古賀毅の講義サポート2024-2025

Méthodes et TIC pour l’enseignement

教育の方法・技術とICT


千葉工業大学工学部・創造工学部・情報科学部・社会システム科学部 教職課程
前期 火曜910限(17:00-19:00) 津田沼キャンパス 6号館 612教室


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2024(令和6)年度 教職科目における指導・評定方針

 

202345月の授業予定
4
9 開講にあたって/教育の方法・技術とICTを学ぶ
4
16 主体的・対話的で深い学びと授業観の転換
4
23 目的・目標に沿った教育方法の選択
5
7 発問・板書・教材作成
5
14 授業の構想と学習指導案の作成(1)
5
21 授業の構想と学習指導案の作成(2) 
528 ICTの導入/オンライン授業の経験から学ぶ

 

 


次回は・・・
3-
目的・目標に沿った教育方法の選択

ヘルバルト(1776-1841)が教育学の祖である、という話は教育原理で取り上げ、当科目の第1回でも復習しました。いまは相当な広がりをもつ学問ですが、もともとは初等教育の広がりと公教育の確立に伴い、「児童に教える」教師が大量に必要になったことから、そこに貢献する学問でした。端的にいえば「教え方」であり、「教育方法」といってよいでしょう。明治期の日本にもすぐに導入されたのですが、その後、日本で独自の進化を見せることになります。授業研究Lesson Study)という分野がそれで、「授業」のあり方を多面的に考察して、より豊かな実践につなげようという研究にほかなりません。最近では途上国において日本式の授業研究が注目され、各地で成果を出すようになっています。ただ発祥の地である日本では、初等教育では非常に盛んなのですが、中等教育になるとなぜか盛り上がらないのが残念です(「なぜか」と申しましたが、なぜなのかはおわかりですね)。また、学校や地域を越えて知られる「名授業」もあります。テキスト2.7にはその一端を記していますので、ぜひ原典に当たってみてください。2.5で取り上げている教育工学は、「名授業」のようなものを分析して一般的なロジックにひらくという点では出発点を共有していますけれども、分析手法が工学(ここではtechnology)ですので、工業大学のみなさんにとっては接近しやすい領域かもしれません。一方で、工業製品やソフトをつくり出すのと、授業を構成し、人間を教育するのとでは本質的に異なるということもできます。文系・理系を超えた考察と実践化が望まれるといえそうです。

さて、そのように、教育方法については多彩で多様なものが蓄積されています。効果的な授業というと、教師の語り方や教材の質などに注目しがちですが、教室の設計とか時間割の構成といった外部的な部分の検討も実は重要です。私たちは、限られた資源の中で、しかしより最適な効果をめざして適宜組み合わせるという考え方をしなくてはなりません。現場に出るにはまだ少しだけ時間があるので、みなさんは(1)手持ちの(具体的で実践可能な)教育方法の種類を増やすこと、(2)生徒のレディネス(テキスト4.2)や発達段階を把握するための知識・スキルをみがくこと、(3)XXだからできない、YYなんだから仕方ない、といった発想をしばらく停めて、できるかもしれない、という可能性に寄せて考えること、を強く勧めます。教育工学はもともと情報科学の発達と足並みをそろえて出発したところがありますので、当初から視聴覚などのメディア活用に熱心でした。近年のICT活用の重視は、それがいよいよすべての学校種・教科に共有されるべき時期に来たことを意味します。千葉工大は、情報系の学部学科だけでなく、全般にハイレベルのICT環境で学んでいますので、世の中のどこよりもそうした知識やヒントがストックされた場です。みなさんは、私などよりもずっとそうした方法や技術にアクセスする機会やセンスをもっていることでしょうから、いまのうちに大いにその点をみがいてください。既存の教育とか現場の流れに固執したところで、あまりいいことはありませんね(生徒はすでにメディア環境に生きているので)。

2020年代の学校教育では、個別最適の学びということが公式に唱えられています。もちろんそれができれば理想ですが、最近までそれをはっきり打ち出せなかったのは、学校教育=集合教育(collective education)であり、「個別」との相性が非常に悪かったからです。考えてみると、学校教育にはもともと乗り越えがたい条件があります。学びのペースやスピード、そして内面化のプロセスや順序は生徒一人ひとりで異なるのに、カリキュラムは固定的であり、1年間に学ばなければならない内容や分量もあらかじめ決まっているということです(しかも現行の学習指導要領では「○○できる」という目標が示されるようになっていて、「できる」ようにならなくてはならない)。小→中→高と進むにつれて学習内容が高度化していくわけなので、余計に全体と「個別」の整合はとりにくくなります。ICT活用を含む教育方法の多元化でそれをどこまで改善できるか、新しい世代の「理系の先生」に期待されるところは非常に大きいといえます。

 

REVIEW 4/16

主体的・対話的で深い学びの「深い学び」について、「深い」でなく「浅い」で考えてみるとわかりやすかった。これまでの自分の学びが、前回の授業も含めて、「浅い学び」しかできていないと感じた。

深い学びには、自分がその分野について何を学びたいのかをまず考えられるようにする必要があると考えた。自分の教科でも、なぜその解に至ったのかを考えさせられるように指導を考えようと思った。

アクティブ・ラーニングを体験してみて、浅い学びと深い学びの本質的な違いを実感したように思った。ただ覚えるだけでなく物事を自ら考え、深い学びへとつなげる重要さを理解できた。

はじめから生徒に主体的・対話的な学びを押しつけるのではなく、授業を通して、自分から探究することの楽しさを与えていくことが大切だと考えた。
・・・> もちろんそのとおりです。主体的・対話的で深い学びというのは、こちら側の問題意識であり、生徒に対して「主体的・対話的な学びをします」と告げるものではありません。普通に授業に参加していて、それでいてこちらがねらった効果が出る、というのがベスト。

知識を教える、教科書ぞなぞるだけの授業ではなく、もっと本質的なことを教えることで、自然や社会の理解につながり、自分が何を学びたいのかを知ることができてよいと思いました。

学習指導要領や法令に規定されている範疇で、どのように目的やねらいをしぼり、捉え、学びに落とし込むのかを考える機会をいただいたと思います。高校の場合(とくに2階部分)では大学との連携、また1階部分では中学校からのつながりがあり、それらを両立するので、授業を計画し構成するうえでも重要であると思いました。

教科を学ぶのに、いろいろな文献とそれを見る視点が大事になる。アクティブ・ラーニングはそれを自分で勉強した生徒が話し合うから、参考にする視点も文献もいろいろなものがあり、効果が出るものなのかと考えた。
・・・> 次回取り上げる反転学習(反転授業)は、その論点をよりクリアにしてくれます。学びの本体は「授業を聴く」ことではなく各自の学びであり、授業はそれを持ち寄って、自分にはない視点や考察をクラスメイトと共有することである、という趣旨ですね。そのことの前向きの意味と、ぬぐいがたい弱点を考えておいてください。


たすき掛け カード式はよいと思うので、もう1種類くらいの教具の工夫がほしい

 

教師としてアクティブ・ラーニングを実施する際、テーマ選びはそれに伴う準備は念入りにしようと思った。

グループワークをさせるにあたって、何を教えたいかによって、それに関する予備知識が必要になることを強く実感した。

アクティブ・ラーニングを生徒の深い学びにつなげるには、まず目的をしっかりと設定することが重要だとわかった。

明確な正解のない問いに対して自分なりの答えを探すというのはおもしろかった。
高校で日本史を学んでいなかったので苦手意識がありましたが、やっていくうちにさまざまな可能性から考えることは楽しいと感じました。知らず知らずのうちに教育目標の部分に触れていたというのは驚きました。

答えが定まっていないテーマで議論すると、盛り上がって生徒みんなが主体的・対話的になってくれることがわかった。
・・・> 今回の例で「答えが定まっていない」というのを文字どおりに解釈し、本気で信じてしまうと、自分が設定するときに間違えてしまうリスクがあります。その部分をもっと深めること。

武家政権のワークで、本質を理解して探究するという感覚が、テキストを読んだだけではわかりにくかった部分も少し理解できたと思う。自分で考えるというプロセスを授業内に取り入れることで、思考力や主体性を育てることが必要なのだと思った。

今回おこなった授業では、いままでやったグループワークとは異なり、他グループの意見に対して疑問を多くもつことができる気がしました。そこから理解していくと、教科書だけでは得ることのできない知識がつき、その時代のことを深く知ることができると思いました。数学でもどのように活用できるのか考えていきます。

アクティブ・ラーニングをおこなう際に目標・目的の有無が大切だという理由が、身をもってわかりました。最初のお題だけでは話し合いもよく進まなかったのですが、後半は武家政権そのものに対する理解が深まったと思います。これを自分の教科でどのようにしたら成立させられるのか考えてみます。

武家政権のはじまりはいつか、という問いを考えるには、武家政権とは何かというところを考えなければならず、いくつかの選択肢は表面的なもので、その中身を自ら調べることが問いの答えになる、ということを学んだ。
・・・> 今回、スライドの左側に「武家政権とは」という4条件を私のほうで先に示しました。これを先に「教える」ことがなければ、いくら文系の高校生でも思考は進まないと思います。アクティブ・ラーニングは「学ばせる」一辺倒ではなく、従来は「講義」に取り込まれていた「教える」の要素もむしろ重要になるということでしょう。レベルの高い生徒や探究心のある生徒であれば、「はじまりはいつか」をいったん考察したあとで、私が示した4条件そのものに疑義をもつことがありえます。教師の側(今回は古賀)が深い学識をもっていれば、その問いに対して適切に答えてあげるか、むしろさらなる混乱にもっていくか、どちらでもいいと思いますが、そうした「深い」対応が可能です。中高の教科書レベル(表面をなぞるレベル)で教壇に立っている人は、そうした展開になるともうお手上げです。教科専門性の深みというのを思い知りましょう!

1つのテーマを与え、それに向かって自分から学びにいかせ、疑問点などが出たら解決してあげるのが大切だなと思った。
・・・> いきなり解決してあげるのではなく、ヒントやアシストを提供して、まずは自分たちで解決できるかどうか試させる。何段階か想定しておくほうがよいでしょうね。いまこの瞬間に取り組んでいる単元や教科は一時的なものですが、生きていくあいだに出会う種々の「問題」には、教科などの枠づけはありませんので、そこで援用できる思考というのを時間をかけて形成する、というのが理想(形式陶冶のことをいっています)。

武家政権のはじまりはどのターニング・ポイントなのかということをいわれ、それぞれで思考してみたが、明確に定めることができなかった。これがアクティブ・ラーニングかと思った。

武家政権のはじまりは?という話のオチが、途中でなんとなく読めてしまった。しかしプリントの文言をそのまま受け取り、プロジェクタで示された条件がなければ、1185年がいちばん納得するように感じる。

歴史学者によって、いつ武家政権がはじまったのかについての見解が異なるとおっしゃっていましたが、教科書に「武家政権としての鎌倉幕府が確立した」と1185年のところに書いてあるのは、教科書を執筆した人がそう考えたということなのでしょうか?
・・・> これはきわめて重要な問いなので、できれば授業内で指摘してほしかったですね。みんなで共有できれば、より深い学びになったことでしょう。教科書のコピーを津田沼に置いてきてしまい手許にないのですが、別の方も同じ質問をされたのでこの部分は記憶だよりで申します。まず、引用してくださった部分の前に「こうして」というあやしい語句が入っているのに気づきましたか? これを入れることで、その前にある1185年の出来事(朝廷が頼朝に守護・地頭の設置を認めた)に関する記述とのあいだに、ワンクッションを設けてあります。1185年=鎌倉幕府成立 なのだと断定してはいないが、まあそうじゃないかなという感じで、イコールだと受け取ってもらってもまあかまわないですよ、でも歴史の専門家として断定まではしませんよ、という絶妙の間(ま)を設けてあるのです。武家政権に関しては明治時代からつづく論争がありますので、教科書を執筆するレベルの一流の歴史学者としては、やはり言い切るのにはためらいがあるわけですね。ただ、「正解は何なんですか!」という読み手が多いのも確かです。とくに「入試ではどう考えればいいんですか!」というニーズが(残念ですが)大きい。この部分の記述は、そうした事情も反映しているのだと考えられます。
また、引用部分は「武家政権としての鎌倉幕府」とあります。武家政権=鎌倉幕府ではなく、武家政権⊃鎌倉幕府ですね。鎌倉幕府は、歴史上いくつかある武家政権の一つです。その少し前に、平清盛による政権(116081年ころ)があり、これを武家政権とみなすかどうか、論争があります。また、鎌倉幕府が元祖だとしても、江戸幕府まで700年くらいつづく武家政権を全体として見る場合には、個々の幕府を考えるときよりも大きな要素、より広い捉え方をすることになり、鎌倉幕府を考えるときとは視点がズレることになります。その意味で厳密に論理学的な意味で武家政権⊃鎌倉幕府ではないのかもしれません。江戸時代を知っているアタマで鎌倉幕府を見ると、あまりに不完全で未熟ですから、「そのレベルで武家政権とかいってんじゃねーよ」という感じにもなります。
もう一つ、鎌倉幕府というネーミングは、実は明治時代のものです。当事者たちは「鎌倉幕府」をつくったぞ、とは思っていないのです(当時は当人たちも京都の朝廷側も、鎌倉幕府を「関東」と呼んでいました)。もとより「武家政権」という語も後世のものなのだけれど、でも当時の人たちは、自分たち「武家」が自立した政権をつくったぞ、という意識は強くもっていました。1221年の承久の乱の直前のことですが、朝廷のトップである後鳥羽上皇が関東政権のトップである北条義時を追討する(天皇の敵としてやっつける)という指令を出したことに対し、頼朝の妻である北条政子が「武士は長く下っ端あつかいで土地の権利も保障されなかったが、亡き頼朝さまががんばって武家の政権をおつくりになったおかげで、お前たち武士はようやくまともに暮らせるようになったのだ。そのご恩を思えば、鎌倉を見捨てて後鳥羽上皇の命に従うなんてありえないと、私は思う」と、堂々たる演説をおこなったことが知られます(本当は政子のメッセージを御家人の安達景盛が伝えたらしい)。武士たちは涙を流して、この武家政権をお守りします、天皇の敵になるのがなんだというのだ!と誓い合い、そして朝廷軍を力で圧倒することになりました。ですから、「鎌倉幕府の成立」は形式的な要素が強いのだけれども、「武家政権の成立」は社会の実態、意識の実態を含めた全体の問題だと考えられるのですね。


関門海峡 手前が九州(福岡県北九州市)、対岸が本州(山口県下関市)
1185
年、源義経を司令官とする鎌倉軍がこの海峡で平氏軍との最後の決戦(壇ノ浦の戦い)にのぞみ勝利
鎌倉は国内の武力を一本化することに成功した 守護・地頭の設置認可はその数ヵ月後のことである

 

学習を進めるうえで、ただ目の前の知識や問題だけを見るのではなく、どこにつながるのか、別の考え方や書かれていないところで関係するところがないか、など、三次元的、四次元的に考えられるようにすることが大切だと考えた。

今回のように自分で考えるディスカッションの授業をおこなったとして、「正解」をある程度見せてやらないと発言しない生徒がいるかもしれない。その場合、どの程度まで答えを見せるべき? あるいは、最初は1+1=○は、のようにわかりやすい問いにして、しだいに△+=○のように全然わからないレベルまで隠すようにするべき?
今回のように思考する学びを、理系科目でどのように展開すればよいのか。結局、「答え」を探すように思考してしまう気がする。その力は文系科目でそもそも養うものなのか。
・・・> 安直に「答え」を探すようであれば導入の設定が適切ではないということでしょう。安直に「答え」を探させて、でもその先で思考の迷路に誘い込むという方法も有効です。文系も理系も、学ぶ対象やプロセスは違いますが、それぞれのやり方で思考を鍛えなければ、共通する目標である思考力・判断力につながりませんね。

歴史の模擬授業に参加して、問いの答えを考えていたが、他のグループの意見や自グループ内の意見にさえ、納得して、「ありそうだ」と考えてしまった。まだ受身で聞いてしまっていると実感した。心の中でも反論ができるように努め、本質的な部分がどこにあるのか設定しなければいけない。

日本史と比べると、数学や情報のほうがアクティブ・ラーニングに落とし込みにくいような気配を感じた。表面をなぞるのも難しい生徒がいないともいえず、たくさん考えつづけていく必要を感じた。
・・・> そんなことないと思いますよ。情報は新しい教科ですが、数学(算数)こそ、いまでいう「深い学び」の蓄積が最も分厚い教科です。本人が数学好きで「できる」数学の先生が、その必要性をあまり感じないと、蓄積にも目を向けないのかもしれません。もちろんすべてをアクティブにするべきではなく、カリキュラム・マネジメントを作動させて、「知識(数学の場合は「技能」の要素が強い)を教える」ことがより有効にはたらくようにもっていく、そんなプランニングが求められています。アクティブばかりではないですが、知り合いの先生(数学科教育法)がおもしろいサイトを運営されていますので、ぜひ見てみてください。

どこにフォーカスさせるかで命題を解いていく必要があると思った。フォーカス、ピックアップすることでより深掘りして、「好き」「学びたい」を引き出すことができそうだが、すべての教員がその技術を十分にもっているのか疑問に思う。それこそ講習が必要なのではないかと感じる。

 

 


開講にあたって

教育方法・技術論は、教科および教科以外の領域における教育の方法や技術を、教育課題や生徒の発達段階といった視点から考察するもので、いわゆる教職専門性の形成に資する科目です。各教科の教育法(数学科教育法など)との違いは、教科の違いを越えて共通する教育方法・技術上の問題を深めることと、近年の教育動向に即した実践的な項目を扱う点にあります。もとより直接的には教科の指導法にフィードバックされ、当面は近くおこなわれる教育実習においてそれを発揮し検証するということを意識して学んでいただくことになります。2S教育原理、3S教育課程論でもたびたび指摘したように、中等教育の置かれている状況や構造の変化に伴って、かつては「専門の先生が専門的な内容を一方的に伝達すればよい」と考えられていた中等教育でも、初等教育と同じように、しかし初等教育とは異なる仕方で、教育の方法・技術の熟達を図らなければならなくなっています。いわゆる教員養成系の大学などと異なり、千葉工業大学ではそうした方法・技術の習得にかけられる時間がかなり限られていますので、当科目を中心に、意思と意識をもって学んでください。

法令の改正に伴って、科目の名称が従来の教育方法・技術論から、2024年度より教育の方法・技術とICTに変わりました。「とICT」の部分が付加されたわけですが、千葉工大の教育方法・技術論では従来から「とICT」の内容を相当に盛り込んでおり、また教育学・心理学・情報科学の専門家が協働して担当してきましたので、法令のほうが私たちに合わせてきた感じです。ただ、この時期にICTが必修化されたのは、GIGAスクール構想、急速に進む学習環境のICT化、そしてコロナ禍でのオンライン教育の経験などが背景にあります。いままでも日本の学校ではICTを扱ってきたが、それはメイン・ストリームとはいいがたく、周縁とか端っこのようなところで、メインとは別建てで学ばれていました。日本経済の低迷や国際競争力の低下に焦る経済界の後押しもあって、いまこそICTを学校教育のど真ん中に組み込み、生徒に内面化させなければならないという決意が表れています。そのため、高等学校情報科などの特定の教科・科目でだけ扱うというのではなく、すべての学校種、すべての教科でICTの活用を図るべきものとされます。もちろん「教育の方法・技術」と「ICT」が別々にあるのではありません。ICT化が進もうと、それが何に資するのか、どこにかかわるのかを適切に知るためには、公教育の形成以来の教育方法の展開を十分に知っておかなければならないはずです。前述した経済界の焦りとか不満は、「日本の若者はICT漬けになっていて、スマホなどの操作は常時やっているのに、それを(遊びではなく)生産活動や研究に使うことができない」という点に向けられます。その趣旨を踏まえるなら、ICTの操作ができればよし、というわけでは絶対にないことがわかりますね。

「技術」に関しては、教育活動の中心となる「授業」の技術に力点を置きます。板書、発問、印刷教材の作成、視聴覚教材の活用といった、すべての教科・領域に共通する部分をあらためて検討します。また教育活動の計画書というべき学習指導案の作成も重要な学習項目です。7Sの教育実習事前事後指導では、各教科の模擬授業をおこなって教育実習実施の最終判断をしますが、7Sの段階になってもなおそうした授業技術の基礎すら心得ず、過去に生徒として見た風景を切り取っただけのような学生がちらほら見受けられます。それではとても間に合いませんので、今学期のあいだに、それなりの見通しをつけられるようにしておきましょう。

当科目は、古賀(第1回〜第7回)と、市川洋子先生(教育センター 第8回・第9回)、山崎治先生(情報ネットワーク学科 第10回〜第13回)の3名のオムニバスです。それぞれの担当パートの方針に沿って評価活動がおこなわれ、比例計算にて評点を算出し、最終の評価とします。

 

<使用するテキスト>

古賀毅・高橋優編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022
CIT
サービス購買扱いですが、学文社サイト、各種通販サイトでも購入できます。

 

 

 

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