古賀毅の講義サポート2024-2025
Principe de l’éducation 教育原理
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2024(令和6)年度 教職科目における指導・評定指針
2024年11〜12月の授業予定 *テキスト該当範囲
11月30日 近代の教育思想 *4.1〜4.5
12月7日 新教育思想 *4.6〜4.7
12月14日 広がる教育観:新・新教育への道? *動画配信+課題作成
12月21日 日本の教育思想 *4.8〜4.9
前回、ルソー、ペスタロッチ、ヘルバルトの3人を取り上げました。時代的には、3人目のヘルバルトの没年が1841年ですから、彼自身が欧州各地の公教育に直接かかわったということはありません(それなのに、死後の思想の影響力が強すぎて猛反発を食ってしまったのです)。歴史編でみたように、それから数十年のあいだに、日本を含む各国では公教育が急速に整備され、近代国家を強化する仕掛けとして、きわめて重視されていくことになります。そこでは、国家本位、おとなの都合優先にどうしてもなってしまい、子どもの特性や彼らの学びたいことなどは後回しになりがちでした。せっかく公教育が普及して、それまで教育を受けられなかった人たちもその恩恵を受けられるようになったのであれば、もう少し子ども側に寄り添った教育をしてはどうか。そのように考える人たちが出てきます。以上の流れを考えるとわかるように、公教育が普及して、ワンテンポの呼吸を置いて、そのあとの時代のことになるわけですから、実際には20世紀に入ってから、子ども側にシフトした教育という主張が本格的に展開されるようになりました。 教育という漢語は実によくできています。出典は「孟子」だそうです。教と育、「おしえる」と「はぐくむ」で、どちらの要素がなくても教育は成り立ちません。欧米から輸入したeducationに、うまい訳語を充てたものですね。さて、みなさんは教育という文字をあえて分解するとき、教と育では、どちらに重きを置くべきだと考えますか。両方なのはわかっています。あえていえば、どちら? ――近代公教育が確立されたころ、それはどうしても「教」のほうが優先されました。国家やおとなの側が、子どもたちに教えたい、教え込みたい知識や情報や道徳や価値がたくさんあったのです。いかにたくさん、量的に押し込むかというふうになってしまうのは目に見えていますね。その反動ないし反省ということで、20世紀に入るころに、「育」を重視する教育観が勢いをつけてきました。最も盛んになったのは1920年代。第一次世界大戦が終わったあとの、あとから思えば小休止の時代でした。国家やおとなたちの考えを教え込むのはいいが、その結果どうなったのかというと、国家と国家の利害が全面衝突して、空前の大戦争になり、勝者(英仏)も敗者(ドイツなど)も相当のダメージを受けました。あれだけ教え込んだものは、いったいなんだったのかという反省も、教育観の転換に影響したことと思われます。この時期に隆盛を迎えた、子ども本位、子ども中心の教育観に立った教育思想を、新教育思想といいます。新とついていますが100年前です。この新教育思想は、実際の教育運動(世界新教育運動)と結びつき、世界各地で学校がつくられ、新しいカリキュラムを試行する動きも強まりました。世界同時多発的だったのがおもしろいところです。 率直にいって、新教育思想が大きな流れになってくれたおかげで、教育思想も、そして実際の公教育も硬直化しないで済んだといえます。新教育は、それに反対する人も多かった(多い)のですけれど、でも間違いなく公教育に新しいエネルギーを注入してくれたと私は考えています(新教育は「知識注入」を嫌うので皮肉な表現にはなります)。ルソーやヘルバルトも、子どもの特性というのを念頭に置いて、「学ばせ方」を構想したのですが、ただそれらは経験や空想によるものでした。子どもの発達というのを観察し、実験や分析を繰り返して、科学的に整理したのがスイスの心理学者ジャン・ピアジェです。ピアジェの構築した児童心理学が、子ども本位の教育実践を科学的に支えました。当科目でもしばしば発達(development)に言及していますね。発達を適切に捉え、教育実践はその上でおこなわれなければならないと考えるのが標準になったのです。これも新教育の重要な功績です。今回は、欧州における新教育思想のあらましとその影響について論じ、少し時代はさかのぼるのですが、北米の独特な新教育思想であるジョン・デューイの「民主主義と教育」も読んでみることにしましょう。デューイは、占領期の教育改革を通じて日本の学校教育にも多大な影響をもたらした人物です。その日本でも、教育実践と結びついた新教育思想が1920〜30年代に大々的に展開されたのですが(大正自由教育)、これについては最終回であらためて取り上げることにします。
REVIEW (11/30) ●250年前にルソーが書いた小説がなかったら、教育というものの発展が遅くなり、いまのような感じにはなっていなかったかもしれないと考えると、「昔の人の考えだから知らなくていいや」と思わずに、表現や思索の跡を借りて、教育だけでなくいろいろなことに使いたい。(高度) ●「エミール」というルソーが想像で書いたものを実践するのは難しいのにもかかわらず、それを実践し、後継者たちによって近代の公教育がつくられていったことを学ぶことで、その間に起きた問題を考えてみようと思った。(応化) ●近代の教育思想家としてルソー、ペスタロッチ、ヘルバルトについて学んだ。ルソーは小説というかたちで教育を語り、ペスタロッチはそれを実践した。ヘルバルトは、それらの思想を受け継ぐも、人格形成には知識が必要であるということで、発券からの学びよりも教えることの重要さを唱えた。この3人によって公教育の土台がつくられた。(情工) ●思想編の授業は、いままでと比べてかなり抽象度が高いと感じた。他人の思想を理解するのは大変だと思った。ルソーは、250年後の現在とつながる思想をもっていてすごいと思った。これから先の子どもの状況もそうなっていくのか、考えてみたい。ペスタロッチ、ヘルバルトは、教育を広げ現在の公教育につながるような思想であり、とても先を見通していると思った。彼らが残した文章はかなり難解だが、教育に深くかかわった思想を少しでも理解し、これから先につなげていきたい。(電電) ●その時代の一般常識や制度に囚われない姿勢が、ルソーの思想を生んだのだと思った。ルソーも幼少期に他のおとなから常識を植えつけられていると思うが、それなのにどうしてそういった思想が生まれたのかが気になった。ヘルバルトのところまで話が進むと、歴史と思想がどんどんかみ合っていって、おもしろかった。(情工) ●ルターやロックは、宗教のことにしかかかわっていないと思っていたが、教育にもかかわっていることがわかり驚いた。歴史上でさまざまな人が教育にかかわったことで、いまの教育があるのだとわかり、教育の本質などを理解するためには過去の歴史を深く考察する必要があるとわかった。(認知) ●教育思想家の思想を適切に吸収して、子どもたちに適切に教育しなくてはならないと思った。また一つの方法ではなくさまざまな方法で教育することが大事なのではないかと考える。(機械) ●ルソーやペスタロッチ、ヘルバルトの本を読んでみようと思った。宗教のように自分の中に強い芯がある人は、信じられないようなレベルの善人になるのだなと思った。私も自分の中の芯を見つけ、大切にしたい。(応化) ●ルソーと聞くと「社会契約論」が思い浮かんでいたが、今回の授業で扱われた「エミール」という小説があることを知った。(機電、類例複数) ●もともと宗教を教えるためだった教育だったからなのか、こうした教育学者みたいな人は、同時に哲学などをやっていて、ちゃんとつながりがあるということに気づきを得た。(機電)
●ルソーの教育思想には、現代でも多くの点で関連するところがあり、感動した。250年前に青年期について気づいていたということに驚いた。(電電) ●250年前にもかかわらず、生き方が縛られていた世の中で、主張しようと思ったことを、学びが少ない時代でここまで表現できるのもすごいと思いました。また青年期に世間に放り出されてしまったことが、不幸中の幸いだったのかなと、いまを生きる私は思ってしまいました。人間としての教育というのは、生きるための基盤を教えることだと知り、いまの教育とはあまり似ていないと思った反面で、「学問のすすめ」などを見ると似ていると思ったりもしました。(認知) ●子どもはおとなと違うから、伝え方や教え方を工夫しなければいけないというのは、当たり前のことのように感じるけれど、おとなになってしまうと子どもの立場に立って考えるというのが自然とできなくなってしまうのかなと考えました。子どもがさまざまなことに興味をもてるように教える力を身につけたいです。(応化) ●ルソーが知識を教えることに消極的だったのは、当時の貴族の学校を見ていたからでは? (機械) ●特定のことにしか役に立たないことを教えるのではなく、人間として自由に生きていくために必要なことを、身分に囚われずすべての人に教えるというルソーの考えは、すべての人が同じ内容を学ぶことができる公教育につながっている。当時の状況で、現代の教育につながる考え方を生み出したルソーの偉大さがすごく伝わった。(機械) ●人々がまだ身分に縛られていた時代に、知の光を灯し、青年期を発見したルソーは本当に頭おかしいと思った。(材料) ●ルソーのように、「人間」を育成し、その後は自由に職業に就いてかまわない(それには興味がない)という考えは、自律性を養い、主体性を重視していることが感じられる。一人ひとりがそれぞれの考えをもてるようにし、考えや職が受け継がれてしまう社会に対する批判的思考の推進が望まされていたのではないだろうか。(高度) ●「天職は人間である」、という言葉に少し共感した。ルソーのいう地位、つまりは職業であるが、それに向いているかどうかなど、そのときに行動すれば変えられると考えた。それに対し、われわれがいま存在しているということは、自分の力では変えることができない。人間としての生をもらったことが奇跡なのだと考えた。(機械) ●当時はみられなかったはずの青年期について、ルソーが想像で細かい内容まで書けていたのはすごいと思った。とんでもない想像力だと思った。(高度) ●ルソーの青年期の表現、「暴風雨(あらし)」というのが、たしかにそうだと思った。第二次性徴で多感な時期をあらわすのにぴったり。そこから「第二の誕生」の時期にあたる中高生を教えるというのは、一通りや、一方通行ではいけないということもわかる。(認知) ●ルソーは極貧生活だったという話があったが、その生活の中で出した教育小説をどうやって広めたのか疑問に思った。私のイメージでは、そのような時代は、貴族でもない庶民の、しかも極貧の者の意見が世間に広まるとは思えなかった。(高度) ●ルソーの理論を、ペスタロッチ、ヘルバルトの2人が、一般的?な教育現場で使えるようなレベルにまで持ち込んだ。ただ、文学で多くの人にわかりやすく伝えたのはルソー。(高度) ●ルソーの小説内での出来事が現実になるというのは、いまでも同じようにあり、マンガやアニメの出来事が実現してきたかのように思えて、いかに理想の言語化とその実現が世界を革新するのかがわかりました。(高度) ●ルソーの思想を受けて、それを実写化し、さまざまな人に伝えたペスタロッチがいなければ、いまの公教育にはつながっていなかったのだと思った。今回の授業で出てきた作品を最後まで読んでみたくなった。(機電) ●ルソーによってよみがえらされた古代の思想をペスタロッチが実写化し、公教育への道を開いたというのがすごいなと思いました。教育と子どもに対するペスタロッチの姿勢に感動しました。ルソーの妄想を実践し、本に書いて残したことにより、後の世界に貢献していてすばらしいです。(情工) ●ルソーは当時の社会に不信感をもっていたが、貴族たちはそれを感じていなかった。生い立ちによって考え方が大きく変化したのだと思った。「エミール」は、いまの教育の基礎になっている内容が多いと思った。これが、ペスタロッチのおかげで広く知られたことで、いまの教育につながったと考えると、ペスタロッチの存在はとても大きなものだったと思う。(機電) ●教育の視野に入っていなかった子どもにも教育を提供することの重要性を説いたペスタロッチの思想は、公教育の普及の足がかりとなった。彼がルソーの思想を実践していなければ、子ども中心の教育というのが抽象的な理論のままとどまり、教育現場が停滞してしまっていたかもしれない。「最も憐れな・・・」という言葉、すごく感動しました。(都市) ●ジャン-ジャック・ルソーは、プラトンなどの古代の考えを自ら学んだ。「エミール」はフィクションではあるが、思想として教育を推し進めていて、物事の本質を捉えるきっかけをあたえてくれた。ペスタロッチはルソーの書いたものを視覚化した。子どもには本よりも絵を見せたほうが理解しやすいため、そこに着目して劇などをつくった。これにより教育方法が現代に近づいたのではないか。(応化) ●ルソーは自己の後悔も含めて書いており、教育をこうすればよいといっているが、ペスタロッチは生きるために必要な力を教えていて、すべての人にこの教育をするのは大変だがいっていることは正しく、子どもを見捨てない教育は理想的だと思った。(情工) ●ルソーの考えを実社会で実践したペスタロッチの実行力がすごいなと思った。また、教育しないと治安が悪化するのだなと思った。ペスタロッチのように、人に恵まれることは重要なのだと感じた。(高度) ●ペスタロッチの聖人的な人格は、彼の家庭環境や周囲に何かあったからなのですか。それとも元から備わっていたものなのでしょうか。(機電) ●「シュタンツだより」においてペスタロッチは、どんな子どもにも人間性の可能性を見出したといっているが、私にはどうしても受け入れがたい。たしかに、どんな子どもにも教えるのをあきらめなければ可能性はあるかもしれないが、その子ひとりに注力することはできないし、中学校でも高校でもその生徒を見ることができるのは、せいぜい3年である。可能性を信じるのは大事だが、あくまで公教育の一端を担うであろうわれわれには、あきらめが必要だと考える。(認知) ●キリスト教圏であるので性善説が前提となる思考だった。もとは清らかであるのに貧しさによってそれが汚れている。だから、自らがほどこし、人格の形成をおこない、最終的に教化するというのは、現代の中等教育にも必要だと考える。私も教師として、教育の範囲で生徒のコミュニティに入り、より近い場所から発達を導きたい。(応化) ●今回出てきた3人の思想、行動にとても感銘を受けた。前回の課題の中で出てきた学びの本質ということを絡めて思ったのだが、ペスタロッチの「生活が陶冶する」という言葉が絶賛されたのなら、公教育の単線化に際して、なぜ下構型に合わせてしまったのだろうと、少々遺憾だった。現代のhow to teachを見直して、ヘルバルトの陶冶を考えていきたい。(機電) ●この大学がペスタロッチと関係あったなんて驚きました。いったいどのような関係があったのですか。(高度、類例複数)
●数百年前の思想家の考えたことが、いまの世界をつくっている。画期的なシステムを考えて、かつ実践したからこそ、彼らは歴史上に名を遺したのだろう。ヘルバルトは、よくも悪くもいまの世界に爪痕をつけたと思う。(高度) ●欧米の教育思想では、教育する対象についての認識など、日本の公教育の概念に影響を与える考え方が生まれた。教育学の出現によって、その概念が強化されていったのではないかと思った。(認知) ●ヘルバルトが嫌われてしまった原因は、対面ではなく本で教育について述べたからだと思う。対面で同じことを論じていたら、相手の反応を見ながら話せるので、伝わりやすい言葉を使ったのではないか。(高度) ●ルソーの考えたこともすごいが、ペスタロッチの実行力がすごくて、見習いたいと思う。ヘルバルトの理論は難しく、誤解されたのは悲しい。多面的なことから興味を引き出して教えるのは必要だと思ったが、それが人間の形成になるというのは理解できなかった。しかし二の舞にならないようにワザだけど磨くことは危険だと思った。(認知) ●ヘルバルトの話は複雑で難しかった。ルソーよりもハインリッチのほうがいまの教育に近いと思った。(情工) ●5段階教授法によって、安易で低次元なhow to teachが蔓延することになったが、逆にいまの教育でヘルバルトの教育学と同じことをやっても、難しすぎるのではないかと思った。(認知) ●書くことがわからなくて、急いで知識を詰め込んで、何か書く。かなり図星だった。知識を教えて2段目の「道徳的品性の陶冶」につながるとは、やはり思えない。(機械) ●ヘルバルトが、教育の目的を「興味の引き出し(任意)」と「人間の形成(必然)」の2段階に設定したことが革新的だと感じた。このように段階的な教育が、現在の教育の基礎になっているように思えた。(経情) ●ヘルバルトの設定した2段目の「人間をつくる」という部分は、文化資本に恵まれている人でないとわかりづらいのに、当時の教員たちはたけのこ型で学んだというのがとても残念だ。ただ、つらら型が多かったとしても、結局一般人には伝わらず、そこまで変わらなかったのかとも思う。(材料) ●ヘルバルトが設定した「道徳的品性の陶冶」というのは、道徳という分野でまかなえるのではないかと思った。(機械) ●ヘルバルトの話を受けて、あらためて、難しくても深いところまで理解することが大事だと思った。(電電) ●アンケートでも「知識を求める」を答えた人が少なかったが、やはり教科専門性をもつ教員としての学びを追求したい。(認知) ●「知った」「わかった」で終わらせている部分が自分にもあるので、改善していこうと考えた。(認知) ●知識をただ教えて終わり、ではなく、その知識を通して人間をつくっていけるような教え方とはどのようなものか? もっとがんばって理解したいと思う。(機械) ●ルソーの、人間が自然に備わっていることに沿って支援していくという教育方針は、人が自ら動くので、自分で考える力も身につく気がしました。またヘルバルトの考え方、「多面的な興味をもたせて、まともな人間をつくる」というのは、いまだと興味のあることをネットで調べられるため、暗記する量が増えるだけで多面的な興味をもたせることがしづらいのではないかと思いました。 ●ルソーは、子どもに教えるのではなく自然から学び取らせ、ペスタロッチは日常生活から学ぶべきだと説いている。ただヘルバルトは、知識を教えることによって人間形成になると考えている。いったいどのように知識を得て社会で応用するのか、難しい問題だと考える。(応化) ●木曜日に、ある英語の先生が、期末テストに出る英作文は事前にお題を発表し、一度書いてもらったのをこちらで添削するので、それを暗記してきてくださいといっていました。暗記力のテストと間違えているのですかね。(応化) ●家に帰ってからmanabaでちゃんと読んでみようと思いました。ルソーに感銘を受け、ペスタロッチが自分自身で学校をつくったのがすごいなと思いました。(都市) ●特定の分野のことだけを教えるのではなく、さまざまな知識を与えることでもなく、それによって人間をつくるというような教育をできるようになりたいと思いました。(高度) ●生徒に教える立場として、教科を学ばせるのを極めればよいと私は考えていましたが、丸暗記させることが目的ではなく、人間性を形成する手助けをすることも教員としてする必要があると考えました。やはり教育を受けていないと、人格がゆがんだ人になってしまうのかと思うと、教員はかなり責任重大代と思うし、知識を覚えるだけで結局学びになっているのか、生徒たちのためになっているのかと考えていくことが求められているのだと考えます。(高度)
入学直後の1Sで教職課程の履修・受講を開始したみなさんは、いよいよこの2Sから本格的な教職科目(教職専門性を形成するもの)に取り組むことになります。教育行政学とこの教育原理がまず設定されているのは、法令上の構成がそのようになっているということもありますが、児童・生徒という立場ではあまりになじみ深く、それゆえに主観や経験をなかなか脱することができない学校教育という対象を、いままで考えたことが(たぶん)ないような角度、視点から捉えて、専門職をめざす立場で思考するためです。教育行政学は、学校教育にかかわる法・制度やその運用を中心に学び、教育原理は歴史・思想を軸に教育の理念を深めるものです。高等学校での区分でいえば、前者が政治・経済や現代社会、後者が歴史や倫理に近いといえます。いずれも学校教育を外側から捉えて、輪郭や性質を明らかにすることに主眼があります。この作業を怠れば、いつまでもユーザー(児童・生徒)側の記憶をひきずったまま教育する側に回ってしまうという失敗につながります。また、学校教育は不変・不動のものではなく、時代や社会状況、地域や、ほかならぬ生徒たちの傾向などによっても変わります。より正確にいえば、変わらない不動の部分と、変わる部分とがあります。自身の児童・生徒時代の経験というのは世の中全体からみればごくミクロのものでしかなく、それを一般化することはできませんし、何より「過去」のものですので、それを基準に未来の教育に携わることのまずさは、おわかりいただけるのではないでしょうか。 学校教育は曲がり角にあるといわれます。詳しくは本編で述べますが、いまのような学校教育のしくみが生まれたのは100〜200年くらい前のことです。日本では明治維新のあとで確立されました。そのころと現在とでは社会状況がかなり違います。私たちが情報や知識をどこから得るのかを考えてみると、テレビや新聞などのマス・メディア、そして現在ではそれ以上にインターネットの果たす役割が大きくなっています。メディアが未成熟だった明治時代にあっては、おそらく学校教育というのが最大の情報源だったはずで、全国に小学校がつくられ、そこで同一内容が教えられたということの意味は、現在よりもはるかに重かったのではないでしょうか。いま、学校の先生よりもインターネットの情報のほうがアテになると思っている児童・生徒は結構多くなってきていて、学校は情報や知識を得て自己を形成する場ではなく、友達と遊んで交流する場、さらには「行かなければならないことになっているから行く」というノルマやタスクの場になっているかもしれない。要は、社会全体の中で占める比重が軽くなっているということです。その学校教育のメイン・スタッフである教師をめざすみなさんは、そうした学校教育の本来の性質、今日的な変化、いまも変わらぬ優位性や特色などを専門的な見地からよく知り、今後もずっと上書きしていかなければなりません。学校教育を動態的に把握し理解することが、専門職への第一歩ということになります。 理系の大学は、文系に比べて専門の間口を狭く設定しています。したがって自身の専門分野というものを堅実に捉え、深く探究するというよさがあります。反面で、専門以外のことについての目配りが難しく、心理的にも「これは専門と違うので」というふうになりやすい。教職科目は基本的に文系ですので、専門ではないどころか関心や得意分野からかなり遠いものということになりやすいかもしれません。しかし職業適性や専門性の形成ということを考えるならば、そうしたエクスキューズは自分自身の得にならないばかりか、将来の教え子の教育にまで悪影響を及ぼしかねません。教職課程の学生はダブル専門をもっているのだという気概と自覚をもって、教職科目の授業と、その先にある教育の深遠な世界に向き合っていきましょう。 <使用するテキスト> 当科目の評定方針 ●課題の成果により評定します。課題は2〜3回を予定しています。 |