授業設計をよりよいものにしていくべきだと考えた。

成績評価は一つの指標にすぎず、成績評価の目的を理解することが重要だと考える。また学力偏差値や成績評価など、一つの指標に対して過敏に反応する傾向は、日本人のみならず人間の共通部分なのではないかと考える。
・・・> という、普遍的な部分と、やっぱり日本人特有のという部分があります。「学校で学ぶ」ということが、学びの内容やそれによって得られる自身のスペックなどよりも、社会的な地位や評価に結びつくという意識と、それにもとづく社会構造(メリトクラシーといいます)が、欧米などに比べると強めなのですね。それは明治以来の日本の歴史によって形成されたものだと思います。

評価と聞いて成績評価のことを真っ先に思い浮かべたが、成績評価も教師自身の目標達成の指標になっているということを初めて知った。また単に生徒評価だと思っていることは、生徒がそれだけでは評価されえないことを含めて、気をつけなければならないと思った。成績に関しても、人からどう見られるのかの一つの要因になるというのは盲点だったので、そこも気をつけようと思う。
成績評価が、教師・学校側の教育活動を評価するものであったことに驚いた。生徒が過剰に成績評価に囚われないように、成績評価に対する考え方をどのようにして共有するかをしっかりと考えなければならないと思った。

学校でおこなわれるテストが教育の評価である、という感覚は、いままでもっていなかった。教師自身がそれを誤認しないことはもちろんであるが、点数を気にする生徒とのかかわり方、コミュニケーションを意識するべきだと思う。

定期テストの数字だけが重要でないことはわかっていたが、それも含めてさまざまな視点、方法を組み合わせて評価をおこなう必要があることを学んだ。また教員自らの評価になっていることも納得した。

学校評価のことを聞いて、成績評価(とくに教科の)をおこなう理由が、生徒というよりは教育の評価のためであるということを学び、たしかにそうだと思った。また成績・点数について、それが生徒の努力によるものだと考えていたので、あくまで一側面を測るものであるということを、教師側としてはより強く認識するべきであると学んだ。

 

 

生徒目線だと、成績評価は自分のテストの点数などを評価しているだけのもので、教師側にとってとくに意味はないと思っていたので、教師の教育活動を評価するものだと知って驚きました。評価にはいろいろな種類があることを知ったので、それぞれの特性をしっかりと理解したいと思いました。

評価主体と評価対象の非対称性について、教師という立場の位置を理解し、わきまえなければならないと思った。
生徒を評価する際に、評価主体と対象とのあいだの非対称性を意識し、教師の教育活動の成果に対する判定機能があるのだということをしっかりと見定めていきたい。

評価について誤った考え方であったとしても、今後の生徒の人生にかかわってしまうものであるので、責任がつきまとう。ゆえに統一的な評価規準を求めてしまう。しかし目標に準拠しない評価がある以上、それは困難であるため、教師のトレーニングが重要であると思った。

教科のスコアが低いというだけで、それは生徒自身の能力が低いためであり、その後の人生においてもそれが持続するという、抑うつ的で歪んだ思い込みに囚われる危険性がある。その危険性に注意し、そうした思い込みに囚われないように生徒を導くことが必要である。

知り合いに、何を話しても「○○君は△△高校だもんね」という人がいます。よくも悪くもそういう人がいます。部活などに力を注いできた人への評価はどうする気なのでしょう。そのような生徒たちが評価される教育をしたい(もちろん勉強もできるようになってほしい)。

試験は生徒を評価するためのものだと思っていたが、本来は自身の教育活動の成果に対する評価活動であるということを忘れないようにしたいと思う。

成績評価は生徒の評価だけでなく教師の教え方についての評価でもある、というのはいままでまったく思わなかったが、教師の教え方が生徒の理解度にかかわるのだから、たしかにそのとおりだと思った。

成績評価から教師の教え方のよしあしを評価するというのは、教師の教え方が児童・生徒・学生の成績に直結するわけではないと思うので、妥当ではないような気がした。
・・・> かなり「直結」するのではないか。そういう評価を設定しなければならないはずでは?

成績評価に関して教師側に求められる姿勢では、中高生は「成績」「点数」に過敏になることや、それが発達に悪い影響を与える可能性があるということを理解できました。

まだまだ生徒を成績という呪縛から救える気はしませんが(もちろん自分自身も)、私は授業と教科が大好きな教師になりたいと思っています。


かなりやりがちで、そして絶対にやってはいけないタイプの授業
配付した穴埋めプリントの答えをいうだけ→覚えさせるだけ で、脳の無駄づかいとしか思えないが・・・
(しかも九条頼経とか西面の武士なんて覚える値打ちが低いとしか思えない)

 

授業の評価は、生徒へのアンケートとかでおこなうのだと思っていたので、試験の平均点や成績評価も含まれるとは思いませんでした。

全国学テの平均点を挙げるために特別支援学級の生徒などに休みを強要した話があった。中学生のときクラスリレーの日に、足の遅い生徒に当日休むようにいっていたやつがいたのを思い出した。その中学生を貶める意図はないが、教師なのに中学生レベルの発想で、幼稚で残酷だと思った。

サッチャーとブレアがおこなった教育政策の話がおもしろかった。公教育でそのような政策をやると偏りが出てしまうけれど、モチベーションも高まるし、そちらのほうが学力が高くなりそうだなと思った。
子ども名義の口座をつくらせるイギリスの制度にはとても感心した。

ブレアのスピーチの真似を、どこかでしてみたくなった。
・・・> 私(古賀)が日ごろ考えていることは3つしかありません。アイドルとアイドルとアイドルです。No Idol, No Life. (←教育は?)

学校に在籍する生徒や学生の学力を評価するのは、生徒であった私も経験していたので知っていたが、大学が評価を受けていて、そのしるしがあることは知らなかった。評価する側に立つことがほとんどないので、そもそも評価や調査のプロがいるという事実を考えたこともなかった。


千葉工業大学公式サイト  https://www.it-chiba.ac.jp/institute/disclosure/evaluation/ 参照
「ちゃんとした大学である」という評価機関のお墨付きが、教育機関としての大学の価値づけになる
「適合していない」と断じられた現場も私は見たことがあるので、これが容易なことではないとよく知っている

 

形成的評価、総括的評価などの分類は興味深かったです。

関心・意欲・態度が重要であるというのは、学びに興味が出ることが大切であることと、生徒の人格肯定にもつながるからだと考えた。また評価規準と評価基準を間違えないようにちゃんと理解しなければならないと思った。

中学生のとき関心・意欲・態度では必ずAをとれるように授業に取り組んでいました。

今回、「関心・意欲・態度」が「主体的に学習に取り組む姿勢」に変わり、順序も最後になってはいるが、30年間もトップに存在していただけあって、無視できないものであるとあらためて思った。実際、やる気があればなんでもできるというように、やる気や関心、興味といったものがなければ、学業でもなんでも伸びないと考えている。テストの結果だけが評価ではないとあらためて思う。

関心・意欲・態度が、評価の観点の順位は下がったのだが、知識を教えるだけでは生徒は学んでくれないと思うので、その部分を投げやりにするような授業はしたくないなと思いました。

知識・技能が重要視されるようになったが、教科では知識を詰め込むことなく、知識を横につなげるような、知のスパークを起こせるような学習を進めなければならないと再度理解できた。

試験は、授業で出たことをどれくらいできるか見るものだから、いじわる問題を出すのはズレているということがわかった。成績評価はとても複雑なんだなと思いました。
・・・> その指摘だとさほど複雑なようには見え・・・(笑)。ちょっと修正しておきましょう。「授業で出たことをどれくらいできるか」というのは適切ではありません。「出た」ってなんでしょうか? 教科教育というのは、知識を伝達して、それをクイズ形式で答えられるようにする、ということだと、まだ思っているのではないでしょうか。そうではありません。知識を与えられたり、ワークをしたり、ディスカッションをしたり、観察・実験したり、それをレポートにまとめたりします。それら個別の作業の先に、「それまでにはなかった自分のウツワ」が形成され、見えなかったことが見え、考えられなかったことを考えられるようになります。前期末の課題に取り組む前に確認しておきましょう。

問題を解くことはあっても問題をつくったことはない。問題作成の難しさが想定以上で、問題そのものの意図や方式など、評価とどのように結びつけるかまで考えると、一つの試験問題をつくるのも大変だと思った。

小・中・高と、評価と聞くと通知表しか浮かばなかった。テストでよい点数を取ればよい評価がつく。先生にも褒められる。素直だった中学生のころは、テストの平均点が低かったら自分のせいだと本気で思っていた(当時は友達に比べると点数がよく、周りに教えることができるくらいだった)。だからといってすべてが教師の教え方だとはいえないが、教師側にも評価をつける存在がある。だからこそ生徒たちに懸命に教えてくれているのだなと今回の授業で思った。通知表は生徒一人ひとりに烙印を押すものではない、という言葉が心に残った。

今回の授業は評価の話だったので、帰ったら通知表を見てみようと思った。私も通知表に一喜一憂するタイプだったので、教師への評価が含まれるというのをあまり考えたことがなく、驚いた。

夏休みに読むとよい本はありますか?
・・・> 読書にシーズンなんてあるのかなあ。夏によいって、そんな海の家とかTUBEとかミル・マスカラスみたいな本なんてあるのかなあ(ネタがすべて昭和なので聞き流すかググってください)。長期休みに落ち着いて読むという趣旨ですよね。文学作品いかがですか? 教職課程の学生なら、『二十四の瞳』とか『真実一路』なんていまのうちに読んでおかないと、あとあと機会がないかもしれません。漱石とか芥川とか志賀直哉なんかもいいな。個別の作品では中島敦の『山月記』。高校国語の鉄板教材なので一度くらい読んだかもしれないが、おとなになると味わい深いです。虎になっちゃうような人が周りにきっといます(笑)。渋いところでは陳舜臣の『中国五千年』を絶賛お勧めしましょう。ああ歴史ってこうやって語られるのだなとしみじみ思います。マンガは手塚治虫『ブッダ』かな。

 



開講にあたって

この科目は、教員免許状の取得をめざす学生を対象に、教育課程(学校教育の内容とその構成を時系列的に配置したもの)の観点から学校教育を検討して、教職専門性(担当教科にかかわらず教員に共通する専門職業的な専門性)の枢要な部分を養うことを目的としています。私たちは、ともすれば学校教育の内容=固定的なもの、不動のもの、というふうに考えがちです。教員をめざそうという場合にも、自分が過去に生徒として学んできた内容を不変の前提として、その枠内でどうにかしようと考えるのが普通です。しかし、歴史的過去や外国の事例を少しでも学べばわかるように、学校で学ぶ内容というのは絶対に不動のものではありません。その学習を経ることで学習者(児童・生徒)にどのような変化を期待するのか、どんな人間像に向かわせるのか、ひいては次世代の社会をどのような姿にしていくのか――といった見通しが不可欠となります。

これまでずっと児童・生徒の立場で教育を受ける側だったとすれば、学校での学習は、多くの場合「いわれたからやる、そういう決まりになっているからする」ものだったのではないでしょうか。各教科で学ばれる内容や事項ひとつひとつに目的とか意味があるというふうには考えなかったはずです。当科目では、その部分をプロの視点から考えます。学校の教育内容がどのような目的・意味をもって選定され、配列されているのかということです。同時に、学ぶ側の身体的・心理的・社会的条件をも視野に入れなければなりません。IT化が進んだあとの世代(大半の受講生もそれに含まれますが)は、それ以前の世代とは思考のパターンや順序が変わっている部分があるようです。また、社会の高度化に従って、学校時代に学んでおかなくてはならないことは量的に増大し、質的にも深くなりました。そうした変化を織り込んだ教育課程とは、どのようにあるべきでしょうか。

ご存じのように、学校教育には教科(subject)というものが設定され、みなさんが取得をめざしている免許状も教科ごとのものです。ですから、自分が教える教科の内容や教え方を心得ていればよいのだと短絡することがしばしば起こります。他のことは知らないでもよい、という誤った認識になっています。また、自分の免許状にかかわる学校種(本学の教職課程では、中学校または高等学校)のことだけ知っていればよいというのも短絡です。学校教育というのが人間や社会の全体にかかわることであるならば、そうした区切りは便宜上のものでしかありません。生徒の成長と社会への巣立ちを支援しなければならない立場の教師が、「私は自分の専門に閉じこもります」という態度をとってよいものではありません。当科目では、したがって教科や、その下位区分である分野(中学校)・科目(高等学校)、さらには各教科に属する単元(学習内容のまとまり)をも、固定的には捉えず、可変的なもの、流動的なものとして考えます。そうすることで、「そもそもこの教科では何を学ばせるのか」という大事なところに意識が行くことになるのです。なお日本の学校教育のうち幼稚園・小学校・中学校・義務教育学校・中等教育学校・高等学校・特別支援学校については、文部科学大臣の告示する学習指導要領が教育課程の基準となります。当科目でも当然のことにこの学習指導要領の分析が重要な位置を占めますが、これからの約10年を規定する新しい学習指導要領のうち、中学校のものは2017(平成29)年3月、また高等学校のものは2018(平成30)年3月に告示されました。今回の改訂は非常に大規模なもので(とくに高等学校)、現場で実際に指導にあたっている先生方であっても、その理念や内容・構成を一から学ばなければというほどですので、大学生のみなさんが「自分が中高生だったころを思い出して」などという姿勢であるのが許されないことは論を待ちません。

当科目は3S2年次前期)の配当科目です。2年生のみなさんは、教職課程での1年間の学びを経て、いくらかでも専門的な視点で教育を捉えるということに慣れてきたころだと思います。2Sの教育行政学および教育原理では、学校教育をひとつ外から捉えるという観点が主でしたが、この教育課程論では学びの内容そのものを対象としますので、いよいよ本体部分について意識を向けなければならないことになります。あらためて、生徒目線、経験を根拠とする考察ではどうにもならないという点を心得てください。ここでの学びのあり方が今後の教職課程全体の学びにもつながっていきます。

<使用するテキスト>
古賀 編著『教育原理』(学文社、2020年) *主に第7
中学校学習指導要領
(平成29年版) 
高等学校学習指導要領
(平成30年版) 
*文部科学省のサイトには全文が掲載されていますが、PDF版であり「めくる」必要が生じます。書籍版を購入することを検討してください。


 

講義サポート トップ