古賀毅の講義サポート 2025-2026

Principe de l’éducation

教育原理

千葉工業大学工学部・創造工学部・情報変革科学部・未来変革科学部・情報科学部・社会システム科学部 教職課程
後期 土曜67限(14:00-16:00) 津田沼キャンパス 6号館 611教室


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2025(令和7)年度 教職科目における指導・評定方針

20251112月の授業予定
11
29日 近代の教育思想
12
6日 新教育思想
12
13日 日本の教育思想
12
20日 社会変動と教育


次回は・・・
11-
新教育思想

前回、近代教育思想の本流ともいうべきルソー、ペスタロッチ、ヘルバルトの3人の思想を考察しました。ヘルバルトが亡くなったのが1841年ですから、欧米各国と日本で公教育が本格的に稼働するのは、そのもう少し後のことになります。つまりこの3人の考えた跡は「公教育につながる教育思想」ということであり、彼ら自身は、私たちがいま知っている学校教育の姿を見たことがないわけです。公教育が紆余曲折を経て定着し、社会にしっかりと根づいたという経緯は歴史編で学びました。今回は、いったん公教育が普及・定着したあとに登場する教育思想を取り上げます。すでにある公教育のあり方を前提として、それに対する批判や改善の提案ということになりそうですね。とくに、ヘルバルト(派)が嫌われてしまった原因を考えるときに、20世紀の教育思想の方向というのが、ある程度見えてくるように思います。ヘルバルト自身の考えとは別に、「多面的な知識」を積極的にteachしていくというのが、できたばかりの公教育(≒初等義務教育)にマッチしました。マックやスタバのような全国チェーンは、作業や客あしらいがどうしてもマニュアルに依存することになります。公教育もこれに似ていて、全国で均質的な教育をおこない、一定の成果を上げようというわけですから、教師の側の力量差にかかわりなく機能しなければなりません。ヘルバルト派のhow to teachは「ありがたいマニュアル」を提供するものだったのです。しかし、やがてマニュアル批判が起きるという流れも容易に予想できますね。人間の教育なのに非人間的だ、とか、おとな(あるいは国家)が教えたいと思っていることを注入するための仕掛けなのか、とか。

今回のテーマである新教育New Education / éducation nouvelle)というのは、一般名詞ではなく固有名詞です。ある共通の意味や方向を共有する教育思想の一群を新教育思想といい、それにもとづく教育改良の取り組みを総称して新教育運動といいます。おおもとをたどれば「自然」を重視したルソーの消極的教育観とか、生活の中で子どもたちの学びを引き出していくというペスタロッチの理念に行き着くのですが、ルソーやペスタロッチの生きた時代に、まだ産業革命は起こっていません。すっかり様変わりした近代的な社会(都市型・工業本位)の中で、子どもはしばしばシステムの一部のようにさせられ、受動するばかりで自分の意思や動機を学びにつなげることができず、いつしか産業社会を構成する部品のように育てられてしまいます。そのような情勢への不信感や不満が、新教育思想・新教育運動につながっていきました。新とついていますが、新教育が最も盛り上がったのは1920年代(いまから100年前!)です。興味深いことに、この新教育は特定の地域ではなく、当時の「先進国」において同時多発的に起こり、情報交換がおこなわれ、相互に影響し合いました。大正時代の日本もその一環であり、日本では大正自由教育と呼ばれる活発な動きがありました。これについては第12回で詳しく取り上げましょう。

新教育は、教育の捉え方を大きく変えました。「教師が教える」から「子どもが学ぶ」へ。同じことを別の角度から見ているだけ、ではありません。子どもの発達というところを軸にして教育を捉えてみると、それまでの教育の問題点や欠陥がわかってきます。要らぬことをして、必要なことをしていないのではないか、という問題意識が起こってきます。新教育の隆盛は100年前だといいました。その後に衰退したのかというと、そうではありません。伝統的な教育観と混じり合い、相互作用を見せて、現代の学校教育の中にしっかりと溶け込んでいるのです。なんとなく初等教育(専用)の考え方のように思われがちなのだけれど、1980年代以降は、中等教育にも(なんなら高等教育にも?)その考え方が浸透しつつあります。みなさんは21世紀の中等教育の教員をめざす立場ですので、時代の推移(社会の変化・教育課題の変化)と、対象である子どもならぬ中高生(青年期)をしっかり見据えたうえで、新教育的な考え方がいま何に対して有効に作用しているのかという点を洞察してみてください。(難しいですよ。でもそれが高等教育というものです)

 

REVIEW 11/29

今回はルソーなどそれぞれの思想を学びました。当時の社会の考え方を批判し、新しい考え方を出版できる心の強さに感心しました。思想の中には現代の教育のもととなる考え方が書いてあったり、教育の仕方や子どもたちの可能性などを見出すような内容があり、教養の高さや思想の柔軟さに圧倒されました。(機械)

ルソーからペスタロッチ、それからヘルバルトと、時代が進んでいくにつれて現代の公教育の考えに近づいていくことが見て取れた。ルソーは「子ども」を教育するということ、ペスタロッチは集合的教育、ヘルバルトは多様な分野の知識や道徳的品性の陶冶を教授するという、それぞれ違う考えがあるが、現代の公教育の基盤をつくり、それぞれつながる部分があることが重要だと思った。(認知)

今回の中ではルソーとペスタロッチに関して深く理解することができた。思想というのは新しいものでないと普及しないと思うが、ルソー「エミール」で子どもの属性にかかわりない教育や青年期のようなものへの言及、ペスタロッチがそれを実写化して「すべての子ども」に教育して教育の重要性や可能性を見出したことに、とても感動しました。(認知)

思想おもしろいと思った。思想の重要人物が何を経験して、何を思ってその思想をもったのかを知ることも、教育することにおいて重要なのかなと考えた。(応化)
ロックやルソーなど公民で出てくる思想家が教育にも影響を与えていたのが意外でおもしろかった。(高度)

いままでは思想家たちの名前や実績だけを知識としてきたが、これからは思想家たちがなぜそのような考えに至り、その思想が近代または現代の教育にどのように影響しているのかを考えるようにして、ただの知識としないようにしたい。(応化)

教員採用試験に向けた知識だけでなく、「未来の生徒のため」に主体的に探究することの重要性が示されていて、学習意欲を刺激された。(情工)

歴史的な出来事(宗教改革など)が、教育観や人間観にどのような影響を与えたのかという視点が明確だと思った。(認知)
啓蒙主義や産業革命といった社会の変化が、公教育の成立や内容に影響したことが明確で、思想が時代とともに生まれたものであるということがよくわかった。(応化)

教育思想が時代ごとに変化し、ルソーやペスタロッチの考えがいまの教育の基礎になっていることがわかり、歴史の大切さもわかった。(都市)
単なる歴史的な人物の紹介だけでなく、社会の変化に深く結びついて教育思想が発展してきたことを知ることができた。また現在の教育にもその思想の流れが影響を与えていると感じた。(都市)

三者それぞれ考えに違いがあり興味深かった。しかし思想の話が苦手で、今回の授業があまり理解できていないので、しっかり復習したいと思う。(情工)
18世紀の段階で、ルソーが青年期について「第二の誕生」と捉えていること、ペスタロッチが初等教育のような集団教育を実施していることに衝撃を受けた。前回までの歴史の話とはまったく変わった講義展開にまだ慣れず、難しい、ついていけないというのが率直な感想だった。今回分の復習をしっかりおこなって、「考える」ところまでたどりつけるようにしたい。(応化)

教育の思想は現代にもあるため、受け継がれていることがわかった。私はあまり思想というものが理解できていないと感じた。思想を広めればみんな同じような行動をするのか。(応化)
・・・> なるほど、理解できていないな。ここに書いてあるクラスメイトたちのレビューを全部読んでください。「思想というもの」が何であるのかが結構わかってくるはずです。なるほど、そのあたりに着目するのか、とかね。

ルソーやペスタロッチ、ヘルバルトの考え方を学んで、時代ごとにまったく違う考え方があり、どれが正解かわからないので難しいなと思いました。(認知)
・・・> もっともらしいことを書いたつもりかもしれませんが、もしかすると完全にずれているかもしれない。本当に「時代ごと」なのか、「まったく違う考え方」なのか、「正解」を探すべきなのか。なぜ思想を学ぶのかという原点の部分はとても大事なので、じっくりゆっくり考えてください。ここをスルーしてしまうと、丸暗記という低レベルの作業になってしまいます。

現代につながる教育の思想は次の世代の人に受け継がれ、変化していった。公教育がいまのように発展していない時代にこのような考えにたどり着き、後世に影響を残したのはすごいと思った。(情工)
・・・> 「思想」というほどにハイレベルなものに関しては、公教育はあったほうがいいだどうけれど、歴史を見ればそうでもないことがわかります。紀元前のソクラテスやプラトンからはじまるわけですからね。

哲学や文学が教育と深くつながっていたことを初めて知った。またその思想家の生い立ちを知ることで、それぞれの思想に対する見え方が少し変わったような気がする。(高度)


生地ジュネーヴに建てられたルソーの像

 

古典古代(ギリシア・ローマ)の哲学や文芸の復興について少し興味をもった。中世の宗教中心の価値観から離れて、古代の考え方や文芸を見なおしたことを知った。ルネサンスという言葉はよく耳にしていたが、今回の授業でそれがどういうものなのかがわかった。ルネサンスにより、人間らしい生き方や学問の自由が重視されるようになったということを、調べてわかった。エラスムスはギリシア語やラテン語を読みなおし、人間の考える力や心を大事にし、子どもの心や性格を育てることが大切だと主張したらしい。(都市)
・・・> なんだか本編のイントロ部分に関心が集中している感じもしますが(笑)、おおいに結構なことです。おっしゃるように、ルネサンス(Renaissance)って必ず習うし言葉は誰でも知っているけれど、歴史の学習はどうしても政治や軍事を軸にしますので、文化的な事象は深まらないまま放置ということが多いですね。そして、ルネサンスの全体を見通してみるときに、前半(おおむね1415世紀)はイタリアの諸都市が中心であり、文学・美術・音楽に見るべきものが多くありました。ダンテやミケランジェロなどが含まれます。15世紀末からイタリア戦争(北部イタリアが舞台に、散発的につづいた戦争ですが戦った主体はドイツの神聖ローマ皇帝とフランス国王)が起こってイタリア諸都市が荒廃したこともあり、1617世紀は北方ルネサンスと呼ぶ新しい展開を見せます。北方というのはアルプスより北ということ。いまのドイツやオランダ、ベルギー、イングランドなどに拠点が移動しました。内容も、文芸方面はもちろんあったけれど思想・哲学の成熟がこの時期の特徴です。エラスムスはその最大の人物。モンテーニュやデカルトもそうした展開の中で現れました。

当時は「子ども」が認められていなかったという価値観には驚いたが、その中で幼児期の教育が「自然のままに」成長することが必要だとして幼稚園が開設された。教育が重要なものだからこそ実現したのだと考えた。(経デ)
・・・> 教育一般というか「幼児教育」ですね。

近代教育思想の出発点がルソーであると初めて知った。ルソーといえば「社会契約論」だが、その他にもいろいろな思想を発表していたことが調べてみてわかり、あらためて偉大な人物だと思った。(高度)
・・・> あらためて、というのは「教科書に載っているから偉大なのだろう」という前提があったわけですよね(笑)。おっしゃるとおりで、後の世に対する影響という点では、ルソーの偉大さというか熱源としての力はすごすぎます。「社会契約論」「エミール」の他に、「人間不平等起源論」「新エロイーズ」「告白」などがあっていずれも大著。

「エミール」という小説は知らなかったが、内容を聞いて、あからさまな教育の話ではなく、エミールという人物がどんな教育を受けて成長していくかという話で、こういう教育をすべきであるという表現がされていることに興味が湧いた。ルソーが亡くなったあともその考えに人を動かす力があることに驚いた。幼いころの経験が人生において大きな影響をもたらす可能性があることに気づいた。(高度)

ルソーの「エミール」にある、「自然人」としての子どもの捉え方や、「幼い時期には支援が必要」「無理させることは有害」といった説明が印象に残った。(情工)

ルソーは社会に対して不信感を抱いており、そういった人間が新たな視点で物事を見ることができて、革命を起こせるのだと学んだ。私は3人の中ではルソーにいちばん共感した。(機械)

 
パリ パンテオンの地下墓所に安置されているジャン-ジャック・ルソーの棺
公教育の父コンドルセ、フランスの国民的文学者ユゴー、物理学・化学のノーベル賞二冠キュリー夫人なども同じフロアにいる

 

ルソーが子どもの発達を認識していたという話に驚いたのと同時に、前回の授業で学んだ青年期の認識にもつながっていて、印象的でした。(経デ)

青年期という概念がない時代に青年期の特性を客観的に理解していたルソーは、やはりすごいと思った。また彼の著作型の人々に影響を与えたことを知り、名前は知っていたが思っていたよりもずっとすごい人だとわかった。(応化)

ルソーが、教育は属性のためではなく人間のものだといったのはすごいと思うが、現代でもその属性のしくみが少しは残っているのではないかと思った。(認知)

ルソーが、生まれたての赤ちゃんはよいが社会に出すとよくなくなるといって、社会を悪であるとしているように見えましたが、ルソー自身は社会の一員である自分も疑わなかったのでしょうか。(高度)
・・・> 疑った末であろうと思います。社会批判というのは基本的に「いま、この社会」に対するものであり、それを改善ないし改良するという指向につながります。「社会契約論」のほうを読むと、それなりに見通しが立ってきます。

ルソーがいう社会やおとなの教育によって歪められた人たちの中に、ルソー自身もいたのでしょうか。青年期の誕生なども実体験がもとになったのでしょうか。(材料)
・・・> 実体験が、思想が生まれる際に大きな意味をもつことはいうまでもありませんが、「もとになった」とするのはやや安直で、おそらく誤解につながります。実体験というのは誰にでもあるものです。そこに加わる外からの刺激やそのタイミング、量などによって思想は生まれ、発展していきます。ルソーの場合、ギリシア・ローマの古典の影響が最も強かったといえます。

中学生のころに学んだルソーは、このおっちゃんおもしろい考え方してんな〜って感じだったけど、あさかに反社会的思想と聞いて、やべぇなこのおっちゃんと思った。(機械)
・・・> やべぇ、というのは昨今のノリで「すばらしくよい」という意味だよねきっと。社会批判的なスタンスに対してSNSで猛攻撃する人がこのごろは多いけど、社会は批判するべきものです。

ルソーが「むすんでひらいて」を作曲したことに驚きました。今度原曲を聴いてみたいと思いました。(高度)
「むすんでひらいて手をうってむすんで」という歌をルソーがつくったということを初めて知った。日本の歌だと思っていた。(高度)

ルソーがこんなに教育の祖のように扱われてきたのに、自分の子どもを4人とも捨てているというのが、かけ離れすぎていておもしろかった。(応化)

ルソーは、すごく思想が強いなと思ったが、理解はできるので興味深い内容だった。教育はよくも悪くも統一された教えを学ぶので、義務教育がある日本ではほとんど起こらない考えなんだろうと貴重さも感じた。年代が変わるにつれて思想が全然違くておもしろかった。教育型の違いで影響があると少数側や強い思想は嫌悪されてしまうのかと感じた。(応化)
・・・> 「違て」はだめよ。気づいていないのならいますぐクセづけましょう。ルソーが生きたころの西欧には、義務教育(公教育)はなく、もちろんその時期には日本にもありません。「義務教育がある現代の日本では」ということであれば、指摘のとおりこのような強い思想は生まれにくいですし、嫌悪まで行かずとも受け入れられにくいのだろうと思います。「エミール」冒頭でルソーは、「偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度」といっています。公教育は制度としてすっかり定着し、いまさら誰も疑わないようなしくみになりましたが、それは惰性化とか儀式化なのではないか?と、「中等教育の諸課題」を通じて問いかけてきました。いまの学校教育が「偏見、権威・・・」になっていないのか、人間の成長や可能性をおさえつける社会制度になっていないかどうか、そこを考えてほしいわけです。


ある年の夏にパリからローマに向かう航空機に乗ったら、眼下にスイスのレマン湖が見えた
ジュネーヴ国際空港や湖から流れ出すローヌ川の位置をヒントに、グーグルマップで確認してほしい
湖の西側(写真の下側)の一帯がジュネーヴ市の中心部である

 

ペスタロッチが、社会が不安定な時代にあっても貧しい子どもたちを守り、教育によって立ち直らせようとした点が印象的だった。彼の実践が全欧に広まったのは、教育を通して人を救おうという強い信念が多くの人に響いたからだと思った。(認知)

ルソーの唱えたこととペスタロッチの実行したことは、少し違うと感じた。ペスタロッチは学校という「集団」で子どもを教育した。ここでルソーとずれているのではないかと思った。現実ではそれが最善なのだろう。おとなになったら別の人とかかわって生きていかないといけないから。(応化)

同じ時代にルソーとペスタロッチとヘルバルトがいたことで、一気に教育のやり方が進化したと考えられるので、もしペスタロッチがいなかったらいまの教育はどうなっていたのだろうと思った。(認知)

治安の悪化を防ぐためにペスタロッチを支援するという考え方は、エリートの人たちが考えそうな感じがした。ただ、それのおかげで集団としての教育の場ができたと考えると、支援した人たちも少し貢献していると思った。AIが発達してきているいま、教わる側は表面的に覚えることしかしていないような気がした。(認知)
・・・> AI以前からそうかもしれませんよ。そして、AI時代が本格到来したら「覚える」必要すらなくなってしまう。

ロックの、人間は白紙の状態で生まれ経験を得て将来が決まるという考えには、教師のかかわりが子どもの将来を決める可能性があるということをあらためて感じました。また、子どもが本来もっている力や善をどう育てるかというのが教育の役割であるというペスタロッチの考え方が、ロックの考え方に似ていると思いました。(機械)

ペスタロッチが教育の可能性を実証して、現代でもその理念が通用していてすごいと思いました。(認知)

3人とも現代の公教育に影響を与えた人たちだった、私はペスタロッチがいちばん活躍した人だと思った。子どもたちを集めて集合的な教育をおこなったことの貢献は大きいと思った。(電電)

ペスタロッチが千葉工大に影響しているのにとても驚きました。どのように影響しているのかがとても気になりました。(高度、類例複数)

最下層の子どもだというだけで教育の可能性を認められていなかったのは、いま「中卒・高卒だから」「Fランだから」という考えと同じで、試す前から決めつけて可能性をつぶしてしまうのは昔から変わらないのかと思ってしまった。たしかにあきらめるのは簡単だけれど自分や人々の未来のためにと考えられる人が増えればいいなと思った。(応化)

ペスタロッチやヘルバルトの取り組みを学び、教育は感情論や善意だけでは成立しないと思った。(都市)

 
ドイツ北西部の都市マンハイムを散策していたら、たまたま「ペスタロッチ学校」なる小学校があった(右は最寄りの電停)
本人に関係があるのか名前にあやかっただけなのかはわからないが、尊敬してやまない教育者の名前に
偶然出会えて、とてもうれしくなった

 

ヘルバルトは、知識をバランスよく教え、多面での興味の引き出しに努めるべきだと述べましたが、これには現代っぽさを感じました。私は、この人はルソーが言及した青年期のようなものを読み取り、時代の流れに合わせてこの考えを述べたのか? だとしたらすごいな、と考えました。(認知)

知識をもつことが、また新たに入ってくる知識の連合を助けるという考え方は、神経モデルの活性化と似たところがあり、今後学科での認知や神経モデルの知識も実際の教育に生かせるように、整理しておこうと思う。(認知)

ヘルバルトは多面・均等な興味の引き出しというのを教育の下位の目的としているが、現代の学問でリベラルアーツといった、多面的な教育が一部の学部に取り入れられている。ヘルバルトの論が非常に有効であることを身近な例を通じて実感するとは思わなかった。(機械)
・・・> 工業大学というのは(現代的な意味での)リベラルアーツとは反対側というか、わりと対立的に捉えられることが多いかもしれませんね。私もリベラルアーツの有効性とか価値には深く共感するひとりですが、さりとてそれが文化資本に恵まれた階層でなければなかなか受け入れられにくく、定着も難しいだろうということも実感しています。ヘルバルトの時代(西暦1800年あたり)の「多面的な興味」というのは、産業革命に伴う視野・行動範囲の拡大ということに連動しています。農村共同体に閉じた生き方では済まなくなったときに、あらかじめ学んでおかなければならないことが量的に増えて、今度はそれを質的に支える土台をどうするかと考えると、「いろいろな知識をとにかく獲得する」ということを避けられないわけです。

ヘルバルトは、ペスタロッチの考えや集団教育に対する反論のようなものがあったのでしょうか。(材料)
・・・> 反論というより批判。批判は当然あります。ただ集団教育はむしろ是認しているのでは?

道徳的品性の陶冶、といわれたときに、たしかに既存の知識と結びつかないなと思った。(高度)
ヘルバルトの段階的な教授法を知り、無意識でやっていたが、いわれてみるとたしかにそうやって覚えていると思うところがあった。いまはまだ「道徳的品性の陶冶」が全然わからないが、しっかりわかるようになりたい。(機械)
・・・> 「覚えて」いるだけだと陶冶に向かわないかもしれない(向かうかもしれないけど)。学びが知識のインプットで完結する、と、まだどこかで思っていないだろうか。(レビュー主だけでなくみなさんに)

道徳的品性がほしいといっていたが、万年道徳2の自分が得られるはずがないよな〜と、それなりに絶望している。
・・・> 道徳的品性を望んだのではなく、道徳的品性の陶冶に到達してほしい、といったのです。本体部分を切り捨ててどうする。そして、万年道徳2というのは一種の自虐ネタなのだと思うけれど、それは本当ではないことは自分でわかっていますよね? 小・中学校の道徳は、19582015年は「道徳の時間」(特設道徳)、それ以降は「特別の教科 道徳」ですが、いずれも数値評価をおこなわないことになっています。2とか5というのはありえません。まじめなことを申しますと、もうちょっとギアを上げてくれませんと、教職課程で学んでいくことがこのあと難しくなってしまいます。

道徳的品性の陶冶が教育の目的として忘れられているのが、とても悲しいように感じた。教える方法だけでなく、私たちがいま学んでいる歴史や思想は、忘れられてしまった教育本来の目的を学んでいるのだなと思った。(都市)

道徳的品性の陶冶にたどり着けるのは、やはりお金持ち、エリートに限られたのではないかと思った。(認知)
ヘルバルトは、多面的な知識を教えて道徳的品性の陶冶を目標としたが、現代教育がめざすあり方なのかなと思いました。(経デ)
・・・> 私はめざしていますし、めざすべきだと強く考えていますが、世間はあまりピンと来ていないのではないかな。上の方がおっしゃるような文化資本の問題がかなり関係しているようにも思います(「エリート」ならばたどり着けるかというと、そうでもない)。


ドイツ ゲッティンゲン大学 理系・文系ともにすぐれた研究を送り出す名門大学
ヘルバルトはケーニヒスベルク大学とこのゲッティンゲン大学で教授を務め
教育学を生み出した 墓所もこの町にある
さすが大学都市で、市内のあちこちでeduroamが通じたのはびっくり

 

教育の思想は、時代の流れ(革命や新たな科学技術の登場など)に応じて新たなものが増えていっている。だが思想は増えることがあっても、完全に移り変わることはないと思った。思想は、物や技術のように古いものにはなっても、捨てたり置き換えたりすることはできないと思うからだ。(認知)

思想か相互の関係が対立していたりする部分もあるが、その当時から考えられていることが現代につながっており、時代を越えた考え方に、感慨深いと感じた。(高度)

近代の教育思想の全体を通して、歴史がループしていることがとても興味深かった。(高度)

ルソーとペスタロッチに関することは理解できたが、ヘルバルトは理解できず、ひとつの線で結び整理することができなかった。ルソーの「エミール」とペスタロッチの「シュタンツだより」はおもしろくて興味が湧いたので、紹介された箇所以外も本で読んでみたいと思う。(認知)

子どもの存在が認められていない時代に、教育によって子どもの人格を形成していくことができるという考えをもつことができたことに驚いた。爆発的に公教育が流行していった時期においては、抽象的な人格の形成よりも、実践的で具体的な知識の習得に焦点が当てられてしまうのは仕方ないと思う。(情工)

ルソーが思想の原型をつくり、それがペスタロッチに引き継がれ、それをヘルバルトが引き継いだというのは、まるでバトンをつなぐような感じで、胸が熱くなった。(情工)

ルソー、ペスタロッチ、ヘルバルトの3世代で、それぞれ前の世代の影響を受け継いでいるわりには、ルソーの考えが後の世代でほとんど変わってしまっていておもしろいと思った。(高度)
ルソーから約60年でほぼ真逆の考え方になっており、興味が湧いたのと同時に驚いた。(応化)

ルソーに関しては、教育観は「生きるための、人間に共通すること」以外の余分なことは教えないという考えだったが、ヘルバルトは多面的な知識を教えるという点で違う。ヘルバルトは、集団教育をはじめたペスタロッチの集団生活の中での課題とその学びを消化して、学習のプロセスを体系化したのだと思う。(認知)

ルソーの書いた「エミール」を読んで、ルソーの「人間」についての思想の深さに驚かされたが、彼の生い立ち、歩んできた道の話を聞いてさらに驚かされた。世界の全体を見て昔の考えを学び、歴史とともに物事を深く考え、人類の思想を導いてきたルソーだが、ルソーだけでなくペスタロッチやヘルバルトなどその考えを継ぐ者たちが思想を抽象的なものから具体的なものへと変換して、教育の基本をつくりあげた歴史に感動した。この、ルソーの思考プロセス(物事への意識の向け方)やペスタロッチ、ヘルバルトの実際に活用させ発展させる力を見習って、常に考えを止めず。教育だけでなく人間について考える人間をめざしたい。ただ、ルソーとヘルバルトとで真逆の考え方になったのは、思想に加え、現場での経験によって見え方が変わるのだなと感じた。私も、ヘルバルトはもっと評価されるべきだと思った。(応化)

 


開講にあたって

教育原理は、同じく2S配当の教育行政学とともに、最初に教職専門性に触れる機会となる科目です。学校教育というあまりにおなじみの対象に対して、自身の経験や思いではなく、歴史的・社会的な文脈からアプローチするのがこの両科目。教育行政学が、法・制度・政策といった面から学校教育を考察するのに対し、教育原理は、教育の理念・歴史・思想を扱います。1949年に現在のような教員養成のしくみ(授業本編で紹介する「開放制教員養成」)が成立した当初からあるのは、この教育原理と教育心理学(本学では4Sに配当)だけです。教育の歴史や思想って、後ろ向きというか、もう終わってしまった過去を学ぶので、なぜこれが教職専門性の最初に来るのかよくわからないという人もいることでしょう。真の意味は学んでいく中で自ら感じ取って(体感して)いただかないとどうしようもないのですが、逆にこの部分の知識や見識が欠けてしまうと、場当たり的で根拠の薄い教育を連発するようなダメな教員になってしまうかもしれません。そもそも、いま私たちが知るような学校教育がはじまって、200年になるかどうかです。学校教育がはじまって、よかった(進歩した)と思いますか? 副作用も起こったと思うのだけど、それを上回るだけのプラスが生まれたといえるでしょうか? それは今後もずっとつづくのでしょうか? 歴史的な思考は、そうした未来へ向けての展望に直結します。

千葉工業大学の教職課程で取得できる教員免許状は、中学校と高等学校のものです。これらは教育段階でいう中等教育secondary educaction)に属します。いま大学生であるみなさんは、初等・中等教育を経て高等教育の入口にたどり着いたところですね。では、初等教育や高等教育と比較した場合の中等教育には、どのような特長や特質があるでしょうか。また、どのような弱点や欠陥があるでしょうか。特長は生かし、弱点はそれを意識して回避すべきですね。学校教育の「中の人」になると、そうした性質を熟知したうえでの役割を求められます。中等教育は、二つの面で複雑さ、ややこしさを抱えています。一つは、そこで学ばれる(私たちを主語にするなら「教える」)内容が高度で専門的だということです。高等教育ほどではないが、かなり抽象度が高く、量もそうですが質がとにかくハード。いま一つは、そこで学びの主役となる中学生や高校生の年代というのが、発達段階でいう青年期という時期である点です。子どもでも、おとなでもないその過渡期。この青年期は、子どもやおとなと違って、まるごと把握して理解するのがきわめて難しい対象です。そんな相手に、抽象的で高度な内容を教えるのが私たちの任務ということになります。この教育原理では、中等教育の成り立ちにとくに注目して、その特長や弱点をじっくりと観察します。日本でいえば、第二次大戦後の改革の中で、初めて中等教育がすべての人に開放されました。それまでは「中等教育は任意なので、受けたい人だけどうぞ」だったのです。なぜその時期に中等教育がすべての人に開放されたのか。それは「よい結果」だけをもたらしたのか。歴史の中から、そうした重要なものをすくい上げていってください。

当科目のもうひとつの重要な内容が教育の思想です。教育は人類につきものですし、誰もが学校教育を(児童・生徒として)受けていますので、理想の教育とか、教育の問題点というものに対する意見を各自それなりにもっているのではないでしょうか。しかし主観や経験だけから導かれる教育観は、しばしばハイリスクなものです。独りよがりで、およそ自分以外には通用しない論理なのかもしれません。学校教育がはじまってから現在までのあいだに、無数の人が経験した教育の中から特徴的な要素や側面を取り出し、適切な言葉で表現した教育思想は、私たちの教育観を立体的で「使える」ものに鍛え上げてくれます。いずれも典型的な文系のアプローチですので、理系のみなさんにはちょっと面食らうところもあるのでしょうが、教育者をめざすのであれば避けては通れない思考法といえます。ゆえに、大半の教職科目に先立って、この科目が設定されているのだとお考えください。


使用するテキスト
古賀毅編著『教育原理』(学文社)

 

 

 

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