古賀毅の講義サポート 2026-2027
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Principe de l’éducation 教育原理 千葉工業大学工学部・創造工学部・情報変革科学部・未来変革科学部・情報科学部・社会システム科学部 教職課程 |
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2026(令和8)年度 教職科目における指導・評定方針
2026年10〜11月の授業予定
10月31日 中等教育の諸課題(1)
11月7日 中等教育の諸課題(2)
11月14日 中等教育の諸課題(3) *オンライン
11月28日 近代の教育思想
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■次回は・・・ 私たちの主たる関心は、公教育全体の中でも中等教育(secondary education)ですので、これまで見てきた歴史編の中にその特徴を見出しながら、社会情勢や教育課題の変化、今日的な問題を考えようというのが、前回からつづく「中等教育の諸課題」の回です。ところで学校教育というのは、教える(teach)側と学ぶ(learn)側とがあって、双方のあり方を考えなければ全体像が見えてきません。教育の歴史をたどると、どうしても教える側(「教えさせようとする側」かもしれない)の理屈が先走って、それだけで学校教育が成り立っているように思いがちでもあります。今回は、学ぶ側、つまり児童・生徒の側に注目して、そこから中等教育の問題を考えていくことにします。この場合も、中等教育のあり方を明らかにしようと思うならば、前後にある初等教育・高等教育との対比が不可欠です。第1回の授業で、中等教育は初等・高等のどちらに近いものか?という問いを投げかけました。制度やカリキュラムではなく、学び手であるスチューデントのありようから見たとき、どうでしょうか。中等教育の生徒は、初等教育の児童と高等教育の学生、どちらに近い存在でしょうか。なぜそのように判断しますか? こうした思考をめぐらそうとするとき、人間の発達(development)への注目が不可欠になります。以前にも簡単にお話ししたように、人が生まれてから亡くなるまでの心身の変化の総体を指す、とひとまず考えておいてください。日常的な語法のイメージとは違って、体力や思考力が衰えても(折れ線グラフが右下がりになっても)発達しているというふうに捉えます。そして、発達の過程や細部を明らかにするために、まとまった特徴ごとに人生をいくつかの段階に区切って考えるのが一般的です。この区切りを発達段階(developmental stage)といいます。いまは中高年以降のことを考える必要はないので、幼児期→児童期→青年期→成人期というところを取り出して、そのプロセスや各段階の特徴を考えることにしましょう。中等教育の対象となるのはこのうちの青年期(adolescence)です。誤解のないようにいうと、小学生/中学生といった区切りは「制度」の問題なので、きのうまで小学生だった子どもが本日から中学生(なんなら同世代の人たちみんなが一斉に)というふうになるのですが、児童期/青年期の区切りは「きょう、この日」ということはありません。「青年期の特徴」がいろいろあるのですが、それらがいっぺんに出現するわけではなく、じわじわ、じりじり、ですし、人によっても現れ方が異なります。全体を俯瞰してみた場合の公約数的な捉え方だと考えてください。ですから「俺は青年期にそんなこと(授業で指摘されているようなこと)はなかったぞ。決めつけるんじゃねえ!」などと考えるのは不適切です。そうでない人、当てはまらない人もたくさんいます。発達の問題は、現にその中にいる大学生自身がそれを学ぼうとするとき、そのような反発や不満と背中合わせになりがちです。しかし、教育者をめざそうというときに、私たちが「教える」対象となる児童・生徒(・学生)の発達への理解は絶対に不可欠のものになります。教職課程ではこのあと教育心理学、生徒指導・進路指導論、教育相談といった主に心理学系の科目において、発達の問題に向き合うことになりますが、教育原理では手はじめに青年期の全体像を見てみることにしましょう。 児童期(おおむね10〜11歳ころまで)の子どもは、ある意味でわかりやすい。「子ども」ですからね。サイズ、顔立ち、声の質、しゃべり方、行動パターンなど、見るからに子どもです。成人期のおとなが、おとなとしてのわかりやすさをもっているのと同じです。児童期の子どもと、成人期のおとなを対比するとき、その間にある青年期は、どのように特徴づけられるでしょうか。端的にいうなら、子どもなのか、おとななのか。もとよりその移行期・過渡期であるわけです。考えてみたらすごいことです。あの子どもが、あんなおとなに変わるのです。ヒトという動物として自動的に(自然に)変わるという面もあるでしょうが、どうやら人間の場合は、外からの刺激や支援によるところも大きいようです。だとしたら青年期の発達支援において中等教育の果たすべき役割はかなり大きいといえそうです。また、そういうと「??」となるに違いないのですが、青年期という概念は、歴史的に見ればわりと最近になってできたものです。ルネサンス期の西欧や江戸時代の日本には、青年期はありませんでした。そんなことって、あるの? と思うことでしょう。もし青年期が近代に固有のものであるという説が本当ならば、青年期は自然科学ではなく社会科学、要するに文系の問題であるということになってしまいます。実際には、どうなのでしょうか? REVIEW (10/31) ●今回の授業を通して、中等教育の歴史的背景や現代的な諸課題について深く考えさせられた。とくに制度の単線化によってバリエーションが失われ、中1ギャップや学習不振が常態化しているという分析に強く関心をもった。自分が当たり前として受けてきた学校教育を、なぜそのしくみになっているのか、歴史的・構造的な視点から問いなおすことの大切さを感じた。(電電) ●今回の授業を通して、現代の中等教育が抱える課題についての理解が深まった。とくに印象的だったのは、単線化された制度によって初等教育との接続に断絶が生じ、中1ギャップなどの不具合が惹き起こされている点である。また自分自身が受けてきた教育の枠組を無批判に前提とし、制度を維持しようとする思考に陥りがちであるという指摘に納得させられた。現代社会では生徒の進路が多様化しているため、対応するには過去の成功体験や現状の制度を当たり前とせず、客観的に考えることが大切だと感じた。(宇宙) ●自身が受けてきた教育を肯定したい気持ちは理解できるし、否定されたら悔しい気持ちになる。しかし、それがすべてではないということを心に留めておきたいと思います。(認知) ●中等教育の特徴として、初等教育との不連続性が挙げられ、初等教育と中等教育に大きな段差がある。この段差を上りやすくするために、中学校の先生が小学校に行って高学年児童の授業風景を見ると、最近まで小学生であった中学1年生にどのように教えれば伝わりやすいのかを考えることができるのだと思った。(応化) ●校種間交流の存在を初めて知り、そうなってくると生徒の扱い方がまたそれぞれ変わっていって、折れてしまう人もいるのではないかと感じた。(認知) ●教育原理で学んだ公教育の成り立ちや特徴を、あらためて歴史的背景から学ぶことで、問題を提示し、解決への手がかりを見つけることができる。無条件に当然だと思わず、仮説でも問題を見つけられるように知識を広げたいと思った。(高度) ●小・中接続不良という、単線型と下構型の性質に統一されたことの弊害が生まれたことを理解できた。また初等教育で生まれた学力の差が、さらに中学校で広がる。それを高校受験で学力に合わせた高校に入ることで抑えているということをいわれていたが、私は中学受験もその役割を担っているのではないかと考えた。箱根駅伝の喩えがわかりやすかった。(宇宙) ●中等教育には、大学進学のための準備だけでなく、さまざまな課題があることを知りました。とくに生徒一人ひとりに合った教育をおこなうことが大切だと思いました。そして、社会の変化に合わせて学校教育の内容やしくみも変えていく必要があると思いました。(認知) ●これまで私が受けてきた教育が当たり前ですべて、のような考えを少しはもっていて、変化に合わせて変わっていけばよいと思っていたが、他国を見ると現在でも異なったことをおこない、異なった考え方をもっていて、今からでも変わらなければならないのではないかなと考えた。学びについていけない生徒がどんどん増えていっている現状にとても驚いたが、内容が専門に少しずつ寄ってきて無理に頭に入れにくいこともあり、少し納得した。(認知) ●単線型の教育のほうがよいと考えていたが、複線型が有していた教育の幅やバリエーションの多さも必要ではないかと思った。あらためて単線型と複線型のよさと悪さについて考えることができた。(材料) ●中等教育の歴史的過程から見た特徴と、初等教育と中等教育の不連続性について理解した。また福嶋先生の授業と少しだけ似た点があるので、ともに復習しながら関連づけることで理解が深まり、身のためになると感じた。(応化)
●単線型と複線型のどちらがいいのかという議論では、ただ自分が経験したほうのよさを語っているだけだと思う。どちらがよいか主張して、異なる意見の人を説得するには、誰もが納得するような客観的な根拠を述べるべきだ。(高度) ●つらら型とたけのこ型を戦後に単線化しようとして混ぜた結果、個性が失われ、ゼネラルなタイプのつらら型になったことがわかった。また初等教育から中等教育に上がるときに大きな段差ができてしまったのは、こうした成り立ちの都合のせいだということがわかった。(材料) ●初等・中等教育のあいだにある段差をなくそうと、数学におけるx, y(文字)が小学校の算数に取り入れられています。この段差は、ただ科目の違いによるものだと思っていたが、歴史の都合でできた段差だといわれて驚きました。小学生のうちから取り入れるべき学問の内容は、どのようなものがあるとお考えですか? (認知) ●初等・中等教育の接続の際に生じるギャップについて考えると、人によってもギャップの感じ方や大きさが異なるため、一人ひとりのギャップをなくすだけでなく全体のしくみの改善を図るほうが大切だと思いました。変化する社会に対応するために、考え方や知識を取り入れて、思考力を高めることが大切なので、常に意識したいと思います。(材料) ●私は中学受験をしたので、中学1年生時点での周囲の差はたしかに少なかったと思いました。単に卒業したかどうかではなく、習熟度のような視点も取り入れることで、中等教育を充実させることにつながるのではないかと思いました。(応化) ●私立学校の設立の理念には大きな意味があると先生は授業でおっしゃっていましたが、国公立、県立学校との設立の理念の違いは何であるのかが気になる。(高度) ●教育する側とされる側の双方に強い動機がなければ教育というのは成り立っていかないんだなと思いました。今後の大学生活、なんのために授業を受けるのかを、いま一度考えていこうと思います。(機械)
●中等教育は時代や社会の変化に合わせて発展してきたことがわかった。とくに国によって教育制度や進学のしくみが異なることが印象に残った。(応化、類例複数) ●フランスの学年の呼称で、中等教育ではカウントダウンのように学年が上がっていくことに、つらら型の背景があることを知り、興味深かったです。(認知) ●フランスの学年の呼び方で、小学校が中級までで上級がないのは、つららとたけのこが合わさったからだと聞いて、日本もそうだったなと思い、理解できた。飛び級などを日本も取り入れれば、よりいっそう勉学に励む生徒が増えて社会的にもよくなるかなと思いました。ただ飛び級している人に、勉学以外の人間関係などを教えるのが大変なのかと思いました。(情工) ●聞けば聞くほど、現状の中等教育が下構型の影響を強く受けていると感じました。フランスの教育でも同じことがいえて、複線型を単線型にするときに生じてしまった負の部分だと思いました。(機械) ●フランスの制度にたけのこ型からつらら型への移り変わりの一部が残っているのがおもしろかった。フランス人はいいにくくないのか。なぜ、いまだ学校の制度が変わりづらいのか。(電電) ●フランスの小・中・高の学年呼称を見て驚いた。もし日本もフランスみたいに小学校が5年間、中学校が4年間だったら何が変わるのかなって気になった。今後もし日本がフランスと同じ教育の仕方になったら、日本はどうなりますか? (応化) ●フランスが単線型を採った経緯が日本からの逆輸入であったことが意外でした。フランスは公教育のさきがけを築いたり、単線型を導入したりと、時代とともによいものを柔軟に取り入れていく姿勢があると感じました。(認知) ●第二次世界大戦で勝利したフランスが経済成長をしていなかったというのを知らなかった。日本がフランスにとっての参考にされたのが興味深い。日本を除いて、フランスのように第二次大戦後に単線型から複線型に変化した国はありましたか? (応化) ●ヨーロッパから形式だけを導入した日本の教育制度は、いつしか中等教育が下構的になり、単線型となったせいで、小・中の学力差の露呈が不可避なものになった。一方の欧州も、とりわけフランスではバカロレアによる修了率をめぐって日本を参考に改善にこぎつけたものの、国内の学力差や進路には違いがあり、モデルとするには疑問が残った。中等公教育は、19世紀からほぼ変わらず「新時代のため」であるが、時代の変化は教育の進化を経由して、国や家庭の経済に打撃を与えつづけている。(認知)
●フランスの、日本でいうところの高卒認定のテストに哲学があるのが、レベル高いと感じた。数学みたいな明確な答えがないものだからこそ、論理的に自分の考えをまとめる必要があるのだと思った。(応化) ●今回は、ヨーロッパと日本の教育の違いについて考えた。日本でも高校や大学への進学が一般的になっていますが、すべての生徒に同じ教育を提供するだけで、本当にそれぞれに合った学びができるのか、疑問に思いました。(認知) ●フランスでは高卒を認定する一律の試験があるということを初めて知りました。日本では不まじめでも先生がなんとか進級・卒業させてくれるという印象がありますが、きちんと学力(能力)を身につけた人が高校卒業と認定されるのは、優秀な人材を育てるのに適していそうだと感じました。(認知) ●答えのない問い(哲学など)に対してさまざまな意見が飛び交う場で、多くの意見を取り入れるというのは、私も興味深いと感じる。他を無視した考えと、他の意見を聞き入れた考えであれば、私は後者を選ぶ。(応化) ●なぜ哲学を必修受験教科とするのか? フランスでは、哲学を通じて論理的に考え、説明できるようになる力と、物事を批判的に見る力を育てるため、という解釈でよいでしょうか? (機械) ●フランスのバカロレアでは哲学が必修になっていて、試験時間も4時間をかけておこなっているのが印象的でした。フランスでは、単語や知識を覚えるだけでなく、なぜそう考えるのかが重視されていて、自分の言葉で説明する力や、自分の考えを深める力が身につき、大切にされているのだと思いました。AIに頼ったり単語を暗記したりして乗り越えられてしまっていますが、自分で考え判断する力や、自分の考えを深めるということは、日本でも必要なのではないかと考える。(認知) ●バカロレアの制度はいまの日本でどれだけの影響力がありますか。(経デ) ●10月にフランスで大規模な暴動があったが、コースアウトの問題も関係するのだろうか。途中でやめてしまう人が増えるようであれば、複線型を残しておくほうがよかったのではないかと思った。(電電) ●なんで日本は4月から学校がはじまるのに、海外は9月にはじまるのだろう。現代はフェイクニュースが出回ったりしていて、情報科は時代が変わっていくからといっていたが、理科も変わることがあるから、うかうかできない・・・。(応化) ●反秩序化、コースアウトの問題では、移民の子どもが多いという話があった。私たちが学校で学べているのは、学べる場所があるからなのだと思いました。(経デ) ●近代の教育は、つらら型のほうに近づいているのかと思っていたが、今回のフランスの話を聞き、日本とは逆にたけのこ型に近い雰囲気を感じた。(宇宙) ●今回、現在の中等教育の問題、外国(フランス)の教育制度の変容を学んだ。その中で考えたこととして、生徒をふるいにかけ、生徒の学力の上昇を促しているように感じた。日本もフランスも初等から中等に上がるにつれ、レベルについていくためのふるいがあるように考えた。そのため、このふるいから外れた生徒のルートをつくることで、おとなになったときのGDP向上に貢献できると考えた。(応化)
●高校に行ったら得られるもの。一定レベルの礼儀作法。普通科以外なら実践能力。英語は、管理職など英語での会議があるので、昇進したいのなら必要だと思います。(認知) ●たけのこの専門性が薄れていったため普通科への進学が増えたと考えると、そうではない(普通科の割合が低い)フランスとはなぜ違うのか? このことは、つらら型とは関係ないといえるのか? 私は、一つではなく多くの要因があるのだと考える。(応化) ●たしかに、こんなにメディアが発達しているのにいつまでも黒板を使っているのかというのは、初めて疑問をもった。メディアが発達すればするほど将来の教員が大変そうだと感じた。(応化) ●中等教育を一本化したとき、下構型をメインにしたため、初等教育と中等教育の接続がないような感じになるというのは、自分が中学校に進んだときに感じたので、ここをなんとかしたほうがいいのかなと思いました。最後の問いですが、小学校と中学校は基礎の部分をやって全員を最低限のレベルまで上げる必要があるので押しつけ、高校は生徒の自主性を養うのと、本人の望む進路に向けてのことを考えると、選べるようにするほうがいいと個人的には思っています。(機械) ●小・中学校の教育には、国民としての自覚をつくる目的があるだろうから、カリキュラムを強制するのではないか。高校は追加の学習のようなものであるから、大学のように自分で授業を選んでもいいのではないか。(電電) ●小・中・高で、一斉の画一的な教育を受けてきた身からすれば、これまでの教育に慣れ親しんでいるために、例として選択式の授業にしてはどうかという議論が出されると無意識に拒絶反応が自己の中に起こったことを自覚した。両案の是非は抜きにして、思考できるような見方を意識したい。(経デ) ●学習内容は生徒が選べるようにするほうがよいのか、という問いがあった。以前は、学校がすべて指定したほうがよく、そのほうが安全だろうと考えていた。しかし、教育原理や教職概論の授業で触れられていたように、人は自分が受けていた教育の型に縛られてしまう(無意識的に)という事実を知って、最近になってようやく、自分が従来の教育から抜け出せず、無理やり肯定的に捉えていたのかもしれないと考えられるようになってきた。このように考えることができたのは、フランスの事例を見て、よい比較対象を得られたからかもしれない。私が専攻している情報は、日々変化している。自分が教師になったら、古い知識に囚われないようにしたい。(高度) ●給食はあったほうがいいと思う。栄養面も管理している人も存在しているため、用意する方式でいいと私は考えた。(認知) ●私は、小・中・高で給食があり、カフェテリア方式がよいと思っていた。しかしそれだと好きなものだけ選ぶ人が出てくるので、手間はかかるが複数の主菜の中で一つ、複数の副査委の中で一つ・・・ と最低限の栄養バランスが整う環境にするとよいと思った。これと同じように、学習する教科・科目について考えた結果、中学校から各教科の中から好きな科目を1〜3つ選択して学ぶこと、つまり5教科を守るしくみは維持するが、学んでいる科目は人それぞれ、というやり方がよいと考えた。(高度)
●公教育の成り立ち的に、学校教育が民族的な同質性のもとに成り立っているというのは、当たり前ではないかと考えた。しかし「国際協力が大事である」といわれている社会で、どんなふうに教育に反映するかを考える必要があると考えた。(材料) ●AIが出てきたらナショナル言語、グローバル言語を学ばなくてよいのかという問いがあった。私は、文法などの間違いがあったときに気づくために、また人と人との会話はAIをはさむより直接することで、感じることがたくさんあると考えるため、学ばなくてはならないと考える。(経デ) ●使用言語の構造が思考に影響を与えるという言語的相対論は、プログラミング言語で低級な言語での定石から高級な言語での内部実装を評価し、効率的な方法を高級言語で選好する契機になるという具体例として想起した。ここでこの営みが意識的な思考ではなく感覚的なきっかけであることに注意すると、精度の高い近似を得ることは、フレームの手持ちに左右されるのだろうか。(情工) ●近代以前の「学びたいから学ぶ」ではなく、義務化されているから学ばなければならないという意識になっているのだと考える。今後の世の中では、スマホを使うことには慣れているので、遊び以外の経済に貢献できるように勉強させることが重要になっていくと思った。(情工) ●教育学部は教職専門性が高いですが、工業大学で教職課程を取っている私たちが教職専門性を高めるには、どのような努力が必要なのでしょうか。教科の専門家であることも大切ですが、生徒一人ひとりと向き合うために、より学びたいと思っているので、それを知りたいです。(認知)
教育原理は、同じく2S配当の教育行政学とともに、最初に教職専門性に触れる機会となる科目です。学校教育というあまりにおなじみの対象に対して、自身の経験や思いではなく、歴史的・社会的な文脈からアプローチするのがこの両科目。教育行政学が、法・制度・政策といった面から学校教育を考察するのに対し、教育原理は、教育の理念・歴史・思想を扱います。1949年に現在のような教員養成のしくみ(授業本編で紹介する「開放制教員養成」)が成立した当初からあるのは、この教育原理と教育心理学(本学では4Sに配当)だけです。教育の歴史や思想って、後ろ向きというか、もう終わってしまった過去を学ぶので、なぜこれが教職専門性の最初に来るのかよくわからないという人もいることでしょう。真の意味は学んでいく中で自ら感じ取って(体感して)いただかないとどうしようもないのですが、逆にこの部分の知識や見識が欠けてしまうと、場当たり的で根拠の薄い教育を連発するようなダメな教員になってしまうかもしれません。そもそも、いま私たちが知るような学校教育がはじまって、200年になるかどうかです。学校教育がはじまって、よかった(進歩した)と思いますか? 副作用も起こったと思うのだけど、それを上回るだけのプラスが生まれたといえるでしょうか? それは今後もずっとつづくのでしょうか? 歴史的な思考は、そうした未来へ向けての展望に直結します。 千葉工業大学の教職課程で取得できる教員免許状は、中学校と高等学校のものです。これらは教育段階でいう中等教育(secondary educaction)に属します。いま大学生であるみなさんは、初等・中等教育を経て高等教育の入口にたどり着いたところですね。では、初等教育や高等教育と比較した場合の中等教育には、どのような特長や特質があるでしょうか。また、どのような弱点や欠陥があるでしょうか。特長は生かし、弱点はそれを意識して回避すべきですね。学校教育の「中の人」になると、そうした性質を熟知したうえでの役割を求められます。中等教育は、二つの面で複雑さ、ややこしさを抱えています。一つは、そこで学ばれる(私たちを主語にするなら「教える」)内容が高度で専門的だということです。高等教育ほどではないが、かなり抽象度が高く、量もそうですが質がとにかくハード。いま一つは、そこで学びの主役となる中学生や高校生の年代というのが、発達段階でいう青年期という時期である点です。子どもでも、おとなでもないその過渡期。この青年期は、子どもやおとなと違って、まるごと把握して理解するのがきわめて難しい対象です。そんな相手に、抽象的で高度な内容を教えるのが私たちの任務ということになります。この教育原理では、中等教育の成り立ちにとくに注目して、その特長や弱点をじっくりと観察します。日本でいえば、第二次大戦後の改革の中で、初めて中等教育がすべての人に開放されました。それまでは「中等教育は任意なので、受けたい人だけどうぞ」だったのです。なぜその時期に中等教育がすべての人に開放されたのか。それは「よい結果」だけをもたらしたのか。歴史の中から、そうした重要なものをすくい上げていってください。 当科目のもうひとつの重要な内容が教育の思想です。教育は人類につきものですし、誰もが学校教育を(児童・生徒として)受けていますので、理想の教育とか、教育の問題点というものに対する意見を各自それなりにもっているのではないでしょうか。しかし主観や経験だけから導かれる教育観は、しばしばハイリスクなものです。独りよがりで、およそ自分以外には通用しない論理なのかもしれません。学校教育がはじまってから現在までのあいだに、無数の人が経験した教育の中から特徴的な要素や側面を取り出し、適切な言葉で表現した教育思想は、私たちの教育観を立体的で「使える」ものに鍛え上げてくれます。いずれも典型的な文系のアプローチですので、理系のみなさんにはちょっと面食らうところもあるのでしょうが、教育者をめざすのであれば避けては通れない思考法といえます。ゆえに、大半の教職科目に先立って、この科目が設定されているのだとお考えください。
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