古賀毅の講義サポート 2022-2023

Principe de l’éducation

教育原理


千葉工業大学工学部・創造工学部・情報科学部・社会システム科学部 (教職科目)
後期 土曜67 14:00-16:00)  津田沼キャンパス6号館 614教室

 

講義サポート トップ
2022(令和4)年度 教職科目における指導・評定指針

 

2022910月の授業予定 *テキスト該当範囲
9
17日 開講にあたって/中等教育の原理を考える *2.1, 2.5
9
24日 前近代の教育(欧米・日本) *3.1, 3.4
10
1日 公教育の形成(欧米) *3.2
10
8日 公教育の変容(欧米) *3.3, 3.7
10
15日 公教育の形成(日本) *3.5
10
22日 公教育の変容(日本) *3.6, 3.7
10
29日 中等教育の諸課題(1) *1.11.5, 3.7, 5.15.3
1029日はオンライン授業(動画配信+自修課題)です。

 


次回は・・・
3- 公教育の形成(欧米)

いま私たちがよく知っている教育は、おおむね近代公教育Modern Public Education)と呼ぶしくみである、ということを前回学びました。ユーザー目線で「教育ってこんなもんでしょ、当たり前のことでしょ」と考えていると、そのように概念化し、名称を与えていることを不思議に思うでしょうが、これも前回みたように、人類の歴史の中ではかなりイレギュラーなことであり、不自然でもありますので、それを相対的に捉えているわけです。この教職課程は、学校の教員をめざすという前提のコースです。その「学校」「教員」というのが何ものであるのか、いかなる機能や課題をもっているのかというのを、はじまりの局面に立ち戻って考えるというのが今回の主題です。


パリ バスティーユ広場
1789
714日、ここにあった監獄を、決起した市民たちが急襲してフランス革命が勃発した

 

高等学校の世界史の授業でフランス革命(Révolution françaiseについて学んだことと思います。外国の歴史に関心の薄い人にとっては、なぜ「フランス」という一国の出来事をそこまで大々的に取り上げるのか(それも、現代の日本人が)となりがちなのですが、フランス革命はフランスだけでなく「欧米」をまるごと本格的な近代へと引き込んだ大きな事件でした。絶対王政や封建制など、それまで長く「当たり前」だったことを否定し、秩序を突き破って再構築しようとしましたので、それを正当化するための理由づけを次々におこないました。約200年前の出来事ですけれど、フランス革命の中で打ち出されたしくみや原理の中には、いまでは「当たり前」のものとして機能しているものがあります。国旗・国歌、右翼・左翼、テロ、ゲリラ、中央銀行(日本では日本銀行)、工学部、そしてメートル法。当科目の主題である公教育も、このフランス革命の中で初めて本格的に提唱されました。前回みたように、公権力(さしあたり「国家権力」「政府」と考えてください)が子どもたちの教育を担うとか、全国に学校をつくってどこでも同じような内容を教えるといった現在の常識は、18世紀まではまったくありませんでした。学びたい人がその都合に合わせて学ぶという、ある意味で当然のしくみに沿って教育がおこなわれていたのです。フランス革命の中で打ち出された公教育の理念とそのしくみは、フランスだけでなく、欧米世界全体にたちまち広がり、近代社会に不可欠のものとして認知されるにいたります。第5回のテーマになりますけれど、1868年に江戸幕府を倒して新政府を打ち立てた明治維新では、その4年後に早くも欧米式の公教育を導入しました。「これが世界の常識で、近代国家を営もうとすれば不可欠だ」という認識が、1870年代には共有されていたということです。では、19世紀前半に、公教育が定着・普及をみたというのは、なぜだったのでしょうか。その理由や原因を考えると、公教育の本質的なねらいや、その光と影の部分が見えてくるように思います。

学校に行って、学んだほうがよいと、私たちは普通に捉えています。学校に行かないという事態が実際にあれば、「行ったほうがいいよ」と助言する人が多いのではないでしょうか。自分が「学校の教員」であれば、なおさらそのような視点で考え、助言するだろうと思います。でも考えてみてください。学校に通って学ぶことで、そうしないのと比べて、どんなプラスがありますか。就学しないことのマイナスはどのようなものでしょうか。教職課程の学生は、「学校で学ぶべきだ、学んだほうがよい」という前提で考えることが多いのですが、「行きたくない」「学びたくない」という子どもを引きずってまで就学させるというのは、実はハードなことだと思いませんか? 義務教育などという概念がなかった19世紀の一般民衆にとっては、「子どもは学校で学べ」という新たなシステムは意味不明のものだったと想像できます。そのとき公権力の側は、どのようにして彼らを説得したのか。人々がやがてそれを「当たり前」のものとして受け入れたのはなぜか。文系的な思考に不慣れだと、なかなか難しい問いだとは思いますけれど、今回早くも公教育の本質に切り込んでいきますので、思考を停めないでおきましょう。



REVIEW 9/17
*文意を変えない範囲で表現・用字法を改める場合があります。

924日のレビューは少し遅れて更新します。しばらくお待ちください。

現代日本の教育以外の教育を知らなかったため、まったく疑問に思わず、当たり前だと思ってきたことに疑問をぶつけられ、他の国の制度を見たあとでもはっきりとした答えを出すことができなかった。他の人の意見を読み、自分の視野の狭さを感じたため、いろいろな人の意見を聞いて視野を広げたい。

いままで「そういうもの」と当たり前に思っていたことを、あらためて「なぜか」と考えるということは、あまりやってこなかったので新鮮に感じる。

いままで社会系の教科・科目では覚えるということをしていたため、苦手意識をもっていたかもしれない。事柄について深く「理解」していくことを重要視していきたい。
自分が「なぜ」そう思うのか、という理由を、しっかり伝わるように書けるようになるため、知識を深めたいと思った。

教育に関する考えや知識がまだまだ浅いのだなとあらためて感じた。多様な考えをさまざまな視点でもてるように心がけたい。
教職概論でも中等教育という言葉は聞いていたが、性質や該当する学校は今回理解することができた。多くの人の考え方を知るために、人との意見交換をがんばっていきたい。

青年期の人間も面倒ならその年齢の範囲がどこまでなのかも、それを扱う学問や人によってまちまちで面倒だなと思った。
・・・> 記述がこれだけなので「面倒」ということの含みがもうひとつわからないのですが、「面倒だからおもしろそう」だとすれば、すばらしい。それが学問であり、それが大学生です。万一「面倒だからかったるくて嫌だ」ということであれば、学ぶ(教える)資格にかかわる重大事になります。

子どもと子供。なんとなくひらがなのほうが優しく思われるが、漢字とひらがなが混じることに違和感を覚える。中高生に対しては、子どもというよりも、思春期とかいえばいいのかなとか思った。
・・・> という漢字は、「お供(とも)をする」というようにメインの添え物というニュアンスがあり、また「供御(くご)」「供(そな)え物」というように、神様やえらい人に捧げられるというような意味もあります。子どもはおとなのついでではなく、一個の生命として尊重されるものだという20世紀以降の主流の考え方が、日本では漢字表記に反映され、「供」の文字を用いないというスタイルが定着しました。価値観や判断基準はいろいろあってかまわないので、「こども」と書いても「子供」と書いても別にかまいませんけれど、多くの専門家や教育者がそうした意識のもとで「子ども」と表記しているのだということを知らないまま「別にいいじゃん」というふうになると、イタいだけでなく不見識になりますので注意してください。後段、「子ども」はかたちあるもの(実体)を指す語、「思春期」は時間的な範囲なので置き換えは無理。「あの思春期はどうしようもないな」みたいなのはスラングだから教職科目ではやめましょう。おわかりのように、教職課程では(というか大学の学びでは、なのだが)、国語に対するセンスや洞察、関心、スキルなどがかなり直接的に問われます。読書習慣をつけましょうね。(レビュー主にではなく全員にいっています)

 

教育段階がこのように分かれているということに興味をもった。高等専門学校が高等教育に分類されることを知った。
高等学校は高等教育だと思っていました。(複数)

高等専門学校という表記を見て、いわゆる高専ではなく「専門学校」をイメージしてしまった。無知を感じた。
専門学校が一条校に含まれないのは意外だった。(類例複数)

日本で認可される学校の種類について知ることができた。とくに中等教育学校と義務教育学校は、存在そのものを知らなかったので驚いた。

保育所と幼稚園の違いがわかりやすかった。

特別支援学校が中等教育までなのは世知辛いなと感じる。
特別支援学校を卒業してから大学に行く人は少ないのでしょうか?
・・・> 世知辛いのが半分、しかし高等教育段階の学校をあえて設けないのが適切だというのも半分あります。これは以後の教職課程の学びを通して、ずっと考えておいてください。2年次に特別支援教育論という科目もあります。もっとも、教職概論で少し述べたように、特別支援教育イコール特別支援学校ではなくて、後者はその一部にすぎません。現在では特別支援学校を卒業して大学に進む人がかなり多くなっており、千葉工業大学にもかなりいらっしゃいます。「なんでそんなことを聞くの」というくらいに、もっと当たり前になることが望まれます。

小学校や中学校などは基本的に1年生からの入学であるのに対して、同じく学校教育法に規定されている幼稚園は、年中・年長からの入園が可能であるのは、なぜでしょうか。義務教育ではないからでしょうか? 大学も義務教育ではないですが、初めての大学入学の際は1年生からですよね? 無知なだけで、2年生として入学できるということがあればすみません。
・・・> 最後の一文のようなエクスキューズは不要。間違いや誤解や早とちりは当然あるし、それこそが学びのきっかけになるのです。私がここで「それは間違いです」と指摘しても、非難やディスりではなく指摘ですので、方向を修正してくださいというだけのことです。さて本題ですが、大学は編入学や復学のケースをのぞけば1年次からの修学に決まっています。小・中・高も同じ。幼稚園が特殊なのは、その成り立ちに起因します。歴史における「紀元前」とか、建物における「地下○階」みたいなもので、義務教育の開始にあたる小学校1年を起点に、マイナス1年が年長、マイナス2年が年中、マイナス3年が年少というふうに就学時期が下(低年齢側)に伸びていきました。もともと明治・大正期の幼稚園というのは一種の「金持ち文化」であり、経済的にゆとりのある家庭の子どもが家庭教育の一部を外部委託するような感じで成立していますので(「習い事」みたいな感じですね)、行っても行かなくてもよいものでした。ですから現在でも「マイナス何年から乗っかりますか」というふうに問われるわけです。行政的な見地でいいますと、幼稚園は圧倒的に公立<私立。公立幼稚園というのは独自の敷地や多くの教員を抱えることが難しいため、小学校に敷設されることも多く、教室や教員数も限定されがちです。税金でまかなうので教育予算も限られています。そのため公立幼稚園はなかなか23年保育に踏み切れないところが少なくないようです。家計が苦しいので公立幼稚園に通わせたいというご家庭だと、年中ないし年長からの入園にならざるをえないことが多々あります。

放送大学はどの学校種なのかと調べたら私立大学だった。
・・・> 学校種ということであれば、国立か私立は関係ありません。「大学」です。

学校制度で、短大は高等教育に含まれないことを知った。
・・・> そんなことはいっていませんよ。短期大学は大学に含まれますので、高等教育です。

大学・高等専門学校の教授は、なぜ教員免許が不要なのですか。
・・・> (1)次回扱いますが、歴史的な経緯としては、高等教育は初等・中等教育とは異なって、中世ヨーロッパの都市社会の中から生まれました。学問サークルみたいなところで修行して成果を上げた人が教授になって、その学問サークルを主導するようなイメージで、教授たちの集合体が「大学」を構成しました。「大学」は皇帝や国王の権力や権威からも自立していました。ですから、その資格を権力(国家・政府)によって規定されるということがあってはならないわけです。教授にふさわしい人物かどうかを決めるのは教授たち。(2)中等教育の免許状は教科ごとになっています。これに対して高等教育のほうは、専門分野がかなり細かく分かれていますし、新たな専門分野を生成するということもしばしばあって、それがあってこそ学問研究が発展します。中高の教師なら、たとえば「理科を教えるのに必要な科目はコレとコレ」みたいに指定できますし、それを全国的な基準にできるでしょうけど、大学の先生でそれをするのはとうてい不可能ですね。(3)高等教育の教員になる際に、法・制度上は免許がなく、大学側がよいといえば教員にできてしまうのですが、一定の相場みたいなものはあります。それは、大学院博士後期課程(DC)を出ている、ということ。DC3年が標準ですので、修士課程(MC2年と合わせて、最短5年の学問修行が求められます。まあこのへんもあいまいではありますが、みなさんが大学の教員をめざすというのであれば、いま述べた相場を心得ておくことが必要です。なお、これも歴史上の行きがかりなので、なぜといわれても「そういうものです」となってしまいますが、MCを出れば自動的に修士(Master)になるのに、DCを終えても博士(Doctor)になるわけではなく、それとは別に博士論文の審査に合格するという手続きがあります。それで、大学の先生はたいていDCを終えているが、博士であるかどうかは定まっていない、ということになります。(私は博士です)

工業高等学校が工科高等学校に名称が変更されるというのは、工業高等学校出身者としてはなぜいまさら変えるのかと不満がある。
・・・> これは誤解です。おそらくご自身の出身校が名称変更になるということでしょう。もともと学校種としては普通科でも工業科でも「高等学校」であり、あなたがいうような「工業高等学校」なるものは存在しません。それは固有名詞です(保育所と保育園の関係のような感じ)。工業高等学校というのが法令上の学校種ではない以上、それを国のほうで変更したということでもありません。いまのところ愛知県と東京都が、所管の工業高校を一斉に「工科高校」に変更するということになっています(東京都立は2023年度から)が、全国的にどうなるかは不明。それと、「なぜいまさら変えるのかと不満」というのは、生徒目線(それもやや感情的な)に立った話のように思えるのですが、どうでしょうか。教職課程では、ちょっと立ち位置を変えたほうがよいです。

18歳未満が児童になるというのを初めて知ったが、とても驚いた。(類例複数)
・・・> このことを書いている人以外でも、早合点とか早とちりした人が多いと思うので付言しますよ。いわんとするところは、児童福祉法では18歳未満が児童ということであり、学校教育法では小学生(つまり612歳)のことを児童というので、赤字のところの限定を落として書いたら不正解になります。

 

中等教育の特性から、それが初等教育・高等教育のどちらに近いのかというワークで、人によってさまざまな「眼」があったので、自分の考えに足していきたいと思いました。(類例複数)

中等教育について、その性質まで考えたことがいままでなかった。新しい発見が多くあったと思う。
中等教育の原理について学んだが、少々整理できなかった部分があるので、次回までには整理していきたいと思う。今回、視野の狭い考察しかできなかったので、次回は幅広い視点で考えていきたいと思う。

今回は、学校種は何か、対生徒の教育段階は中等教育だが結局どの層にどの内容、知識を教えるのか判明しなかった。
・・・> そんなのが1回目でわかったら天才。今後回収していくようにしましょう。ま、2Sでは回収しきれないと思います。

教育段階を分けて考えるにあたり、さまざまなメリット、デメリットが考えられておもしろかった。
・・・> 2つ指摘します。(1)教育段階を分けて考えるというのは、たぶん間違っています。教育段階を分けるとすれば、就学前・初等・中等・高等というふうになります。それでいいですか? それだとメリット、デメリットというような話につながりません(少なくとも今回の考察範囲では)。おそらく単線型・複線型という学校制度と取り違えています。最後に述べたように、言葉遣いに気をつけるというのが大事だということですね。そう、このレベルで徹底することが重要です。(2)教育を考える際に、メリット、デメリットという表現を使うのは控えるようにしましょう。使ってはだめだという意味ではなく、これも言葉の意味にかなり留意しなさいということです。その趣旨は、manabaで配信している「学びの場における適切な文章表現・語の用法について」を視聴して確認してください。

いままで学校種に対して深く考えたことがなかったが、今回あらためて考えてみて、細かい違いがさまざまなところにあると知り、もっと理解を深めたいと思った。

学校制度に種類があることに驚いた。単線型と複線型の両方によい点があり、その制度にした理由もわかった気がした。

学校制度は6334で全世界共通だと思っていた。

中等教育の扱いが難しかった。他の国がなぜ単線型でなく複線型なのか気になる。
当たり前だが日本と外国で制度にかなり違いがあると思った。日本だけでなく、グローバルな視点をもちたい。

いろいろな国の教育の表面を知ることができた。
・・・> 「表面」というのがどのような意図なのか十分にわかりませんが(あまり考えていなかった? 笑)、思いのほか重要な指摘ではあります。教育の内容や制度には、どの国、どの時代であっても、表面を見ただけでは知りえない深みや構造があります。そこを掘り下げて考えるのが学問です。これは教育にかぎらず何ごとも同じで、どうも最近の中等教育は「表面」をなでて、なんなら暗記して、それで終わりにしてしまいがち。ご指摘のように、今回扱ったのはせいぜい「表面」だというふうに考えておきましょう。人が短期に、容易に知りえること、理解できることというのは、ないと考えているほうが学生として正常です。

どの教育型にもメリットとデメリットがあり、どの国がよいのかあまりわからなかった。
いままで6334という単線型にとくに疑問を抱いたことはなかったが、今回新たに複線型という制度を学んだので、それぞれのメリット、デメリットや、なぜ日本は複線型を単線型に変えたのかを知りたくなった。

単線型の教育がよいと思ったが、友達の意見を聞いたら、複線型にも一定のメリットがあることがわかりました。
単線型と複線型にはどちらにもよい点があって、どちらがよい制度なのか選ぶのが難しかった。他の人が指摘した理由などを見てみると、自分が思いつかなかったものもあって、さらにわからなくなった。

国によって教育制度や学校制度には大きな違いがあるとわかりました。それぞれによい点、悪い点があると思いますが、複線型は自分の個性に合った進路に進めるのではないかと思います。
単線型というのはいまの時代には不向きな気がした。多様性を認めていかなければいけない現代で、道が限られるのはよくない。
複線型・単線型は、将来の目標が完全に決まっているか否かで、どちらがよいかが変わってくると思った。
・・・> しかし複線型は、世界的にはもう「過去のもの」になっていて、ゆえに英国やドイツが国際的な批判を受けています。ワークシートをぱらぱらと拝見するかぎり、複線型のまずい部分について、適切に汲み取っている人はほとんどありませんでした。今期の課題にしましょう。なお、「道が限られる」とありますが、複線型のほうが限られると思うのが普通。いや単線型のほうが実は限られるのだという話もあって、真にわかっている人はそちらを主張するかもしれません。現時点では「よくわからないから、今後考えよう」というふうにしておいてください。

同学年の中で学ぶことで周りの年齢を気にしなくても済むことが単線型の利点。また幼少期から進路を考える機会があるのが複線型の利点なのではないか。
・・・> 複線型でも同学年の中で学ぶはずですが・・・。

私は、ゆっくり将来について考えたいから単線型が合っているなと思ったけど、日本の中でも複線型が合っている人もいるだろうから、国ごとじゃなくて個人で好きなほうを選べたら、一人ひとり自由に学べていいんじゃないかなと思った。
・・・> それは「複線型」なのではないですか?

自分のレベルに見合った教育を受けられるという点では、複線型の教育を受けたかったと考えました。

エネルギー保存則のように変化の前後はわかるが、間はわからない、もしくはわかりにくいのだなと感じた。
・・・> 何かの変化とかその間の話ありましたっけ? ちょっと私には喩えがよくわかりませんでした。すみません。

 
パリ中心部、シテ島にある小学校 鉄扉にはフランス共和国の標語「自由・平等・友愛(Liberté, Égalité, Fraternité)」が掲げられている
(右)ナチス占領下ではユダヤ系の児童が多数命を落とした その慰霊の解説が正門横に掲げられ、「彼らを決して忘れまい(Ne les oublions jamais)」とある

 

今後、教師になったときのために、教育についての学びをもっと深められるようにがんばります。

今回の内容はとても興味深かった。教員採用試験に向けて、過去問と照らし合わせて理解をより深めていきたいと考えた。

教育に関する本をたくさん読めば気づくことがあるというのは、大切なことだと思った。共通して書かれていることは考えなければならないし、逆に皆が書いていることと違うことが書いてあれば疑問をもっていかなければいけないと思った。

いま先生がおすすめする本は何ですか?
・・・> 教職課程の学生には、まず新書本を普通に読めるようにしてほしいなと思います。新書のシリーズはかなり多いですが、岩波新書(岩波ジュニア新書を含む)、中公新書、ちくま新書、講談社現代新書を挙げておきます。あとは玉石石石石混交なので(意味わかるかな)、大型書店で前述の4シリーズの棚に行って、気になるものを34点購入してみてください。1点だと、関心と合わなかったときに読書そのものが嫌になることがあります。「どれか当たる」くらいのほうがよいでしょうね。コロナにかかわって、いま社会のいろいろな面が見直されていて、いい本が出ていますよ。

フランス語やフランスに詳しいのは趣味ですか?
・・・> 仕事(専門)です。

中等教育という、あいまいで難しい年ごろの生徒たちと向き合っていく必要があると学べてよかったです。いま塾講師をしていますが、前期で学んだことをもとに対応していったら、思っていた教師像とは違っていたり、生徒と先生の関係について新しい視点をもてたりしたので、後期も新たな発見や疑問をもって、そこから成長していけるように、さまざまなことを吸収したいです。

教育行政学の授業で、「教育の権利」にはおとなも含まれる、と聞きました。ここでいう「おとな」というのは、高等教育に属する大学生や高等専門学校の学生が該当するのでしょうか?
・・・> 日本国憲法261項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあります。高等教育の学生だけでなく、赤ちゃんから高齢者まで、すべての国民です。草野先生の担当回で、そのことの意味を実感できるのではないかと思います。お楽しみに。

公教育はどれかという問題で、まんまと「公立」という意味だと思って答えたら不正解だった。公教育とは、学校教育法1条に定められた学校であるということを覚えて帰ります。
・・・> 正確にしておきましょう。現在の日本で「公教育」を法的に考えるなら、それは学校教育法1条に規定された9種の学校である、ということです。時代や国・地域によって、公教育の範囲は変わります。次回以降に、公教育を、法的な面ではなく社会的機能の面から深く考察します。といいつつ、結局のところは法的なところに戻ってきます。テキスト3.13.2をよく読んでおいてください。

 

 

開講にあたって

入学直後の1Sで教職課程の履修・受講を開始したみなさんは、いよいよこの2Sから本格的な教職科目(教職専門性を形成するもの)に取り組むことになります。教育行政学とこの教育原理がまず設定されているのは、法令上の構成がそのようになっているということもありますが、児童・生徒という立場ではあまりになじみ深く、それゆえに主観や経験をなかなか脱することができない学校教育という対象を、いままで考えたことが(たぶん)ないような角度、視点から捉えて、専門職をめざす立場で思考するためです。教育行政学は、学校教育にかかわる法・制度やその運用を中心に学び、教育原理は歴史・思想を軸に教育の理念を深めるものです。高等学校での区分でいえば、前者が政治・経済や現代社会、後者が歴史や倫理に近いといえます。いずれも学校教育を外側から捉えて、輪郭や性質を明らかにすることに主眼があります。この作業を怠れば、いつまでもユーザー(児童・生徒)側の記憶をひきずったまま教育する側に回ってしまうという失敗につながります。また、学校教育は不変・不動のものではなく、時代や社会状況、地域や、ほかならぬ生徒たちの傾向などによっても変わります。より正確にいえば、変わらない不動の部分と、変わる部分とがあります。自身の児童・生徒時代の経験というのは世の中全体からみればごくミクロのものでしかなく、それを一般化することはできませんし、何より「過去」のものですので、それを基準に未来の教育に携わることのまずさは、おわかりいただけるのではないでしょうか。

学校教育は曲がり角にあるといわれます。詳しくは本編で述べますが、いまのような学校教育のしくみが生まれたのは100200年くらい前のことです。日本では明治維新のあとで確立されました。そのころと現在とでは社会状況がかなり違います。私たちが情報や知識をどこから得るのかを考えてみると、テレビや新聞などのマス・メディア、そして現在ではそれ以上にインターネットの果たす役割が大きくなっています。メディアが未成熟だった明治時代にあっては、おそらく学校教育というのが最大の情報源だったはずで、全国に小学校がつくられ、そこで同一内容が教えられたということの意味は、現在よりもはるかに重かったのではないでしょうか。いま、学校の先生よりもインターネットの情報のほうがアテになると思っている児童・生徒は結構多くなってきていて、学校は情報や知識を得て自己を形成する場ではなく、友達と遊んで交流する場、さらには「行かなければならないことになっているから行く」というノルマやタスクの場になっているかもしれない。要は、社会全体の中で占める比重が軽くなっているということです。その学校教育のメイン・スタッフである教師をめざすみなさんは、そうした学校教育の本来の性質、今日的な変化、いまも変わらぬ優位性や特色などを専門的な見地からよく知り、今後もずっと上書きしていかなければなりません。学校教育を動態的に把握し理解することが、専門職への第一歩ということになります。

この教育原理は3パートから成ります。第1部が教育の歴史、第2部が教育の思想、第3部が社会教育・生涯教育(学校外での教育を通して学校教育の輪郭を知る)です。第1部はテキストの第3章、第2部は第4章が相当し、とくに歴史編の第1部ではテキストの構成に沿って授業を進めます。第3部は草野滋之教授の担当です。

理系の大学は、文系に比べて専門の間口を狭く設定しています。したがって自身の専門分野というものを堅実に捉え、深く探究するというよさがあります。反面で、専門以外のことについての目配りが難しく、心理的にも「これは専門と違うので」というふうになりやすい。教職科目は基本的に文系ですので、専門ではないどころか関心や得意分野からかなり遠いものということになりやすい。しかし職業適性や専門性の形成ということを考えるならば、そうしたエクスキューズは自分自身の得にならないばかりか、将来の教え子の教育にまで悪影響を及ぼしかねません。教職課程の学生はダブル専門をもっているのだという気概と自覚をもって、教職科目の授業と、その先にある教育の深遠な世界に向き合っていきましょう。

<使用するテキスト>
古賀毅編著『教育原理』(学文社、2020年)

 

当科目の評定方針

古賀担当回の課題(合計85)+草野教授担当回の課題(15)により評定します。古賀担当回の課題は23回を予定しています。
古賀担当回については、出席点はいっさいありません。

 

講義サポート トップ