古賀毅の講義サポート2026-2027

Programmes et cours d’étude

教育課程論


千葉工業大学工学部・創造工学部・情報変革科学部・未来変革科学部 教職課程
前期 土曜67限(14:00-16:00) 津田沼キャンパス 6号館 614教室


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2026(令和8)年度 教職科目における指導・評定方針

 

202645月の授業予定
4
25日 教育内容と人間形成
5
9日 学習指導要領とその変遷(1):試案期〜昭和5253年版
5
16日 学習指導要領とその変遷(2):平成元年版〜平成2021年版 *オンライン授業
5
23日 現行学習指導要領(平成2930年版)の要点と特色
5
30日 次期学習指導要領の展望:中教審の議論をめぐって

 


次回は・・・
4-
学習指導要領とその変遷(1):試案期〜昭和5253年版

3回にわたって歴代の学習指導要領の内容・特色を紹介します。さらにその後で、2026年現在審議中の、次期の学習指導要領についてわかるところを共有します。いってみれば「学習指導要領の歴史」ということですが、もう役割を終わってしまって過去のものになった学習指導要領を見ることに、どのような意味があるのかと疑問に思う人もあるかもしれません。前回(3- 教育内容と人間形成)にみたように、直接役に立つような学びとは別次元に、大局的に俯瞰して、現状や自分自身をも取り込んだかたちを外側から捉えるような学びこそ、本質に迫ることができるわけですね。歴代の学習指導要領には、過去の教育関係者たちの苦闘の跡が見えます。また、その時代ごとの社会情勢や教育課題の関係が見えてきます。うまくいかなかったものも、いくつかあります。なぜ失敗したのかという経過や影響も、私たちの貴重な学習素材です。そして、時代の変化にもかかわらず「あれ、いまも同じような感じだなあ」と思うようなことも結構あります。ほかならぬ人間の教育ですから、変わらぬ部分こそ大事だということかもしれません。

学習指導要領が初めて出されたのは、敗戦2年後の1947(昭和22)年のことです(学習指導要領は国の法令になりましたので、西暦でなく元号で示すのが適切です。以下、ある種の固有名詞のように昭和○○年版という表現をします)。現在では「幼小中高特の教育課程の基準」という位置づけですけれども、この昭和22年版と昭和26年版は、法的拘束力をもたない「試案」でした。学習指導要領の試案期というのは、日本の歴史でいえば占領期に重なります。以降、最新(現行)の平成2930年版まで、約10年ごとに改訂され、9代を数えます。いま審議中のものが記念すべき?10代目になる予定。今回の授業では、その前半、昭和戦後期のものを見ていくことにします。敗戦→占領→高度経済成長→石油危機→経済大国という、社会自体がドラマティックな展開というか発展を見せた時期ですので、学校教育のほうも元気でした。現在との違いは、経済成長ということのほかに、これで学ぶ子どもの数が断然多かったということでしょう。私(古賀)は第二次ベビーブーマーの少し上の世代ですので、とにかく同世代の人口が多かった時期に育ちました。どの公園でも町角でも子どもたちが束になって遊んでいたものです。もちろん子どもが電子機器に触れることもほとんどありませんので、素朴な遊びがあり、そして家の手伝いがありました。ペスタロッチではないが、生活の中に学びの機会がいくらでもありました。昭和戦後期はまた、世界規模で見れば東西冷戦の厳しい対立の時期でもありました。日本はアメリカを中心とした西側陣営の一角を占めています。子どもの日常と、世界規模の対立。この時期の学習指導要領には、その両方の影響がかなり色濃く反映されています。

今回の範囲の一応の終点は、昭和の終わりごろ、1970年代です。高度経済成長がいったん終わり、いろいろな社会矛盾が明らかになった時期でした。経済成長をつづけているあいだには見えなかった、あるいは見ぬふりをしていた問題があれこれ噴出します。2S教育原理でみたように、学校教育とくに中等教育の問題も、そのころ顕在化したのでしたね。高等学校への進学がほぼ飽和に近づき、大学への進学もかなり一般化しつつありました。塾通いも増えています。その時期に、初等教育では教育内容の削減、中等教育では進学競争への対応が同時進行で図られました。1976年に小学校、1982年に中学校に入学した私は、あとから思えばですが、大半を昭和5253年版学習指導要領で学んでいたことになります。もとより生徒目線でしかないため、私の記憶はあてになりません。専門家として研究してわかったことを中心に、こんにちにつづく学習指導要領の変遷を、各時期のトピックに注目しながらみなさんと見ていきたいと思います。

 

REVIEW 4/18

これまで学校で学んできた内容の背景にある構成や意図について考えたことはなかったが、今回の授業を通して教育課程は目的にもとづいて意図的に構成されており、その編成には複数の視点がかかわっているのだなと思った。(認知)

教育する対象は未来の日本を支える子どもたちだからこそ、多方面から考えて教育課程を編成するのだとわかった。自分が教育する側、計画を立てる側になることができるのか不安になった。(応化)

他律的な考え方はいけないとあらためて認識できた。また教育を計画する側の意識をもつ中で、どこまで自分で自由に計画できる立場にあるのか気になった。(高度)

授業を通して、これからの学習指導要領の動向を気にしていこうと思いました。現在対立している意見のそれぞれの考えをもっと詳しく知りたいと感じました。(高度)

教育課程を編成する要因はたくさんあることを知り、学ぶのが大変そうだなと感じた。また今回のスライドに書いてあった名言(社会に合わせるのではなく、社会をつくるのが教育ではないのか?)はかなり刺さった。教育に携わる者として自覚が少し芽生えた気がした。(高度)

これまでは学校側から与えられたものを学ぶだけだったが、今後はなぜこれをやるのか?を考え、学びの流れや各原理の問題点について常日頃から考えるくせをつけていかなければならないと思った。しかしどの要請に対しても、教える側と学ぶ側の年齢の差が大きすぎて、考え方や捉え方の違い、いかに生徒に興味をもたせるかといった考え方だけではない技術面の必要性を強く感じた。(機械)

今回の授業を通して、教育課程が学問・発達・社会の3つによって編成されていることを初めて知った。それぞれの原理が利点と問題点を抱え、どれか一つに偏ると教育の質が損なわれてしまうことを知り、バランスの重要性を学ぶことができた。(認知)

教育課程の編成には自分が思っていたよりもさまざまな編成原理がかかわっていて驚きました。これらの軽重を教科・単元ごとに調整するのは容易ではないと思いましたが、この教科はこの編成原理に重きを置く、といった例が、より知りたくなりました。(経デ)

教育課程は3つの編成原理から成り立っていると知り、それぞれのバランスが大切だとわかった。どれが何なのかを理解し、意識して教えられるようになりたい。教員の配置や特別教室などの制約があるということをあまり考えずに授業を受けていたが、編成にはそういったことも関係していると気づいた。まだ自分の経験から抜け切れていないと感じた。(機械)

問題点が明確になっているにもかかわらず大した解決に至れないのは、お役所仕事だからなのか、教育といえどいい加減な運用をしているためなのか。はっきりした結果がないのがもどかしい。(認知)

教育課程の編成原理がA,B,Cという分類の仕方なのは、それぞれの要請にもとづく教育課程の問題点なども関連する点が多いからだと考えた。(高度)
・・・> なぜ?? 3つの編成原理は、たいていの教職課程のテキストにも載っている常識的なことですが、それにA,B,Cという記号を付したのは私です。ですからよそで「Aの原理でさあ」といっても通用しません。初めて学ぶみなさんにわかりやすいように記号を付したまでのことです。

3つの編成原理は、最初に概要を知ったときには教育課程のすべてをカバーしているように思ったが、3つすべてに問題点があり、学問的要請に関しては教師が大学で学ぶ学問と生徒に教える学問が合っていないことが挙げられる。私がいちばん問題だと思ったのは社会的要請で、社会の変化に合わせていかなければいけない都合上、後手に回ってしまうので、柔軟な対応が求められると思った。(認知)

学問的要請・社会的要請の面から考えると、国家をつくるためにつらら型のような教育課程になっていることは当然だと思う。しかし、おとな側の要求を子どもに押しつけていても子どもは学んでくれるわけではないので、教え方には発達の面を考えて教育する必要があると思った。(情工)

塾で働いていても思うが、全部知っていることをまったく知らない人に教えるというのは難しい。また、教えない・扱わないをどう判断するのかも、もう少し考える必要があると思った。学ぶべきことは増えつづけるため、終わりがないように思う。変化を見越した「基礎」というのがどのようなものなのか、考えられるようになりたい。(応化)

 

私は応用化学科なので、分析化学や物理化学などの専門的分野を学んでいる。化学という分野(科目)の「親学問」という明確な位置をもった関係があるということがわかった。(応化)

親学問をもとに学習内容と配列が組み立てられているという部分は、発達的・社会的要請より弱いと思っていたが、他と同じくらい重要だということは意外だった。(高度)
・・・> とくに高等学校の段階では、大学と同じで「学問」として蓄積された部分を共有する(それを自身の、そして社会の生成に生かす)という部分が重要になります。ですから学問的要請がむしろ最優先といってもいいくらいなのですね。

数学は、言語・科学などに並ぶ代表的な学問だと思っていたが、16世紀ころまでは学問というより芸術などと同等に扱われていたことに衝撃を受けた。(応化)
・・・> 芸術というよりアート(art)。辞書を調べてもらえばわかるように、芸術以前に技術という意味が含まれます。英語(フランス語から入った語彙)のartが両方の意味を含んでいることからわかるように、欧州のもともとの考え方としては、芸術も技術も同じカテゴリだったのです。ただそれでも、数学は芸術だったと捉えると間違えます。工芸家の「職人芸」みたいなものだと思うと、わかりやすいでしょうか。

3つの編成原理それぞれに、現代の問題点が大きく影響しているのだと思った。とくに歴史や情報など際限なく情報量が増える教科や科目は、数年後にどうなるのだろうと思った。(都市)
・・・> 情報はそうですが歴史は「際限なく増える」こともないのでは?

学んでいる内容に対する親と子の考え方の違いを考えるということをしたことがなかったのでおもしろかった。(高度)

学習内容の高度化がさらに進んでいくと、中等教育の学問・技術的に専門性の高いコースの設置が盛んになるだろうと考えた。(応化)

教える学問と学んでいる学問が違うという話があった。私は工業を教えることになるが、高校は普通科だったこともあって不安なことが多いので、共感することが多かった。(機械)
・・・> いや共感しないでください(汗)。そこではありません。機械工学科で学んでいることと工業高校で教える内容はかなり一致します(レベルはずいぶん違うが)。あなたの高校時代はまったく関係ない。肝心のポイントを外していると思うので、おさらいしておこう。

 

情報科は範囲が広がりつづけるので、理科で「物理以外は苦手」というような得意・不得意が大きく出てくるのではないかと思った。(高度)

思考力を高める授業は私も大事だと考えている。思考力を上げる教育と受験の両立はできるのではないかと考えました。(経デ)

3つの編成原理を聞いて、発達的要請をいちばん身近に感じた。自分の思っていることを言語化することに加えて、その年代に合わせて翻訳するというのはすごく大変だと思った。(認知)

インターネットやAIの使い方、AIのしくみを学ばせるということが学習指導要領に明記されていないことが問題であると思う。だからこそ日常的に使う技術であるのに学校教育が追いつけていないことが「はどめ規定」によってさらに正確な知識を身につけることが難しくなっていると思う。(認知)
・・・> はどめ規定のこととはあまり関係ないような気がします。インターネットについては現行の学習指導要領にもかなり載っていますが、AIはほとんどありません(「AIの時代になると学び方を変えなければ」という総論だけが記されている)。ただ、別に文科省の肩をもつわけでもないのですが、ChatGPTの供用開始が2022年末で、高等学校学習指導要領の告示は20183月。無理ですよね。生成AIが本格稼働したことを受けて一部改訂を実施すべきだというのであれば、それは検討に値することだと思います。

発達的要請にもとづく教育課程の問題点として取り上げられた「はどめ規定」について、さまざまな点(教員、政治等)で関心をもったので、情報を収集してみようと思った。(応化)

得ようと思えばどんな情報も得ることができ、アプリやサイトのアルゴリズムによってほぼ強制的にさまざまな情報に触れるこの時代に「はどめ規定」によって正しい情報を教えることができないというのは、いかがなものかと思った。(認知)
はどめ規定の「余計なことは教えるな」は理解できるが、インターネットの発達によって子どもでもいろいろな情報(デマを含む)を手に入れることができる時代になったので、学校が正確な情報を伝えられるようにするべきだと思った。(認知)

はどめ規定があるが、インターネットでわかってしまう時代。だからこそ正しい知識を学んでおいたほうがよいのか・・・ しかし小学生などは正しく「理解」してくれるのか。すごく悩ましい。(応化)
子どもの発達は、ネットの普及やそのときに流行したものなどで常識と一緒に変わっていくものだから、はどめ規定などの制限には意味が薄いと思った。ただ、教え方を間違えれば思想に影響する可能性もあり、どのように変化するのかが想像できなかった。(経デ)

小学校では興味の拡大のために、専門性に固執しない教育をしているが、子どもの興味・関心をそぐような「はどめ規定」は小学校でめざされるべき「広域的に関心をもたせる」ことに矛盾する。このような規定はないほうが、正しい知識を得られるという面でも有効ではないか。(機械)

はどめ規定というものを初めて知った。社会・理科・保健の授業は難しいと思った。学習指導要領の改正後に注目して見てみようと思った。(高度)

時代的に生徒が知っておくべき、教員が伝えるべき問題があっても、学習指導要領的にアバウトにしか教えることができないことがあるというのが、いまの時代に合うように変わっていってほしいなと思いました。また教員の思想が生徒に反映されないように伝えるということが、私が教員になってもずっと悩みの種になりつづけそうだと思いました。(認知)

いまとなっては当たり前に知っていることが、中学校・高校では、学問的・発達的・社会的要請が原因で、授業で扱う内容でも不確かなまま教えてしまっているということで、そこをどう適切に教えるべきなのかを、これからの教職課程で学んでいきたい。(経デ)
・・・> ちょっと理解が足りていないように見えます。おそらく学習指導要領の「はどめ規定」のことをおっしゃっているのだろうと思いますが、授業内で指摘した問題は (1)発達的要請にもとづく教育課程という名目、つまり「発達段階が未熟だから教えすぎない」という建前で、性や政治的な問題などを「扱わない」ということ (2)不確かなまま教えているのではなく(それだと「ウソも教えている」ことになる)肝心の部分を教えない、つまり教えている部分にウソはない ということです。そこは修正しておいてください。「不適切さ」の意味がズレると、自身の認識や理解が狂ってきます。

児童・生徒の発達に関する研究ということにとくに興味があるため、重先生、市川先生の授業が楽しみだ。(認知)

子どもが勝手にクレジットカードを使ってしまう件について、ではクレカのしくみを教えれば止められるのかという問いがあるが、闇バイトの危険性をいくら講じてもやってしまう人がなくならないのと同じように、教えれば問題が起こらなくなるとはかぎらないのだろうと思った。といって教えることを放棄してはならない。教えなければいけないけど従わない人はとことん従わない、という問題が、現状の教育において非常に悩ましいと思っている。(認知)
・・・> まあでも、それはインターネット時代になってはじまったことではなく、とくに青年期はそういうものです。タバコしかり、暴力しかり。学校や教員は、教育的熱意や生徒を思う心情を傾けて指導するのはもちろんですが、学問を積んで教科の専門家になったわけですから、科学や論理というのも大切にしたいですね。つまり、クレカ(信用販売)や金融やオンライン通販のしくみ、タバコのしくみを、客観的・科学的に共有する。道徳や生徒指導とは別に、教科として教える。そこを外してはいけないと思います。近年の問題としては、「青年期の若者はあれこれやらかす」という以前から知られる傾向はそれとして、中学生さらには小学生でも、やばそうな問題にアクセスできるようになってしまい、実際にやらかすことが増えているということがあります。話が小学生まで下りてくると、青年期に特有のアレということでもないので、新たな対応が必要になってくるかもしれません。発達段階、家庭環境、当人の人間関係などの具体的な要素が複合的にはたらきますので、これをトータルで見て適切に捉え、指導・支援するということが望まれます。5S6Sの重先生の授業で学んでください。

地域の特性によって教育課程の編成が変わることがあるということにびっくりした。その地域を出たときに受験などに影響してこないのか気になった。(応化)
・・・> 受験うんぬんはしばらく忘れておくほうが、学校教育の問題をフラットに考えられると思います。実際には、引越し・転校があれば「受験などに影響」するに決まっています。学んでいる内容はもちろん学び方・教え方も変わりますからね。私も中32学期からまったく別の地域に転校したので苦労しました。ただ、そういう問題は教育課程の編成原理がどうあっても、絶対にあるので、今回の問題とはかかわりがないと考えてください。いまは外国に転校することだってめずらしくないですからね。

生徒が興味をもったこと以外もしなくてはいけないのが今の教育現場で、のびのび勉強し学ばせるうえでの妨げになっているのでは?と当時思っていました。質問なのですが、「窓ぎわのトットちゃん」のような教育を中等教育でするのは、戦前なら可能だったのでしょうか。(応化)
・・・> 法的には戦前のほうが緩かったので可能だったと思いますが、「実現できるか」という意味での可能性は、薄かったのではないかと思う。中等教育のニーズ(つららにせよ、たけのこにせよ)に合致しないのと、現在と同じで教科専門性を背負ってくる教員に新教育的な指導ができるかとなると怪しいので。

私は、社会的要請に合わせすぎる教育には少し疑問を感じた。社会情勢は常に変化するため、それに振り回されると学ぶ内容が不安定になる。いつの時代にも通用する基礎を重視しつつ、必要に応じて他の視点や考えを取り入れることが大切だと考える。(機械)


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その学問を学んだ人が教員になる、開放制の教員が普通である。社会に合わせる教育には限界がある。教育課程の編成は難しい。(応化)

1年生のころから先生がおっしゃっていた、自身が中・高で学んだことを教えるのではなく大学で学んだことを教えるのだということは、教育課程の編成によって変わるからという意味も含んでいるのではないかと思いました。(高度)

「教科」ではなく「学問」を学んだ人間が生徒に対して教育するという部分で、間違えやすいが、教師が大卒以上を求められるという事実から、絶対に間違えてはいけないものだとあらためて感じた。教員の配置において、今後の社会の動きや科目によって相当な負担がかかることについて、これからの日本の学校はどうなってしまうのだろうと、不安な気持ちでいっぱいになりました。(認知)

教える側と教わる側の思考のミスマッチという問題がある中で、どの教科も内容が高度化していることから、教える側は抽象的になってしまい、教わる側は未知の状態から抽象的に教わっても理解度が上がらないということが、あらためてわかった。これから先も学問の内容が高度化する中で、ミスマッチを緩和するために、親学問の研究を教える側である私たちがやるしかないと思いました。(機械)
・・・> 非常に明快で適切な整理だと思います。一点、「教わる」という表現というか考え方を避けてはどうかと思います。教わる・習う というのが生徒側の本音というか実態に近いのだろうけれど、しかしそこは「学ぶ」にしてほしい。教えると教わるだと、シンメトリーになっていて、ミスマッチではないですよね。そして自分たち大学生も、大学の先生から「教わる」「習う」という感覚を捨て去って、授業をきっかけとか足場にして自身で学びにいくという姿勢であってほしいなと思います。

高度情報化によって、学習したものと社会とのギャップが広がる中で、たけのこ型の思想や実業高校の存在はどのように変化していくのか、考えていかなければならないと思った。親学問の理解と生徒発達への理解は、相互に支え合うべきだと思う。開放制で学ぶ立場として、生徒発達に関してももっと注力していくべきなのではないかと思った。(認知)

親学問や児童・生徒の発達は、大学でがんばればしっかり学べるので、社会に関しては自分なりに考えていきたい。(認知)
3つの編成原理すべてが現状では問題を抱えており、それらの問題に対処するためには専門の知識を得るだけでなく、教育現場のことや社会情勢についてもより探究していく必要があると思った。(応化)

中学生のときは小学校や中学校の先生にあこがれていたが、今回の話を聞き、いま自分が受けているような授業よりもより専門的で子どもに対する接し方をわかっているのだなと思った。(都市)
私が小学生のときに見ていた小学校の先生は、多くの教科を教えていて大変そうな印象であったが、それ以上に教えている子どもに対する接し方や教育について考えていた。ただならぬ努力の上で成り立っているのだと実感した。(電電)

小学校の先生は全教科を教えるといっていたが、最近はそんなことはないと私は思う。というのも、私が小学校(とくに高学年)のとき算数・理科は担任、音楽や家庭科は隣のクラスの先生、それ以外の教科は他の先生というように分かれていた。地域によって異なるのかもしれないが、小学校でも教科ごとに先生が違う学校は増えているのではないか。もしよければいまの小学校の状況を教えてください。(機械)
・・・> 原理原則や制度面と、運用の話がレビュー主の中で混線しています。また児童としての経験(目線)が邪魔して、しくみを適切に見ることができていないかもしれません。(1)小学校教員の免許状は1種類しかなく、中・高と違って教科の但し書きがありません。全教科を教えなければならないし、教えてよいという資格でもあります。(2)小学校の教員が教科ではなく「子ども・発達の専門家」であるという原理原則は、過去も現在も変わっていません。(3)そのうえで、校長の判断によって、特定教科の授業に専念する教員(これを「専科」といいます)や、教科によって得意不得意があるので別の教員と担当を交換することがあります。(4)そうした運用は全国各地で、しかも戦前からおこなわれています。最近の話でも、地域ごとに異なるわけでもありません。

社会が変化していくにつれて学ぶべきことも変化する。その中で教育課程論がどのように変化するかが気がかりです。(応化)
・・・> 教育課程ではなく教育課程?? 来年も履修しますか(笑)。でもやっぱり、変化させなくてはいけないですね。

これから教職をめざすうえで、グローバル化やIT化、AIの発展などから想定できる問題点がどのように教育現場に響いてくるのかがよくわかった。SNSにひたり、情報を得るのが好きな自分は、そんな時代の中では活かしようがあるのではないかと思えた。
・・・> 冗談はよせ。冗談でいっているのではなく本気でいっています。冗談はよしなさい。なんなら(教職をめざすというなら)いますぐSNSをやめなさい。「何を考えているのか」レベルのことです。

保護者は子どもを「いい大学」「いい企業」に入れる過程がほしいことがよくわかった。近年は大学名だけでいい企業に受かってしまう社会になっている。いわば大学は就職塾のようなものだと思う。(都市)
・・・> そんな話をした覚えはないし、そこがメインでもないですよ。大学名だけで「いい企業」に採用されるような時代は過去にも現在にもありませんでした。大学(学歴)フィルターというのはなくはないが、それは「ハイレベルの大学の学生でないとエントリーできない」という意味であり、その大学の学生であるだけで採用されるという話とは論理的につながりません。「近年」の動向も、ほぼ完全に読み違えています。工大の学生は、そのあたりの見方はわりとしっかりしていると思うのだけど、どこかで微妙に狂ったかな?

数学I,II,IIIと数学A,B,Cの記号には意味があるということを初めて学んだ。A,B,Cの順序で学習しなくてもよいということに驚いた。(高度、類例複数)
・・・> あまり本筋とは関係のない部分なのですが、これは知らなかったでしょ。私が高校生のころ(昭和53年版学習指導要領)には、英語I、英語II、英語IIA、英語IIB、英語IICという分岐?までありました。IIIは順序どおりに学ぶが、IIの中の科目の順序は学校の裁量。IIA(総合)、IIB(長文講読)、IIC(文法・英作文)を、3年になるまでぐちゃぐちゃにやっていたことを思い出します。生徒目線からすると意味がわからないので、本当はすっきりさせるほうがいいと思うんですけどね。

天皇家の相続問題は知っていたが、養子の話はまったく知らなかった。天皇に関するニュースを見て学びたいと思った。(高度)
・・・> 社会情勢をわかっておきましょうという話だったと思いますが、2月の総選挙で与党が圧勝したことを受けて、高市早苗首相と彼女を積極的に支持する人たちの政策がパッケージで受け入れられたことになり(有権者はそんなつもりじゃないというかもしれませんが、総選挙とはそういうものです)、彼らが長年主張してきた「男系男子継承」の原則が通るかもしれない情勢になってきました。現在の法律でも男系男子継承なのですけれど、そのままだと皇位継承の可能性のある方がほとんどありません(現在は、天皇陛下の弟である秋篠宮殿下とその息子の悠仁親王、天皇陛下の叔父で上皇陛下の弟である常陸宮殿下のお三方のみ)。もちろん悠仁親王がこれから結婚され、男の子が生まれればよいのですが、そうだとしても少子化や一夫一婦制のもとでは先細りがずっと懸念されます。だから女帝や女系を認めようという意見と、だから旧皇族を復帰させよう(たとえば皇族の女性と結婚して婿養子のような形を採る)という意見に大別されます。ただ、国民世論の考えと政権周辺の考えが一致していないのではないかということと、レビューにもあるようにそもそもこういう議論がおこなわれているとういことが世間に周知されていないのではないかという懸念があります。この種のことをインターネットのみに頼って情報収集すると、思考が誘導されやすいので、マス・メディアの情報もちゃんと活用しましょうね。

 

 

REVIEW 4/25

中学校・高校のころになぜ将来役に立つともいいきれないものを学ばなければいけないのかと疑問をもつことが多々あった。しかし今回あったように個別の知ではなく、型・枠を学ぶことが本質なのだと思った。情報を教える際に「型」を教えるとはどうすればよいかを今後考えていきたい。(経デ)

これまで自分たちが思っていた、この勉強は将来なんの役に立つのかという問いが、いかに限定的であるのかを痛感しました。また陶冶の観点での教育の話にあった、「個別の知を結びつける教育」が「知識を切り取る」より難易度が高いので、暗記の教育がどうしても多くなってしまうのかなと思いました。(経デ)
・・・> そのとおりだと思います。教員自身の学び方がちょろすぎて、「個別の知を結びつける」という必要自体を感じない人が結構いるんでしょうね。

教育の根本的な目的は、まだ十分に理解できていないが、一つの目的として、各教科の学びはあくまでも具体例として、問題解決に向けた考え方を模索するための力を身につけることではないかと思う。(認知)

学校で学ぶ知識の「有用性」に対する認識が大きく変わりました。教師をめざすうえで、単に「答え」を教えるのではなく、生徒一人ひとりの器を広げていきたいと思う。(都市)

何かを学ぶことは、何かに直接役に立つということではなく、汎用的に対応できるようにするために学ぶのだということがわかった。またそのような汎用的に使える学びになるような授業設計をすることが必要であることがわかった。(認知)

見方を転用するという話を聞いて、数学はそういうやり方が主流であるように思えるが、それ以外のところでこの方法を使うのは難しいと思った。これを学んで何になるの?という問いに対して、中高生に説明することを考えたときに、話を聞いた自分の理解も浅く、言語化もうまくできそうになく、教養がないなと感じた。(認知)

生徒に対し、知の光を受け止める状態をつくるということがどれだけ大切なのか、穴あき問題やダミーの話と合わせて、強く意識していかなければならないと感じました。(認知)

「学んだことを使う」は、たしかに目の前のわかりやすい役立ち方としては入試なので、それを伝えてしまいそうだなと思った。ヘルバルト的な考えである陶冶を頭の片隅に置きながら、生徒からの「なんの役に立つの」という疑問に答えられるようにしたい。(都市)

陶冶に関して、総合力を高めることを、OS側がアップデートするという喩えがわかりやすかった。直接ではなく、よいアプリ、学びと合致すれば能力が発揮できるということをイメージしやすかった。知が一つ一つばらばらではなく、つながっていることを生徒が理解できるようにする。だからこそ教材研究は大事なのかと考えることができた。(認知)

本当に個人的なことになるが、最近ゲーム制作をはじめてから、大学のあらゆる講義で学ぶ→一般化・言語化→ゲーム制作に生かす、という習慣がついて、いろいろな勉強が楽しくなり、まさにスパークが起きている。数学で「数値だけ変えるテスト」を見たことがあるが、それは形式陶冶風の実質陶冶にすぎないと考えた。数学は全部つながっていると私は考えているので、各テストでの「こういうロジックさえわかっとけば大丈夫」というのをどこにするのかの塩梅が難しいと考えている。(認知)
高校時代に4 bitCPUをつくったとき初めてスパークが起こった。それまで情報というのは新しいものがいちばん正しいと思っていたが、あえてローテクノロジーのものをつくったとき、情報の歴史に対してとても体系的に理解できたように感じたからだ。(高度)

教科教育法の授業で、探究の必要性や、そもそもなぜ学校教育があるのかを学んだので、また違う視点で学ぶことができておもしろかった。より深く重要性を学べた。これも時代の流れで変わるのかなと思った。(応化)

私も昔、数学って学んでも将来使えないから学ばなくていいじゃんって思っていました(いまは思っていません)。昔に戻れるなら、いってあげたいです。将来、生徒に「なんで学ぶ必要あるの〜?」って聞かれたら、古賀先生がおっしゃっていた話を長々と話そうと思います。知のスパーク、1回だけ経験したことがあるので、もう1回経験したいと思いました。(高度)

具体的な内容から抽象的・一般的な思考ができるように教えることで、教科を飛び越えて知のつながり(スパーク)を体験させることが、人格の陶冶につながるのではないかと考えた。そのためにも、生徒に学びや知について興味をもたせる技量を身につける必要があるし、自らもその姿勢で生活すべきだと思う。(情工)

知のスパークを体験してみたい。(複数)


© いらすとや
本物のスパークはきわめて危険なのでアースを忘れずに

 

授業として特定の分野だけを語るのではなく、個別の知をたくさん取り入れて「知のスパーク」を起こし、楽しいものにする」 この流れを生み出せる授業をできたら楽しいだろうなと思った。(高度)

その教科はどう役に立つのか、教えられた知識から考え方を身につけ、どのように他に活用していくのかが重要だと思った。また形式陶冶が教育には大事だということだった。現代の教育ではその機会が少ないのではないかと考えたが、実は意識していないだけで機会はある。意識して知識を活用するほうがよいのではないかと考えた。(認知)

今回の授業を受け、学びの例を見て、私自身が学ぶ姿勢や方向を改めなければならないと感じた。そういう誤った考え方をなくすためにも、個別の知識を切り取るような学び方をしてはいけないので、改善していきたい。(経デ)
生徒に、これが将来どう役立つの?と聞かれても、私は上手に言語化して伝えることがまだ難しい。そのため、いまから私の専門になるような分野の本を読み、個別の知から視野を広げて、自分の専門と結びつけられるように考えていきたい。(高度)

個別の知識を切り取るような考え方になっていた。もっと全体を見なければ。やわらかい考えを心がけたい。これからもっと考え、学んでいく身なので、早い段階で気づけてよかった。(応化)

苦手だから個別の知識を切り取って覚えるようなやり方になるのか、個別の知識を切り取って覚えるから苦手になってしまうのか。どちらだとしても、そこから脱するのは難しい。一度苦手意識がついてしまうと、得意になることはないと思った。だからこそ最低限だけ苦手分野を勉強して、いまは得意な理系に進んだ。(応化)

高校時代、古文の必要性がわからず、文句を言いながらテストのために勉強していたが、それは実質陶冶で、直接必要な知識だけを取り入れようとして、使い方を理解しようとしていなかったからだと気がついた。私が情報を教える際には、汎用的・一般的に使えると思ってもらえる授業をしたいと思った。(経デ)
・・・> 「使える」「使い方」といってしまっている時点で、半分くらいしかわかっていないかもしれない。

個別の知識を得ることは手段であるという感覚は、なんとなくあったが、言語化したのは初めてだった。(高度)

例として出されたミニテストの内容は、脳内にある自分自身の考え方とそっくりそのままだった。考え方の軌道修正をする必要があるなと考えた。(高度)
アルミ工業を教えるとしたら、どうしても穴うめ問題にしてしまうことは、私自身もしてしまうと思う。生徒たちがどのように学ぶべきか、ただ暗記だけで終わってしまうのか、教師として考えるべきだと思った。(都市)

数学や国語をなぜ学ぶのか。数学は計算だけでなく、どうしてそうなるのかを考える力が必要だからだ。国語は相手にわかりやすく伝える力を養うために重要だ。先生もいっていたが、国語力は話していれば、あるかないかすぐにわかるので、重要だと思う。テストをつくる際に、単なる穴うめではなく、問いに対して理由や考えを説明できるような文章問題をつくることによって、生徒が社会に出たときに知識だけでなくどのように使うかを理解できるようになる。(都市)
学校教育の本質にそぐわない、暗記だけの授業について理解できた。しかしこの感じだと、テストの問題形式は記述が多くなりそうだと思った。選択肢の問題にする手もあるかも。(高度)
・・・> 当然そうなります。そしてどの教科でも国語力(論理構成力)が必要になります。

ミニテスト案の話で、穴うめ式の問題は地理や化学においては、それだけを覚えさせては何になるのかまったくわからないが、公民の、たとえば法律の名前のように知らないと損をする可能性があるものの穴うめに関しては意味があると思った。(認知)
・・・> それはそうですが、その話はしていないでしょ。授業内容を批判的に考察するのはとてもよいことですが、本筋でないところに引っかかって問い返しても、「意味」は薄い。それが本筋だとは思っていませんよね?

私は、勉強は苦手で嫌いだが、知識を得るのが楽しくて好きだから今の道に進んでいる。自分の中になんとなく感覚としてあった「知識の体系化」が、地理の例を通して、具体的に教育のプロセスとして見えて、体系化の感覚が理論に近づいた。またこれによって義務づけられた「学習」ではなく、知識を得て体系化するための「学び」の楽しさを再確認できた。(応化)

単なる知を教えるのではなく、そのプロセスや考え方が別の要素などと結びつくような指導が必要なのではないかと考えた。(情工)

考え方よりも試験のための勉強、入試に対策すべくより多くの知識を得る勉強を重視してしまいがちだが、アルミ工業のスライドで「なぜその立地などか」などの、知識をつなげるような考え方が大切だと思った。(機械)
・・・> いや、外してしまっていますね。「なぜその立地なのか」だと、従来型の暗記学習と変わりません。アルミ工業に将来勤務するつもりですか、という話になってしまいます。スライド16枚目のアンサーの部分がわからないとだめな問題です。確認しましょう。

Bildungからの学びで、他の科目も学んでおかなければその専門科目から少し外れたことを教えなければならないときに、つながりがないまま教えることになってしまうので、他の科目もなるべく勉強しようと思いました。(情工)
すべての知識は、何かには使えるものだと思うので、些細なことでも、教員になってからでも学んでいきたい。(応化)
たとえ将来使わないような知識も、必ずどこかで何かにつながっていると生徒が自ら思って勉強するような教員になりたいと思った。(認知)
・・・> 「何か」というのであれば、抽象的なものも含めて、たしかに「何か」にはつながっているよなあああ。でも「必ず」といってよいかどうか。陶冶につながっている、というのが私の用意した答えだったのだけど、気づいているでしょうかみなさん。

中学生のころ、歴史とか学んで何の役に立つんだ、と思っていたが、いまになって自分の暮らす国の歴史を知ることの必要をすごく感じているので、中学生たちに、いまのうちに学んどけといっておきたいと思った。(機械)
・・・> 自分の暮らす国の歴史を知ることは非常に大事で、知らなくてはまずいと思います。ただ、今回のテーマからはかなりズレています。受け止め方が違ってしまっています。

今回の授業を通して、一見役に立つかわからないと思ったものでも、何かの社会の出来事や身の回りの出来事に対して考える力を養っているとわかった。たとえば、ある国に関することが報道されたときに、「この国は地球のここにあったな」「この国にはこんな特徴があるな」と自然と思い浮かび、「私は○○がいいと思う」と考えることができる。また将来何か新しいことをおこなうときに「学校で学んだ○○の知識が使えそう」となる。だから、学ぶ意味がないことでもいつか役に立つことがあると思った。(機械)
・・・> 55点くらいでしょうかね。後半の「将来新しいことを」という話はいいと思うのですが、「この国は」の部分はほとんどわかっていない記述。「役に立つ」ということの意味を、これまでの学びの中で実感として捉えきれていないようなので、今後の課題としてください。

「役に立つ学び」は、知識を覚えて使うことではなく、人としての理解力を深めるためのものだと感じた。個別の知識を暗記するだけでなく、背景にある共通点やしくみの理解も大切だと思った。(都市、類例複数)
・・・> ルソーもペスタロッチもヘルバルトも、そのようなことをいっています。250年経っても、人間ってなかなか進歩しないものですねええ。


フーコーの振り子(パリ パンテオン)
レオン・フーコーは地球の自転を証明するための振り子の実験を、ここパンテオンのドームでおこなった
ドームは1851年当時のままだが、振り子はレプリカである
この建物の地下墓所には、ルソーやコンドルセ、キュリー夫人など国家的偉人が眠っている

 

高校の学習では、答えを求めるだけ、個別の知識を切り取るようなものではなく、間違えた情報に騙されないためにも一般的に対応できるよう学習するのが重要であると考えた。(高度)
・・・> えーと、かなりズレています。そこではありません。

人によって役に立つ学びが違うという意見があるからこそ、横断学習というもの(言葉)がでてきたのか、と考えた。しかしこのような言葉やものがあっても、説得されてしまう学習もある。よってAI、インターネットで学習が事足りてしまう。今回の授業で教員の仕事がどうAIに奪われてしまうのか知れた。(応化)
・・・> かなりズレています。そこではありません。横断学習の趣旨も取り違えています。「知れた」は、もうやめましょうね。

より「役に立つ学び」を実際に生徒に教えるには、さまざまな壁や難しいことがあると感じた。(応化)
・・・> これは完全にズレていますね。「教えるには」までの前提自体が適切ではありません。

学校は、正しいこと、化学を教える場所であるから、道徳の授業であっても、スピリチュアルなこと、生徒が誤解してしまうような教え方は避けなければならない。(応化)
・・・> 応用化学科としてはそう願いたいのかもしれませんが、学校は「学」を教える場です。

理科の、とくに化学の教員をめざすうえで、化学とエセ化学の違いを理解し、見抜けるようになり、最終的にはその違い自体を正しく生徒に教えられるように、日々努力していこうと思いました。(応化)
・・・> これは化学でもいいように思いますけど、エセのほうはむしろ科目・分野を横断して襲いかかってくるし、自分は化学の専門だから電磁波とかウイルスのことは知らん、と判断するようでは「理科」を学んだ意味が薄まってしまうので、やはり学・エセ学という言葉を使うほうがいいかもしれませんね。

最近になって、やっと自分の専門としたい分野が見つかり、それを学ぶことが楽しくなってきたが、いまだに自分の中では試験のために学習してしまっている節がある。教員になって生徒に教えるためにも、学習の仕方を改め、もっと理解を深めるような学習を進めていきたい。(電電)

数学などの教科用図書は、他の分野にしばしば関連づける。先生のおっしゃっている知のスパークを誘発させ、モチベーションを向上させるためのものであった。大学の専門書は、その分野のみで他分野に関連づけることが少ないため、大学生には知のスパークが起こりにくいのではないか。(機械)
・・・> 当科目では中等教育を主な対象として考察しますので、大学の話は扱わないというか視野の外なのですが、2S教育原理でみたように、これだけみんなが中等・高等教育に進むようになると、知的な前提(量的・質的な部分、そして動機のありよう)が実に多様というかばらばらなので、以前のように専門書を与えれば学んでくれるというものでもなくなっています。大学生向けに「やさしく学ぶ教職課程」なんていうシリーズをつくるというのは、本当は学者として胃が痛くなるようなことなんだよ(笑)。教養科目や専門外の学びを低く見て、ナメた態度をとる学生や、なぜか大学教授も少なくないですが、スパーク起こらないでしょうねたぶん。


『新しい数学』(東京書籍)のキャラクターの中で、古賀の推しは外ハネのゆうなさん
肝心の中学生がキャラにのっかって思考してくれるのかどうかは謎です

 

サブカルチュアだけでなくメインカルチュアにも触れて、汎用的な能力をつけていきたいと思った。(高度)
・・・> メインカルチュアはぜひやってください。ただ「能力」をつけるための手段なのかというと、そうではない。もう少し適した目的を見出せるようにしましょう。

サブカルチュアの拡大も、取り入れ方によっては、生徒の意識をこちらに向けさせる方法として有用ではないかと考えた。(高度)
・・・> それはめちゃくちゃ有用です。私がサブカルを嫌って排除しようとしているようには、聞こえていないですよね? まさに方法・技術としては、生徒の関心に寄り添っていくというのは大切なことです。しかし、いくつか注意しておいてほしい。(1)どこかに「自分(たち)は若くて、中高生に近い感覚や感性をもっている」と思い込んでいる部分はないだろうか。中高生はずっと中高生だが(メンツは変わる)教員の側はどんどん齢をとって生徒との年齢差が開いていきます。サブカルをブリッジにできる自信があれば大いに結構ですが、そうなるだろうか。(2)サブカルチュアもカルチュアだ、といって抵抗?する若者の多くは、メインにほとんど触れたことがないまま、そのように主張します。世に出回っているメジャーなサブカルチュア作品は、メインによって育まれ、醸成されているのだということがわからないままだと、単なるオタクの一人語りに陥って、他者との対話ができなくなります。(3)今回サブカルチュアの話題を出した文脈を思い出してください。生徒に何をどう教えるのかということよりも、教える側の教員の資質や教育観のほうを強調しています。前述のような浅い文化観のままだと人間がこなれず、それこそ生徒との年齢差が開いたときに、底の浅さを露呈してしまいます。いますぐ何をどうしなさいということでもないのですが、閉じた興味や「自分ってこんな人」というような狭い思い込みに囚われず、わからなくてもいいからいろいろなものに接し、人間を磨いてほしいということです。

陶冶の現代的困難として、読書しないおとなという話があった。私もめったにしか本を読まないので、本を読む習慣をつけたい。(応化)

自分の専門以外の教科につながるような教育をすることで、生徒の学びの質を高めたり、探究心を高めたりできるのだと思った。教師自身が専門にこだわらず、広く探究していくことの重要性をあらためて実感した。(応化)

教育における根源的な理念は、知識を覚えさせることではなく、それぞれの教科学習を通して汎教科的な物事の考え方を身につけさせ、知を俯瞰できるようにすることだと学んだ。私は理系でありながらかなり文系寄りの趣味をもっています。そんな私からすると、教養は学生みんなにもっていてほしいですが、時代の流れか、そうなってはいないことが少し悲しいです。(応化)

教師自身が「試験のための学習」という枠組から抜け出せていないため、個別の知識を切り取るような教え方になってしまう。生徒たちの問題としてではなく自分たちのこととして考えなければいけないと思った。(機械)

「なんのために学ぶのか」に対する回答をまだ出せていません。試験のためといってしまえば、その道をめざす生徒は学んでくれそうですが、学ぶ本質とずれが発生してしまう気がします(本質すら説明できない)。(認知)
・・・> それでも答えを見つけ出せないまま、「試験のため」に説得力で負けてしまうようなことがあったら大変ですね。職業的使命の危機です。それと1990年代以降に大学入学定員が拡大し、さらに推薦・AOなどの非学力選抜型入試の割合が増えたことで、入試そのものが易化して、試験のためといってもなお学ぼうとしない(そんなことしなくても入れる)という生徒が増えてしまいました。学力中位校の指導は常にその無気力との戦いです。

schoolの語源も「暇」から来ているわけだし、子どものときくらいモラトリアムを謳歌していればよい。文系だろうと理系だろうと一定のレベル(研究)まで至らなければ、物質的な意味で役立ちはしないわけだし、好奇心を満たすことができればよい。いまはその役割がスマホ(SNS)に変わったため、学力が低下するというのは自然。強いていえば効率的なドーパミンの放出ができるような毛級をした人間、SNSを用いて儲けている人間が悪い。麻薬やアルコールと同等なものが子どもに広まっている以上、教育は非常に厳しい状況にある。(認知)

PISAの読解力で日本が最下位だったことがあったが、その汎用的能力を身につけ、複雑化・高度化し常に変化する社会で生きる力を身につけたいのに、それを機器(その社会で生まれたもの)によって日本の生徒の能力が低下しているという皮肉について、もっと考えるべきだと思います。先生はどう考えていますか? (認知)
・・・>機器というのはICT関係でしょうかね。PISAそのものが経済協力開発機構(OECD)という先進国(だけ)がメンバーとなる経済・産業部門の国際機関の主催であることは、ある程度は考えておきたい。つまりPISA型学力にせよ汎用的能力(こちらはアメリカ的)にせよ、企業経営や商品開発といったビジネス・シーンで「使える」かどうかを直接には意味しています。陶冶とは別次元です。でも、それでも日本人の読解力、文脈を捉えて考察・理解するスキルは低下して、PISA型にすら届かないのだから困ったものではあります。AIが当たり前になって、いよいよ文脈無視が加速することでしょう。私が考えるのは、学校教育を受けるということを「試験で点数を取るための知識や解法を教わる」ことだと相当に矮小化して捉える人が多い、それがむしろ日本人の標準的な教育・学習観になってしまっていることが、そもそもの原因だということです。そこを変えていかないかぎり、生徒はちょろく学ぼうとするし、そこで育った人が教員になってちょろくて浅い教え方をする、という悪循環から脱出できないでしょうね。私が、ささやかな抵抗かもしれないけれど今回のテーマのようなところにこだわっている理由が、おわかりいただけるでしょうか。




開講にあたって

教育課程論は、教職課程のうちいわゆる教職専門性(担当教科にかかわらずすべての教員に共通する専門性)の形成にかかわる科目のひとつです。おおまかにいえば、2S教育原理が教育の目的・目標、この3S教育課程論が教育の内容5S教育の方法・技術とICTが教育の方法を学びの対象としますので、目的・目標を踏まえた教育内容educational contents)を考える、ということになります。ただ、教育の内容といってもピンとこないことが多いかもしれません。学校種によっても、教科によってもさまざまですし、広がりがかなりあります。また、生徒目線で考えると、教育の内容というのは初めから決まっていて(決められていて)、個々の教師はそれを順に教えていくだけだ、というふうに捉えている人もあることでしょう。たしかに生徒としては、先生が繰り出してくる内容を順に学び、消化していくのが常で、そこにどんな論理や特色があるのかなど、考える余地はほとんどありません。しかし、教育内容というのは自明でも不動でもなく、常にリフレッシュされるものです。グローバル化の進展とともに英語の学習が強化され、ICT/AI時代の本格化とともにプログラミング学習がカリキュラムの中心に入ってくるということからもわかるように、社会のあり方が変わることに伴い、教育課題・教育目標も変化ないし拡張して、それに伴って教育内容も再編成されます。時代とともに不要になる部分ももちろんあり、「私が中学生のころは普通に学んでいたのに、いつの間にか教科書から消えている」といった項目も、思いのほかたくさんあります。社会科とくに公民の内容が、社会状況に応じて変化するのはわかりやすいですが、みなさんの専門である理系教科もまた、科学や技術、そしてそれをとりまく社会状況の変化などに伴って、内容をリフレッシュしていきます。

学校の教育内容を時系列に沿って配置したものを教育課程course of study)といいます。したがって、教育課程論という名の当科目では、教育の内容だけでなく、それをどのような順に配置するか、どのラインに配置するかといった点も重要になります。とくに高等学校段階では、教科のサブカテゴリとして科目があり、教科そのものはめったに変わらないものの科目のタイトルや切り分け方、必修パターンなどは約10年おきに変動します。自身が中高生だったころの経験に依拠して考えるのがナンセンスであるのはいうまでもありませんが、プロの教師になってキャリアを重ねるあいだに何度も科目構成などが変わりますので、そもそも何のためにそういう配置になっているのかという点を適切に理解しなければ、その時々の生徒に対して指導することはできなくなります。1年生のとき以上に、プロ寄りの視点が重視されることになります。

当科目は3部構成をとります。第1部は、教育課程とは何か、いかなる論理や原理に沿って編成されるのかということを考察します。かなり重要で、基礎的な内容ですが、ゼネラルであるぶん抽象的で、ふだんそのような頭の使い方をしていない人にとっては難解で混乱するかもしれません。しかしこれを突破して自身の頭で思考できるようにならなければ教育者の道は相当に厳しいと考えてください。第2部は、教育課程の基準として国(文部科学省)が示している学習指導要領の内容とその変遷、そして現行の(最新の)学習指導要領の要点を学びます。現行の学習指導要領は、中学校が2021年度、高等学校が2022年度から実施されているもので、すでにみなさんが中高生時代に学んだ内容、構成から変わっています。自分が学んだ内容が過去のものである、と考えると、学習指導要領の歴史(歴代の要点)を整理しつつ、最新のものの新しさや従来のものから受け継がれている部分などを検討することの意味や重要性がわかるのではないでしょうか。また202412月に文部科学大臣から中央教育審議会への諮問がおこなわれ、次期の学習指導要領の輪郭が少し見えてきたタイミングです。いままさに中教審において審議中であり、年度内(20273月ころ?)には、学習指導要領の骨格となる答申がおこなわれるものと予想されます。第3部は、現在の教育課程を構成する教科以外の領域を一つずつ取り上げて、教育課程上の位置づけやその特色、課題などを考察するブロックです。道徳教育、キャリア教育、総合的な学習(探究)の時間、特別活動、特別支援教育を取り上げます。これらに関しては、それぞれ個別の教職科目があり、4S以降で順次学んでいきますので、そのあらましを紹介するインデックスの意味を含みます。教育課程の全体像を捉えるために、あえて個別の内容を考えるという試みです。当科目では、教育用語が頻出します。「学校の先生」であれば誰でも普通に知っているが、生徒を含む一般人は知らない単語が毎回のように出てきます。意味は調べればすぐにわかりますが、位置づけや「意義」は一筋縄ではいきません。2年生になって、いよいよ教職課程の学びも本格化していきます。心と頭のギアを切り替えて臨むようにしてください。


<当科目で使用するテキスト>
A
古賀毅編著『教育原理』、学文社、2020年 
B
古賀毅・高橋優編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022
A
は教育原理で使用したものです。主に第5章〜第7章の内容を学びます。第二版(2026)が刊行されました。そちらを使用してもかまいません。
B
5S教育の方法・技術とICT でも使用します。当科目では主に第3章の内容を学びます。

学習指導要領および学習指導要領解説は随時紹介します。下のサイトから各資料にアクセスできます。書籍版もありますので希望者は購入してください。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm

 

<評価>

提出物(レポート)の内容により評定します。
課題作成における生成AIの使用に際しては、適切なルールを定めます。
出欠はとりませんし、評定には組み込みません。ただし欠席がちの学生が当科目で単位を修得するのは相当に困難であると心得てください。

 

 


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