PART 3 永遠の都ローマ その3

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(左)紀元前からの歴史を見つづけたテヴェレ川 (右)サン・タンジェロ城


旧市街を歩く

 
ナヴォーナ広場


パンテオンの内部


ムッソリーニが造った和解の道の先端は、そのままテヴェレ川の右岸に合流するようになっています。その地点に見えるのがサン・タンジェロ城Castel Sant’Angelo)。五賢帝のひとりハドリアヌス(Hadrianus)が自身の廟として造らせたもので、以後数十年の歴代皇帝も合葬された、本来は陵墓。ところが要害の地でもあるためしだいに要塞化していき、のちにヴァチカンを守護する軍事施設の意味合いが強くなり、さらには天使が舞い降りて教皇を感激させるという宗教的な話までのっかって話が混線しました(アンジェロ=天使)。その前の橋を渡ると、前日歩いた石畳の旧市街に出ます。きょうもだいたいの方向だけ決めてテキトー歩きしてみたら、同じようなところをぐるぐる回る羽目になり、やっぱり地図を取り出すことに。ナヴォーナ広場からパンテオンへと、同じようなコースをたどりました。

 
パンテオン 天窓から日が射す構造になっている

 こちらパリのパンテオン(20192月)


パンテオンというのはもともとギリシア式の万神殿を意味し、多神教だった時代のローマ人にとって中心的な宗教施設でした。オリジナルは帝政初期の紀元前25年にアグリッパ(Agrippa アウグストゥスの女婿)が建てたもので、いったん焼失し、ハドリアヌス帝が128年ころ再建したものが現存します。世界最大の石造建築物ともいわれます。なるほど、きのうはコリント式のファサードだけ見ていたけれど、近づいてみると本体部分は巨大な円筒形の建物で、やたらに大きなドームが載っていて、2世紀のものと知れば急に偉大さが染みてくる感じもします。ローマ時代の建物は、民族大移動やローマそのものの荒廃によって大半が失われますが、パンテオンは教皇の管轄下に入りキリスト教会に転じたおかげで救われました。フーコーの振り子実験とかルソーやユゴーのお墓があることで知られるパリのパンテオンは無宗教の国家霊廟ですが(本来は教会だったがすぐに革命が起きて世俗化された)、ローマのほうは公式にはいまも教会です。

ここも結構な人出がありましたが、教会なので拝観料がないのがうれしい。しかも教会なので説教を聴くための長いすがあるのもありがたい。室内で座れる機会を得て、しばし休憩。ひとむかし前ならばどこかのカフェに入って昼間からビール飲んでいたのでしょうけど、最近そういうのはめったにしない。ローマに来たからといってローマ人がするようにはしない(=郷に入っても郷には従わない)。


 

 


トレヴィの泉


このあとめざすのはトレヴィの泉Fontana di Trevi)。花の都パリは私にとって地元すぎるので新鮮さはほとんどないですが、世界的観光スポットがこれでもかと存在します。永遠の都ローマはそれ以上かもしれない。日ごろトゥーリスティックなところにはあまり関心がないのだけど、なんだか見てみたいですよね。パンテオンを背に、旧市街のつづきのような狭い道路を東に500mくらい進んだところに泉があります。その道筋はまさにトゥーリスティックなところで、土産物店、観光食堂、露店のアクセサリー屋さん、マクドナルドもありました。きのう見た議事堂など「現役」の建物のすぐ近くなのに、浅草もどきのゾーンなんですね。


トレヴィの泉は、かのローマ水道の終点としてアグリッパが造らせたものですが、古代末期にいったん失われ、ルネサンス期に復活します(容易には復活せず構想から200年くらいかかりました)。後ろ向きにコインを投げ入れるとローマにまた来ることができるという伝承が知られます。また来るかどうかにさほどこだわりませんが、スペイン広場の着座禁止と同様にここでも投げ銭禁止になっていて、警察官らが目を光らせています。それにしてもすごい人。で、もっとしょぼいのかと思っていたら予想以上にスケールの大きな池で、水面が碧く輝いているのが印象的でした。人がよいという場所には、一度は来てみるべきということ?




 
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂
近代国家としてのイタリア王国の初代国王で、日本の明治天皇に相当する君主
初代なのに「2世」なのはサルデーニャ王としての自覚が強かったからで、
イタリアはかなり後まで(いや、現在も)地方アイデンティティが強くナショナルな意識が弱い
そういう国はサッカー・リーグが非常に盛り上がることになる


次の見学ポイントはヴェネツィア広場Piazza Venezia)です。ローマを近代国家の首都として再整備するにあたり、その基点として整備された場所。かなり広い空間で道幅もあるのに横断歩道の信号が意味不明の変わり方をするので危なっかしい。歩行者が大事にされないのは困りますね。

正面に見えるのがヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂Monumento a Vittorio Emanuele II)です。巨大な建物を従えるかのように、騎馬するヴィットリオ・エマヌエーレ2世の像。彼はトリノを中心とするサルデーニャ王国(本領はサヴォイア国だが号を有する遠方の島のあるじを名乗った)の君主で、19世紀ナショナリズムの代表的な事案であるイタリア統一運動(リソルジメント Risorgimento)の象徴となり、1861年にはイタリア全土の王に即位します。地方の大名が都に乗り込んで天下を取った感じですね。サヴォイア家は第二次大戦の失敗で廃位されるまでイタリア王位を継承しました。ただ経緯からして正統性がいまいち弱く、永遠の都に動座して求心力を保とうとします。この巨大建造物は彼の子であるウンベルト1世(Umberto I)がイタリアの「国父」としての父を称えて造らせたものですが、歴史的建造物だらけの中にあって悪趣味な建物とも評され、ローマ市民の評判は今日にいたるまで総じてよくないままです。「入れ歯」という陰口もある。ファシズムの時代には、ムッソリーニがこの建物を背負うかたちでしばしば自らを演出しました。のちに無名戦士の墓やリソルジメント記念館なども併設されるようになっています。

 


 
町のあちこちに出現する古代遺蹟(もはや銘柄不明)

 
路面電車に乗ってみる


このあとのプランとしては、南に歩いて「真実の口」を見てから元に戻り、記念堂の北側を回り込むようにして東に進む、と考えました。単純な往復になるのはもったいないが、過日のワシントンやニューヨーク、数日前のパリでの経験をもとに考えるなら、暑い中の歩行距離には限界があり、疲労が過ぎれば注意力なども散漫になるので、なるべく最短距離で宿に戻りたいわけです。地図を見ながら歩くのではなくだいたいの位置関係を頭に入れてから歩くのですが、どうもローマではセンサーが狂いがちで、だいぶ大回りをしてテヴェレ河畔に出ました。真実の口まではあと400mくらいですが、単純往復するにはしんどく、きょうはここで打ち切ってヴェネツィア広場に戻りましょう。センサーの誤作動はさらにつづき、広場に向かって進んでいるつもりだったのがまた元の道に戻るといったありさまで、自分ながらがっかりし、ちょうどやってきた路面電車に2駅だけ乗ってヴェネツィア広場に戻りました。ローマのトラム路線は不思議なところばかり走っており、観光地図にもはっきりとした記載がないのでわかりにくい。この路線は先ほど線路沿いに歩いたので見当がついたということです。


テヴェレ河畔にシナゴーグもあった! かつてのゲットーの跡地


そういえば市内交通の48時間券をもっているのに、けさヴァチカンに向かう際に地下鉄A線を利用しただけで今回の路面電車が2回目。もったいない感じはあるのですが、前述のように中心部に地下鉄が入ってこないため、使いようがないというところです。もともと町歩き派で、徒歩だけでたいてい済ませる人ではあるのだけれど、石畳に加えてアップダウンが激しいので、思った以上に消耗します。


 
フォロ・ロマーノ

 ユリウス・カエサル像

 


コロッセオが見えてきた


ヴェネツィア広場から東南東に進むフォーリ・インペリアーリ通り(Via del Fori Imperial)も妙に道幅が広く直線なので、たぶん近代の造作なのでしょう。その南側一帯、つまり進行方向右手一帯に広がる古代遺蹟がフォロ・ロマーノForo Romano)です。入場料が要りますが、上からのぞき込むだけで十分。本当はもう階段を上り下りしたくないわけです。フォロはforumのことで、ギリシアでいえばアゴラに相当。紀元前71世紀の共和政時代に市の中心があったところで、民族大移動で破壊され、中世には放牧地となって忘れ去られ、近代に入って考古学の成果として「再発見」される、という、ありがちな展開を見せました。町の真ん中の遺蹟に気づかないとは驚きですが、すっかり変形してしまっていたのでしょう。


先ほどの記念堂はこのフォロを背負うような位置に建てられており、近代イタリア国家が古代ローマの栄光と直結するような印象操作をしているわけです。考古学って、文献史学よりも理系っぽい学問のように見えながら、実は近代国家の作為みたいなものに最も貢献しやすい傾向があるのでそこは注意が必要ですね。フォーリ通りはまたもや登り坂で、突き当たりにかのコロッセオColosseo)が見えます。残念ながら足が限界で、あまりに有名なガワの部分を存分に眺めるにとどめましょう。その前に、手前にある公営の観光案内所へ。案内は要らないけれど、中庭みたいな休憩所があり、売店もあるのでひと休みです。ベンチはたくさんあるが日なたばかりで、かろうじて木陰になっているテーブルに座ってリフレッシュ。同年代くらいのご夫婦が相席を求めたので、どうぞどうぞと。この8月だけで世界的大都市の町歩きは4ヵ所目で、加齢のこともあって疲労がたまったのだろうとはあるのですが、きょうに関してはサン・ピエトロ大聖堂のドーム登頂が直接響いているのに違いありません。実はもう1ヵ所、カラカラ浴場(Terme di Caracalla)の見学ができませんでした。コロッセオから1km以上はあるのでちょっともう無理です。そもそも23日の中1日でローマのほとんどを見ようという企画が、私にしては無理筋で、ミーハーすぎましたね。ローマは一日にしてならず。



 

 


コロッセオ裏手の丘を下るとメトロニア門 実はホテルのすぐそば!


コロッセオは1世紀後半の建造で、暴君ネロ(Nero)が死んだあとの混乱を収めて即位した皇帝ウェスパシアヌス(Vespasianus)が命じたものとされます。ウェスパシアヌスは民心休養と財政引き締めを図りましたが、パンとサーカスを与えてガス抜きしなければ市民に背かれることを知っており、娯楽の場としての円形闘技場を造ったわけです。ネロが趣味的な場として整地していた場所のようで、そういうものもうまく取り込んだのでしょう。緊縮本位の徳川吉宗が飛鳥山に花見どころを営んだというのと同じ趣旨ながら、スケールがかなり違う。なお、ネロ帝の暴君エピソードとしてもしばしば指摘される、キリスト教徒をライオンに食わせるというような「競技」はかなりマユツバのようです。しかし、この時期のキリスト教徒がしばしば権力側に迫害されたのは確かなので、のちに「受難の歴史」として語り継がれ、神話化されたのだと思います。コロッセオはわかりやすい「受難の場」ですので、後世のキリスト教徒によって聖地化され、それがこの遺蹟を永続させることにもつながりました。

コロッセオのチケット売り場にはかなり長い列。最初からスルーすると決めているので気楽です。真横に来てみるとやっぱりものすごいスケールの建造物で、風格に圧倒されますね。先ほどのフォロ・ロマーノみたいな「発掘現場」と違って、パンテオン、コロッセオ、アテネのパルテノン神殿などの「実物」は可視的でわかりやすく、満足度が高い。なんていったら「歴史(社会)はお前のわかりやすさのためにあるのではない。お前が寄せろや」といっている日ごろの言動を自らやっつけることになってしまいます(汗)。コロッセオから南東に進むと、ネロ帝の庭園跡のそばを途中まで登り、その先で下って、丘ひとつ越えることになります。距離にして1kmくらいで、ローマ市の城壁跡にたどり着きました。そこに設けられたメトロニア門(Porta Metronia)は渋いアーチです。実はここまで来ると、ホテル・サン・ジョヴァンニまであと1ブロック。そう、地下鉄で市街地の西にあるヴァチカンに向かい、そこから徐々に戻ってくるコースをたどったのでした。そう考えると市街地自体はさほど広くないというのがわかります。ただ、相当に消耗したのでベッドにひっくり返って小休止ならぬ大休止を。


 
テルミニ駅の階上に、本格的なフードコートがあった

 

 


そうはいっても夕食をとらなければならないので、18時半ころ再起動。ホテル付近は上品な住宅街で、飲食店もそれなりにあるのですが、カジュアルな構えのところはあまりなくて、あっても開いていない。といっていまさら市街地に戻って観光食堂に入る気にもなりません。ふと思ったのは、鉄道のターミナルであるテルミニ駅に行けばいろいろなレベルの食事ができるのではないかということ。気が進まなければサンドイッチなどの軽食でもいいですし、カフェテリア的な店もあるはずです。地下鉄に乗ってテルミニに行ってみれば、やはり行き止まり式ホームの1つ上の階にかなりの規模のフードコートがありました。ハンバーガーも寿司もビアバーもあるけれど、STYLEという名のスタイリッシュな店が目に入ったので突入。カウンターで軽食類をオーダーしてイートインするのだと思ったら、奥の席はテーブル・オーダーの普通の食堂でした。窓際に座ると線路の真上で、列車が出入りする様子が存分に見えます。鉄道マニア垂涎のロケーション!

メニューを見ると、一品ものはステーキ、コトレッタ(カツレツ)、チキン・ソテー、イカのフライ、タコのフライなどイタリアっぽいものが並び、値段も高くて€14と、場所柄を考えれば安いようです。本来イタリアでは前菜であるパスタだけをオーダーするのはなるべくしたくないが(観光客はやりがちなのでたぶんどの店でも慣れてはいると思う)、駅の食堂ならば問題ないでしょう。アマトリチアーナ(Amatriciana€10を発注。添えられた英語によれば、角切りベーコン、トマト、チーズ、ペッパー・ソースのパスタ、ということのようです。生ビールを頼んだら、どの銘柄にしますかというお訊ねだったので、ローマのやつをと指定しました。


ターミナル駅で車両の出入りを見下ろしながらビール飲むとかもう神!と、しょうもないことを考えていたら、時間を置かずにパスタが運ばれました。スパゲティよりはかなり太い麺で、あす向かうトスカーナ地方のピチ(pici)なのかな? くっきりとしたトマト味が非常に美味しく、満足しました。生ビール€5、エスプレッソ€2で、トータル€17。もちろんサービス料なんて請求されないけれど、こういうことであれば心づけをいくらか置くのは当然なのです。今宵はだいぶ巻き返しました(笑)。


 
路面電車でトラステヴェレ地区へ

 

静かなテヴェレ河畔

 
(左)真実の口 (右)チルコ・マッシモ


地図の右下からチルコの外周に沿って矢印のころにやってきた
下(北)側に隣接するのはフォロ・ロマーノで、要するにこの界隈をぐるぐる回っている


9
1日(日)は9時ころチェックアウトし、レセプションにキャリーを預かってもらって、もうしばらくローマ市内の散策。テルミニ駅を1350分に出る列車の指定券をとっていますので、余裕をみて正午くらいに戻ればいいかなと思います。

路線がわかりにくい路面電車ですが、もう少し乗ってみたいので、前夜のうちにインターネットなどで調べてみたら、ホテルへの行き来に利用する地下鉄サン・ジョヴァンニ駅のすぐそばに電停があり、そこから乗ればコロッセオの裏手を通ってテヴェレ川対岸のトラステヴェレTrastevere)に行けることがわかりました。サン・ジョヴァンニも城壁の門のひとつで、地下鉄駅はその外側だから路面電車に気づかなかったのです。電停に行ってみたらトラステヴェレ方面が去ったばかり。すぐ来るだろうと思ったらその場で15分くらい待たされました。しかもかなりの混雑です。ツーリストの姿はほとんどなく、客層は都バスに似て、明らかに生活路線なのでしょう。コロッセオ周辺のアップダウンもおもしろく、テヴェレ河畔に出たところで乗客の大半が降りて、車内はがらんとしました。


サン・ジョヴァンニ電停 奥に城門が見える


ローマの下町ともいわれるトラステヴェレは、午前中ということもあってか緑ゆたかな、静かな町の印象でした。徒歩で河畔に戻り、しばし河岸歩き。市を代表する河川ではあるが、テムズとかセーヌとかドナウを想像してはだめで、川幅は狭く、しかしたっぷりの緑に包まれています。前日に疲労で引き返したあたりに出て、その先を歩いてつなぎ、真実の口Bocca della Verità)の前に出ました。本来はサンタ・マリア・イン・コスメディン教会(Santa Maria in Cosmedin)という寺院の一隅なのですが、付属品?ばかりが独り歩きする、よくあるケースです。教会自体は渋くて内部もいい雰囲気でした。真実の口は外廊部分にあり、その部分は拝観料ならぬ喜捨制(€0.50)があって、それしきのお金が惜しいことはないのですがかなりの行列になっているので回避。その代わり、オリのように鉄柵で覆われた外廊の外側から、見るだけならすぐそばで見ることができます。自分が手を突っ込んで、日ごろのウソがばれて食いちぎられてもシャレにならんしね。

寺院の裏手に進むと、縦長の広大な空き地。ここがチルコ・マッシモCirco Massimo)で、紀元前6世紀〜紀元後5世紀と長く繁栄した競技場の跡です。ナヴォーナ広場がそうだったように、古代のトラックは基本的に極端な縦長で、ヘアピン・カーブが見どころだったようです。ローマ時代の人気種目は競馬。といっても騎馬ではなく馬車レースです。教育学者みたいな豆知識をいいますと、そんな競技場のコースとかレーンにあたる語がcurriculumの語源で、人生の道筋(カリキュラム・ヴィタエ=CV、履歴書のこと)や、学びの道筋(教育課程)として今日に伝わります。元がラテン語だから、mediummediaになるのと同じで、複数形はcurriculaですよ。近くにB線の駅があったので、地下鉄を乗り継いでホテルに戻りましょう。

 

PART4へつづく

 

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