古賀毅の講義サポート 2025-2026
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Principe de l’éducation 教育原理 千葉工業大学工学部・創造工学部・情報変革科学部・未来変革科学部・情報科学部・社会システム科学部 教職課程 |
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2025(令和7)年度 教職科目における指導・評定方針
2025年10〜11月の授業予定
10月25日 公教育の変容(日本)
11月1日 中等教育の諸課題(1)
11月8日 中等教育の諸課題(2)
11月15日 中等教育の諸課題(3) *オンライン(動画配信)
11月29日 近代の教育思想
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欧米と日本における近代の教育のあゆみを見てきました。とくに私たちの主たる関心の対象としての中等教育(secondary education)が、まったく異なる2つの発生源をもっていること、ある時期以降に「誰もが受けるべき教育」として認識され、制度の単線化が図られたことなどを確認したところです。そうして誰もが中等教育を(生徒として)経験するようになって久しいので、中学校や高等学校のあり方や内容についても「そんなものだ」と当たり前のこととして捉え、そこについていけるかどうかは個々の生徒の問題である、というふうに捉えられるようになっています。「ついていけるか」というのは、教科の学習はもちろんですが、集団生活とか、課外活動、進路選択への準備といったことも含みます。実際についていけない生徒、十分についていくことが難しい生徒が少なからずいることは、みなさんも実例ごと知っていることでしょう。教職課程の学生としては、そうした事象をプロの教育者の視線で捉えなおし、専門的な見地から考えることをめざしたいところです。自身が専門家として向き合っていく対象=中等教育は、どのような姿として見えてくるでしょうか。 今回は、中等教育がもっている性質とそれに伴う教育課題として、歴史的な成り立ちに由来する構造的な問題(欠陥?)を検討します。下構型(エリート型・つらら型)と上構型(非エリート型・たけのこ型)の中等教育が、単線にまとめられたとき、どうしても下構型の性質が強く残ることになります。上構型が本来もっていた進路ごとのこまかな対応や、職業や社会生活につながるような学習の手ごたえのようなものが後退して、抽象的で概念的な学びが主になります。「みんなのための中等教育(Secondary Education for All)」にはなったけれども、「みんな」がその学習についていけるわけではなく、それ以前に動機を喪失してしまうようなこともしばしば起こりました。英語という教科を例に考えてみましょう。英語が小学校の教科に取り入れられたのは2018年度からと新しいので、ひとまず「中等教育で初めて学ぶ教科」であると考えてください。実際に、英語くらい出来のよしあし、動機のあるなしがはっきりする教科も他にありません。日本語は多くの生徒にとって母語ですので、「国語」という教科ができなくても困りませんが、英語は多くの場合、自分たちの外側にあるものですので、できる・できないが、本当にくっきり明確にあらわれます。「あまりよくできない」「どちらかといえばわからない」とかではなくて、「できる」か「できない」かがはっきりします。後者はおそらく、英語の授業で自分が何を学んでいるのかという手ごたえすら得ることができないままではないでしょうか。もともと日本の英語教育は、下構型(つらら型)中等教育に附随する教科でした。高等教育段階では英語やドイツ語などの外国語の文献を読めなくては学問ができなかったので、その準備のため(高等教育で学べるだけの前提を身につけるため)に、中等段階から必須だったわけですね。しかし戦前には、高等教育に進む者はひとにぎりの人だけでした。英語は本来的にエリート型の教科だったわけです。それが、中等教育の単線化に伴って、「みんな」が英語を学ぶようになったのが戦後です。一部のエリートだけが学ぶ場合と、「みんな」が学ぶ場合とでは、学び方(教え方)が同じであってよいはずはありません。しかし、実際には戦前のあり方をさほど変えることもないまま、「みんな」を教えてしまいました。わかりやすくするために英語を例に出しましたが、数学も理科も同じです。 個々の教員に、教育の制度や仕様を変える力は残念ながらありません。でも、現状のしくみの欠陥を自覚して、そのマイナス面をなるべく抑えつつ、よさを生かしていくということは十分にできます。欠陥とかマイナスだと気づかないのであればそれはもうどうしようもなく、現に気づけない先生も少なからずいるのでしょうね。また、高校や大学に進学する際には入試という工程を経る必要があり、そこには一定の努力や準備が必要になるため、中学校や高校での学習が「受験向け」にならざるをえない面がどうしてもあって、そのことが本質的な構造の矛盾を覆い隠してしまうという側面があります。大学に入学してさほど時間の経っていない1年生だからこそ、ある程度のゆとりをもってじっくり思考できるのではないかと思います。そのような時期のみなさんに、現代の中等教育のもつ課題を、あらためて考えていただく機会にします。 REVIEW (10/25) ●今回の授業を通して、歴史を知ることで、教育の仕方や学校制度、法律が変わった理由を知ることができたと思います。戦後の教育改革は、アメリカの占領が終わったあとも、実はアメリカの思惑どおりに日本は改革していったのではないかと思いました。(機械) ●授業を受けて、教育の歴史の流れが二転三転していることに驚いた。また教育行政学の授業の話と結びつくことが多く、おもしろかった。(高度、類例複数) ●戦前・戦後、占領前後と、教育の変化が激しく、現在までの教育にどうつながっているのかがわかった。当時の教育が時代の流れで変化していったが、その理由を知るためには、国際情勢を知り、民衆の価値観について考えなければならないと考えた。(経デ) ●日本の教育は、戦後のシステムも逆戻りコースも、戦争や他の国との関係から、されるままにそうなったのではないかと思う。(認知) ●今回の授業を受けて、学校の制度がどのように複線型から単線型に変化したのか、変化するまでに何が起こったのかを学ぶことができました。教育実習のときに道徳を教えなければならないということを初めて知り、少し不安になりました。(認知) ●公教育は、ベースは変わらず新たなシステムを入れ、少しずつ変わっていることがわかった。今後どう変わっていくのかさらに気になった。(応化) ●教職の授業を受けるたびに、歴史を覚えていないので、学びなおしたいと感じる。教育改革について学んで、変化するのが速いと思ったが、現代も変化しつづけているので、それについていけるようにしっかりと学びたいと思う。(情工) ●教育行政学の授業で、教育基本法は日本国憲法から抜かれてつくられたということを学んでいたが、教育をめぐるしくみにまで話が広がるという部分では、本当に必要なものを整え、つくっていくことが重要であると強く感じた。(認知) ●教科書の墨塗り時代を、勝手に長期間だと思っていましたが、あまり長くなかったことを知り驚きました。(高度) ●米国による戦後の日本の支配を政治や教育の面において日本のためのものであったか?という否定的な意見があったが先生はどう考えているか。(応化) ●今回、戦前・戦後の変化の話を聞いたとき、自分が生徒として経験してきた「教育」のイメージとの相違点をいくつか感じた。なぜ「経験に囚われない考え方を身につけること」が1Sの教職概論で強調されていたのかがよく実感できた。(応化)
●戦前と戦後で教育理念が大きく変わっていて、「人格の完成」を学校でしてくれて、とてもすばらしいと思った。人前に出て恥ずかしくない人になりたい。(応化) ●戦後の単線型学校制度と中等教育の普遍化は、教育の機会均等を実現し、民主的社会の形成に大きく寄与したことがわかった。(都市) ●戦前と戦後でこんなにも改革が起こって、新たなシステムが導入されているとは思わなかった。性別など関係なく誰もが大学に行くことができるチャンスを手にしたのは、よいことだと思った。(電電) ●複線型の学校は、どのように中学校/高校/大学に分類されたのですか。旧制高等学校はなぜ高等学校ではなく大学になったのか。(都市) ●戦前の道徳教育は、これが正しい、といった教育のあり方だったが、戦後は考える材料を与え、無理な教養をしない教育へと変化していったことがわかった。この変化がよかったのかどうかはわからないが、それぞれが考える力を伸ばすことができると思った。(機械) ●主要5教科の中では社会がいちばん新しく、いま私が選択している情報は全教科の中で最も新しいということがわかった。(高度) ●占領期の社会科の位置づけが、現在とは違っていてとても興味深かった。(高度) ●社会科の先生ってすごいんだなと思った。道徳の授業がどのように生まれたのか知って、よい人間になるために必要なんだなと思っていた気持ちが薄れた。(認知) ●道徳が、学校生活全体で学ばれているということ、そのため知識を教えるのではなく考え方を教えているのだとわかり、とても納得した。(機械) ●学校教育のすべてが道徳、という言葉が印象的だった。学校に行かなくても勉強できるという環境の中で、それでも学校に行く理由が明確になったと感じた。たしかに道徳は学校でしか学べないと思って、深まった。授業でもあったように、学校全体を通しての道徳教育であることは変わらないと思った。(応化) ●道徳教育の時間に、休み時間や社会科見学、お掃除の時間も含まれていることに驚きました。(認知) ●道徳教育は、私が受けたものと現行のものとでしくみが違うことを知り、教育が変化することを実感した。(応化) ●全面主義道徳教育というのは、公教育が存在する意味そのものだと考える。修身のようなコマで「社会」や「自分のあり方」を学ぶのではなく、学校での生活全体で知識を得て、そこから自分はどう考え、どう生きるのかというような教育は、私教育ではできないことだと思う。(認知) ●学校にかかわるものすべてが道徳の教育にかかわっていて、誰かから正解を教わる教育ではなく、芽だけ出す手伝いをして後は生徒自身の中で育てるという方針で道徳教育がおこなわれていたことに納得した。とくに、人が社会に出ていくときに重要な役割を担う道徳は、教育の仕方が難しい。ある意味、国民性までも決めてしまう科目であるため(戦前の教育を見てわかるように)、これからの教育でも、変わっていく社会に合わせて学校教育全体を見つめなおしていく必要があると思った。(応化)
●戦争がいかに教育に影響を与えるのかを知った。日本の教育は、私としては戦後のほうがよくなったと思うが、やはり戦争は起きてはならないとも考えた。(電電) ●個人的に気になったのは教育行政の再集権化である。公選制だと政治的な考えをもった人がいるが、任命制にすることで危険が減ったと考えられた。(機械) ●開放制教員養成があることで、さまざまな分野で学んだ人が教員をめざすことができ、教育の内容がよりよくなる。また、教員不足の緩和などにもつながる。(都市) ●開放制教員養成だけがいまも残りつづけているので、これから先も残ってほしいと思いました。(高度) ●戦後になって、なぜ教員養成が師範学校から一般大学における開放制に変わり、それが今日までつづいているかがよくわかった。(認知) ●アメリカによる占領教育政策によって、戦前のシステムが大きく変化し、新しく生まれた制度などもあるが、教員養成は開放制にするのもいいが師範学校も残し、より専門的な指導ができる教員を養成するのもよいのではないかと思った。(高度) ●占領後に学校給食が生まれたということに驚いた。(電電) ●当時の教育改革には、世界情勢により、近隣国の共産主義などの影響もあったが、さまざまに改革していきいまのような制度になったのだと驚きました。いまの世界情勢についても目を向けていきたい。(高度) ●○○大学よりも格上だと知って、少し千葉工大を好きになりました。(認知、類例複数)
●なぜ逆コース的な教育の変革が起こったのか疑問だったが、世界情勢によると聞いて、納得してしまった。いまの教育の基盤ができているような感じでおもしろかった。(高度) ●教育行政学の授業で学んだ逆コースというのが、どのような世界情勢のもとで起こったのかを今回の授業を通して学んだ。(高度) ●今回の授業を通して、逆コースがなぜ起こったのかがわかった。アメリカから反感を買いそうだったのにおとがめがなかったのは、冷戦のためだったということが理解できておもしろかったです。(経デ) ●日本の教育の逆コースについて、その原因となったのが、冷戦による社会主義の広がりを防ぐためという話。やはり歴史は一つの出来事を他の出来事とつなげながら見たほうがおもしろいと感じた。日本が表向き独立したということでも、アメリカの思いどおりだったのかもしれないと思った。(機械) ●戦後の教育改革を進めていたが、冷戦によって、日本は自国の防衛、アメリカは日本を共産主義にしたくないという利害の一致があったことで、修正がおこなわれた。冷戦という要素を考えると、いまの日本の教育には地理的な要因も大きくあったのだと思った。(認知) ●逆コースを別の角度から見ることができた。逆コースが起きたのは、国民の思想を統一するためなのか、民主化の修正をしたい逆コースだが、いまはなぜその動きはないのか、なぜ止まったのか? (応化) ●戦後の教育改革の内容の節々に、「国から押しつけたい」という考え方を感じた。国際社会の動きに教育の形が振り回されているように感じた。(認知) ●戦前から戦後で大きく変わった教育システムを戦前のように再び戻すという動きがあった影響でいまの日本の教育があると考えると、占領期の教育改革は意味はあったのかと思った。(認知)
●教員の数が足りずに質よりも量を優先した結果、誰でもできるような主知主義にもとづいた教え方に戻ってしまったのは、とても残念に思う。現代に求められる教師像は、知識を求めるだけでなく非主知主義のような、考え方や知識を用いてどのように社会を生きていくのかを教える姿なのではないかと考える。(情工) ●教員が足りず、質より量ということで開放制が残ったというが、いまの教員、教育の質は昔と比べてどうなっているのか、考えてみたい。(高度) ●最近のニュースで、女子生徒にわいせつな行為をして免許を剥奪され、再取得するということを2回くらいやって、最後は無免許で教えるということをやった人が逮捕されたというのを見て、日本の教員の管理が少し緩いと感じた。今も昔も、理由や背景は違えど、教員は不足しているのだと思った。ただ、数だけ増やすことはよくないと私は思う。(認知) ●開放制教員養成によって多くの教員が誕生したが、その中には生徒ひいきをする教員や、やる気がない教員、罪を犯す教員さえもいる。教員不足ゆえ、質より量を重視しなければならないのはわかるが、それが前述のような事態を招いているような気がする。(認知) ●教員採用試験の一次試験が国によって統一されるのは、黒板さえ書けない人を青田買いするようになったからなのかと考えた。(高度) ●教育について、私はあまり口を出せる立場ではないのですが、そろそろAIの授業をつくらないと、国家の利益が損なわれると思いました。(応化) ●かつて東京都が、東京府と東京市の2つに分かれていたことに驚きました。(認知) ●ころころ変わる教育のシステムにも歴史的な意味があった。よいと思われる点も悪いと思われる点もあるが、結果的にいま日本が戦争しているわけではないはずなので、このまま現在の教育まで学びをつなげていく。(認知) ●時代とともに変化する教育が、今後あらぬ方向に進んでしまわないか不安になった。(情工) ●いまも教員不足であると思いますが、開放制教員養成の他に、教員養成の方法が追加されることはあると思いますか? (高度)
教育原理は、同じく2S配当の教育行政学とともに、最初に教職専門性に触れる機会となる科目です。学校教育というあまりにおなじみの対象に対して、自身の経験や思いではなく、歴史的・社会的な文脈からアプローチするのがこの両科目。教育行政学が、法・制度・政策といった面から学校教育を考察するのに対し、教育原理は、教育の理念・歴史・思想を扱います。1949年に現在のような教員養成のしくみ(授業本編で紹介する「開放制教員養成」)が成立した当初からあるのは、この教育原理と教育心理学(本学では4Sに配当)だけです。教育の歴史や思想って、後ろ向きというか、もう終わってしまった過去を学ぶので、なぜこれが教職専門性の最初に来るのかよくわからないという人もいることでしょう。真の意味は学んでいく中で自ら感じ取って(体感して)いただかないとどうしようもないのですが、逆にこの部分の知識や見識が欠けてしまうと、場当たり的で根拠の薄い教育を連発するようなダメな教員になってしまうかもしれません。そもそも、いま私たちが知るような学校教育がはじまって、200年になるかどうかです。学校教育がはじまって、よかった(進歩した)と思いますか? 副作用も起こったと思うのだけど、それを上回るだけのプラスが生まれたといえるでしょうか? それは今後もずっとつづくのでしょうか? 歴史的な思考は、そうした未来へ向けての展望に直結します。 千葉工業大学の教職課程で取得できる教員免許状は、中学校と高等学校のものです。これらは教育段階でいう中等教育(secondary educaction)に属します。いま大学生であるみなさんは、初等・中等教育を経て高等教育の入口にたどり着いたところですね。では、初等教育や高等教育と比較した場合の中等教育には、どのような特長や特質があるでしょうか。また、どのような弱点や欠陥があるでしょうか。特長は生かし、弱点はそれを意識して回避すべきですね。学校教育の「中の人」になると、そうした性質を熟知したうえでの役割を求められます。中等教育は、二つの面で複雑さ、ややこしさを抱えています。一つは、そこで学ばれる(私たちを主語にするなら「教える」)内容が高度で専門的だということです。高等教育ほどではないが、かなり抽象度が高く、量もそうですが質がとにかくハード。いま一つは、そこで学びの主役となる中学生や高校生の年代というのが、発達段階でいう青年期という時期である点です。子どもでも、おとなでもないその過渡期。この青年期は、子どもやおとなと違って、まるごと把握して理解するのがきわめて難しい対象です。そんな相手に、抽象的で高度な内容を教えるのが私たちの任務ということになります。この教育原理では、中等教育の成り立ちにとくに注目して、その特長や弱点をじっくりと観察します。日本でいえば、第二次大戦後の改革の中で、初めて中等教育がすべての人に開放されました。それまでは「中等教育は任意なので、受けたい人だけどうぞ」だったのです。なぜその時期に中等教育がすべての人に開放されたのか。それは「よい結果」だけをもたらしたのか。歴史の中から、そうした重要なものをすくい上げていってください。 当科目のもうひとつの重要な内容が教育の思想です。教育は人類につきものですし、誰もが学校教育を(児童・生徒として)受けていますので、理想の教育とか、教育の問題点というものに対する意見を各自それなりにもっているのではないでしょうか。しかし主観や経験だけから導かれる教育観は、しばしばハイリスクなものです。独りよがりで、およそ自分以外には通用しない論理なのかもしれません。学校教育がはじまってから現在までのあいだに、無数の人が経験した教育の中から特徴的な要素や側面を取り出し、適切な言葉で表現した教育思想は、私たちの教育観を立体的で「使える」ものに鍛え上げてくれます。いずれも典型的な文系のアプローチですので、理系のみなさんにはちょっと面食らうところもあるのでしょうが、教育者をめざすのであれば避けては通れない思考法といえます。ゆえに、大半の教職科目に先立って、この科目が設定されているのだとお考えください。
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